曼珠沙華
雪が覆い尽くす、里の景色。
近い山々も、既に化粧を済ませている。
少し、肩が震えた。
先刻外套は置いてきたから。
雪にざくりと刺さる松葉杖が、動きを緩慢にさせる。
じんわりと、背中も熱を持ち始めた。
鞭の穿った痕よりも、今は雷堂に斬られた傷が気になった。
以前は在った迷いが、その太刀筋には無かった…
(あの男、僕を殺すのも既に厭わぬか)
同一体を消すのは、決して良い現象をもたらさぬ。
そう理解した頭で、僕を斬ったのか…
己すら殺しかねない…その行為。
そんなに人修羅の何を欲する?
力?情?
…雷堂が得たものは、眼だった。
僕の、得れなかった…眼。
あの、ボルテクスから僕を視てきた眼球が。
堕天使に採られ、雷堂に採られ。
ああ、両方とも同じ側の眼だったろうか。
もしかしたらもう、僕を映していた眼は残って居ないのかも知れない。
再生される眼球は、僕の記憶を宿してはいない。
激しい憎しみを以って、僕を見つめていたあの眼球はもう無い。
何故僕から奪う?
人修羅から奪う、のでは無い。
僕から、それは奪っている事になるだろう。
それが、たとえ憎しみであっても…
余す事無く、この身に注がせたというに…
他の手が、指が触れた箇所から…侵蝕されて、僕の所有地は消えてゆく気がして。
そういえば、何故そう思う?
僕は…あれを…
人修羅を仲魔にした時から…こうだった…か?
薄く、雪の上に明かりを落とし込んだ建物に
ざくり、ざくりと松葉杖を刺しながら向かう。
こんな遅くに灯りが点されているのは、此処くらいなものだった。
不躾に靴を脱ぎ捨て床に上がれば、幾つか人が居る事に気付く。
点々と玄関に点在する靴。
他の…サマナーか。
医務室に居るのなら、どの様な件で参っている連中か位…見当がつく。
横に開く開き戸を、折れていない脚の爪先でノックする。
その扉の向こうから返答がくる前に、身体を杖に支えさせて戸を引く。
一斉に、幾つかの眼が僕を射った。
「…十四代目!!」
「!!」
「…もう治療はお済ではないのですか?」
口々に僕へ向かって来る、その言葉の隅に見え隠れする…
こいつらのけしかけてきた悪魔、憶えている。
どうでも良い事だったが、どのサマナーが何を召喚したか…憶えている。
あの祭で、怨めしい僕を公的に攻撃出来て…さぞ歓喜した事だろう。
「しかし十四代目、あの人修羅…すぐに人間に危害を加えるなぞ…あってはならぬ事」
そう云い、椅子から立ち上がったスーツ姿のサマナー…
以前、人修羅の弱点を問うてきたサマナーだった筈。
「どの様な教育をされているのやら…」
頬に当てられた綿糸は、湿布らしい。
熱を持ち、腫れ上がった頬は…人修羅が殴ったそれだろう。
僕へ詰め寄るサマナーに、その光景を思い浮かべつつ…にたりと微笑んだ。
「云ったでしょう…襲い来る獲物は喰い千切れと教育してある、と」
「な…っ」
「だから、手出しは危険と…促したというに…」
引き攣り、怒りに震える眼の前の男…
この部屋のサマナーの怒りを代表して震えるのか。
僕は視線をちら、と部屋全体に投げてから云う。
「そもそも…貴方達の放った悪魔では太刀打ち出来ぬ…」
「失礼な!!」
「僕に放った悪魔が、使役悪魔で一番強いのだとしたら…まず無理な話」
心の底から込み上げる哂いを抑えて、僕は冷淡に部屋で唱える…
そう、お前達には無理だ。
あれに勝とうなぞ、使役しようなぞ。
「…見損ないましたぞ、十四代目!」
元々尊敬してなど無い癖に。
「共に居る気になれませんな」
「行くぞ皆」
口々に発し、僕の横を通過してサマナー達が部屋をぞろぞろと出て行く。
僕としては好都合だ。
針のムシロに進んでなる趣味は持ち合わせていないから。
静かになった医務室の寝台にどかりと腰を下ろす。
松葉杖を壁に立て掛け、学生服の詰襟を弛めた…
と、がらりと音がした。
扉の開いた先に、医療班の男。
「…よお、狐野郎」
「…」
「此処に居たサマナー衆は?」
「お帰りになられたよ」
云えば「けっ」と口を鳴らして僕に侮蔑の眼差しを向けてきた。
「お前さんが追い出したんだろ?」
「好きに解釈するが良いさ」
詰襟を弛めていた指の動きを、再開させる。
「ゴウト様は?」
「さあ?用意された寝所にて僕を待っているのでは?」
「なんで狐が此処に来んだよ、もう治療は済んでるだろ」
「その寝所に戻る気がしないのでね」
監視の眼は、この空間の方が薄い。
この作務衣の男しか居ない医務室の方が、幾許かマシだった。
それに…用件も有った。
僕は楽に寛げた学生服の内衣嚢から、するりと数枚の葉を出す。
作務衣はそれを見て、黙って指先に摘まんで受け取る。
「上質の黒檀の葉…相変わらず高級な嗜好品をお好みで」
「吸い心地は良いに越した事無い」
寝台に寝そべり、掛け布団で身体を覆う。
「おいおい、誰も其処で寝て良いなんて云っとらんぜ」
「カンナビス・サティヴァ・エル」
「…」
「増やしておいてくれ、宜しく」
そう云って、枕に頭を乗せる。
窓側を向き、学帽を外して横の棚に置いた。
「…そうやって誤魔化してりゃ、いつか崩壊するぜ」
作務衣男の声が聞こえる。
僕は無視をした。
カンナビス・サティヴァ・エル
…大麻草の意。
僕は時折、こうして此処へ来ては特殊な煙草を作って貰う。
吸えば、身体の痛みや疲労などを緩和させる…美味なる毒物を。
この里で、服用の為に栽培されているのだ…
それでいて、日本国を護ると抜かしているのが滑稽である。
「別に狐がくたばろうが、オレとしちゃざまあみやがれって感じだが…」
作務衣の男が、再度僕に声を掛けている。
「お前が今くたばったら、誰が十五代目よ?」
「…」
天秤の音がする。
草の計量の為、分銅で調整しているのか。
金属の音と、草をさらさらと薬包紙から零す音。
「里の子は、オレの弟しか居ねぇんだ…おい、お前がくたばったら、あいつにお役目が行くかも知れねぇ…」
「…で?」
そちらを向かずに、僕は曇る窓を薄眼に見ながら相槌した。
「葛葉を継がせたくねぇんだ、あいつにゃ…重過ぎる」
弟…
ああ、身内の心配か。
それはそうだろう、葛葉ライドウを継いだら…
この男は、もう弟を弟として見れぬ立場になる。
その“十五代目”も、己を棄てる羽目になる。
「だから、オレはこの草煙草、奨めねえぜ、あんましよ」
そう云いつつ、数本作り終えたのか
僕の学帽傍に、それが置かれた。
「まだまだ狐にゃ、生き地獄で足掻いててもらわにゃあな…?」
それの置かれた際、間近から僕に下りてきた言葉。
僕は眼を少し開け、口の端を吊り上げた。
「この里へ、たっぷりと恩返しするまでは死ねぬよ…安心おし」
含む意が、解るだろう…この昔馴染みには。
僕を憎む、この作務衣の男は一言発して離れた。
「おぉ〜怖ぇ怖ぇ…これじゃ人修羅も日々怯えてるだろうな」
その単語に、一瞬身体が反応したが、僕はそのまま眼を閉じた。
青白い月が哂っていた。
結露の隙間から僕を見下して。
寒い…
正直、あいつの外套がなければ辛いところだった。
格子から、薄く明かりが射す。
朝焼けとも違う。
まだ明ける直前の…月が青白く光る頃だ。
夜と明けの狭間。
(こんな時になんだけど、綺麗だな)
俺はこの瞬間が昔から好きで、一時期やっていた新聞配達のバイトで毎日見ていた。
誰も居ない時間帯、冷たいその空を見る。
この、光と影が混ざり合う、融けあう瞬間が美しかった。
その半分半分が、魅力だった。
そうか、つまり…もう日が変わったのか。
今日、俺の処分が決まるのだっけ。
(つっても、俺を殺すとしたって…どうやってだ?)
結構しぶとい生命力だと思う。
傍から見たら、もう死んでいる様に見えるが…ギリギリ生きていると思う。
それを利用すれば、意外と簡単に欺く事が出来やしないだろうか。
残骸すら残さず始末されなければ、俺は身体が癒えるまで寝ていれば良い。
遺体安置所から甦る事には慣れている。
ヤタガラスの思惑通りに事が進むのは…正直癪だった。
今残っている眼を閉じる。
青白い月が輝いていた。
俺の身体をざわめかせて。
『では十四代目よ、そが責任を果たす時が今…』
案の定、といえば案の定。
松の御前に引き出されて、俺はライドウと向き合わされていた。
向かいのライドウは、もう松葉杖を着いていない。
もう治った?やはり葛葉の血、というのは異様なものなのかもしれない。
外套は、あの納屋に置かれたままか。
学生服姿で、雁字搦めの俺を見つめている。
俺はヤタガラスの命令が、寧ろ楽しみだった。
どう来る?どう出る?
何が下されたって、息絶えるものか…
根底にある魔の力は、人間の姿だろうが影響している。
俺の精神力が保てば…
『十四代目ライドウよ、人修羅との契約を破棄せよ』
今、何て云った…この松の木。
俺は、その松とライドウとを交互に見た。
契約を破棄?そんなの、どうやって?
身体が…ざわつく。
契約をした時の記憶が、脳裏に甦る。
嫌でも甦る。
浸入してきたあいつを思い出す、俺の領域に…
頬が少し、熱くなった…嫌になる。
『聞いておるかや?十四代目ライドウよ』
その松の声に、ライドウが俺を見るまま返答した。
「はっ」
『契約を切らねば…他の者に使役出来ぬでな…』
嗤う、松。
ライドウは、酷い無表情だ。
でも、俺には解る…あいつ、つまらない瞬間はいつも無表情になる。
普段、それを覆い隠すあの不敵な笑み…
確かに、無表情のあいつは、感情を寧ろ発露している。
『中にこぞんだお主のマグネタイトを奪え』
その松の響く声が引き金になったのか。
きちり、と鞘から抜刀する音が続いてした。
(ライドウ…)
轡を咬まされた俺には、言葉を発する事は出来ない。
当然ライドウも、余計な事は口に出来ないだろう空間。
(どうするんだ…)
契約破棄?
そうしたらあんた、ルシファーに何て説明するんだ。
悪魔召喚皇の野望は?
俺自身の目的はどうしてくれる?
抜刀したライドウが…迫ってくる。
転げて簀巻きの俺を、見下ろしてくる。
「んっ」
脚の先で、ごろ…と仰向けにさせられた。
眼が合う。
そして…引き絞られた刀が、俺に突き立てられた。
「ふぐうううっ!!」
芋虫みたいにもがく俺。
刺さっているのは、胎の中心…臍の辺り。
痛い、がそれよりも…
(吸われてる…)
ライドウが、敵にそうするかの様に、マグネタイトを吸っている。
刀の斬撃が、敵の肉体から光を零させる…あの戦闘中の光景。
それが俺に行われている。こんなにも静かに。
ああ…解る。
俺の中から…消え失せていく感覚が、間違いなくある。
十四代目葛葉ライドウの…マグネタイトが。
胎の奥底から、抜き取られていく…
俺を絡め取る呪詛の晒が、赤く滲む。
木目の綺麗な艶がかった床に、俺の血が広がっていく。
どこまでやるんだ?
怖いまでに綺麗な相貌のライドウが…刀を伝って来るマグを吸う。
自身のマグネタイトを回収している顛末を、どう思うんだ?
そのまま、ぐい、と刀を潜り込ませてくる。
「ぐううう!うぐ」
仰け反り、腕に力を込める。
汗と血。
耐えろ、絶えるな、俺…
霞がかった視界に、ライドウが映った。
転がる俺に跨って、耳元に一瞬その唇が近付いた。
「すぐ結び直す」
本当に小さな声で、ただそれだけ云った。
結び直す…?
何が…?
身体が、震えた。
あんた、棄てるのか…?
まさか、命令とはいえ本当に?
「ううっ、ううううう!!!!」
突如暴れ出した俺に、横の松が枝をざわざわさせた。
『黙らせろ!』
ライドウは、唸り声を上げていた俺の頬を強かに掌で打ちつけた。
轡のお陰で、何をされても舌すら噛まない、口内も切れない。
「ふっ…う」
何故今更。
俺は何故、痛みに身体を焼かれそうなのだ?
胎に刺されているだけだろ?
身体からライドウが消失していくだけだろ…
契約を切られる…だけだろうが…
結び直す?
それは本当か?
あんた、充分強いからな…俺はいよいよ必要無くなったかもしれない。
厄介払い出来るんじゃないか?
だって、常々云っていただろう…あんた。
“友達ごっこ”が馬鹿げている、とか。
なれ合いが…自身を駄目にする、って。
だったら、丁度良いんだろ?
使役するには…俺はあまりに人間の感情が多すぎたんだ。
とか、今の一瞬だけ、納得させていた…自分を。
俺は、正直葛葉ライドウが憎い。
でも、棄てられるのはもっと腹立たしかった。
ここまで俺を束縛して、執着で縛り上げておいて…上司の命令で棄てるのか。
確かに、原因を作ったのは俺かもしれない。
此処で命令に背けば、多分俺は本当に始末されるのかもしれない。
でも…
あんな簡単な言葉で、口約束で済ませれるあんたが憎い!!
憎い!憎い!憎いんだ!!
ボルテクスの時から、ずっと憎い!!
解っているのかあんた!?
俺の執着を!
傷物にして、一度でも棄てやがって…!!!!
赦さない赦さない赦せない
デビルサマナー葛葉ライドウ
…夜め
消失していく
俺に貸与していたエネルギーを回収したライドウは
長い印を刻み終え、俺との契約を…切った。
俺は…
棄てられた。
『フン、随分質素な風情だな』
傍の業斗が鼻を鳴らす。
恐らく我々の本部と比較しているのであろう。
別次元の烏の巣は、静かで人の気配が無い。
普通の山村にすら見える。
悪魔に情報を聞き出さなければ、場所すら特定出来なかったろう。
「扱き下ろすな、在り方の違いだろう」
あまり卑下する発言を、師にして欲しくないのだ。
『そもそも、此処のライドウに届け物をする必要が俺には毛頭感じられぬでな』
「この魔具が人にもたらすは災厄かもしれぬぞ?放置すべきか?」
『それを人に返すのかお前は』
「持ち主の下に在れば、本来の役目を果たすのでは?どうか?」
それに、我の持つ物と瓜二つ…
そう、全く同じでは無く、瓜二つなのだ。
名まで刻まれて…
そう、我はこれの出処を知りたい。
拾ってくれた小父様達の云うには、一緒に拾ったという…
“きっと貴方を捨てるには、事情が在ったのですよ…明”
小母様が幼い我にそう語った。
子に恵まれぬ夫婦が、子宝を望み参った神社で…
赤子の泣き声を聞いた。
棄てられているのだ、拾っても文句は云われまい。
天に祈りがきっと通じたのだ。
…夫婦は、その赤子を拾った。
一筆置かれていた、名前だけ。
《日向 明》
読みまでしっかりと書かれて、共に籠に置かれるは懐中時計。
金の色に輝くそれは…きっと本当の親御さんがお前に持たせたのだよ。
そう小父様が云い、我に持たせた。
肌身離さず…それの纏う空気を感じていた。
本当の親…
『…やけに気配が無い』
「まだ早い時間だからでは」
『息を殺すような里だ、陰の気が多い』
業斗の云う通り、確かに…少し空気が重かった。
我が昔から陰の気に中てられやすいのは承知していたが…
先刻のカマエルの言葉が甦る。
“やや?いいえ、ほぼそれのみで構成されております、貴方様は”
…陽の気ばかり…の人間。
確かに、烏が巣から出し渋る訳だ…
切り札にもなるが、危険でもある。
聡明な業斗に教育させたのも、その為か。
『どうした雷堂よ』
「いや、此方の十四代目は本当に来ているのかと思ってな…」
適当に相槌した。
もう、我の与するヤタガラスは…我の気については分かっているだろう。
利用せぬ手は無いからな。
おまけに、基本的には善良とされる気だ…
縁起担ぎには丁度良い人形だろう。
我が若き身空で代を継ぎ、頭と成ったのも…今なら納得だ。
傀儡政権…
里を囲む柵の外、ぐるりと旋回してはみたが…
まだ寝静まっている様子だ。
もしかしたら、聞いたサマナーの召集は済んで解散したのかもしれぬ。
すると、里には少人数しか居らぬか…
葛葉ライドウ、筑土町にまさか帰ったのか?
入違えた事を少し考え、探るように柵の中を覗く。
眼が…少し、熱い。
同じ魔力が共鳴している、そんな気がする。
『おい、雷堂!!』
業斗は優秀だ、我が助力せずともついて来れよう。
導かれる様に、その魔力に身体が動く。
柵を越え、雪の上に飛び降りた。
撥ねた雪が靴の中に少し入り、冷たく脚を濡らす。
だが、そんな事はどうでも良い。
眼帯が邪魔なくらい…熱い。
学生服の裾が濡れても、ただ駆けた。
雪が足音を消す。
我自身の、息遣いしか聞こえぬ。
その力が聴こえる、呼ぶ方へと向かえば
ひっそりと建つ納屋…いや、懲罰房だろうか。
高い位置の格子。
違いなかった。此処は閉じ込めるには適所。
この内側から、間違い無く彼の存在を感じた。
扉に、手袋を外した指をなぞらせる。
大した術も無い。
唇で紡ぎ出す、謎解き。
里の層の低いサマナーが施したのだろうか?すんなりと解呪出来た。
彼を閉じ込めるには、些か不安が残るこの封魔…
(やはり、片眼が無いのは致命的なのか…)
これを敗れぬ彼とは思えない。
我は与えられたので、逆に熱を持ったが
彼は与えたので、熱を奪われたも同然。
それを心苦しくも感じつつ、妙に高揚する自身も感じる。
開け放った扉の中は暗い。
普通なら、この中に気配なぞ感じないであろう、空気。
気配を殺しているのか…弱っているのか。
だが、この眼が云うのだ、此処に居る、と。
(何処だ、何処に居る)
早く見たい。
早く見て欲しい。
包帯の隙間から覗き見ていただけだった君。
この開けた視界で一刻も早く見たい。
我を憎しみの眼で射る、その姿を…!
思ったより広いこの納屋を、進む。
足音から感ずる…どうやら地階が在る。
空の管を抜き、ふわりと翳した。
一瞬マグネタイトに照らされた周囲を脳裏に焼き付けた。
(三本目の柱右に、階段が在る…)
普段から片眼を使わぬ生活に慣れている。
視えぬ範囲の記憶は容易い。
歩みを進め、思った通りの位置に手摺の感触。
ぎっ…ぎっ…
階段の軋む音は流石に消せぬ。
しかし、それはもう誇示しても良かった。
存在に早く、今は気付いて欲しい。
更に暗い…格子すら無いので、真の闇だ。
だが、その闇に…薄く淡く光る影を見た。
ほら、やはり居たではないか。
靴音を立てて、それに近付く。
その光る斑紋は、びくりとして我を…恐らく見た。
外套の黒で、本当に闇に紛れていると思うが
恐らく…眼が、彼の身体に教えている筈。
我が何者かを。
近付く。
座り込んでいた君は、突如立ち上がり踵を返す。
我は駆け始める。
君も駆ける。
暗闇の鬼ごっこ。
柱にでもぶつかったのか、身体を揺らしながら君は逃げる。
何故?
「矢代君」
初めて、この空間で発した単語。
だが君は歩みを止めない。
いよいよ躓いたのか、派手な音を立てて転倒した君。
我は光る君を追えば良いだけだったので、大変楽である。
「何故逃げるのだ」
その、転倒した人修羅の傍に屈んで、その腕を掴む。
弾かれた様に振り向いた君の、片方しか無い金色の光。
それを見て…気分が高揚し続ける。
暗闇にぼんやりと滲む斑紋。
暗闇にぽっかりと浮かぶ…金色。
「ら、雷堂さん、まさか」
荒い息遣いの中、君が搾り出した喘ぎにも近い声。
困惑している。
それを感じ取った我は…どうして口が歪む?
「何故逃げた?」
「視えている!?ですよね!?どういう事ですかっ!!」
叫ぶ彼の掴んである腕を、そのまま引寄せた。
すると撥ね退ける君。
「俺はっ、視えていない貴方を、世話した記憶しか無い!」
「その記憶は、一部違えている…」
「暗闇で俺を追っているからじゃない、明らかに…視えてますよね貴方!!」
その、彼が初めて我に向ける疑心に満ちあふれた声音。
初めての、快感。
「矢代君…我が両の眼を覆っていたから、両の眼が視えぬと思っていたのか」
「…どういう」
「あの瞬間、我が…君の気を引きたくて…抉った眼が義眼だとしたら?」
云いながら、我は眼帯をするりと外した。
彼のつがいであった筈の金色が、我の右に姿を現せる。
「な…なん、なんで」
君の震える疑問に、我は答える。
「ほら、これで揃いになったろう?」
君も右眼を、綿糸で隠しているのだろう?
君は抜け殻となった其処を覆い隠す為。
我は…大事な宝物を誰にも見せたくないからで。
理由は違えど…揃いの形。
我に魂を明け渡してくれた…その存在を感じる事が温かい。
ずっと、小父様達に拾われても、従者達に囲まれても…感じていた違和感。
我は、異端なのだ。
いくら飾られても、持ち上げられても。
真の親の前に、君という存在が既に我を満たし始めている…
笑顔が、止まらない。
微笑まずして、どのような表情をしろというのだ。
「雷堂さん、俺が眼を…差し出したのは、貴方が…視界を失ったからであって」
「ああ」
「そうさせた、俺の…罪悪感が、眼を、貴方に捧げろと云ったんです」
「そうか」
「でも、貴方の眼は…片方生きていた」
その震える声音が、次第に弱々しくなる。
我は、その声から消えていく怒りや困惑を感じ
少し焦る。
「憎みたいなら憎むと良い、我はその眼が得れた事に歓びを感じているし…こうして残った眼で君を見れる安心も同時に得た、卑怯者だからな」
そう、憎んで、蔑んでくれ。
どうした、どうしてそんなにか細い声音なのだ?
欺いて、君の優しさを利用して、眼を奪った我だぞ?
何故罵ってくれないのだ!?
「雷堂さん、視えてるんですね」
「そうだ、君の眼を得る為に欺いた甲斐あって…」
息をようやく落ち着けた人修羅が、静かに云った。
「そっか、良かった…です」
良かった…だと?
良かった、のか?君の眼が、奪われたというのに?
再生する、と君は確かに云ってはいたが、消耗品でも無いだろう。
どうして、怒りに発展しない?
どうして、憎しみに発展しない?
「良いと、君は思うのか…本当に」
どうして、どうして、どうしてだ!!
彼の肩を掴み、揺すり怒鳴った。
「どうして我を憎まぬ!!!!」
見開かれた金色が、力を宿す前に床に押し倒す。
「憎むにすら値せぬ程!遠いのか!?我は!!」
君も、周囲と同じなのか?
我は、人だ、デビルサマナーであるが、その前にただの人だ。
陽の気が強い?それでも、人の形を成しているだろう?
「げほっ!…ら、雷堂さ…」
「あのライドウを射る激しい視線を我にもくれ!!くれと云っている!!」
上から見下ろして、その光る身体を押さえつけて叫んだ。
急な衝撃に咽る君は、反論の暇すら無い。
項の突起が床を穿ち、それに身体を折っていた。
「どうしてくれぬのだ!?君の心の全てを得るには…必要なのに」
あの激しい劣情、憎しみ、羨望、その奥に在る…強い感情が欲しいのに。
それだけが足りないというのに!!
“執着”しているのは、我のみか!
君は“良かった”で済ませれる程にしか、我を…我を!
「…っ…はぁっ…はぁ…っ?」
ふと、感情が停滞した。
違和感を、感じた。
我に、では無い…人修羅から。
「矢代君…君の主人に、そういえば用が有って参ったのだが」
急に話を切り出した我に、呆然とした君が、やがて口にする。
「知りません…あいつの今居る場所なんて…」
知りません?いや、違う…
分からないのだろう…
「矢代君、君から彼の気を感じない」
びくりとする、押さえつけた身体。
「君の口から説明出来ぬか?」
震えている、そう…か、そうなのか?
だとしたら、説明出来る筈無いであろう。
「棄てられたのか…矢代君」
暗闇に、やけに響いた我の声。
愉悦を含んだ、自身ですらそう分かる声音。
「そうか…棄てられたのか、契約を破棄されたのか!!」
彼の金の眼が、暗闇に消えた。
眼を瞑ったのだろう。
予感がして、その眼元に舌を這わせてみた。
塩っぽい、それが舌に触れた。
だが、それすら心には甘い。
事情はどうあれ、葛葉ライドウは…今、人修羅の主では無い。
今、組み敷いている彼は…真っ白なのだ。
心が歓喜する。
どうしよう、如何してくれよう…!
ああ、しかしあまりにそれは浅ましい、罪深い。
人の居ぬ間に横から攫うは罪である。
しかし、眼を奪っておきながら何を今更?
彼は、棄てられたのだぞ?
棄てられているのだ、拾っても文句は云われまい。
天に祈りがきっと通じたのだ。
「矢代君…我と結ぼうか…?」
囁く、暴れる君を押さえつけて、その耳に。
もう、喰ろうてしまおうか?
ライドウの気が無い君の肉は、美味しかろう。
いいや、しかし…憎しみだけでは飽きてしまう。
折角手中に収めても、情愛が無ければ契約の意味も無し。
どうせ手に入らぬと、思っていた先程の感覚は切り替えなければ。
どうしようか、どうしよう?
ライドウの様に、彼の肉しか喰らえぬ様では…つまらぬ。
もっと奥まで、突き刺して味わいたいのに。
心まで侵蝕して、しゃぶりたいのに、今それを絶えさせる訳には…いかぬ。
「は、放して…下さい」
「矢代君…落ち着くのだ」
「あいつは、まだ一応俺を」
「しかし、君を一度でも棄てたのだ…辛かったろう?」
「で、でも…まだ」
「我とて棄てられた身…気持ちは理解出来る筈」
手を緩め、優しく指先でその髪を梳いた。
いやいやをする様に、首を振る人修羅。
「俺、またあいつに拾われる予定が…」
「赦してしまうのか?一度赦せば再び来るやも知れぬのに?」
「ち、違う…!赦してなんか」
「なら、心落ち着くまで我の傍で考えてはくれぬか?」
絡め取る、ゆっくりと、ゆっくりと。
首を絞めて殺さぬ様に。
指先の爪から、髪の一本まで絡め取る。
そう、これで良い筈…
真白な彼に、ライドウを近づけさせねば良いのだ。
そう、そんな簡単な事だった…
一気に染め上げるより、じわりじわりと染めるのが心地良い事を…
夜は知っているのだろうか?
いいや、彼の性分では合わぬかもしれぬ。
ふと、笑みが零れた。
「とりあえず、この里を出ようか…矢代君?」
放心しているのか、死んだ様に虚空を見つめている人修羅。
「それとも、ライドウを捜そうか?」
そう聞けば、首を振った君。
それを見て、暗闇に哂った我は…業斗にどう説明するかを既に思案していた。
憎しみが得れぬのは少し残念だったが、もっと…凄い事になった。
ああ、我慢の日々が続きそうで怖い。
どこまで我は“待て”が出来るのだ?
餌を鼻先に吊るされた、獣の気分だ。
(嗚呼、喰らいたい、喰らいたい、喰らいたい…)
我は、純白の彼を汚す妄想に、既にとり憑かれている…
使役したら、きっと…気持ち良いのだろう。
友達で良い、と云っていた過去の自身が、すでに霞んで視えなかった。
ぐずぐずに蕩けて、骨から肉が簡単に剥がれるまで…煮立たせよう。
そして優しく食むのだ。
そう、ライドウと違って、優しく、常に優しく居よう…
暗闇で見えぬだろう、我はきっと満面の笑みだった。
ようやく動く事を許された。
いや、正確には“見張りが見ている僕”は、擬態した仲魔であるから
許されてはいないのだが。
「功刀君」
あの納屋の扉に手を掛け、開け放つ。
呪いも何も無い扉に、妙な違和感を感じた。
あの瞬間、本当に…契約を切った。
身体に在った、負荷は確かに消え失せた。
人修羅を使役している代償である、あの負荷が…確かに。
それが、身体を妙に軽くさせていた。
あんなものは、芝居でしかないのだ。
早く、戻そう。
鞘しか持っていないかの様に、内側が空虚だ。
強い悪魔を…己に引き戻さなくては。
ばれぬ様、再び奥に結んでおけば良いか…
それとも、人修羅が失踪したと見せかけようか。
思案しつつ、周囲を見た。
薄暗いが…微かに感じる魔力の残留感。
他者の…マグネタイト。
それも…僕と正反対の…
「功刀!!」
地階へ駆け下りた。
気配は無い…
此処に容れられている筈なのに、おかしい。
脱走?いや…内側から解呪する程の気力があれに有ったか?
何者かが…手を貸した。
そしてそれが誰なのかも、ふわりと残るマグネタイトが教えてくれた。
すぐに上へと戻る。
すると入って来た時には気付かなかった物が眼に入る。
柱の裏の楔に引っ掛けられた外套。
僕のだった。
掴みあげて、羽織ったが…あれの温もりなど在る筈も無かった。
「…」
硬質な感触を、羽織った外套の衣嚢に感じる。
何かを入れた覚えが無い、そこを指先で探る。
しゃらり、と金属の冷たさ。
(…時計)
こんな物、自分は所有していた覚えが無い。
掌に乗せたその懐中時計の蓋が、かたかたと鳴く。
秒針の音とは、全く違うそれ。
かちゃりと蓋を開けてみる。
「っ!」
ばたばたと、白い小さな影が其処から飛び出して空を舞った。
白い、式。
やはり、貴様か…葛葉雷堂…!
その式は一頻り飛び回ると、柱にぶつかってぱたりぱたりと折れ広がっていった。
文字が刻まれた文に姿を変えて、式は自ら柱に括られた。
拝啓
夜寒の砌
雪の白さも眼に痛く
更に白いは貴殿の悪魔
内迄雪の如く白々と美しく
其のまゝ共に散歩にでも
と 連れ発つた迄
使役印は未だ結ばず…安心致し候
棄て置かれたる我等なれど
同じ傷与へるは如何だらうか
曼珠沙華此処に在らず…
さて外套の時計
悪魔狩人より預り候
我同一のもの所有したる由
其は差上候
尚 内を確認下さるべく候
親御の気配…歓び為すべき
未だ見ぬ親御を夢に
我巡りたる心ばへなり
然るに
人の心失い難く候
乱筆にて申訳御座なく候
敬具
悪魔狩人…ダンテ?
いや、それよりもまず、人修羅は雷堂に付いていったのか?
連れ去られたのか?それが…重要だった。
悠長に、一筆書く暇すら与えてしまった自身を呪う。
御丁寧に、棄てた事への説法まで記述して。
「…何が在らず、だ」
お前は、この時期に此処へ来たからそう思っているのだろう。
この里は、曼珠沙華に囲まれているのだ…
棄てられるに相応しい場所なのだよ…!
「本当に棄てたと思ったのか!」
あの時人修羅の胎に突き立てた刀を抜刀する。
マグネタイトの吸収率が高い、少し特殊な刀だった。
残さず吸え、と云われ渡された刀だった。
僕の欠片を残さず、あれから拾い上げろと…
「それなら!お前の手首を落とす訳無いだろう!」
文の括られた柱を斬りつける。
「雷堂を退くべく!身体を使う訳無いだろう!!」
散り散りに白い切れ端が舞う。
「渡す位なら!やはり合体すれば良かった!!!!」
闇雲に斬りつけた、その刀が嫌な音を立てた。
考えも無しに、力任せに穿った柱で、刃毀れしている。
もう良い、これは使わぬのだから。
「はぁっ…はぁ…」
反応の無いものほど、斬っていて愉しくないものは無い。
虚しいものは無い。
愚かだ…
本当に愚かだ。
すぐ結び直す、と云わず
棄てた訳では無い、と云えば良かったのか?
いや…同じだろう。
そんな事では無い、解っている。
あの時
僕が
哀しそうな顔をしていれば良かっただけなのだ
隠さずに
でも、哀しそうな顔など…
やり方をもう憶えていないのに
どうすれば良かったのだ?
嘲った哂い…憤怒に駆られた顔…憎い、忌々しげな侮蔑…
それか、能面。
僕がやり方を知っているのはこれだけなのに。
持ち合わさぬものは、出せる訳無いだろう。
なんだ、次に逢う時にそれを持ち合わせねば
交渉にすら発展しないのか?
どうなのだ?
それまでに…雷堂は手をつけぬか?
もし…次にまみえた時、雷堂の悪魔に成っていたら…
雷堂を迷わず殺せる自信が有る。
そうか…だから雷堂も、僕を躊躇わず斬ったのか。
失くして初めて気付くとは良く云うが
これは…大切とか、そういう感情なのか?
そんな綺麗なものなのか?
…哀しい?
そういえば、何故僕は
契約を切って…哀しいのだ?
(錯覚しているだけだろう…この空虚な内に)
強い存在が、消えた事に苛立っている、ただそれだけだろう。
では、何故こんなにも激昂した?
眼の前の、ぼろぼろの柱は誰がやった?
昨夜、人修羅が括られていた柱だった。
そういえば、名を呼ばれたのに
返事すらしなかった。
「…矢代」
今更、返事している。
ただの柱に向かって。
馬鹿か。
馬鹿だ…僕は。
曼珠沙華・了
* あとがき*
曼珠沙華は別名「捨て子花」と云います。
雷堂の文章テキトーです、大変申し訳御座いません。
そして…あれ?ライドウ?
まさか…デレた?デレなのでしょうかこれは…?
私がいよいよ痺れを切らした?いやいや…まだ大丈夫。
まだライドウ、そんな感情認めません。
人修羅も見て見ぬフリですし。
雷堂は相変わらず興奮気味です(変態かよ!)
いよいよフリーになった人修羅ですが
この辺からライドウと雷堂のマジバトル勃発です。
しかし雷堂…愉しくてしょうがないのですね、きっと。