その名を紡げ
「どうした?」
「いえ…」
「もう要らぬのか?」
セルロイド食器に、スプーンを置く。
眼の前の書生に、視線を移せば
何処か困ったような表情でこちらを窺ってくる。
「いえ、違うんです…俺、味が良く判らなくって…」
「満腹感でか?」
「それが…この身体に成ってから舌がイカレちゃったみたいで」
はは、と自虐気味に笑ってスプーンを再び持てば
書生の指が、自分の指に置かれた。
「無理せずとも良い」
「でも折角払ってもらったし…」
「我が勝手に注文した、矢代君の意見も聞かずにな」
気遣いの溢れる言葉は、見慣れた顔の、その唇から発されている。
額にかけて顔を渡る傷痕だけを除いて…
俺はもう何日か、帰っていなかった。
何処へって?
本来の主人の下へ。
14代目葛葉ライドウの居る帝都へ。
「良いのか?帰ってこっ酷く叱られるのは目に見えているぞ」
雷堂の心配そうな声に、俺は笑って返す。
そんな必要無い、と。
「大丈夫ですよ、あいつ今相当掛かる依頼の真っ最中で」
「そんなにか?」
「槻賀多村…とか何とかいう村まで出張してますから」
どうやら一週間近く掛かるようだった。
出掛けに大きなトランクに荷詰めするライドウを見た。
数本刀を縛り、管も全て持ち出していた。
「何故人修羅である君を連れなかったのだ?」
不安が疑問に変わったのか、雷堂が立て続けに聞いてくる。
「俺は同時進行で別の依頼をさせられていたんで…」
冷めた珈琲を一口啜った。
舌にびりりと、風味が奔る。
何故だか苦味は認識し易いので、珈琲は判る。
むしろ苦味に関しては、酷く鋭敏になった気がするのだ。
「ほう、矢代君はしっかり探偵社の手伝いもしているのか」
「…あいつ人使い荒いですから」
口に詰めたハヤシライスを、珈琲で流し込む。
これで眼の前の皿は綺麗になった。
「云われていた素材も集め終えたし、後はタイミング見計らって帰れば良い話ですよ」
ナプキンで口元を拭って、たたみ置く。
「…あの、雷堂さんはもう良いんですか?あまり食べてないですよね」
ふと気付き、それを問い掛ければ
眼の前の品行方正な書生は、穏やかに微笑む。
「小食でな、そう身体を作ってきた」
修行…の一環だろうか。
確かにこの人は精進料理等が似合っていた。
「だから君の食べっぷりを拝見しようかと思い、考えもせずに注文してしまった」
「え、いえそれはもう…俺もその際に云えば良かったんです、すいません」
似たもの同士なのか、互いに謝り続けてしまう。
「では、そろそろ出ようか」
「はい」
席を立ち、会計へと向かう。
外套から覗く、長い鞘の先端が、脚に触れそうで触れない。
歩く度に雷堂の其処へと眼が行ってしまう。
「ごちそうさまでした」
「我が勝手に誘ったのだ、気に召されるな」
ライドウより、淡々と語る口調は些か冷たさを感じるが
その実気遣いに満ちたものが多い。
少々無骨で荒削りなのが、彼の魅力だった。
(本当、ライドウとは大違いだ)
アカラナ回廊で偶然逢って、話し込む内に流れで来てしまった。
「来て正解だったぁ」
そう発声した俺は外の空気を吸い込み、ぐんと伸びをした。
「それは良かった」
背後で雷堂が返答した。
「すごく、気分転換になりました」
「なにより、ではもう帰るのか?」
「ええ、アカラナ回廊に向かいます」
俺が答えると、雷堂は少し考えるような素振りをする。
「なあ、矢代君」
「はい」
「良ければ明日、改めて遊びに来ないか」
その意外過ぎる確認に、俺は珍しく興奮した。
「業斗さんに叱られちゃいませんか?」
「実はな…」
まるで悪戯を明かす少年のような眼に、一瞬なった雷堂。
「ヤタガラスの召集で、お目付け役は出張している」
その言葉に、俺まで口元が綻ぶ。
「じゃあ明日は、こっちの世界の帝都を案内して下さい」
まるで、高校時代の様だ。
「良かろう、依頼も丁度無いからな…」
「観光してもバチは当たりませんよね」
何だか心が浮き立つ気分だ。
幼い頃のよく云われる遠足前夜…というやつか。
そもそも睡眠を必要としない俺は、そのまま起きているつもりだった。
別れた後、足取りも軽くアカラナ回廊を駆ける。
人修羅になってから、こんな浮き立つのは初めてかもしれなかった。
人の成りをして、人と過ごしているのとは違う。
あのデビルサマナーは俺がどういった存在か理解している。
それでいて、あの様に人となんら変わらず接してくれている。
「悪魔でもいいんだ」
独りごちて、ほくそ笑む俺は
傍から見れば気味悪いだろう。
襲い来る他の悪魔を
その軽い足取りのまま放ったジャベリンレインで一掃する。
宙で回転する時の爽快感が、格別だった。
探偵事務所の扉を開け、鳴海が居るか確認をする。
コートが無い…
どうやら、外出中の様だ。
それも、近場では無いらしい。
廊下に戻り階段を上がる。
一瞬、ドアノブに置いた手を止めて深呼吸する。
ギィ、と決して立て付けの良いといえぬ扉を開ける。
そこにはがらんとした、冷たい空気が漂っていた。
(まだ帰っていない…)
心の隅でホッとする自分が居る。
ライドウはまだ出張中らしく、遮光カーテンは閉まったままだ。
魔晶等をかき集めた袋を、無造作にベッドへと放った。
これで俺の役目は終わり。
あいつが帰るまで俺の好きにさせてもらうぞ。
そう決心して、適当に箪笥を漁る。
帝都に長居する際には、いつもライドウの服を拝借していた。
着物やら、真っ白なシャツやら色々あったが
俺はいつも通り、スラックスの上に着物を着た。
細い角帯で簡単に結ぶ。
この格好が一番楽だ。
戦う際にも、上を肌蹴れば馴染みの姿になる。
斑紋の放つ魔力の振動を、服が遮らない。
あれはくすぐったくて、上半身はどうしても肌蹴ている必要が有る。
肌を晒すのは本意では無いが、戦うのなんて悪魔にしか見られない。
「久しぶりだなぁ」
誰に云うでもない、云っているならば
自分の内に潜む仲魔に、だろうか。
今は召喚なんて殆どしないが、まだ契約は切れていない。
しかし、そんな彼らとも違う存在。
「友達みたいだ」
眼を閉じ、呟く。
先刻開けた窓から入る夜風が、頬を撫でていった…
「そう見ると、本当に人と変わりない」
「本当ですか?」
「ああ、全く変わりない」
「俺、それ云われると気分良くなります」
雷堂の、狙ったわけでも無さそうな言葉に
嬉々としている自分が分かる。
スニーカーというのが調和を崩しているが
いざ戦う際に、下駄では困る。
ライドウの様な革靴も持っていない。
「どうだ、君達の世界と違いは在るか?」
散歩がてら川べりを歩いている際に、雷堂が俺に問う。
「いえ…あまり無い、と思います」
「どちらが平和そうだ?」
「えっ、それは…どっこいどっこい、じゃないかと」
気にしているのだろうか。
しっかり帝都を護れているのか…と。
「…すまない」
いきなり発された謝罪に、思わず傍らの雷堂を見る。
「何が…」
「友など居なかった所為で、どうするべきか分からぬ…」
帽子のつばを押さえ、俯き加減に呟いた。
そんな雷堂を見て、俺は笑ってしまった。
「俺だってつるむタイプじゃなかったから、良く分かりませんよ」
「そうか…」
静かに笑みを湛えた雷堂は、俺を見る。
(この人、静かに笑うなぁ…)
ここ最近思った。
この人は余計なものが纏わり付いていない。
同年代の男性に感じるのもおかしいが
慈愛がその奥底に感じられた。
「矢代君、ひとつ聞きたい事が有る」
しかし、その笑みを消した雷堂。
「…はい、何ですか?」
やや警戒して、その次の言葉を待つ。
「君は、其方の葛葉ライドウの仲魔だ」
「不本意ながらそうですね」
「彼と、どのような関係を求めている?」
その言葉に、俺は足を止めた。
含みを感じる。感じずにはいられない。
「どう、って…このままサマナーと悪魔でいますよ?」
何の感情も入れず、そうとだけ答えた。
「そうか?それにしては互いに酷く依存しているようだが」
「一応主従関係ですから、ある程度の所有欲と従事観念によるものじゃないんですか?」
素っ気無く、ぶっきらぼうに言い放つ俺に
雷堂は腕を組みつつ俺を探る。
「しかしサマナーと仲魔の関係の延長線上に在るとは云い難い」
食い下がる。
「雷堂さん、云いたい事有るんですよね?はっきりお願いします」
俺はざわめく心境を抑え付け、彼を見た。
小川のせせらぎが聞こえる…
「君は…主人の方の“葛葉ライドウ“と、今歩いているつもりではないのか?」
「えっ」
「この我の姿形に、彼を求めている様に…思えてならぬ」
「な、に云ってるんですか」
そんな風に思わせていたなんて…心外だし、申し訳なくもあった。
「違うか?」
「違いますよ!」
荒げた声音で返す。
その声量にハッとして、我に返る。
「すいません、俺…」
涼しい気候の筈なのに、嫌な汗が滲む。
「そうか…我の思い違いなら、申し訳無かった」
そのまま俺を通り越し、歩む雷堂に
俺は引力が働くかの様に歩み続く。
「矢代君、結構歩いたろうに…カフエーで休憩を取ろうか」
「俺、まだ平気です」
「珈琲なら好きなのかと思ったのだが…」
先日珈琲ばかり啜った俺を見て、そう感じたのだろうか。
その気遣いに、俺はまた断りを入れる事が出来なくなった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「此処のカフエーの珈琲は鳴海所長が絶賛している」
カラリと鳴る扉のベルの音が、やけに鮮明に聞こえた。
別珍の様な素材のクッションの椅子。
石と木で作られたテーブル。
アイアンのフレーム装飾の美しいランプ。
(ああ、これって)
まるで喫茶店の代名詞を集合体にしたような風景。
あの新世界なる店とは違い
万人に受けの良さそうな…ライトな感じを併せ持っていた。
席に着くなり、雷堂が外套を外して背もたれに畳んで掛ける。
「得物を預けてくる」
そう云って、あの長い大太刀の鞘を掴み席を立った。
(広い店だな)
地下に深く広がっていた。
天井が高くて、それがいっそうの開放感を作り上げる。
階段を上っていく雷堂を視線で見送る。
それにしても何故、雷堂はあんな事を問うて来たのだろう。
俺が雷堂さんをライドウと思って見てる…って思われたんだよな。
なんだかショックだった。
俺は間違いなく、其処に葛葉雷堂を見ているつもりだったのだが。
視線を膝元に落とす。
(雷堂さんが戻ったら、開口一番謝ろう)
そう思わせたのは俺だし、勝手に機嫌を損ねたのも俺だ。
拗ねて困らせるつもりは無いのだから…
すると向かいの方に着席の音と、影が動いた。
少し、戸惑ってから口を開く。
「雷堂さん、先刻はあんな風に返してしまって…すいませんでした」
「…」
「俺、重ねているつもりは全く無いです、そもそもあんな悪魔みたいなのと雷堂さんを一緒に捉える方が難しいです」
「そうか…“矢代”君…君は自分が悪魔だというのに、随分と人を棚に上げるな」
そのぶしつけな言い草に、口調は確かなのに、と
疑惑と共に面を上げた。
俺の頭から、足の先まで血の気が引いていく。
その書生の顔には、傷痕が無い。
まるで金魚みたく、口を、ぱくりぱくりとしてしまう。
言葉すら出ていなかった。
「酸素が足りていないのか?だからこんなに馬鹿なのか?」
穏やかとはいえぬ、その笑み。
「だから勝手に出歩いて、逢瀬をするのか?」
「あ…あ…」
本当に、冷や汗が滲んでいる。
何故この男が此処に居る?依頼は済んだのか?
そもそも何故俺が此処に居ると分かった?
その男の背の向こうに、もう一人書生が姿を見せた。
「矢代君…平気か?」
俺の向かいに座る人物を察して云ったのだろうか。
そんな気遣いの言葉すら、俺は受け取れぬ程に狼狽していた。
驚いた。
まさか席に戻って、もう一人の自身に出くわすとは思わなんだ。
人修羅の向かいに座る光景は
先程の自分達を第三者から見ているような錯覚に陥らせる。
「来たか、雷堂」
此方を向かずして云う“ライドウ”には返さず
「矢代君…平気か?」
彼に…人修羅に問い掛けた。
(可哀想に、酷くうろたえている…)
それはそうだ、あの主人に出歩いていた先で遭遇したのだ。
あのデビルサマナーに。
「雷堂、君はその愚図の隣にお掛けよ」
「…その様に仲魔を呼ぶものでは無い」
ライドウの指示に、釈然としないが従う。
隣の人修羅に視線を送るが、余裕は全く無さそうだ。
やはり契約上、逆らえぬ…そういうものなのだろうか?
「葛葉様…双子様でいらっしゃったのですか!?」
驚いた女中が、お品書きを手にしていつの間にか佇んでいた。
「いや、これは…」
「ええ、其方は僕の兄です、宜しく…女中のお嬢さん」
勝手に兄にされてしまった。
しかしその方が話は楽である。
口説くかの様な所作に、女中は赤面してライドウを見ている。
確かに、あの笑みと甘やかな口調で云われては
ご婦人方ならひとたまりも無い、かもしれぬ。
「僕は珈琲とトーストで、そっちの小さいのも珈琲」
そっちの小さいの、とは人修羅の事だろうか。
流石に憤慨したのか、むっとして向かいを見つめていた。
「“兄さん”もお好きなのをどうぞ、僕が出しますので」
そのライドウの台詞に、少々寒気を感じながらも
女中に注文をした。
食物が喉を通るのか分からなかったので、お茶だけにする。
注文を受け終えた女中が席を離れて行った…
普通ならここで場の空気が軽くなり、会話が始まるのだろう。
しかし、女中の離れたこの席は一気に泥に包まれた。
「我が勝手に誘ったのだ、アカラナ回廊で偶然逢ったのでな」
まず、これを先に云っておこうと思い述べた。
我から誘ったのだ、貴殿の悪魔は悪くない、と。
「其処は問題では無い、誘われようが誘おうが、結末が問題だからね」
外套の首元を弛め、トランクに掛ける彼を見て気付く。
出先から直接此処に来たのか…
「功刀君、君はそんなにこっちの帝都が好きなのか」
「…別に帝都がって事は」
「では云い方を変えようか…こっちの葛葉雷堂がそんなに好き?」
「な、馬鹿じゃないのかあんた、それ…どういう好き、だよ」
更に狼狽する人修羅。
其処は普通に友人関係と取って良いだろうに。
普段から余程変なからかいを受けているのだろうか。
「彼に友人の様な付き合いを強制したのは我だ…ライドウよ」
横槍と云う名の助け舟を出す。
ライドウは人修羅をねめつける様に見つめたままだ。
「いや、俺が…友達ごっこ、したかっただけだ、ライドウ」
それを跳ね除けるかの様に、人修羅は否定した。
我に矛先が向く事を阻止しようと、必死なのが伝わってくる。
妙な沈黙の葛葉ライドウが、不気味だ。
すると女中が注文品を持って席に来る。
「有難う」
さらりと云うライドウの横顔を見て、少々呆れてしまう。
この男は、無自覚の内に口説いている。
(見ている方が焦る…)
多くの女性達を惑わすのは、あまり良いとは思えぬ。
「…あんた、そういえば依頼は済んだのか」
人修羅の質問にライドウは即答する。
「投げて来る訳ないだろう、そこまで無責任なつもりは無い」
「早くないか?」
「あまり君を放置しておくのも問題かと思ったのだがね…アカラナで嬉々としてこっちの穴に飛び込む君を見たのでね」
「何であんたアカラナに居るんだよ、村と関係無いじゃないか!」
「今回は在った、それだけの話だ」
頬杖を付いて、トーストを半分に折ったライドウは
それをあろうことか珈琲にぶち込んだ。
そして珈琲の滴るトーストをもそりと頬張る。
「な、なんて食べ方をするのだ貴殿は…」
思った事を、思わず口にしてしまった。
「失礼、普段は外でしないよう心がけているのだが、多少腹が立っていてね」
その眼に一瞬、殺気が奔る。
「君達も腹に入れておきたまえ、この後体力使うから」
その意味深な言葉に、ぞっとする。
気が進まぬが、出されたお茶をすする。
熱い筈なのに、温度も良く分からなかった。
と、ふと隣の人修羅を見やる。
少し俯いて、屈む様にしている。
「…どうかしたか?」
「いえ、別に」
そんな事無いだろう、微妙に震えている彼を傍に感じる。
「気分が優れぬのなら、外に出させてもらえばどうか?」
「…いいです、多分出してもらえないし」
向かいのライドウは無言だ。
どうしたものかと溜息をつけば、人修羅の方から
からん、とティースプーンが転がり落ちた。
腕を組み替えた人修羅が、誤って落としたのだろう。
あっ、と云い動こうとする人修羅を制する。
「我が拾おう」
「いいですっ!」
強い口調で拒否する人修羅、だが。
「折角だ、拾ってもらえよ功刀君」
ライドウが口を開く。
これには我も賛同する。
「雷堂さんっ」
人修羅の声に妙な焦りを感じた気がしたが
そう思った時には既にテーブルの下へと潜る我が居た。
そこで、銀色に光るスプーンを拾って終わる筈だった。
だが、スプーンよりも先に眼に入ったものがある。
眼を疑った。
ライドウの自分よりも長いのでは、と思わせるその脚が
すらりと伸びていた。
その先には人修羅の…
(こ、この男…!!)
掴んだスプーンを再び落としそうになりながら、腰を上げる。
着席すれば、先程とは打って変わった彼等の表情。
酷く赤面し、唇を噛み締めて此方を見ようとしない人修羅。
逆に、此方を見つめて口の端を吊り上げたライドウ。
「スプーンは見つかった?」
平然とライドウが云うこの間にも、人修羅は脚先で淫行を働かれているのだ。
靴の先で…
思い出し、自分の顔まで熱くなる。
「ライドウ、貴殿の用が済んだなら、すぐ外に出たいのだが」
傍に居る人修羅を、一刻も早く開放してやって欲しかった。
「…いいよ、そろそろ出ようか」
その言葉が、酷く愉しげな事だけは憶えている。
どう躾けようか。
ただそれだけを思っていた。
先刻から、脳裏を過ぎるのはそればかりだった。
久々に長い依頼を終え、少々の疲れを感じていた。
帰り道、そろそろ満ちそうな月を見て
少し足早になっていた。
満月で高揚した人修羅が、おかしな行動を取らぬ確証は無い。
周期を考えていなかったミスを悔い、急いで切り上げてきた。
依頼の最後の辺りなど、もうぶっ通しであった。
行きより何故かトランクが重く感じる。
アカラナに寄って、終える筈だった。
しかし、依頼自体は終えたのだが、別の用件が出来たのだった。
周期の全く異なる次元へと、入ってゆく自分の悪魔。
最初見間違いかとも思ったが、そうでも無いらしい。
追ってきてみれば…確かに、おかしな行動を取る人修羅が居た。
暗い路地の傍を通過する際に、咄嗟に人修羅の首根っこを掴む。
(思い出すだけで腹立たしい、あの瞬間)
その掴んだ人修羅を、暗い隙間に放り込む。
「ああッ」
棄て置かれた木箱や、コンテナ、草木やゴミ。
そんな物に強かに身体を打ち付ける人修羅。
それに跨るようにして、覆いかぶさる。
「同じ顔の男の元に、足繁く通う仲魔を持つの、気分が悪いと思わないのか?」
痛みから呻く、そんな人修羅の髪を掴み上げる。
「聞こえている?」
「ぅ…」
こいつの着ている物は、僕の着物だがそんなのどうでも良かった。
汚泥に塗れようが血に濡れようが。
藍染の、そこそこ値の張る着物だが、人修羅に審美眼は無い。
適当に見繕ったのだろう。
でも人修羅の履く未来の靴の色合いと、この着物は意外と似合っていた。
(まあ、色なんてどうでも良くなる位、汚れるのだろうけど)
「ライドウ!暴力に物を云わせて貴殿は仲魔を使役するのか?」
暗い路地に、雷堂が入って来る。
邪魔虫め・・・
「僕の悪魔だ、勝手にする」
微妙に斑紋が浮かび始める人修羅を、ちらりと見る。
身体の防衛本能が働いているのだろう。
「悪魔だって痛みは感じるのだぞ!?」
僕の陰が、そう僕に叫ぶ。
それがおかしくて、思わず哂って云い返す。
「痛覚が在るからやっているのだよ」
「な…」
「無ければ叩く意味も無いだろう?」
唖然としている雷堂を尻目にし、トランクに吊るした紐先から
縛り纏めた刀の束を掴んで、人修羅へと向き直る。
「どれが良い!?切れ味重視か?状態異常付与か?」
出先で即対応出来る様に、用意した数種の刀。
人修羅の眼前にそれらを突き出し、選択させる。
痛みに顔を歪めた人修羅が、瞬きをしてゆっくり眼を開ける。
「ざ…けんな、俺が友達作っちゃ…悪いのかよ…」
その台詞に、その単語に
…頭に血が上る。
「他のサマナーに媚びへつらうな!」
一番尺の短い刀を抜き、その身体に突き立てようと振りかぶる。
すると、腕に戒めを感じた。
「それ以上するなら、我がお相手致そう…」
背後から、振りかぶる腕を掴まれていた。
葛葉雷堂に。
「君にした所で、人修羅が何を反省すると云うのだ?」
苛立ちを滲ませ、彼にそう問えば
同じ顔から吐かれる台詞。
「悪魔としてでは無く、友として…彼を苛む存在を捨て置けぬ」
その、あたかも自身と人修羅とで関係を築いたと云わんばかりの
親愛の情に溢れた言の葉。
それを紡ぐ口をたたっ斬ってやりたくなる。
「…僕の仲魔の行動指針は僕で決める」
「彼は半分人間だろうに」
「半身が人なら勝手な行いが赦されるのか?」
いいや、赦しはしない…
心で呟き、人修羅の腕を空いた手で掴みあげる。
「来い“人修羅”…僕等の帝都に戻るぞ」
足元のおぼつか無い人修羅を、無理矢理立たせ
雷堂に云う。
「コウリュウを呼べ、名も無き神社より帰らせて頂く」
僕の声に、雷堂は口元を引き結んだまま動かない。
しかし、観念したのか懐から太鼓を取り出す。
「呼ばねば、貴殿はその状態の人修羅を引き摺りまわしそうだからな」
「御察しの通り、良く理解しているじゃないか」
クク、と哂い返せば、彼の冷ややかな視線が此方に刺さる。
同じ存在ながら、相容れぬ。
(此れは、僕の切り札なのだから…渡すものか)
姿を現したコウリュウの背に乗り
前方に置いた人修羅を見て思う。
他のサマナーに、情を置かせてはならない。
折角…恐怖で、観念で縛り付けてあるこの存在を。
軽々しい友愛等に持って行かれては堪らない。
戯け者共め…
そんな関係、認めない。
契約を結んだ瞬間から、彼の命運を握るのは自分。
この14代目葛葉ライドウ只一人。
異界のアカラナ回廊より、帰るまで胸の燻りは消えなかった。
寧ろ増す一方だ。
「雷堂よ、僕の仲魔が世話になった…金輪際、勝手な行動は慎むように躾て来るから安心してくれたまえ」
別れの際にそう云えば、重い口調で別れを返される。
「…さらば」
だがその眼は、雄弁に語っている。
人修羅を解放しろ、と。
(するか…誰が)
この帝都にだって来させやしまい。
もう勝手にはさせまい。
強く掴み過ぎた人修羅の腕が、異様に冷たくなっていた。
「ひいッ!!」
無情に斬り付けてくる刀の、創る傷が熱い。
人修羅としての機能を身体にやつしても、痛い。
「どれだけ機嫌が悪いか解っているのか?」
そんなの、云われなくたって解る。
その眼が、その行動が俺に教え込む。
「大人しく、云え」
「だから、俺はあんたの仲魔ではあるけど、全部好い成りにはならないって何度も云ってるだろ!!」
着物の上を肌蹴けて、魔力を身体へと流す。
だが、上手く胎内を流転しない気に冷や汗がどっと出る。
(おかしい…魔力に制限が掛かってる?)
仕方無いので、そのままライドウに向かい
鉤の様に曲げた指関節で、思い切り薙ぐ。
しかし容易に避けられ、床板が音を立てて裂傷した。
木屑が舞い上がる中、薄ら笑いを浮かべるライドウ。
「上手く身体がいう事を利かないか?」
指摘を受け、俺は腕を組み直す。
意識を集中してみたが、云われる通りであった。
「この場所に引き摺り込んだ理由を考えてみたまえよ」
そのライドウの言葉に、ハッとさせられる。
あの後、移動の間も惜しいのか
異界より戻り、すぐさま名も無き神社の拝殿へと放り込まれた。
そうして今に至る。
「まさか、この拝殿」
俺が口にすれば、不安は伝わったのか。
ライドウがくすりと哂って返事をした。
「そう、魔力は勿論…悪魔の類は相当力の制限を受ける」
出させはしないつもりか、入り口を背に佇む。
夜なのに、ライドウの向こうから射す光を見て思う。
ああ、今夜は満月なのか…と、他人事の様に。
「あんた、自分の所属するトコの拝殿荒らして良いのかよ」
「悪魔と交戦したとでも云えば済むさ」
酷いデビルサマナーだな。
何故、こんな男の仲魔になってしまったのだろう。
自分で契約しておきながら、度々後悔した気がする。
「あの次元の雷堂は、優しくしてくれるようだね」
「そりゃあな、あんたに比べれば大半の人間は優しいよ」
「正当な御評価有難う」
そうして、形だけは丁寧な言葉と共に
斬撃が容赦無く俺の身体に降り注ぐ。
その、いつにも増して俊敏な動きに
俺は追い詰められて、肩にその切っ先を埋め込まれた。
「ひぎっ!」
激痛と、ぐずぐず云う傷。
更にめり込ませ、ライドウが顔を寄せる。
「この拝殿、葛葉の眷属は恩恵を受けるから、それをお忘れ無く」
「せこい…野郎だ…」
「計画的と云え」
ぶつり、と音を立てて刀身が肩を貫通した。
「は…っ!」
歯を喰いしばって、悲鳴を呑み込む。
この男の前で悲鳴を上げるのは、本意では無いから。
「相変わらす頑丈だな、君は…お陰で飽きない」
刀を刺したまま、ライドウは離れていく。
流石に退魔刀、身体の痺れがそう認識させる。
抜こうと手を掛ければ、もう一本の刀が飛んできた。
「うぅ…ッ!!」
胎に刺さった其れとは別の刀を手にして、ライドウが戻って来る。
じゃらりと数多の刀を手にして。
「其れ、抜いたらもう一本刺そう」
「…」
「君が抜くより早く、僕が刺そう…さすればその身体、自由は利かない」
「で、俺を痛めつけて結局あんたは何がしたいんだ?」
意味を成すのか、と逆に聞いてやった。
すると彼は数本有る刀を抜刀してゆく。
床に全て突き立ててから、俺に寄って来た。
「…主人と悪魔とを強く結ぶものは何か解る?」
「さあな、とりあえず俺達の間に信頼とか愛は無いな」
ライドウの問いに思ったままを返してみれば
この男は云った。
「血と精の契約…魔力的なものを用いた、やり取り…」
それの意味する事を、深読みしてしまう俺が嫌になる。
ライドウの手が、俺の胸部にあてがわれた。
警戒してぐっと力を込めるが、衝撃は無い。
だが、その胸部から徐々に身体が侵蝕されていく様な
そんな錯覚に陥る。
「ぐ…」
「封魔の印を結んだ…これで君は僕の力が注がれ易い状態になった訳だ」
「なに…」
「葛葉ライドウの印だ、もう結んだ契約だが…今宵は其れを更に強固なものにしようではないか…ねえ、人修羅…功刀君?」
「…変な…事したら、ぶっ飛ばす」
辛うじて、悪態は吐けた。
だが、ライドウの手が肌に触れた瞬間に頭が白くなる。
「触るな、変態…っ」
身を捩り、腕を振るおうとした瞬間
ライドウの背後の、床板に突き立てられた刀が一本
光を帯びて彼の手元に飛ぶようにして収まった。
それにぎょっとしていると、ライドウはその手元に収まった刀を
俺の腕に今度は突き立てた。
「あああっ」
筋を割り、赤い飛沫がその刀とライドウの頬を濡らした。
「此処では面白い様に、力を行使出来るから…愉しくてしょうがない」
ククク…と哂うライドウには、人間性の欠片も無かった。
立ち昇る霊力が、まるで悪魔の様だ。
拝殿が必要以上に、このサマナーの力を増幅させているのか。
背後の壁に、俺の血が染み出していくのが分かる。
湿気てゆく木の壁に、気持ち悪さを感じる。
「動いてみろ…死に絶える寸前まで、刀を立ててやるから」
不敵な笑みを浮かべ、頤に指が掛けられる。
背けたが、ぐい、と引き戻される。
唇に、赤い舌が沿わされて、開けさせられる。
「ふ…う、ぅっ」
ライドウの、長い睫がかすかに顔に触れる。
熱い舌が、口内を這い回る。
(いや…だっ)
俺は、ぞわぞわと身体を巡る嫌悪感に耐え切れず
その舌をがりりと噛んだ。
本当はもっと強く噛める、寧ろ噛み千切れるのだが。
この男の技術か、癖か
捉えどころの無い動きが、自分の舌を噛んでしまいそうで。
「…」
唇を放し、指を自身の其処に当てるライドウ。
じっと押し黙って、やがてじろりと俺を見た。
「…痛い」
そう云って、俺の胎の刀を避ける様にして
膝を勢い良く見舞ってきた。
「がは…っ!!」
「痛いんだけれど」
もう一撃
「げっ、げえっ」
「血が出てしまったよ」
更にまた一撃
「っ…あ…」
「仮にも君の主なのだが…どうしたものか」
「はあっ…はぁ…」
肩で息をして、だらしなく唾液を口の端から垂らす俺に
ライドウはようやく膝を入れる事を止めた。
「珈琲の味がした…」
ぼそりと呟くライドウ。
いきなり場違いな事を云い出す、その姿は異様だった。
「君、人修羅に成ってからは珈琲を進んで飲まないと云っていたのにな」
「…な、にが云いたい」
「あっちの雷堂の前で、背伸びでもしたかった?」
其れを云われ、途端に顔が熱くなる。
図星、だった。
いや、恐らくもう読まれていた。
あの喫茶店で、ライドウに勝手に珈琲を頼まれた時から。
「傑作だな、僕の前では大人しく水で済ますのに」
哂うライドウ。
只、先刻から眼だけはずっと笑っていない。
「雷堂さん…は、あんたと違って、他者を、心から思いやってるよ」
もう殴られようが斬られようが、これは云ってやりたかった。
「俺、雷堂さんの仲魔が良かった!」
その瞬間、ライドウの眼付きが変わった。
笑っていない、とかでは無い。
狂気を秘めた、普段と全く違う双眸が其処に光っていた。
「…云ったな」
その確認に、動悸が早くなる。
恐怖している自分が認識出来る位に。
「とうとう云ったな人修羅!!」
身体の刀が、音を立てて抜き取られる。
それは解放の為なんかでは無い。それ位、俺でも解る。
弱った身体を強かに床に叩きつけられ、馬乗りされる。
「契約違反だよ…お前」
声の響きが、いつもと違う。
あの余裕をかました、哂う様な声でも
女性に語る甘やかなトーンでも
興味の無い事に対する素っ気無い色でも
戦いの際の高揚気味なものでも…
どれにも、該当しない。
「泣いて請えば、半殺しで済まそうと思っていたが…そんな傷では安いよな?」
俺は情けない事に、見た事の無いライドウに恐怖して
返答すら出来ずにいた。
「震えても、泣いても、請うても、もう知るか」
「ひ…っ」
「お前が一番嫌な方法で、再契約しようか」
着物を完全に剥がされる。
いや、もう引き裂かれたと云うべきだった。
「お前なんか…色気も無いしそもそも男…固い坩堝に突き挿れてみたい等と、さしても思わないが…」
そう云い俺の局部を、スラックス上から思い切り握ってきた。
「いっ!」
胎に来る、ずしりとした鈍痛。
馬乗りされている所為で、捩る事すら叶わない。
「人修羅…その中身、僕のマグネタイトで満たしてやる」
「や…めろ」
「女みたいに泣き叫べよ、すれば少しは気分も乗る…優しくしてやれるかも知れないよ?」
「だ、誰がっ」
「お前がだよ!!人修羅!!」
咄嗟に出た反論に、怒声で返される。
と同時に、スラックスをずるりと引き摺り下ろされる。
と、その時だった。
「待て!」
月明かりの射す戸から、制止の声が響いた。
案の定、追ってきてみればこの惨状であった。
怒声、氾濫する魔力。
アカラナから此方へと出た先の、拝殿から響いてきた。
此方の名も無き神社を良くは知らぬが、近寄れば
格子の隙間から覗いたのは、人修羅を組み敷く葛葉ライドウ。
「待て!」
即座に声を掛け、格子を開けようと握る、が…
(何だ此れは…!?)
びくともしない。
鍵の類では無い、それなら少しはがたつく筈。
「来たな…雷堂」
その声、双眸…まるでライドウは悪魔の様だった。
(拝殿の効力か?まるで狐憑きの様だ)
そのライドウの霊力に、身体が戦慄く。
「ら…雷堂…さん、何で来たんだよっ!?」
人修羅の悲壮な叫びが、我に放たれる。
恐らく此れを見られた事に、絶望したのだろう。
「今から再契約を行うんだ…雷堂、君の所為でね」
そのライドウの、言葉に返す。
「責任転嫁も良い所ではないか?」
「そうかい?あながち間違っていない筈だが」
そう云い、ライドウは人修羅の肌に手を掛ける。
その光景に、身体がざわめく。
「いい加減にしないか!そんな手段を取る必要は皆無だろう!」
「皆無だって?違うな…こいつには、身体に聞かせる方法が一番効果が有るんだよ…君と同じで潔癖だからな」
もう何を云っても無駄な、そんな語気。
自身の格子を握る指が、汗で滑った。
仲魔の術で格子を破壊出来ぬかとも考えたが、この格子に術が掛かっている様だ。
指先に魔力の胎動を感じる。
「葛葉ライドウ!我が憎いならこの身、くれてやる!」
あまりにも無計画な発言に、自身でも驚きながら
もう出た言の葉は収集出来なかった。
視線を投げてきたライドウが、口の端を吊り上げた。
「…武器、全て外套ごと取り払え」
「すれば入れるのか?」
「…入れよう」
その言葉に、何処まで希望を見て良いのか分からぬが
云われるままにホルスターも、外套も地に投げ打った。
「馬鹿げてる!雷堂さんやめてくれよっ!」
組み敷かれたままの人修羅が叫ぶのが、耳に痛い。
「げふっ」
続けて、咽る声…恐らく殴られたのだろう。
「…度胸有るじゃないか、温室育ちと侮っていた」
立ち上がり、格子に寄って来たライドウは
すんなりと格子を開き、我の腕を捕る。
「動くなよ」
そして、背後に向かって言い放つ。
ライドウの背後の…襲い掛からんとする人修羅に向かって。
見事に読まれた人修羅は、動けなくなった。
理由は、我が痛感した。
「動いたら、雷堂がどうなっても…文句を云うなよ?」
そのまま背後の人修羅に語りかけるライドウは
視線だけは我に寄越していた。
挑戦的な、殺意すら滲ますその眼…
(失策、だったかもしれぬ…)
今更ながら思った。
「友、なんて安い関係で身を投げるものでは無いね」
我の腕を掴み、ライドウが云う。
「互いに足を引っ張り合って…切り捨てる覚悟すら無い」
その内容に、遺憾に思い叫ぶ。
「その感情すら棄て去った貴殿は、悪魔にも劣る」
「果たしてそうかな?」
「行き過ぎた依存は、身の破滅を呼ぶぞ…ライドウよ」
「御託は必要無い……おい“人修羅”、雷堂の背に何が在るか分かるか?」
会話の矛先を突如人修羅へと向けたライドウ。
その敬称に、普段の空気を感じない。
「あんたが手にしている…刀」
既に傷だらけの人修羅が、よろよろとしながら呟く。
「その通り、君が云う事を拒んだ瞬間、此れが背に呑まれて行くと思え」
脅迫ではないか…
悪魔にすら使わぬ手段を、平気で半人半魔に使う。
まさしく悪魔の様なサマナー、である。
「そうだな…口淫でもしてやれよ、お前の為に身体を張って入ってきたのだから」
と、その悪魔は突然、とてつもなく恐ろしい事を述べ始めた。
「はっ!?な、何云って…」
どもる人修羅、当然…だ。
「矢代君、別に背に喰らう程度ならすぐ死にはしない」
彼にその様な施しを受ける気は無かった。
それなら甘んじて刃を受けよう、と思い人修羅に云う。
だが、人修羅は俯き押し黙る。
既に裸である事すら意識出来ぬ位、混乱している様子だ。
「ライドウ、あんた本当に悪趣味だよな」
「知っているだろう?」
「俺も雷堂さんも…そんな趣味無いどころか、潔癖って知ってる癖…しやがって…!!」
震える声で糾弾する人修羅に、口元だけの笑みを返すライドウ。
「する?しない?」
容赦無いライドウの確認に、人修羅は腕を抱きしめる様にして
小さく呟いた。
「する」
その即答に、我の血の気がさあっと引いてゆくのが分かった。
「矢代君!」
叫ぶ我に、人修羅は叫び返す。
「しゃぶらせて下さい!雷堂さん!!」
ずきり、と心の臓が軋む。
その台詞とはかけ離れた、今にも泣きそうな表情が、苦しい。
「お、お願いだから、俺を責めないで…くれ」
その彼の言葉に、目を醒ます。
そうだ、この状況での拒否は、彼の覚悟を…彼自身を拒む事になる。
其処から、何も発する事が出来なくなった我を見て
ライドウが愉しげに云う。
「人修羅も望んでいる様だし…ねえ、雷堂…」
「貴殿は14代目失格だな」
「フン、さっさと15代目に継いでも構わない」
吐き捨てる様に云うと、人修羅を見たライドウ。
「そうそう、この雷堂の大事な処を傷物にしては可哀想だからね…」
「…」
言葉を待つ人修羅、眼が泳いでいる。
其処に、ライドウの冷水の如き言葉が投げ打たれた。
「その歯、全部折れよ」
最初、云っている意味すら分からなかった。
眼を見開く人修羅を見て、頭で、理解しようとする。
口淫にあたり、邪魔なのは、歯、と云いたいのか。
まさか。
「どうせ数日で全て生えるだろう?」
挨拶の様に、相槌の様にさらりと云うライドウ。
少しの間があって、突如。
「あ、は…あはははっ」
笑い出す人修羅。
一瞬壊れてしまったのではないかと思った。
いや、もう既に…かも知れぬが。
「良いよ、その位…何でもない」
笑いながら、云う人修羅の眼が、月光で光る。
「ただし、雷堂さんの為に、だ!ライドウ…決してあんたの為なんかじゃ無い!肝に銘じて良く見とけっ!!」
そう云って、自らの口に片手を突っ込む人修羅。
「矢代君!止めろ!!」
我の制止なぞ、無駄だと知りつつも叫んだ。
彼の口から、手を滴る赤い、幾重にも流れる糸。
其れがまるで織物の様に合わさってゆく。
甲を、腕を、肘に行き其処から床板を叩きに落ちる赤い滝。
鈍い音が、此方にまで聞こえる。
そして、タタッと赤い滝は固形物を含んで落ち始めた。
白い、小さな。
ぱらぱら、ぱらぱらと落ちる歯。
「なんて…事を」
息が詰まりそうだった。
確かに、全て生え変わるのだろう。
しかし、それなら良い等と云う事は、一切無い。
「…終わった?」
無表情に見つめていたライドウが、指先でクイと合図する。
来い、と人修羅に。
浅く息づく人修羅は、ひたすら流れ出る血を横に吐き捨て
ライドウに寄る。
「開け、確認してやるから…」
クスッと哂い、そのまま人修羅の唇を吸う。
「んぅ!!うう…うう〜っ!!!!」
この男、恐らく抜け落ちた傷痕を舐めているのだろう
人修羅の拳が、虚空を泳いでは、開いたり閉じたりされる。
ライドウを掴むのも、拒むのも危険と判断したのか。
その苦痛に歪んだ眼に、光るものが滲んでいる。
食い止める歯が無くなった所為か、合わさる隙間から
赤い唾液がとめどなく溢れては、両者の顎を伝っていた。
「相変わらず銘酒で何より」
ひとしきり、その確認とやらを終えたライドウが云った。
苦しそうに酸素を求める人修羅は、前屈みになり
膝に掌を置く。
その姿に、思わず声を掛ける。
「矢代君…よく…」
こう云うべき、なのだろう。
「よく…耐えたな、立派だ」
その我の言葉を聞いた人修羅は、一瞬動きを止め
目元を拭った。
そして、我の方へと近付く。
いよいよ、この瞬間が来てしまったのかと
思わず呼吸を忘れそうになる。
衣服をどうすべきなのか、と。
互いに手を掛けて、その手が重なった。
「す、すまない」
弾かれたように互いに手を引っ込めると
ライドウが横から入り
がばりと我の制服の前をくつろげた。
「…生娘の初夜みたいな空気、止めてくれないか御二方」
じろりと、苛立ちを含んでいる事は明瞭だった。
その眼に睨まれながら、人修羅はそうっと下着の端に指を入れた。
冷たい指が、局部に触れる。
正直、居た堪れなさと羞恥でおかしくなりそうだったが
向こう側に落ちている人修羅の歯を見て、なんとか保っていた。
あれが、彼の覚悟なのだ、と。
その彼が、するりと局部を指先で掴み、戸の無い口で被う。
(な、これ…はっ)
思わず、声が出そうになるのを何とか抑えた。
恐ろしい事に気付いてしまった。
歯の無い口淫というのが、酷く、艶かしいという事実に。
尖った物の無い彼の唇が、舌が、血と唾液で滑る口内が
背徳的な甘美さを湛えて、自身を撫ぜる。
「ん、ぐ…っ」
そして、其れを施す人修羅が“発声出来ない”という事実が
欠けた物に対する関心を呼び起こす。
手負いの獣が可愛い、等という悪趣味な言葉が在るが
其れの意味を始めて体感した気すら…する。
彼のくぐもった声を聞いて、それとなく首をもたげる自身を恥じる。
「へえ、やっぱり同じなのか」
ライドウが、我の下方を見て云った言葉が気になる。
「身体的には同一体なのだね」
ククッと哂うライドウに、おぞましさを感じる。
しかし、まさかこれは達するまで続けるのだろうか。
そう思っている矢先、ライドウが我の背後から
屈み咥える人修羅の頭の後ろへ、と掌を回す。
「もっと奥まで」
ぐぐっ、と此方へと押し付けるのだ。
先端が喉奥を突き、それによって締まる感覚が
痛みと背徳の快楽へと導く。
がぽっがぽっ、と、まるで物の様に前後運動を強制される人修羅の
修羅たる所以は何処にも見えなくなっていた。
擦れる喉奥が痛くて苦しいのだろう
眉間の皺が其れを物語る。
「どうだい雷堂?」
ライドウの囁きに、嫌悪感を感じつつも
決して「気持ち良く無い」とは返せぬ我が情けなかった。
「ほら、歯の無い口は気持ち良いだろう?」
悪魔の囁き…
「雷堂…君、心の底では人修羅を支配してみたかったのでは無いか?」
それは、無い。
「デビルサマナーなら、こいつの可能性に惹かれはしないか?」
確かに…一理有るが、支配とは、違う。
「屈服させれば良いのだよ、ほら」
「っ!」
そう囁いたライドウが、耳元に舌を這わせてきた。
その不意打ちに、思わず声が上がる。
それに調子付いたのか、その舌が徐々に下降してくる。
頤を掴まれ、顔を向けさせられる。
ぐ…と拒めば、背の刃が制服の布地を噛む感触。
ぞっとした瞬間、ぐいと引かれて唇を貪られた。
「っ…う、ぐ!」
荒々しく這い回る、軟体生物の如き舌が、ぞくりと身体を震わせる。
頤を掴むライドウの指が、そのまま首筋を辿り
鎖骨の窪みを通過してゆく。
その指が零れ落ちれば、胸の先端を捏ね繰り回す。
(この男…!どれだけ遊んでいるのだ !?)
我と同じ姿で、其れをされる事に羞恥を覚える。
「っ…あ」
もう、衝動が下方に集って仕方が無い。
背後から、前方から、恐ろしい快楽の嵐。
割礼だとか、手解きだとか、それとなくしか経験の無い自身にとって
もうこれは初めて経験する領域だった。
すると、ようやく唇を放したライドウが
「ほら、御褒美に掛けてやってくれよ」
そんな無茶苦茶な事を云いつつ、人修羅の髪を掴み
じゅぽっ、と勢い良く引き抜かせる。
それに、局部と耳から犯されて
行き場を失った熱が放たれた。
「っく…!!」
もう何が起こっているのか、理解したくも無かった。
人修羅の、ほんの少しだけ幼さの残る顔に
粘着質な其れが、蜘蛛が巣を張るかの如く掛かる。
「はぁ…あ、う、ううっ…!」
大きく喘いで、ぜえぜえと呼吸をする人修羅の
顔を伝って口に垂れる精液が、痛々しい。
その泣きそうな表情に、どきりとした。
“劣情”という単語が浮かんだが…
それをすぐに覆い隠して、謝罪した。
「苦しかったろう…すまない」
まさか、そんな感情を抱いては背後の男と同質ではないか。
いや、まさか…根本にある性質は同じ、だとでも云うのか?
「どう…人修羅?雷堂の精とマガツヒは、どちらが身体を酔わす?」
その背後からの声に、人修羅はギロ、と我の背後を睨みつける。
(まだそんな眼が出来るのか、君は…!!)
その底意地に、身震いした。
これが、ライドウの…独占したくなる理由のひとつなのだ
そう理解した、恐らく相違ない。
「ではもてなしも済んだし、いよいよしっかり契約を結ぼうか?」
刀を手にしたまま、ライドウが人修羅に歩み寄る。
隙は…無い。
ライドウが迫ってくるのが分かった。
頭で理解しつつも、身体は動かない。
とにかく意識だけ叛いていれば良い、と
怠惰で弱りきった身体が云う。
ライドウに背を蹴られ、俺は床板に胸部を打ち付けて伏せる。
「解っているとは思うが雷堂、君が下手な事をすれば…君が友人と云う人修羅は更に深く傷を付けられる事になるのだからね?」
頭上で響く声。
(ああ、あんな事云いやがって)
雷堂に迷惑が掛かるのが、とにかくもう嫌だった。
しかし、この口では喋る事すら許されない。
「さあ、股を開けよ人修羅」
脚の間に靴先が入り込む。
「うっ!うううっ!」
反射的に身体が強張り、拒絶したが
「ふざけるなよ、お前のサマナーは誰か分かっているのか?功刀矢代」
「あ、あううっ」
「四足の悪魔みたくさぁ」
もう、人の尊厳なんて欠片も残っていなかった。
口淫して、四つん這いの姿で犯されるのをこれから見せて…
何が、友…なんだ。
無理だ、無理だったんだ、この男から逃れるのなんて。
葛葉ライドウから、逃げる事なんてボルテクスに生まれ墜ちてからもう…
「男のはきついだろうね、だからと云って潤滑油を携帯するほど僕も遊んではいないからな…」
鼻で笑うライドウは、俺の臀部を揉みしだき飄々と語る。
「僕は痛いのが嫌いだからね、お前に其れを担ってもらうとしようか?」
そのライドウの台詞が終える瞬間。
雷堂の声がした。
声、と言っても息を呑む音だけれど。
そして同時に、ありえない箇所に激痛が奔る。
「う゛ぅうう〜っ!!!!うっ!うううっ!!」
え?なんだ?なんだこれは!?
痛さと恐怖感で、パニックに陥る。
(あ、ああ、まさか)
「尻穴の鞘なんて、相当下劣だな、く、くくくっ」
あははは…とおかしそうに笑うライドウ。
間違いなかった。
俺の後ろに、今刀が挿さっている。
酷い痛みに、意識が危うかったが
「あ゛ああああ゛…っ!」
それを抜かれる痛みで覚醒する。
もう、頭が狂ったほうがマシかもしれなかった。
このまま壊れた方が、楽かもしれなかった。
そして、生暖かいものが浸入する感触に、吐きそうになる。
唇が震えて、身体が痙攣する。
「あ……かは…っ」
胎内を蠢く肉が、気持ち悪い。
圧迫される直腸が押し戻す。
これは、異物だと。
「全然気持ち良くない」
耳元で、ライドウが呟く。
「お前は坩堝としても駄目なのか人修羅?」
切り開かれた門戸が、悲鳴を上げて血を流す。
その言葉に、俺の精神も切り裂かれる。
「何者にも棄て去られたお前を、唯一拾った人間だろう?僕は」
気持ち良く無いと云いながら、ねぶるような抽出を繰り返すライドウ。
「僕の持ち物だ、道具だ駒だ」
耳元で呪文の様に囁かれる。
「僕を出し抜くなら、散々云う事を聞いて油断させれば良いじゃないか?」
(ああ、ああ…ライドウ)
「雷堂は優しいだろう?人修羅を友として大事に扱おうとしている…だが、ソレはお前を最終的に苛む事になる」
背後から、ライドウの指がゆるゆると唇に沿わされる。
「ソレに慣れきったお前は、人修羅としての力を発揮出来なくなるだろう」
その指が、口内に入って、舌を摘む。
「人の感情だけが一人歩きするだろう…」
(俺は…俺は…)
佇む雷堂を、ちらりと見た。
ああ、そうか。
俺は理解してしまった。
俺は、友達が…欲しかったんじゃ…無いかもしれない。
最終的な野望の為に、友好的なサマナーを、欲していたのかも…と。
ライドウと同一の力を持つ“葛葉雷堂”を。
再び、ライドウの声が響く。
「そうしたら、お前はどっちつかずとなり、本当の意味で路頭に迷うだろうな」
「ああ…あ」
「人間にも、悪魔にも、サマナーにも見棄てられたらどうなる?」
(いや、だ)
「…さあ、改めてお前の契約者の生体エナジイを注いでやろう」
熱い、熱い鉄を流し込まれるようだった。
そこからひとつに融解して、溶け合うのではないかと思った。
「あっ、あっあああ」
涙が溢れて、あられもなく口から悲鳴が漏れた。
気持ち悪い吐き気が、快楽へと昇華していくのが分かった。
ぶるり、と精を吐く自分の下半身を見て
深く息をつく。
もう、全て終わったのだ。
再契約、なんて無かった。
ただの、再確認、だった。
ずる…と引き抜かれた熱い楔。
放心する俺に、駆け寄る雷堂さんが見えて、意識が沈んだ。
「おはよう、功刀君」
僕のベッドで覚醒した彼に、挨拶をする。
「…最悪な気分……って、ら、雷堂さんは !?」
「納得いってない様だったが、お帰り頂いた」
傍の椅子に腰掛け、僕は脚を組む。
「あ…あれ…からどれ位経ったの?」
「丸二日」
それを聞いた彼は、俯いて呟く。
「あんたが看ていてくれたのか?」
その言葉に、一応教えてやる。
「僕はまた依頼が入ったから、仕方が無く先程まで雷堂に看てもらっていた」
僕だって腑に落ちないが、あの人の良い男は申し出た。
看ている間、ずっと手を握っていた。
(まあ良い、束の間の夢でも見ていろ…僕の陰めが)
そう思い放置して置いたが…
人修羅の次の言葉が、部屋に響いた。
「何故だろう…左手が…温かい」
僕は、迷い無く帯刀した刀を抜刀し
驚き固まる人修羅の左手首に、刀身をくぐらせた。
そこからすっぱりと落ちた手を拾う。
ドクターに此処から細胞を取ってもらい
新しく培養した手をつけてもらおう…そうしよう。
「なあ、功刀君…君の…零れ落ちた身体の一片まで、このライドウの支配下にあるのだから」
「」
「解っているね?」
「」
「君の主は?」
「あぁ…っ…葛葉…ライドウ…ッ…」
悲鳴なんて、聴こえない。
噎び泣く歓喜の叫びが、人修羅の唇からきっと
紡がれているのだ。
その名を紡げ・了
* あとがき*
壊れていますねライドウ。
人修羅は、無意識の内に雷堂を利用してしまっています。
もう手に入らないであろう“友”という概念に囚われがちですが
深層意識では、絶対サマナーとして意識している筈です。
ちなみに私の好きなシーンは、歯を折らせるところです。
牙で攻撃する訳では無いですが、攻撃の意志を手折る
そんなイメージですよね。