蝕甚
秒針の音を…ずっと昔から聞いていた。
金の太陽は、そのからくりにてただ廻る。
紡がれる音は鼓動の様で、我の心の臓を安定させた。
母親というものの…子守唄か、心音か、胎動にも聴こえていたのかも知れぬ。
八咫烏は太陽の中心におわすのです
貴方が共に置かれた、その時計は…それを象徴しているのでは
やはり貴方様はヤタガラスに来る宿命だったのです
冠する名も、まさしく陽の者の如し
さあ…明様
明様
十四代目…
十四代目…雷堂…!!
雷
堂
!
「雷堂さん…?」
秒針の音では無い。
だが、心地好い音色。
「あ、の…大丈夫ですか?寝てませんでした?今」
「いいや、すまぬ…少し物思いに、身体を空けてしまっていた様だ…」
人修羅が傍に居る。
紛う事無き、君が。
「でも、全然…しっかり寝ているところ…見ませんでした、以前から」
「寝ずとも動けるのでな」
「じゃあさっきの何ですか?」
「それは…」
「わざと、かと思いました」
少し溜息混じりに、人修羅が呟いた。
その言葉に、思わず笑いが漏れる。
「そうか、それもあながち間違いでは無い」
人修羅の背に、帯を回したまま、ぼんやりとしていたのだから…
「もういいです…自分で着れますから!」
いよいよ痺れを切らして、人修羅は後ろ手に回した指で帯を掴んだ。
しかし、それはしゃりしゃりと涼しい音を立てて逃げる。
「独りで綺麗に結べるのか?君は…」
とてもそうは思えぬ。
君に、だらしなく崩れた帯で、此処を歩いて欲しく無いのだ。
君の事を指して嗤う者が居れば、斬ってしまいそうだ…
そんな暴力的な妄想に囚われながら、我は帯をぐい、と引き締めた。
それに一瞬息を詰める人修羅。
「力み過ぎだ、矢代君」
「キツイ…」
「息を吐いて、楽にしてくれ」
「向かい合って結ぶ必要あるんですか?後ろで…お願いします」
「何故だ?」
「…な、何故って、そんな」
しどろもどろになって、眼を逸らす君。
「嗚呼、指先が遠い」
我はうそぶいて、ぐい、と人修羅の身体を引寄せた。
強張る君の筋肉。
互いの右眼が熱い気がする。
指先で、ゆっくりと結び目を折っていく。
やんわりと、格子柄の帯を弄ぶ。
もどかしげな君が、肩を震わせているのが、良く分かる…
「おはしょり直しだ…失礼」
結び目の下に指を潜らせて、すい、と横に滑らせる。
手の甲に、やわらかく臀部の感触がした。
「ぅ…」
喉奥からじわりと滲んだ呻きが、耳元をかすめた。
左の眼で見れば、人修羅は頬を紅潮させて向こうを向いていた。
「辛いなら、悪魔の身体でも良いぞ?君が人修羅と皆承知している…」
見当違いな事を云う我は、意地が悪い。
最近頓着な気がする…
「あの、雷堂さん…俺がこんな歩いちゃって、本当に大丈夫なんですか?」
張られた板を、室内履きの足袋で鳴らす人修羅。
夷然として、我を見つめるその眼の色。
「ヤタガラスの…此処では、それなりに利く」
「俺、前あんな仕打ち受けたり、暴れたりしたのにですか?」
「君の力を知るからこそ、目の当たりにした層は口出しせぬ…」
君を連れて来いと命じた御上達以外は、黙っているしか無いだろう。
「似合っている」
傍の君にそう伝えれば、少し眉根を顰めた。
「話逸らさないで下さい、雷堂さん」
「そう云うな、我にしては吟味した纏い物だぞ?」
君に似合うだろうか。
持ち出す管を選定する時よりも、考えた気がする。
「すっごい丈をはしょったのが、俺を微妙な気分にさせてるんですが…」
「ふ、我より高くあっては少々可愛げに欠ける…それで良い」
「俺、男なんですけど…」
アカラナから帰り、血汚れも落とした君は、人に擬態した…
どう見ても、健やかなる青少年。
「君は藍色が似合う」
そう云うと、一瞬眼を見開いた。
何かと思い、その左眼を見つめる。
すると、少し俯いてぼそりと零す。
「それ、ライドウにも云われたんで…」
「そう、か」
「あの男、滅多に褒めないから…雷堂さんにも云われたし、信憑性有りますね」
本当の感情を“信憑性”という結論で片して、君は笑う。
「ああ、似合っている…本当に」
今すぐ、その着物の衿を掴んで
先刻、綺麗に形を作ったばかりの帯を解いて
君の肌を包む藍色をはだけてやりたくなった。
彼も認めるその色に包まれて笑う君を、赦せなかった。
「でも、冬に藍色は少し肌寒いですね」
「…濃い色目だ、そう外れてもいないだろう」
「雪の中でアルラウネとか召喚されていると、こっちが風邪ひきそうで」
「蝉の鳴く暑い日差しの下に、甲冑の天使を召喚する我は非道か?」
「ひどっ」
「ふ、我も日差しの下外套だ…相子にしてくれ」
視線を泳がせていた君は、段々と口元が綻んできた。
会話の端に、時折雑じる懐かしそうな間が痛くて
我もついぞ無い位に口を働かせる。
「…で、俺はムドって魔法を知らなくって…」
「呪殺を?それは怖ろしいな」
「おかげで何度か逝きかけて…」
「破魔も効くのだろう?」
「そ、そうですよ!仲魔の天使にしっかり云い聞かせておいて下さい」
「管の先端の環って、指入れると危険じゃないですか?」
「何故だ?」
「昔、母親が指輪試着したら、指抜けなくなって〜…」
「…ふ、それは慌てるな」
「ダツエバみたいな指ならそんな心配無さそうですよね」
「指輪をする必要は有るのか?」
「う…」
「学校に…通っていた頃のあくる日…机の中に恋文が有った」
「えっ!?」
「何だ…その意外そうな表情は」
「い、いいえぇ…」
「しかし、場所と刻限の指定…匿名……我は完全武装で向かった」
「え?」
「果たし状かと思った」
「…くっ、ぁはは……何ですそれ」
途切れぬ言葉の海。
外部に出て、渡し廊下に差し掛かる。
ひんやりとした白が左右に広がる。
ちら、と人修羅の足下を見て促した。
「雪に濡れている…滑らぬように」
「あ!」
云った瞬間に、渡り廊下に踏み出した君が視界から消えた。
咄嗟にその身体を受け止めようと、腕を伸ばした。
「な、っ」
が、その腕はかすめて落ち往く。
我の足袋裏で、踏み躙られた雪が嗤った。
「…」
「す、すいませんっ!俺の所為でっ」
情けなく突っ伏して、視線を学帽の下から通す我。
肝心の人修羅は、傍の欄干に腕を伸ばし、引っ掛けた指先で留まっていた。
「…あの、雷堂さん」
「君が…無事ならそれで良い」
「…その格好で、云うの止めて下さい…説得力が」
ゆるりと立ち上がった我を見て、手の甲で唇を拭う君。
可笑しそうに微笑む。
雪の中で、透明度を増した空気から鋭敏に伝わる君が…
本当に、嬉しかった。
まるで、普通の…人の子の様に、我も君も。
君と居る瞬間を手に入れる事が、出来たなど…この上無く…
互いの、右の眼を覆う純白の綿糸が、胸を酷く熱く、不安にさせる以外は。
「君が困らぬよう、話を通してくる」
「…」
「他にも不安事が有るのだろう?気に病むな…」
俺の頬を指の腹ですうっと撫ぜて、片眼で俺の片眼を見つめる雷堂さん。
「君が望むならば…あのライドウとも、再び刃、交えよう」
俺の望み?
俺が雷堂さんに…ついて来たのは…そういえば、真の理由は?
こうして、一緒に歩いて、他愛も無い会話をして、微笑みあう為?
いいや…違う、もっと…もっと…
「君が魔の道から抜け出せぬなら…それも打破…してやりたい」
その言葉に、鼓動が早くなる。
自身の立ち位置より、俺の往き先を優先させるこの人が…
俺は酷く、嬉しかった。
拾い上げてくれて、今はただ、その手に縋る喜びに…
「では、しばし待たれよ…」
「ん、う…っ」
震えていた。
『別れの際に接吻か、どれだけ乱酔しておるか貴様等』
声に、ハッと見れば、欄干の上を軽やかに黒い影が渡り来る。
その翡翠の眼が、俺を刺し殺す勢いだ。
「俺は、別に求めていませんでしたけど」
『なら払い除ければ良かったろうが?え?…人修羅』
薄く雪を纏った黒猫は、逆立てた毛並みをぶわりとうねらせた。
俺は、少し脚を開いて立つ。
飛び掛られそうな気配すらしたから。
「でも、俺が云う事か微妙ですが云わせて下さい」
『何だ、下らぬ戯言なら捨て置くぞ』
「雷堂さん、俺が居ても普通じゃないですか」
『…』
「さっきだって、あんなに…」
『フ、そう見えるか…?』
俺は、その黒猫の嗤いにぞくりとした。
何か、間違っているのか?
雪の所為では無い寒気が、指先からしんと昇り詰める。
『雷堂はな…貴様が居らぬ時、それはそれは酷いものだったぞ…』
黒が、俺の眼の前まで、ぱきぱきと歩み寄る映像が網膜に焼きつく。
何かの宣告みたいに。
『時を選ばず任務に赴き…その帰りには外套が重くなる程に血を吸ってくる』
「…」
『貴様の名を熱病に浮かされるように囁いては、眼を押さえる』
「…」
『あの眼が、貴様と通じるものと妄信して、叫び続けていたぞ…』
「俺は、聞こえなかった、です」
『眼が熱いと、疼くと云っては悪魔を狩り続ける日々…』
「ぐ…っ」
『俺からも、貴様を此処に置くよう…上に推させてもらった…人修羅』
業斗が、ヒゲを揺らして笑う。
その異様な発言に、俺は思わず後ずさった。
背後の大扉が、背に触れる。
『俺が考えも無しに…貴様をアレの傍に留めると思ったか?』
「なん…です」
『貴様は、雷堂の傍に居て…アレを制御してくれれば良い…』
制御?
『いうなれば…傀儡の黒子をしろ、という事だ』
「なんです…それ…」
『ハッキリ云ってやろう、人修羅よ』
傀儡?黒子?
何を云っているんだ…
俺達は…
『今、貴様が消えれば雷堂は真に狂うだろう…』
「俺達は…」
『貴様がその扉を開けてしまったのだ…情に埋もれる程狂える奴の宿命に!』
「俺達は人間だ!!」
『なれば!奴を捨て置いて帰るが良い…』
冷たい声が、俺の頬の温もりを掃い去る。
『雷堂が狂い死ぬか、貴様を道連れに舞い戻るだろうよ…』
聞き終わると同時に、扉に背が埋もれた。
がくん、と脚が折れて、引き込まれていく。
「す、すまぬ…まさか寄りかかっているとは思わなんだ」
少し慌てた風で、俺の肩を背後から支えた…雷堂。
その手の温かさが、俺の心臓を締め付ける様だった。
「雷堂さん…」
「話が…思った以上に軽く通った…よく解らぬ、彼奴等…」
「あの、眼…」
「身体が冷えているな…待たせてすまなかった」
後ろで扉の閉まる音が響いた。
「業斗…居たのか」
『何が居たのか、だ……ハッ、腑抜けるのも大概にしろ』
「…暗いな」
『何がだ』
「空が…暗くは無いか?」
『片眼の眼帯で陰っているだけではないのか?…さっさと任務に戻れ』
雷堂の声を無視して、業斗童子は尾を立てて欄干に飛び乗った。
少し振り返り…明らかに、俺を見て云った。
『開けた扉は、閉めろよ』
その台詞に、俺は身体からざわざわと…さっきの宣告を思い出す。
「今閉めたぞ、業斗!……全く、どうしたのだ、あの方は」
背後の扉と勘違いする雷堂を傍に、俺は着物の裾を握り締めていた。
「…矢代君?どうした…寒いか?」
こんな、普通なのに…前よりも、落ち着いている様に感じるのに…
「これから鳴海探偵社に向かうが…共に来てくれまいか?」
その言葉に、俺は遅れて返事する。
こくり、と頷いた俺に、柔らかく微笑むこの笑顔さえも…
脆いのか?
「しかし、本当に暗い」
外套を捌いて、白く化粧した靴先で歩む雷堂。
俺は、羽織らされた厚味の外套の中で、腕を抱いていた。
あの寒気が、拭いきれなかったから。
「曇っているとか…?」
「いや、この時間では曇っているにせよ…」
妙に空を気にする雷堂に、足下の業斗が鳴く。
『足下を注意して歩け』
「日蝕だろうか…」
ぼそりと呟く雷堂に、俺は白い息を吐いて問う。
「やっぱり、縁起悪いんですか?祟りとかって云って…」
そう云った俺に、雷堂はクスリと笑う。
「矢代君は未来人なので、我々の知識の程は知れぬと承知しているが…」
「あ、いえそんなつもりじゃ」
「陰陽寮には天文道が在ってだな…其処の天文博士なる官職が…」
「わああ、すいません!要するに日蝕が怪奇現象とは思ってないんですね」
「…ふ、虐めてしまった、すまない」
俺の知識の浅さを逆に露呈して、妙な気恥ずかしさに俯く。
『ちっ、俺の教育の賜物を誇らしげに語るで無いわ』
業斗が唸る。
それに雷堂は軽く会釈して「それもそうだ」と前を向いた。
追従する俺に、続きを云う。
「だが…日蝕も月蝕も…起こる際に何かは在る、だろうがな」
「何か?」
「神の対立…とかな」
雷堂の横顔に、一瞬暗い何かが奔る。
俺に、微妙に問い掛ける様に云ったその言葉。
(太陽と月…)
脳裏に、甦る光景。
あっちのヤタガラスの里から、雷堂と出た際に…
ライドウの外套の、ポケットに入れていた何か…
何を入れたのか、小さな声で聞いた俺に…雷堂は答えた
銀の月を…と
「依頼が混むやもな…暗さに奇怪事が多発する…可能性が有る」
(雷堂さんは太陽みたいだ…)
『そうだな、異界と繋がり易いと聞いておる…心掛けよ』
(ライドウは…月)
「矢代君?」
「あっ、はい!」
「どうした…此処に来てから、少し抜け落ちていまいか?」
それを云ったら雷堂だってそうなのでは?と思ったが
実際、今の俺は考え事に思考を奪われていた。
と、雷堂の足下からさく、と音が響く。
気付かず進む雷堂に、俺はそれを拾い上げて駆け寄った。
「雷堂さん!管がひとつ落ちましたけど」
慣れない雪下駄につまづきそうになりながら、雪を鳴らして駆ける。
振り返った雷堂は、少し驚き胸元を探っている。
その俺を見る、正確には俺の指先を見る視線が鋭くなった。
「すまぬ」
そう一言、云うなり取り上げて、外套の下に即座に突っ込んだ。
「え…っ」
「あまり使わぬ管故…ホルスターから抜けた事すら気付かなんだ」
「はあ」
「往こう」
その、少し張り詰めた空気に…俺は悪い事をした気分になった。
どうしたんだ…今の、雷堂。
見慣れた銀楼閣も雪化粧していた。
そういえば、こっちの鳴海所長はどんな人だろう、と思い見渡す。
からり、からりと雪下駄の音の大きさに耳を奪われながら
俺は良く見知った場所との相違点を、無意識に探していた。
「雷堂じゃないか」
階段を上がる俺達の下から、声が追いかけてきた。
「鳴海所長、長く空けた…すまなかった」
雷堂の返答に、俺はしっかりとその声の主を見た。
外見は同じ…鳴海が其処に居た。
「階段で立ち話もアレだろ、事務所に入ろう、ほら」
ちらちらと俺を確認する視線…がちくちくした。
促されるまま、事務所に入ると…なんだか、ライドウの方よりも…
「お前、最近ゴタゴタしてたんだって?」
「ああ」
「その眼、任務に支障無いのか?」
「無い」
「その子が人修羅って…悪魔?」
「そうだ、正確には半分悪魔…半分は人だ」
淡々とした応酬に、妙なものを感じながら俺は軽く挨拶した。
「普通の子だな」
「力を持っただけで、感覚は至って普通だ」
「お前より強いの?」
「我より…強い」
「へえ」
俺に珈琲を出して、鳴海は少し笑った。
「こいつは仏頂面してるけど、仲良くしてやってね」
「は、はあ…あ、珈琲有り難うございます」
「依頼人以外の客人なんて久々だからね〜…どうぞごゆっくり」
掌をふらふらと振って、コートを掴んだ鳴海。
雷堂に向かって、顔も合わさずにサラリと告げる。
「急がない依頼は机の中だから…また目を通しておいてくれ」
「了解した」
「事務所の掃除、テキトーに宜しく」
「了解した」
「今日…日蝕らしいな…いつでも出れる様にしといたらどうかな?」
「元よりそのつもりだ」
「そりゃ感心…んじゃ、俺は新世界でまた拾ってくるか…」
腕を通して、前を整えた鳴海は、帽子をかぶって扉を開けた。
少し冷たい空気が一瞬吹き抜けて、止んだ。
あまりに寒くて、珈琲の湯気に誘惑された俺は啜って聞いた。
「あの…仲、悪いですか?」
俺は聞いておきながら、あまりに単刀直入だったかと少し悔やんだ。
そんな俺を見て、傍に座る雷堂が…とんでもない事を述べた。
「あの人は我を憎んでいる、仕方あるまい」
その答えに、ぎょっとして珈琲を嚥下した。
黒猫の尾が、椅子の端から見え隠れしていた。
そのまま続けられた言葉…
「所長の好き人を殺したのは、我だからな」
………何だ、それは…
「どういう…」
俺の疑惑に開いた口は、そのまま開きっ放しになった。
窓を眺めていた雷堂も、立ち上がった。
ランプも点いていない部屋は、一気に暗闇に包まれた。
窓からの光りが一気に消えた。
『まさか蝕甚だと?』
業斗が鳴き、机に乗り上げて窓を睨む。
「…来た!!」
弾かれた様に叫んだ雷堂が、窓に駆け寄りそれを開け放つ。
その腕の隙間から見えたのは…夜みたいな暗闇。
でも、月すら輝かない、闇だった。
俺の中で、少し魔力が…血が疼いた。
あの、堕天使の城が在る世界の闇に…似ていた。
「蝕甚では話は別だ…往くぞ」
皮靴に履き替え、外套を肩に薙ぎ、管に指を掛けた雷堂。
立て掛けてあった大太刀を空いた手に担いだ。
「雷堂さんっ!」
立ち上がり駆け寄る俺に、待っていろと眼で制する彼。
全開された窓から、召喚したカマエルに負ぶさる様にして飛び降りていく。
『お出ましだぞ…』
窓枠に飛び乗った業斗が、下界を臨んで呟く。
『太陽の光すら届かぬこの状態…異界と繋がり易い此処なら、当然か』
「あの、蠢いてるの…悪魔ですか」
『そうだ、ああいうのを始末するのも葛葉雷堂の勤めだからな』
そして、俺を見て嗤う翡翠色。
『雷堂の傍に今後居るのなら…仕事くらい手伝ってみてはどうだ?貴様』
その、俺を裁定するかの様な視線に、眼が熱くなった。
部屋の入り口に置いたままの雪下駄を無視して、窓枠に爪先を引っ掛ける。
「元より、そのつもりです」
『それは感心な事だ』
何処かで聞いたやり取りにデジャヴを感じながら、魔力を解放する。
俺は窓から降りた。
裸足の裏に、チェルノボグの笠を踏みつけて滑空する。
倒れこんだそれに、逆さになったまま宙から焔を叩き付ける。
いきなりの顛末に、しわがれた悲鳴を上げて絶命するその悪魔。
暗い街では、影が蠢いているだけにしか見えない。
だが…蠢くのは、悪魔なのだ…
「雷堂さん、何処…っ」
走り抜ける傍から、殴り倒し蹴り倒し、俺の帯は既にだらしなく撓んでいた。
駆け抜ける街路は、人掃けされている。
流石にヤタガラスが誘導したのか、と思っていると
遠くの通りに雷堂の姿が見えた。
この暗闇に、蛍みたくマグネタイトを光らせていた。
一気に駆け寄ろうと、歩幅を大きく踏み込み始める。
「雷堂さん!!」
こっちに振り向く雷堂。
その視線が、が俺の下へと降りていった。
いや、俺の視界が上がっている。
「!!」
白い地面が隆起してくる。
俺の足場は、大きな人骨。
ガシャドクロの背に、俺は居た。
「矢代君…!」
その場の相手はカマエルに任せ、彼がこちらに猛進して来る。
襲い掛かる悪魔の群れが、高い位置からよく見えた。
それを蹴散らして、大太刀で湿った音を奏で続ける雷堂の…
羅刹の如き気配に、痛いほど、右眼が疼く…!
大太刀をガシャドクロの手骨に叩き付ける雷堂。
軋む音と、傾きに地滑りする音が重なる轟音。
振り上げられたガシャドクロの腕骨が、大きな揺れを生む。
「させるか…っ」
羽織りをガシャドクロの、見えているか謎な虚に覆い被せる。
綺麗な織の羽織に視界を奪われたその悪魔は、振り上げた腕骨をあらぬ方向へと着き降ろした。
商店の看板がぐわんぐわんと音を立てて、崩落した。
その隙に、その頭蓋から飛び降りた俺。
地に居る雷堂と視線が絡む。
片方だけの俺達の眼が、共鳴したかの様に、通じ合った。
俺は焔を、雷堂の方へと放つ。
指先を離れた赤い螺旋は、彼の大太刀に絡みつく。
マグネタイトで繋がれる訳でも無いそれが、雷堂から滲み出る気を強めた。
「去ね…!!」
下から大きく斬り上げた大太刀は、ガシャドクロの骨を焼く焔を纏う。
一刀に両断された巨大な体躯の悪魔は、左右に割れて朽ちゆく。
街路の両端の商店に、人の何倍だろうか、という巨大な骨が刺さり落ちた。
少し息を乱した雷堂に、俺は近寄る。
「雷堂さん…」
「何故来た」
背を向けたまま、唸る雷堂。
「…」
「君には、悪魔の姿で居る機会を与えまいと…思っていたのに…」
「で、ですけどっ」
振り返った雷堂の、その顔に…一瞬息を呑んだ。
(この短時間で、どれだけ殺したんだろうか)
酷い、返り血。
その、血と体液の脂が雑じった液体達に…ぐっしょりと濡れそぼつ。
気のせいでは無い…その、眼帯の綿糸の下から感じる…凶暴な光。
魔力の共鳴は…この、衝動のせい…?
「綺麗なものでは無いのだ…見ろ、こんな…汚してしまって…!」
云って、怒った様に俺の頬を指で拭う雷堂。
だが、その表情も口調も苛立ちを募らせていく。
「くそ、どうして綺麗にならぬ…!?」
そんな事も、解らないのだろうか?何度も何度も拭う…彼。
(貴方の指が、あまりに血に濡れてしまっている)
云えなかった、怖くて。
『雷堂様!』
カマエルの声に、ハッとして互いにその方向を捉えた。
あの、そう弱い筈も無い天使が、弱った口調だったからだ。
「どうした…」
即座に印を結び、召し寄せる雷堂。
雪がざり、と音を立てて、そこに光が溢れた。
『雷堂様!申し訳有りません…あの悪魔共、攻撃しても無駄でして』
現れた天使は、すぐに報告をした。
それを聞く雷堂は、唇を引き結んでいる。
『雷堂、分かっているだろうが…さっさとカマエルは戻せ』
さくさくさく…と、ガシャドクロの骨の雑木林を掻い潜って来る…業斗。
云われたままに、カマエルに管を突きつける雷堂。
『御衣』
カマエルは聞き分け良く、その管に戻って入った。
いぶかしむ俺の視線の先…雷堂が外套から、新しく管を取り出す。
「あ」
あの、落とした管だ、何となく…そんな気がした。
それを、物も云わずに振り翳す雷堂。
溢れる光に、羽は舞わない。
その、意外な影に…俺は声を上げてしまった。
「餓鬼!?」
あまり強いとは思えないその悪魔…何より、天使ですら無い。
その餓鬼は、まるで待ち侘びていたかの様に対面する悪魔達に向かう。
あれが、一体何なのか…を聞こうとした矢先。
餓鬼は、悪魔に噛み付いた。
その悪魔は、まるで人間みたいな悲鳴を上げて倒れこむ。
「う…っ」
ぐっちゃぐっちゃ
湿った咀嚼音。骨を噛み砕く音。
「見ない方が…良い」
えづく俺に、雷堂は外套を広げて眼前を覆った。
血の臭いがキツイその黒い暗幕の向こう、繰り広げられるスプラッタ。
「人間に取入った悪魔の中に…稀に耐性を多く持つのが居る」
「元は…人間…って事ですか…?」
雷堂が、俯く俺の耳元で囁く様に語る。
「厄介なのが…幾度も再生する輩だ…」
『刃も弾も魔法も意味を成さぬ』
「一瞬で灰燼に出来れば…と思うが、少しでも残った心臓を軸に再生する」
『だが…あの餓鬼はそれが出来る』
雷堂と業斗の説明に、俺は吐き気を抑えて聞く。
「喰わせれば…胎の中で無に帰す、って事ですか?」
『その通り……フン、そこまで馬鹿でも無い様だな』
俺をせせら嗤う業斗。
一方の雷堂は、何処か遠くを見ていた。
と、その表情が変わる。
俺を向こうと遮断していた暗幕は翻り、雷堂は餓鬼に向かって駆け出していた。
『雷堂!?』
業斗に続いて俺も走った。
管を振り翳して、餓鬼を戻す雷堂。
まだ喰い残されているのが、一体居るのに。
『何をしておる!!数も数えられぬか!?まだ残っているぞ!!』
糾弾する業斗。その残った悪魔を見る。
…何処かで…見た…姿。
「小父様!!」
叫ぶ雷堂が、その悪魔に丸腰で掴みかかる。
その呼ぶ声に、あの優しげな表情を思い出した。
(雷堂さんの…養父…!!)
まさか、丁度この辺りをうろついていたのか…
「小父様!!俺です!!分かりませぬか!?明に御座います!!」
その、元小父である悪魔の肩をぎゅうぎゅうと掴み揺さぶる雷堂。
今まで悪魔を殺戮していた…あの覇気は消えていた。
『ア…アアァ…アキ…アキィ…』
僅かに、名を呼ぶ様にも聞こえる呻きが、雷堂の心を鷲掴みにしている。
それは見ていれば、明らかな程…雷堂は動揺していた。
『屠れ雷堂!何をしておるか貴様!』
「名を呼んでいる!!俺の名を!!」
舌打ちした業斗は、雷堂の背後まで寄り恫喝する。
『呻く言葉は、記憶に強く焼きつく言葉だ!ただそれだけだ!』
「明は名だ!単語では無い!」
『以前鳴海の女を殺った時も同じだったろうが!!』
(え…っ)
『あの時、お前を相手にしても鳴海の名を呻いていた…そういう事だ!まだ分からぬのか!?ソレはお前を既に認識してはおらぬわ!!』
鳴海の…大事な人を、餓鬼に喰わせたの、だろうか。
――所長の好き人を殺したのは、我だからな
だから…だから…あんな、辛そうな、苦しそうな表情で
あの管を受け取ったのか?雷堂さん。
今まで、沢山…喰わせて来た、業の重みに…あの管は落ちたのか?
「喰わせるのかっ!?この人を!?餓鬼に!?」
『今までの被害者と区別するのか十四代目!』
「俺は…我は…っ…」
雷堂の肩に噛み付く悪魔。
それを掃いもしない雷堂。
噴出す鮮血は、右眼に掛かる綿糸の眼帯をドス黒く染め上げる。
『喰わせなければ!永劫その悪魔が苦しむだけだぞ!?』
「小父様…っ」
『恩人なら、屠ってやれ!そのままでは人間を喰らうぞ!』
「俺が継ぎに舞い戻りますからっ!後生です!どうか正気にっ」
あんな…剥がれ落ちた肉体では、正気なんてものは…
きっと、理解している、彼は。
でも…認めたく無いんだ…
今まで殺してきた意味すら危うくする叫びに、崩壊しそうなんだ…
眼が、痛い。
俺の出来始めているだろう右眼が…熱く鳴く。
出る筈の無い涙が、雷堂の代わりに…流れそうな熱さだった。
『クソっ』
逆立てた気を放った、業斗。
だが、組み合っている悪魔の脚が削げても…じゅくりじゅくりと、戻る。
(ああ、本当に…云っていた通り、だ)
それに最早希望は無いと、俺は震えた。
暗い、太陽が喰われた様に…雷堂が、このままでは…喰われる。
『餓鬼を使え!雷堂よ!!』
「あ、あああうあああああっ」
叫ぶ雷堂は、組み合ったまま、転がり落ちた餓鬼の管を蹴飛ばした。
それが、俺の裸足にコツンと当たり転げた。
「餓鬼に喰わせるなぞ…赦せぬ…赦せるものかあああっ」
このままだと…雷堂さんが喰われてしまう…
その、組み合う雷堂に、俺は歩み寄った。
裸足の裏は、雪に冷え切っていたが…そんな事はどうでも良くなる。
悪魔の肩越しに、俺と雷堂さんの視線が絡まった。
それが解けなくなるその前に、すい、と逸らす。
「雷堂さん、小父さん…優しかった、ですよね」
俺の声も、震えている。
「矢代…君…ッ…!?」
俺の名前を呼んだ、その瞬間に…俺は彼等の間に割り入る。
強く打ち据えた、雷堂の胸が、離れゆく。
ちらりと見えたその驚愕の顔に、引き摺られない為に…俺は悪魔に集中する
その肩を、さっきの雷堂さんみたく、抱き寄せた。
「貴方を殺せない雷堂さんを赦してやって下さい」
その、喉笛に噛み付く。
表皮を、肉を引き裂く。
迸る血は、人のそれより苦く熱い。
腐り落ちる肉塊は、俺の舌を刺す様に焦がす。
雷堂の声がする、でも聞かない。
歯に咥え千切った肉から、味を認識する前に喉奥へ。
こんな程度では心臓まで追いつかない。
もっと、もっと骨まで!
太い血管を音を立てて噛み千切れ!
嚥下しろ!
俺の中で全て消えるのだから、餓鬼と条件は一緒だろ。
だから喰え!餓鬼の代わりに喰うんだ!!
咬め食いちぎれ嚥下しろ啜れ飲み下せ骨をへし折れ咀嚼しろ
吐くな吐くな吐くな吐くな吐くな吐くな吐くな吐くな吐くな
「う、ぐうううううっ!!!!」
吐くな!!絶対に…絶対に!!
胸元、ようやく心臓まできたんだから
この吐き気も、コレさえ喰らえば…!
「は、あっ…あ…む…ぐッ」
ぐちゃぐちゃと、酷い音に、業斗の息を呑む音がかすかに混じった。
俺は、脈をゆっくりと奏でるその…小さな命を…
頬張って、踊り喰いした。
悪魔そのものみたく。
掌で、口を覆う。
マグマが逆流しそうな、酷い熱さ。
内部が焼け爛れていく感覚。
跪いてガクガクと震える俺の背後に…気配がした。
俺が振り返る前に、肩を掴まれ向き直された。
視界に入るより早く、掌を外された。
「ぁ…ん、んう…っ!!」
逆流し始めたら、止め処なく溢れそうな肉を
雷堂が、俺の唇に噛み付いて塞ぐ。
未だかつて無い程の…苦しくて、苦くて、死にそうな位に陰鬱な接吻。
焦げる悪魔の肉は、雷堂の舌を穿つだろう…爛れさせるだろう…
押し退けようとする俺を、きつく抱き締めた雷堂。
俺の喉が、嚥下に蠢いた。
頬に、冷たい何かが濡れた。血では無い。
雷堂は、俺の唇の封を解放した。
「は〜っ…は〜っ……」
胎の膨れた俺は、雷堂に抱き締められたまま…
だらしなく垂らした涎濡れの唇で紡いだ。
「雷堂さんの小父さんの棺は…俺です」
無言で、ただ泣いて抱き締めてくる雷堂は…
子供の様に、震えていた。
暗い…暗い空の太陽は…
月の影で、泣いて怯えていた。
蝕甚・了
* あとがき*
【蝕甚】-しょくじん-
日食または月食で、太陽または月が最も欠けた状態。また、その時刻。
…食人とかけております。
雷堂は、ギリギリのラインで保っています。
人修羅と今離れたら、終わりだと思います。
あの潔癖な人修羅が…というのが、重要です。
前半のじゃれ合いは、後半への突き落としの為の…甘い前座。