※徒花ライドウENDを読了している事をお奨め致します。
 SS「啼き始め」も、読んでおくと懐かしくなれます。


常夜の社



額を汗が伝う。
でも、追い抜かれる訳にはいきません。
「凪君、だから先刻云ったろう?」
ざくざく、と地に落ちた枝や葉を踏み締める音。
軽快なそれは、いとも容易く私の傍まで近付いて…
「風の道は逃げぬ、暗い葉陰も場所を変えぬ」
発された湿って凛とした声音に、ややムッとして振り返ります。
「此処は私のテリトリーです、好きにさせて下さい!」
「へぇ、毎度こんなになるまで急ぎ足なのかい?」
その、闇の色に見つめられ、まるで呪縛に罹ったかの様に動けず。
傍らのハイピクシーがきゃあきゃあと吠えるのも、視界の端にちらつく程度。
私の、額の汗を、その綺麗な指ですう…と拭うこの方。
「今はゲイリン殿に甘えておけば良い…急いては事をし損じる」
上からの威圧、でも、その哂いに隙は無く。
「ヤタガラスの為でなく、師の為でなく、自分の為に憚り給えよ?ククッ」
天斗樹林のさざめきを、颯爽と抜ける黒い外套。
つい先刻まで、私が前を歩いていたのに…
既に、十四代目の方が此処を理解したというのでしょうか。
迷いなき足取り、青々とした葉を、ヒールが踏み抜く後姿は酷く華麗で。
「ま、待って下さい!十四代目ライドウ!」
はっ、として駆け出せば、ブーツの爪先を木の根に引かれました。
あ、と迫る青色の絨毯。ああ、きっと顔面からいきますね。
しかし、それは訪れませんでした。
「大丈夫かい?十八代目ゲイリン?」
肩を支えられ、視界には艶やかな黒。
その助け舟が、あの頃の私には癪で、悔しくて。
「まだ襲名してないです!意地の悪いヘルプですねっ」
「元気だね、君は」
「さ、さては私を緩ませるセオリーですね!?」
いけません!気を引き締めなくては!
と、その腕を押し返し…向こうへと躍り出ます。
背後から…かけられた声。
「生き急ぐでないよ?焦れば彷徨う、もがけば視えぬ」
哂い声、ヤタガラスの、何かを知っている四天王の一人。
「世は樹海と同じなのだから、凪君」
蘇る記憶が。



『凪!』
「え…」
『どーしたよ急に…何、今更ココで迷っちゃったりとか?』
ハイピクシーの鈴の声に、脳内が目覚めました。
薄く雪化粧した樹林の背景が、彼女の姿を鮮明に浮かせます。
「御免なさい、少し思い出してぼうっとしてました」
『大丈夫ぅ?疲れ溜まってんじゃないの?年末くらいゆっくりすれば?』
「いいえ、私が引き受けたのですから」
『んもー…違うでしょ!?』
ニンマリとえくぼを作ったハイピクシーが、私の肩にとまります。
紅茶染めのケープマントが、その軽い圧で揺れました。
『年越しはぁ〜…愛しのあの御方と』
「な、何」
『きっしし、帝都の応援入ると喜んで喰い付くクセに』
「ちょっとハイピクシー!違います!勘違いのセオリーです!」
ざくざく、と白い絨毯を踏むのは、草履ではなく…やはりブーツです。
折角の着物ですが、あまりに動けないのも問題ですから。
からからと笑い転げて宙に遊ぶハイピクシーも、普段よりめかし込んだ振袖です。
私だけでは申し訳ありません、共に出るなら、共に飾りたいのです。
『オベロン様の出してきた着物?アレほんと無いよねー!』
「寒そうでしたね」
『超絶ミニっての?あの助平ぇ』
「ふふっ、ちょっと…失礼ですよハイピクシー」
『ティターニア様の張ぁりぃ手でっ赤い華咲ぁいた〜♪』
いつもと同じこの樹林、私の護る悪魔達、槻賀多村の皆さん…
折角なのだから拝借しなせえ、と、屋敷の方に着せて頂いた茜さんの振袖。
帝都のモガに負けぬようにね、と、ティターニアに施して頂いたお化粧。
素敵な護るべきものたちに囲まれて、送り出されるのです。
「では、行って参りますね」
電車の中から、鬱蒼と茂る里を見下ろして挨拶をしました。



「こんな暮れに着飾って、お嬢さんこの後初詣かい?」
白い街路、アンティークショップのショウウインドウを眺め見ていれば、どちら様でしょうか。
「ええ、この後向かう所があるセオリーです」
「ひとりなら一緒しないかいな」
まさかの軟派でしょうか。
『げげえ、年末になって躍起になってんのコイツ、彼女居ない歴更新したくないんだわきっと』
私の肩から、声をかけてきた男性にきいきいと喚くハイピクシー。
乗り出したその身、着物が少し崩れてしまってます。
「こら、そんな暴れると着崩れしますよ」
私の突然の台詞に、ぎょっとした男性。
ヘンプ地のミドル丈コートに…厚地のニッカーボッカーズが粋ですが、やや粗雑な印象です。
「おおいお嬢さん、大丈夫かい?何か良くないモンでも視えてんのか?」
『きいいいこの男!アタシが良くないモンだってーの!?』
「ちょっと、ハイピクシー!」
いよいよその袖を振り乱し、飛び掛らんとした肩の妖精。
小さく叫んだ私の、彼女を抑えようとした手袋の指が…
すい、と横から取られます。
「行きましょう」
透き通った、でも主張しない声音。
しっかり顔を確認しない内に、私はその主に攫われて往きます。
「ちぇ、しっかりお相手いんじゃねえかいな」
ポケットに手を突っ込んで文句を垂れた男性は、アンティークショップの前から離れました。
視界から遠くなるその店の扉に少し当たったのか、微かにベルの音。
リリン、と響いたその音は、誰かの来訪を思わせて。
「…出てくる訳無いでしょう、凪さん」
私の心を探ったかのようなタイミング。
軽く握られた手の先から、やんわりと離れていった綺麗な手。
今は斑紋も通っていない、擬態の手。
「あいつ、死んだじゃないですか」
久々に会って、交わした挨拶の寂しさに、心が凍ります。
「お…お久しぶりです、功刀さん」
「晴海、ぶらつかない方が良いですよ、暗くなると少し物騒だから」
傍でニヤニヤしているハイピクシーが、耳をくすぐりました。
『邪魔者はお暇しまぁっす』
勝手に管へと帰った彼女に、小さく叱咤しました。
が、すぐに功刀さんへと視線を戻します。
「あの、何故此処を通ったのでしょうか」
「凪さんが来るって事で、食材の買出しに…」
「ああ…!この辺に製菓材料の豊富なショップがそういえば!」
「それに、正月って事で来客用に色々作っておかないと」
「ふふっ、功刀さん、すっかり鳴海探偵社の一員ですね!」
「…なりゆきです」
小さくため息して、買い物籠を持ち直す功刀さん。
ふと、私の姿をその眼に映したのか…薄く微笑みました。
「似合ってます」
ああ、ハイピクシーが居なくて、少し助かりました。
彼女と同じく、私にもえくぼが出来ていた事でしょうから。



「いやー凪ちょわぁん、綺麗ね可愛いねあけましておめでとぉ〜!」
「ちょっと鳴海さん!もう横になった方が…おまけにまだ明けてないわよ?」
「まだいける!」
「なぁにがいける!よ、ハラスメントな発言しない内に寝ちゃった方が身の為よ」
べろんべろんになった鳴海所長、くすくすと笑って向かいに微笑むタヱさん。
可笑しくて、私も口元に手を当ててしまいます。
「これじゃこの人、初日の出は拝めないわねえ?」
「そうですね、ふふっ」
タヱさんは着物ではありませんが、いつもより良い意味で楽そうな格好です。
きっと仕事納めは済んでいるのでしょう。
温かなストーブが、ぱちぱちと声を弾ませます。
「ねーねー凪ちゃん、アリスもお着物着たいよぉ…」
ソファで甘酒をちびちび呑んでいたアリスさん、私の袖をくいくいと引きます。
可憐な童女の仕草に、少しときめいてしまいました。
「そうですね、では次のお正月までに…私の給与でプレゼントさせて下さい」
「ほんと!?」
「ええ。でも、今お召しになっているコートも、可愛いですよ?」
白いふわふわのコート。揺れるファー襟も愛らしいそれ。
甘酒のせいでしょうか、薔薇色の頬でアリスさんは微笑みます。
「でしょ?夜兄様に買ってもらったの!」
その返答に一瞬、空気が張り詰めました。
でも、タヱさんだけは珈琲を続けて啜っています。カップから離れた口が云います。
「そういえば、ライドウ君最近はどうなのかしら」
知らないからです。
「ん〜…あいつの事だから、何も問題なくやってるっしょ〜…」
羽織りを手にした鳴海所長が、へべれけな声音で答えました、が…
きっと、覚醒したのでしょう、先輩の名前に。
「じゃ、鳴海サンはもう就寝しますのでね〜ご婦人方もそろそろお開きにしときなさい」
「つれないわね!もう…」
ぐいっ、と珈琲を最後の一口まであおったタヱさんが、バッグを手にします。
「じゃあね、凪ちゃんにアリスちゃん!来年も葵鳥さんの記事をヨロシク〜」
「ゴシップに期待してる!」
「アリスちゃんも、また英吉利のお話聞かせて頂戴ね!それじゃ」
ウフッ、と挨拶したアリスさんが、続いて脚を床に下ろします。
「アリスもそろそろ行く〜…お腹いっぱいだし」
それもその筈です、功刀さんの料理を次から次へと…
あんな小さな身体の何処に?という勢いでしたから。
「タヱさん、アリスちゃん、それでは」
私は立ち上がり、会釈します。すると、自分の足袋の薔薇刺繍に眼が行きました。
そういえば、この足袋…



「あんなに急いて歩くから」
「……ぅ」
福禄荘にて、脱いだブーツから出でたのは…妙な箇所が擦り切れた足袋。
指の上が酷く擦れたのか、肌の色も少し赤くなっていました。
「あ、足への修練です」
「…これもサマナーへのプロセスの一環かい?」
「そ、うですっ!」
云い返せば、十四代目葛葉ライドウが哂いました。
「洗いあがったら替えと交換してあげるから、靴に掛けておき給え」
「…で、では、お言葉に甘えるセオリーで」
どこか納得いきませんでした。
何か、見えない引力で統治される感覚です。
私はゲイリンを師としておりましたので、ライドウに世話してもらうのは…
(あんな、哂って葛葉を愉しむ方と、足並みを揃えるだなんて…っ)
沸々と煮えた感情のまま、云われた通りにし…翌日を迎えたのです。
「え…」
ブーツに掛っていた私の白足袋。
綻んでいた箇所に咲いた赤薔薇。
「他の柄が良かったかい?十八代目?」
背後からの声に、振り返るのが恥ずかしい…です。
「…これ、貴方が縫ったのですか」
「粗悪な図柄にしたつもりは無いがね」
何ひとつ、女子めいたものを持ち合わせていなかったあの頃。
まるで花を渡された心地で。
「あ…あの…」
薔薇の刺繍は可憐に力強く、解れを知りません。
「ありがとう、御座いました……“先輩”」
今なら素直に感じます、まるで貴方の様です。
「さ、僕の血が必要なのだろう?往くぞ、凪君」
帯刀し、なびく外套の隙間から光る管。
蘇る、不敵で甘い微笑が。



「凪さんは上で寝て下さい」
「あ、いえ、年明けと共に帰りますから、このまま椅子で」
「…それもそうか…振袖のまま横になって寝るの、不味いですね」
洗い物を済ませ、軽く伸びをした功刀さんが向かいのソファに腰を下ろしました。
「大変ですね、家事に…探偵社のお仕事、手伝われて」
「慣れました、それに何かしてないと、長い時間は気が狂いそうで」
「独りがお暇だから、ですか」
ランプで薄く照らされただけの部屋。薄っすらと光を帯びた貴方の眼。
「…そうですね、口論する相手もいませんから」
「あ、その…」
早いものですね。
前の桜の頃…先輩の訃報が式に乗せ、飛ばされて参りました。
あの瞬間、違う誰かだと思いました。
思い込みたかった、というより、本当にそう思ったのです。
「功刀さん、この凪で良ければ、話し相手にして頂きたいセオリーです」
さらりと纏う着物の裾から、裸足が見えました。
きっと、擬態していても…そんなには寒くないのでしょう。
その露出に、逆に私は頬が熱くなります。不謹慎です、とても。
「凪さんはヤタガラスから命じられているだけでしょう」
「いいえ、私は功刀さんと接してます、人修羅と接している訳では無いです」
ああ、いつも核心を突く。その瞬間に見せる諦観めいた眼の笑み。
それを見ると、心が寂しくなるのです。
「功刀さん…あの、信じて頂けなくても、良いのです」
いいえ、本当は、ただお茶をしたい心があるのに。
「今、こうして普通に日常を過ごせている功刀さんが確認出来れば…凪は嬉しいです」
この、役目を…どこかで歓んでいる自分が居るのに。
「まだヤタガラスに与するんですね」
「はい、先代の遺志と……先輩からの指導のままに」
冷めたカップ、互いに口をつけません。
冷たい呼吸、ストーブもいつか消えて、雪の音すら窓外からしてきそうな…



「何をそんなに嘆くのだい」
冷淡に、いつもと変わらぬ口調で。
「せ、先輩…私の落ち度で、仲魔が死んだのですよ!?」
「君のハイピクシーが勝手に庇ったのだろう?」
修験場の帰路…涙でグダグダの私を哂って見つめてきたライドウ先輩。
先輩のヒールの足跡は、赤くこの場の板を濡らします。悪魔の血で。
そう、先輩に、結局助けられたのです…ハイピクシーの犠牲のみならず。
手伝ってくれ、と持ちかけて…この有様。
「仲魔が君を助けたのだ、サマナーとしてそれは実に悦ばしい事…」
「…先輩は、辛くならないのですか」
「辛い?サマナーと悪魔は主従で結ばれているのだが?凪君」
ニィ、と唇を吊り上げます。
「仲魔が“命を賭してまで生かしたい主人”に成れたのだから、誇らしいだろう」
「身体へのダメェジはありません、が、ですが…っ」
「あの妖精も、望んでした事なのだ、本望ではないのかい?」
「先輩は寂しくないのですか!?もし…もし、親友のような、身内にも等しい仲魔が……!?」
「身内だって?クク…ッ」
ぞぞ、と蠢く蠍足を、先輩は哂いながらに両断しています。
気付けば囲まれていたのです。
そう、まだ修験場の中…私は涙腺も警戒も緩んでいました。
ライドウ先輩の、ひゅっ、と、指先に柄を回して血掃いする姿。
足元には転がるパピルサグ…開いた口が、ぴくぴくと痙攣して、だらりと泡を流します。
うっ、と何かがこみ上げそうになり、私は顔ごと眼を背けました…
「凪君!」
その瞬間、鋭い声が飛び、続いて銃声が。
ハッと振り向けば、私を庇う形で、リボルバーを構えた先輩が…
「ラ、ライドウ先輩…!!」
「案ずるでないよ…無傷だ」
私目掛け発された粘液が、しゅうしゅうと熔解の音を立てていました。
リボルバーをホルスターに戻す動作で、爛れた外套が揺らぎます。
「フン、死に損ないの癖に一矢報いるか」
先輩が、冷ややかに哂って見下ろす屍骸。
頭部の眉間に一発、綺麗に納まった銃弾が、緩やかに体液を抽出しています。
「しかしね、凪君…」
その先輩の冷たい声が、私に矛先を変えました。やや、予感はしていたのですが…
動悸の激しさを、握った拳で紛らわせます。
「はい」
「何故眼を背けた」
「…それは、じっと見つめるものでは無いと、そういうセオリーで」
「それは死へのプロセスだ…黄泉入りする迷信なぞ棄てたらどうだい」
哂っているのに、どこか怒りを…嘲弄を含んだ否定。
「君は仲魔には散々殺させて、それの結果を見ないのか」
「い、いえ」
「殺せと命ずるのはサマナーだろう」
溶けて繊維の透けた外套から、ごそりと何か取り出す先輩…
「削った命を注いだ悪魔に、他の命を屠らせしめんとする訳さ」
「あ…それ…は」
「どちらかが潰えるまでの契約だ…それに生き残る為には、相応の覚悟で臨み給えよ?」
先刻までリボルバーを握っていたその指、やんわりと掴むは…小さな蒼の振袖。
肉体が魂と消滅した、あの子の…
「あの場に落ち残っていた」
「き、気付きません、でした」
「眼を背けたからだろう?」
愕然とする私の指に、それをゆっくりと握らせ…
綺麗なのに、酷く怖ろしい笑みで、私の双眸を見つめてきた十四代目ライドウ。
闇の色をした眼に捉えられ、身体が動きを忘れてしまったかの様で。
「サマナーと仲魔に永久など無い、魂でさえもね」
す、と、握らせ離れて往くその姿。
烏の羽より黒い影。
「心を赦した瞬間、契約破綻し、どちらかが没す」
屍骸を踏み越えるヒールで、ぐしゃりと甲殻脚が割れる音。
立ち尽くす私に、少し振り向いたその横顔が…
「使役悪魔に命を賭すなぞ、愚かしく滑稽そのもの、サマナー失格だよ」
蘇る、孤独の声。



「凪さん…」
その声にビクリと肩が震え、見上げれば…いつも脳裏に描く顔。
「あ、す、すいません!ちょっと、リメンバーしてまして、そのっ」
功刀さんと向かい合ったまま、思い出して微動だにしなかったのでしょう。
そう思うと、腑抜けた顔をしてしまっていたのでは、と不安に襲われます。
「少しびっくりしました、急に黙り込むもんですから…」
「あ、あの、ヤタガラスからの命を反芻してました!」
「熱心ですね」
冷め切った珈琲を端に退けて、盆に乗せる貴方。
きっと、もう飲まないと判断したのでしょう。
「どういった命ですか?」
「一部の面子のみで…申し訳ありませんが」
「俺には云えないんですね」
「…はい」
「そういう真面目な所、好きですよ」

 す き

ばくばくと、胸が張り裂けそうになるのです。
その言葉に貴方が重みを持たせた意思は無くとも、私の脳は勝手に繋ぐのです。
「功刀さんっ、あの、やはり上の階、貸して頂きたいセオリーです!」
がた、と立ち上がり、逃げるように事務所の扉へと足を運ぶ私。
逃げなければ、頬が熱くて、発火しそうな心地だったのです。
「勿論ですよ、帝都に居る間は休憩所にしちゃって下さい」
私を、微笑みまではいかずとも、優しい視線で追ってくれる貴方。
「廊下から暗いですから、階段気をつけて」
「はい!気をつけます」
「あと、これ」
下から振った腕、功刀さんの指先から光る何かが放られて…
それをぱしりと受け取れば、冷たい硬質な感触。
確認しなくても察します、鍵です。
十四代目ライドウの部屋の鍵。
「どうぞ、御自由に」
功刀さんの声が、抑揚も無く私を押しました。
それに微笑み返すべきか、悲壮を感じるべきか、戸惑うままに事務所を後にしました…



「先輩…っ!」
あの日、暮れる陽の中…ヤタガラスの里。
「ようやくおいでなすったか、ゲイリン」
黒い装束が割れ、板間への道が開かれます。
開けたそこには、黒い布がかけられた…
「せ、先輩」
「気持ちの良いものとは云えぬぞ」
傍の装束の声に、指は止まりませんでした。
だって、明らかにおかしかったのです。浮き出る布の凹凸が…
「う―――」
払い除けた布の裏面は、濁った錆び色。乾ききった血で、妙なドレープを描きます。
先輩の身体は、両脚も無く、右腕の肘から先も…失せておりました。
その、まるで打ち棄てられた人形の様な姿に、涙より先に…狂おしい、吐き気が。
「っは…」
「大丈夫かい、凪ちゃん」
私の震えたままの手に、一回り大きな男性の手。
視線の端に、スーツ姿の…鳴海探偵社の所長が。
「見た時にはこうだった…すまない」
「ど、どうして」
「それが…」
そこまで云うと、口篭る所長。戸惑う私の問い詰めが発されるその前に
「人修羅じゃ」
背後の黒装束が、鋭く唱えたのです。
「な、何を」
「ほれ、尋問されてきおったに」
はっ、と間口の方を見れば…夕焼けの焔に包まれた、人修羅…
血汚れの着物袴で、翁達に連れられつらつらと、此方に向かって来ていたのです。
その血は、受けた尋問のものなのか…それとも…先輩の…
「功刀さん!」
声をかければ、貴方は魂の抜けた…それこそ人形の様に、ぼんやりと私を見ました。
あの金色の輝きは、ただ仄暗く霞んでいて…
「これゲイリン、この主人殺しに恩情を持つでない」
「こやつ、殺した主人の屍骸を運んで来たのだからの」
功刀さんがライドウ先輩を?まさか、嘘、嘘です。
「そんな…!きっと勘違いです、人修羅は主人を失って…呆然としてしまっているだけです!」
立ち上がり、功刀さんを囲むお上殿に進言しました。

「俺が殺した」

と、その緊張する水面に一滴。
人修羅の貴方が、かすれた声で投じたのです。
「似た様な…ものですから」
続くその言葉から、直接手にかけたのでは無い、と読み取れましたが。
それでも、この状況でそんな云い方…おかしい、貴方は混乱しています。
「矢代君、滅茶苦茶云うなよ…俺が見た時、ずっとライドウを抱き締めてたじゃないか」
先輩の身体に黒布を掛け直しつつ、鳴海所長が語ります。
「それに、こいつの顔、俺が見た事無いくらい…穏やかだ」
そうなのです。先輩の身体の凄まじさとは裏腹に…その死に顔はとても…
『いずれにせよ、新たな守護者を探す必要があるな』
するり、とお上殿の影を縫って出てきたゴウト童子。
とてとて先輩の顔に近付いて、フン、とひとつ啼きました。
『贋物を置きおったか…確かに、大人しく閉じ込められ続けるお主では無いと、違和感はあったがな』
ゆらりと黒い尾で、先輩の白い頬をひと撫でし、ミャウと鳴いてます。
『…ライドウより、己を吐露しおったか…馬鹿め』
その童子の口調に、決して嘲りだけでないと感じ…私の心が軋みます。
ああ、先輩は…きっと…本当の心のままに、死を迎えたのでしょう。
童子は、短い爪先を板に引っ掛け、とてとてと帰って往きました…
「さて、人修羅の処分は如何に?」
と、お上殿達の声が、山に帰り往く烏の様に方々から。
「十四代目を喰い殺しただけの魔的な引力…味方になれば強いものの、危ういな」
「諸刃の剣を扱えるは、そこの死体だけだったろうに」
口々に、まるで私達を嗤う様なその物言い。
ライドウ先輩の顔を見つめたままの鳴海所長は、微動だにしませんでしたが…
人間誰しもが発する気が、滲んでました。それは、怒気の色をしていました。
「しかしのぅ…まさか狐が逝くとは思わなんだ、負け知らずの化け物がの」
「まだまだ肉も若かったのに、惜しい事」
「遺品は役立つ、この男、かなり蓄え込んでおった様じゃ」
一方…両手を符紐で繋がれたまま、功刀さんは眼を瞑る…とても静かで、所長とは間逆。
そのまま処分を下されようがお構いなし、といったその風に…私が冷や汗を流していました。
「おい、やれ、欠損してはいるが、顔は綺麗なままじゃて」
「ふっふふ、紺を屍姦したいと云ってた奴がおろう?腐る前にしたらどうだ?」
「孔も残ってる」
その、あまりな会話。
私は震えて声も出ず、鳴海所長が口を開こうとしたその瞬間―――
紐が踊り、焔が虚空に渦巻きました。
そんな貴方の姿を初めて見たのでしょう、鳴海所長は、開いたままの口。
私はと云えば、動けずに…
焔を操る人修羅を、ただ呆然と見て、直立不動でした。
「触るな」
光る斑紋、突き出る項の黒き角。
逆光に煌く、虞を纏う金色の双眸。
「そいつに触るなあああっ!!」
両腕に点した焔が、鳳凰の翼の様に、貴方の着物袖を燃やしても。
千切れた紐を掻き切って、踏み出した先に横たわる先輩を…
「おい!取り押さえぬか十八代目ゲイリン!!」
烏の命令すら遠くに感じました。
抱き締めたまま、先輩を燃き尽くす煉獄の焔。
人修羅の腕の中で、骨身になって往くその姿を…
誰にも止められる筈は、無かったのです。
蘇る、焔に抱かれ逝く安堵の表情。



「やはり…徴収されているセオリーでしたか」
『金目のモン、ぜーんぶヤタガラスが巻き上げたんでしょ?マジでカラスだね』
先輩の部屋は、とてもすっきりしていました。
ちらりと覗き見た事が、以前ありましたが…その時の光景とは明らかに違います。
本棚は歯抜け、禁書とされた各国の叢書を、先輩は所有しておりましたから。
きっと本も、一部奪われたのでしょう。
長い間開かれた形跡の無いレシピの本だけが、ちらほらと端に縮こまっています。
最近、新しい献立を考える事もしていないのですね。
『ねーねー、コレ金目の物じゃないの?動かないの?観賞用?』
「こら、ハイピクシー!勝手に…」
壁際に、オートバイ。鍵は差さっていません。
シートに薄く積もった埃が、功刀さんの無気力を形に見せてくる様で…
そそくさと、そのオートバイから離れます。
「先輩の影が、もうありませんね」
思わず声に出てしまい、ハイピクシーが私の肩に止まりました。
『なのに此処で暮らしてるってさ、案外引き摺ってないって事かもよ?それはそれで良いんじゃない?』
「そう、でしょうか」
『人修羅のやりたい事は知らないけどさ、こーして探偵社手伝ってるんだし、自暴自棄じゃないっしょ』
「…です、ね…そうですね、ええ!」
『そーよぉ、主人があの十四代目でなけりゃ駄目って決まりは無いんだし!』
簡素なベッドに腰掛けて、気持ちを上昇させます。
ふと、薄く開いた窓からの夜風にたなびいて…穏やかな香りがくすぐりました。
ベッド傍の小さなチェスト…恐らく、本か銃が引き出しに納めてあったろうソコ…
「あ…」
小さな陶器皿の上で、灰になったお香。
(Sandalwoodのフレーバー…)
引き摺って、ない?本当に?
その香りが無いと、眠れないのですか?
この寝台が、シーツが、その薫りを纏っていなければ…
貴方は…貴方は…
『凪、ちょっと!』
ハイピクシーの声で、ようやくその白檀の呪縛から抜け出た私。
「どうしました」
『出てくよ、人修羅』
窓から見下ろす深夜の街路。揺れる柳の影が手招きするその風景に…
インバネスコートの人影。
『この建物から出てったから、違いないよ』
「…流石に気配は消してますね」
貴方は怒るでしょうか。
そうです、貴方を、監視しています。
でも、この部屋には、とりあえず証拠品は無さそうで…少し安堵しています。
『どーする?単独捜査したげる?』
「いえ、私も参ります、しっかり眼で確認したいセオリーです」
あの、大きなチェストが在りません。
それだけでこの部屋は広かったのですね。
そんな感想を抱きながら、部屋を後にします…

ひんやりとした夜道、吐く息が白く目立つので、すっかりと息を潜めて追います。
遠くを歩く功刀さんは、足音を殺してます。
薄く残すのは、足跡の道しるべだけ。
『長い、ね』
「…ええ」
やがて、街路を抜け…とても足で歩む距離とは云えぬまで、来ました。
『ねえ、振袖じゃきつくない?』
「緊張感には一役買ってます」
『んも〜愚痴が吐けないのぉ?凪は』
「しっ、ハイピクシー…少し、静かに」
前方の影が、二つになりました。
功刀さん…誰かと、話している?
何も無い道中に感じましたが、いつしか畦道が途切れていました。
桜の樹々が並ぶ特徴的な処…その中央、一番大きな大樹の下。
かなり距離を開けている為、とても読唇は出来ません。
「アルプ」
『っは〜ぁい、ってちょっ、暗ぁ!』
樹に身を寄せ、集中して召喚します。短時間なら、二体は一応…可能です。
「あそこの殿方の会話だけで良いのです、流して下さい」
『そうだネ〜二人とも壁があって、発する言葉流すしかムリっぽいから〜』
(二人共…)
アルプの尻尾をやんわりと掴み、私の肩のハイピクシーが息を呑みます。
『んじゃ、いっくよォ〜』
ゆるゆると、交わされる声が、脳内に反響してきました…

 「まさか年の暮れに男に呼び出されるたぁ…深川の番地XX…翁桜なんてぇ逢引の定番」
 「普通の人間のフリして女性サマナー軟派するの、失礼ですよ」
 「オレのポッケに突っ込んだ此処の地図…随分と用意周到じゃあないかい」
 「見かけたらすぐ指定出来る様に、持ち歩いてますから、書き起こした切れ端」

…軟派…まさか、晴海で声をかけて来た方でしょうか。
ポケットに…功刀さんが?そんな、いつの間に。
それよりあの男性…デビルサマナーだったのですか?

 「しかしオレがサマナーたぁどういう了見で?ただの喧嘩と思って来た可能性もあるじゃあないかい」
 「コート下、管見えましたから」
 「おおっとぉ、そりゃいけねえや…なんだぁ、悪魔で決闘でもしたいんかいな?兄ちゃんはぁよ」
 「悪魔に興味はありません、俺が用事あるのは…」

ぶつり、と途切れました。
発される音よりも、闘争の心が先走って、心ごと遮断するのです。
『凪!』
小さく叫んだハイピクシーが、小さな指先に電撃を迸らせます。
その揺れる小さな振袖を、はっしと掴んで、引き止めました。
『どぉして!人修羅、人間殺すかもよ!?』
「ノープロブレム、報告では重傷に至らぬ程度と挙がってます」
『でもっ、人間ボコす人修羅なんて見たいの凪!?』
「…傷は…」
『え?』
「傷は、再生します。事実という証拠は、再生しません」
脳内に反芻されるのは、先輩の言葉。
「大事に至らぬならば、外傷という証拠を刻まれる人間が…出来た方が、良いセオリー」
遠くの暗闇で、刃物の煌き。薄い月光に照らされた戦いの図。
あのサマナーが、相手は悪魔と気付くその前に…きっと勝負はつくのでしょう。
でなければ、被害者達の証言には、すぐ人修羅という言葉が挙がっている筈。
「…ほら、御覧なさいハイピクシー」
『うっそ』
ひとひら、薙いだコートからたなびく袖が、サマナーの管を叩き落します。
流れる動きで、でも、それに型なんかは感じられず。
ただ純粋に、人修羅の、本能的な能動。
「一瞬、でしたね」
『あの軟派男、召喚…した?』
「いえ、管を落とされた様子です…でも、例の件と合致するなら、管には目もくれぬ筈ですから』
ヤタガラスから今は欠けし四天王だけに下った伝令。
身内がひとり、またひとりと、襲われるこの事態…
混乱を避ける為でしょう、まだ知れてないので、サマナー達も警戒がありません。
そう、つまり闊歩するサマナー達は、餌なのです。
「…黒なら、刀に手を伸ばすでしょう」
しかし、思い違い…ただの喧嘩と、出来れば思いたい私が居ます。
『あっ』
でも、私の心を裏切るかの様に、貴方は…サマナーの刀に手を伸ばしました。
「デカラビア」
『暗い!瞳孔が急激に!ああゥ』
即座にアルプと入れ替え、その巨大な瞳に目視させます。
「あの遠くの、一番背の高い桜の樹…その麓を見せなさい」
『掴まれぇ〜いィ』
星型の脚を後ろから抱き締め、脳内のヴィジョンを借り受けて…
闇の中の貴方を見つめる。
器官を一時停止させる急所を突いたのでしょうか…
ぐったりと横たわるサマナーのヘンプコートから、引き抜いた刀。
しゃらん、と音さえしてきそうなその抜刀。
功刀さんは、その刀を間一文字に眼前に構え…
(痛いっ)
私の身体では無いのですが、思わず心で悲鳴を上げました。
その、刀の鍔を、ぐ、と…目釘抜きすら使わずに、ぎちぎちと外し始めたのです。
瞬間、より一層闇に光る斑紋。サマナーを倒した時には擬態を解いていたのだと思います。
「デカラビア…もう、良いです、分かりましたから」
『ひとみを閉〜じて〜』
これ以上指先をアップされては、正直私がギブアップです。
あの、整った華奢な白い指先が、刃先も厭わず掴む様子が痛くて。
ばっくりと割れる皮膚は再生すると、頭では理解しているのに。
だって彼は悪魔なのですから…なのに…
「帰還なさい、デカラビア」
『お疲れェ』
管に戻し、視線は人修羅の功刀さんを捉えたまま。
私は振袖の裾を静かに捌き、尾行を再開するのです。
『ねぇ、人修羅、何処行くの、なんで鍔取ってんの』
「…」
『ねぇ、凪』
「年が、明けますね」
『え〜ホントだぁ…どんだけ歩いてんの全くさ』
帯締めに潜ませておいた時計をちらり、と手に取り、新しい年を確認しました。
私は、雪道を黙々と歩む人修羅の後姿を…
ヤタガラスのサマナーとして、追い続けます。
と、少し上を見た貴方が、駆け始めます…日を気にしているのでしょうか。
伴い私も、トリグラフを召喚し、後ろに騎乗します…
「志乃田…名も無き神社でしょうか」
『そりゃ悪魔でもなきゃ徒歩はキツイわ』
ハイピクシーも、私の肩に腰を下ろしたまま…
ざっ、と馬が止まり、トリグラフが私に振り返ると同時に頷きます。
背中越しに、功刀さんが境内に入っていく姿が見えました。
「有難う、お戻りさない」
横から腰掛けていた私の下、帰還と同時に消滅する馬。
とすり、と雪面に着地した私は、既にひやりと湿ったブーツで接近します。
『鍔、何の為なの』
「恐らく、あれはライドウ先輩の鍔です」
『え…何ソレ、どーいう事』
「ヤタガラスが徴収した先輩の所有物の中に、沢山の鍔を確認しました」
『なんでそこらのサマナーが使ってんのよ』
「競売にかけられたから、です」
『ええっ、何ソレ、遺品じゃないのぉ?』
肩で騒ぐハイピクシーに、教える私も…苦しい。
決して、長い尾行の所為でもなく…振袖の所為でもなく…
「先輩に身内は居ませんでしたから」
『…ヒトの…親、とか?そーゆうのが?って事?』
「ええ、私にも居ませんが。つまり遺品はヤタガラスの物、という事になります」
先輩の管も、武器も、本も、道具も。
全て、全てがヤタガラスの物。
それが金でやり取りされ、カラスの胎を肥やすという結末。
『じゃ、ちょっと待ってよ、人修羅、それ』
「恐らく、知っています」
功刀さんが、再びまともに探偵社で生活出来る様になるまで…
囚われていたヤタガラスの里…其処が競売の会場でした。
「呪いが罹った物は、人修羅に持たせて解呪したと、装束が申しておりましたから」
『そういう事出来たの、人修羅って』
「正確には、功刀さんにぶつけて相殺させているだけです」
『げぇっ』
「…里での、功刀さんの立場は弱かったですから」
鳴海所長と、私とで、どれだけ説得したでしょうか。
人間には危害を加えない。探偵社では鳴海所長が面倒を看る。
そして、私ゲイリンも監視にあたる、と。
(それなのに、功刀さん)
競売にかけられ、競られて往く物達が、赦せなかったのでしょう。
先輩の、忘れ形見達が、貴方から奪われて往くその…
「現場は記憶しました、血が覚えています」
お狐様が見えてきた辺りで立ち止まり、端の樹木に隠れます。
管から光と共に星の影が現れました。
「里に、見た件をお伝えなさいデカラビア」
『遠いィ』
「時間はいくらかかっても良いのです、出来れば…道中あの負傷者にディアを」
『注文多ィ』
「ごめんなさい、でもあのまま凍死されても、功刀さんの罪科が重くなるだけですから」
被害者に死なれては困りますから。その結果だけは…残したくありません。
そんな、私自身の望みのまま、召喚したデカラビアを送り出します。
『凪、は…人修羅を里に突き出しちゃって良いの?』
肩から飛び上がるハイピクシー、その揺れる振袖に、先輩の指を思い出しました。
今度はしっかり見届けるのです。
「眼を反らす事は赦されないのです」
功刀さんが、その衝動に駆られて、サマナーを…人間を傷付け続けるならば。
止めなければなりません。
『良いじゃんっ!このまま黙ってなよ!だって凪、人修羅の事ッ』
「人間を襲い続ける功刀さんを見ていたくありません」
『…それだけ?』
「はい、私は師匠の遺志を継ぎ…人に仇なす悪魔は、処理します」
視線の向こう、私が追い続けた…師匠…先輩…そして…人修羅。
(賽銭を、入れるのでしょうか)
一般参拝客の居ない此処では、飾りに等しいその賽銭箱に。
功刀さんが、ふらりと歩み寄って往きます。
そして…何か、呟いたのです。
最初は唇の動きだけで。しかし次には、鮮明に空気に流れたその声音。
「嘘吐き」
どきり、と鼓動が波打つ。
私に、向けた言葉かと、こちらに気付いているのかと。
その恐怖が身震いさせました。
ですが、その後に流れる喘ぎが…それを錯覚だと教えてくれました。
「嘘吐き…嘘付き嘘付き」
くたり、と、上半身を追って、その賽銭箱の上面に項垂れた人修羅。
「五蔓入れたじゃないですか、何も効果無い、嘘付き…っ…何が神社だ…」
五曼…金額と思われるのですが、かなりの大金。
「誰も四肢を拾っちゃくれない、あいつの入れた金、全部返して下さいよ、なあ神様、なあ」
呪文の様な呻きに、混じる悲壮が。
「死んだッ…五体満足ですらなかったっ!」
がつり、とブーツの爪先で、賽銭箱の側面を蹴る貴方。
振りかぶった上体で、頭を抱えて恨みを奉る。
「神様…ヤハウェ……ルシファー…」
むくり、と亡霊の様に起き上がった人修羅。
「ライドウ…」
ぼそり、と一言残して入って往くは、拝殿。
それを確認し終えた私は、一歩踏み出します。
『止めてよ!行かないでよ凪!話し合いには応じないよきっと!』
ハイピクシーの振袖の色が、少し鮮やかです。
ほんの、ほんの少しだけ夜が明けてきたのでしょう。
「ハイピクシー…私は、師匠も尊敬しております、が」
あの厳しい顔の中にある、優しい心を思い出します。
「ライドウ先輩…紺野さんの事も、尊敬しておりました」
『あの二人、真逆じゃん』
「師匠も、先輩も、己の生きたい様に生きて逝きましたから、似たもの同士のセオリーです」
自分の夢を託して、勝手に先立った師匠。
残された私に、問答無用で押し付けたのです。あたたかな傷跡を。
それに縛られない筈、ありません。ずるいです。
「先輩も、ずるいです」
仲魔の為に命を賭すは、愚かしいと…云いながら。
「功刀さんの為に逝かれたのですよね」
人修羅を紹介されたあの日から感じました。
先輩のペースは、乱れていましたね。
樹海を、乱れぬ足取りで歩んでいた先輩が。
ただ、ただ一人の半人半魔に…その足を早めた。
『殺されちゃうよ…』
「本気でかかれば、この拝殿は葛葉の一族に味方します」
『だって、人修羅…おかしいよ、あんな人間ボコすの嫌がってたのに』
「罪悪感が消え去る前に、問い詰めます」
拝殿に踏み入れると、一瞬にして空気が変わりました。
『何か壁あった…今?』
「ええ…しかし、葛葉は問題無く入れる…そういうバリアらしいですね」
龍のアギトに近い、けど違います。きっと独自に張ったもの。
貴方をそこまでに駆り立てる何かが、既に芽生えている証拠。
板の間に上がる際、ブーツを爪先で脱ぎました。
足袋の先で、薔薇が咲き誇っています。
「でも先輩、私もみすみす負ける気はありません」
人修羅の魂に根を張っている、貴方の“死”が。
(何に負けないと云うのでしょう)
人修羅に?それとも…人修羅を未だ捕える先輩に?
混迷のままに、我侭に、心のままに、年と年の間々に。
冷えた板を踏み鳴らすのです、貴方の秘密の領域に立ち入るのです。
ヤタガラスのサマナーという、人修羅を監視する役目という、この立場を利用して。
そう、それこそが、この凪と功刀さんを繋ぐ、強い接点の糸だから。
「…あけましておめでとうございます、凪さん」
声と同時に、暗かった奥が、一瞬で煌々としました。
迸った焔が、照明に灯りを点したのです。
「功刀さん」
「寒くないですか、暖房は持ち込んでないんですよ、此処」
「いえ、ケープマントも掛けてますから、平気です」
このケープ、真っ白だったあれです。貴方にも貸したことのある…
貴方の血が、染み込んでいます。繕って、紅茶染めして紛らわし、こうして普通に纏っています。
先輩に撃たれて悲鳴する貴方を庇いつつ…先輩を糾弾していた癖に。
貴方の血肉を少しでも身近に感じたくて。こうして着用しているのです。
「ライドウの鍔の件で俺を追ってたんでしょう」
優しく微笑んで、功刀さんは擬態すらせずに椅子に脚組み腰掛けました。
あの椅子は、先輩の机のもの…その傍のチェストは、間違い無い…
「でも、まだ半分も取り返せて無い」
する、と引き出した薄い引き出し、其処に整然と並べられる黒々とした鋼の細工達。
まるで先輩が其処に居るかの様な、そんな流れる動作。
「手当たり次第、ヤタガラスのサマナーを襲うのですか」
「競られて往った物は、全部覚えてます、サマナーを目視して、その度探ってます」
「結構な数でしたが」
「しっかり焼き付けてありますから、この眼に…他人の手に渡る瞬間を」
くわりと見開かれた眩い金色は、あの日、夕空の逆光で光っていたものと同じ。
「俺がね、殺したんですよ、ライドウは」
「それこそ嘘です」
懐に忍ばせた小刀の柄を、撫でます。
管は使いません、飛ばしたデカラビアと、傍のハイピクシーで精一杯ですから。
「ライドウ先輩が、勝手に庇って絶えたのでしょう」
「…どうなんですかね、実の所、俺も正確には」
このデジャ・ヴ。平然と云う自分が、微笑んでいるのは、怖いから?
「…あの男が死んで、俺は使役という呪縛から解かれました」
揺らめく壁際の灯篭。功刀さんの火で燃え立つ光源。
揺れるその熱い色が、魂を見せるのです、貴方の…穏やかな顔に隠された…
「なら、どうしてこんなに息苦しい」
前髪をぐしゃりと掴むその指は、既に血を止めています。
悪魔である治癒の結果、貴方は傷付くのすら厭わなくなっている。
想いが先走って、本来の意志を見失っている。
「勝手に…死んで!」
溢れる涙は、それでも人間の証。
「最期の瞬間に殺すのは自分だって!互いに云いあって来たのにぃ…ッ!!」
先輩を腕の中で焼いてから、ずっと感情を停滞させていたのですね。
人修羅の光る指先が、その雫をぐい、と払いました。
「俺の身体は千切れても治るのに、どうしてあいつの身体が千切れたんだ」
もう、云わないで下さい。
「俺の再生不可能なとこ傷付けて、笑って死にやがったんですよ、悪趣味な野郎だ」
「功刀さん」
「最低最悪だ、使役悪魔に命投げて、サマナー失格でしょう?あの男」
「まだ鍔、集めるのですか」
「止める気はありません」
「そうですか…それは何故か、お伺いしても宜しいですか?」
ハイピクシーは、震えています。彼から滲む威圧を、自然と感じ取っている様です。
サマナーである私こそ、それを判らぬ筈ありません。怖ろしいです。
それでも尚、立ち塞がります。
一見、ヤタガラスのサマナーとして機能している様に見えるでしょう…
しかし、違うのです。私は、浅ましいです。この立場を欲の為に…
「俺が…こうするのは」
人修羅の頬に光るのは、斑紋?涙の痕?
「俺が、呼吸していた頃の環境に戻したい、から」
そう云って、真冬の透明な空気の様に微笑んだ功刀さんに、私は不謹慎にもときめいて。
人修羅の、水の色をした煩悶が啼いてます。凄く、綺麗で…
「夜の空気でなきゃ、もう呼吸出来ない、酸欠になるんです、凪さん」
あぁ、先輩と同時に、貴方は既に死んでいたのですね。
もぅ、覚悟は出来ました。
すぅ、と帯から抜き取った、鈍く光る刀身を貴方の光で燻らせて。
さぁ、お勤めさせて下さい、功刀さん。
「人間に牙剥く悪魔は、処分せよとの命です…」
「…凪さんの、そういう真面目な所、好きですよ」
もう、云わないで…その涼しげでいて、残留する切ない声で。
恋でも無いのに、一方的にときめかさないで。
それに、真面目なんかじゃ、ありません。
サマナーは、葛葉ゲイリンは隠れ蓑、フェイクです。
「貴方がヤタガラスの御上に屠られるなら……私の手で、というのは、真面目ですか?」
発すれば、ハイピクシーがハッとして私を見つめたのを、感じました。
でも、続けて薄く笑ったのです。私の真の心が見えて、それでもう…納得したという風に。
「それは、不真面目かもしれないですね」
私の前方に仁王立ち、両の肱をふわりと上げる人修羅。
指先には焔では無く、鋭利な軌道。此処ごと燃す気は、とりあえず無い様です。
「でも、解ります…俺もそう思ったから」
夕焼けの燃える陽と、貴方の火が重なる瞬間、心で謎が熔けて往きました。
それは私の中で…熱い鉛のまま流動し、先輩の魂と繋がりました。
この、狂おしい気持ちは、感情は、孤独な我々だけが知る…暗い愛。
「監視の間だけは、先輩に等しい立場で貴方と繋がれたのだと……さもしい女ですね」
「いいえ、凪さんと探偵社の面々が居なかったら、俺はこんなに落ち着いてなかったですから」
消えそうな微笑に、金色の眼が光る。
「きっと、あのまま里も燃してました、話に聞いてた様に赤い海に、曼珠沙華の様な」
「人間を殺すのですか」
「思い留まれてるのは、凪さんの真綿みたいな厭らしい監視のお陰です」
ああ、やはり酷いです、功刀さんは。
どういうセオリーですか?それは私を泣かす為のプロセスですか?
「凪さんはまだ綺麗だから…その呼気も吸気も、俺には苦しい…夜には、遠いです」
頬を伝うのは、恐怖からの冷や汗だけでは無いと、確信しました。
だって、こんなにも、眼の奥が熱い。私の眼は金ですら無いのに、熱い理由はただひとつ。
「功刀さん…ひとつ、お願いが」
悪魔を抑圧するこの空間、葛葉に力を貸すこの空間。
どうか、少しは長く持たせて下さいね。
「初日の出まで、この凪、五体満足で居られたら…」
背後からの陽は、あともう少しでしょう。
「一緒に初詣しましょう」
傍のハイピクシーが、くるりと回って私の肩からはばたきます。
そう、彼女だって此処で制限を受けているのです、なのに…私の欲望に従う。
主従を通り越した、その依存が……己が命を削っても、共に寄り添いたがる。
ふっと、先輩の声が蘇りました。
貴方にくちづけた瞬間に、初めて聞いた動揺の声を。

“十八代目ッ!!”

驚愕した人修羅から、突き放された事実より。
寧ろ私を驚愕させたのは、その叫び。
先輩が…十四代目葛葉ライドウが、その時、初めて…
紺野というひとりの人間だと、解ったのです。
狐でもなく、ライドウでもなく。

「凪さんが夜の所に送ってくれるんですか?」
「お覚悟、人修羅…功刀矢代」

新たなる年です。
皆様は、どの様に過ごされる予定ですか?
抱負の為に、様々なプロセスで、希望の路を往かれるのでしょう。

紬の振袖に、小太刀揺らし、人修羅と舞う。
先輩が哂ってしていた戯れと、同じ事を今している。
その金色の眼が、私だけに注がれている。
たとえ憎しみでも、悲哀でも、この瞬間、互いは孤独から解き放たれるのですね。
先輩の心を知った今、私の今年は終わりました。
その心を知る事が、人修羅に一番近くなれる気がしていたから。
そして、知った瞬間、敵わぬと思い知りました。
途方も無い孤独の闇を、私は知らないのです…御二人程の闇を。

乙女心に咲いた花は、すぐに舞い散りました
恋願わくば
乞い願わくば
修羅と化す前の、葛藤濡れの人間…“功刀矢代”をこの手で―――
葛葉でない、欲のままの“凪”を、あなたの手で―――
「……常夜の国で初詣、しましょうか」
哀しげで苦しげな誘いに…私は呼吸も僅か、涙で頷きました。
ようやく気付いた事が、あります。貴方は当たり前の様に、囀っていましたね。
功刀さん、でもそれを知る人は、殆ど居なかったのだと思いますよ。
下の名は、夜だったのですね…


和洋折衷、百花繚乱、花鳥風月…四季折々の三六五日を閉じ込めた様な鍔達だけが
私達を見ておりました
それは哀しい社でした
それはかなしい…やしろでした



常夜の社・了
* あとがき*

2011年正月に配布したものです、特に加筆修正無し。
蛇足かと思ったので、番外編への収録です。