新月の涙
「ぅ、うぐ」
刀の啼きは、人の啼きになった。
眼の前には、逆光で翳る人修羅が居た。
「は、ぁ…っ…あ、ごぷっ」
その呻きを漏らしていた唇から、赤く零れるマガツヒなる魔。
折れた刀を構えた僕に、どさりと寄りかかった。
咄嗟に、その体を、空いた腕で抱きとめた。
「あ、あああ〜〜〜ッ!!!!」
向かい合わせる影が断末魔の如く喚く。
人修羅が、鍔迫り合いに割って入った…のは…
何の為?
叫ぶ雷堂の大太刀からは、滴る血。
己の愛しい者を斬り伏せたその男は、発狂したかの様に叫び続ける。
震わせる腕から、やがてあの得物が落ち、ぐわらりと石床に寝た。
「な、ぜ、何故だ矢代君!?何故!?」
だが、駆け寄り人修羅を抱えようとはしない雷堂。
人修羅ではなく、己の頭を抱えて、眼を見開いている。
「何故ライドウを庇う!?」
ぼやけた聖地にこだまする悲鳴。
それを聞いて、ようやく理解した。
(庇った?)
…ああ、そうなのか。
人修羅は、僕を庇ったの…か?
ちら、と視線を流して腕に支えた人修羅を見た。
項の突起下が、ざっくりと口を開いていた。
呼吸からして、結構重傷だと思われる。
「は〜…ぁ…っ…ぁ…はぁ…」
微かに息を繰り返すその身体。
青い顔をして、視線は虚空を彷徨っている。
だが、くわりと見開かれた金色が、強く光った。
「ヨシツネ!!」
発された名に、その仲魔を視線で捜す。
見れば、その刃毀れしている両刀を雷堂に振り翳している瞬間だった。
ビクリ、と止まったその刃先に、首だけで振り返る人修羅の金が反射している。
「殺したら、お前を殺す…」
擦れた声で、しかし明瞭に告げる宣告。
『…俺の主人は人修羅じゃねぇ、そんでもってこっちの十四代目は敵だ』
「俺の、答えは何度でも、同じ、だ、ヨシツネ…」
『…旦那』
僕に矛先を向ける仲魔。
『……旦那?』
ヨシツネの怪訝な声音。腕の人修羅も、強張っていた気配を鎮めた。
ああ、そうだ、何か、返さなくては。
だが、どうしてか…声が出なかった。
そんな僕に、身を捩って顔を寄せた人修羅。
未だ苦しげなその声で云う。
「此処は…ダミーだった…」
ひそひそと、まるで内緒話の様に。
「ヤハウェ、なんか、居ない」
その神を詐称する名に、脳内が目覚めた。
「居ぬ…だと」
「ああ、居ない、から…此処に軍なんか、送る、な」
まさか、君。
「ルシファーより弱そうだったら、いけるかと思ったんだけど、さ、ぁ…」
「…」
「っ…んて、は、はっ……ま、これは、軽く云い過ぎ、だった、な」
「…」
「雷堂さん、も、居るし、居心地良けりゃ、こっちに寝返るつもりだった」
本当に、そんなつもりだったのか?元から?
「…君がそこまで考えて動くとは思えないがね」
思った通りに唇が動いた。
すると腕の中から逃げた君は、僕を突き飛ばす。
「ああ、そうさ…!あんたから、離れる事が出来れば、何処だって良かった」
我侭な口と裏腹に、その眼が歪む。
「何処だって、良かったんだ…」
唇を噛み締めて、ねえ、何をそんなに嘆いているの?
「…雷堂さんは、此処に居たら良くない、下に連れ戻す…っ」
「君が引っ張りまわしておいて?」
「だから、だ」
う、と痛みに唸りつつ、君はふらふらと雷堂に歩み寄る。
僕から視線を外した瞬間、その眼に慈しみが宿る。
「明さん、俺の此処で知った事、全て明かしますから」
「…どうして」
「俺は裏切るつもりで此処に上がったんですよ」
「我の事、も」
「下には、まだ貴方を雷堂と慕う烏の人間が居ます……居る、そうです」
ああ、潜ったら怪しまれぬ内に探れ、という教えは出来ていたのか。
「管から天使は捨てて下さい」
「我には君しかっ」
「業斗さんが…まだ居ます!」
ハッとして、ようやく眼を繋ぐ雷堂。
心の拠り所だった師を、その脳裏に描いたのか。
「まだ魂は消えていない…と思いますから」
「しかし、あのままにしてしまった」
「だったら…だったら!早く、助けに行きましょう?」
ふわり、と微笑む。
そんな人修羅に、一筋涙を流す雷堂。
決別の嘆きか、諦観か、気付きか。
『ど〜やら戦意喪失ってやつだな、ありゃよ』
肩にトントン、と刀を打ちつけてヨシツネが僕に寄り、声を掛ける。
「僕は別に…まだ冷め切らぬが?」
雷堂への殺意は。
『しかしよぉ、人修羅も人が悪ぃな〜…云っといてくれりゃあ』
「馬鹿、あんなの出任せだ」
『え?』
素っ頓狂な声を上げるヨシツネを睨む。
「裏切り云々は出任せだ、そんな知恵、彼には無い」
はぁ?と声にするヨシツネを半ば無理矢理管に戻し、後方に居るイヌガミを見る。
『…スマナイ、ライドウノ中、今、一瞬視エタ』
「…そう」
『………人修羅ニ流ソウカ?』
「…御苦労、戻ってくれ、イヌガミ」
その犬の、主人への気遣いという世話焼きは無視した。
ああ、溜息が出る。
此処から下りるのか、腹立たしい影を連れて。
「ライドウ、話は…決まった」
人修羅が僕へと乞う。
傍の雷堂は、まだ納得しきらぬ風ではあったが、既に落ち着きを取り戻している。
「俺からの、依頼…なんだけど」
視線を逸らしつつ、砕けたその左指を右手に包んで…発した。
「雷堂さんを、ヤタガラスまで…一緒に送り届けて欲しい」
そんな姿に、声に、僕が苛つかぬ筈無い。
「で?報酬は?」
一文無しの君に、哂って問い掛ける。
したらば君は、その眼を僕に向けた…
「俺と…再契約、させてやる、から」
云って、すぐに俯く。
傍の雷堂は、酷く辛そうな顔をしつつ…僕を見て云う。
「安心しろ…先刻から申している通り、我とは繋がっておらぬでな…」
そんな葬式みたいな彼等に、僕は哂って云い放つ。
「何を云っているのだ…君達は」
ああ、なんて茶番だ。
「だって、元々僕の所有物だろう?」
なのに、人修羅は再契約してやる、等と上から目線。
雷堂は人修羅が離れ往く事を“彼の意思を尊重した”とでも云いたげで。
ああ、反吐が出るよ。
「特に…雷堂、君がその右眼を宿して尚…諦めきれるとは到底思えぬのだが?」
眼帯を見つつ嘲笑してやれば、唇を真一文字に引き結ぶ。
「当たり前だ、我とて…」
帽子のつばをぐい、と下げる仕草、眼元が翳る。
「しかし、先刻…ああも、見せられては…矢代君の真意も視えぬ訳なかろう」
「ちょっと待って下さい、俺は単に自分にとって“都合良い方”に居たいだけで」
口を挟む人修羅に、その引き結んでいた唇をやわらかくして微笑んでいる…
「場所でなく、それはデビルサマナーの事か?」
「ち、違…」
「己の心に聞くが良い…あの時の、咄嗟の判断が…きっと、答えだろう」
どうして、また微笑む。
そんなにお前は、人修羅に良く思われたいのか。
真の欲を殺して、最後まで繋がらぬとは…
同じ形ながら、滑稽だ。
「ならばもう一押し、条件提示させて頂こうか」
白い霧、少し肌寒い空気。
もっと寒くなる言葉を、餞別にあげよう、雷堂。
「その右眼返してくれるなら…人修羅の頼みを呑むよ」
覚悟していたのだろうか…
眼帯を黙って外す雷堂の傍…当人ではないのに、人修羅の方が震えた。
「君の主人は…」
「あぁあ明さん!!」
「ボルテクス界から…既に決まっていたのだったな…」
「まだあいつに交渉してない!他の条件にッ」
眼帯を持つその腕を、人修羅の右手が止める。
それだけで、僕の手は得物を探りたくなる。
眼の前の邪魔者という邪魔者を、消したくなる。
いつ脅威になるか分からぬから、破壊したくなる。
「条件と関係無い、君の一部を…君に…此度返す、そうさせてくれ」
人修羅の絶叫。
赤い斑点をその白服に染め付ける雷堂。
右手には、金の宝石。
……ああ、すっきりした。
これで、人修羅と僕の影を結び付けていたモノは消えた。
ようやく、あの忌々しい影を見ずに済む。
僕と同じ顔で、微笑む、あの気味の悪い姿を見ずに。
背後に迫り来る天使達の気配を感じつつ、眼の前の悲劇…
いいや、僕にとっては喜劇な訳だが。
それを見て哂いが抑え切れない僕。
「それで捨てきれると良いねぇ、日向」
クスリ、と零れた声と共に、リボルバーを手にした僕。
そう、本当の虐殺はこれからだ。
「さ、出口までの羽根で滑らぬ様にせねば、フフッ」
まだ、まだまだ腰のホルスターベルトにも有る。
脚のベルトにも。
MAG生成の弾丸、属性を秘めた特殊弾、ぐるりと僕の肉を囲む凶器。
「功刀君、その片眼を支える事、今ならば赦そう」
装填しつつ、泣き濡れた様に潤む金色に哂い掛ける。
「僕の邪魔をしない様に…しっかり見張って連れてき給え」
もう片脚に在るリボルバーを左手に。
折れた刀をその場に捨て置き、血濡れの外套を翻す。
「はだかるなら、邪魔するなら、壊すよ…天使であれど」
外壁から、翼を広げて無数のシルエット。
ニヤリと上がる、口の端。
ズクン、と傷む胸を無視して、引き金を絞った。
「そんなに嫌だったかい?自分の眼は簡単にくれてやった癖に」
帳にけぶる街路、外灯も消え、新月の空は暗い。
「…俺の身体は再生するから」
「確かにね、まるで巻き戻しの様に」
こうして、霧の帝都を並んで歩くと…此処に連れて来た日を思い出す。
もう、幾度か君と桜を見た気さえする。
霜の下で、微かに膨らみ始めている桜花の蕾をちらりと臨む。
そう、この瞬間こそ、まるで巻き戻った様だ。
「…巻き戻せたら、雷堂さんと…今度こそ友人になれた、かな」
傍で云う君にギロリと横目で戒める。
「何度巻き戻そうが、この結果だろうさ…フフ」
「…煩い…」
「奴も物好きだねぇ…結局君の為に欲を封じた」
己が雷堂に与えた傷痕を頭では理解しているのだろう。
僕の言葉に更に俯く君……ああ、本当、浅はかな奴。
「…向こうのヤタガラス、少しは残党で改善されたら、良いな…」
「…フン、こちらの烏よりは元々マシさ」
転移の枝道を抜け、城で堕天使に報告をして、ようやく此処まで来た。
結局元の形に戻ろうとしている。帝都の暗闇に。
「こうして見ると、昼の喧騒も嘘の様だろう?」
突然云い出す僕を、ぎょっとして見る人修羅。
その脚が少し遅まる。
「この静寂の為に、十四代目をやっている」
「…」
「賑やかしい人の団欒も、笑い声も駆け回る子供の声も」
「…」
「僕からは遠いからね」
銀楼閣の入り口、カツカツと階段を踏み鳴らして振り返る。
見上げてくる君、あの時と同じ、この世界に…この建物に、不安する姿。
「僕は、夜が好きなんだ」
ナルシズム溢れる言葉を吐く。
だが、それが真実だった。
己しか信じるに値しない、そういう生き方をしてきた。
だから、ボルテクスで独り蹲る君を見た時…僕に見えた。
ねえ、君はどうなのだい?
「此処が、銀楼閣」
あの日と同じ言葉。
「僕の勤め先」
君を誘う。
「…おいで」
いざ入れば、事務所に明かりは無く、鳴海は不在だった。
ま、不謹慎だが都合が良い。
彼も烏のひと羽である事には変わりないのだから。
「…疲れた」
一言、人修羅が呟き、纏っていた衣を脱ぐ。
ケテルで改めて渡された闇色のケープ、裏は鮮血の様な赤。
きっと彼の趣味に反するのだろう。
「自業自得…寧ろ、再び拾われた事に感謝し給えよ」
上半身、肌を晒した君の、その背中を靴で蹴る。
「ぅぐ!」
室内履きとはいえ、その底の感触は背骨を圧迫し、軋ませる。
倒れこんだ背中、斑紋に沿って、掌をあてがい、羽交い締めにする。
ああ…支配の感覚。
背中から奪う自由に溺れる、この快楽。
僕は、この瞬間だけ安心して呼吸が出来るのだ。
「ねぇ、この床板の上で、再契約してやろうか…?」
「ど、け」
耳元で囁く、祝詞。
「カルパでだって、地面の上でだったろう?」
「っひ!ぎぃ、っう…」
項の突起に爪を立てる、君から漏れる呻きが、酷く懐かしく感じる。
触れる処から戦慄する、身体が。
「ぉ、いっ…」
「また消えられても困るからねぇ…鎖は繋げる内に繋いでおかねば」
「聞け、聞けよ」
「言い訳なら」
「俺の声聞けって云ってんだろ葛葉ライドウ!」
ふと、弄る手を止めた。
逆上するなぞ珍しくもなんとも無い、が…
久しく間近で見た、その金色の眼に思考回路を奪われた。
「…いっつも、俺の云う事なんかお構いなしに…奪いやがって」
戦慄く唇。
「身体奪って!自由奪って!手ぇ奪って!意見奪って!」
顰められた眉根、だがそこにあるのは嫌悪とも違う。
「場所も、サマナーも変わればリセット出来ると思ったんだ…雷堂さんは優しいし、俺の話も聞いてくれるし!人間に戻る望みを嗤わない!俺をしっかり俺として捉えてくれた!」
「そんなに、彼への賞賛を聞いて欲しかった訳?」
その比較が、僕を逆撫でしない筈無いと分かっているだろうに。
僕は哂って腰の銃に手を伸ばした。
「でも、出来なかった」
が、その手が、止まる。
「精神まで…あんたに、ヤられてた…っ」
嘆く声が湿る。どうしてそんなに震えているのだ、君は。
「中に在るのが、あんたのMAGじゃないと、寒…い」
伏せられた、睫が意外と長い君の綺麗な形の眼。
「ボルテクスからずっと、中を充たしてたモノが削がれて、あの時動けたら俺…三本松をきっと燃やしてた…!」
「おい」
「だからっ、最後まで聞けって云ってんだろ!」
云われて黙る僕も、どうかしている。
「…なぁ、巻き戻せたら、俺達も……友達になれたのか?」
君の肩を押さえていた僕の左手に、添えられた君の右手。
「そうしたら、最期にあんたを殺さなくて済むのかっ!?」
「黙れ!!」
僕から出でた剣幕で、ようやく君の声が止んだ。
此処で止めねば、僕が崩落しそうだった。
その短い前髪をぐい、と掴み、吐息が触れる程近くに寄せる。
「云ったろう…何処から、何時から繰ろうが、同じだと」
「…」
「そんな惰弱な思念に囚われ、僕に支配され続けている…どれだけ滑稽なのだ君は」
「…どうして…」
「さては、僕を下らぬ情で絆して、その隙を窺って」
「どうして、同じ顔なのに、俺には笑ってくれないんだ…」
もう、止めろ。
「どうして俺の事を」
その髪を掴んだまま、床に打ちつけた。
小さく呻いて、黙る人修羅。
痛みに歪ませるその相貌と、僕を睨み上げる双眸。
…それで良い、良いんだ。
要らぬ情は、破滅への入り口。
野望の為、君を引き摺り込めるまで、僕は支配し続ける必要があるのだから。
だって、いつまた僕を裏切るか。
いつまた、逃げてしまうのか。
幼い頃に教わった、捕らえた強い魔の者は、周囲も欲する、と。
主人を見限れば、するりと抜け出し、更に強い主人を求める…
だから僕は、悪魔にも人にも、完全に心を許さない。
飼い犬に手を咬まれる事程、愚かしい事は無い。
昔から、信じられるものなぞ…
“夜様”
一瞬ぎぃぎぃと枝を軋ませる音と、揺れる景色が…
翡翠色の騎士が脳裏を過ぎったが、掻き消した。
そんな感情、僕がこの手にかけたのだから。
「君の事なんざ、共謀者としか思っておらぬよ」
云いつつ、下の着衣に指を掛ける。
「待、て」
「これを剥がねば繋げる事は不可能だろう?ククッ」
「頼む…から…っ…」
床上で握り締められる拳、僕の跨る肢体がぶるりと震えた。
寒いの…だろうか。
「床、なんか、嫌だ…」
「…」
「嫌なんだ……っ」
何を云わんとしているのか、解ってしまう僕はおかしい。
それを滲ませる君も、可笑しい。
でも違う、きっと食い違っている。
打ち付けられ、頬を赤くした君に囁いてみる…
「寝台で行うのが、正常だからかい?」
「…ぅ」
「それとも、擬似的にでも求めるの…?」
「ぅ、ぅう」
「愛しいからまぐわう、恋人の様な行為を?」
「ち、違……床が痛い、からっ…!」
そんな間抜けな回答で、僕が納得すると思うのか?
毎回床の硬さより、僕の与える傷の痛みが上だろうに。
横目で睨んだまま返す君の声を、横から撥ね退ける。
「僕は床の上だって構わぬ程に求めてる」
「…!」
打ち付けられた頬の紅潮が…
羞恥なのか、それとも別の何かだろうか…それに変わった君。
…ああ、僕は
「僕は、君が三本松を燃していたなら、すぐ繋ぎ直さんと…あのまま板の間で君を喰らっていたよ」
「な、なに、云って」
何を口走っている。
「僕は…ねぇ…早く、繋がりたいんだ………矢代」
どうして僕から乞う様に求めている?
「鎖の先に君が居なかった、それだけで、引き摺る鎖が重かった」
「…」
「だから、この重さをその身に受けてくれ給えよ…ねぇ…」
そして何故君は、泣きそうな顔をしている。
「…それで…それで、俺の中のMAGを充たしてくれるなら」
「交渉成立、だろう?」
再び来た、この瞬間。
デジャ・ヴですら無い、ただ本当に繰り返しているだけ。
契約の名の下のまぐわいだけは、互いに赦し合えるのか。
「先…行ってる、気が変わるかもしれないぞ、俺」
噛み付く視線と声、しかし引っ張るその尾。
「…おい、さっさと、来いよ…」
逸らされる視線に、人修羅の羞恥を感じて思わず哂った。
「寝室に誘い込む娼婦の様だねぇ功刀君、ククッ…」
「ざっけんな…床は、身体が痛いから、だ、本当に…」
僕の下から這い出して、ふらりと扉へ歩む人修羅。
細い肩は、項垂れつつも緊張している様子だった。
いつまで経っても慣れないのだね、その身体は。
僕なんか、十の齢には悦ばせ方すら会得していたのに。
(どうして汚れぬのだろうか)
例えば、いつもと真逆に…
…もしこの後、優しく包んだなら、君はどうなるのだろうか。
(恋人の様に)
契約と関係無しに…微笑んで抱けば…
同じ様に君も返してくれるのか?
同じ様に君も……求めてくれるのか?
(精神をヤられたのは、どちらだ?)
廊下に消えた君、閉まる扉の隙間から一瞬絡んだ視線。
睨む様な、戸惑う様な、僕を縋る眼。
…ねぇ、矢代…後ろ暗いだろう?しかし、視える先とて暗いだろう?
僕を縋るというのは、そういう事なのだよ。
最期まで、僕がするのは、きっと支配なのだから…
だって、あんな感情、与えられた事も無いのに、知る由も無い。
「フフ、馬鹿げてる」
さっさと契約のまぐわいをして、烏の巣へ行こう。
其処で厄介事を人知れず消して、元の、日常へ。
人修羅を使役して、共に闘い、嬲り、名を呼び求め殺し合う。
本来の道に、戻るんだ…ようやく…
『厄介者?お前ダロ?紺野夜』
即座に抜刀し、神経を研ぎ澄ませる。
その声が何処から来ているのか、感覚を張り巡らせ、視線を流す。
「…何処だ」
『確かに帝都守護はごくろーさんってトコだけど、お前は危険因子だよなぁ』
おかしい、どうして声に角度が無い?距離が無い?
胸元の管を指先に撫ぜ、召喚する索敵の狗。
『アォォオオオン』
「探れ、位置を」
僕の周囲を旋回して、MAGの帯をたなびかせるイヌガミ。
この部屋、いや、銀楼閣全体ですら容易いであろうその索敵範囲。
だというに、イヌガミはどうして一所を中心に彷徨う?
『ラ、ライドウ…』
「どうした、捉えられないのか!?」
『…ライドウカラ』
その狗の眼が僕を正面から捉える。
瞬間、右腕が刀の柄を強く握り締めた。
がくりと肩が上がって、イヌガミの首と胴の境を刎ねつけた。
「っ!?」
キャウン、と、まるで犬そのものみたいな悲鳴でふわりと床に落ちた仲魔。
己の右腕を、急いで左の手で押さえ付ける。
どういう事だ、僕はイヌガミを斬ろうなぞ、考えてすらいなかったのに…
『取引は成立、お前の魂はもうオレのモノ』
脳内から響く…この声。
その台詞から、ようやく正体が掴めた。
「…まだ、早いだろうが…何故」
震える腕を掴みつつ、口にすれば、頭に返される回答。
『お前さァ…何処通ったんだ?身体は確かに老いないがな〜…クケケッ』
「……ク、クク、それはそれ、は…早く、云って欲しかったねぇ」
『次元の回廊を行き来すりゃ、そら魂は老いるよなぁ?エ?葛葉ライドウ?』
笑い声が、嗤い声が、脳に響く。
僕の魂を半分喰らった状態の影法師が、半身から送り込む言葉。
(くそ、読み違えた…)
どうしてそんな事にすら気付かなかった?
それほどまでに、僕は急いていたか?
愚かだ。
『ま、お前の野望とやらは成就させてやるよ…!餞別になァ』
その声と共に、押さえていた左手が今度は勝手に動く。
『お前を嫌ってる烏の連中も、慕ってる一部の奴等もよ』
勝手に、指を鉤みたく曲げ、爪で薙ぐ真似をする手。
『皆皆、お前の身体でぶっ殺してやっからよぉ?気が済むだろ〜?え?』
ぐぐ、と左腕に力を籠めるが、気休め程度しか制御出来ぬ。
「…僕は、確かに憎んでは、いた、が…!」
殺したい、訳では無い。
巣を破壊したい、だけ。
『いちいち言い訳すんなって!全部ぶっ殺したいんだろぉ?お前の精神を殺してきた奴等をよ〜…使役する悪魔で、切り刻んでさ〜…キッ、キシシシ』
「うるさ、い」
『もう殆ど喰ったから解ってるぜ?苦労してたんですねぇ〜葛葉ライドウサン!』
「黙…れ」
『お前の影で良かったぜぇ?だってよ、すっげえ影濃いから』
云い返すつもりで息を吸えば、ギリリと捩じ切られる感触。
引き攣った声と同時に、喉から出たのは赤。
「ぅげ、はぁ、ッ…」
内臓を潰される様な痛み、自由な右手が胸に伸びる。
刀が、赤い水溜りにカラリと落ちた。
『憎悪に滾ってるヤツ…業の深いヤツ…どいつもこいつも影が濃い、乗っ取り易い…ヒヒッ』
「は…っ………は……」
『そろそろ全身が本当の意味で自由になるだろうよ!そしたらお前、まず手始めに…』
床を荒い息で見つめる僕の眼前に、左手がすい、と翳される。
『この手の悪魔からぶっ殺そうか?』
心臓が、抉れる痛みに軋む。
『お前が妙に執着してっからさ〜オレも妙に気になるんだよぉ、アイツ』
「お、い、貴様」
声が鮮明に響く、僕の海馬から引きずり出される、人修羅の記憶。
『聞いてたぜ?上で待ってんだろ?まな板の上の鯉みて〜にさ、ゲヒャヒャッ!馬鹿みてー』
「貴様の、為では、な、い…っ」
『じゃあ誰の為だってんだよ?お前?んなわきゃねーだろ?キシシ…』
右腕が動き出し、赤く濡れた刀を手にする。
その刀身に映る僕は、酷く青ざめて死人の様だ。
『お前なんざ誰からも愛されちゃいねーから、とっとと入れ替われよ!狐!』
「…を」
『お前が現に居るとオレが此処に居られねぇんだよ!燻ってんならさっさと消えちまえ!』
「人修羅…を」
刀身に映る僕が、口の端を吊り上げた。
「人修羅を殺すのは、僕に、させろ」
影法師の声が、止んだ。
荒い呼吸の僕が、少し息を落ち着けた頃にようやく響いた。
『オレが殺すよか、そっちのがオモシロソウ…』
右腕が、不自然な痙攣を止め、感覚が元に戻る。
『イイぜぇ…それ、ノったわ』
右腕が、僕の意思で動く。
『そ〜だなぁ…犯しながら殺せよ、得意だろ?人の皮ぁ被った悪魔がよ』
「っ、ふ、ふふ…よく、解ってるじゃないか」
『お前の影だぜぇ?愉しいの優先だよ!じゃなきゃ意味ねぇだろがよ!ドス黒い魂なんだから…相応に生きて死ねっ!キャハハッ』
「そう、さ、破壊のみが僕に赦された、道だ」
知っている、そんな事は。
それの為に生かされていた、それが存在意義だと。
奪われる者から、奪う者に成った瞬間…僕は知ったのだ。
僕がこの先、死ぬまですべきは、完全なる使役。
デビルサマナーという業は、隠れ蓑。
僕の…復讐の為の。
嗚呼、赤い焔は、里を燃す僕の妄想。
『さあ、上に行け…あの悪魔を殺せ…!』
「…クク」
『オレに奪われる前に、奪っちまえ…アレの魂を!』
背中を押す影法師の声。
云われなくとも、解っている…
彼を、他に殺される位なら…
あの美しい斑紋に、刀の切っ先を通してみたい。
捌いて、開いた肉は、人間のモノと同じだろうか?
知りたい、その中まで。
それをした時の、僕を見る眼を。
その瞬間、憎しみが宿るのか、それとも……
(それとも)
数歩踏み出し、翳した右手の刀。
暗い部屋に、ぼんやりと浮かぶ、微かな魔力を滲ませた銀色。
僕にこぞむ黒き姿を…薄く、照らし出す。
「僕は…」
やはり破壊しか出来ない
「僕は、勝負に負けるのは、嫌いでね」
映り込む影の位置目掛け、刀を突き刺した。
腰骨の辺りだった、そこをずぶりと刃先で抉る。
よく人修羅に縋らせた腰骨。
『ななななにしてんだ手前ぇえええ』
煩く影法師の警鐘が鳴り響く、同時に痛みが押し寄せる。
「逃がすか…!」
ぞぞぞ、と中で蠢くのが、今度ははっきりと判る。
勝手に駆け出して往く両脚。
『上行ってさっさとオレがアレをぶち殺す!』
慌てた影法師の声に、哂いが零れた。
「クク、逃がさぬと云ったろう?」
人修羅によくした様に、此度は己の両脚の腱を一閃する。
迸る鮮血が、周囲の家具を濡らしていった。
勝手に駆けていた途中の僕は、勢い良くつんのめって転がる。
『げえええっ!!んのヤロォ!!』
駄目になった脚の先から、どくどくと血が伝い流れていく。
が、まだびくびくとしつこく這うこの腿。
右手の刀をくるりと指で持ち直し、上体を捻る。
「行かせるか…!」
右腿から、思い切りその切っ先を突き、引き締まった筋に潜り込ませていく。
「ぁ ぁ あ ぁあっあ゛」
『イカレてんじゃねえのか手前!?寄越しやがれってんだよ!』
どうしても発される雄叫びの様な悲鳴の様な、獣じみた声。
ぶちぶちぶちぶち
千切れていく、僕の脚。
この腿で、よく人修羅を挟み馬乗りになった。
もう、それも出来なくなった。
右に続いて左の断面も露わになって、骨の白が暗闇に鮮やかで。
腿の付け根から先、神経が伝わる構造は途切れた。
「ごぼっ、げ、ふ…っ!…ふ、ふふ!おい、どうした、手脚しか無理か!?」
中で影が位置する箇所を、限定させた。
まだ完全に乗っ取れぬ影法師は、僕と同じく急いたのか、極所しか動かせぬ様子。
この不完全な魂の成立に、勝機を見出す。
「ほらほら!さっさと中で逃げ回り給えよおおっ!!」
胎か?腕か?ぞわぞわと這い登ってくる、蛭みたいに僕を蝕む。
その影目掛け、ぐずぐずと刺していけば、読み通りに刀を持つ腕へと来た。
『欠損したカラダなんて寄越すんじゃねえよ!やっぱ頭オカシイんじゃねえのか!?本当に人間かぁ!?おいおいおいぃぃ』
刀を自由にさせやしない。
「く、ふふっ、逃げ場が、無いのは貴様だ、影法師…!」
『ほざきやがれぇ!テメーだよ葛葉ライドウ!!』
右腕の指先まで来た、蠢く陰り。
柄をぎり、と握り締めたのを確認した瞬間。哂った僕、きっと無意識だ。
「馬鹿な奴」
僕は誰に云っている?僕にか?
『っ〜!!!!』
声が遮断された。
理由は明白。僕が左手で、右腕の肘から先を刎ねたから。
人修羅の斑紋が煌いて、刀ごと僕の右腕を吹っ飛ばす光景。
腕は事務所入り口の傍の壁にブチ当たり、赤い飛沫を散らしつつ転がる。
噴出す鮮血が生温かくて、しかし胸元のホルスターがぎゅうと締め上げる。
肩口に魔力が巻きついて、じわじわと血を引き止める。
(確かに、簡単に死なぬ、な)
ルイに装着させられた黒いホルスターが、失血死を赦さない。
ああ、分かり易い、嫌がらせだな。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
まだ、始末出来ていない。
影法師を具現化させる術を、脳内で探す。
奴が新月に現れるのは、辺り一帯が影となる為。
月の魔力に照らされて、縛られる事を避ける為。
(光、が欲しい)
電灯でも、ただの火でも無い。
魔力に満ちた光が…僕には発せぬ輝きが…
「よ る」
ばたん、と開かれた扉。
僕を見たその瞬間、ぶわりと空気さえ変える程に立ち昇る魔力。
そう、其処に姿を現した…光る斑紋の悪魔。
ガタガタガタガタ
その彼の傍に転がっている僕の腕が、美しいその光に炙り出されて見えた。
「よる!ヨル!夜ぅッ!!」
「邪魔するな矢代!!」
飛び出しそうな人修羅に命じる、主人として。
一人の僕として。
「僕の勝ちだ!」
ニィ、と鉄の味を噛み締め、左手で腰からずり落ちたホルスターを探る。
探り当てた特殊弾を即座に歯に咥え、外した回転式弾倉に詰め、振って戻す。
がしゃん、と撃鉄を親指で引き起こし、霞む視界のまま狙い定めた。
「消えろ、影法師…!」
血塗れで発動さえ怪しいリボルバー、引き金を絞る。
具現化した黒い影と共に、僕の右腕を撃ち抜いた。
すると、轟々と燃え、肉の焼ける臭いが立ち込めていく。
同時に、黒い気配も煙と共に掻き消えて逝ったらしい。
黒煙が爆ぜるかの様に現れ、飛散したのを最後に耳鳴りが止んだから。
「ふ、ふふ、ほぉら、僕が…勝った…ク…ククッ」
当然だろう?自ら持ちかけた取引に、敗するなぞ愚かしい。
左手に掴むリボルバーを、床に落としたのかと思ったが
そうでは無かった。僕がぐしゃりと床に崩れただけだった。
瞼はまだ開いているのに、どうしても霧がかかるみたく霞む。
ぐい、と視界が流れて、飛び込んできた金色。
「お…い、何、してんだ、あんた」
僕を抱き起こしているのか、人修羅。
「な、あ、何?何してんだよ、本当に、なあ、なあってば」
馬鹿みたいに、返答すら待たずに繰り返す君。
いつも云っているだろう、少しは読め、と。
「なぁ…なぁ夜」
頬に、生温さの無い液体が降った。
先刻からしつこかった血では、無い。
「蹴れる脚も無いんじゃ、あんた、らしく、無い」
まったく以ってその通りだ。
思わずふ、と鼻で哂ってしまった。
「げふっ!げぇっ、が、ああっ」
それですら器官に響き、咽て血が噴き出す。
ぼんやりと見える君の頬に、それが付着していった。
斑紋が赤く染まって見える…
更に眉根を顰めた表情なものだから、瀕死の君を思わせる、ね。
「何と戦ってたんだよ!?なあ!?」
「…っふ…何だって…構わぬ…だろう」
ようやく発せた声は、僕らしくも無い、張りも艶も無い。
「影…とか云ってた、よな、先刻」
「もう殺した……前々から、君で炙りだせば良かっただけの話、だっ、た」
己の矮小な姿を見られたくなくて、影法師とは基本、戦わせなかった。
そう、あんなに単純で粗野粗暴な影…
僕の、酷く単純な本質を、君に見られるのが腹立たしかったから。
そう、本当は…酷く、単純で、直情的、なのだよ。
まあ…君は気付いていたかも、知れぬがね。
「お、俺、ディアラハン使える仲魔従えてない」
「おいおい…見て、判らぬのか?君、は」
こんな身体、治癒の術でどうこう出来る訳無いだろう。
それすら判別出来ぬほど、どうして動転している?
「契約は、どうしてくれんだよ、あんた」
「…」
「は、はは、馬鹿みたいじゃないか俺、何?一応、水かぶって、綺麗に血汚れ拭って待ってたの、に」
「…へぇ、気が利く、ね、珍しく」
「だ、って、またあんたが切れると思って、また蹴りが飛んで」
云いつつ、僕の背に回されている腕がビクリと震えた。
「…もう、蹴れないじゃねぇかよ……っ!夜!」
どうして、そんなに嗚咽してるの?
「羽交い締めにも、出来やしない…っ……」
「クク、そう、だねぇ」
勝手に動いているのかと思ったが、どうやら今、左腕は僕の意思で動いている。
その、頬の斑紋を撫ぜる様に、雫をするりと指先で拭う。
金色が細められ、続いて君の手指が重なってくる。
僕の身体よりも、今となってはあたたかい。
「でも、左手は残っている、だろう?」
「…ぅ」
「此処まで、奪られたら…勝負に出た、意味も失せる、から、ね…」
「ぅうううッ、あ」
「…ねぇ、功刀君…、何、泣いてるのだい…君、さぁ…」
「あ、あああんた、上で云ったろ、名前忘れてると思ったとか!」
ああ、云った、そういえば。
「憎い名前を忘れる訳、無い…ッ」
また、そうやって“僕”を引き留める。
どうして十四代目葛葉ライドウで居させてくれない。
嗚呼…身体が、痛、い。
「ボルテクスからずっと俺の頭ん中は、夜、夜夜夜」
「…」
「あんたでしか、埋まってないのに!どうして先に退場すんだよ!?」
「フフ…何を、云って」
「俺を殺すのはあんただけなのに、あんたを殺すのは俺だけなのに」
「……」
ああ、おかしいな。
君を殺そうと、純粋に思って、影法師に持ちかけた筈、なのに。
どうしてこうなった?
何故僕は、僕に刀を突き立てた?
何故…
何故……
(あ、あ…そう、か)
僕は
雷堂が…“日向 明”が…
羨ましかった、のか。
「ほら、ね、僕は…破壊、が好きなのだよ」
擦れた声でも、発する事が出来る今の内に…君を突き放そう。
「勝負には、勝たなければ、気が、済まぬか、ら…ふ、げふっ!ごぽっ」
そう、破壊しか出来ない僕だから。
あんなにも堂々と「大切なものを護る」と公言出来る雷堂が…
明が酷く憎かった…妬ましかった…
僕には赦される事のない、その言葉が…
だから、僕を破壊した
僕なりの、やり方で
君を…
「夜!」
うつろう意識が、呼ばれてふと、覚醒する。
「あ、あり…」
ぎゅう、と、締め付ける、腕。
「ありが、とう」
包んでくる腕は、どうしてか突き放す気にならない。
僕を犯す烏の豚だとか…あの、雷堂の義母だとか…とは、まったく違う。
「それ、破壊じゃ、無いから…なあ、だから、もう自分を、赦せ、よ」
何故君がそんな事を云い出すのかと、疑問がじわりと浮上した。
すれば、後方から感じられる、微かな魔力。
僅か僕のMAGを吸い、かけられた術。
(イヌガミ……余計な、世話、だ)
息も絶え絶えに、何をしてる…主人の命令外、だというに…
僕の感情を、勝手に、人修羅に…流すな。
それを遮断出来ぬとは、もう…僕は…駄目だ、な。
………
どうせ、感情が、だだ漏れなら、僕の真意を教えてあげようか…矢代。
(痛い、苦しい)
(両の脚が無い、駆けれない、蹴れない、君に寄れない)
(右の腕が無い、羽交い締めに出来ぬ、絞めれぬ、撫ぜれぬ)
(視界が霞む、君の顔が、斑紋がよく見えぬ、金の色が遠い)
「…よ、夜……」
(離れたくない)
(ボルテクスから拾い上げたのは僕なのに)
(どうして僕ばかり)
(どうして明ばかり)
(学校に、もう少し、行きたかった)
(教師になりたかった)
「ふ、あ、ははっ…どう、だい?馬鹿げてる、だろ?」
「…ぅ、ううあ、あああ、あっ」
「僕は…僕の、したいように、したまで、だ」
「お、俺、この先どうしたら」
「君の事、は、悪いが…考えて、やれ、ぬよ、ふ、ふふっ」
(アマラ深界)
(夜の桜)
(初詣)
(河川敷の二輪)
(冬苺)
(一緒くたの晒)
「そう、君の事…なんて、ねえ…ただの…使役悪魔…」
(矢代)
(僕は)
(やはり怖い、死にたく…無い)
「夜、頼むから…もう、言葉に、してくれ、よ」
僕を抱き締めて、震える君の腕と声。
だって、充分だろう?頭には流れているのだからさ。
とても、僕が発して…良い言の葉では無い。
…ああ、身体が、燃えるように熱い。
それなのに、頭は酷く冷たく感じる。
真っ赤に染まった周囲が、連想させる。
曼珠沙華の…海…
僕が捨て置かれていた…あの海に…今、還る。
「ね、え、矢代」
ああ、でも、これだけ確認しておこうかな…
首を少し傾けて、その金色を僕の眼で繋ぐ、昔のあの瞬間の様に。
頬を、何かが伝った気がするが、きっと血だろう。
「僕、君を護れた…かなあ…?」
君の泣きじゃくる声が、あの赤い海で泣き叫ぶ僕に重なる。
嗚呼…その徒花に包まれて、誰を呼ぶのだろうか。
救いの手を、傷つけ合い、確かめ合い、舐め合う。
僕は君を拾うつもりで、僕を拾っていたのかも知れないね。
君は僕の代わりに人間に戻ろうとしてくれていたり、してね。
ねえ、ようやく、解った…よ………
熱いと思っていたのに、どういう事だろうか。
なにやら、涼やかな風が舞い込む。
振り返れば、ブランコの上に立つもう一人の僕。
微笑んで、下の焔の海を眺めている。
「ねえ、その風を追って御覧」
するりと飛び降り、燃える海をかき分けて、此方に来る。
「手脚は在る、僕が思えばね」
はっとして見れば、確かに四肢が在る。
「行き止まりでは無いよ、追って御覧ってば…気付かぬとは、馬鹿だね僕」
ニタリ、として指を向けた。
「ほら、焔は迫る、急ぎ給え」
あの曼珠沙華達が、小波の如く燃え立つ。
その熱に、堪らず振り返りつつ駆け出した。
風は、僕の向かう先を促す、導く。
ボルテクス界の荒野にも似た、乾いた、冷たい風。
行き止まりまで来ると、脚が突然埋まり、下に呑み込まれる。
水の中は羊水の様で、アマラ深界の最下層を思わせる。
「夜」
声がする。
「夜」
懐かしい様な、幾度も聞いてきた、その呼び声。
抜け落ちた先、水の薫り。
嗚呼、涼しい風は、此処からだったのか。
「夜!」
向かいに見える、君の姿。
血の様な赤ではなく、優しい桃の色が舞い散る。
そうか、僕の中に…こんな処が、在ったのか。
しっかり、君も居たのか。
そう、か。
「おいで」
あの時と逆に、君が僕に呼びかけた。
僕は熱から逃れた安堵と、心地好い水音に耳を澄ませ…
君の手をとろう。
「矢代…今、行こう」
どう?上手く、笑えている?
窓の外、新月の中で桜が舞い散る。
少し前、ライドウと見た景色を思い出す。
今、静かに微笑む夜を抱いて
ただただ、暗闇に人知れず散り逝く花を…俺は眺めていた。
その晩、帝都の桜は全ての枝で咲き誇った。
新月の涙・了
* あとがき*
その瞬間に気付いた。
本当は護りたかった。
そんな事、口に出来なくて。
苦しかった。
…今、君に真に微笑もう。