序章
「晩ご飯はどうするの?」
リビングからの母親の声に「適当に残しといて」と答え
スニーカーを履きつつ玄関の戸を開けた。
外は微妙な空模様だった。
少し肌寒い街中を過ぎ、電車に揺られていると…
(そういえば、先生の病室って何処だ?)
とか、今更ながらに頭をよぎった。
(新田が知っているだろうから、問題無いか)
すぐ解決させて電車を降りた。
新田は俺を先生との架け橋にしている。
これは本人も認めているので、別に責める気は無いが
正直疲れる…
新田というより『先生』に。
あの先生の視線が痛い。
何故あんな眼で俺を見るのだろう。
それは教師とか、異性とかではなくて
もっと、内面を抉られるような。
別に成績は底辺じゃないのに。
いやいや、そんなのでは無く…
などと考えているうちに、喉の渇きを覚える。
(公園の自販機にでも寄るか…)
ふらふらと公園に足を延ばした。
結局ヨヨギ公園で、変な男性から
変な雑誌を押し付けられてからは
何事も無く予定通り、病院に到着しそうだ。
しかしそれは訪れた。
病院近くの交差点に差し掛かった時に
黒猫?
黒猫がこちらに向かってくるのが
見えた
と思ったら次の瞬間
黒い…
黒い外套が覆い隠した
足元から視線を上に移す。
学生帽をした同世代の少年。
(青年のようにも見えるな)
しかし
なんともこう、時代錯誤な。
だが周囲は目もくれない。
俺にしか見えていない?
(まさかそんなフィクションじみた事…)
「起こり得ないと思っていた?」
…えっ
なんだ今の。
(まさか俺口に出していたか?)
「それは無い、安心して頂いて結構」
!!!!
この人…
「ち、超能力者?」
思わず、聞いてしまった。
するとその美丈夫は一瞬の間の後に
「まさか」
と微笑んだ。いや、もしかしたら嘲笑なのだが。
ミャウ
黒猫が急かすように鳴く。
するとそいつは黒猫に向かって「そうですね」
とか何とか喋りかけている。
超能力と猫への語りを見て怖くなった俺は
唖然としつつも強張る足を動かした。
「何か知らないですけど、今急いでますから」
横を通り過ぎ、病院に向かって踏み出すと
「その身体、お大事に」
と背後から凛とした声が聞こえてきた。
どういう意味だ。
これから病院に行く事が分かったからか?
それとも…
死相でも出ていたのか?
ゾッとする。
何より彼の『こちらを知っている』かのような動向が。
そして自ら感じる謎の既視感に。
「遅い!何してたのよ功刀君!」
病院に着くなり橘さんの怒号が飛んだ。
彼女は結構なお嬢様で、絶対の自信を持ったタイプなので
下手な抵抗はしないに限る。
「ごめん、新田にも連絡貰ってた」
「新田君なら今、先生探してる」
?…どういう事だ。
「なんか変じゃない?この病院」
橘さんの怪訝な表情を見た後、周囲を見渡す。
確かに、誰も居ない。ロビーが空いているのではなく
受付すらものけの空だ。
「ちょっと、功刀君も確認してきて…って」
更に怪訝な表情になる橘さん。
「何、その雑誌?」
俺の手にした雑誌を眼で射るようにつぶやく。
「あ、これは…公園で貰った」
すっかり忘れていた。
あの怖い外套男に会って、記憶から抜け落ちていた。
「貰ったって、あなた…何かの勧誘だったらどうすんのよ」
呆れつつ雑誌『妖』を取り上げた彼女は、読書体勢に入った。
動きそうに無いな…
「新田探してくる」
こうなれば適当な部屋を回るしかない。
病院というのは静かな場所だが、ここまで静かなのも正直…
「新田〜」
彼の名を呼びつつ廊下を歩く。
どちらかといえば小さい病院だが、さすがに当ても無く探し回るには重い。
新田には苦労させられているが、この状態の病院で独りにさせるのも気が引ける。
と、順に開けた戸の奥から息を呑む音がした。
「っ!……んだよ〜…驚かすなよ矢代」
新田だ。この日の為にめかしこんできたようだ。
「このくらいで驚くんだ」
「うっせ」
「フン、強がるなよ。先生は?」
また言い返してくる前に重要事項を聞いた。
噛み付きそうな表情の新田は首を振り
「いや・・・それがどこにも、って感じ」
「俺達じゃ対応出来ないよ、この様子だと警察にでも」
「ばっか、ここは俺達いや俺が巻き込まれた先生を助けてGOOD・ENDだろ」
馬鹿はお前だ。
と言うのを堪え、はいはいと新田の後を追う。
結局、何故か俺が地下捜索に行く事になった。
なんで新田がキーを持っていたのかも微妙に思いつつ、エレベータで降る。
冷たい扉が開く。
ひんやりとした空気が身体を包み込む。
動悸が上がる。
何があったんだ、此処で。
散乱する物、良く見れば血の乾いた跡が床を汚している。
自らの吐く息が白い気がする。
戻ればいいのに。
何で先に進んでいるのだろう…
引力が働くように、奥の扉を開ける。
無感動にその部屋を見つめている自分。
黒魔術っぽい、そんな外連味溢れるインテリアで統一してある。
儀式?改造手術?
チープなイメージが脳裏を掠める。
変な宗教だったとしても、血痕が本物なのだ。
もう引き返すべきなのに。
更に奥の部屋に吸い寄せられる。
あ…この部屋は。
なんだろうか、また既視感が。
「・・・誰だね」
その部屋の中央、椅子から男性の声がした。
「あっ…」
ゆっくりとこちらに椅子を回転させたその人は、氷川。
サイバースの偉い人だ。
TVで何度も見た、時の人という奴である。
人が居たから安心するのが普通なのに、何故か怖い。
しかし、この無音が危険な気がして咄嗟に
「た、タカオユウコという入院患者を探していて」
口走った。
氷川は四月がとか、静寂がとか言っていた気がするが
俺の耳には単語しか引っ掛からずに素通りしていた。
「…その先生は見つかったのかね?」
「い、いえ」
氷川の手首の数珠が煌く。
「もうすぐ何が起こるのか知ってか知らずか…いずれにせよ」
瞬間、爆ぜるような音が響いた。
何が起きているのか分からず、目をつむる。
開いた時には、氷川の傍に意味不明なモノが浮いていた。
「ここで終わらせてあげよう」
氷川の口から衝撃的な言葉が紡がれた。
「な」
なんだあれは。
黒い山羊のようなソレ、でも体は人のような。
こちらに向けてくるのは明らかに<殺意>だと判る。
体がすくんで動かない。
ソレがこちらに寄る、眼が合う。
俺の姿が映りこむくらいに大きい眼。
恐怖に絡みつかれ動けない人間を写した双眸。
俺には今、汗だけが流れている、汗が頬を伝う感触がする。
ソレが、頭を近付けてくる。
「あ っ」
ソレに舐められた。
額から顎に流れた滴を、舌かなにかで。
混乱した頭でも理解できる、楽しんでる、という事。
ソレはこれから俺を殺すんだと。
嬲るんだと。
「止めなさい!」
女性の声に場が凍る。
ソレ、も停止した。
「矢代君…巻き込んでしまって、ごめんなさい」
停止した俺とソレの間を割るように入ってきた。
「せ…先、生?」
何故此処に?
意味が解らない。
「祐子先生、困るのですがね」
氷川が数珠を鳴らす。
ソレが下がり、氷川の傍に行くと消えた。
「だからと言ってここで貴方が彼の命を奪う権限は無いわ」
先生が命とか言っている。
やはり、俺は死に掛けていたのか。
「受胎を起こす貴女が言えた台詞かね」
「この場に居合わせたのだから、最期くらい自分で決めさせてあげて」
最期?
「矢代君、この後屋上に来て頂戴」
話にも置いてけぼりをくらった俺は、先生の去る姿を追う気力も無かった。
氷川はもうこちらに背を向けて、自分の世界に浸っているようだった。
一刻も早く此処から出たい。
その一心で奮い立たせ、部屋を出た。
「はあ、はあ」
さっき心臓は止まっていたのではないか?
そう思わせるくらいに、急始動した。
震える脚を棒みたいな動かし方で、エレベータに向かう。
このまま病院を出たら殺されそうな気がして、もう半分くらい自暴自棄だ。
おかしくなっているのか、人の幻影まで見えた。
黒ずくめの、2人組。
喪服のようだから、一瞬お迎えかと思った。
外の空気が吸えたらそれでいい。
その思いで屋上へと上がった。
「来てくれたのね、矢代君」
雲っているものの明るい空の下、こちらを振りかえる先生。
「入院中じゃなかったんですか、さっきのは何ですか」
箇条書きを読むかのごとく、矢継ぎ早に質問をぶつける。
「矢代君、この世界は」
「質問に答えて下さいっ!」
思わず怒鳴ってしまった。
「この世界は終わりを迎えるわ」
しかし、そんな俺の質問を跳ね除ける返答。
世界の終わり?
「何ですかそれ、まさかあの雑誌に載っていた東京受胎ってやつですか?」
鼻で笑いながら俺は言ってやった。
「その通りよ」
「…」
笑えない。
さっきの出来事の後だ、信じ…られる。
嫌な予感は、正直していた。
今朝見た夢も、既視感も。
(俺は何か知っていたかもしれない)
でも、世界が終わる事を知っていても意味が無いじゃないか。
「私には創世の巫女としての役割がある…矢代君、貴方は…」
「…」
「もしかしたら、死ぬよりも辛い事が待っているかもしれない」
「…」
「〜〜〜」
もう聞こえない。
聞きたくないのかもしれない。
新田が俺の立場なら本望だったろうに。
とか、しょうもない事を考えていたら、辺りの空気が変わった。
「受胎が…東京受胎が始まるわ」
先生の声に呼応するかのように、
空も空気も紅く黄昏に染まった。
人が、草木が、蒸発するかのように光の粒子になって空を昇る。
歪曲した大地が眩しい太陽を包み込んでいった。
俺の意識も真っ白に包まれて、もう考えることが、できない。
序章・了