アマラ経絡再び

 
「あんたが功刀さん?」
俺が声を掛けると、そいつは読んでいた本から
ちら、と視線だけ寄越して間を置く。
「…何の用」
無表情な声音に、俺は一瞬たじろいだが
お得意のノリの良さを前面に押し出して続けた。
「あのさ、祐子先生と何か接点でもあるの?」
功刀矢代は沈黙の後、本を閉じて机の隅に置いた。
「それ、高尾先生の事?」
「そ!高尾祐子センセ!」
ニンマリ笑顔で云う俺に、簡素な答えが返ってくる。
「別に、今回担任になったってだけだよ」
「えぇ、だって先生、功刀にすげ〜愛想良いじゃん!」
「知らない」
こいつ、あの先生の言動を見て知らないと?
ならその数割でも俺に恩恵をくれよ。
そう思い、少し胸がムカムカしてきた。
「あんたが一年の時、祐子先生が担任だった?」
「…今日二年になって初だけど」
もう相手にしたくないのか、再度本に手を伸ばす功刀。
させるかよ、と思いその本をサッと取り上げる。
「待て待て〜ぃ、話は終わってないっつの!」
「っ…返せよ!」
互いの手が、その本を滑らせる。
宙で支えを失った本が、教室の床にばさりと落ちた。
折り返し部分が外れ、ブックカバーから剥き出しになった表紙。
“残り物で作るおかず”主婦の友社
「…」
「…」
そのまま沈黙した俺達は、どちらともなく動き出した。
俺は席に戻り、功刀矢代は本を拾って
机の横に掛けてある学生鞄に放り込んでいた。

それがあいつと初めて話した日。
高校二年生に成った日だった。

「でさ、あいつの読んでた本が傑作でさぁ!」
俺は先日見たあいつの本をネタに男子数人と盛り上がっていた。
「でも今のご時勢、料理は出来るに越したことは無いな〜」
爆笑しつつも、そんな意見が出て
俺は内心舌打ちしていた。
ここで体良くあいつが槍玉に挙がりゃウケたのに。
そんな底意地の悪い感情が在ったのは、認めざるを得ない。
「あいつ帰宅部だし、正直よく分からないよ」
「付き合いもそんな良くないし…まあ、悪い奴じゃ無いけど」
両サイドから聞こえてくる意見に、俺はとある決心を固めていた。
「よし、功刀を架け橋にして、祐子先生と仲良くなってやる」
「はぁ !?」
呆れかえる周囲をよそに、俺は浮き立つ気分で
少し温くなったパックの牛乳を飲み干す。
「目指せ先生と俺の夢世界〜♪」
そう云って俺は、ロッカーと戸の間のゴミ箱に向かって殻を投げる。
それは俺の希望とは全く別の運行ルートを辿り
開いた戸から入ってきた生徒の頭に見事命中した。
渇いた音を立てて、そいつの頭に当たり
からりと足下に落ちていった。
「あ…」
「…」
眼と眼が合う。
そいつのする眼鏡越しにも分かる、その怒気を含んだ眼。
「あ、功刀…悪ぃ」
「…ゴミは…ゴミ箱に棄てろっ!」
俺の謝罪も終わらぬ内に、功刀は拾いあげたパックを
こちらに向かって思い切り投げつけてきた。
俺の額に一直線に飛んできて、俺は顔をのけ反らせた。
「功刀ナイッシュー」
「新田の負け」
両サイドから聞こえてくる歓声に
俺はパックを握り締めて叫んだ。
「俺はゴミ箱じゃねえっつの !!」

互いに印象は良いとは云えなかった。
しかしそんなある日、俺に祐子先生から指令が下ったのだ。

「ええっ、マジすか先生〜っ!」
「嫌なの?」
「い、いいえいいえぇ!祐子センセの頼みなら地の果て海の底!」
まくし立てる俺に、溜息混じりの笑いを洩らした祐子先生。
「じゃあ、頼んだわよ?しっかり出来るわね?」
「勿論ですっ」
渡された資料を手に、地図を頼りに歩みを進める。
何でもこれ、進路関係の資料だとか。
先生に会いに、職員室に遊びに行った際に頼まれたのだが
(これは先生との接点を増やすチャンスじゃん)
俺は功刀への思いやりなど考えずに
この“功刀矢代宛の資料”を手にしてぶらぶら歩いていった。

(あっれ、この家の筈なんだけど)
インターホンを鳴らしてもうんともすんとも反応が無い。
まさか、覗き窓から俺と認識して開けない…とか?
いや、流石にそこまで嫌われちゃいないよな?
自問自答して、玄関口をうろうろしていた。
すると、背後で行きかうエンジン音のひとつが止まった。
「…新田?」
呼ばれて振り返れば、二輪に跨った男。
「えっ?ど、どちら様?」
頭に?が浮かぶ俺に、そいつがメットのシールドを上げた。
「何してるの?人の家の玄関で…」
「あれお前!眼鏡は?」
「バイク乗る時と体育有る日はコンタクトだけど」
最初分からなかった、功刀だと。
おまけにバイクとな。
(意外とアクティブじゃね〜かよ)
何だ?このギャップが先生受けの良さの秘訣か?
「祐子先生から荷物預かってる、届けてって云われてさ〜」
片手にその資料の封筒を持ち、振る俺に向かって
二輪を駐車した功刀はメットを外し、いぶかしげな顔をした。
「なんで夏休みにお前は学校に居るんだよ」
「そりゃ俺のスイートラバーに逢いに」
その俺の台詞に、功刀は一瞬停止した。
(お〜多分呆れてる)
もうこいつにはとことん俺の先生愛をアピっとこう。
そう思い、半ばヤケクソに近い発言。
「ところでお前暑くないの?長袖とか」
「…バイクに生身で乗りたくない」
ああ、こいつそれだから肌が白いのか?
何となくそう感じた事を覚えている。
日に焼けないのだ。
それに…こいつ自体肌の露出を嫌っている、そんなイメージは在った。
「新田、資料置きにだけ来たのか?」
「えっ?ああ、そうだけど…」
俺の手から封筒を取り上げて、しばし黙る功刀。
「晩飯は?」
「へっ?」
「家で食べる予定は?」
「いんや、帰りに適当にマックとか寄るつもりだけど」
いきなり掛けられた確認に、ただ答える。
「…食ってく?大した物出せないけど」
その意外過ぎる言葉に、俺は嬉しいのか驚いているのか。
「え、マジでぇ?そら助かるわ〜」
良く分からない抑揚で返事してしまった。
「母親、今日会社泊まりこみらしいから一人分浮くの勿体無くて」
そう云う功刀の後に続いて、玄関からお邪魔する。
清潔感のある家。
俺の家のごった返し感とはかけ離れていた。
(なんかモデルハウスみて〜の…)
「悪いけど、少しかかるぞ」
「テレビ適当に観てるから気にすんな〜」
俺は適当、という単語が大好きなのだ。
何やら支度している功刀を確認した俺は
小奇麗なリビングでぼうっとテレビを眺めていた。
サイバースのニュース…最近こればっかりで飽きてくる。
欠伸をして、立ち上がる。
「トイレ借りるぞ〜」
特に返答も聞かず、俺は廊下を伝い捜索する。
と、隙間から覗く部屋に何かが見えた。
(…仏壇?)
どこの家にだって在りそうな物なのに、俺はそれが気になった。


「あのさ、美味しいんだけど」
「そう?なら良かった」
これがあの本の成果だとしたら…侮りがたし主婦の友社。
「ウチ、あんま和食出ないからさ〜新鮮だわこれ」
箸がすすむ。
「特にこの黒豆が」
「あ、それさ!自信作」
いきなり喰い付いてきた功刀に、俺はちょっとビビった。
こんな調子の功刀を学校で見た事が無かった、気がした。
いや、俺が見ようともしてなかった、だけだろうけど。
(こいつ…片親か?)
母親が帰らなけりゃ、一人。あの仏壇。
つまりは、そういう事だろうか。
(あ〜だから母性本能をくすぐられる、とかか?)
先生受けの研究を怠らない俺の脳内、素晴らしい。
「新田は、何で先生をそんなに好きなんだ?」
咀嚼する俺に問い掛けてきた功刀。
俺は嚥下すると、自信満々に答えてやった。
「話が分かる!それとあの美貌!」
「…お前なぁ」
「功刀は思わないのかよ?」
「…正直、あの先生…苦手なんだ」
俺はその意見にはあぁ〜!?と異議を唱え箸を振る。
「どこにそんな要素が在るんだよっ」
「なんか…何故だろうか?俺を見る眼が…」
眼が、何だって云うんだよ。
「眼が、俺の事を掌握してるって…さも云いたげで、嫌だ」
お前、それが本当なら立場を代わって欲しい位だ。
「お前、悪いけど全然理解できね〜わ」
「人の飯を食いながら云う台詞か」
「あ、じゃあさ!俺がお前の代わりに先生への受け答えをしてやるよ!」
「…」
「功刀は先生と関わらなくて済むし、俺は接点が増えてウハウハ!」
我ながら良い案である。
功刀は皿を積んで、テーブル端に除け
開いた空間に腕を伸ばして突っ伏している。
「どうよ?」
「勝手にしてくれ…」
その返答は、許可が下りた、と認識して良いんだよな?
俺はそう思い、ニコニコして黒豆をつまんでいた。

そんなこんなで、俺とそいつは口約束を交わした。
損得の上に成り立つ、利害の一致という関係。

「お〜い矢代!こっちこっち!」
大きく手を振り、向こうから来る二輪に呼びかける。
ウインカーが光り、俺の手前でソレが停車する。
「先生、どうだった?」
シールドだけ上げて、俺に訊ねる矢代。
「とりあえず落ち着いてる、でも…ビックリしたぁ…マジ」
視線が未だに泳ぐ俺に、すっと何かが差し出される。
「早く乗れよ、もう随分遅いから…足無いだろ」
その差し出された、誰のでも無いタンデム用のメットを
ふん掴んで俺は思い切り声を上げた。
「…いっや〜!持つべきものは友!だなぁ!」
妙なテンションの俺を、変わらぬ視線で見つめるまま
矢代はアクセルをふかす。
「新田のお陰で楽してる部分も有るからな、利用してくれて結構」
「はは…」
空笑いに終わる。
そのままメットを被り、後部座席に跨って背もたれに腕を絡めた。
(あ〜あ、こいつ結局俺の事調子の良いヤローだとしか思ってなさそうだな…)
少し、腑に落ちなかった。
「いきなり先生倒れて、俺マジ焦った」
「だろうな、新田じゃまず対応出来ないと思う」
「失礼だよな〜お前って偶に」
「素直なだけだよ」
「あ〜だから橘女王にもあんなズケズケ意見出来るってか?」
「あの人は幼馴染だから、ある程度はね」
他愛も無い話を、信号待ちの時に交わした。
もう、流石に肌寒い。
時間帯の所為もあるが、季節は進路を考える時期になっていた。
「なあ、先生に進路相談してあるのかお前」
俺が前に向かってそう叫べば
少し首を捻り矢代が答える。
「してない」
「大丈夫かよ〜先生入院しちゃったんだぞ」
「新田が答えておいてくれよ」
「おいおいおい」
信号が青になり、街灯や車のヘッドライトの光が
帯状に流れていく。
眼の前の、大して広くも無い背中。
こいつはこの背に、母親を背負っているつもりなんだろうな〜
と、この数ヶ月の付き合いで思った。
正直、無理してる、と思う。
あまり友達も作らず、遊ばず、主夫みたいにしてて。
(俺はぜって〜嫌)
やっぱり、理解出来なかった。
片親じゃないから、だろうか?
それにしたって…なんかこいつは投げやりな気がする。
落ち着き払ってる、だけだろ。

俺の家の前で、ブレーキが掛かる。
「着いた」
「おぅ、ありがとなっ」
飛び降りた俺は、ふと感じた事を確認したくて
矢代のシールドをぐい、と上にずらした。
「おい、何だよ」
「お前さ、ちょっとエンジン切って降りてくれよ」
「何で」
「何でも!いいからいいから」
そう云い俺は逃げられないうちに素早くキーを回した。
回転数が一気に治まり、停止するエンジン。
矢代は仕方なく、といった風で脚を上げて降りる。
「で?何だよ」
俺は矢代の傍に、綺麗な姿勢で立つ。
そして確信した。
「やっぱ!ぜってぇ俺の方が身長上だろ!」
その俺の台詞に、ぎょっとした矢代がメットを外す。
そして俺からもメットを剥ぎ取った。
「…嘘」
「よっしゃ〜!先生の為に牛乳飲みまくった成果が今ここに芽吹いた !!」
勝利の雄叫びを上げる俺に、矢代は納得いかなそうに
少し頬を赤くしていた。
「精密じゃない」
「だったらさ、今度先生お見舞い行った時に病院で測るか?」
俺の案に、矢代は即反論する。
「俺もお見舞い行くのか?」
「さっき生徒会の橘様から連絡が入りまして、決定しております」
「何で橘さんの連絡先知ってるんだよ」
「俺が先生にぞっこん過ぎるから、警戒されて無理矢理アド交換された」
あの女王には逆らえない、先生とは違った意味で。
「橘女王は進路相談したいって云ってたし、矢代もしとけよ」
「…する気になれない」
「どうしてだよ?」
「…しても、無駄な気がするんだ…理由は、分からないけど」
その、どこか遠い世界を見つめる様な矢代に
俺が何故だか不安を感じた。
「そりゃ、俺だって適当だけどさ…お前それで良いのかよ」
「俺は、別にこのまま近くに就職出来れば良い」
「遊びもしないで?独りで?」
「独りとか、あまり感じた事も無い」
俺は嫌だ、クラスでもこいつみたく
独りで机に向かっているのすら苦痛だ。
誰かの声が、気配が無いと落ち着かない。
「新田、お前も俺と居たら友達付き合い悪くなるぞ」
「俺は別に…」
「先生も良いけど、他の友達も大事にしてやれよ」
そう云って、矢代はメットを装着してシールドを下ろした。
あまり表情は窺い知れない。
「じゃあな、またお見舞い行くならメールしといてくれ」
「そ、そうだよ、見舞い位来いよな本当!」
「しょうがないから行く」
「絶対来いよ !? お前来りゃ先生も具合良くなるだろうしさ〜」
「了解、じゃあまた」
「おう」
そのまま夜闇に消えていく姿を見送り
排気音が完全に消えてから、俺は家に入った。
(先生も良いけど…って何だそりゃ)
矢代は確かに、都合良く利用させてもらっている。
でも、だからと云って先生とイコールで結んでいるつもりは無い。
(あそこは普通「俺も良いけど」とか云うだろ)
俺は、先生の為に他人を利用する調子の良い男
という立場を、受け入れるのが嫌だった。
ふざけんな、と云いつつ相手をしてくれるあいつに
感謝と同時に苛立ちを感じていた。
あいつは流されて、独りで居るのか。
俺は流されて、他人と居るのか。
何処からその強迫観念は、来ているんだ…
(俺は、先生を嫌うあいつを理解出来ない)
でも、大勢居る友達の中で、あいつは何か違った。
理解出来ない…けど、嫌いになれなかった。
利用している後ろめたさからか?
「…だよなぁ」
俺の独り言に、誰も返事をくれなかった。
答えはその時、出なかった。


独りは、嫌だ。
でも他人と居れば、余計な事を考える。
嫌われたくなくて、流される事にすら気付かない。
100%の理解をし合うまで、答えを探し続けなければいけない。
他人と居ると“適当“が赦されない気がして…
だからと云って、100を呈示したところで100は返ってこないんだ。
所詮、自分が良ければ…何もかも丸く収まるのだから。


「はぁ…はぁ…」
熱い脈動が、俺の身体を喰い荒らす。
その衝撃に、何とか踏み止まりながら立ち続ける。
賑やかな孤独が、俺の中に停滞する…
「新田…」
背後から、懐かしい声がする。
いや、実際にはそんな時間は経っていない。
でも、酷く遠い日の事に感じた
ただの人間だった日が。
「よぉ…矢代、それとも“人修羅”って呼んだ方が嬉しいか?」
振り向けば、眼を見張る功刀矢代…人修羅の姿が在った。
「どうだよ、この身体…孤独な外道達が、俺の理解者さ」
「結局は孤独じゃないか?それ」
「ムスビの指導者が孤独じゃなくちゃヤベェだろうが」
溢れる力に、身体が疼くが…ここで暴れたらマントラの連中と同属。
俺はあくまでも冷静に、矢代に語る。
ムスビの、素晴らしさを。

「思わない」

否定の、言葉。
「ムスビ、悪いけど理解出来ない」
そりゃ賛同まではしなそうだ、とは思ったが
ここまで即答とも、思っていなかった。
「お前、独り好きだから少しは解るかと思ったんだがなぁ…」
「この世の全員がそうなら良い、とは思わない」
「個で世界が確立されるなんて、凄ぇと思わないか !?」
「…それは、殻に閉じ篭もってるだけだろ」
その言葉に、身体の外道が猛反発する。
熱い気が、ぽっかりと口を開けた身体中から放たれる。
俺の意思なのか、纏う外道の意思なのか。
「っ…やめろ!」
その熱線の様な奔流を、腕で薙ぎ払い
矢代は吼えた。
「お前、あの時から何にも変わっちゃいないよな…」
俺は、吼え返す。
「自分の成し遂げようとするモノも掲げないで、流されっぱなしでさ!」
「煩いっ」
「バカなんじゃないのか?そんな身体持て余して先生すら助けれないで」
「…ここで、戦っても良いんだぞ、新田」
「俺だって、もう弱っちい人間とは違うんだよ!」
眼に金の光を宿す矢代が、その俺の叫びを聞くなり躍り掛かる。
俺は先刻効かなかった焔と逆の、猛吹雪をその身に降らせてやった。
「う、く…っそ」
霜の纏わりつく身体を捻らせた矢代は失速する。
その身体を、俺は両腕で床に押し倒す。
格闘なんざ出来ないから、とりあえず、だ。
「ぐ!」
「待て!別にこれ以上続けるつもりは無ぇから」
すぐに反撃をしようと、拳を振り上げた矢代を制する。
こういう時、過去の知人として
記憶されているであろう顔で、良かった、と思う。
「う〜ん…やっぱり」
「な、んだ…その身体、気味悪いから離れろっ」
「お前悪魔になっても身長は伸びなかったみたいだな」
それを云った俺の顔を、ハッとして見つめてくる矢代。
と、俺の身体表面の外道が、その口で矢代の身体にむしゃぶりついた。
微妙に感覚が有るのか、眼にする前に俺は分かった。
それをされる矢代は、途端に顔を真っ赤にして震えて叫ぶ。
「げ、外道がぁっ !!」
それは果たしてこの表皮か、俺自身に対しての言葉なのか
定かでは無かったが。
その喰らいついた胸辺りの外道の顔に向かって
矢代は俺を押し退けた後に、一発拳を叩き込んできた。
「げふぅッ」
流石にそんなのに慣れていない俺は、軽く吹っ飛んだ。
尻餅をついて、ふとその拳をお見舞いされた箇所を見れば
外道の口がひしゃげて顔は潰れていた。
「おいおい、コイツはちょっと味見しただけなのに、ひでぇなお前」
「さ…わるな、俺に触るな!」
どこかふらついている様な足取りで、矢代は駆け出した。
この、空間から出て行った…
「…よ〜やく静かになった」
俺の独り言に、誰も返事をくれなかった。
答えは、やっぱり出なかった。


アマラ経絡再び・了