天輪鼓

 
「はあ…はあ…」
気持ち悪い。
胃から込み上げる不快な感触に、胸元を押さえる。
教師の、変わり果てた顔面。
クラスメイトの、生え変わった腕。
そうして、それぞれが口々にする単語が有る。
コトワリ、と。


「俺にもう求めないでくれ…」
回復の泉で…冷たいその雫で髪を濡らす。
『もう、ヤシロの周りって自分勝手なのばっかじゃん』
そんなあっけらかんとした意見が聞きたくて
ピクシーを用も無いのに召喚した。
「毎回こうだったのかな、俺」
『毎回って…何よ』
「前回の、ダンテと仲間だった頃とか」
自分で云っておいて後悔した。
少し前の事を、ヨヨギ公園での事を思い出してしまった。
(前の俺と、今の俺は別物かよ…)
あの時のダンテの表情が、頭から離れない。
『もう忘れちゃいなさいよ!そんな薄情者の事なんてさ!』
「ピクシーはダンテについて何か知っているんだろ?」
そう聞けば、むすりと頬を膨らませてそっぽを向いた。
「ピクシー、別に根掘り葉掘り聞かないから」
『じゃあひとつだけ教えてあげる』
クルリと旋回し、ケタケタと笑う。
『あいつ、前のヤシロの事も身内と重ねて見てるらしいわよ?』
「えっ、身内?」
『そ!つまりヤシロはどの道誰かとダブらせて見られてる、って事』
(本当の俺は、素通りされている…)
そのピクシーの台詞が、胸を抉った。

俺は、もう誰にも必要とされていないのかもしれない。
以前はそんな事考えすらしなかった。
他人に必要とされたい、だとか思いもしなかったが。
この修羅としての力を欲される余りに…
本来の自分が無色透明に、無味無臭になっていく気がする。
ライドウの言葉が、頭で反芻される。

“僕は救うつもりは無いが、責めはしないよ”
“君という存在に興味があってね…最後まで見ておいてあげるよ?”

最後まで?
どの意味の最後、なんだろう…
そんな事を考え、ハッとする。
(何考えてんだ俺は…)
かなり、疲れているのだろうか。
泉ですら癒せない、この疲労は…
独りで泉に漂ってから、成すべき事を考える。
とりあえず、ターミナルからコトワリ持ちの勢力を確認すべきか。
極端な世界にされるのも嫌だ…
それに、新田も橘さんもおかしくなっている。
あの二人を正気に戻す術は無いのか、とも考えはする。
 
(無理だったとしても、俺が自己保身の為に探る必要は、有る)
重い身体を持ち上げ、滴る水を掃う。
少し意識を集中して、魔力を漲らせる。
地獄の業火を、ほんの少し引き出して身体の水を蒸発させるつもり。
だったのだが…
「!!」
一瞬調節が狂い、途端に洞内に轟音が渡る。
いくら隅で行ったとは云え、この振動と音。
危険で迷惑極まりない。
「すいません!少し間違えて…!」
自分でも「何をどう間違えたんだ」と突っ込みたい謝罪だったが
とりあえず泉の聖女にそう大声で訴えた。
見事に身体は乾き、俺は微妙に納得いかぬ形ではあったが
同じ様に乾いた下着とスラックスに脚を通す。
(力の調節が難しくなってきている…?)
最近感じるのはそれだった。
確かに強くはなっている様だが、精神力が追いついていかない。
お陰で、すぐに疲弊してしまう。
つまり…結果的には“俺は弱い”という事になる。

出る際に、聖女に一礼する。
先程の謝罪の念を込めて、も有ったが。
聖女はいつもの様に口元で微笑むだけだった。
扉を開け放つと、渇いた空気に渇いた空が広がる。
アサクサは相変わらずマネカタが大勢居たが、最近不穏である。
コトワリ持ちの合戦に巻き込まれやしないかと、気を揉んでいるのだ。
すぐ向かいにあるターミナルへと脚を伸ばす。
扉に手を掛けた、その時。
(…熱い)
じんわりと、手から伝わる胎動。
これは、マガツヒ、だろうか。
中で、何か起こっている?
「…聖さん!」
中に居る筈の人間を思い出し、急いで開け放つ。
暗い屋内に、アマラ天輪鼓が鎮座する…空間。
その傍に、影。
「…よう、矢代。どうしたんだお前?慌てて」
「ひ、じりさん…」
その変わらぬ光景に、胸を撫で下ろす。
俺は天輪鼓に近付き、手を当てた。
「何でも無いです、少し移動します」
「ゴズテンノウが形を変えて黄泉還ったってな?」
その聖の言葉に、当てた手をそのままに振り返る。
「…よく、ご存知ですね」
「そりゃあお前、アレだよ、俺にはこのターミナルがあるからなぁ」
そう云って、天輪鼓に当てた俺の手の甲に、その掌を這わせてきた。
「!!」
ぞわっとして、だからといって振り払うのも失礼かと思い
小さく深呼吸してから落ち着いて云う。
「聖さん、その手、退けて下さい…」
「何でだ?」
「…あまり触られるの、好きじゃないんで」
「へぇ、確かに聞いた話だと…お前さんは悪魔との交渉も魔貨か物でしか応じないんだってなあ?」
その云いぶりに、思わず手を弾こうと振った。
が、その手首を掴まれる。
思いもよらぬ流れに、鼓動が早くなっていく。
「誰から聞くんですか、そういうゴシップ」
「ターミナルからさ」
「へ…ぇ、これ、喋るなんて知りませんでした」
引きつった、口元だけの愛想笑いで俺がそう云えば
聖は掴んだ手首をぐい、と持ち上げる。
「マガツヒを吸わせるのがそんなに嫌なのか?お子ちゃまだなあ?」
「聖さん!ふざけるのはいい加減にして下さいっ」
爪先立ちになった俺を、見下ろす眼が…違った。
好奇心旺盛なライターの眼、とは違う。
「俺はな、何でも知っているんだ…この世界の事なら何でも」
その、まるで経でも唱えるかの様に呟かれた言葉に
聖が既に正常では無いと、ようやく認識した。
「ボルテクス界の調査は終了、後は俺が世界を創り変えりゃ一件落着」
わはは、と仕事の話でもするかの如く快活に言い放った聖。
俺は手に力を込めて睨みつけた。
「俺が悪魔の力を使えるって、ご存知でしたよね?」
「ああ勿論」
「だったら、痛い目見ない内に俺の前から消えて下さい…」
「ほお〜流石人修羅、どうぞどうぞ、俺を吹っ飛ばしてみろよ?」
その挑発と取れる台詞に、掴まれた手首から熱が流れ込む。
さぁっと頭に血が上ってくる。
「そっちから仕掛けたんですからね !!」
ばしりと空いた手で、掴んでくる指を剥がして
脚が地に着いた。
キッと向き直り、少し灸を据えてやろうと思い腕を交差させた。
瞬間だった。
「は…っ」
胎内で、何かが暴れるかの様に動悸が激しくなった。
突然の事に、そのまま膝を着き
交差させた腕で胸元を押さえる形になった。
震えが…止まらない。
「どうした矢代?」
視界の端に、靴が見える。
シンプルながら高そうな、茶のレザー。
「聖…さん、知ってて…」
まさか、嵌められたのか、これは。
何故?何の為に?
混乱する俺に、頭上から言葉が降りてくる。
「人間の身体を殴るのは、絶対しないと思っていたぜ」
「なに…」
「だから魔力を使って何かしてくる筈って、算段通りだわ!」
はっはっは、と面白そうに笑う声が
俺の精神を蝕んでいく。
身体の方は、未だに震えが…寧ろ増す一方だ。
「この部屋、おかしいと思わんかったか?」
聖の問いに、俺は少し首を上げる。
「ああ、まさかお前…あんな慌てて入ってきたのは俺を心配しての事だったとか?だとしたらそりゃあお笑いだ!」
その様子に、頭が沸騰する。
震えを無視して鞭打った身体で、腕を振り上げた、が。
「う、ああ、あ!」
思わずその拳を逸らし、聖とは無関係な位置に振り下ろす。
その拳で、地面が大きく亀裂を作り、大破した。
(ど、どうして)
こんな本気で殴ろうとした訳では無い。
そんな筈無いのに…!
「力の制御なんざ無理だろ?そうしてあるんだよ、この部屋」
崩壊した地に跪く俺の背に、聖の声が届いてくる。
「聖さん…」
「別に、強くなる分には問題無いだろ?普段はな?」
嫌な予感が、その“普段は”という単語によって芽吹く。
「ちょっと力を使えば、俺なんざ簡単に殺しちまうんだろうなぁ?ただでさえ最近成長著しいんだろ?」
「う…う…っ」
「マガツヒがきつ〜いだろ?酒みたいなモンさ。気持ち良くなるが、大量摂取は制御が利かなくなる、毒と同じだ」
「っは…」
俺はその真意すら知りたくなくて
よろめく脚を無理矢理立たせて扉へ駆けた。
「出るんじゃねえ!」
その怒声に、一瞬怯んだが、扉に手を掛ける。
「今出ると経路に落ちるぜ?繋げてマガツヒ廻してんだから」
手が、止まってしまう。
「あそこはサポートが無きゃ出るのは困難、だろ?」
フッ、と哂いを含んだ言葉に
完全に退路を断たれた絶望感が、力とは別の震えを生む。
扉に、俺以外の影が映り込んだ。
「お前のマガツヒ、凄ぇ評判だぜ?」
振り向く間も無く、そのまま羽交い絞めにされる。
「こ、の…このッ!!」
足掻くが、振り切る以上の力を出す事が出来ない。
恐くて出来ない。
殺してしまう、確実に。
悪魔ですらない、サマナーですらない、只の人間を…!
「おまえのマガツヒさえモノにすりゃ、かなり安定するんだがなぁ?」
その言葉と共に、床に叩きつけられる。
「うぐっ」
力の漲る肉体には、ダメージは殆ど無いのだが
動けぬ恐怖に縛られている俺が腹立たしい。
「別に、俺を殺したって誰も文句云うヤツぁ居ねえよ?ん?」
うつ伏せの俺の、突起を掴まれる。
「あっ!あ、ぐっ!」
苦しい様な、痛いような、痺れる感覚。
以前俺がこの突起を床に擦って、悶絶していた事を覚えているのか
執拗にそれを握り締めては囁かれる。
「どうだ?俺にまかせてくれりゃ、お前にも世界創世の一端を担ってもらう…なんてプランも有りだぜ?」
「っは…っ…ふ、ふざけないで、下さい!」
混濁した頭で、考えるより先に拒絶する。
今、何に勧誘されたって、聞き入るものか。
それどころでは無い。
もっと、粘つく様な酷い嫌悪感に支配され始めていた。
「だったら、俺がとりあえずその美酒を味見でもさせてもらおうかな?」
その、手が、指が背後から肌をなぞった。
「〜っ!!!!」
おぞましくて、声すら出なかった。
まさか、何、何でこんな事をされているんだ?
「良い味わい方があるって、風の噂で聞いた訳よ」
「や、やめ…」
「お前、悪魔にマガツヒで応えなくて正解だったかもなぁ?」
「やめろっ!気持ち悪い!!」
「肌の密着とか、嫌いなんだっけ?」
「下種っ!!」
背後の男の、流れてくる髪が俺の首筋に纏わりつく。
荒い呼吸が、耳にかかる。
眼の奥が、ヒリヒリと焼け付く様な感覚。
(男に、組み敷かれるなんて…!)
嘘だと思いたかった。
もういっそ、コレが真実なら殺してしまっても
情状酌量の余地有りでは無いか?
正当防衛では無いか?
そう思いもしたが、何故か身体は恐怖して力を放たない。
脳の隅で、警鐘を両端から鳴らされる。
(良いように喰われる気か?殺せ!殺せ!)
(人間だけは、まだ殺していないのに、とうとう殺すのか…?)
「う、うう、わああああっ」
もう俺の精神が、音を立てている。
軋んで、その軋みが俺を混乱させる。
「まあ、泣きたい気持ちも分からんでも無いが、俺もお前がむっさいオッサンとかじゃ無くて助かったぜ」
下卑た笑いで、髪を鷲掴みにされて地面に押し付けられた。
「女じゃないのがちと残念だったが、まあ体は成熟しきってないから似たようなモンか」
馬鹿にされている。
「ぐ…うぅっ…」
悔しくて…恥ずかしくて。
地面を掻き毟れば、いとも簡単に抉れていく。
本当は、この力を背に跨る男に振るいたい…のに!!
何故俺はそんな覚悟すら無い!?
悪魔と思ってしまえば良いだろう!?
そんな葛藤を余所に、聖が顔を寄せてきた。
「これもマガツヒか?」
目尻を舌で掬われる。
「ひっ…!」
「うへ、流石半端に人間…しょっぱいわな」
「…う、ううっ…やめ、て」
(もう、嫌だ)
気持ち、悪い。
恐い。
殺したい。
殺せ…ない。
「どこぞの女悪魔から得た情報だと、なんでも血だけに含まれている訳じゃ無いらしいぜ?」
その感覚の短い呼吸のままに、背後の聖が嬉々として語りだす。
「…!!」
その語りの意味する事を、思い描いた瞬間
思わず頭を上げ、振り返る。
「お前は俺にだまって喰われてりゃ大丈夫!マグロで良いからさ!」
無茶苦茶な台詞に吐き気をもよおす。
そして俺の口内に無理矢理指を突っ込んできた。
「っ〜ぐ!が、あがッ」
「噛み締めたら、俺の指は切断されるんだろ〜なあ?」
「げぇっ!げッ、が、ああっ」
「そしたらターミナル経由で世界に報道してやるよ、人殺しってな」
喉奥をえずく、指先が蠢く度に
酷い痛みと、咽返る空気。
食い縛れぬ歯の隙間を縫って、唾液がボタボタと地面を叩く。
「ま、指程度なら未遂か。しかし大げさに報道すんのが俺達だからな」
ずるり、と増やされ続けた指をようやく引き抜かれ
空気が一気に肺になだれ込む。
「がはっ!げえっ…げほっ!!」
「こんだけ指濡れてりゃ解すのも楽かな?」
その聖の言葉に、戦慄する。
「はぁ…はぁっ…ぁ…悪魔!人間なのは、身体だけだ…っ」
整いきらぬ呼吸のまま、そう糾弾すれば
再度、今度は前髪を掴まれて無理矢理向かされる。
「おお、すげえ溢れてるじゃんマガツヒがよぉ!」
「はぶっ」
急に唇に吸い付いてくる。
髭が辺り、チクチクとする感触に冷や汗が出る。
ねちっこい舌の動きが、経験の無いといって同然の俺ですら辟易する。
(あ、ああ、あああ)
殺したい
殺したい
殺したいッ
この男を殺したい
八つ裂きにしてやりたい
何故か、ライドウだって似たようなモノだというのに
違った。
ただ、何処が違うのか、今は考えれる状態では無い…!
「はぁ、口から直だと、クるわ、きっつ…」
「っぷは…っ!」
その男と、俺の口に渡る唾液の糸が光る。
全身を悪寒が駆け巡る。
「じゃあアレなんざ相当だよな?」
そう云い、聖の手が俺の腰骨に当たる。
「こ、殺す、それしたら本当に殺す…っ!!」
「そんな度胸あるならとっくにしてるだろ?」
俺の威嚇も虚しく、指がスラックスに掛かった。
眼を見開き、歯を食い縛ったその瞬間。
「な…に?」
停止する、聖。
逆に胎動する部屋全体。
「来やがった、勇だ!」
なんだって…
「…新…田?」
聖が慌てて、俺の肩を押さえ込む。
「くたばってりゃいいものを…!誰が渡すかよ!アマラは、こいつのマガツヒだって俺のモンだ!!」
肌に感じた、この部屋のマガツヒの奔流。
渦を巻き、俺の背後に集まっていく。
「俺を、引きずり込むってのか !?」
その聖の焦りが見える声が終わらぬ内に
天輪鼓が独りでに回転を始めた。
「う、おおおおおおおぉぉぉ !!」
絶叫が背後で弾けた。
すっ、と背から圧が消えた。
前方を見れば、天輪鼓にマガツヒと共に吸い込まれていったソレ。
「…に、新田…?」
とりあえず、解放された身体を両腕に抱く。
震えがまだ収まらない。
「はぁ…」
大きく息を吐いて、よろよろと立ち上がったが
すぐに倒れこんだ。



『どうした?』
「…いえ、何か扉の向こうに感じたもので」
掛けた手を、一瞬止めてゴウトに説明した。
「云うほどの魔力では無いから、大丈夫でしょう」
そう云いターミナルの扉を開け放った。
『…おい』
「…」
ぴたり、と止まる黒猫と自身。
その訳は、部屋の中央に倒れこむ影の所為だ。
接近したが、起きる気配すら無い。
『死んでいるのか』
「いえ、呼吸はしていますね」
(こんな所で死なれては困る)
そう思い、靴先で胎を小突く。
「おい、功刀君、起きたまえ」
「ぅ…」
小さく呻き、身体をよじる人修羅。
その傾げた首筋に、予想外の物を確認した。
(…!)
更に靴を胎にめり込ませる。
「誰と御楽しみだった?悪いね、余韻に浸っているところ」
「がふっ!!」
大きく咽て、ようやく眼を見開く人修羅。
「ぁ…あっ!」
僕を認識したのかと思えば、後ずさる。
てっきり拳でも飛ぶかと思い、抜刀の準備はしてあったというのに。
「どうした功刀君…」
「う…っ、来るな、寄るな!」
微かに震えているその身体に、おかしな事に痣が残っている。
身体の機能が狂っているのだろうか。
「誰と致したの?」
「そんなんじゃない!!」
それだけ云い返し、彼は口元を押さえた。
「う…ぇ、ええっ、えっ」
苦しげに空気を吐いている。
吐き気はせども、吐く物が無いのだろう。
ちら、とその姿を満遍なく見れば
髪は乱れて、靴も脱げていた。
何より着衣が…
「これから泉でも行くのかい?少し見えているけど?」
そう云えば、ハッとして青ざめ、身体を見る人修羅。
すぐにスラックスを上げきって、靴ももどかしげに履いていた。
「…此処に居た人間の男性は?」
「…」
僕の問いに、沈黙で応えるその姿。
怯えきったその精神状態。
溜息を吐き、人修羅に近付く。
びくりと警戒して、後ずさる彼。
「たかが人間に襲われたのか君は」
「この部屋の、所為…だ」
(…ああ、だからマガツヒの残留が感じられたのか…)
彼が本調子で無いのは理解出来た、が。
「殺せない程だったのか?」
納得いかず聞けば、唇を噛み締める人修羅。
「人間、だぞ…」
遠くを見つめて、まるで殉教者の様に呟いた。
それを聞いて、思わず哂った。
「何を云っているんだ君は…ク、ククッ、僕だって人間だしね?」
その怯えきって、今なら簡単にくびり殺せそうな彼の
頤に指を掛ける。
眼を揺らせ、その唇を更に噛み締めた人修羅に
口の端を吊り上げて吐き棄てる。
「人の喰い残しに興味は無いが…」
そのまま無理矢理引き寄せ、唇を吸い上げる。
伸ばした舌で、さらりと歯列を撫ぜ上げて
マガツヒを噛み締めた。
だが…抵抗すら無い人修羅に、調子を狂わされる。
早めに唇を離し、その金色の眼を見つめた。
「上書きされて黙っていれる程、へたれた男でも無いのでね」
相手が男であれ女であれ。
人間であれ悪魔であれ。
「僕とあの男と、どちらが良かった?」
有り得ないので、ヤクシニーは除外してそう聞いた。
すると、無感情な眼で人修羅は薄く唇を開いた。

「ラ…イ…ドウ」

その、濡れた唇から思わぬ言葉が紡がれた。
無意識の内に、笑みが零れる。
「次はシラフで聞きたいね、その台詞」
死んだ魚の眼をした人修羅を、そのまま担ぎ上げた。
されるがままの彼は、半分意識を飛ばしているのだろう。
向かいの泉に、また投げ込むつもりで歩き出した。
『お主、私情を含んでいるだろう』
「そう見えますか?」
『かなり、な』
「まあ、確かに、何されたのか気にはなりますがね…」
涙の痕、唾液の痕、吸われた鬱血の痕…
そんな事、容易に想像出来る。
僕は確かに、その力には興味をそそられるが
別に、接吻以上を望む程飢えていない。
「男を襲うだなんて、マガツヒというのは本当に毒ですね…」
ふと、肩で揺れる人修羅の泣き濡れた顔を見て
少し、その発言を訂正しようと思った。
睫に下がる雫と、その乱れた御髪
苦しげに開かれる小さめの唇を見て。
少しだけ、唾を嚥下する。
(流石悪魔…)
僕が依頼を、表向きだけでも完遂するまでに
人修羅はどれだけ泣くのだろうな…
どれだけ、惑わすのだろうな…
どれだけ、殺すのだろうな…

そう遠くない夢を見て
僕は泉へと彼を投げ棄てるのだった。


天輪鼓・了