身体を巡る血が、冷たい。
これが悪魔の証?
俺は真の悪魔に成ってしまったのか?
先生…高尾先生、怨みます、貴女を。
こんな世界に、俺だけ特殊な存在で。
あのまま…あのまま蒸発して、大気になってしまえば良かったのに。
死んでも、誰も気にしない。
時は、そのまま流れるのだろう。
それとも、云われた通り、また徒に繰り返すのか?
また先生が受胎を引き起こす…
また俺はボルテクスを彷徨う…
また、カルパに墜ちて…逢うのか。

“逢う…?誰と?“

どっち…と?
狩人…?それとも…召喚師?


『おい、こやつ死んではおるまいな?』
「まさか、大した外傷も無かったのですから、それはまず無いです」
『あれで大した外傷無し…か』
「僕もお陰様で、伯爵に治療して頂けましたからね…“物のついで”でしょうが」
会話が聞こえてくる…
片方は、聞き覚えの有る…憎き男の声。
もう片方は…少し壮年の、渋い声音。
(あの男、悪魔か何かと話してるのか…?)
まず、自身の身体を確認する。
横たえられ、どうやらライドウが背後に居る。
下手に動けないと思った、が…そこで俺はある事に気付いた。
「!!」
思わずガバリと上半身を起こし、腰の辺りを探る。
指先が触れるのは、皮膚。
スラックスが無い。
というか、下着すら無い。
「ああ、コレ?」
背中に刺さる言葉に、俺はキッと振り向くなり睨みつけた。
その先には、見慣れた俺のスラックス。
と、一緒にライドウの指先から下がる下着。
「っ…野郎!!」
伸ばした指先は、あと一歩のところで届かずに
ライドウはそれ等をくい、と持ち上げた。
「下着の線が出てないと思ったら、君なかなか刺激的な下着なのだねえ?」
「!!!!」
「どうせ見られぬと思って、洒落っ気を優先したのだろう…フフ」
その台詞が、あまりに図星で心が痛い。
しかし、立ち上がる勇気が無い。
今更、とはいえこの状況。
冷えた身体の、耳と頬だけが熱い。
「おい…あんた、俺に何か…したのか」
重要な事を問えば、問いで返される。
「何かって、何?ナニ?」
「…ざけんな!解ってるんだからまともに答えろ!葛葉ライドウ!」
牙をむいて叫べば、俺の衣類を指先で弄ぶライドウが微笑む。
「安心おし…事情が変わったので、メノラーは君に注いでないよ」
「……っは…」
安堵。
そんな俺自身に、激しい嫌悪感も抱く。
いつもこうだ、最悪の事態を…首の皮一枚で回避している。
俺自身が、何とか出来た例がない。
「代わりに、僕の持つメノラーについては勝手に捧げさせて頂いたよ」
その言葉に、ようやく此処が何処なのか気付いた。
メノラーを捧げる、台座の間だ。
ライドウの背に、ぼんやりと揺れる光は…メノラー…
「知識のメノラー…こうして形に現したのだから、もう僕を殺すのに躊躇は必要無い」
「…」
「だろう?功刀君?」
その通りだ…ライドウを、ここでたとえ殺しても
俺の望む展開に支障はきたさない、寧ろ…清々する。
「とりあえず、俺の服…寄越せ」
床に這う様に体勢を低く保ち、指を再度伸ばす。
「操が護れて良かったねぇ?」
そんな馬鹿にした言葉と、俺の服が投げられた。
まるで犬に餌でも与えるかの如く、ぽん、と放られた其れ。
俺はそれを引っ掴み、すぐさまメノラーの台座に隠れた。
眼の前で生着替えなどという、情け無い姿を晒す気になれない。
煩い含み笑いを耳にしながら、俺はもつれる脚ももどかしく穿きこむ。
『全く、お主はいちいちやる事が悪趣味よ』
「この期に及んで優しく手渡しする方が怪しいですが?」
『今までの行いの所為だろうが』
「全く恥じておりません」
『やれやれ…帝都に戻ったらまともにやってくれよ』
聞こえてくるのは、明らかに会話。
悪魔は召喚されていなかった。
では、何と話している…?
台座から少し顔を覗かせる、視線をライドウに…
すると、向き合っているのは…黒猫と、ライドウ。
(まさか、あの黒猫?)
そういえば、以前ターミナルで…云っていた気がする。
まだ聞こえないのか?と。
あの猫、今までもライドウと言葉を交わしていたのか。
それを俺は今…こうして解る様に成ったという事は…
何か…身体に宿る力の得体の知れなさに絶望する。
この世界では…人間にも、悪魔の言語は理解出来る様子なのだが
あの猫、悪魔では無い。
だが、人間のライドウには声が聞こえる。
魔力…?潜在する何か?
着替えて、うずくまったまま、台座に凭れ掛かる。
何処まで進行するのだろう、人間と逆に。
「ねえ功刀君、早く他のメノラーを捧げよ」
台座を挟んで掛けられる声、この空間に響く。
煌々とする明るさは、奴の出した知識のメノラー。
俺の宿す残りのメノラーは三つ…台座は、これで埋まる。
「何故あんたの指図で捧げなきゃいけないんだ」
姿の見えないまま、ライドウに向かって文句を云えば
ライドウはクスクス哂って唱える。
「では、引き返せば?地上へ」
「あんたが此処から消えたら勝手に進む…頼むから関わらないでくれ」
このデビルサマナーとかいう奴と関わると、ロクな事が無い。
幾度か助けられもしたが、それより被害を被る方が割合高い気がする。
「生憎、僕は任務の真っ最中でね…君を追う使命の通り動いているだけさ」
尤もな風に云うこの男、数々の非道を踏まえての台詞か?
あの眼に囚われてからの記憶があやふやで、少々恐ろしくもあったが
俺は仕方なく、台座の反対側からメノラーを捧げる。
指先で触れて、意識すれば置かれる。
いよいよ明るくなった空間で、丸い扉の解除される音がする。
ざりざりと音を立てて、開く丸扉。
暗い向こう側が、更に闇へと誘う様だった。

第四カルパ


そう、誘われているのは知っている。
でも、ギリギリまで求められたいのは…浅ましい?
地上より、襲う悪魔も、傷も酷いが…
優しいんだ、此処は。
殺しにくる影達を退けつつ思うのは、デジャ・ヴ。
この郷愁が脚を運ばせるのか?只、単に…依頼されたのが嬉しかったのか?
地上と違って、強制されず、招かれている…のが
戸惑う脚を、動かせる。
危険なのに…何かに近付いてしまっている筈なのに。
内に居るピクシーが、笑顔で背中を押す。
『此処でなら、何をしても赦されるのよ』と。
そう…ギリギリまでなら、大丈夫。
知らない世界の仕組みを教わる度、そう自分を納得させて…言い訳して。
俺はカルパの底へと墜ちていく…自ら。

背後にライドウを感じつつ、俺はその扉へと駆け出した。
(尾いて来るなら、撒けば良いんだ)
先の構造など解らないが、そういうものだ。
脚の速さなら、人修羅と成った今、人間に負ける気はしない。
一本道だったとしても、差は開く。
更に奥、第…四になるのか?カルパの扉が見える。
珍しく思念体が佇んでいたが、構う暇など無い。
その陽炎の様な影の傍を、跳躍しつつ通過すれば
慌てて何かを訴えてくる。
「奥は危険だぞ!おい!」
その叫びに、俺は単純に思った。
(カルパなんさ、何処だって危険だろ…)
その、透けた向こう側が暗闇の扉を、開け放ち脚を入れた…

「あ…ぐぅ…っ!!」

その重い空気に思わず喘ぎ、よろめく。
勢いで、向こうに見える扉までよろめきつつもたどり着いたが…
その扉に手を触れる時には、膝を着いていた。
(い…息が)
息が詰まりそうな圧迫感。
加えて…身体に纏わりつくのは、酷い消耗感…
あの、たった数歩で…身体を巡るマガツヒ…と思われるモノが、抜けた。
枯渇した…のだ。
「はあ…っ…は、ああっ」
開けた先の空気に、急いで身を投げ出す。
どうやら、先刻の空間が異常なだけ…だったらしい。
普通の通路に出て、あの圧迫感が消えた…
(良かった…)
心の底からそう思い、壁に凭れて召喚する。
炎を纏って現れた女神…サティ。
俺を見るなり、第一声
『…今すぐ引き返す事を奨めます』
何となく、そういう事を云いそうな予感はしていた。
「デビルサマナーが居るから、今は戻る気がしない」
『途中に入り口への穴が在る筈…でしたが?』
この女神は、偶にカルパ内で召喚していた所為か…構造を理解している。
微妙に痛い所を突かれ。俺は黙った。
『…主に従うのが、我々の役目です、みなまで云いません』
そうは云いつつも溜息混じりで、サティは指を組み祈りを挙げる。
『ディアラマ』
俺の体力は、戻りはした…が、彼女の消耗とチャクラドロップの残数を考えると…
(他に治癒術が使える悪魔は…)
そもそも従える仲魔の少ない俺なのだから…余裕は常に無い。
「俺一人でいける所まで行くから、戻っていてくれ」
『危なくなったら、呼ぶように』
「ああ」
まるでサティは、子供に云い聞かせるかの様に俺に申告する。
雑魚との応戦に、回復要員を消耗させたくない。
(この層、適当に回ったら…ライドウに警戒しつつ引き返そう)
先刻の様な空間は、もう御免だ。
なので、この先普通の空間だけなら…先へと進んでワープホールに入る。
その方が、今戻ってあそこを通るより理想的だ。
(そういえば、ライドウはあの空間を通れるのか?)
半魔の俺でさえあれなのに、たかが人間に可能なのか?
あそこで止まってくれたら、それこそ万々歳なのだが。
それは、希望的観測での意見。
あの男の事だ…油断しては、足下を掬われる…
デカラビアの術を避け、広いとは云えぬ通路の壁を駆る。
面倒なギリメカラは無視しつつ、とりあえず…先へと進む。
(…何だ、あの壁)
しばらく駆けた先に、見えるのは流れるように濁った行き止まり。
いや、行き止まりでは無い…向こう側が…在る?
立ち止まり、俺はその流れの前に眼を凝らす。
向こう側は、全く見えない…
『おいボウヤ、其処はヘタに入らない方が良いぜ?』
その声に振り返る。
殺気は無い…が、その姿に俺は少々虫唾が走った。
酒場で一悶着有った悪魔…ロキだ。
同一人物でなくとも、その立ち振る舞いは同じ。
大人気ないとは思いつつもムッとしながら、俺は口を開く。
「先へ進みたいんですけど」
『…お前、もしかして話題の人修羅?』
何だよ、その表現。
「話題かどうかは知りませんけど?一応…」
『ふ〜ん、こんなモヤシとは思わなかったぜ』
いちいち腹立たしい台詞を吐くのは、どのロキもそうなのではないか?
そう感じながら俺は壁に向き直った。
すると、慌てて引き止めてくるロキの声。
『おい!ちょ待て!!』
その慌て方に、何故か俺まで不安になる。
「一体なんですか…」
『待て、いいから待て!もう少し…』
静まり返る空気…手を翳し、こちらを見つめてくるロキ。
いぶかしげに見る俺…
感じるのは、カグツチの鼓動だけ。
それも…やがて静寂に包まれる。
『今だ!ほら、進め』
ロキが急に口を開く。
俺は訳が解らずに、問い質そうとする。
「何…」
と、ロキの向こう側に見える曲がり角。

見えたのは、黒い外套。

「!!」
俺は反射的に背後へ後退、跳躍した。
ずるりと呑まれていく身体。
(壁に、喰われた…!?)
ああ、これはもうロキの所為だ。
これでライドウに追いつかれたら、間違いなく俺は道中のロキを殺せる。
その位に、腹立たしい…あの悪魔。
何を企んでいたんだ…?

一瞬の様で、永かった様な…そんな空白の時間。
それを越えた俺は、形有る床に躍り出た。
しっかりと地に着いた脚を確認して、背後を向く。
普通の壁、だ…
(一方通行かよ)
掌をぺたりと押し当て、思わず眉が引き攣る。
それなら尚更、急いで此処から離れなければ…
ライドウが同じく此処へ来れば、同じ道を歩む事になる。
早く他の空間へ出なければ。
焦りが無いと云ったら、嘘になる。
足早にその通路を抜けた。
扉に手を掛けた瞬間に、冷や汗が出た…気がする。
重い空気が、その指先から既に伝わって…内に来る。
進みたくない…が、進まねばライドウが来る…
あの男が…

俺は、扉を開けて泥に身を沈める覚悟を決めた。

「う、ううっ…ッ」
全く同じだ、先刻のあの空間と。
二、三歩で、身体は酷い倦怠感。
身体の奥からくる渇きは、マガツヒが…流出しているからなのか。
確かに、自身を見れば…水に顔料を溶かした時の様に
皮膚から立ち昇り、空気に霧散していく赤い光の帯。
生命力…が吸われていく、この空間に…!
震える指先で、サティを呼ぶ。
現れた女神は、ぎょっとして俺に怒鳴る。
『どうして此処に立ち入ったのです!?』
「戻りたく…なかったから」
俺がそう搾り出せば、今度はハッキリと溜息を吐いた彼女。
『随分消耗していますね、あの扉から此処まででこれでは…身が持ちませんわね』
「何度か、世話になる予定…」
『何度か?恐らく私の魔力は枯渇するでしょう』
「じゃあ、他の仲魔に…」
『私と他の面子でもって、ギリギリ生き永らえるとお思い下さいな』
その勧告に、俺は息を呑んだ。
『さあ、説教はこれ位にしましょう…身体を楽にして下さい』
光が零れて、俺を包み込む。
動けるようになった俺を見て、仏頂面の眼下を緩ますサティ。
『さあ、私の体力と魔力が残る限り、歩き続けて下さい』
「ごめん」
こんな時は甘えて、馬鹿か俺は。
普段から悪魔は嫌いと云い張って、仲魔はそれでも付き従う。
もしかしたら、俺はライドウより酷いのではないか…
歩んで、膝を折る度に降り注ぐ温かな光。
隣を来る女神の魔力が、か細い胎動になってくるのが分かる。
彼女の体力は、癒されていない。
もう戻って良い、と云えば
『まだ二回は癒せますから、お進み下さい』
そう、苦しそうに云うものだから…まさか云えない。
…迷っている、だなんて。


「う、うぐ…」
眩暈が酷い…脚が重い、鉛の様な肉体。
結局あれから、魔力の枯渇したサティと交代して数体召喚したが…
先の闇は一向に途切れない。
仲魔が代わるにつれ、酷い焦りが…更に正確な判断を狂わせる。
今思えば、同じ所を幾度か通った気が…する。
(宝玉…まだ有るかな)
ごそり、と探れば底に指が届いた。
仲魔に持たせた分を含めてコレだ。
最後に呼んだピクシーから受け取った、魔石ならそれなりに有るが…
これで癒えるのはスズメの涙程である。
もう、ジリ貧なんて問題ですら無い。
何も手が無くなったに等しい。
ああ、何て浅はかなんだろう、俺は。
でも、こんな最期も悪くないかもしれない。
(泥の様に眠れそう…)
この酷い倦怠感は、運動した後に似ていた。
本当に深く眠る事なんて、この身体になってからついぞ無い。
膝を着いて、俺は胸を上下させる。
この苦しみを乗り越えたら、その眠りにつけるかもしれない…

「ねえ、何しているの君」

俺の身体を、電流の様に奔ったその声音。
重い身体は、視線を投げる事すら億劫で…
その声の主を、俺はゆっくりと見た。
(駄目だ…逃げないと)
ずり…ずり、と、後ろ手に床を後ずさる。
「クス…それ、逃げてるつもり?まさか」
悪魔の笑い声。
(何故こいつ、平気なんだ…!?)
平然と、外套を翻して俺に歩み寄るライドウ。
余程怪訝な表情だったのか、俺に哂って応える。
「この層の主に従属しない悪魔は、苦しめられる様だね…」
悪魔だけ…つまり、人間のライドウには…この重い空気は無力化される?
悔しい…し、哀しい。
俺だって、まだ半分は人間なのに…
「あ…っあぁッ…は…!」
何か云い返そうと、口を開いたが…洩れたのは喘ぎだった。
酸素とは違うものを求めて、苦しげに身体が悲鳴を上げている。
涼しげにそんな俺を見つめるライドウが…口の端を吊り上げた。
「ロキが云っていたよ…ようやくベルゼブブ様に人修羅を会わせる事が出来る、とね」
ロキ…?あの悪魔、俺を嵌めたのか…やっぱり。
でも…誰、だ?ベルゼブブって…
それより今は、ただ…苦しい…渇きが、酷い。
マガツヒの流出が、止められない。
まるで凝固機能が無くなった血の様に…流れ出てはそのままで。
赤い帯を幾重にも、床に撒き散らす。
「苦しい…?息が続かない?」
哂うライドウの唇が…赤く艶めく。
そこに、感じるのは…俺の求めている…
身体を潤す、力…
「まるで深海の様な酷い圧迫と…マガツヒの渇きにやられているのだろう?」
「ひう…っ…は〜っ…は〜っ…」
いよいよ、動くのが、無理になってきた。
見上げれば、暗く微笑むライドウ。
そのデビルサマナーというだけの…溢れる…魔力…
生体エネルギーとか云ってた、マグネタイト…
…いけない妄想に取り付かれる。
苦しい身体が、そう思考させるだけ…だ。

「ねえ、功刀君…苦しいのだろう?」
「っうううッ…!はあっ、はあっ」

駄目。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。
あ、く、苦しい、苦しい…!
死ぬ…このままじゃ、乗り越える前に…苦悶の心地で死んでしまいそうだ…!

「呼吸困難なら、分けてあげようか?」

蠱惑的に…歪む唇…
そこから、その奥から、感じるのは…俺を満たす力…餌が、在る…
エサ…が…
無ければ生きていけない、空気の様な…それが
この、男…に…!

駄目だ…ああ、駄目だ俺…

駄目だ…!!!!


俺は、最期の気力を振り絞って
ライドウに飛びついた。
待ての出来ない、犬の様に。
その赤い唇に吸い付いて、自分で舌を差し出した。
その絡むライドウの舌から、じわりと滲む魔力に、身体が歓喜する。
本当に、涙が流れていた。
助かった喜びか?美味な魔力にか?情け無い自身にか?
ただ、ただ今は何も考えず、与えられた餌にむしゃぶりつく。
その舌も、唾液も啜って、零さない様に首に腕を回して。

欲しい、ほしい、ホシイ…
今はただ、葛葉ライドウのマグネタイトが欲しかった…


第四カルパ・了