縋りつく。
赤子の様に、溺れる人の様に。
この行動に、本人の本意が含まれるとは思わない。
生まれたら呼吸をする様に。
生理的に涙が流れる様に。
意識と別の、単なる仕組み。
ベルゼブブ…
自尊心を喰らう、蠅の王よ。
僕が貴方の名を耳にした時
密やかに哂ったのを、知っているだろうか?
この、腕の中の半人半魔を…
貴方は好んで喰らうのだろうと、その予感に。
蠅の王
口に這い上がる、熱い奔流が分かる。
この世界の、赤い生体エネルギイ…
それを蓄える筈の君に、僕の蛍光に光る生体エネルギイが
マグネタイトが注がれていく。
その感覚は、僕を間違い無く高揚させていた。
この、毒々しいまでの僕の魔力が君を埋めていく。
赤に緑を混ぜて何となる?
混濁…
「ふ…」
頬に赤みが差し、ゆるゆると眼を開く人修羅。
まばたいたその睫が、僕の眼下をくすぐった。
途端、腕を解いて僕の肩を押し退ける。
少しよろめいて、まだ呼吸を乱した彼に云う。
「吸うだけ吸って、その態度?」
別に、怒りも哀しみも無い。
分かり易いその行動が、寧ろ僕を満足させる。
「は…っ、は…ぁっ」
口をだらしなく開けて、赤い舌を覗かせる人修羅。
死にたがりの癖に、死の恐怖が彼を走らせた。
彼の本来嫌悪する行為へと。
「別に対価を求めはしないが…もう少し情緒的に出来はしない?」
クスリと哂いを零してそう問えば
人修羅は唇を引き結ぶ。
僕を真っ直ぐに睨みながら…
持ち上げた腕で、ぐい、と口元を拭った。
まるで汚れでも除去するかの如く。
「あんたがくれると云った、から奪っただけだ」
「…く」
「おい」
「くくくっ」
「何が可笑しい!」
怒鳴る彼に、僕は語る。
「誰も“唇から”とは一言も云っていないのだが?」
「…!!」
そう、僕が云ったのは分け与える提案だけ…
呼吸困難なる単語が連想させたのだろうか?
いいや、恐らくカブキチョウの捕囚場での接吻が記憶に在ったのだろう。
あの時、初めて彼の魔力を僕が吸った。
その、被虐の記憶が彼を駆り立てたのか
呼吸をしたがる肉体が、僕の真似をさせたのか…
「る、さい…っ」
頬を紅潮させ、一瞬泣きそうな顔をした人修羅。
ふらりと、慣れぬエネルギーに悪酔いでもしているのか
後ずさり、背後の淀みへと踵を返す。
僕はその背に声を掛けた。
「何処へ向かえば良いのか、解りもしないで闇雲に彷徨うのか」
ピタリ、と停止するその背中。
良く見れば、胸元を押さえて肩を上下させている。
あのたった少しの動きで、もう苦しいのだろう。
「あんたは、この階層の構造…知ってるのかよ」
苦しそうに吐かれた声音。
その云われる台詞通り…この階層など知る筈も無い。
ただ、僕は何の障害も無く動ける。
視界の悪さは、なんとでもなる。
「ねえ、今の対価…やはり求めても宜しいかな?」
彼にそう云い、歩みを進める。
背後のゴウトが『嫌われる交渉術』とぼそりごちた。
迫る僕に警戒し、振り返って構えた人修羅。
その眼には闘争心と、恐怖が見えている。
「さっき要らないって」
「その、ポケットに詰まった魔石の屑を僕におくれ」
人修羅が云い終わらぬ内に、その箇所へと視線を向け云う。
先刻抱きついてきた際、その感触に視線を滑らせた。
彼の着衣の衣嚢に…ちらりと覗いていた魔石の輝き。
それも、下級悪魔との交渉にしか使えぬであろう、屑石。
「魔石…を?」
いぶかしむ彼の手が、その箇所にずるずると落ち伸びた。
「こんな…欲しいなら、くれてやる」
義理堅い性分なのか、それに対して不満も洩らさず取り出される魔石。
ただ、それを差し出した彼の手が、虚空を揺らぐ。
こちらを見て、少し強張った表情のまま。
「投げつけないの?」
「…報復されそうだから……おい、置くから勝手に取ってくれ」
どうやら、僕が接近して行くのは良くないらしい。
自ら寄って力は吸う癖に…と、結構な身勝手さが
彼の変な意識の高さを薫らせた。
「ねえ、お待ち」
その、床に置こうとした彼を言葉で制す。
僕をちら、と見上げて黙る彼。
「無駄に動くのは君としても良しとしないだろう?」
「何…」
「其処へ、僕が行く…動かなくていい」
僕のその勧告に、びくりと身体を反射的に弾ませた人修羅。
脳の信号は、僕を視界に捉えた瞬間発されるのか。
僕は外套からすい、と腕を抜く。
その両手の指先をちらちらと揺らした。
「抜刀もしない、銃も使わぬよ」
「信用出来ない!」
「その魔石の使い方、教えてあげようかと思ってね」
「使い方くらい知って…」
「それに、まだこの空間で動きたいのなら…独りは厳しいだろう?」
人修羅が、ぐっと云い詰まる。
僕はずいずいと彼に接近していく。
視線を外さずに、僕を射殺しそうに見つめてくる彼…
やがてその視線が、上目遣いになる。
僕の方が、目線が高いからだ。
「では、頂くよ」
「…取ったら、離れてくれよ」
彼の掌に乗るその煌きを、指先で摘まんだ。
微量に魔力を放ち、仄かに光るその石を確認する。
「ありがとう、功刀君」
僕は云いつつ、其れを選別する。
不揃いな石達…その中でも大きい物は選り分ける。
その大きい魔石を、軽く口に指先で追いやる。
奥歯でがりりと、噛み砕く。
ぎょっとした人修羅の眼が、傍の猫の眼の様にぎろりと光った。
それを見て、僕はニタリとする。
そして砕かれた石を、ふっと掌に吐く。
「…そんな細かくして、庭の砂利にでもするのかよ」
ぼそりと呟く人修羅の、その庶民的な感覚に人間を感じつつ
僕は砕いた魔石を握り締めた。
「この淀んだ空気…少しの先も見えぬだろう?」
「…だから迷ってんだよ」
「壁に沿って往く方法は考えた?」
「…そんな事したら、先に死ぬ」
視線をふい、と逸らして吐き棄てる人修羅。
「だが、ただの人間である僕にはその方法が許される…」
逸らした視線を戻した、その彼の前髪を
ぐい、と空いた指先で掴む。
一瞬引き攣り、僕を睨む彼。
「ここで暫しお待ち…」
「なっ」
「無駄に動けば苦しいのは承知だろう?」
柔らかな、少し癖の有る前髪をするりと放す。
解放された人修羅は、僕を睨んで無言を貫いた。
しかし、動く気配は無い。
どうやら、動くのが得策で無いと理解はしている様子だ。
「ふふ、そうしていてくれたまえ」
哂って、彼から僕は距離を置く。
やがて、距離が淀みに彼を隠した。
僕は適当に突き進み、壁に辿り着いた。
その壁に沿って、足早に歩みを進めていく。
下からゴウトの声がする。
『お主、今度は嫌に優しいな』
「そうですか?まあ、あのままでは彼、死にますから」
『…あのビフロンスとやらと…何を交わした』
その台詞に、一瞬歩みが止まる。
下から見上げる翡翠の眼が、疑心に塗れて僕を見る。
「いえ、あの車椅子の老人からの依頼と似たようなものを受けただけですよ…」
『我には云えぬか』
「いいえ、開示しましょうか?」
くねくねと、曲がり角を何度か経て…入り口の扉を横目に通過する。
「人修羅をカルパの奥に届ける事ですよ」
思い出した様に口にした僕に
ゴウトは呆れ声で相槌し、鼻息を鳴らす。
『やれやれ、あの御老人は奥まで届けろとは明言しておらぬが』
「そうですか?暗にそう云っているものと解釈していたのですがね」
道中襲い来る悪魔は、邪魔になる分を斬り捨てた。
電車のレェルに石を置くは罪。
こちらは抜刀して見つめるのだ、退かぬ悪魔は好戦的である。
『人修羅は独りにして平気だったのか?』
「この短時間で絶える様なら、先に進んだとして同じ事」
『ふむ、歩まなければ苦しくは無い様ではあるが…』
「流石に大丈夫でしょう」
『…頼りない風のあやつが?』
ゴウトの、その哀れみさえ含んだ評価に
僕は少し笑った。
そんな事を話していると、色の違う箇所へと視界が開けた。
重い圧を感じるその扉。
少し上げ開けば…どくりと流れる魔力の道が見えた。
(違いない、な)
この扉の奥に、更に奥に居る…筈。
重厚な丸扉を下げ、僕は淀みの中央へと向き直った。
「功刀君!!」
突如大声を発する僕に、尾をビビッと逆立てるゴウト。
その様子も面白くはあるが、今は大きな声を張り上げる事に専念する。
「功刀君!聞こえているだろう?返答したまえ!」
悪魔と成り、感覚が鋭くなったと思うのだが。
いや、単に僕の呼び掛けに応えるのが癪なのか、多分それだろう。
少し捻ってみるか。
「君は、コトワリを築くことが無理だから逃げてきたのか?」
彼の琴線に触れると思われる内容…
彼の知人達が織り成す、創世戦争、コトワリ…
彼と真逆に、人ならざる者へと望んで変貌した人間達。
やがて、微かに聞こえてきた…
「どんな世界を望めっていうんだよ…!!」
苦しげな、呟き。
それとなく予測していた方角から…僕の耳に届く。
僕は握り締めた魔石の屑を、やんわりと零し始める。
「君は理想の世界を持たぬのか!?」
「元の状態に戻ればいい!」
人修羅の、声の方へと
「そんなに人間が恋しいのは何故!?」
「悪魔は破壊的で!こんな身体だからだ!!」
鬼さん此方…
「人も余程!残酷で破壊的だが!?」
「でも俺は悪魔にされてこう成った!!」
手の鳴る方へ…
「人間に戻りたいのか!?」
「当然だ!!」
綺羅の耀きで、僕の辿った道を点す魔石。
一直線に、人修羅の声の方へと僕は歩む。
そうして、薄っすらと…影が見える。
「人の頃の名を叫べ!!」
「もう知ってんだろ!!功刀矢代だ!!」
苦しそうに胸元を押さえた君が、人修羅が淀みの中に見えた。
彼も、僕の声の方へと、此方へと向き直っている…
光る金色の眼が、その薄暗い靄の向こうから僕を射る。
絡まり合う、視線。
「僕が憎いか!?」
もう叫ぶ必要が無いくらいに、近いのに。
僕は彼を眼にしながらに…問う。
彼も、僕を眼にしながらに…叫んだ。
「憎い!葛葉ライドウ!!」
人修羅が、そう叫ぶ頃には
僕はもう彼の眼前に佇んでいた。
肩を上下させて、思う限りに叫んだ彼…
上の、ボルテクス砂漠では…空に呑まれ消えゆく叫び。
この、狭い揺り篭で泣き叫べば、看てくれる者は多いだろう。
君の保護者を気取る悪魔共が…
僕は、掌に残った魔石の屑を彼の頭に降りかけた。
小さく叫んだ人修羅は、それが魔石と気付くのにやや時間を要した。
じんわりと、彼の天辺から滾る、温かな魔力。
屑石だろうが、一応癒える事には癒えるのだ。
「ただいま、功刀君」
「誰も待っちゃいない…し、何したいんだ、あんた」
髪の毛に煌く魔石が、雨粒の様だった。
そんな彼が…美しくない筈無かった。
身体の斑紋が、淡く光る、やや赤く。
…僕は靴先で床を指し示した。
背後に煌く魔石の道を。
「どう?解り易いだろう?」
「な…」
「敷かれたレェルに沿うしか無い君には、これが適切だと思ってね?」
云えば、ギロ…と僕へ向かう憎悪の眼。
だが、どこかで納得の、自虐を孕んだ眼。
「これ、何処に続いているんだ」
「出口だよ」
「…出口なんて、本当に在るのか?」
もはや信用など出来ぬのだろう、そう君は疑う。
僕は鼻で笑ってやる。
「他に縋る道なぞ無いくせに」
「…辿った先が行き止まりなら、あんたに一発でも拳を叩き込んでやる」
吐き出す人修羅は、僕を尻目に一歩踏み出す。
その、一歩一歩が重い。
だが、その光る小道は最短距離なのだ。
感謝したまえ、人修羅よ。
僕の敷いた道に従う君が、哀れで可愛い。
「はあっ…はあ…ぁ」
相変わらず、重かった、此処の空気が。
そして背後から突き刺さる…悪魔召喚師の哂う眼が。
(ヘンゼルとグレーテル)
足下の煌く魔石を見下ろして、そう思った。
こんな使い方をするなんて…確かに、この靄の中、これは解り易いが。
それをあの男にしてもらったと思えば、忌々しい道だった。
何の…為に俺を下層へ導く?
この男にメリットが有るのか?
悪魔と取引する…この人間、悪魔に魂を売り渡しているのではないか?
そして、辿り着いた先の扉に、ある意味絶望した。
背後のデビルサマナーは、虚言も何も無かったのだ。
俺を真っ直ぐに導く為に、この光る道を作ったのだ。
(くそ…なんでこんな)
情けない自分、嫌になる。
その扉を開けた先が、普通の空気で良かった。
もう、これ以上ライドウに縋るなんざ…御免だった。
でも、少し違和感もある…
この通路全体を覆う、別の息苦しさ。
重い…魔力の波動。
この先に、何か居る…
思えば、俺に残された回復手段など無いに等しい。
通路の先に立ち止まる俺を、あの男はどんな眼で見つめているのだろうか。
哀れみ?嘲り?
扉に手を着いて、自身の腕と胴の隙間から背後を見る。
黒い外套が佇んで俺を観察している。
傍の黒猫も。
(ああ、そういえばあの猫)
俺の事“頼りない”とか云っていたな…
ようやくあの猫の言葉がはっきり聞こえる様になった。
あの淀みの中、姿は見えなかったが…あの辺りの会話は聞こえた。
ライドウめ、あんなに叫ぶ必要は無かったのにな。
それにしても全く、好き勝手云ってくれる。
そうさ、俺は頼りない…
この先に、何が居たところで…俺は貫き通す望みも、無い。
在る意志は、ただひとつ。
(人に戻りたいよ…)
背後のライドウも気にせず、両の手を前に差し出す。
そこに、内に居る妖精を召んだ。
『ねえ、大丈夫…?』
「…」
『この奥に行くの?』
「奥にしか進めない」
ピクシーは、まだ少し魔力を残していた。
俺は、その最期の力での…癒しを求める。
「せめて動き回る事が出来る程度に、回復してもらおうと思って」
『あたしがしてやれるの、その程度だよ?』
「ああ」
『戦闘に参加しても良いけど、弱いよ?』
「しなくて良い、でも…俺が死んだら君も死ぬのか?」
以前からの疑問を、今更吐露する。
掌に座る妖精は、くすっと微笑む。
『さあ?でもヤシロが消えちゃうんなら、あたしは次の転生を望むわ』
「転生…」
『そ、悪魔だって人間だって出来るのよ』
云いながら、ピクシーは俺を癒す。
温かな光に包まれて、俺は酷く懐かしい気持ちになる…
『ねえ、ヤシロ…この奥、辛くても…頑張ってね!』
「頑張った見返りが有るのか?」
『此処では墜ちる程自由が手に入るのよ』
その言葉…何処まで信用して良い?
でも、今は彼女の叱咤が、言い分が心地良かった。
何故俺は、このピクシーにこんなに…依存しているのか、未だ謎だった。
あの状況の出逢いが、そうさせた?
いや、それ以前にもっと…何か重要な接点がある気がするのに。
『じゃあ…ね』
心配そうに別れを告げるピクシーを、俺は内に戻した。
今のが今生の別れにならなければいいけど。
そう、どこか他人事の様に思いながら俺は扉に手を掛けた。
背後の葛葉ライドウが、哂った気がする。
流れ伝う、赤い光。
ぼとり、ぼとりと、熟して落ちるしかない果実の様に。
赤い奔流が眼に痛い大広間…
このアマラ深界で、こんなに広い空間は初めてだった。
見渡す俺の視界に、何かが留まった。
…人型の、悪魔…だろうか。
こっちを、見ている。
いや、恐らく扉を開ける前から、俺に気付いていたのだろう。
巨体を揺らし、仰々しい髑髏の杖を床に着く。
『貴様が…ルシファー様お気に入りの、ヤシロ…か』
その、思ったいたより…落ち着き払った偉人のそれを思わす口調。
俺は警戒しつつ、その聞き慣れぬ名に引っ掛かる。
(ルシファー…?)
誰だ、まだ…俺は聞いた事が無い、筈。
勝手にお気に入りにされている様で、話が見えない。
と、突如空間を裂く笑い声が聞こえてきた。
「クク…あっははははっ!!」
ぎょっとした俺は、眼前の悪魔への警戒を思わず怠る。
それ程に…タガが外れた、笑い声だったのだ。
葛葉ライドウが、胎を抱えて、笑い過ぎて苦しげですらある。
「な、んだよあんた」
思わず問う俺の声は、得体の知れぬその男の笑いに…少し震えていた。
ライドウは、目尻を指で拭い、俺を見た。
「ク…失礼……いや、謎が解けたものだから、可笑しくてね」
意味が解らない。
この悪魔召喚師、今のあの悪魔の台詞に笑ったのか?
ルシファー…に、憶えがあるのか?
『おい、ヤシロよ…また貴様はあのお方の名を知らぬのか』
その悪魔の響く声にハッとして、すぐさま向き直る。
「俺は、知らないです」
『ふ…相変わらず、真の意味も知らずにメノラーを捧げているのか』
「…奥に行けば、逃げ道が在るかと思って」
『何から逃げるのだ?』
「…地上の喧騒」
『それだけか?』
「…繰り返しているらしい、俺の輪廻から」
俺自身、そう云われて信じたくは無かったのだが…
ダンテもそう云っている…何より、既視感が。
『成程…貴様、やはり人に戻りたいとな』
クックッと喉奥で笑い、その悪魔は胎を撫ぜる。
『前…此処に来た時も似たような事を云っておったな』
「!」
『しかし、皆で道を開けて迎え入れるなぞ…出来る筈も無し』
「迎え入れる…?」
『はっ、やはり何も知らぬか…哀れな仔よの』
その言葉の端に見え隠れする、前の世界の俺…
その前、が、どの前にあたるかは謎だったが。
『さあ、焔を纏え人修羅よ!試そうぞ…前の貴様と今の貴様、どちらが優れているのかを!!』
もう、この場に臨んだ時点で覚悟はしていた。
戦う事に理由を求めても、真の答えは返ってこないのだと。
この深界が俺を迎えているのだけは確かで、それに血で血を洗うように
応えよと…あの、車椅子の老人が暗に語る事も。
眼の前の、悪魔を見据える…
波動が、この大広間の中央…その悪魔に集まる。
渦巻き、その赤黒い塊が解けていくと…そこにはとんでもないモノが居た。
「…!!」
思わず、一歩後ずさる。
恐怖、というより…俺の生来の感覚がそうさせる。
そこに現れたのは、巨大な…蠅。
『これが真の姿と…貴様は何度見れば解るのだ』
「…初めてですけど」
『この姿を見る度、嫌悪感にその眼が満ちるのは毎度面白いがな…』
当たり前だ。
蠅だぞ、それもあんなに巨大な…そして禍々しい。
俺は、虫だのなんだのが苦手だ、マガタマだって本当は触りたくも無い。
間合いを必要以上に取る俺に、キチキチと吸い口を鳴らす蠅悪魔。
『これが魔王ベルゼブブの姿と、此度こそは焼き付けるが良い!』
その声に、空気が振動している。
俺は横に飛び、掌で床を押し退ける。
跳ねた身体が、そのベルゼブブなる悪魔が放つ電撃を掻い潜る。
それでも避けきれぬ光が、俺の表皮を焼き裂く。
焦げ付いて裂ける肉を気にする間も惜しい。
長引かせたくない、蠅をずっと見ているなんて無理だ。
息を吸い、両腕に焔を纏わせ一気に駆け寄る。
大きな複眼が、俺を捉えている。
沢山の俺が、そのひとつひとつに映り込んでいるのか。
右、と思えばベルゼブブはそちらに脚を滑らせた。
地を蹴り跳べば、その翅が上空を覆った。
獲物を捕らえるべき器官は、悪魔となっても同じなのか。
俺はスローモーションに見えているのだろうか。
(読み合っても無駄か?)
翅が打ち付けてくるが、それを掴み返す。
ジリ…と焔で焦げるその箇所。
俺を振るい落とそうと、大きく翅が空を薙ぐ。
床に身体を叩きつけられ、俺はキリを見て指を解した。
髑髏の紋様も禍々しいその翅が、少しくたびれている。
『それで終わりか?』
しかし、ベルゼブブは俺を挑発する。
『以前の貴様の方が…好戦的だと記憶している』
「前の俺なんて知らないっ」
『今回の人修羅は、目的も無しに足掻いているのか?愚か者め…』
その言葉に、腹が立たない訳無い。
何故そこまで比較されなきゃならないんだ。
今居る、この俺は不要なのか?
ダンテに云われた言葉が、こんな時に甦る。
俺に明かしたくない、俺の事。
(何だよ、俺は…俺は何なんだよ…!!)
ベルゼブブの放つ焔に、俺の業火が混ざり合う。
熱い熱波が、表皮を焦がす。
ぼろぼろになった指先から、赤いものが滴っている。
血かマガツヒか、どちらでもいいのだ。
そんな事より、焔を巻き起こさなくては。
俺の中の、誰に向かっているのか解らない憎悪が
まるで鞴の様に、俺の焔を滾らせる。
焼き尽くさなければ…
何を?
ベルゼブブの、鉤状の節がいくつもある脚。
それがザリザリと床に擦られる。
その蠅のする行為にも似た動きに、俺は眉を顰めて待機した。
『ふふ、気味悪いとでも云いたげだな』
「…」
『どれ、今回の人修羅は耐え得るのか…見物だ』
その音が、次第に大きくなる。
まるで、何かに聞かせているかの様に…
「いいの?そんなに悠長に」
その声に、首を向ける。
遠くの、入り口にいる葛葉ライドウが発したものだった。
「何かを召し寄せている」
そう語るサマナーの視線が、俺の背後へと移った。
何か現れたのか、俺はそう思いすぐ構える。
が…そんな簡単なものでは無いと、視界に映りようやく理解した。
「う…」
大群、黒い点の。
それが何か、認めたくない。
『魂を運び、孤独な貴様の弔いとしようか』
「気持ち…悪いっ」
『上で野垂れ死ぬより、余程崇高に逝けるぞ?この贅沢者め』
その髑髏の杖が号令でもしたのか
黒い渦が俺目掛けて一斉に飛び込んでくる。
黒い、蠅の群れ。
(絶対嫌だ!)
業火を周囲に、咄嗟に爆ぜさせる。
だが、残りが居る。
もう一発放つ猶予は与えられていない。
背後に駆けるが、速い。
アイアンクロウで薙いでも薙いでも、掻い潜って来る。
俺の肌に噛み付いてくる。
「やっ」
おぞましいその感触に、肌から急いで引き剥がす。
「っ…」
脚のを掃えば、腕に。
腕に焔を纏わせようとすれば、その蠅達が指先までいっせいに埋まる。
見ているのも嫌で、しかし術も発する傍から次々に飛び来る蠅達。
黒点に埋められ、俺は発狂しそうだった。
痛い…?いや、もっと精神的に殺されている。
『安心しろ、ルシファー様にお叱りを受けたくないので顔は外させた』
ベルゼブブの、そんな救いにもならない台詞と同時にか
俺に噛み付いていた蠅達が群れを成して主人の下へ還っていく。
俺は、ぐったりして、肌を震わせた。
鳥肌が、この悪魔の身体にさえ立っている。
身体は冷たいのに、頭は沸騰しそうだ。
『潔癖な貴様には、面白い術と思うがどうだ?』
蠅の王が哂う。
俺は、折っていた膝をバネにした。
ギラつく衝動に駆られて、その蠅に拳を叩き込もうと一気に駆け抜けた。
「ふざけるなあああっ」
右腕に、一挙に熱が集まる。
破壊に埋め尽くされた脳内。
脳に集うのは、血かマガツヒか…それはやはりどうでも良かった。
ただ、この拳を見舞ってやると、振り下ろした。
ぴちり
その、音に俺の腕が下ろされず止まった。
まだ、まだ音がする。
そして、不可解な…疼きが、違和感が。
俺はよろけて、ベルゼブブの眼の前から後退した。
ぴちぴち…
冷や汗が、突如流れる。
力を流して治まった腕を、俺は空いたもう片手で掴んだ。
「ひ…」
まさか、と俺が腕とベルゼブブを交互に見た。
蠅の王は、ただ哂う。
腕だけでない、疼く、痒い、痛痒い…身体が…!!
想像して、既に俺は叫び出していた。
「や、だ…嫌だ!嫌だそんな!!やめてくれえええっ!!」
身体を掻き毟る。
指先に皮が引っ付いてこようが、お構い無しに。
だが、無駄な抵抗だった。
ぶちっ
右腕から、一際大きな音がした。
見たくない、だが除去せねば…と脳内は思う。
が、俺にそんな強い精神が備わっているとは思えない。
そんな自覚があるのだから…もうこれは無理だと既に悟っていた。
俺の右腕の表皮を喰い破って、白いそれが頭を出していた。
卒倒しそうになる脚を、ギリギリで踏み留めた。
「わ、あ、ああああっ」
それを摘まみ出そうとしたのなら、身体中が軋む。
そう、植えつけられていたのだ、卵を。
腕のを、抜き取る。
ずりゅ、とその蛆が抜けた瞬間、くらりとする。
その気持ち悪い感触と見目が…そして魔力が…
『我が子等は魔力を喰らって形を成す…そして表皮へ上るのだ』
ベルゼブブが、自慢の子供を紹介する親御の如く語る。
俺は、それどころではない。
「やだ!やだやだやだいやだああああ」
身体中から這い出てくる白いソレ。
蠢いて、俺の表皮を喰い破って顔を覗かせる…
『どうだ?生きながらにして蛆が湧く感覚は』
ベルゼブブが、既に高みの見物をしている。
俺はといえば、床に転がり回って発狂していた。
魔力を喰らわれ、身体から力が失せていく。
抜いても、潰しても湧いてくる。
「ひっあ、ああああ」
どれだけ植え付けられた?皮膚が穴だらけになる程?
しかし俺の再生能力が、苗床を更地にするのだ。
皮肉にも、そうしてまた植え付ける環境が整う。
もう、この身体をどこまで呪ったろうか。
白い蛆が、蛆が俺の身体を這う、喰い尽くす…!
指先が痙攣して、床を掻いた。
「うっ…うううっ、え…っ」
俺を苗床に育った蛆は、丸々としていた。
『やはり人修羅に寄生させるのが良い、芳醇な魔力が在る…まあ、それも使えなければ無意味なのだがな?』
白く埋められる俺を、嘲っているその声…
でも、間違った事は何も云っていない。
それが、俺の戦意を喪失させた…
気持ちの悪い、この身体に…気持ちの悪い蟲が集る。
別に…おかしくは、無い。
痛い…気持ち悪い。
ああ、もう消えてしまいたい。
前の俺に、俺は既に負けていたのだ。
耐え凌ぐ程の意志を、持ち合わさなかったのだから。
顔にまで這い寄って来た蛆に、視界を奪われる。
本当に、死体の気持ちだ。
いや、もしかしたら…もう俺は腐りきっているのかもしれない…
だから、蛆が湧くんだ…
もう、あとは棄てられるだけなんだ…
創世?ボルテクス?
いや、俺は…蠅の王に、弔われて終わるんだ…もう。
もう、疲れた。
ぶち
何か、別な音がした。
ぶちっ
ぶちっ
潰れる様な…音。
視界が、開ける。
俺の顔を覆っていた白い悪魔の分身達が、取り払われた。
「立て」
ああ、あんたか。
「そのまま死霊の様に朽ちるつもりか?」
腹立たしい程に綺麗な指先で、俺の顔を這うソレを除けた。
俺は、何とか呟き程度に返した。
「どうせ、あんただって…哂ってるんだろ…俺の事」
すると、いつもの笑みを消した悪魔召喚師が
その指先の蛆を握り潰した。
どろりと、やや固体に近いその液を指に伝わせて云う。
「こんな蟲共に吸わせて良いのか君は」
何故、少し怒っているんだ…
「あの蠅の王の云うとおり…君は力を持て余している!」
ずる、と俺の肩を持ち、揺り起こされた。
ぼとぼと、と蛆が床に落ちる。
「払い除けろ!!喰われ続ける程愚かな奴とは思わなかった!」
俺の身体を、叱咤する様に叩き伏せる。
でも、それが蟲を掃う為の行為だと、それは解る。
俺は、ただぼうっと放心していた。
まるで本当の死体の如く。
『おいライドウ!素手で触れるな!』
あの猫まで止めてるじゃないか…
何やってんだあんた。
ベルゼブブだって、いつまでも待ってくれないだろうに。
身体の大体から、疼きはやがて消えた。
「前の自身に劣るなど、そんな馬鹿げた事は無い…っ」
俺に、何を求めているんだ…ライドウ。
「僕が出逢った人修羅は、一番強くなくてはならないんだ…!!」
ライドウの眼が、俺の眼を繋いだ。
揺るがぬ意志が見えた、初めて。
その暗黒に耀く眼の奥に…この男は希望を見出しているのか?
この男は…悪魔に魂を…売っている。
『ライドウ!もういいだろう、後は喰い破り頭を出すを待つしか…』
猫があんなに云っているのに、身勝手な奴…
「吸い出します」
『おい!聞いておるのか!?』
そんなやり取りの後、俺は首筋にライドウの唇の感触を認識した。
強く、ぎゅうぎゅうと皮膚を抓られているかの様な痛み。
ずる、と何かが抜ける感触が続けてした。
それを、無感情に見ていた俺は…ようやくハッとした。
俺の首に在中していた蛆を、吸い出したライドウ…
そのまま口に含んだソレを、プッと横に吐き捨てた。
びちびちと、生まれたばかりなのに棄てられた幼虫。
俺の肩をがしりと掴んだライドウが、そのまま立ち上がらせた。
「戦え!」
その叫びと共に、吐き棄てた先刻の蛆を、くちりと踏み潰した…
俺は、そんなライドウをただ、ただ見つめていた。
「僕の悪魔にならずに死ぬな!!」
ああ…この男は
悪魔に魂を売っている…
蠅の王・了