あの交差点で見つめられた時
確かに感じた謎の既視感
それは、脳内の何処かに
かすかに残留する記憶がさせたのかもしれない

でもそれは赤い狩人では無くて
黒い死神だった


――その身体、お大事に


その言の葉を思い出し
身体が震えた

もう…遅い


第五カルパ



「ぁ…っ…」
嫌な夢を見た。
少し前の、東京が平たい時代の夢。
交差点で確かに、奴との運命が…
字の如く交差した瞬間。
身を捩って、起こしたその視線の先。
敷かれた黒い布地が冷たい。
「…」
しばし、呆然とその黒を見つめる。

(俺…何を、していたのだっけ…)

記憶の空白を埋める作業。
夢の燻りを、それで掻き消していく。
「………」
此処に入ってきて。
「…あ」
俺だけでは無かった。
誰が居た?
「う、うう」
何をしに此処へ来た?
「うあ、あああっ」
甦る光景が、肋骨を圧迫していく。
震える両手で、顔面を、口元を覆う。
でも、零れる呻きが止まらない。

「おはよう」

背後からの声。
それに反射的にかぶりを振って、地を蹴り飛び掛る。
だが、振り上げた右腕は相手に届くどころか
空を切って、地を穿った。
左腕で上体を起こして脚の方を見れば、黒が纏わりついている。
「折角人が敷いてやったというに…随分な挨拶だね」
きっちり黒を着込んだ奴は、そう云いながら銃を取り出す。
「まず挨拶の仕方から教育すべきかな?」
パン、と乾いた音が広くもない部屋に響く。
「ぐ、っ」
立てていた左腕の、伸びた筋に鉛が喰い込んだ。
それに引き絞られ、支えは崩壊する。
俺はべしゃりと地に頬を打ちつけた。
「人の子はまず挨拶から教わるものだからねぇ…」
寄って来る黒い影。
俺という個を殺す死神。
「この…っ!」
今度は右腕で、地を跳ね除けて立ち上がる。
すると、奴はニタリと哂って腰の辺りに指を滑らす素振りをした。
「寒くないの?」
その吐かれた台詞に、俺は一瞬ハッとした。
足下の黒は、奴の外套だけでは無かった。
おれの一張羅まで巻き込んだ黒が、俺の素足に絡んでいたのだ。
だが、もう今更。
身体を護る様に、姿勢を低く、まるで獣みたいにして
奴の脚を狙ってやる。
そう思って駆け出した、が。
「!?」
妙な、感触。
血ではなく、妙な熱さ。
それも、背筋を這い伝わる様なおぞましさ。
あまりの感覚に、薙いだ爪はライドウの裾を揺らしただけで終わる。
「う、ぇ…っ、な、何っ、何だこ、れ」
下半身、痛みは無いのに酷く重い。
ライドウの眼の前で跪く形のまま
俺は逆さまの視界で自身の下半身を見た。
(何だ…これは)
天から逆流する様にも見える白い雫。
俺の腿を伝って、膝頭までするすると登っていった。
生温い、潰れた卵液みたいなそれが…
俺の中から出てきていた。
その正体。
「ぅえ、げええっ!!げっ…え…ッ!」
解らない訳無い。
知らない筈無い。
中から引きずり出してしまいたい…!
しかし触るのも、指で探るのも気持ち悪い…!
「ああ、すまないね、後処理は面倒なので」
銃をひらひらと振って、ライドウはさらりと云った。
白い粘液を中から垂らし、転げる俺を見下す。
「必要無いのだけど、余分に注いであげたよ」
その怖ろしい台詞に、吐き気が加速する。
「ボルテクスには人間の遊女が居ないから、如何せん欲求不満でね」
クスクスと、あまりにもな内容を愉しそうに零す。
「でも、しっかりと掻き出さなければ着衣すらままならぬだろうな」
嫌でも俺の鼓膜を撫ぜる、その事実。
そして、俺の中に残る証拠にヒリつく脳内。
「…クズ」
「葛葉」
「…クズ、人間のクズ」
「葛葉だよ、解らない?」
「クズ野郎が…ッ」
「葛葉ライドウ、ほら、呼んで御覧?」
俺の前髪を、その長い指でぐしゃりと掴み上げる。
自然に引き攣る皮膚が、俺の表情を苦悶のそれに恐らくしている。
「君には色々教えてあげないとね…」
「…」
「使役のされ方も、戦い方も、欺き方も…」
にぃ、と口の端が、いつもの通りに吊り上がる。
「上手な啼き方も教えて欲しいかい?」
その、明らかに挑発している最後の項が
俺の頬を熱くする。
「まだ、あんたの仮説でしか無いんだ」
絞り出した声で、眼の前の男に云う。
「もし、旨くいかなかったら…」
「いかなかったら?」
「次の世を迎える前に、絶対あんたを殺してやる」
俺の言葉が、そんなに強がりに聞こえたのか。
葛葉ライドウはクク…と肩を震わせ
「では旨く事が運んだのなら…君は名実ともに僕の悪魔だね」
そう確認で返してきた。
「…誰があんたの悪魔だよ…俺は、俺の為に乗っただけだ」
掴んでくる指を、俺は払い除けた。
前髪をざっと梳いて、改めてライドウを睨みつける。
「協力じゃない、共闘じゃない、利用だろ」
俺のその台詞、少し気に入ったのか
ライドウは掃われた指に怒る事はせず、片手にした銃を口元に添えた。
「フ、それは正論」
愉しそうに哂っている。
こいつは、捻子が数本抜け落ちている。
「ああ、でもそれなら…その下の処理は己でし給え」
いいや、最初から無いのか?
「協力は今、絶対必要では無い…その位一人で出来るだろう?」
「誰もあんたに触って欲しく無いから、勝手にやる」
「へぇ、なら早くしておくれよ?先へと進みたいし、猫も待たせているのでね」
早速新しい玩具で遊びたいのか。
…悪魔を使役する、人間。
葛葉ライドウ…
(いつか、見てやがれ…)
後孔に指をあてがう。
そっと深呼吸して、意識をなるべく逸らせる。
そう、憎しみで逸らす。
眼の前の男が、そうさせたのだ。
俺の失態でも陰徳でも無い。
憎しみで、心を満たせば溺れる。
「はっ…ふ、く…っ」
痛みなのか、おぞましさなのか
自身の指は、泥濘に滑ってずるずると呑まれていく。
「っは……あ」
ぐじゅぐじゅと、指を伝って溢れる契約の残滓が
俺の意識を引き込もうと手招く。
(こんなの、もう二度とさせて堪るか…)
脂汗が額に滲む感覚。
歯を食い縛って、ライドウを睨みながらした。
ここは本来視線も逸らすべきなのだろうが
俺は意識をすべてライドウに注いだ。
「…何、視ていて欲しい訳?君」
鼻で笑って、銃を手にしたまま腕組みするそいつに
俺はかすれた声で答えた。
「あんたが中に残っているのが…」
「…」
「凄、く、むかつく…吐き気が、する…っ!!」
ぐぱり、と鉤の様にした指が直腸の粘膜を撫ぜて広げる。
そこから全て、余分なおまえという汚れを掻き出してやるんだ。
これは陰徳なんかじゃない。
繋ぐ視線は、拒絶の為だ。
「ふ、くくく…」
声を出してライドウは、可笑しそうに…
そんな俺に視線を繋いだまま、横を過ぎる。
「本当、黒か白か解らぬ」
そう呟いて、跪き指を埋めている俺の、その横から…
「変な悪魔、っ!」
云いながら、脚をすらりと振り上げて降ろした。
「ひぎいいいっ!!」
俺の、埋めていた指が、楔の様に更に打ち込まれる。
ライドウは、靴の踵で…俺の後孔に入る手の甲を叩いたのだ。
少し首を捻り、振り向く俺の射る視線…
それが絡んだ先で冷たく哂った奴を確かに見た。
…ぎちぎちという音に、痛みが混ざっていく。
「は…ぁあ゛…ぅっ」
深く穿った指を、そろりそろりと抜き出す。
刺抜きの様に、埋まったままでは気持ち悪い。
しかしその行為に痛みを伴う、ジレンマが酷く苦い。
「き、ちく…っ」
息と侮蔑を吐いて、ごぽっと抜け落ちた指。
股の間からぼんやりと見えたそれは、白にうっすら朱が混ざっていた。
「そうだね、僕は仲魔に厳しいよ…使えぬなら管に置かぬ」
震える俺の耳元に、屈んだライドウが続ける。
「管に入らぬ君は…常に、つきっきりで看てあげる」
「あぐっ!!」
抜いた処に、なんの抵抗も無く呑まれていく細い指の感触。
俺ので無い、それが胎内を抉る。
「まだ残っているじゃないか…本当、詰めが甘いな君は」
「や、やめろっ!自分で…」
俺の悲鳴は鋭く探ってきた爪先と共に、掻き捨てられた。
その、内部からの痛みと…あまりの羞恥に
俺は意識を全て、持っていかれた。
ガクガクと震えて、崩れ落ちた…
もう、身体の構造が変わってしまったかの様だった。
何故服従している。
ゆるやかに、この男の指先から、先刻感じたのは何だ。
「じゃじゃ馬め」
「む、ぐううっ!」
抜いた指を、俺の唇に無理矢理突っ込んできた。
薄っすらと、笑みを湛えて…俺の、契約上の主人…が云う。
「調教し甲斐があるね…人修羅?」
舌を撫ぞる指先から、触れている肌の表面から
確かに…
自然にマグネタイトとやらが、俺に注がれていた。






『愚か者』
ゴウトの声は、いつもより重い。
僕等から離れて歩く人修羅を、チラリと意識している。
『お主、そこまでとは思わなんだ』
いつも呆れを含んでいる声音は、明らかに怒りを滲ませて。
僕を糾弾している。
「依頼に提示された内容と違う点が多く有り…」
『言い訳に過ぎぬ』
「人修羅は野放しにすべきで無いと判断致しました」
『己が欲の為だろうが』
「ゴウト…貴方にとっても、僕の目的は美味しい筈、ですが?」
いきなりの切り返しに、黒猫はピクリと髭を揺らす。
『我に有益な事など無い、ヤタガラスの命も聞かぬお主のお守りなぞ』
フン、と啼き一笑に付すゴウト。
僕は外套に残った、人修羅のかすかな温もりを感じつつ
傍をちょこまかと付いて来る黒猫に語る。
「貴方様も、十三代もの間さぞお疲れでしょう」
『…』
「葛葉の責務はあまりに重いですね、畜生に生ってまで全うせよと云う」
『何が云いたい…夜』
珍しく名前で返したゴウトに、僕は視線を送る。
「その御霊、安らかにして差し上げましょうか?業斗童子」
僕の言葉に、しばし間を置くゴウト。
それはそうだ、内容が内容…
そう、僕は端的に云えば“屠ってあげます”と云っているのだから。
『意味が、解らぬ』
ぼそり、とゴウトは呟いた。
歩調にバラつきが出てきた、動揺しているのだろう。
「ゴウト、ヤタガラスが消えれば貴方も晴れて…自由の身でしょうに」
『…おい!滅多な事を』
「消滅という魂の救済…甘美な響きではありませんか?」
翡翠の眼に、微量の魔力が見え隠れした。
だが、僕の心は読ませない。
マグネタイトで諮る、お目付け役の視線を冷たい壁で退ける。
「もし、その背中の十字架を下ろしたいのなら…僕を泳がせて下さいな」
『…この業は、赦される日まで背負うつもりだ』
そのゴウトの返答に、僕は哂ってしまった。
(ああ、葛葉とはこういうモノか)
あまりに滑稽…
あまりに哀れ…
巣立ちも赦されぬ、生まれながらの亡霊よ。
「貴方の業が何かは知りませぬが…」
『…』
「烏が赦しをくれるを、只待つは……」
じわりとした敵の気配に、刀の柄を握る僕。
駆け出す前に、もう一押し。
「愚鈍なる傀儡に御座います、童子」
そう吐き捨て、振り向く。
外套の割れた合わせから、抜刀した刀身を突き出した。
背後に迫っていたその影を、一刺し。
と、刀の切っ先に留められたその悪魔の身体が、蠢く。
途端、こちら側に、その肉を突き破って出でた、手指。
濁った悪魔の血に濡れそぼるそれは、斑紋が通る彼の手。
僕は、クスリと哂って、息絶えた悪魔を挟んだまま
向こう側の人修羅に聞いた。
「僕の背後を護ってくれたのかい?」
わざと、そんな事を聞いてやった。
すると無言で、その悪魔の肉から突き出ている指が
親指を下に伸ばした握り拳を作った。
それが好意的な反応で無い事は、解る。
「だろうね、まあ問題は無い…君に護られる程落ちぶれちゃいないのでね」
僕はその悪魔に突き立てている刀を引き絞って、自身の身体を寄せる。
突き出た人修羅の掌を、己の手にとり
その血に濡れた甲にくちづけた。
「…!!」
ほんのかすかな息遣いと共に、その手は悪魔の肉に埋まり戻っていった。
粘着質な音と共に消えた人修羅の手指。
そうして、僕もずる…と、その肉壁から刀を引き抜いた。
ぐちゃり、と地に落ちたその残骸を挟んで佇む
返り血の君と僕。
「邪魔するモノは排除する」
僕は、人修羅の君にそう云った。
「君と僕の、共通の障害は…そうしようね、功刀君?」
「…」
ふい、と視線を逸らして返事をしない人修羅。
「そうして全ての障害を排除したら…」
「…」
「殺しあおうか?」

残された方は、あまりに惨めで
あまりに虚しい。
でしょう?ゴウト?
だから、それが一番なのです。
きっと一番愉しいのです、一番の、真理なのですよ。
消すには惜しい、猛き力を秘めし悪魔。
そして寧ろ、僕の危険が大きいこの賭けは…
生まれてついぞ味わった事の無い、享楽的な、悦楽。
(ずっと、求めていた…これか、これなのか)
里から出た僕に、ようやく訪れた…
美しき自我が囁くのだ。
全ての悪魔を使役せよ。
全てを欺いて、謀って巣立てと…!!





あの男は…狂っている。
人間?一体何に育てられた?
どういう指南を受けて、あんな強さを身につけた?
数歩先を歩き往く黒い外套を見て、俺は…どこか恐怖していた。
そもそも計算高い奴の話に乗る俺も、どうかしているのだ。
だけれど…
あのマネカタの残骸の山で。

俺に差し伸べられた、あの時の手が…
あの言葉が…

(どうかしてる)
首を振り被って、意識を周囲の敵意に向ける。
女性悪魔は前を往くライドウに任せた。
そういう気分の悪い事は、あの男に任せてしまえば良い。
俺の、自分でも分かる、酷く狡い部分がそうさせる。
(どうして、そこまで…)
奴は、ただの人間なのに。
俺の様に、振り返るものなんざ無いだろうに。
今まで出逢ってきた、沢山の悪魔達の中でも…
人間のくせに、一番狂っているかもしれない。
(…人間)
そういえば、俺…さっきから
人間のくせに、人間のくせに…と
そればかり、考えている。
その事実に、ゾッとした。
そう、確かに…俺は…近付いているのだろう、悪魔に。
どこかで自覚しているのだろう。
(あんな奴が人間なのに…)
酷く、苛立つ…
先刻の悪魔の血が、指先から厳かに薫る。
その香を吸って、妙に落ち着いていく自分に…自己嫌悪した。

「功刀君」

前方からの声、それは俺の姓名。
視線を少し上げて、その声の主を見る。
いつもの通り、余裕の見え隠れする笑みを湛えている。
「感じる?」
そう問われ、黙る理由も無いので応える。
「ああ、その扉の奥…ずっと何か居る」
「人間の僕でも感じるのだから、余程だね」
いちいち“人間”を誇張する台詞に棘を感じるが
俺は敢えて無視して話を進めた。
「なんだか…ベルゼブブとは、違う、力な気がする」
俺のそのあやふやな表現に、ライドウは管を指で撫ぜつつ云う。
「陰陽?でも此処に真逆の性質を持つ悪魔が訪れるのか?」
しかし、それすら興味深いといった風で
ライドウは扉を哂って見つめる。
「だが、奥へは此処しか道が無いね」
「…」
「どうする功刀君?」
今更帰るなんて、いくら俺でも云わない。
まあ、前の俺はこのフロアに来て…ダンテに止められたのだろうけど。
生憎、もう俺はこっち側を選んでしまったのだ、浅はかにも。
でも、前の自分と願う事は…同じ筈だった。
「行く」
久々に、はっきりと意思表示した気すらする。
「そうか、せいぜい足を引っ張らないでくれ給え」
「あんたこそ、その刀を俺に向けるなよ」
これで共闘するのだから笑える。
「俺の仲魔って…召べるのか?」
そういえば、と思い
扉に手をかけた際、気になっていた事を問う。
「一応呼べるのでは?まあ…君の仲魔なぞ召んだところで…」
そう云い、哂ったライドウを見て、ふつふつと煮えてくる。
「じゃあ、あんたがしっかり召喚してくれよ、デビルサマナー」
「云われずとも、君は黙って云う事を聞けば良い」
ライドウは、足下の黒猫に向かって礼をした。
「では、ゴウト…貴方は此処にてお待ち下さい」
『ちっ、また居残りか』
「流石に役に立ちませんから」
その返答に俺は呆れて口を挟む。
「おい、あんたいくらなんでも口が達者じゃないか?」
すると、ライドウとゴウト、一人と一匹が俺を見つめ返す。
少しぎょっとして、俺は取り繕う。
「な、なんだよ…」
何故声がどもっている。
そんな俺に、ゴウトがミャア、と声を上げたかの様な口をした。
『こやつは口から生まれたのでな』
その言葉に、思わず俺は口を引き締めた。
でないと、吹き出してしまいそうだった。
「へえ、葛葉一門は口から生まれた者にすら継がせるのですか」
表情も変えずに返すライドウは、確かに口から生まれたのかも知れない。
そうだ、こんな男、人間なものか。
極悪非道、捻子の元から無い、人間もどきだ…
『力があれば口から生まれた者でも何でも良い、さっさと往け』
腰を落ち着けたゴウトが、尻尾でライドウの革靴を叩いた。
「…では、行って参ります」
『扱き使い過ぎて殺すなよ』
「ふふ、どうですかね…」
何やら怖ろしい会話を聞いた気もするが、俺はその扉を黙って押し上げた。
その開く向こう側からの眩い光が、俺達を包んだ。

まるで、天国を思わせる光だった。


第五カルパ・了