東京堕胎

 

一心不乱に向かって行く。
獣じみた咆哮を聴きながら、真黒な闇に。
(赦せない)
ただそれだけ、相手が何者か、どういう関係があったのか。
そもそも、見知った仲だったのかすら思い出せずに。
発したその言葉さえ、何を形容したものかすら理解していなかった。
「うぁあああああぁっ」
ぬらりと光る刀身すら恐れずに、今はこの男を引き裂きたい。
薄い埃の床を蹴り放ち、振りかぶった右腕を叩き付ける。
奴の立っていた場所が、圧でなのか、静かに地割れしてめり込んだ。
でも、肝心の標的はその亀裂に横たわってなどいない。
「呼べたではないか、名前」
はっ、とその声の方角を振り向けば眼前にぎらりと光る何か。
「わあッ!?」
咄嗟に手で払い除けると、ビイッと嫌な音がした。
払った腕を包む繊維が千切れて糸になって往く音だった。
続いて、熱い感覚がその右腕を苛み始める。
「ぅ、ぅうぅうっあ」
急に足元から崩落するみたいに、じわじわと嫌な汗が…
俺は…俺は、何をしていた?
どうして、こんな相手に向かっていった?
「どうしたのだい?ほら、もう二撃くらいは痛みを堪えて打てる筈だろう?」
ニタリと哂う黒い外套の男、カツンカツンと革靴を鳴らして俺に寄って来る。
その傍をゆらゆらと蠢くひょろ長い白い影が、口先を開く。
空気がひゅうっ、と其処に瞬間吸われた音がして、途端逆流した。
「ひッ!」
化け物から何かが放たれて、俺は逃げる事も出来ずにその場で頭を覆う。
肉の裂けた右腕が今度はじわりと凍るかの様な感覚に見舞われ、背筋を凍らせる。
煙みたいなその吐息に撒かれ、俺の先刻までの勢いは虚空に消えた。
「はぁっ、はぁっ、あ」
ぐらりと弛緩する身体は、背後の何かにぶつかって床に崩れた。
此処、オフィスだったんだろうか、衝撃で薄い引き出しが飛び出て、紙が舞う。
『おい、フォッグブレスの必要すら無かった様子だぞ』
黒猫が…喋っている…やっぱり、おかしい。
「先程の一瞬だけ…でしたねえ、どういう事でしょうか」
『我が知るか、堕天使にでも問い詰めたらどうだ?』
「フフ、随分と軽く扱いますね」
『皮肉だ、お主の最も得意とするものだろうが』
コピー用紙に滑りそうになりつつ、黒猫が鳴いた。俺に威嚇しているのか…
『おいヒトシュラ、はっきりせい、今のお主は何者なのだ?』
あまりに痛い右腕をちら、と視線で確認した。
バイクでこけたって、こんな裂傷滅多に負わない。
その肉の断面を見て、うぐ、と吐き気が込み上げてきた。
血の臭いが、妙に生々しい。
「早く…早く醒めてくれ……」
喉の奥から搾り出す様に零せば、上から失笑がした。
「何、まだ夢だと思っているのかい?低血圧め」
「あぐッ、ひ」
酷い夢。白い砂漠を独り歩く、あの夢より酷いかもしれない。
靴先で顎をくい、と上げさせられる。
冷たい双眸の…闇色の眼を、しっかり見てはいけない気がした。
「悪…魔」
錆の味を舌先に噛み締めて、俺は恐怖と同居する憎しみを吐き出してみた。
そう、こいつは、きっと悪魔なんだ…
(だって小さい頃に絵本に出てきた悪魔は、皆黒かった)
ぼんやりとそんな事を思いながら、靴の甲をじとりと見つめれば。
「悪魔ねえ……クク」
馬鹿にした様なその声音、どこかで聞いたことがある。
何かの記憶を掘り起こした夢見なのか。
それとも…それともまさか。
「ほら、もう一度真の姿に戻ってみ給えよ」
突如呟いた悪魔が、俺の首をわしりと掴んだ。
「は、っ」
「何を出し渋っているの?僕を虚仮にしている?」
「な、に…」
「それか何だろうね、先刻の様な鮮明な恐怖が必要?」
「うぐ、ぅ…ぁ」
項の方に回された指が、俺を吊るす。恐らく、服のフードを掴まれている。
絞まる呼吸器官が、視界をぼやけさせて、脳を揺らし始めた。
…違う、本当に…揺れている…
「ひ」
吊るされている。
「ひいっ!ひぃいいいっ!!」
悪魔の腕一本で、階段の踊り場から宙吊りになっていると、ようやく認識した。
馬鹿な、だって夢だろ。
それならどうしてこんなにも、重力を感じる?首が絞まる?呼吸が苦しい?
「おいおい…失禁しそうな錯乱ぶりだな…まあ、今の君は排泄も出来ないか」
クス、と哂うまま、慌てて縋る俺の眼を見て哂う悪魔。
右腕が上がらないので、左腕を奴の腕に絡めようとしたが、震えて掴めない。
磨り硝子の窓から朧気に射す光が、悪魔を逆光のシルエットで浮かび上がらせた。
「ねえ、功刀君、僕、云ったよね?」
「あ、やめ、やめて、いやだ」
「名前、憶えてなかったら殺してしまうよ、と」
綺麗な貌…の、悪魔。哂っているけど、眼が酷く冷たい。
フードだけで繋がっているこの蜘蛛の糸に、ずるりと表皮が剥けない様に必死で縋る俺。
何かを思い出しそうで、霞がかかる。
『おい、やめてやれ、本当にこやつ何も憶えておらなんだ…この時はただの人間かもしれぬぞ』
柵に猫が飛び乗り、悪魔を説得している。
そうだ、本当に俺は知らない、誰だって良い、猫の手も借りたいくらいだ!
助けて、助けてくれ!

「あははっ、時間切れだよ功刀君」

音が消えた。
周囲の景色が、スローモーションみたいに上へと昇って往く。
と、がくん、がくん、と視界が揺れた。
その度に、何か弾け飛ぶ。
痛…い。
「がふ、っ……ぁ…ぶふっ」
ぼんやりと、水中に居るみたいだ。
自分の呼吸が脳内で響くだけで、他は薄くしか聴こえない。
動く左手の指先を微かに伸ばしてみれば、からりと何かに当たった。
視線を移せば、白っぽい何かが転がっていったのが見えた。
(嘘だろ…多分、俺の歯だ)
落とされたのだ、上の階から、何階分か定かではなかったけれど…
途中、柵やら何かにぶつかる度、欠損したのか。
(夢…夢…)
そう思うからこそ、こんな客観視出来るんだ。
そうでもなけりゃ…
「忘れ物だよ」
「ぐべっ」
蹴られて身体が反転する、更に胎の上に何かがドッと落とされた。
白い…俺の鞄か、口が開いて中身がざらりと床まで零れた。
「流石にこうでもすればヒトシュラに戻ると思ったのだが、やれやれ…面倒だね」
ボロ雑巾みたく横たわる俺の胎上から、ごそりと荷物を漁る悪魔が吐き捨てた。
人を落としておいて、何て奴だ…
「ひ、ひっ、ひぅ」
「どうした?あぁ、歯が失せたかい?まあ待ち給え、この後生えるだろうから」
馬鹿か、死んじまう、このまま放置されたら。
いや、それが目的なのか?俺を殺す為に来たのか、この悪魔。
『酷い荒療治だな、しかも治っておらぬ』
「まあまあ童子、この後向かうのは病院ですから」
『そういう問題か?十四代目にして無為な殺人を起こすなど、やめてくれよ』
「ああ、ありましたよ、ほら…この頁ですね」
はらはらと、俺が道中渡された、あの胡散臭い雑誌をめくっていた悪魔。
唇の端を吊り上げ、俺の眼を見た。
「さあ、功刀君、受胎を引きずり堕ろしに行こうか」





「遅い!何してたのよ功刀く…」
いつもの高圧的な声音が、ピタリと止まった。
怪訝な表情で俺と、隣の悪魔を交互に見た橘。
「どちら様…?あなたの友人、にもちょっと見えないんだけど」
「違、う」
うまく喋れない、部分的に抜けた歯が空気を漏らしてしまうから。
あれから、悪魔の連れの化け物の…術みたいなので、俺の身体は再生させられた。
治癒…というより、強制的な回復だった。
俺を、この病院に連行したいが為の、単なる手段。
そこには哀れみだとか、慈しみは無くて、歩かせたいが為だけの…
「お気になさらず、功刀君は少々風邪をこじらせていてね、喉を痛めているのですよ」
「へえ…って、そんなコンディションであなたは御見舞いに来た訳?少しは考えなさいよ」
適当な嘘で誤魔化す悪魔をチラチラ見ながら、俺に叱咤する橘。
と、その視線が俺の右腕に伝う。
「…どうしたの、二輪で事故った服そのまんま着てきた訳?あなた」
「違、う…」
「さっきからそればっかじゃない、はぁ……」
ため息して、ロビーのソファに座り直した彼女を見て、悪魔がクスリと哂う。
「随分と人気の無い病院ですね」
まるで、知っていたかの様な笑みだ。
「そうなのよ、様子がおかしくて…今もう一人が確認しに行ってるトコよ」
新田の事か。
(…新田の事?)
どうして俺は今、すんなりと納得した?
「それにしても、随分と古めかしい格好ね、モダンとかレトロって云えば聞こえは良いけど」
橘は呑気に、悪魔へと笑いかけて茶化し始めた。
おいおい…関わらないべきだ。その人間の皮を被った悪魔は、絶対不幸を呼ぶ。
「フフ……おや、御友人が戻った様ですよ?」
と、哂って相槌した悪魔の視線を追う。見慣れた姿が眼を丸くして俺をを見てきた。
「おっせーよ矢代!っておま、誰連れてんだよ?……ちぃーす」
「こんにちは」
橘と似た反応で、悪魔に挨拶する新田。軽く頭を下げるが、結構警戒している。
キャスケット帽を被り直して、俺の傍までそそくさと歩み寄ると
「…なあ、お前さ、急に人増やすなら一言くらい云えって、それとも用事あったのか?」
何と答えるべきか分からず、俺は聞き流す。
だって、この悪魔、俺も何者か分からないんだからどうしろって云うんだ。
「駄目よ新田君、彼、風邪で喉潰してるみたいだから」
ソファで脚をつんと投げ出している橘の声に、傍の新田がはあ?と反応した。
「風邪なら尚更だろお前さー!先生に感染ったらどーしてくれんだよっての」
結局はそこに落ち着くのか、と俺は更に新田から視線を逸らせた。
適当に流した視線の先、確かにこの病院の空気はおかしい。
無人のロビーが開いているなんて、どういった管理体制だ。
「少し僕等で見てこようか、ね、功刀君」
悪魔の声に、しっかり再生した鼓膜が揺らされて身体がビクリとした。
俺の奥深くの部分で、この黒い魂を拒絶している気がする。
「あ、そんじゃさ、コレ、拾いモンだけど、何処かで使えないかなーってさ、ほらよ」
ジャケットのポケットからごそりと取り出した新田の指先には、カード。
は、と息を吐いてそれを受け取れば、カード型のキーらしかった。
重い右腕は、未だに内部で再生を続けているのだろうか…
「地下まだ見てねーんだけど、俺少し休憩したいからさ、先生も見つからないし、んもークタクタだわ」
つまり地下に行け、という事だ。
ちら、と背後の悪魔を見れば、不敵な笑み。きっと思う通りに進んでいるんだ、シナリオが。
「では、僕等で地階は見て来ますよ…フフ、どうぞ此処でごゆっくり」
述べる悪魔に、新田が壁に寄りかかりながら小さく問いかける。

「…あのさ、何処かで……会った事ありません?」

ずきり、と心臓が軋んだ。
俺の困惑を感じ取ったのか、橘も追従した。
「そう、そうなのよね、私も…貴方の事、何か……うぅん、気のせいとは思うのだけど」
ずっと脳内で渦巻いていた疑問を、新田も橘も発露してくれたおかげで、俺は竦んでしまう。
そう、これは夢…じゃない。
「さあ?ドッペルゲンガーという物も、存在し得る世の中ですからねえ…」
答えて首を傾げ、流し眼のまま、俺のスニーカーの踵をつま先で蹴った悪魔。
ついて来い、の合図。
「ああ、でも万が一の為に、下手に身動きはとらぬべきとだけ云わせて頂きましょうか」
黒い外套をひるがえして、ロビーの二人に云うその言葉。
「病院の外では、何が起こるか保障出来ませんのでね…フフ」
無機質な病院のフロアよりも冷たく響き渡った。





「功刀君、あの受け取った雑誌、君は眼を通したのかい?」
悪魔の質問に、俺は無感情に首を振った。
今は一刻も早く、この霧の中から抜け出したかった。
何者なのか、この病院がどうなっているのか…俺は生きたまま帰れるのか。
早く帰って、母親の料理を電子レンジで復活させてやりたい。
「東京受胎…という単語に、何も感じぬのかい?」
一瞬、身体の節々が熱くなった気がしたが…そのまま歩み続けた。
「そう、少しは憶えてるのかな?クク」
俺の気の乱れなんざ、お見通しなのか、くそ…
『おい、大丈夫なのか、このまま同じ流れになるのか?』
背後からの声に振り返れば、俺の脚の隙間を縫って黒猫がたたっ、と駆けてきた。
同時にミャウ、と鳴き声がする。実際に漏れる音はきっと鳴き声なんだと思った。
「そうならぬ様に、此処まで僕が介入しているのですよゴウト童子」
俺のハーフ丈のスラックスを、そわりと撫であげる感触。
ぞわりとして睨み付け、即座に突き飛ばす。
臀部のポケットから、カードキーを抜き取った悪魔がニタリとした。
「今度はスプーンでは無かったね、フフフ」
「触ん、な、っ」
「さて、いよいよ気配が近づいてきたよ…判るかい?感じないのか?」
「知るか、もう、帰りた、ぃ」
「帰るだと?馬鹿を云うでないよ…君が消えてはそれこそ大問題だ、僕が困る」
鉄格子の前で、まるで使い方を心得ているかの様にカードキーを通した悪魔。
容易く解除されたそのバリケードを潜る時…じっとりと汗ばんだ。
脳内で、何かが蘇ろうと扉をひっきり無しに叩いている様な。
「さあ、ガイアの異端を叩き潰そうか」
しゃらり、と傍からの冷えた音。刀を携えた黒い悪魔。
黒猫が凍える地下の空気に、身体を震わせていたが…俺も同じだった。
「あんた、いったい」
呂律が微妙に回らない俺の声に、悪魔の迷いの無い足取りが停止した。
「誰…だ」
怪しい扉を前にして、小さく俺を振り返る。
その横顔が、どこか遠くを見ていた。
「僕はこんなにも求めたというのにね……」
闇色の眼に、胎がぎゅう、と鷲掴みにされた感覚に陥る。
指先までの血管に、何かが、どす黒いなにかが駆け巡る。


 ヨベ サケベ ボクノナヲ

 オマエノ アルジ
 オマエヲ シハイスル サダメノ コノボクノナヲ


…呼吸が、乱れてしかたがない。
脳裏に心音みたいに轟く、不可思議な呪文。
よろめいた俺を一瞥して、悪魔は扉に手をかけた。
「今は、受胎を阻止する事に専念しようか」
開かれる扉の奥……見覚えのある、光景。
意味不明なオブジェに、ゆったりとした回転椅子。
それが、キイ、と振り返って…俺は“あの時何を見た?”
「ひっ」
どさり、と椅子から崩れ落ちた物体に、俺は思わず悲鳴した。
先刻の俺もこうだったのだろうか、ボロボロの人影。
薄っすらと光る液晶は、文字列の羅列。まるで宇宙の星屑みたいにざらざらと流れるまま。
胸元に手をやっていた悪魔が、それを下ろして静かに人影へと歩み寄る。
先刻までは高らかに鳴らしていたヒールを、今度は息を殺すかの様に床に這わせていた。
「…シジマの総司令で違いありませんね」
そう呟いて、崩れ落ちた人の顔をまじまじと眺めた悪魔。
続いて、傍のオブジェを観察し始めた。
『どういう事だ…?この男が受胎を引き起こすのだろう』
「天輪鼓が破壊されている」
『何者かが先に阻止したという事か?我等以外に何の目的あって…』
「……ヒトシュラの関係で幾度も転生させられた世界ですからね、いよいよ拗れてもおかしくない」
黒猫が、立ち竦む俺に気付いて、尾を振った。
『やい、いい加減ハッキリしてくれんか…お主は脅威と成り得るのだ、身動きがとり難いわ』
「だ、から…俺は、何も…ッ」
床に倒れこんだ人影が、誰か何となく知っている。
連日、TVで報道されていたサイバースのお偉いさんだ。
…いや、そういう事じゃない。
誰か、知っている、俺は。
「屋、上…おくじょうに…」
『何、どうした』
「屋上に、先生…が」
俺の震えた声に、周囲を観察していた悪魔が踵を返す。
「そうだ、君の教師とやらが居たね」
『おい、そこのシジマの男は』
「息はあります、装置一式が破壊されておりますから、ひとまず捨て置きましょう」
俺の腕を掴み、ぐいぐいと引く。もんどりうって俺はたたらを踏む。
「うわ、っ」
「此方の方がエレベータより早い」
俺を担ぎ上げて、そのすらりとした身体の何処にそんな力があるのか不思議でならない悪魔。
刀を抜き身のままにして、数段飛ばしで階段を駆け上がる、黒猫が追いついてない。
そういえば、こうして運ばれた様な…
「転生したとて、媒体はその素質を宿したままの可能性が高い…君の友人二人にも云えるがね」
屋上階の扉の前で、俺を床に放りながら悪魔がさらりと述べた。
その息が大して上がっていない事にぞっとして、俺は打ちつけた身体をさすった。
「下の天輪鼓は破壊されていたが、儀式は成就しているかもしれぬ」
そう云って、扉を開け放った。
白い空が上空に広がっていて、乾いた秋の空気が一気になだれ込む。
遠くのフェンスの手前には……

誰も、居ない。

「そんな…おかし、い…おかしい」
勝手に声が漏れる、俺の知る何かとの相違点を訴える為に。
「先生が、此処で、此処で…!」
何を、した?喉までせり上がってきているのに…
「やれやれ、結局僕らの来る必要は無かったという事か、閣下もお人が悪い」
フェンスに寄りかかり、胸元を探る悪魔。
またあの銀色の筒を取り出すのかと思いきや、指先に携えたのは煙草。
ぎょっとして見つめれば、その指が逆再生の如く戻っていった。
「そういえば、今の君では着火すらままならぬか、クク、この役立たずめ」
「は…どういう」
「此処で約束したろう?次の世界でも、君を見ていたい…とね」
頭が軋む。
この…この悪魔が…紫煙を燻らせるヴィジョンが脳裏に鮮明に浮かぶ。

  Ave Maria, gratia plena――

「鳴ってるよ、アヴェ・マリア」
取るより先に、悪魔に指摘されて、俺はもやもやした心で鞄から引っこ抜いたそれを手にした。
着信、新田だ。
〈あ、矢代?おい、悪いけど俺等先に出てるぞ?何か別館に全員移送されたとかでさあ〉
「なに…」
〈先生も別館だってさ!病院関係者さあ、もっとしっかり此処閉じといてくんねーと困るよなあ?〉
違う、別館が閉じてたろ、だって。
〈立て込んでるみたいだし、お前も連れの黒い兄ちゃんいるだろ?お見舞いは別の機会っつう事でOK?〉
「……ああ、先、帰ってて、くれ」
それしか返事出来ない。俺は…俺は、この流れを喜ぶべきなのか、分からない。
生返事のまま、通話を切った。
「俺、もう、帰りたい」
傍の悪魔に、駄目元で云ってみれば、そいつは鼻で哂う。
「どうぞお好きに?ひとまず受胎は免れた…というより、先送りにされた、が正しいのかな?」
東京受胎…が、きっと、此処で起こっていたんだと、思う。
単語すら始めて聞く筈なのに、どうして俺はそう思う。
どうして先生を恐怖する、下の階のサイバース社員を知っている。
(夢だ、夢の中で夢見てたんだ、このデジャ・ヴはきっとそうだろ)
それでも…この、今日という日が乗り越えられたら、すべてが上手く廻ってくれる気がした。





「ではね、功刀君、僕はしばらくこの辺に居るよ」
「どっか行ってくれ」
「つれないねえ…フフ、ま、忘却してしまっている君なぞに興味は無い、では然らば」
俺を散々に甚振って、というか半殺しにした悪魔は、家の前で別れた。
黒猫は最後までミャアミャア喚いていたが、悪魔は哂うだけだ。
「あ、そうそう…飲食には気をつけた方が良いよ、功刀君?きっと気付いてしまうからねえ」
背後の声を無視して、家の扉を急いで閉めた。
二箇所の施錠を即座にして、インターホンのモニターで悪魔の影を追う。
間を置いて去って往くその影に、肺の奥底から溜め息が零れた。
(終わった…)
狂った夢がきっとこの後醒めてくれる。
そう、この夢は、何度も見てきたのだから。
でも、此処まで話が続いたのは初めてだったから、きっとそろそろ抜け出せる。
スニーカーを脱いで、綺麗に整列させて、磨き上げた床を歩いた。
仏壇の見える部屋にただいまを小さく唱えて、リビングの扉を押し開いた。
「あ…今日、仕事早いんだ」
もう普通に話せて助かった、歯抜けな呂律を指摘されても、どう答えたら良いか分からない。
って…結局夢なんだから、どうだって良いか。
いや、これが真実でも、これ以上何も起こらないのなら、それで良い。
「おかえり矢代、って、どうしたの、ボロボロじゃない服」
「いや、ちょっと……その、バイクでこけた」
「やぁねえ、若いんだからその位颯爽と乗りこなしなさいよ!」
「わ、悪かったな!」
ああ、少し頬が熱い。いつだって、昔から俺を困らせるのは母親で…微笑ませてくれるのもそうだ。
周囲の人間とは違う、親と子という特殊な間柄が、楽で、心地良い。
父親の居ない寂しさを、互いに誤魔化して生きている、この感情が…
「最近物騒ねえ、出先で変な事に巻き込まれたりしないか、母さん心配で」
フライパンをあおりながら述べる母の声に、少しどきりとした。
ソファに放った鞄を眺めつつ、俺はテーブルに頬をつけて突っ伏した。
「大丈夫だよ母さん、俺、目立たないから」
「あのねえ、あなたは自分を卑下し過ぎよ、もっとバイク乗ってる時くらいに生き生きしなさい」
「張り切って生きてたら疲れる、俺は置いてかない様に細く長く生きるつもりだから」
結婚は知らないけど、老後の面倒はしっかり看るんだと、そう考えて生きている。
「もっと自分の為に生きなさいよ」
「良いんだ、別に…そこまでしてやりたい事無いし、適当に地元に就職するから」
俺が、父親の居ない分まで注がれた情愛を、しっかり恩返ししようと…
「んもう、ちょっとやぁ君ってば、泣かすじゃないの!」
TVで流れるサイバース関連のニュースを退ける様にして、母が振り返る。
突っ伏す俺の頭の傍に置かれたのは、鮮やかな黄色を纏ったオムライスだった。
昔からバターの蕩ける香りと、色とりどりの具材に心を躍らせて、スプーンを潜らせていたそれ。
疲れていた心身が、少し癒される。
「こうやって少しおだてれば、好きな物作ってくれるしな」
「ま、酷いわね〜やっぱり生意気だわ」
一緒に置かれた手拭で指先を拭っていると向かいに母が着席した。
「ねえ、こうして生きているのって、母さんの為って事?」
スプーンが卵色の外殻を破る前に、突如そんな質問。
静止する破けたままの俺の右腕、でも何故か薄着になるのが怖い、先刻から。
「…どうだろ、俺の為に生きるってのが、よく分からない…」
「母さんはね、富や名声よりも何も、あなたが楽な道に進んでくれるのが願いよ」
「あのさ、やめてくれよこんな真正面から、飯が不味くなる…本来美味いのにさ」
「ねえ、矢代…だから、母さんは…」
気恥ずかしいので、半分無視してスプーンを突き入れる。
敗れる卵の表面。
「だからこの道を選んで欲しくなかったのに」
びち
びちびちびち
「ぁ、ぁぁあ」
白い皿の上、破れた裂け目から溢れ出す…生まれ出でた



「うわあああああああっ!!」
皿ごと弾き飛ばして、割れる音を聞きながら俺は後ろにつんのめった。
椅子ごと倒れこんで、そのまま背後の壁にぶち当たったが、とにかくそれから離れたかった。
色とりどりに不気味に輝く蟲達が、テーブルから床に蠢いて散っていた。
「ねえ、矢代…ヤシロ…憶えてない?」
母親の形が、緩やかに変動していく…小さなシルエットに。
『いつも変わらないのね、あなた、いつも母親が大好きで』
薄い綺麗な翅を羽ばたかせて、倒れた椅子の脚に腰掛けた。
『久しぶり、ヤシロ』
駆け巡る、脳内を、一瞬で辿り着く、妖精の声に。
「ピ…ピクシー」
『やったぁ、憶えてくれてたじゃないのよ』
俺の正体も、同時に、記憶からゆるゆる融け出す。
「おい、母さんは」
『もう何周してると思ってるのよヤシロ、あなただって、こないだ云ってたじゃない、私が何か知ってるって』
「母さんはどうしたんだ」
『あなたが繰り返してきた“この日”の一番最初に、死んでるわ』
「し…」
死んでる?
『それからの“この日”はずうっと、アタシが化けてた』
「…俺は」
『どう?酷いでしょ?』
脚を組み替えて、ケタケタと笑う妖精。
記憶の中…目覚めた独りの俺を、強引にも先導してくれた小さい光…
たった今、眼の前で、俺の一番大切だったなにかを裏切った。
「俺は…俺はっ!!」
『ねえヤシロ!憎いでしょ?いっつも赤ん坊みたいなあなたを引っ張ってくの、楽しかった』
「君だけは、悪魔でも…少し、赦せてた、のに」
『流石にコレは赦せないでしょ?繰り返すこの日の度に、色んなヤシロを見てきたけど、そう思う』
無邪気な笑みは、俺を真っ直ぐに見つめる。逃げも隠れもしない。
『あんなサマナーと契約して、こんな茨道…閣下に素直に従ってれば楽だったのにさぁ』
「ルシファーは、俺を人間に戻さないつもりだろ」
するすると、紐が解ける様に単語が、その名前が出た。
身体を廻る熱い何かが、指先を戦慄かせて、俺の脳内を占拠し始める。
「赦す事なんて、出来ない」
『知ってる、何回も見てきたもの、人間のつもりのあなたを』
「俺を導いてるつもりなのか!」
妖精の腰掛ける椅子を、蹴り飛ばした。
椅子は転げる事も無く、その場で木の脚が微塵に砕けた。
膝下から覗く俺の脚に、何か黒い筋が見えたが、飛び避けたピクシーに今は視線を集中させる。
「母さんは関係無かったろ、どうして、どうして」
『あなたを真の闇に飛び込ませるには、枷になるからよ』
「だったら人質にでもして、俺にさせりゃ良かったじゃないかよ」
『そんなの、ヤシロが満足して終わりじゃない、それじゃ閣下は不満だわ』
闇?俺を…望むものに仕上げる為に、たったそれだけの為に?
『でもね、アタシはいつだって、あなたの味方よ、ヤシロ』
「黙れ」
『閣下に従って、あなたと何度もこの日を繰り返して、病院で出逢って…』
「裏切り者」
床に散らばる気持ち悪い蟲の、どれが何かを肉が憶えていた。
仄かに赤く光る蟲を指先に掴み上げ、舌先に乗せた。
熱い、蠢いて、喉を喰い破る勢いでそれが俺の中に浸入してくる。
「が、うぐぅううっああっああッ」
逆流して、何かがせり上がる感触、ぶっ、と吐き出せば、床に濡れた蟲がびちびち跳ねていた。
俺が、今まで中で保有していたのか、この気味悪い蟲も。
「はぁ、はあ…っ、ピクシー…ッ」
『さっさと闇の底で、アタシ達の王様に成ってくれたら…もう繰り返さなくて済むのに…何度も辛い目に遭わなく済むのに』
いつか、赤い空間で聞いた台詞。
「あの時の感謝の言葉!取り消すッ!!」
燃える様な熱の蟲が、俺の中で叫び出した。両の腕を駆け巡るのは血潮に乗せられた力。
『アタシ、きっとあなたを愛してたわ、ヤシロ!母親の魂と関係無く!』
「消え失せろ!!」
蟲が唱えろ、と胎内で呼び覚ます呪文。
焔が指先から紡がれて、憎しみが変換されたかの様に止まる事も無く溢れ出す。
妖精の翅が羽ばたきを止め、一瞬で赤色に輝きを反射させる。
「よくもっ、よくもよくもよくもおおおっ」
幾度も幾度も、繰り返してきたこの日の様に焔を其処にたたき付けた。
もう灰になった妖精の肉体が、ふわりと俺の指先に纏わりつく。
その妙に温かい光が腹立たしくて、振り払えば火の粉が散った。

「己の家を燃すつもりかな、矢代」

うずくまって、焦げて滅茶苦茶になった床を見つめるままの俺に、唐突に声がかかった。
「母親の事は、残念だったね」
双肩に、すっと白い手が置かれる、とても払い除ける勇気が無い。
振り返らずとも、威圧感で認識する。誰なのかを。
「実はね、先刻から此処に居たのだよ……しかし、復讐の為に此度は自らマガタマを呑むか…くす、素敵だ」
さらり、と肩から零れ落ちる、金色の髪。俺の耳元で囁かれる…吐息さえ絶対零度に感じる。
「しかし…あのピクシー、君は何か惹かれるものを感じていただろうが…それは間違いでは無いのだよ矢代」
問い質す事さえ浮かばない。
「あの妖精の媒体の魂は、君の母なのだから、当然だ…くす、くすくす」
呼吸出来ない。
「云っている意味が解るかな?私の可愛い息子よ…ふふ」
「ぁ、ぁあぐ、はぁッ」
「君の母は、君の手でたった今、魂から滅されたのだ…最早転生すら叶わない」
「あふ、んぶぉッ」
「今はコレを呑んで、少し胎内を落ち着かせなさい、良いね矢代?」
俺が先刻吐き出した蟲だ、舌先で何となく理解した。
今、他の理解で脳内を埋め尽くさないと、気が狂いそうだった。
白い指先を噛む事すら恐れて、俺は喉奥まで指の侵入を赦して、喘いだ。
「泣いているのか?可哀想に、人間だから涙など、未だに出るのだよ」
「ぐぼっ」
替わりに抜かれた、薄っすらと赤く光る蟲。指先にそれを遊ばせる堕天使。
「哀れんで欲しいからその雫を流すのか?人間はこれだから…」
人間…と、悪魔が、同居する、肉体…
ヒトシュラ…
“人修羅”
ああ、俺は、そう、そうだった。
「死にた、い――」
「駄目だよ、しっかり其処は君の仮初めの主人に監視して貰うのだからな…ねえ、ライドウ?」
やんわりと背後から抱き締められるまま、その名を刻むルシファーの声。
「見ているのだろう、入っておいで」
傍から見えるルシファーの横顔の、睫がはためいた。
そのまばたきひとつで、庭の見えるガラス戸の施錠がかしゃりとひとりでに解錠される。
(ライドウ?)
そう呼ばれた者が、土足で俺の家に、上がってきた。
庭の緑の中、烏の羽がひらりと舞い降りたかの様に、鮮烈な黒が眼の前に。
「その割には、随分と追い込むのですね、閣下」
(あの、悪魔)
「死にたがりはもう数周前からずっとだ、この子は」
「そうですね、他者に依頼せねば死に切れぬ意気地無しですから」
「しかし、再生力を考えれば仕方無い話かな?人間でさえ自害はすんなりといかないのだろう?」
する、と解放された俺は、そのまま床に倒れ込んだ。
もう、そのままずっと横たわって、何も考えたくない。
「ライドウ、この火、消してあげておくれ。住処さえ失っては本当に立ち上がれなくなるだろうから」
「フフ、仰せの通りに致しますよ、閣下」
熱風が吹き荒れて、瞬間、影が辺りに舞う。
「ではね、矢代、身動きがとれる様になったら、城に顔を見せておくれ」
白い羽根がふわり、と、俺の眼の前に落ちてきた。
それを放心するまま視界に捉えていると、冷水が身体に叩きつけられる感触にびくんと跳ねた。
『あらぁ、結構強い火ねぇ、すぐ溶けちゃう』
「鎮火してきたな…アルラウネ、もう戻って良い」
『もっと情熱に燃えて一緒に踊りたいわ』
「花弁、少し焦げているが、良いのかい?」
『いやん、出直させて頂戴』
周囲の熱は消え去り、秋の夕暮れの冷えた空気に変わっていた。
脚を失くした椅子や、壁際までずれこんだテーブルが、白く霜を纏って凍っている。
「ところで、何時まで寝ているのだい功刀君」
蹴られた、何処を?人間には有り得ない、項から伸びる角をだ。
そんな俺を見下ろして哂う、この悪魔の正体は…デビルサマナー…
「葛葉……」
「おや、ようやく思い出したかい?遅いねえ、愚図」
「あんた、ピクシーの事」
「身内の魂かとは推測していたが、まあまさか母親とはね」
「窓の外から、見てたのか」
「気付かなかったのかい?あんな至近距離で。悪魔のニオイ、してたではないか」
高笑いして、俺の背を踏み躙る。
「俺が、俺が親を焼き殺すのを、黙って見届けたのか」
哂いが、その脚を通じて伝わってくる。
「だって、既に堕天使の手駒として囚われた魂だろう?肉体は死滅している、止めるのは無意味だ」
「ライ…ドウッ!」
腕を引き絞り、背に回したが逆に取られ、羽交い絞めにされる。
ああ、もう今の俺に余力なんて無かったんだ。
「良かったではないか、悪魔に恋しさを抱く事が錯覚でねえ?母の魂がそうさせていただけ…」
「うう、あああう、痛い、痛いよお」
「堕天使の狙い通り、君は自らの心の枷を砕いたのだから…いっそ堕ちるのは楽だろうよ?ピクシーの魂も報われるさ」
「母さん、母さんっ」
「煩いね、しっかり前を見給えよ」
「ひぎいぃッ」
首狩りスプーン……どうりで、力を入れずに卵の外殻が割れた訳だ…
俺の手の甲に突き立てられたスプーンが、鈍い夕暮れの陽を反射している。
「おまけに、僕との契約名はライドウでは無いだろう?まさかまだ思い出せぬのかい?嗚呼、本当に君をくびり殺したいよ」
「痛いよぉ……っ、母さん…うわあああああああ」
幼いあの頃、こうしてただ泣けば、寄り添ってくれた。
それは、病院で出逢ったあの妖精が発していた空気と、どこか近い。
どうして、気付けなかった。
俺は、俺は…

一番大切なものを灰燼にして
“この日”の母から堕胎した


東京堕胎・了


* あとがき*

第一章から、約一年振りの再開となりました。
荒唐無稽、血濡れ、依存の海、渇望する愛。
第二章はひたすら詰め込んで書き殴りたいです。
人修羅とライドウの奇妙な共生、宜しければ観察してやって下さいませ。
終焉には、どちらが立っているのやら…


それにしてもライドウ、名前を呼ばれなかった事に相当苛立ってますね。