雌伏の時

 
昨夜の雷雨で崩れ落ちていないか、不安な心が足を急かさせる。
朝霧漂う神社の中は、更に鬱蒼と暗く、空気も違う。
まだ藍色の空の中、しな垂れた影が黒い影を落としていた。
(良かった、落ちていない)
薄紫の花をたわわに咲かせた房が、音も無く垂れ下がっていた。
組まれた木造の渡しに蔓を絡ませ、天蓋の様に広がる藤の棚。今年の五月もやはり美しい。
この時期は、藤の甘やかな薫りを感じつつ、刀を振るうのが好きなのだ。
背負っていた合皮製の細長いバックパックから、鞘袋をずるりと抜く。
そういえば、この鞘袋も藤の色をしていた。
くるくると紐解き、更に抜き出すは竹刀より重い模造刀。
"仕事”の時とは違い、真剣を帯刀する訳にもいかない。
人の寝静まったこの時間帯とて、見つかっては面倒だ。
切れない刀で鍛錬していたのなら、まだ許される。
胴衣袴の上から、中の帯に潜らせる様にして鞘ごと差し込み、栗形から落ちる下緒の端を巻き込み固定する。
草履の先が石段に擦れて、ざりざりと啼く。
上りきった先、狐が二匹並ぶその間に立ち、深呼吸。
片足を一歩下げ、鯉口を切り、柄に右の手を…
抜刀と共に、大きく斬り払う。
対象物が居る訳では無い、だからこそ、無心に型を決める事を心がけ振るのだ。
振るった際の、風斬り音が心地好い。

「音ばかり」

と、斬り下ろした先端をぴたりと止め、その声の方向に意識を向けた。
外灯も無い、霧も濃い、そして薄暗闇。蒼暗い空と、木々の輪郭しか見えぬ。
此処の構造を把握している自分だからこそ、無駄な光は携帯していなかった。

「容易く鳴れば、綺麗に斬れたつもりと錯覚して仕方が無いね」

虚仮にしているとしか思えぬ台詞。
「なら、其方は余程綺麗な素振りが出来るのか」
感情を出来るだけ落ち着かせ、問い返せば。
くす、と哂う声が小さく返る。
「互いに顔も見えぬ空間で、何が重要か解っている?」
途端に、微かな音。
「……不意打ち、だ」
「その割には防衛したね」
履物が石畳を擦る音だった。
それを聴いた次の瞬間構えれば、思った通り、相手が打ち付けてきていたという訳だ。
「この御時勢に武士道?大正ですら流行っていなかったよ」
「自分は、ただ鍛錬をしに来ていただけだ」
その顔を拝んでやろうと、鍔競り合うまま押し進む。
が、間合いは一気に開かれた。気配がそう気付かせる。
「ああ、でも歴史も流行も繰り返すと云うしね。その健全な剣筋が今の教えなのか」
男性の声、甲高くも無い、しわがれても無い。
青年から中年者位の齢か。
圧迫感は無かった、同程度の体格と思われる。
「本物を振る方が気分が晴れるだろう?違うのかい」
「…さっきから、失礼と思わないのか!」
誰なのだ。
ただ、鍛錬に、気持ちを引き締めに来ていた筈だというのに。
柄を握る手指が熱くなる。
学帽すら被っていないのに、ああ、駄目だろう、今は仕事に非ず、だ。
そうやって理性が警笛を鳴らすのだが、気配を探るにも其処に足運びするにも…
本気の殺傷が関われば、MAGに頼ってしまう。
一般人にそれを振るうなど、恥知らずな自分。
(いや、少しくらい灸を据えてもいいだろう)
相手はあまりに失礼というもの。人それぞれの太刀筋や心があるのだから、それを貶める事のなんと愚かな事か。
決めた瞬間、呼吸を体内のMAGと同調させる。
手にする模造品の筈の刀に、薄っすらと纏う光の衣。
堅気の人間を傷付けるつもりは無い。そう、打ち合った瞬間に、相手の得物を折ってやれば良い。
生き物が発するエネルギーを見つめ、その方向に一歩二歩と足を運ぶ。
相手からも間合いを詰めて来る気配。
やがて、ほんの僅かな音を立て、振り下ろされる相手の刀。
「ふッ!」
息を吐くと同時に、それを弾き返す。
砕くつもりでMAGを流し込んだ、というのに。
(折れない!?)
破壊の音には続かずに再び薙いでくる影。対し、咄嗟に受け流す。
おかしい。
木刀なら一瞬、ジュラルミン製模造刀なら折れ、鋼の真剣だったとしても欠けるであろう勢いで打ち上げたのに。
自分と同じ模造刀に見えるそれは、一体どういった造りをしている?
いいや、そもそも今の一撃に怯まず、更に斬り込んで来る相手がおかしいのだ。
(堅気の人間…なのか?)
訝しんで、いよいよ出方を改めようか考え始める自分に、相手は軽く云い放ってくる。
「光こそ、眼晦ましだろう?」
間近にて打ち合った瞬間、闇に光る眸だけが一瞬自分を見て…哂っていた気がする。





使用人達が着替え終え、家を稼動させる時刻。炊事場の灯りが煌々としていた。
昇ってくる鋭角な陽の光が、眼に厳しい。
白い化粧砂利の中に、雁掛けの流れで置かれる飛石。
幼い頃は、石から石へ飛び移る遊びばかりしていた其処を、今は普通に踏み歩くのみだ。
自宅である筈なのに、いつからか、そう感じなくなっていた。
『おい、雷堂』
珍しく黒猫の方から声を掛けてきた。この家に昔から居座る、化け物猫だ。
真っ直ぐに離れへと向かう足を、仕方無く止めてやる。
「…何だ」
『少し荒ぶっているなお前、何か出先で遭ったか』
猫にまで指摘されるとは、どうやら冷静さを欠いている事は間違い無い。
「刀を振れば体も弾むだろう」
『精神集中の為に毎朝行っているのだろう?どうやら不達成だな』
「…もういいだろう…あまり道端でお前と話したくない」
また使用人に奇異の眼で見られるではないか。
そうでなくとも、この家自体が奇怪だとひそひそ笑われているのだから。
『云うな、愚痴を零せるのも俺相手だけだろうに?』
動物総てと話せる訳では無く、何故かこの黒猫だけと会話が出来る。
物心ついた頃には、薄ぼんやりとこの猫の呟きが聴こえたものだ。
「ああそうだな、俺の精神が参っているだけかもしれん、猫が喋る訳無いものな」
『ち、可愛くない餓鬼め』
飛石が途切れる。離れに到着したので、草履を脱ぎ早々と上がる。
籠に脱ぎ捨てた胴衣を放り、母屋の洗濯機が空く時間帯を考えながら肌着を替えた。
『"お役目”で本物を振るっている癖に、玩具の剣を振り回して愉しいのか』
「馬鹿云え、俺は竹刀が一番心地好い。コレは万が一…悪魔との手合いを考えての上で、鍛錬に使っているだけだ」
縁側から無遠慮に上がってくる黒猫に、模造刀を振って見せ付ける。
ふぎゃふぎゃと、またしても馬鹿にした様に笑っている。
『仲魔でも召喚すれば良いだろうが、お前は手足を微動だせずとも、その術で相手を殺せるのだろう?』
「プライベートで召喚は避けたい」
『尻尾を出さぬ為か?しかしお前の周囲こそが、仕事と私事を混同させている様子だがな』
黒猫を半分無視しながら、帰りにコンビニで買った大学芋をもそもそと頬張った。
しかし、どうにも舌に馴染まない。考え事で味覚が捻じ曲げられている。
『いつまで拗ねている、いい加減諦めて葛葉と成った事に身を委ねてしまえば楽なものを』
「俺が拗ねている…だと?」
『表だけは役目を全うしている風だが、俺には判るぞ…?まだそんなにも自身が大事なのか?雷堂という名は誉れ高いぞ?』
「誰も…嫌とは、云ってないだろう」
楊枝と容器を分別してゴミ箱に放ると、畳に寝転がった。
その姿勢のまま、窓横のカレンダーを見る。今日は土曜日、学生はまだ寝床に突っ伏している時間帯だと思われる。
部活も、翌日控えている合同試合の為に休息という事で、今日は無かった。
『そんな軽食で良いのか』
「燃費が良いと云ってくれ」
『母屋に行けば豪勢な馳走が喰えるだろう?』
「用事がある時だけでいい、それこそ、洗濯とかな」
両親と顔を合わせる瞬間に、既に自分は雷堂なのだから。
(この離れに居る時だけが、本当の自分なのだ)
部屋のハンガーに掛けてある学生服を見る。漆黒の色、ラインも黒。
特別行事の際だけに被る学帽は、通常埃を被り易いのだが…自分のそれは鮮やかな黒色。
日常的に"仕事”で着用しているからだ。
古めかしい外套を羽織り、振るう得物は研ぎ澄まされた本物の輝きを放つ、玩具では無い刀…
「変な奴に絡まれた」
唐突に零せば、黒猫が「ほれ、見た事か」と髯を揺らしていた。
『穏やかなお前のMAGは、さして気にしてもなくば普段は見過ごす程だ。それが先刻は違ったと云っている』
「神社で打ち合った…」
『お前の、その今手にしていた玩具でか?しかし玩具とは云っても、金属だろう…?相手の武器は何だ?』
「得物は…暗くて材質までは確認出来なかったが、恐らく似たような物だと思う」
『刀の形をしてはいた、という事か……いや雷堂、お前しっかり起きていたのか?狐に化かされていたのではないか』
「失礼な!うたた寝しながら打ち合える訳ないだろう…それに、悪魔なら擬態していようが流石にMAGで――」
と、小さく怒鳴った瞬間にベルが鳴った。
部屋の柱に設けられた、屋敷内でだけ使用出来る物…それを電話と呼ぶのも、どこか可笑しいが。
どうせ部屋だから、と、まだ着替えてもいない下着姿でその受話器を取る。
電話機の、古めかしいアンティークの黒光りと、真鍮の鈍い輝きを見ながら応えた。
「…はい」
向こうからは、父の声。
しかし、雷堂を呼ぶコールなのだ、これは。なので、業務的に此方も声を発するのみ。
自分を呼んでいる…訳では、ないのだから。
せめて明日の試合に響かない内に終わる仕事なら良いのに、と思い、続きに耳を傾けた。







「おいライドウ、あんた、家の自転車勝手に使ってるだろ」
リビングのソファで、刀の手入れをしている背中に問い質す。
我が物顔のその姿勢に、最近更に苛々するのだ。
「何か悪いの?」
「ウチの備品って意味で云ってるんだ」
「壊してないだろう?」
「そういう問題じゃないだろ」
「君はオートバイを所有しているではないか、功刀君」
ちら、とその手元を見る。
刀の刃の部分を、布できゅ、と丹念に拭っている。
磨かれた刀身は、歓びを顕にするかの様に静かに輝いていた。
「通学の時に駅まで使ったりするんだよ」
「おや、新田君は徒歩だろうに」
「…だから、あいつが迎えに来ない日とかは使うんだ…」
そう答えた瞬間、ライドウが学帽のつばをクイ、と持ち上げ哂った。
特に何も云われていないのに、妙に怒りを覚えて更に言い訳する。
「学校はバイク通学禁止なんだよ…!」
「今日は登校日なのかい?それにしては遅い目覚めだね、君の能力と同じだ」
「…今日は違う、けど…明日は使いたいんだ」
どうして日曜日に学校へ行かなくてはならないんだ…と、内心面倒だった。
もう母親が使わないのだから、というか使えないのだから。
放置してあるママチャリというそれに跨って、最近は駅まで行く事も多かった。
それなのに、いざ買い物しようと駐車場を見れば、無い事数回。
犯人はすぐ判った、サドルがかなり高く上げられていて、嫌味かという程に。
「早朝に何してんだよ、最近」
「フフ…」
磨いたばかりの刀を、振り向きもせずに此方へと差し向けてきたライドウ。
切っ先を凝視し、咄嗟に横に跳べば、椅子の脚に思い切り小指をぶつけた。
「っ…てえ…ッ…」
「知りたい?」
今の動きと、返答の関連性が無いじゃないか、この野郎…
冷蔵庫を開けるつもりだったが、止めた。
奴の間合いに入るから。
「知りたいだなんて云ってない、それと、すぐに武器振るの止めろ」
「そこそこ空気の澄んだ空間を見つけたのだが、先客が居てねえ…少し気分が濁っただけさ」
「その苛立ちを俺にぶつけてるような人間が、澄んだ空気吸ってても無意味だろ」
「おや、空気は重要さ…とりあえず、聖域と云う場を嫌う悪魔は入らぬからね」
入られたなら入られたで「喧嘩をする理由が出来た」って、嬉々とするくせに。
(何処だか知らないけど、何しに行ってるんだか…)
これ以上留まる事は、俺がこの男に興味を持っていて、だから言葉の続きを待っている…と、見られかねない。
そうだ、折角ライドウがリビングに常駐しているんだ、俺は自室に引き篭もろう。
幸い、ここ数日悪魔に絡まれる事も無かった。人間として平穏に過ごすには、危険因子と付き合わぬが第一だ。
「そうだ功刀君、タイヤの空気が薄いよ?入れておいてくれ給えよ」
「どうして俺が」
「君が明日、走行中にがくがくと揺れ惑わなければ良いのだがねえ?」
「あんたの手足の仲魔にやらせたらどうだ」
「おや、君は僕の何だったっけねえ?」
開いたままの廊下への扉、脇に逸れて階段を上る予定だった。
「まさか、友人ごっこの相手とでも思っているのかい?そんなのは連れたって登校する新田君とでも宜しく頼むよ」
小さく、それでもライドウにだけは聞こえる様に舌打ちをした。
俺は結局、真っ直ぐに廊下を進み、何処に空気入れがあったかを思い出そうとしていた。







「部長!」
部員達が、開かれた武徳館の屋内から一斉に此方を見る。
連絡を入れてあったとはいえ、既に稽古は始まっているのだ、心が急く。
見苦しくない程度に駆け、入口で脱いだ履物を揃えようと腰を屈める、と…
(女性が居るのか?)
やや高いヒール靴、しかし街中の女子高生が履いている学生じみたローファーとも違う。
上等本革の鈍い艶、そして女性にしてはやや大きい。
この学校の男子部員との合同稽古だ、そして本日は日曜日。野次馬の女子生徒とも思い難い。
相手側を見れば、既に防具まで装着しているので、素面は分からぬ。
と、一人だけ、垂れに刺繍の無い者が居た。
訝しげな眼を晒す前に、視線を逸らして着替えに集中する。
頭に弓月の紋が染め浮かれた手拭いを巻く折、そそくさ、と自校の部員が傍に来た。
「おはようございます部長、えっと…痴漢の件はもう大丈夫なんですか?」
「遅れてすまん、さっきの件は片付いた」
「いや、痴漢見過ごさないなんて、流石は部長って感じですよね」
「人の尊厳は、その瞬間に護れないとな…意味が無いだろう…」
面を被ると、その隙間から…対面している部員の眼差しが、己に注がれているのを感じる。
自身が思う事を述べると、部員達は随分と熱心に、そして真摯な姿勢で捉えてくれるが…
これが存外、他所では通じずに笑われてしまうものだから、世間はよく解らない。
「この学校、ほら…こないだ事件…ん?事故?まあいいや、とにかく野蛮な惨事があったじゃあないですか、文化祭で」
竹刀を手にした自分に、耳打ちする部員。
「それがどうかしたか」
「ええと、それで部員減っちゃったみたいで、向こう…」
同情めいた眼が、面の暗闇の中、ちらりと反射した。
「入りの際、しっかりお悔やみ申し上げたか?」
「話に挙げていいのか、ちょっと微妙だったんで…まあ、それとなく俺から向こうの副部長には」
「あちらの部長はもう居ないのか」
「…まあ、そういう事なんで、実は数人埋め合わせで知人数名、それも強い人呼んでくれたそうです」
「それは手数を掛けてしまったな、自分からも礼を云っておく」
少し昔から、弓月の君は他校との合同稽古を稀に行っている。
これは正式なものでは無い、面子を変えて気を引き締める為、互いの部が勝手に行ってきた事。
熟練者を招いて、指導して貰ったり。部外者が入り混じる事にこそ意味が有るのだ。
それにしても、いくつか世話になってきた学校の中、此処とは比較的頻度が高かったというのに。
(文化祭、か)
先日下見に参った際、そこまで巨大な"何かの気配"は感じなかった筈なのに。
しかしニュースで流される表面上の情報だけ見ても、此処の体育館で起った惨事は、人の手によるものでは無い事は明らかだ。
昨晩屠った悪魔の事を思い出す。
相手のサマナーの顔も知らない、ただ、依頼が来たから、そうしたのだ…
(もしかしたら、この学校を襲った悪魔を召還した者も…詳しい事情を知らないのかもしれない)
つまり、云い換えてみれば…自分も同罪…
自分のする仕事が、何処の誰を苦しめる結果となっているかを、知らない。
それなのに、何を偉そうに、部長面しているのだ…尊厳を語るのだ。
「どうしたんです、部長ってば…」
部員に声を掛けられるまで、竹刀の物打を虚空に留めたままだった。
素振りの途中で意識を何処かにやってしまうなど、珍しいと自分でも感じる。
「途中でアクシデントに遭ったんですし、今日は欠席しても良かったんじゃあ…」
「いいや、出来るだけ多く試合をしたいんだ、来れる時には来たい」
汚れた手を、竹刀を振って浄化させたい、そういう事だ。
と、各自身体が充分温まったのか、此方を見てきた。
そろそろ試合に移りたいという無言の気。
「今回の試合に関して、自分が来る前に決まった事はあるか」
「はい、総当り戦をこの後ひとつ」
「そろそろ大将でもやるか?」
「いや…部長が居る限りは、部長が大将で宜しく頼みますよ!」
そんな悠長な心構えで大丈夫なのか?とひとつ睨みをきかせれば、苦笑していたので此方も連られて笑う。
己の剣道着の垂れに見える“弓月の君”この名に恥じる試合は出来ない。
そして、“日向”という名前刺繍に、今も虚しくなる。




「面あり!」
此方の中堅が一本取った。
向かい合い、礼の後に入れ替わってゆく副将の背中を見やる。
対する相手の垂れの刺繍名は、此処の学校の副部長。
(では、大将は?)
別に、一番の実力者が部員を纏め上げている訳でも無い。
だが、待機している相手大将の垂れは名前が無い…例の者。
(まさか、急遽呼び出した人間に大将を任せているのか?)
それで部員が納得するのか、いや、しかし理解出来ない事も無かった。
「小手あり!」
この学校の剣道部は、向かい合ってみれば明らかに人員が減少していた…最早同好会の域だ。
相手の先鋒は、送り足すらぎこちなかった。もしかすると、高校から剣道を始めたのかもしれない。
それでも此処の衆は、こうして集い竹刀を振る事を、今までと同じ風に行いたいのだろう。
人間は、各々の日常を繰り返す事で冷静さを保っている。
何がどうあれ、毎日繰り返されるそれこそが、当人にとっての日常なのだ。
「小手あり!」
白旗が揚げられる。
連続で小手、此方の二本先取。副将の勝敗は決した。
さあ、いよいよ自分の出番が巡ってくる訳だが…
この瞬間に、何故かいつも笑いたくなってしまう。
剣道は、いくら真面目な試合であっても、嫌だと云えば逃げ出せる戦場なのだ。
(所詮は試合…)
課せられた雷堂という大義も、この様に逃げ道が与えられていたのなら違ったろうか、と。
(こんな心を抱いたまま竹刀を振る自分は、何という愚か者だろうか…)
赤い襷を背に揺らす相手大将、こうして近くで向かい合えば同じ背丈という事が分かった。
提刀にて互いに立礼し、帯刀のまま歩み寄り…三歩目にて抜き、蹲踞する。
その動作にブレは見られない。召喚された大将の実力が、今は気になって仕方が無い。
面の暗闇に薄く光る双眸。その顔の全ては、暗くて拝めず。

「始め!」

主審の部員が唱えた瞬間、互いに視線が持ち上がる。
途端、相手の打突。
(速い…)
開始と同時に踏み込んでくる相手の姿に、予測の範疇だったとはいえ少し肝を冷やした。
相手の足さばきが、あまりに自然だったのだ。
力をこれから込める、という兆候すら見せない継ぎ足。
読めないその爪先の向きに、やはり素人と違うのかという観念が生じる。
だが、此方とて簡単に取られては部長の名が泣く。
竹刀の先端、物打同士が絡み合い、弾き弾かれる音だけが繰り返される。
押せば引き込む様にして、相手の竹刀が揺らめく。
それは、決して構えが緩いからでは無く。
(いけない、これは誘導される)
試合開始と同時に打ち込む気迫、あの印象に踊らされては不味い、と直感的に感じた。
この相手、ガツガツとした攻めが主体の動きとは、恐らく違う。引き技を得意としているのだろう。
いや、それともまた何かが違うのだが……何が違う?
(いっそ、此方から出てみるか)
気合の雄叫びと同時に、その小手先を目掛け竹刀を打ち込む。
弾かれるその前に、仕留める事が多い自負が有った。
「…っ、ぐ!!」
が、何と…その瞬間に懐に飛び込んできたのだ。
一瞬引き攣った呼吸を呑み込み、何とか鍔迫り合いに止めた。
間合いが狭い程、有効打点を取られ難いとはいえ、虚を突かれる事による心の萎縮が恐ろしい。
きっと、「されたとしても“擦り上げ小手”で返されるのだろう」と、直前の相手の動きに惑わされていた。
間近から、重なり合う竹刀、押し引き駆け引き、まるで波の様な。
あまり声を張らない奴だ、と、無心に思った。
息を鎮め、緩急付けて一撃を狙う相手の姿勢。何かがおかしい、違和感を感じる。
(音が無い)
そう、踏み込む際にも、打ち込む際にも、まるで意図的とも思えるその…

「止め!」

主審の号令で気付く、あっという間の五分間だった。
延長戦とは、一体どれくらいぶりだろうか。
たった一本、先取した方の勝利となるこれは、大変心臓に悪い。
命のやり取りを普段しているとはいえ、それとこれとは別なのだ。
「部長が延長戦持ち込まれるなんて」
「あの人、一体誰なんだ…何処かに所属する有段者ってところか…?」
部員達の憶測が飛び交うが、相手が何者であろうと自分がやる事はただひとつ。
「では、行って来る」
声を掛け、提げた竹刀を軽く振れば、はっと此方を向いて挨拶する一同。
負け無しの部長では、もう居れないかもしれない。
(それがどうした、自分より剣道が達者な者は山と居る、おかしな事では無い)
そう、自分に云い聞かせる。
これは剣道…
(普段の自分は、悪魔に戦わせてばかりなのか?自身で思うより…そもそも命の駆け引きをしていなかった?)
再び、正方形で区切られた試合場に向かう。
蹲踞、そして今度は此方から打ち込む。
(違う、雷堂として、生体エネルギーまで奮い、今までこなしてきたではないか)
まるで静かな、湖面の様な相手に向かって竹刀を突く。しかし、濁らない相手の水面。
己への疑問が、憤りが滲む。
知らずの内に、竹刀を構える自分の小手が熱くなって、物打に陽炎の如くMAGが揺らめいていた。
だが、今更これを鎮める事が出来ようか。昨日、反省したばかりの癖に、また一般人に対してこれか。
自分に呆れてしまうが、同時に言い訳も持ち合わせた。
同じ背丈、静かな息遣い、打ち合った時の妙な既視感。
なあ、もしかすると、やはりこの男は…
「はぁああああッ!!」
垂れ流しのMAGで叫びながらに打ち込めば、擦れ合う竹刀で爆ぜた己の火花に隠れ…
相手のMAGが、一瞬視えた。

“光こそ、眼晦ましだろう?”

呼吸が止まる。
瞬間、まるで掬い上げる様にして、相手の竹刀がくわりと自分の竹刀を絡め取る。
高く掲げられた相手の竹刀に、自分の得物が奪われて往く。
指で柄を強く引き止めようにも、既に遅く。
「何だ今の!?」
「巻き上げだ!!」
口々に唱え、どよめく場内。歓声とも違う、これは騒然である。
巻き上げとは…手の内の動きひとつで、相手の竹刀を捌き、その指からもぎ取る技だ。
見事に持っていかれた自分の竹刀は、あろう事か真上に飛ばされ…
天井に、突き刺さっているではないか。
「反則じゃないんですか!?」
「故意なら、合同試合でやっていい技じゃない!」
背後からの異議に、思わず試合中だというのに

「黙れ!!」

声を張り上げる…自分。
その制止が、堂内に響き渡って消えた。開け放たれた窓外からの、風音だけが残る。
「反則でも何でも無いだろう…それに、竹刀を握り留めれなかったのは、自分の落ち度だ」
天井に刺さったままの竹刀に、視線が注がれている。
(……態とか?)
それを、自分は敢えて見ない様にしながら、部員達を叱咤した。
我に返った主審が、号令を掛ける。
中央に戻り、此方は竹刀も無いので礼をするのみに終わる。
相手は中段に構え、蹲踞し…と、通常通りの終了礼法を、何ともそつ無くこなしていた。
「うちの衆が、大変申し訳無い」
歩み寄り、非礼を詫びた。
そう、巻き上げを決められたのは、事実自分の落ち度。
それよりも、今はこの男の正体が気になって仕方が無い。
面を脱ぎ、脇に抱えたまま軽く頭を下げ、反応を窺う…
己がこうする事で、同じ動作を期待したのだ。
「…いえ」
ゆっくりと頭を上げてゆくと、相手大将は同じく面に手を掛けている。
器用に竹刀を持つ指も使いながら、その装着を解き、するりと素面を露わに…

(どういう事だ…)

まるで、鏡でも覗き込んでいる様な錯覚に陥る。
周囲のひそりと囁き合う声が、確信を生む。やはり勘違いでは無さそうだ。
目の前に、自分と同じ顔が在った。
「此方こそ思わず、失敬…手癖が悪いものでね」
そう述べ、にこやか…とも違う、そう、不敵に哂ったその男。
同じ様に防具を着けているのだから、垂れの名前が見えない限り、遠目には判断出来ない程と思われる。
例えば今、取っ組み合えば、それこそ頭の手拭いで判断する事になるのだろう。
しかし、間近に見れば一目で判る違いが有った。
(傷が無いドッペルゲンガー…)
だから、そんなにも余裕に満ち溢れた笑みを浮かべる事が出来るのだろうか。
嗚呼、自分は今、どんな表情をしている事だろう。
「そろそろ落ちてきそうだ」
呟くドッペルゲンガーが、ちらりと上を眼で確認していた。
天井に刺さった竹刀が、僅か震えている。
「ほら、一歩下がった方がいい」
「…そうだな」
言葉少なに返し、云われるままに一歩摺り足で下がる。
と、宣告通りに天井から抜け落ちた竹刀が舞い降りて、道場の床にぶつかり跳ねた。
「傷んではない?今ので破損したなら、僕が弁償するよ」
その転がる竹刀を、まさか放置する訳にもいかず。
「いいや結構、綻びは見当たらない。試合の方も、竹刀を放した自分の失格で良い」
掴む、重い。
早く、人の無い所に“コレ”を運びたい。
会釈し、試合場内から撤退しようと踵を返す…
「それ」
つもりが、引き止める声に小さく振り返った。
ドッペルゲンガーが、自分の手にする竹刀の先端をじっとり見つめ、また哂う。
「しっかり掃った方が良いよ、天井の“埃”が付着してるからね……フフ」
やはり、聴いた事のある声だった。





「ふっ!はっ!ふっ!」
『精が出るな雷堂よ、しかし煩くて敵わん』
「失礼な奴だな、発声は意識を高める」
『奇襲を仕掛ける際にも大声を張り上げるのかお前は』
嫌になりはしないか?まさか黒猫にまでそんな事を云われるなど。
溜息しつつ見上げれば、東の空が明るくなり始めている。そろそろ使用人達が起床する刻限だ。
振っていた得物を仕舞い、手拭いで額を拭う。
やはり普段より発汗していた。手拭いの藍染めが色濃くなり、冷たい感触を落とす。
腰の鞘に得物を納めた際、黒猫が翡翠の眼を此方に向けた。
『珍しく庭で稽古と思えば、ほほぉ…驚いたわ』
気付いたらしい、恐らく納刀の重みが獣耳に響いたのだろう。
そう、この得物は玉鋼、本物の刀。
『それに学生服…普段の稽古袴は如何した?まるで仕事の装備だな、学帽まで被って』
「どんな格好で稽古しようが、俺の勝手だろう」
『一昨日の晩も酷使したな?刃先の輝きが鈍っているぞ』
指摘され、思わず柄を握る。
鯉口を切って刀身を覗かせれば、確かにそう見えてくる。
『とっとと鍛冶に出せ、なまくらなど振っていた所で筋力しか鍛えられんわ』
つまり、ビー・シンフル号に行けと云っている、この黒猫は。
業魔殿という、悪魔を合体させるおぞましい場が在る豪華客船。
其処に併設されているのが、客船のシェフ村正による刀剣合体の施設…
悪魔の魂を刀に注ぎ鍛えるという、およそ鍛冶とは云えない技術だ。
「またか?最近二度手間が有って、もう少し間を置いてから行きたいのだが」
『二度手間?』
「ああ、村正の遣いから受け取った二振りがな、全く別人の物だった。俺は小太刀は所有して無い、二刀流が出来んからな」
これは違うものだ、と、自ら村正の所に出向けば
“ボンソワール!しかしですねえムッシュウ…確かにコレ等は貴方から承った筈…はて”と首を傾げられ…
「村正殿も、もっとしっかり管理をして欲しいものだな。料理の際に包丁ばかりを見つめる訳でも無いだろうに」
『それはな雷堂、刃物に映り込んだ姿を見て接客しているのさ』
一瞬の間。
だが、直接的な視線が命取りになる可能性もある、そんな闇の仕事だ。
普段は客船でレストランを開くシェフであろうが、そういう世界に足を踏み入れているのだ…
おかしな話でも、ない…のかもしれんぞ。
「……そ、それは本当か?」
『訳あるか、馬鹿』
すっぱりと両断された自分の問いは、直後に凄まじい恥となって返って来る。
嗤う黒猫にずかずかと足早に迫れば、その軽いフットワークで飛石を跳ねて逃げられた。
「よくも騙したな!」
『全く、お前はいくら文武両道と持て囃されておっても、それでは長生きせんな』
「おい、待てこの化け猫っ、こらっ!」
自分の離れが在る方向へと逃げ込む辺り、この猫は反省していないと見える。
飛石の数個、革靴で駆け、提げた鞘が地を擦らぬ様に注意しつつ屈み込む。
両手で掬い上げた黒猫は、ぬいぐるみの様だ。
「これで幾つ目と思っている?人を騙すのも大概にするんだな」
『ニャー』
「何がニャーだ、毎度の如くお小言に切り替えてみたら如何だ?そもそもお前――…」
『フギャフギャ』
胴を脇からむんずと掴み、眼前まで掲げて責め立てていたのだが。
そのまるで普通の猫な態度に、むっと心が意地を張り、思わず黒い毛皮の皮膚をむにゅむにゅと引っ張る。
と…
背に視線を感じ、咄嗟に振り返る。
母屋の縁側、がららと開かれた雨戸の隙間から、此方に注がれている。
慌てて黒猫を掴んだまま、自分の離れの玄関へと飛び込む。
また使用人に見られてしまった、“ただの猫”に向かってひたすら喋る奇怪な男だと、また思われたという事だ。
「だから猫の振りか、この性悪猫め…!全く、タチが悪い」
『太刀が悪いのは其方だろうぞ?早死にする前に直せよ雷堂』
「分かった分かった!……ドッペルゲンガーも見た事だし、そうすべきかもしれんな」
『ドッペルゲンガー?』
「ああ、昨日の合同稽古でな、俺が居た」
縁側に猫を下ろし、自らは詰襟に手を掛ける。まだ朝も早過ぎる為、もうひと眠りするのだ。
釦を穴から逃がしつつ、続けた。これを話してしまわねば、何となく気持ち悪かった。
「そいつはな、まるで鏡の様に同じ背丈、貌、此処まで同じだった」
自身のもみあげを撫でれば、黒猫が背を丸めて嗤う。
『本当か?其れが流行るとは思えんが、フン』
「…傷は無かったが、な」
決定的な違いを述べれば、黒猫の揺れていた背がピタリと止まった。
『だから、今朝は鬱憤晴らしに真剣で稽古か?』
「…負けた」
『何?』
「負けたと云っている、試合で」
『ほお、剣道馬鹿のお前が?珍しい事もあるものだ』
寝着の浴衣を羽織り、黒猫の傍に腰を下ろした。
ずっしりとした黒い学生服は、既に吊るされて壁に居る。
あれを着ていると、心が落ち着かない。
「動きが……試合の、剣の動きでは無かった」
『如何いった意味だ』
胡坐をかいて、まだしんと静まり返っている庭を眺めて。
他の人間にとっては“ただの猫”である存在に愚痴を垂れている自分。
「あれは死合いの剣だ……それこそ音を殺し、隙有らば何処だろうと穿って攻撃せんとする姿勢」
『云い過ぎだろう、お前の様な学生がごろごろ居て堪るか、敗北してムキになってはいまいか?』
「そいつには…悪魔が視えていた」
『…何?』
訝しそうに、黒猫が尾をピン、と張った。
「俺は…竹刀を巻き上げられた。竹刀は、天井に思い切り弾かれて飛んでいった」
その黒い尾を、指先で床の板目にたしりと縫い止める。

「天井に貼り付いていた魍魎を、貫いていた」

猫の尾が、ピクリと強張った。
あの瞬間、竹刀に貫かれた魍魎も、この様にピクリと波打っていた。
『そこらに悪魔が蔓延っているのは、可笑しな話でもあるまい。それは偶然ではないのか、そもそも其れを狙って出来る芸当では…』
「魍魎を先端に纏わりつかせたまま、竹刀は落ちてきた…」
その紫炎とも、紫煙ともつかぬ体が、ゆらゆらと上に揺れていた様を見て…
藤の花の、甘い薫りが漂ってくる錯覚を抱いていた。
それくらい、現実逃避していた。あの時、黙れと喝を入れたのは、自身に対しても、だった。
「ドッペルゲンガーは、“埃を掃え”と、哂って云った」
『まさか、それこそ本当の埃を指しているのだろう』
「俺の竹刀の切っ先を見て、哂っていたのだぞ!?それに、MAGを込めて打ち付けた瞬間、互いのMAGが爆ぜて光った!」
『お前、無闇にMAGを振るうなと教わらなかったか?』
「…仕方無いだろう……」
揺れる藤の花、霧の中、己のMAGだけが光ってしまい、確かに眩んでいた。
あの蒼い夜明け前に、神社で打ち合った男の気配だった。
恐らく、同一人物だ。あの神社で打ち合った男と、昨日のドッペルゲンガー。
(だって、怖かった…のだから)
雷堂として仕事する時間外で、そういう存在に真っ向から面する事は、初めてで。
それも、自分と同じ姿をしている。
しかし奴には傷が無い。

「なあ……あれこそが、本物の“クズノハライドウ”なのではないか…」

また、雨戸の音。今度は閉める音だ。
視線の先、砂利の色が沈み始める。ぽつりぽつりと天から雫が。
やがてさあさあと、涼しげな音を立てながら、雨は冷気を運ぶ。
ああ、今日こそ綺麗に晴れそうだったのに。今度こそ、神社の藤の花は駄目かもしれない。
『何を云っている、雷堂…』
「同じ姿で、そいつの方が強いなら…悪魔も視えているのなら、俺は要らない…だろう」
『剣道の試合だったろう?修羅場ならお前が幾度も潜っているではないか。それに視えたとて、使役出来るとは限らん』
「……本当に、何者なんだ、あいつは」
雨の所為でもなく、指先が震えた。
それを叱咤するかの様に、黒猫の尾がぴしゃりと其処を叩く。
『しっかりしろ、雷堂』
「これでもし、奴が選定されたらどうしよう、この傷は何の為に入れられたのだ……なあ…」

リリリリリン

ベルが鳴る。そのけたたましさに、黒猫が髯を揺らして嗤う。
『お前を必要とする声が未だ在るだろう、さっさと取ってこい、雷堂』
「……ああ」
膝をひとつ掌に打って、腰を上げる。
今日は登校出来そうにない、しかし弓月の君は理解している。
こうして、本来の自分は忙殺され往くのだ。
「はい」
普段より、一層業務的な対応になってしまった。
こんな朝っぱらから依頼を寄越す其方が悪いのだ。
(そういえば)
対応しつつ、机の上で折りかけていた式札が、雨で湿気てしまわないかと眺めていた。
(“彼”も、視えているのだろうか…)
どうも、ああいった人間は放っておけない。
もっと束で式をくれてやるべきだったろうか。
(いいや、まさかな……感覚が鋭いだけか。視えていれば、逆に危険を回避出来る筈だ)
受話器を持つ手と反対の手を、頬にひたりと当ててみた。
小気味良く引っ叩かれた其処に、何故か未だに熱を感じる気がして。
(矢代君は、如何してあんなに面白いのだろう…)
思い出しただけで、鬱屈としていた心が妙に軽くなった。
自分の琴線の、恐らくツボなのだ。
「了解した、支度次第すぐ向かう」
受話器を戻した瞬間、堪えていた思い出し笑いをしてみれば
ぎょっとした黒猫が、一瞬びくりと尾を逆立てた。
“自分”として、真っ向から人に面する事は、もう訪れないのかと思っていたのに。
頬が熱い…

全く下らない事で叱責され、何だか嬉しかったのだ。
昔、まだ両親がそうしてくれていた時代を思い出す。

確か母の髪に、藤の花の簪が揺れていた。
本物の藤なら見ているのに、今となってはそれが見れない…

雌伏の時・了

* あとがき*
ライドウが助っ人してる理由と、人修羅が雷堂に直前会っている理由は、次の話で。
そして、居合はやっているのですが剣道はサッパリなので、ツッコミ満載な文面でしたら申し訳御座いません…その為、模造刀の感触は分かるのですが、竹刀の感触が謎です。

藤の花の花言葉は「至福の時」それを捩ってのタイトル。雌伏⇒「強い力を持った人や組織などに屈服する事」
現代東京のデビルサマナー“雷堂”なのですが…今後じわじわと明らかにする具合です。 オリジナル要素があまりに強くならない様に、と思ってはいるので、クズノハライドウを念頭に置いて進めてはいきたいです。

因みに、雷堂から人修羅への感情は、徒花シリーズの様に“恋慕”まではいかない(予定)です。
徒花の義父・母とは違って、こちらの両親とは上手くいっていない。雷堂で在る彼なりの理由、理念が有る。