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先日はお見舞い有難う、矢代君。
橘さんが貴方に進路の件を強く云うのは、決して悪気あっての事では無いのですよ?
彼女なりの心配をしているのだと思います。敏感な貴方だから、多少解っているのだとは思いますが。
新田君はずっと喋りっ放しで、橘さんにひきずられて帰っていったわ。本当に可笑しくて、久々に大声で笑ってしまいました。
そして早速ですが、進路の件です。
お母様思いの矢代君だから、先生はこれまで特に心配していませんでした。
でも、最近どうかしたのですか?進路希望調査の書類も空欄で、以前は埋まっていた項目も消したそうですね。
何か迷っているの?先生で良ければ、何でも相談に乗ります。
ワンクッション置きたい場合は、お母様に連絡を取ってみてはどうですか?
出張で忙しいからといって、遠慮していたりしませんか?子供は親に甘えるのも仕事です。
強い目的を、今、絶対持つ必要は無いのです。
人は内より生じたモラルでしか、動けないのですから。周囲が強く言おうが、それはいつか破綻します。
何かの為に、自分を高める、ひとりひとりのモラルが他を想う。
綺麗事と笑われてしまいそうですが、それを意識する様になってから、先生は教師を目指したのです。
だから矢代君も、どうか自分の望む形に嘘は吐かない様に、先を決めて下さい。
今度、空いている日曜に進路指導室に向かって下さい。当日担当の教員と相談しつつ、未提出書類だけは書き進める様にお願いします。
これだけは学校の意に従う他無いので、どうか気を悪くしないでね。
上で慎重さを促しておきながら…(ToT)「大人は嘘吐き」と言われてしまっても、返す言葉も無いですね。
急かす様になってしまって、本当にごめんなさい。
PS・もうすぐ退院出来そうです、早く矢代君の面倒臭そうな顔を見たいです。それと…――
理性の弛緩・嫌悪の伝写
《次はぁ〜…》
は、と目覚める。
《表参道駅ぃ〜》
ぼうっとしている時に、この手のアナウンスを聴く度に脳が揺さぶられる。
今が、いつなのか、俺は“いつの俺”なのか、落ち着いて考える。
そう、今の俺は…人修羅で、ライドウの使役下。
今向かう先は学校だ。友人と待ち合わせた代々木公園でも、お見舞いの新宿衛生病院でも無い。
《ドアぁ閉まりま〜す》
日曜日、私服姿の若者が多い。そんな中、俺は学生服で。
最近暖かくなってきたせいか、混雑する電車内はじわじわと体臭と香水が混ざり合う…嫌な湿度。
加速と減速の狭間で揺れが生じ、俺は吊り革の持ち手を軽く握った。
圧迫感、ひしめき合うこの状態。これだから電車は嫌いだ。
呼吸の吐息ひとつでも、誰かや自身の項にかかれば嫌悪に繋がる。
それが故意では無く、不可抗力だったとしても、だ。
代々木上原で降りる、あと少しの辛抱だ…
あと少しの…
「……〜っ」
叫びそうになって、それを呑み込んだ。
大きな揺れ、という程でも無いのに、この密着感はおかしい。
確かにぎゅうぎゅうとしているが……明らかにこれは。
(何処の…痴漢野郎だ…っ)
最近ずっと無かったので安心しきっていたが、久しくおぞましい感触に背筋が凍る。
俺が肩から提げている学生鞄を通り過ぎ、鞄と身体の隙間に指が潜り込んで来た。
腰骨を確かめる様に、じっとりと撫で擦られる。
学ランの分厚さに救われたと思った。これが夏服のシャツだったら、汗ばむ指が肌に吸い付く感触までした事だろう。
顔を見たくも無い反面、憎きその面を拝んでやろうという怒りが急き立てる。
でも、目が合ったとして、どうする?
睨めば終わるのか?それとも刺激してしまうだろうか、痴漢というのはそういう物だ。
以前、一度睨みつけて、エスカレートした事を思い出した。確か、中学生の時だった。
(くそ…せめて高身長なら、狙われ難いかもしれなかったのに)
腰からゆるゆると臀部に…堪らずに、持ち手を強く握り締めた。
華奢な指では無さそうだ、揉んでくる掌と指圧がそう判断させる。
(早く…到着しろ…)
この痴漢が悪魔なら、今すぐに灰にしてやるのに。
いいや、それも難しい話だ。こんな混雑した空間で、どうやって?
そもそも「俺は男のくせに、野郎に痴漢されています」なんて、声高に叫べやしない。
その事実さえもが恥であり、痴漢を撥ね退けれない原因だった。
《次はぁ〜明治神宮前駅〜》
臀部の中央に、もぞりと何かが当たる、押し付けられる。
無機物では無い、布越しなのに熱っぽさを感じる、嫌という程に。
ああ、耳が熱い、口の中がカラカラになる感覚。
生唾を呑み込めば、詰襟の辺りに荒い息遣いを感じた。背後の…恐らく男のものだ。
気持ち悪い…激しい吐き気を催す。下肢を捩る。これ以上前に出ては、目の前の営業風のOLに密着してしまう、それも危ない。
痴漢から逃れる為に、痴漢と勘違いされてはどうしようもないじゃないか。
まるで蒸し風呂に居るみたいだ、口を開けば吐きそうで。ただ少しの呼吸さえも、悦びのソレと勘違いされそうで。
(周囲に……誰も居なければ)
もう意識を遠くに逃す他、無かった。
脳内で、背後の敵を殺戮する白昼夢を見る。
その夢の中で俺は、あの気味の悪い斑紋をまるで誇示するかの様に晒して暴れていた。
(喉元を絞め上げて、そのまま窓ガラスに叩きつけて)
ずりずりと、下から衣擦れの音。電車の滑走音が勝っている筈なのに、俺の耳には鮮明に下肢からの異音が聞こえる。
(その汚らしい興奮したブツを、アイアンクロウでぶった切って)
電車の揺れと重なる様に、一緒に揺れる吊り革や乗客。合わせて俺の臀部の狭間に添わされる脹らみ。
(俺をまさぐるその指を、一本一本逆に曲げて、へし折って)
左右に押し開かれる、ぐりりと突き当てられ――
(生きたままガキに喰わせてやる!!)
《明治神宮前駅〜駆け込み乗車はお止めください》
「っ、あ」
突然、腕を掴まれた。
人の流れに呑まれる様にして、引かれるままに電車のドアを抜け、ホームに躍り出る。
湿度が一気に失せ、思い出した様に息を吸い込んだ。臭くない。脳内の死臭も失せた。
「はぁっ……はぁっ」
俺の腕を引くまま、つかつかと足早に歩くのは真っ黒な学生服の…
「はぁ…っ……ライ…ドウ?」
幻覚でも見えているのだろうか、まさかどうして此処にライドウが?
助けてくれる訳も無いだろう、馬鹿にするならともかく。
ホームの隅まで先導される内に、電車は往ってしまった。
「君は黙っているのか、ああいう時に毎回」
「あ…」
顔に傷跡、そういえば学帽も被っていない。
いつぞや、学園祭で会ったあの人だ。
「雷堂…“さん”」
「すぐに名前が出るとは、記憶力が良いんだな、矢代君」
自らも俺の名を出して、小さく笑った雷堂。
この人も日曜日なのに学校だろうか。手荷物を見る限りでは、部活動の類みたいだった。
「水でも欲しいか?」
「いえ…その…」
「なら吐くか?」
「…大丈夫です、けど」
「しかし顔色は悪いな、落ち着くまでは何処かに腰掛けたほうが良いと思うぞ」
強く俺の腕を掴んでいた手を放し、こちらの鞄を奪う様にして掴む。
「いいです、そんな」
「少し身体を解せ、ほら、歩けるか?」
剣道部とか、そういえば云っていた気がする。
その道具一式を背負っている人に更に荷物を持たせてしまって、俺は周囲にどんな目で見られるだろうか。
「強く掴んですまなかった」
「腕は大丈夫です、その…いつから」
「君が尻を揉まれ始めた辺りからだ」
「し…っ」
気遣いの割には、あまりに具体的に述べられて冷や汗が出そうになる。
おまけに声のトーンも落としていないので、隣の俺は消えたくなる。
あの場で痴漢を突然糾弾されなかったのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
「少し外の空気でも吸った方が良いぞ、構内というのはどうも圧迫感があって駄目だ」
「雷堂さんは…此処で降りる予定だったんですか?」
「いいや、もう少し先だが、そんな事は君が気にしなくても良いだろう」
俺の鞄を肩から提げた雷堂が、ついて来いと眼で促してくる。
あの状況から引き摺り出してくれたのだから、彼の意に反する事をなるべくしたくは無い。
危機的状況から自分で抜け出せない…この、悪い方向に突出した自尊心を呪う。
外は快晴とは云い難いが、それでも雷堂の云った通り、天井が無いからこその開放感があった。
ビルの背は高いが、その隙間からの雲が白く、更にその雲間からの蒼が遠近感を齎す。これが本来の東京の空だ。
「時間は大丈夫か?因みに…今は九時前だ」
携帯電話を取り出した雷堂に問われ、本来の目的を思い出す。
(進路指導室…)
強制という程では無いのだから、もうこの次でも良いか、と勝手に予定を組み替える。
進路なんて、決めた所でどうしようもない。いっそ適当を書いて、書類だけで終わらせたい。
「大丈夫…です」
「君も制服だが」
「学校、用事有ったんですけど…別に今日の必要も無いので」
「ほお、奇遇だな…実は君の学校に行く予定だった」
え、と声に出して反応したが、そういえば他校との合同練習を剣道部はしていたっけ。
真面目な部員の多いあそこは、日曜日だというのに学校で鍛錬に励んでいるのだ。
「雷堂さんこそ時間」
「少し待て、今一報入れる」
「いや、延ばせっていう意味じゃなくって!」
颯爽と俺から離れた雷堂は、街路樹の陰に寄り添うと耳に携帯電話を当てていた。
その傍に行く訳にもいかず、俺は街路の端でぽつんと佇む。
一体、どうやって説明しているのだろうか。
痴漢云々までは良いとして、その対象者が男だとか、○○校の生徒だとか、相手に話してないだろうな。
と、すぐに終えたのか、雷堂が俺を一瞥した後にすたすたと歩み寄ってきた。
大荷物の筈なのに、苦しさを一寸も感じさせない身軽さだ。
ライドウと同じ体格…それにやっぱり極めつけは、あの妙に鋭いモミアゲ。
助けられた際に、嫌に心臓が跳ねたのはそのせいか。
あれで学帽に外套でも羽織ったら、殆どライドウではないか。中身が全く違うけれど。
「一人にしてすまなかったな、人前での電話は礼節に欠ける」
「はあ…そういう所は気にするんですね」
別に、一人じゃ何も出来ないという訳でも無いのだが。
「少し歩くと喫茶が在る、其処で休もうか」
「いいんですか…練習」
「もう殆ど二年に任せてある。自分は人数合わせ、肩書き上の部長という程度だ」
「俺なんかとお茶して楽しいんですかね」
「先日は君から誘ってくれたろう?」
云われてみればそうだった。でも、あの時は雷堂が行き先に迷っていたから提案しただけであって…
「ほら、見えてきたろう?」
「サボりって云われませんか」
「このくらい許せ、悪魔に魂を売る訳でもあるまいしな」
“実はこの瞬間、悪魔に時間を売ってるんですよ”だなんて誰が云えるか。
それにしても、話しながら誘導されていたみたいだ。
既に目の前に在る喫茶店。渋い木目調の外観、一見では入り難い雰囲気、あまり万人向けでは無い。
やはりこの人、若者らしさが無いというか…
「此処じゃ駄目か?」
「えっ、いえ」
良く云えば、達観している。
「っふ……やはり分解していた…」
腹を抱えている雷堂、痛いからでは無い。いや、笑いを堪え過ぎて痛いのかもしれない。
「もうっ、いいじゃないですか其処は!そんなに汚く食べてはいないつもりですけど」
「ああ、悪い悪い、そうだな、一口分を細かく解体しているだけだな」
俺の飯の食い方が、どうやら気になっていたらしい。
頼まれたケーキにフォークを刺す時、あまりに凝視されていておかしいとは思ったが。
「先日から気になっていてな」
「まさか、今回奢ってくれたのもそれを確認する為ですか?」
「ふふ、少しは気が紛れたか?」
「話逸らしてませんか?」
「その様子ならもう大丈夫だな」
笑うその顔は、とても穏やかだ。
新田ともライドウとも全く違う。
新田…あいつとも学校帰りにふらりと遊んだりしたが。
あいつは新しい電化製品だとか、ブランドだとか、何処ぞのバイトが可愛いだとか…
そう、なにより高尾祐子の話題ばかり出してきて、俺としては頭が痛かった。
他は適当に合わせれても、それだけが……あの教師の事は、東京受胎の前から苦手で。
「やはり大丈夫じゃないか?」
「えっ」
心ここにあらず、という感じの俺を見て腑に落ちないのか。
少し眉根を寄せた雷堂が首を傾げた。
「あの痴漢、あの場で捻り上げるべきだったか?」
「い、いいですっ!騒ぎ大きくなっても…面倒ですから」
恥ずかしい、という言葉を使いたくなかった。
野郎相手に恥らうのも、あの行為を恥らうくせに退けれない自分も、とても滑稽なんだ。
「珈琲とケーキ、奢ってくれて有難う御座いました」
助けてくれて、とまでは掘り下げずに頭を下げる。
雷堂の肩から、今度は此方から奪う様にして鞄を取り上げた。
「一緒に行くか?」
「いえ、俺今日はこのまま帰ろうかと…」
「御守りでは痴漢は防げんからな」
以前、胸ポケットに入れられた式を思い出す。
そうだ、この人…
(やっぱり、視えている?)
今更な気もしたが改めて警戒すると、肌に喰い込む魔具が冷えて感じた。
「こないだの、あの紙ナプキンの…」
「ああ、効いたか?」
あれを戴いた後、堕天使やらニーズホッグやらと対面したので、とても魔が退いたとは云い難い。
そもそも、俺が魔物に近いじゃないか。
あの式が退けたといえば、ライドウの手だけだ。
「……あんまり」
「そうか、すまなかったな。まあ、まじないとはそういう物だと、笑って許してやってくれ」
「またお許しですか?」
「君にはどうも請い易い、これは不味いな」
「今回で会うの二回目でしょう?俺、そんなに人が良さそうに見えます?」
「いいや、自分よりは悪く見える」
「……やっぱり許しません」
軽く笑い飛ばした雷堂。大声は出さずに、それでも快活という言葉が似合う。
(あの御守り、シキガミでしたよね…とか、云わないべきか)
俺が、あの御守りを「ただの紙」と認識しているのか、それとも「シキガミ」という悪魔として認識したのか。
もしかしたら、この人は俺の出方を窺っているのかもしれないじゃないか。
とにかく、雷堂が視えている人間だとしても、俺の擬態さえしっかり出来ていれば問題は無いのだ。
これ以上踏み込んだ会話をしなければ、それで…
「しかし」
駅のホームへの降り口が見えてくると、ふと雷堂が呟く。
「はい?」
続きを述べないので、隣の彼を向いた、瞬間――
わしり、と掌の感触。
引き攣ったままの俺に構わず、もにゅ、と二回程度揉む雷堂。
俺の錯覚かと思ったが、間違いない。
この男……俺の尻を揉んだ。
「な……に、してんですか」
「ふむ、特定の人間がそんなに病みつきになるのかと疑問だったが、さほど気持ち良くも無いじゃないか」
難しい顔のまま、その疑問を解決する為に揉んだというのか。
特に感情的になる事もなく、平然と答えた雷堂に沸々と怒りがこみ上げた。
「まあ、気持ち悪い事もないが、低反発の枕の様な弾りょぶッ!!」
思い切り雷堂の頬を引っ叩いた。拳にしなかったのは、先刻の恩を感じて、だ。
周囲の人間がちらちらと俺達を見ているが、俺だって気にしてやるものか。
「貴方何考えてんですかっ」
ぐいぐいと詰襟を引っ掴み、道の端に寄る。
本当は耳打ちしたいが、背伸びするのも嫌なのでそのまま怒鳴った。
「俺がさっき電車でああいう目に遭ってたの、知ってますよね!?だから助けてくれたんでしょう!?」
「…ああ」
「ああ、じゃないでしょう!?ふざけてんですか!」
叩かれた頬を軽くさすって、雷堂は数回瞬きして俺を見下ろす。
「疑問の誘惑に負けてしまった自分も悪いが、しかし何故君はあの痴漢にビンタをしない?」
「……え」
「周囲の目だって同じ様にあるだろう?何故だ?」
「それ、は…」
だって、高校生同士なら、じゃれあってる奴等も居るし。いや、俺はしないけれど。
今は反射的に叩いてしまったが、それは寧ろ相手がハッキリしているからだ。
痴漢に対して感じる、もっと湿ったあの感情…とてつもない嫌悪感…
触れてくる感触から、目的意識を肌が感じ取るんだ。
この人の場合は、性的なものを含んでいない。それはなんとなく、判ったから。
「ふぅむ…また疑問だ」
「疑問にしとけばいいじゃないですか!兎にも角にも、貴方デリカシーに欠けます…雷堂さん」
「人前で揉むのも問題だったが、人前で叩くのもどうだろうな?」
ぐ、と云い留まる俺をじっと見つめる眼は、ライドウよりも色が見えた。
学帽も無い、更に陽射しの下だからかもしれない。
色味が優しい。この意地の悪い返答だって、きっと悪意は無いのだろう。
「……っふ……ふふ、いやすまん、君が面白いものだから、ついつい意地悪を云ってみたくなって」
どうやら本当にそうだったみたいだ。
またツボに入ってしまったのだろうか、もう何を云っても更にウケられそうで、閉口する他無い。
凄く気遣う様子を見せたと思えば、疑問だったからと云って、ころりと危うい事をしてしまうのか…この男は。
(ライドウと逆だ)
葛葉ライドウは…気遣わないし、そもそも疑問を吐露しない。
何が奴にとっての謎なのかを、周囲に悟らせるつもりも無いのだ、恐らく。
同じ様な姿で、雷堂が妙な言動をするものだから…
「もう、笑い事じゃないです、本当」
なんだか、俺も笑うしか無かった。
帰宅すると、ライドウは居なかった。
結構早い時間から出ていたが、何処を歩いているのやら。
(遠出して、そのまま帰らなければいいのに)
そう、せめて日中会った雷堂の様な性格の人間なら、同居していたって構わない。
ライドウは、俺を悪魔扱いする。それだけで、この家の中でさえも俺の居場所が無くなるのだ。
自室に入ると、ベッドに鞄を放った。今日は教材を入れてないので、くったりと形が崩れる。
(晩飯…)
途中まで考えて、止めた。そういえば、最近料理もしてない。
食欲が殆ど無いのだから、まず解消方法として作る必要が無い。
そして、ライドウに作ってやる義理も無い。あいつはあいつで勝手に調達している筈だから。
学校に行って、学習して、進路を決めて…
それを今頑張って、最終的に俺の為になるのか?
人間に戻れたとしても、一体何処からやり直せるのだろうか。
俺が人修羅を経て、改めて転生した事は理解した。
それだって、東京受胎前から知った事だ。ライドウとの共闘の記憶は浅い。
(ピクシーごと消してしまったから、母さんは、もう転生出来ないし…)
魂を消す、とか、未だによく解らない。
でも、確かに…あの妖精を燃した時、鮮明に感じた。
其処にあった質量が、圧倒的に減った事を。
ルシファーが人間を悪魔にした理由が、其処にあるのかもしれない。
人間と悪魔の魂の質は、全く違うんだ――…
(どうして俺なんだ)
頭を抱える、自然と身体が丸くなる。
ベッドが小さく軋んで、それ以外は息を殺す自分の鼓動の音だけになった。
(戻る、とか考えず…本当に人間のフリをして生きる?)
何かを両立する事は難しい。
戻る為に、あの堕天使の元で殺戮をして成果を上げつつ、いつかは倒す夢を見るよりも…
いっそ、このまま人間の世界で、フリに慣れてしまった方が楽かもしれない。
そんな風にダラダラとしていれば、呆れて俺を見放すかもしれない、あの堕天使だって。
腕をくたりとシーツに遊ばせ、天井を見た。
そうだ…あの雷堂だって、恐らく視えている人間。
視えていたって、普通に暮らせている事が実証されているじゃないか。
雷堂のすべてを知る訳でも無いが、少し希望が湧いてきた。
となると、問題は現在俺を使役しているライドウなのだが…正直今はどうにも出来ない。
あのサマナーのお陰で、アマラ深界の更に深い所で留まる事もなく、こうして人間界に居られる事実…
腹立たしいが、あの男の力も、今はまだ必要だ。
そうだ、とりあえず落ち着いて…可能性を考えれば、進路をやはりしっかり定めておくべきなのだ。
母親の事は、本当にどうしたって蘇らないのだから…
胸がキリキリとしたが“出張先の海外で連絡が途絶えて…母は行方知れずです”とか、いずれはそういう流れになるのだろう。
殺しておいて一人のうのうと生きてる俺は、結局親孝行どころか親不孝者だ。
(母さん…)
今日の晩御飯はなあに?という、簡単な確認のメールだって、今の俺には懐かしい。
マザコンと笑われようが、もう構わない。こないだ、母親とのやり取りのメールには全部保護をかけた。
今後増える事は無いのだから、女々しいかもしれないが取っておきたかった。
(そういえば、ライドウの奴…母さんの携帯勝手に使ってやがって…)
替えさせるべきだな、と、ぼんやり考えつつ、鞄のジッパーを寝そべったままジリジリと開いた。
指先で探る、硬質な感触に当たるまで内部を洗うが、触れない。
おかしいと思い、今度はしっかり上体を起こして、胡坐した股座に鞄を引き寄せて探した。
いいや、やはり無い。
携帯電話が無い。
(落とした?いや、家を出る際に此処に忘れてたのかも)
部屋をくまなく探すが、よく置く場所なんてベッドサイドのチェスト上だけだ。
充電器に接続する他は、鞄に入れる程度で…
(…雷堂さん?)
一瞬疑ったが、彼に鞄を渡してからの行動は全て見ていた。
俺の鞄を開けた様子は無い、そもそも、そういう人じゃないだろう。
どうしよう、携帯なんか連絡手段でしかなかったのに、無いとそれはそれでそわそわする。
学生服を脱いで、とりあえずハンガーに吊るす…
スラブ生地の部屋着に腕を通しつつ、とりあえず紛失届を出そうと考え始めた時だった。
下階から音がする、誰かが家に侵入する音。
施錠の癖が、最近自身に無い事に気付いた。
ライドウの出入りがあるので…といえば嘘になる。最近の俺は、生活が狂い始めている。
(駄目だ、しっかり昔みたく鍵かけて、飯作って…就職を考えて)
階段を上がってくる足音が耳に入る、その足取りのリズムでは誰かを判断出来ない。
ライドウでは無い可能性を考える…
(この家には、金目の物なんて)
有る、母親が各地で購入してきたちょっとした骨董や鉱石なんかは、それなりの価値がある。
云ってしまえば、俺のバイクだって高いじゃないか。
近付いて来る音に、こんな丸腰で大丈夫だったかと、項がピリピリ痺れ始める。
ボルテクスに居た頃は…
もっと、物音に慎重だった。
本当に気を休めるのは、泉とターミナルで。
それだって、ターミナルに部外者は入れない様に、そこそこ信用していた仲魔に見張らせたりして。
探索する建造物の、部屋の手前で気配を探ったり。
扉を開けた瞬間襲われた事が、幾度もあったじゃないか。
緊張感が抜けきっていると思ったのは一瞬で、次々と蘇る、脳内で。
あの悪夢の様な世界の記憶が。
「どうしたのだい功刀君」
葛葉ライドウ…だった。
苛立ちに混じる安堵が、胸糞悪い。
人の部屋を、ノックも無しに開けやがった。扉の横で、身構えていた俺が馬鹿みたいだ。
いや、ライドウ相手にこそ、身構えておくべきかもしれないが。
「あんたこそ、何の用だ」
「フフ…好きだよ」
「は…?な…何……っ」
唐突な発言と、顎にかけられた指先にくい、と持ち上げられて思わずその眼を見る。
やはり、雷堂よりも鋭い。
「その、今の眼」
睫が触れそうな程に近くに、覗き込まれる。
「ボルテクスで、よく見た眼だ」
労わりも無く、容赦無く掘り返してくる、傷口を抉る様に。
ばっ、と突き放して、首を振った。無理やり上を見上げさせられていたので、痛かった。
「ねえ、ところでコレ、君のでは無いの?」
哂うまま差し出してきたライドウ、見ればコンビニ袋の様な物を掴んでいる。
訝しげに睨めば、くい、と指先で袋を揺らす。
「この状態で玄関の取っ手に引っ掛けてあったよ」
「おい、ゴミとか爆発物とかじゃないだろうな、不用意にあんた――」
糾弾すれば、外套の内側から何かを取り出すライドウ。
母親の携帯電話だ。
「おい、だからあんたソレ使うの止めろって、こないだから…」
俺の言葉を無視して、そのまま開き、弄りだす。
本当に昔の時代の人間なのか?流暢な指先は、俺よりこなれている。
と、突如ヴヴヴと袋が揺れて、振動音がビニール内に響く。
ビクッとしてしまった己を呪いつつ、ライドウの手にした袋を引っ掴む。
「ほら、君の電話ではないか」
「……どうして判った」
「ボルテクスの時に使っていたのを見て、君の持ち物は記憶に強いのでね」
「ちっ…人の物ジロジロ見てやがったのか」
ライドウを改めて見る、なんだか…雷堂と似た様な荷物を持っていた。
「何か?」
「い、いや…」
「何、御礼でもしてくれるのかい?」
「帰るタイミングが違ってたら、俺が先に発見してた、あんたに礼を云う必要無い」
相手がライドウでなければ「持ってきてくれて有難う」と云えたのに。
「そうだね、言葉よりも身体で返してくれ給え」
「気色悪い」
「おや、誰も性的な行為とは云ってないのだがね?しっかりと僕の手駒となり、戦い給えと云ったのさ」
鼻で笑われて、かあっと顔が火照った。あまりに墓穴で身震いする。
「出てけよあんた、用事無いなら俺の視界に入らないでくれ」
「今日は機嫌が悪いのかい?僕はとても良いね、愉しい事があったから」
「聴きたくない、さっさと部屋から出てけ」
「殺さぬ剣は、やはり難しい…試合なぞ久しくてね」
部屋から抜け出ていくすがらに、扉の隙間から不敵な笑みを浮かべて俺を垣間見る。
自身の意見を述べている筈のライドウの声に、俺の中身が掻き乱される。
「力や武器を持つとね、制御する事にいつしか精神を削ぐ様になるのさ」
「あんた充分凶悪だ」
「悪魔と戦う事で発散出来る、そして人間に害なす悪魔の駆逐は本来の僕の役目でもあるし…?君を使役し始めてから、君で発散出来て楽だよ功刀君」
どちらが垣間見ているんだ。
「人間ならまだしも、悪魔の本能を抑え込むともなれば、生半可な自制心では難しいだろうねえ?」
「出てけ…っ」
ばたん、と扉を蹴り閉めて、ノブをぎゅうっと握り締めた。
動かされない様にと、しばらくそのまま固定して。耳を澄ませてライドウの動向を窺う。
(落ち着け…)
こうだ、いつもこうだ。ボルテクスの頃から変わっちゃいない。
あのデビルサマナーに心を揺さぶられる、悪い方に。
俺を悪魔に引き止めている、あの男の言葉に耳を傾けてはいけない。
気を取り直し、ビニール袋の持ち手をがさりと拡げる。上から覗き込めば、自分の携帯電話がぽつんと入っている。
早速改めて確認して、母親からのものとライドウからのものと分けよう…
そしてついでに懐かしいメールを見て、俺が間違い無くこの家の人間であった事を再認識する作業に移ろう。
(一段落ついたら、シャワーでも浴びて…以前の生活リズムに戻さないと)
ビニールをゴミ箱に突っ込んで、カーテンを閉める。
ベッドに腰掛けて、折りたたみ式のそれを開いた。
「…えっ…何……だ」
待ち受けが、違う。
学校の時間割にしてあった気がするのだが、見覚えの無い何かが映っている。
無い?いや…有る。
俺の、顔が映っている。意味が分からない。
しばし呆然となってから、我に返ると慌てて携帯のキーを親指が弄り始めた。
この登録してある写真は何なんだ。そもそも、何故携帯はこの家に届けられていた?
カチカチと登録先を見る、見知らぬ画像データが一面にサムネイル表示される。
俺だった、俺の写真がいくつも。
ただし、カメラ目線でも何でもない。
(盗撮)
ぞわりと、爪先から天辺までを、薄布が擽っていく様な震えに見舞われる。
写真自体のデータを確認する、ここ数週間で撮られた物だった。
つまりは、これを拾った人間が…わざわざ、撮り溜めたデータを入れて返したのか。
(拾った?)
いや、盗られた可能性を考える。盗撮者が都合良く拾うなんて公式の方がおかしい。
鞄と腰を撫でていた、あの感触を思い出せば、おのずと答えが導き出された。
あの瞬間、既に鞄の中もまさぐられていたのだ。
身体への接触に過敏になり過ぎて、全く気付けなかった。
あの痴漢野郎が、俺の携帯を盗ったと同時に盗撮犯なのだ、恐らく。
(どうして?どうしてまた俺なんだ?)
住所なんかは、携帯を探れば引っ張り出せるだろう。例えば、Webのブックマーク先の個人情報だとか。
個体情報が残っていれば、簡単にログイン出来て、見れたりするものだし…
違う、もしかしたら尾行されていたのかもしれないじゃないか。既に家の場所は割れていて、決行日を今日にしただけで。
堪らない、嫌がらせにしても度が過ぎている。
第三者からの視点の写真がずらりと並ぶ様を見て、全身を視姦されている様な気色の悪さを感じた。
付き纏われている、おぞましい輩に。
面と向かって殴ってやりたい、脳内でした様に、その下衆い身体を砕いてやりたい。
ああ、あの瞬間、周囲に誰も居なければ。悪魔だけならば。
ボルテクスの様に、いくら殺してもただの喧嘩で済まされる場所だったなら、俺は…俺は。
ヴヴヴ
携帯が震えだし、それをマガタマの蠢きと錯覚して心臓が跳ねた。
見知らぬ番号、普段なら無視する所だが。このタイミング、相手の予測をする。
受話器の持ち上がったマークのボタンを押す俺の指。
…通話状態になった。
《今日は途中で降りたね》
男の声、声音だけではヴィジョンは浮かばないが、そう若くもなさそうだ。
「…あの」
《よくカラーシャツを学ランの中に着ている長髪の子と居るよね、でも今日は居なかった。君が一人で電車に居る事は、この約一ヶ月見てきた中でも稀で、いつもは女のケツしか興味ないんだけどチャンスかと思って揉んでみたらこれが意外にも悪くないときた》
「あ、あ」
《苦しそうだね、無理して乗ってるよね、過去にも触られた事ある?》
あまりの言葉の雨に、相槌未満の呻きしか出ない。
俺の返答などお構い無しに、相手は言葉を続けた。
《日曜日まで学ラン着ちゃって、崩しもせずに真面目だね。まさか補習授業?君に限ってそんな事はないよね、そんなに迂闊には見えないけど。そうそう、触っての勘だけど、どんな下着な訳?尻たぶの感触が生っぽ――》
「あのっ!!」
心臓の音が駆け出す。恥で耳が熱い反面、背筋は冷たい。
肌に喰い込む魔具が軋む、指先に黒い紋様が躍りだしそうなのを、今は必死に抑え込む。
《怒ってる?恥ずかしかった?どうした、おじさんに云ってごらん?》
このまま、力を解放したら携帯電話が砕けてしまうから。
「…あの」
《しっかり携帯も返してあげたでしょ?時間割なんて色気の無い…イイ待受けにしといたげたからね》
破裂しそうなそれを、無理矢理抑え込むんだ。まるで、暴れだしたマガタマを包み鎮める様に――…
「……そんなに俺の事気になるなら…もっと、人気の無い処、行きませんか」
そう、今は。
理性の弛緩・嫌悪の伝写・了
* あとがき*
長くなりそうだったので分割しました、なのでこんな不穏な終わり方。前回の雷堂が遅れた理由がコレです。
悪魔も出てこないし尻を揉まれ過ぎな、何とも云えぬ回でした。何かを決意しかけた瞬間、いつも揺さ振られる人修羅。
次回はライドウも悪魔もちゃっかり。
【弛緩-しかん-】ゆるみ。“ちかん”とも読む。
【伝写-でんしゃ-】写したものを更に写す。
そういう事であります。