支離滅裂




階数を示す赤いLEDが移っていく、徐々に上の階へと。
「こういう処は初めてなの?」
「……まあ」
指定通りの時間、場所。キッチリと守る辺りに生真面目さが窺える。
いつもの学生服ではない姿に、口角が上がる心地だ。
「眼鏡はどうしたの?」
「無くても見えるので」
「じゃあいつものアレは伊達?」
「…黒板の字は鮮明に見えたほうが良いからです」
返答の学生らしさに、内心ぞわぞわと脹らむばかりの欲望。
これで男じゃなかったら、今此処で突っ込んでもみたかったもんだが。
捲り上げられるスカートというモノを、普通男子は着ない訳で。
隣に俯いて追従している少年は、それこそ平凡なパーカとタイトなジーンズ姿だった。
「いやしかしキミから誘ってくれるなんてねえ、おじさん興奮のあまり携帯落としそうになっちゃったよ」
自身をおじさんと呼称する痛々しさに、少年の眉根が顰められた。
嫌悪される程に昂ぶる、虐めたいし虐められたい。
「奮発してスイートルームにしちゃったよ」
「…そうですか」
「階に一部屋だから、いくら声出しても絶対響かないからねえ、セキュリティも万全だからねえ」
「それは好都合です」
「ナニしちゃっても密室な訳だよ」
不安気な面持ちの割に、随分と乗り気じゃあないのかこの子。
意外とビッチなのかもしれない…いや、それなら電車であんな顔は出来ないだろう。
「お家の人には何て云って出てきたの?遅くなるって云ってあるのかな?」
エレベータの扉が開くのを見計らって、少年の背中に手を回す。
あまり筋肉も無い、やっぱりなんともいえない瑞々しさがあった。
反射的に強張る背筋を掌に感じて、電車の接触を思い出し笑いが零れる。
「そんなに遅くならない…って、云ってあります」
「あんまりおじさんの相手してくんないの?」
「軽く触って、写真撮りたいんでしょう…そんなに時間は要らない筈です」
「それだけだと思ってるの?」
「…いえ」
言葉少なに横を向く、まともに此方を見ようとしない仏頂面。
そんな態で自分の様な所謂“変質者”を誘うだなんて。
「悪いコだねえ、キミ」
詰る様に囁きかけて、スイートルームの扉を開いた。
此処から先に監視カメラは無いと解釈して良い、在ったとしても露出はホテルの信用に関わる。
存在しながらに無い様なモノだ。
「ベッドのシーツがレフになるし…いや、薄暗くしても雰囲気出るよねえ、ブラックライトとかもあるしぃ」
どうやって肢体を撮影しようか、むくむくと妄想と下肢が脹らむ。
少女と少年の肉体は、魔的でどうしようもない。表情が大事で、そこまで面の造形は気にしていない。
恥らう人間程に、晒される肌は焦げる様な熱を孕んで…それがレンズを通して訴えかけてくる。
イケナイ気分の心地好さ、快感。
写真という、ひとつの画像データにして所有してしまえば。それを以って口封じさえ出来る。
ネガの時代よりも、いとも容易く貼って剥がせる粘着テープ。
「約束の…」
「ん?ああ、はいはい、他の写真も見たいとか、スキモノだねえ」
鞄からわらわらと、デジカメやらモバイルPCやらを取り出してデスクに広げた。
流石スイートルーム、調度品のひとつひとつが大きい、ゆとりがあった。
「キミの写真はそんなに多く無いんだよねーほらほら」
間に紛れて、ちらちらと学生女子のデータも映る。
それが液晶に垣間見える瞬間、隣の少年が少し眼を背ける仕草にニヤニヤしてしまった。
「これネタにして、呼び出したりしてるんですか」
「んーそうでもないね、おじさんはひとりひとりにそーんな時間割かないから」
一通り、当人のデータを見せつけてからPCを閉じた。
「でも、キミみたいに誘ってきたら…まぁ据え膳喰わぬは…って、解かるよね?解かるでしょ?」
パーツの中でもお気に入りのケツを触ってやると、ぴしゃりと弾かれた。
「今更どうしたの、早くおじさんに見せてよ」
「…まだ、シャワーとか…」
「ああ、そういうの気にしそうだよねえキミ、おじさんは電車の中のちょっと汗ばんでる身体とか好きだけど?」
「俺は嫌なので」
断言して、逃げる様に浴室に閉じこもって入った彼。
自分にとって大事な過程がやり過ごされそうで、慌ててそれを追う。
「待ってよぉ、脱衣シーンは重要なんだからさ!」
興奮して、我ながらかなり気色悪く上擦った声になってしまった。
脱衣所のドアノブを握ると、反対側から掴まれているのか、ビクとも動かない。
「おじさんに撮らせてよ」
「待ってくれませんか」
「脱いでる瞬間が欲しいんだよお」
「準備出来たら自分から、そっち行きます」
まあ、無理強いよりは恥じらいつつ自ら…という方がそそられるものだから。ひとまずドアノブから手を外す。
ややテントを張ったズボンをトランクスごと引っ掴んで、ぐいぐいと息子から引き剥がした。
肌が暗闇に浮かぶサマが好きなので、ベッドサイドのパネルをいじくり照明を変えておく。
蒼暗い照明、ブラックライト。
いかにもラブホテルっぽい演出になり、脱衣所から出てきた少年の顔が嫌悪に歪むのを期待して待機する。
「お待たせしました」
てっきりシャワーの水音の後に出てくるものだと思っていたので、不意打ちに焦ってデジカメを構えた。
…が、シャッターボタンに被せた指が硬直する。
「それ…キャットスーツ…か、なにか…?」
液晶がおかしいのか、デジカメを下げて肉眼で凝視する。
妙な紋様の入ったプレイスーツかと思った、そこまでサービスしてくれるなんて、やはりビッチ、と。
でもおかしい、紋様は頬にまで入っている、頭を覆うものは無いのに。
艶やかな黒髪はそのままに、肌という肌を黒い何かが包んでいた。
「光ってる…よね、ソレ」
「ええ」
ブラックライトの光を浴びて、これでもかと発光するそのライン。
頭の天辺から指の爪先まで、くっきりと裸の輪郭。ストッキング以上に滑らかな…そこまで精巧なスーツが、はたして有るのか?
心臓がドクドクしてくる、興奮?その割には下肢の息子が萎縮してきた。
「し…しっかし眼に痛いなぁ、照明の所為かなぁ?」
紛らわす様に発した声が、驚く程に震えている。
「消しても無駄ですよ」
自分の前につかつかと歩み寄ってくるその、夢見た少年の肢体は、皺も寄らない黒い紋様のスーツを纏っている。
骨っぽいが硬い筋肉は特に見えず、紋様の隙間から白い肌が覗いていた。
「だって、ライトの所為じゃないですから」
初めて少年の薄い微笑みを見た。
次の瞬間、眼の前に天井が在った。
「これは、俺の身体ですよ…“おじさん”」
一気に視界が流れて、気付けば床にひしゃげて突っ伏している自分。
転がっているデジカメを拾い上げる指先にも、黒い紋様が有る…
「ぅ、ウウ」
痛い、ようやく理解出来た。この少年に投げ飛ばされたのだ、上に向かって。
「誘われて、調子付きましたね、貴方……俺がどうせ訴える事も出来ない人間だと思って甘く見ていた…だって、痴漢に遭いながらもだんまりでしたからね」
身体を起こそうかと床に手を着いた瞬間、ぐいっと身体が浮いた。
脚だけ跪く様な体勢になって、頭皮はもげそうだ。
「いだだだだ!!」
「ふん……そもそも人間かどうか、怪しい訳ですけど…」
髪が数本抜けながらも、少年の片手で鷲掴みにされていた。
痛さと驚愕に、喚くしか出来ない。間違い無く、少年はスーツなんか着ていない。
「散々、俺の尻撫で回して…挙句に盗撮ですか」
「ちがっ、いだぁあーッ!!」
眼が金色にぼやけて光っている、猫の眼の様な双眸が此方を睨んでいる。
「犯罪…ですよね?」
「ひっ!!ひいいいいっ!!」
疑問を叫ぶ代わりに、身体が状態を示した。
下肢に何かが迸って、頭が真っ白に――





痴漢男の下半身がだらりと垂れている。
擬態を解いて鋭敏になった嗅覚を、程無くして突く臭気。
ベルトも無いだらしないスラックスの股座が、じっとり色を濃くしていた。
「――ッ、おまけに失禁しやがってっ!!」
咄嗟に横に放り投げると、加減が出来ていなかった所為か、随分と鈍い音がした。
壁紙に少しの血痕を残し、ぐったりと崩れ落ちている痴漢男。
俺は自分の手足を確認する、大丈夫、あの男の漏らしたものは付着していない。
右手指の僅かな脂っぽさは、髪を掴んだ時のものだろう。
気持ち悪くて、傍のベッドシーツで即座に拭う。
「気持ち悪い…気持ち悪いっ!」
放置されたままのPCに飛びつき、もどかしい手でマウスを握った。
全部、消してやる。中身をカラッポにしてやる。
(リカバリー領域…有った)
手順に従い、機械的なまでに、何のためらいも無く。
声も出せない人間達の絵は、この一瞬で消えるんだ。
「あ、ぁ゛〜ダメダメ、それやっちゃダメぇ」
壁際で呻く痴漢男の声を無視して、初期化を開始したPC。
液晶から眼を離して、今度はデジカメを弄る。
メモリは空にしてあったのか、とりあえず何も入っていない事が確認出来た。
「そういえば、携帯にも入ってますよね」
テーブル脇の、男の鞄を漁ってみれば出てくるソレ。
最先端のアレか、スマートフォンとかいう。
データさえ消せば…と思ったが、所有していない所為で扱いがイマイチ解からない。
「これで撮ってたんですか貴方」
這いずる痴漢男の襟首を掴んで、窓際に放った。
今度は髪の毛を掴まぬ様にしたが、掴んだシャツの襟首は薄汚れていた。駄目だ、結局気持ち悪い。
「キ、キキキミはな、何なの!?」
「質問に答えて下さい。コレで撮影して、俺の携帯パクって、わざわざデータ入れてくれたんですか?」
しゃがみこむ、一子纏わぬ俺の身体。ちょうど痴漢男の眼前に局部の暗がりが位置する、しかしもうお構いなしだ。
男の眼だって、それどころでは無いらしく彷徨い続けている。
「そ、そ…ぅ、だよ」
「…携帯って普通、撮影時に音がするものだと解釈してたんですけど」
「あ、あああれだよ、アプリでさぁ!マナーモードのカメラ版?みたいのがあってさぁ!」
「……音が出ない、って事ですか」
呆れた、何がマナーだ。
この端末の中に、どれだけ俺のデータが入っているかは定かではないが…
(こんなもので…散々…)
電車の中の空気が蘇る。恐怖からか、脂汗の滲む眼の前の男の臭い…残留するアンモニア臭。
沸々と胎の内側から煮えくり返る。
大丈夫…この男はそれほど失血していない。
やり過ぎたらディアをかければ良い、その為にアンクを呑んできたのだから。
「その撮影のモードまで、操作して下さいよ」
ひらひらと、男の顔前で端末を振る。
痛みと恐怖で、おどおどとした手振りを見て、酷く凶暴な心が疼く。
「早くしろっ!」
「ひィっ」
幾度か取り落としつつ、床に蹲ったまま端末操作する痴漢男。
ふるふると差し出してきたので、それを受け取れば液晶画面には向こう側の景色。
かなり鮮明に映し出されている…フラッシュをONにすれば、ボロボロの男がくっきり浮かび上がった。
「俺の尻…何回触ったんですか」
「え、えっ」
「俺のケツ何回触ったかって訊いてるんですよ!」
「お、おお憶えてない!な、何回か撮っても……さ、触った回数は、そんな、いやほとんど無いってっ!」
昨夜の記憶を辿る、俺の携帯に入れ込まれたデータは、遡って約一ヶ月分。
平日は通勤の行き来があるとする。約二十日間、触れられていなかったとしても、監視に近かった訳だ。
見せ付けて、アピールして、俺の嫌悪感を拝みたかったのだ…この男は。
「俺があの場でどうしようもない事、利用してっ」
「ううッ、う〜っ」
弾みもしないだらしない尻を蹴る、足の甲から腐りそうだが、我慢する。
「ほらっ、別に怖いなら泣き叫んだっていいんですよ!この部屋防音なんでしょう!?セキュリティ万全なんでしょう!?」
数回蹴り続けると、男は足腰も立たないのかよろよろと傍の自動販売機に縋った。
淫猥な物体ばかりが並ぶその装置は、良い塩梅に男の図体を照らしている。実に良いライティングだった。
「こんな密室なら、電車の中より余程優しいじゃないですか…ねえ」
端末の液晶に、痴漢男を映し込む。適当に指でタップすると、どうやら撮影されたらしい。
「漏らしてラブホテルに居る貴方の写真、この携帯のアドレス全員に一斉送信とか…」
男の眼の色が変わった、それがどうした。
「お、お願いですからぁ」
「…まあ、俺の携帯を盗ってソレをしなかった様子ですから…俺もそれは控えましょう」
「う、ううーも、もう許して」
そんな間怠っこしい事をする気にはなれなかった。他の人間を巻き込んではいけない…そこまで分別無い俺が嫌だ。
そう、そんな事よりも今は…

「まだ二十回蹴ってないですから」

誇示したい、畏怖させたい。おぞましい心が躍る。
タップしていた指が、液晶を貫いた。そのまま端末ごと発火させれば、酷く焦げ臭い。
無機物の燃え焦げる臭いに慣れないのは、ボルテクスで肉を燃やし過ぎた所為か。
「本当なら貴方を燃やしたいところですけど…」
恐怖を煽る、男の顔が歪む、俺の身体が騒ぐ、血の匂いが脳髄を刺激する。
眼を凝らすと、薄っすらと男から何かが滲み出ている…
(“マガツヒ”だろうか)
いつだったか、マネカタをぐちゃぐちゃに潰し焼き払った記憶が蘇る。
そうだ…あの時だって……俺は悪くない…冤罪…
今この瞬間だって、報復しているだけ、そう、それだけ。
悪魔の悲鳴よりも妙に耳障りな、人間の悲鳴。
肉声は、本能に抉り込んでくる。人の親が、子の泣き声に敏感なそれにも似て。
「はあっはぁっ」
時折ぴくぴくと節々を震わせて、痴漢男は呻きもしない。
何故か俺が息も絶え絶えで、足の甲も傷付いていない筈なのにヒリつく思いがした。
「はあ……っ…」
放り投げられた際に口内を切ったのか、男の口の周りは赤黒かった。
でも、こうして外面を見ている分には致命傷は無い。無い筈。
(適当に…ディアをすれば)
中肉中背の傍に膝を着き、息を止める。
殆ど使用した事の無い魔の脈動を感じて、手首を交差させた。
このマガタマに癒しの術が宿っているのは知っていたが、習得する意思も無かった。
自身は勝手に治癒する、仲魔に癒しの術をかけている暇なんて無い。
(悪魔の身体を癒して堪るか…)
それならば、八つ裂きにする力で身体を充たしたかった。
俺をこんな…悲惨な路に突き落とした悪魔め…堕天使め…
だから俺は、絶対に元の路に戻ってやる、人間に…
(人間に?)
指先に滴る光が零れ落ちる事も無く、停滞した。
ディアの効力は殆ど霧散し、止めていた息が唇を割った。
翳した腕の先、床で浅く息づく男は誰が打ちのめした?
コレは…人間だろ?
「う、ううっ」
この呻きは、痴漢男じゃない。自身の喉の奥からだ。
指先が震えた、ピクシーでさえ最初から使える術が、唱えられない。
「あっ、あああっ、お、俺は」
どうして、何故こんな事をしている。
呼吸困難、いや、ひょっとしたら呼吸は要らないのかもしれない、人修羅だから。
それでも欲しい、欲しいんだ。人間としての機能が、俺の精神を支えているのだから。
だというのに俺は!
(悪魔の力を利用して、人間を傷つけた)
この男と何処が違った?
電車で、データで、口封じして撫で回す人間。
密室で、暴力で、悲鳴させて恍惚としている悪魔。
(見たくない)
眼元を覆う指、相変わらず黒い斑紋。
そう、この為に俺は…擬態さえ解除して。
「殺してない…」
は、と我に返った。そうだ、殺していない、まだ逃れられる。
再び集中して、ディアの為に呼吸を落ち着けた。
そうだ、いくら仕返しとはいえ、殺そうとは思っていない。
この醜い力を、ほんの少しだけ…使ってやれと思っただけで。
あまりにも悲惨なのに、何も役得が無いのはおかしいだろう、と自分を嗜めて。
「どうして」
集中出来ていないのか、魔力が足りない筈は無い。たったディアの一回くらい。
何が足りない、何がおかしい、ディアは既に開放してあった…呑んでいれば唱えられた筈。
それとも俺のボルテクスの記憶が違っているのか?俺はこんな術すら使えなかったか?
「どうして治らないんだ…っ」
これが見える傷ならいっそ安堵出来たのに、この男がどれだけダメージを負っているのか素人の俺には判らなかった。
放置しては死ぬかもしれない、救急車を呼ぶ?まさか。
悪魔の血がさせた、だなんて…世迷い言と一笑されて、俺はこのままでは犯罪者。
痴漢されていた報復に、と訴えるか?
たった今さっき、俺がデータを全て消した、証拠は無いじゃないか。
「違う、違うこんな、ここまでするつもりじゃなくってっ…俺……俺はっ」
醒めてきた、次第に高揚が恐怖に変容していく心地。
悪魔から人間にスイッチが切り替わって、先刻まで芳醇に感じた血の薫りに、今は吐き気がする。
ともすれば死体にすら見える倒れたままの男、俺はその傍から慌てて離れ、もんどりうって床に突っ伏す。
俺がやってしまったなんて、認めたくない。
「ううっ、ぁ、わああああッ!!」
混乱している、錯乱している。自身の状態を理解しているからこそ、気が振れそうだった。
叫び散らしたって無意味だ、あのボルテクスの時に散々経験したじゃないか。
「悪魔に、悪魔にされたからで……」
この自身の叫びで鼓膜を叩いていなければ、発狂しそうだった。
困惑している、慟哭している。悪魔の身体に困惑している俺が居るという事実を、五感で認識していなければ。

「俺は…人殺しじゃない…」

嗚咽すら混じっている自身の声に、更に泣けてしまった。
時間の経過に焦りも諦観も抱けぬまま、呆然としていた時だった…
聴き慣れない音が部屋に響く。ただし、一般的には呼び鈴の類と思われる。
ちら、と倒れたままの襤褸雑巾の様な男を見た。失神したままの様子。
ルームサービスというやつだろうか…それとも、何か怪しまれた?
扉の近くにインターホンは確認出来たが、モニターは無い。こんな施設だし、それもそうかもしれない。
ラブホテルなんて初めて入ったので、サッパリ勝手が分からなかった。
(出るべきか?利用客が寝ている場合もあるだろう…放置したって多分平気…)
いや、何かを勘繰られて、廊下の監視カメラ等を確認されやしないだろうか。
最悪の事態をいくつも想定してしまう、その割には一直線に痴漢男を誘いだしてしまった自身を呪う。
ぶちのめしたい衝動を、抑え切れなかったんだ。
意を決して、用事は無い事だけ伝えようとインターホンに近付く。
そういえば、野郎二人で入室した事は認識されているのだろうか、あまりに恥だ…
「…はい」
出来るだけ落ち着いた声音で、ボタンを押して返答する。
外側と通じている証拠に、濁った空気の音がスピーカーから排出され始める。
《お客様、御注文のサービス品をお届けに上がりました》
何か頼んであったのか、それともホテルの無差別なサービスか。
「要らないので、そのままお引取り下さい」
《宜しいのですか?とても好評なお香のセットですよ》
そういう物品なら、最初から部屋に置いておけば良いじゃないか。
平静で居られないあまりに、悪態が口から飛び出しそうで深呼吸する。
「…要りませんから」
《そうですか…》
ようやく応酬が終わった、とインターホンをOFFにしようとした瞬間。
引き下がる挨拶でもするのかと思っていた声が、おかしな単語を吐いた。
《折角の反魂香なのに》
反射的に室内扉を開き、ロックを解除して重めの扉を開く。
最後の声だけニュアンスが違う、スピーカーを通されてたって判る。
俺を哀れむ様な、馬鹿にする様な、あの声。

「ライドウっ!!」

開いた先、従業員らしき恰好の人間女性が佇んでいた。
が、その眼が俺を見て哂う。
「お客様、その様な姿では寒いでしょう。テラピーもサービスしておりますので、宜しければ中に入れて頂けますか?」
は、と自身を見下ろせば、斑紋姿のままの全裸。
内開きなので、扉の外に出る羽目にならず助かった。
(ライドウと呼んでも、首すら傾げなかった)
確信しつつ、従業員モドキを部屋に引き込んだ。
俺の露出が今更気になって、かといって咄嗟に覆うのも躊躇われて、視線を逸らし身を捩る。
にっこりとした従業員に、羞恥を紛らわす様に睨み付けながら問い詰めた。
「どういう術だ…」
「お客様、当ホテルは清潔感が第一と心がけ、ベッドには髪の毛一本さえも残さぬ様気を付けて御座います」
「あんた、ライドウなんだろっ!?さっさと解けよ!」
「そう、たった髪の毛一本さえ、擬態には充分…」
空気が揺らぐ、従業員の制服が影の様に黒ずんでいく。
それも魔力の造形なのか?最早、魔法で何もかも説明出来そうな世の中が信用出来ない。
適当な従業員の髪を拾って、擬態したとでも云うのか。
「そして、この時代の東京においてはその一本でDNA鑑定も可能…だろう?功刀君」
「…どうして此処が分かった」
「だってねえ?魔具の必要が無いとあんなに強く訴えられては、おかしいと思わぬ方がおかしい」
そうだった…破壊衝動のあまり、昨夜は身体の魔具を外す事に躍起になっていた。
ライドウにそれを依頼する事が、どれだけ怪しい挙動かすら認識出来ていなかったのか。
どれだけ沸騰していたんだ…俺は。
「だから云ったろう?強い力を巧く制御…発露出来ぬ奴は、自滅するとね」
ライドウが手に提げたバスケットには、間違い無く反魂香が顔を覗かせていた。
俺がこの部屋の中で、何をしていたのかもお見通しだったらしい。
「いつもいつも、付け回しやがって…」
「まだ君に倒れられるのは、僕としても本意では無い。今回の様子ではどうも対象が“人間”らしかったのでね、これは…放置しては不味いだろうと思ってねえ…ククッ」
バスケットから反魂香をするりと抜き出し、ベッドサイドに置くライドウ。
室内をぐるりと見渡し、最後にぐったりした痴漢男に眼を落とした。
「どれ程放置した?」
「…十分」
「フフ、適当を云ったろう?入室時刻から逆算し、君とこの中年男性がだらだらと睦いでいたとも考え難い。入室十分後には暴行したね」
「…知ってるなら訊くんじゃねえよ…」
何を云っても云い逃れになり、首を絞める。
倒れ込んだ男に軽く触れ状態を確認しているライドウ、その黒い背中を俺はぼんやり見ていた。
初期化の終了したPCの液晶が、暗い部屋で同じくぼんやりと輝いている。
「肋骨は数本折れてるね…この様子だと血胸になっている可能性が高い」
「け、けっきょう…?」
「程度までは判らぬが…頻脈気味、顔面蒼白…失血性のショック症状が出てきているかな?」
意識の無いその肉を、ぐっと持ち上げるライドウ。出来るだけ男性の体勢を崩さぬ様に、脚を踏縛っていた。
苦しげも無くベッドに横たえると、人間一人の重量で軋む音がした。
「ま、仰向けにして血流を促しても、臀部の欠損に響くだろうが…ねえ?功刀君」
ニタリと俺を振り返る横顔、あの痴漢男の何処を攻撃したのか把握されている…
「手っ取り早く反魂香で魂魄は繋ぎとめ、肉体治癒の強制促進を回復術で行う」
胸元の管を抜き、召喚されたのはパールヴァティ。
そういえば、自身の使役する悪魔で最後に見たのはサティだった気がする。
悪魔の差を見せ付けられたかと一瞬思ったが、ライドウが扱えば低級の悪魔さえ有効活用されている。
いや、褒めている訳ではない。
『あら、お久しぶりですわライドウ様』
「最近怪我のひとつも無くてね、温い世界さ」
『一体どういう状況ですの?何やら淫猥な空気のお部屋…』
「残念ながら、複数淫行では無いよ」
『あらあら本当残念ですわ』
ライドウの使役する悪魔達は、何処か生き生きとしている。俺以上に。
『で、誰が怪我をしているんですの?其処の斑紋の…人修羅?』
「怪我している風に見えるのか?」
『肛門、直腸の裂傷だとか…』
「だから、“プレイ”には及んで無いと云ったろう?クク」
俺を馬鹿にしていると、途中から気付いた。
確かそうだ、男同士は其処を使うんだ…あやふやな知識が脳裏を過ぎる。
「ふざけるなっ!誰がそんな事するか!」
叫ぶと、何故か不思議そうな顔をしたパールヴァティ。
どうしてだ、俺がホモだと勘違いしているのだろうか。
「パールヴァティ、彼はボルテクスの記憶が少し抜けていてね」
『…あらあらまあまあ、それは…美味しいですわね』
「美味しい?」
『初めてを二度も味わえるなんて、お得ですわ』
鼻で哂うライドウ、俺は意味も解からず遠巻きに奴等を眺めるだけで。
「成る程…ククッ、それが彼にとって幸か不幸か…決めるのは僕等でも無いがね」
『あら、愉しいんでないですの?』
「早くディアラマを唱え給え、対象は判っているのだろう?」
ライドウが、哂いながら急かした。
ベールを白い手でふんわりと退け、ベッドを覗き込むパールヴァティ。
風で扇がれる様に、白い薄布が舞う。ベッド上の男性も、魔力に扇がれゆっくりと反転してシーツに皺を寄せた。
『あらまあ、これは酷いスパンキングをされておりますのね、可哀想な変態さん』
もう、耳が痛い。
脱衣所に置いたままの着衣を取りに、俺はその場から逃げるべく素足で駆け出す。
と、背中にぴしゃりと刺す声音。
「功刀君、ロビーに野良のサキュバスが居る。連れてき給え」
「どうして俺が…!」
下着に脚を通しつつ、怒鳴り返す。
いくら畏怖させたかったとはいえ、全裸になる必要が有ったのか?服を纏いながら後悔ばかりが押し寄せる。
「この男性を暴行の後、回復させたとして…どう説明するつもりだったのだい?」
「それ、は…」
「少しばかり調査したがね。此処の監視カメラは、ロビーや廊下を撮影している、記録保存期間は一週間。つまり先一週間、このホテルに妙な事が発生し、警察が立ち入らぬ限りは其処から足は着かない」
「…この後、俺が一人でロビーに行くまで映るのは――」
「普通にしていれば大丈夫だろう?挙動不審だったり、擬態が解けない限りは気にも留められぬさ」
「どうやってサキュバスに話し掛けるんだよ、悪魔が視えない人間にとっては怪しいだろ……その、俺が独り言云ってる奴に見える」
「目配せのひとつも出来ぬのかい?中年男性は誘えて女性悪魔は誘えぬと?」
「…っ」
香を焚き始めるライドウ。生きている者にとっては、少し咽そうな濃い煙が室内を漂っては、消える。
ベッドに脚を組んで腰掛け、パールヴァティの処置に背を向けたまま…哂って俺を嗾ける。
シーツの白の上、鮮烈な黒の外套がゆったりと侵食して垂れていた。
「カメラの記録を万が一見られようが、この男性が“君とナニをした”という仮初の記憶を持てば問題無い、そうだろう?」
「…んなもん、どうやって」
「サキュバスに見せてもらうのだよ、夢からの暗示をかける」
「俺が消したデータとか、その人の…携帯とかはどう説明したら…」
「一夜を過ごす代わりに、記録の消失を依頼した…そういう物語は如何かな?」
さらりと提案しやがった、どんな悪趣味な物語だ。
何か、名刺の様な物をヒラヒラさせながら唇を歪めて哂うライドウ。
「お、俺がその痴漢野郎と…や、ヤったって事実を作れって云うのか、あんたは!!」
「そうだよ?君が徹底した魅了を使えぬのだから、其処の肩代わりをサキュバスにしてもらうのさ……しっかりMAGをくれてやるのだよ?」
「違う!サキュバスへの対価はこの際くれてやってもいい、けどな!どうしてそんな恥ずかしい方法を…っ」
「恥ずかしい?何を云っているのだい君は」
ディアラマを施し、男の血を拭っていたパールヴァティがライドウの隣に舞い降りる。
『ライドウ様、あと少し寝かせれば身体は元に戻りますわ』
「御苦労」
『人修羅の坊やにとっては、恥ずかしい事と思いますわよ』
「興奮のち混乱して、他者に縋る方が余程の恥と思うがね」
『うふふ、はいはい…愉しんでらっしゃるのに』
「知れているなら傍観してい給え、僕の興が醒めぬうちにね」
『承知しましたわ』
管をす、と翳して女神を消したライドウ。
温かみの有る光は消えて、ブラックライトの蒼暗い空気と、香の煙だけになった。
薄い足袋の足先をすらりと伸ばし、脚を組み直すライドウ。
何時の間に脱いでいたんだ、その踵に靴のヒールが無くて違和感を感じている俺はおかしい。
「人修羅の姿を見せた相手が悪魔なら、迷いも無く殺せるのだろう?それがどうだい、相手が人間というだけでこの始末さ、功刀君」
「……辱められて、いい加減腹立った、から」
「辱め?痴漢に遭った程度で悪魔の力を発露かい?相当有効活用しているではないか、その力…ククッ」
「笑い事かよ!身体触られて、盗撮されて…っ…気持ち悪い…俺の立場にもなってみやがれ――」
叫び返した瞬間、腰掛けていた筈のライドウが眼の前に居た。

「尻拭いも殺人も出来ぬのならば、最初から誘い込むでないよ」

冷たい声が、耳元に囁く。
硬い床が背にあった、押し倒されている。気持ち悪さは…無かった。
「本当の辱めさえ知らぬ癖に、一人前の様に狩場に誘い出して」
怒っている?それなら最初から怒気が露わになっていてもおかしくないだろ。
このタイミングで突然眼が俺を睨んだ事が、理解出来ずに…少しだけ、脚が震えた。
「な…ん、だよ…本当の辱めって」
「云わせたいのかい?生意気だね」
「違――ッ」
胸元に痛みが迸る、金属の感触。また乳首に噛まされている。
魔具が斑紋をじわじわと、身体の奥底に引き込み始める…魔力が抑え込まれる感覚…
ついでの様に、ライドウの爪先が脹らんだ其処を摘む。
「ぁ…いッ……つ、爪…」
「手を汚す覚悟も無いなら力を振るうで無いよ、悪魔」
「……退けっ…っ!!」
三箇所に噛まされたのを確認してから、ライドウを突き飛ばした。
結局コレに頼る俺、だって、今は不安だった。自制心だけで力を抑え込む事に、自信を失いそうで。
ライドウの身体を除けれても、「悪魔」という言葉を除けれなかった。
そうだ…昨晩からずっと、後先も考えずにただただ力を行使して、ぶちのめす衝動に駆られていた。
カグツチも無い、月だって円くないのに。
こんな感情…間違い無く…
(いいや、まだ違う)
もう今後、ただの人間に悪魔の力を振るわない…
これを最初で最後にすれば、まだ許される。
「逃げるのかい?」
「…サキュバス、連れて来る」
はだけた服を整えてから、深呼吸をひとつして部屋を出た。





一体どうしたっけなあ。なんだか…ふわふわする…
まるでそういうクスリでもやっていたみたいな、妙な多幸感に包まれていた。
あんなにも撮る事に執着していたのに、どうして対象そのものを得ようとしたのか…
(誘われて…ヤって…?その代わりデータを消して…?)
おかしいな、別に少年趣味という程でも無かったのに。
「お疲れの様子ですから、先に退室しますね」とか何とか云い残して、あの子だけで帰ったのだっけ?
PCなんか初期化してあるし、デジカメに差してあるメモリも空っぽ。
記憶を遡ろうと思って、携帯を探れば見当たらないし…紛失届けは面倒だ。
どうしようか、まだ全部のデータを依頼主に送っていなかったのに。
「やっちゃったなあー…」
スイートルームで独りごちる。なんだかケツが痛い気もする、シモンズのベッドなのに。
しかし潔癖に見えて結構なビッチというか、テクニックだった…
そうだ、だから腰がこんな砕けたみたいにじんわり痛いのか。
「いちち」
どこかギクシャクした身体で立ち上がり、伸びをする。ツンと香の様な匂いが鼻を突く。
いや、なんかちょっと違う臭いも…?
下肢を見れば、じんわり濡れている股座。
呆然と、だらしない腹越しに覗き込んでは思い出そうとする自分。
んん…そういえば…脱ぐ前になんか凄い事されて漏らした気が…しないでもない。
(そんでもってどうしてまたズボン穿いてるんだっけ?着衣でシたっけ?自分ってそういう趣味だっけ?)
本当にあの少年が居たのかすら、怪しくなってくる勢いだ。
…まあいい。またあの時間帯の電車に乗れば、存在確認は出来るんだ。
二度目は無い、という風だったが…電車でまた自分に遭うとか、考えないのだろうか?迂闊な子。
なぁに、今度こそ惚けてないで、しっかりセミヌード撮って…それは私物化して…
外で撮ったマトモな尾行写真だけは、ちゃんと依頼主に送れば良い。





「そろそろ衣替えだね」
人修羅の胸元に、指を這わせて囁く。
「…それが、何だ」
「シャツになったら、コレが薄っすらと見え隠れしやしまいかと思ってね」
「インナー着る、その心配は必要無い」
「この魔具の…妙な凹凸を乳首と勘違いされないかな?」
「うるさ――」
きゅ、と抓りながら、少し開いたピアスの孔をMAGで塞ぐように流す。
ただ、じっと奥歯を食い縛って。人修羅は今日も施される魔具に耳を染めていた。
「ほら、黙ってい給え」
「…ふ」
「呪力をねえ、毎日塗り替えねば。力が薄まり外れ易くなっていては、また衝動的に引き千切ってしまうのだからねえ…君」
「い…つまで、弄ってる」
「硬くなった方がハメ易いだろう?」
「はぁ……っ……クズ野郎」
「“クズノハ”だよ、いい加減覚え給え」
敏感な身体、堪えた声が嚥下されてゆく白い喉元が悩ましい。
眼鏡越しに睨んでくる眼は、金とは違う。普通の人間の眼をしている。
「はい、おしまい」
仕上げに、脇腹の窪みに沿って指を滑らせる。とん、と突き放してやれば、よろりとたたらを踏む人修羅。
急いた手付きでシャツの釦を留め始めるが、慌てた所為か段を違えて、また外しては留め直していた。
「続きが欲しい?」
「そもそも続きの意味が分からない」
「サキュバスが見せた夢の様な内容さ」
「ふざけるな」
「今日も学校?御苦労様」
シャツの上に学ランを着込むと、鞄の肩紐を掴む人修羅。平凡な一学生の姿になった。
「あんたに送り出されるとか、反吐が出る」
「人間の振りして暮らし続けるなんて、君は余程のマゾヒストだね」
「あんたこそ、人と悪魔の区別ついてるのか怪しいな」
「そうだね、中途半端な君ばかり見ているので最近眼が濁ってきたよ」
述べた瞬間、部屋から出ようとしていた人修羅が腕を振り被った。
す、と首を傾げてそれを避ける僕の背後で、猫の鳴き声がフギャッとした。
「人間ごっこに、今日も行ってらっしゃい功刀君」
「誰が行ってきますとか云うかよ、この……」
言葉尻を噛み潰して、一瞬眼を彷徨わせていた。
毎日云われていたし、答えていたのだろう。母親というものにでも。
逃げる様に踵を返し、階段を下る足音がたどたどしく響いた。
『まったく…最近あやつ、手癖も悪いな』
彼が箪笥上から掴み放った時計は、僕の背後でゴウトを直撃していた。
受け止めれば、背後への被害は無いと認識していたものの…残念。
死なぬ程度と判断したなら、僕は童子を庇うなどしない。
日なたで惚けていたところへの一撃、なかなか良い鳴き声が聴けて寧ろ人修羅に感謝したいくらいだ。
『また勝手に人修羅宛ての電子文を見ているのか?』
「人修羅は見ても構わぬと云っておりますよ童子」
『奴はこの世界ではただの学生…』
「僕とて書生に御座いますが」
『お主は例外ぞ』
「これはまた都合の宜しい事で」
『…で、何だ…先日の人修羅は魔具を外して何かしでかしたのか?』
ゴウト童子も、それなりに人修羅を気に掛けているのか。
まあ、それも仕方の無い話だ。人修羅…もといボルテクス界の件は、ヤタガラスの認可の下で行なっている事。
僕の動き方が今回はいつにも増して特殊で、苛立っているに違いない。
その畜生の身体に、硬貨大の禿でも出来ているだろうか?
『おい、何だ』
ニヤニヤと哂いを堪えきれずに、黒猫を膝上に乗せてみた。
指で探る…とりあえずは無い様子。
「人修羅は通学中の痴漢への報復に、悪魔の力を利用しまして」
『…は、簡潔過ぎて最早突っ込めぬが。して、殺したのか?その痴漢とやらを』
「いえ、生かして候」
『おいおい、人修羅としての姿を見たのだろう?口封じしてあるのか?また電車にて邂逅せぬのか?それこそ今日にも…』
「御安心を童子。夢魔にて催眠を施し、暴行の記憶は淫行に書き換えてあります。実は写真も撮られていたのですが、手の出せる範疇では削除済み」
『淫行?それこそ二度三度と…要求されるだろうて』
「フフ…ぬかりは無いですよ、此方を御覧下さいまし」
管ホルスターの裏、潰れた煙草の箱が忍ばせてある方とは逆の胸。
名刺入れを取り出し、一番上のそれをチラつかせる。
『何だそれは』
「その痴漢男の所有していた名刺に御座います」
反射的に童子の黒い尾がゆらゆらと漂い、少し煩い。
翡翠の眼がじりじりと名刺に吸い込まれ、瞳孔がフォーカスを合わせる。
『……探偵?』
「ええ、まさかの同業者ですよ」
『どういう事だ…』
「普段から盗撮や痴漢の常習犯という風はありましたね。紛れての接触や撮影の技術は、仕事で培われたものかと」
『調査対象…に、過去も手を出していたのか』
「そういう事です、今回人修羅は何者かの依頼にて調査されていた…その“ついで”です、痴漢は」
『ついでと知れば、人修羅の奴…更に激昂するだろうな…やれやれ』
名刺に記された探偵社の名前を指で撫ぞりつつ、童子の尾を手の甲で払った。
フーッと少し立腹されたので、パソコンの椅子でくるりと寝台の側を向き、黒猫を逃す。
「ま、今回この探偵社には僕から遣いを出しておきましたので。調査対象に痴漢行為を働いているとね…耳打ちという奴ですよ。盗撮は身辺調査において灰色ですが、これは云い逃れも難しいでしょう」
『だからかお主…今朝方、柄の悪いヨシツネを擬態させておったのは。それは耳打ちと云わん、脅迫だ』
「童子、鳴海所長より佐竹さんが来た方が物騒でしょう?外見は大事ですよ」
『…しかし、調査と云ってもどの程度だ?この家も張り込まれてはおるまいか』
「慌てずとも、既に依頼者は特定済みに御座います」
『は…?』
椅子に掛けた外套の衣嚢に手を突っ込み、画面に穴が開いた端末を取り出した。
所謂、液晶という面がバリバリに砕けている。
『それは何だ。文明の利器とは推測出来るが、恐らくゴミ同然の状態だろう』
「然様、先程述べた痴漢男もとい調査者の私物に御座いますが、人修羅が感情に任せて破壊した結果です」
『……人修羅は、工具や銃など所持してないよな、確か。いや、その貫通の具合からして指でも突っ込んだのか…恐ろしい奴よ』
「ここまで破損していると、内部の記録を抜く事は難しいそうですね、おまけに焦げている。しかし写真は別の記録部品に保存されている…この本体の外部損傷はほぼ無関係」
『…で、そのゴミの中を観たのか?』
「ええ、童子も御覧になります?もう此方の大きな画面で見れますよ、移しましたので」
『さっぱり訳が分からん…一体何時の間に遊んでおる?あまりにこの世界の玩具に慣れると大正に戻った際、渇望に暮れるぞ』
「フフ、それは有るかもしれませんね」
パソコンの画面は、寝台のシーツ上からもよく見えるだろう。
見たところで、感動も糞も無い画な訳だが。
ずらずらと映し出されるのは、中年男が跪いて失禁している姿。
「如何に御座いますか、童子」
『如何も何も、この趣味の悪い写真達では依頼者は特定出来ぬ…何だこれは』
「恐らく人修羅が怒りに任せて撮影したのでしょう、良い趣味ですね」
『…錯乱すると相当まずい奴だな、もしかするとライドウ、お主より危険だな』
「失敬な、では更に遡ってみせましょう………」
スライドショウを回す、盗撮された人修羅の遠い横顔が一瞬眼につく。
そう、ボルテクスの時もこんな具合の距離。遠くから眺めていた、彼の苦悩と咆哮と…激しい憎悪を。
僕の視線には、いつから気付いたのだろうか…
「ほら、この写真の面子、見憶えは御座いません?」
辿り着いたのは、電車では非ず。背景が妙に白い写真…人の影が見える。
その中に…遠巻きだが、此方側へと視線を向けている人修羅の姿。
やがて、黙りこくっていた童子が髯を小さく震わせた。
『手前の人影二名は、コトワリの指導者……人修羅の友人では無いのか。視線の様子から、隠して撮った訳ではなさそうだが』
「その通り、僕等にとっては悪魔と化した彼等の姿の方が印象強いですがね。…そう、新田と橘ですね」
『…この写真は誰が撮ったのだ……背景は、病室に見えるが』
「この視点は寝台に寝た時のソレと合致する」
『…?痴漢の男の見舞いに奴等が行ったのか?知人でも無いだろう?』
「童子、僕等も依頼者からまず差し出される資料が有るでしょう?」
翡翠の双眸が光っている、それとなく察したのか。
「これは、人修羅の身辺調査を依頼した者が撮影した写真です」
『調査資料として、痴漢男…じゃない、調査者に渡したのか』
「対象である人修羅が痴漢行為まで働かれているとは…依頼者も認知していない可能性が高いですがね…クク…ああ、おかしい」
スライドショウを跳ね除ける様に、割り込んで入ってくる情報。
こんなに氾濫していては、未来人は忙しないだろう。
「ほら童子……早速お目見えしましたよ…狂信者が」




--新しいメールが届いています



こんにちは矢代君。
先日はどうしたの?進路指導室に来なかったそうですね。
真面目な貴方にしては珍しいので、事故にでも遭ったかと心配でした。
でも、学校からもそういった連絡は来ていないので、ひとまず貴方がサボタージュしたのだと解釈します。
焦らせようという気持ちは無いのですが…まだ指針が決まっていない生徒が居ると、先生もそわそわするのが本音です。

先生は昔から見る夢があって、其処には繰り返し同じ顔が現れるの。
お告げとか、少しカルトが入ってしまうかしら?気持ち悪かったなら、ごめんなさいね。
夢で、いつも私を救い出してくれるその顔を、常に思い描いて生きてきたの。
今、何かの為に生きれているのかしら?そういうものを見つければ、路がおのずと見えてくると思います。
それがどんな路でも、応援しています。


PS・先日のメール、追記が途中で送信してしまったみたい、うっかりしていますね(新田君辺りは許してくれそうだけど)
  面倒臭そうな顔以外も、もっともっと見ていたいです。
  折角だから、ついでに教えてしまいましょう。先生はよく貴方をじろじろ見つめてしまいますが…
  矢代君は、さっき挙げた夢の中の私の救世主と、本当に同じ顔をしているのです。
  どんな表情だって、遠目だって、憧れの存在を眼の前に出来る気分で…
  そう、写真だって構わない、いくらでも身近に感じたいのです。
  だから、世界の終わる瞬間にも見ていたい気持ちです。


  気味悪い、と今眉を顰めたわね?
  そういう顔だって、私には救いなのです。





支離滅裂・了

* あとがき*
おっさんをラブホでボコして自己嫌悪という悲惨な回。 ライドウの方が最近マトモに見えますね。
結局縋れる相手はライドウしか居ない状態なのです。
そして祐子先生のメールでぞわり。先生や他の面子の挙動が怪しくなっていく前兆。
スマートフォン持ってないので描写は適当です、すいません。SDカード…?というくらい機械オンチです。

タイトルは尻滅裂、そういう事であります。