御留ロードハンティング・前編



「何よ、その不服そうな顔」
「…別に店を案内してくれとは云って無い」
「どうせ休日なんて、普段はバイトしかしてないんでしょう?良い気晴らしじゃない」
「バイトの方が気楽だし、金も入る」
「もっとニヤけてみたらどう、両手に花よ?」
さらりと云ってのける橘は、自然な所作でティーカップに口を付ける。
洋館の一室みたいな喫茶内、浮かない彼女は少し堅気から外れていると思う。
「橘さんやめなって、功刀君困ってる」
「此処は私のおごりなんだから、相槌くらいは見せて欲しいわよ」
「ごめんね功刀君、その、此処出たらサンシャイン行って良いからね?」
橘千晶と…もう一人、同じクラスの女子だ。名前は何だったか…
いや、どうせこの後すぐに別れる、気にしなくても良い。
「はあ、そうさせて貰いますよ」
「ごめんねごめんね、でも良いお店でしょ?」
「……まあ、接客とか丁寧ですよね」
実際雰囲気の有る空間造りに成功している店だと思う。
客のイメージに合わせてカップを選んでくれるサービスとか。
そのカップだって、無銘では無い。
「お嬢様気分になれるでしょ!?」
「いや、俺は男なんで…」
「じゃあ直球で執事なんてどう?功刀君清潔感あるから、これ系の恰好似合うでしょ?ねえねえ今度着てみない!?」
「裏方で結構です…」
暴走を始める女子、今度は自分が困らせているとは思わないのだろうか。
その隣で、天使柄のカップをソーサーに置いた橘がまたしても平然と述べる。
「はー…家みたいで落ち着くわー此処」
「んもう橘さんてば!一般的な人間は此処でのチヤホヤ感に傾倒するんだってばあ」
「そうなの?ま、確かに家はハウスキーパー雇ってはいるけど執事は居ないわね」
「それが普通なの!お嬢様とかお坊ちゃまとか旦那様とか、そんなの日本じゃ二次元しか無いって!ねー功刀君!?」
そのお嬢様気分を崩さぬ様にだろうか、必死に興奮を抑えた女子が俺に同意を求めてきた。
「そんな事云われても」と、適当にあしらうつもりが…暫く沈黙してしまう。
悩む俺に気付いたのか、執事が橘に紅茶の替えを訊き始める。
流れで隣席の女子も参加し、憧れの執事とやり取りが出来てご満悦の様子。
その助け舟に内心感謝しつつ、俺も紅茶を啜った。
「そうそう功刀君“先日は剣道の助っ人、有難う”って紺野さんに御礼云っておいて頂戴ね」
「…助っ人?」
「あら聞いてないの?ウチの学校の剣道部、人手不足だから紺野さんに埋め合わせ頼んだのよ」
「何時の間に…そんな…っていうか、どうしてあいつと交流が有るんだよ」
「新田君と話してたのよ、貴方の連れが相手校の剣道部主将に似てるって」
「それだけで勧誘したのか?」
「ドンピシャ、凄い手練れだったらしいわよ」
当たり前だ、あの男が普段持つ得物は、竹刀でも木刀でも無い。
本当に、俺の肉を切り刻む…そんな得物を提げているのだから。
「功刀君のソレ…良いわね、割としっくりきてるわ」
向かいに座る橘が、俺の手元を見て眼を細める。
俺に用意されたカップは、白磁に黒いラインが流動的に奔るデザインで…
余計な事を考えなければ、それはそれは綺麗な食器だった。




「ふうん、本当に最近は二次元的な通りになっていたのね」
「橘さんも漫画読むでしょ?好きなキャラの男女比ってどうなの!?」
「そんなの憶えていないわよ、それに漫画より洋画の方が好きだもの」
「格好良い男性キャラばっか出てくる方が良いでしょ?とっておきの創作本が有るのよこれがー!」
「ふうん」
執事喫茶を抜け、外の空気にようやく深呼吸をしようとすればこの暴走っぷり。
橘が大抵の事に動じないタイプだからか、一方の女子がエスカレートするばかりだ。
少し後ろを歩いていても会話は聴こえるが、聴いていても俺には意味不明。
池袋に用事が有るだなんて、云わなければ良かった。

 「カップから拘ってる、新しいタイプの喫茶店が有るらしいのよ」

との橘の言葉に釣られてしまった己を呪う。
拘りを感じる飲食店と云われると、どうも昔から浮足立って吸い寄せられる。
将来の為の勉強…だとか、最早成り得ないのに。舌も半分死んでいるのに。

 「あの辺に関して詳しい子が居るから、明日案内して貰う?実は私も縁が無くてね」

橘と二人きりだと誤解される事がしばしば有ったので、その提案には賛成した。
俺も橘も、そういう誤解に対して笑顔になれない。
しかし今日という日を迎えてみれば、先刻云われた「両手に花」という表現は1ミリも浮かばない程に…
「俺、この辺で」
振り返る橘とクラスの女子、こうして背後から見ると身長差が激しい。
交互に顔を見ようとすると、視界を揺さぶられる。
「そう、私はもう少しこの子と居るかしらね」
「それじゃあ功刀君、三年のクラス展で執事喫茶やったら宜しくね!」
「あら駄目よ、このヒト無愛想だもの」
「そういうのはツンデレ執事〜って云って、萌える人沢山居るから大丈夫よ橘さん」
「変なの、一般店舗ならクレームものよ」
キリが無い上に、何か更に巻き込まれそうなので足早に立ち去る。
妙な看板が並ぶ通りに背を向ければ、あっという間に到着した背の高いビル。
思えば、ボルテクスの時にしか訪れた事が無かった。
地下道入口を抜け、アルパを通過しようとすれば…頭上に開ける視界。
聴き慣れない水音はどうしてか。見慣れない水の流動はどうしてか。
ざあざあと跳ねる飛沫は、赤くない。一定間隔で揺らぐ水面には、泥山と襤褸の山も無い。
(いや…違う、マネカタだったっけか…あの山は)
立ち昇っていた赤い飛沫が脳裏に過る、それを頭を振って掻き消す。
マントラ本営…じわじわと思い出せば、良い記憶など一つも無い場所だった。
そもそもボルテクスに、良い記憶なんか無い。
さっさと通り抜けてしまおうと、モザイクタイルの前を歩く。
薄着になってきた人混みは、真冬に比べて圧迫感が無いから幾分かマシだ。
(構造が少し違う…いや、印象が違うからそう感じるだけか?)
上階へのエレベーターを案内図で探せば、どうやら少し引き返す必要が有る。
と、踵を返そうとした俺の視界の端に、赤色が一瞬揺れた。
噴水広場手前のエスカレーターで上がりきったその色が、俺の脚を吸い寄せる。
どうしてか、よく分からない、それでも追ってしまう。
背格好は?髪色は?何か背中に背負っていなかったか?
自動で動く段に、片脚を乗せたその瞬間。
「三階止まりだよ、其れ」
声音の冷やかさと、肩に置かれた指の白さ…
まじまじと見なくても判る事が、俺を虚しくさせる。
「早く退き給えよ、通行人の邪魔だろう?」
「どうしてあんたが此処に居るんだよ」
エスカレーターの前から、場所を通路に移す。
何故かついて来る黒い外套は、ニタリとしつつ返してきた。
「五十九階のレストランで待ち合わせをしていてね」
「はあ、奇遇だな…俺も五十九階に用事が有る」
「先刻は何か追っていたのかい」
「別に…」
「知っているかい、興味の対象物を追って迷子になる悪魔はね、大抵が子供姿の幼稚な連中ばかりなのさ」
並走したい訳ではない、しかし道のりは同じ…
エレベーターに真っ先に乗り込んで【閉】ボタンを押してやろうか寸前まで迷って、止めた。
閉まる前に、刀の鞘でも突っ掛けてきそうだったから。
「待ち合わせって……誰とだよ」
ボタンを押して、自然と扉が閉まるのを待つ。
…そういえば、ボルテクスの時は閉開ボタンを押さない限り扉は動かなかった気もする。
新田にそんな事を述べた記憶が有る、状況は忘れてしまったけれど。
「フフ、誰だと思う?」
「知るかよ…考えても無駄だから訊いたんだ」
ゆっくりと閉まる扉。此処は密室の箱になり、しばらくして重力の変動を感じる程になった。
「実に久しい、マントラでは動く階段と此れがお気に入りでね」
「あんたこそガキだろ」
相変わらずのコスプレ野郎、いつまで外套を羽織っているつもりなんだ?
そろそろ外気は暑いくらいだ、人間だと自称するこの男には厳しい筈なのに。
暑いといえば、マントラ本営内…いつも、生温かった。
悪魔達の態度が…では無い。空気?湿度の様な何かが。
「悪魔と乗り合わせた事は有るかい?」
「…数回」
「この狭い中、一体どの様に応戦したのか見てみたかったね」
「やりあうのが前提かよ」
「決闘裁判を見たマントラの悪魔ならば、君を畏怖するか征服したくなるか…二つに一つと思うがね」
上の階までの長い暇を、どうでも良い昔話で潰している。
実際、やり合って決着がつく頃に扉が開く…といった具合だった当時。
「迷惑な奴等だった」
「あの場では君こそが異端だったのさ」
「オニが複数で乗り込もうとしてきた時は、流石に同乗する気になれなかったけどな」
「へえ、追っ払った?」
「適当に、ファイアブレスで遠ざけて…焔を出しきったと同時に、扉閉めた」
明らかに、俺を甚振る為に乗り込もうとしていただろ…オニ共。
あんな連中、絶対乗せて堪るか。身動きもままならぬ状態で、複数相手が危険な事は俺だって解る。
「…何哂ってんだよ」
「ククッ……何故この箱にオニ達を押し込めて、外からブレスを吐かなかったのだろうと思ってね」
肩を揺らしつつ述べたライドウの残忍な台詞に、一瞬唖然とする。
だが次の瞬間、自身の口から出た言葉は…
「そうしてやれば良かった」
まるで他人の声の様に聴こえた、こんな返答。
悪魔の様な男に、同意しながら失笑混じりに。
改めて気付いた俺は、あまりの恥ずかしさといたたまれなさに沈黙せざるを得なくなる。
「だって、そうだろう功刀君」
俯く俺の視界に、黒革の尖った靴先が侵入する。
「君は常に、悪魔を屠る術を模索しなくてはならない…生存率を上げる為にね、そういう世界だった」
「…あんたが居なければ、もう少し楽だった」
「無謀に突っ込んだ君を、幾度か助けてやったろう?君はしつこくヒトである事に縋るものだから、人間に認められたくて…此処でも友人に協力する素振りをしていたね」
覗きこまれ、思わず一歩下がる。
ライドウの眼は、俺を刺してくる。眼が合うと、それはイービルアイなんじゃないかと疑いたくなるくらい、痛い。
それは、俺が血の契約を交わした間柄だからなのか。それとも、ライドウの生まれ持った能力なのか。
穏やかでは居られなくなる、何か眼力の様な力を感じる。
「しかし、いざ人間世界での暮らしを見てみれば…君は彼等に嫌に冷たい」
「……普段は、こんなもんだろ」
「あの頃は緊急事態だから、彼等と友好を深めたかった?フフ…違うだろう?ボルテクスの君にとっては、人間こそが拠り所だった。だから欲した、己が人間の証明としてね」
「親友とかじゃなくたって、力が有るなら何とかしてやりたいって思う程度の情は有った!」
「この世界では特に彼等を必要としていない…そうだろう?君がボルテクスで心を痛めた理由はね、功刀君…」
早く…早く到着して、開いてくれ…
言葉の槍が俺の身体を穴だらけにする、その前に。
「人間の頃より善人であれ、と“お人好しごっこ”をした所為さ。勝手に悪魔の力をも抑制して、愚かな事だね」
「違う…俺は悪魔共に半端者とか馬鹿にされて…半端だからマネカタにも疑われて…そういうのがしんどくって…!」
「あはは」
ライドウが声を上げて哂う。更に一歩詰め寄られ、俺の背に硬質な壁が接触する。
コットンジャケットの襟を掴まれ、咄嗟にその手を払い除けようとすれば…
その為に振った手の、手首を空いた手で捕えられる。
「確かに君は悪魔やマネカタ達に常々詰られていた、でもね…君が“人間であること”を否定したのは、他ならぬ人間達だったろう?」
殴ろうか彷徨っていた手も、同じく掴まれる。
今殴っては、下手すれば扉が開いた瞬間と重なるかもしれない。
だから、殴れない。擬態状態では、尚更。
「教師は協力者として、友人等はコトワリの賛同者として、オカルト雑誌のライターはマガツヒとして、ニヒロの総司令は…それこそ《人修羅》として…君を求めた」
「っ……ぐ」
掴まれた両手首を頭上高くに持ち上げられ、引き攣る胸元が痛い。
インに着たシャツが、胸の魔具に内側から圧迫されている。
興奮して尖っている様に見えて、おぞましい。
「人と悪魔が半々の君に、トリックスターとも云える可能性を見出していたのかもしれないが…しかし彼等の共通項は“功刀矢代が人間である必要性を感じていなかった”これだよ」
「う、るさい…黙れ」
「悪魔の野次より、人間の侮蔑や落胆の方が堪えたろう?」
「放せ、この……玉潰すぞ、っ」
睨んで、片脚の腿を上げる素振りをする。高く上げないと、この男のソコには到達しそうにない。
「蹴ってみたらどう?そろそろ到着する頃合いと思うけど?」
こいつ、涼しげな表情なのに…掴んでくる手指は、酷く力強くて粘着質だ。
外套の隙間から、チラチラと鈍い光が見える…
それはボルテクスで見たままの重装備で、俺の脳内を強張らせる。
(俺と違って、武器を持っている)
冷たい黒に覆われながら、つい先刻追いかけた赤を思い出す。
コートの内側から見える銃火器も、得物を振り回す様も同じなのに…
「デビルハンター…」
「…何」
「デビルハンター…が……俺を人間だと、云ってくれた…くれていた」
そのデビルハンターとの記憶は浅い。ライドウとの記憶だって、あやふやな部分が有るくらいなのだから。
それでも、あの赤いコートに包まれて…安堵した憶えは有った。
赤いコート、追いかけた理由を記憶に探し…海馬からじくじくと滲み出す。
「へえ、悪魔狩人の事は憶えているのか」
「だって、あんたと違ってダン――」
零れ落ちる様に吐き出した名は、最後まで響かなかった。
響いたのは、俺の鳩尾に入った膝の衝撃だけ。
俺の肉を介して一瞬揺れた箱は、返事の様に電子音を発する。
揺れる視界で見上げれば、五十九階の点灯が確認出来た。
「……ッ、ふ…げぇ…っ」
「みなまで云わずとも結構、僕は憶えている」
喫茶で呑んだ紅茶が、逆流しそうな感覚に陥る。
生理反応なのか、眼に潤みを感じる。それを手の甲で咄嗟に拭って、せり上がって来るものを抑え込む。
一緒にマガタマまで吐き出してしまったら、本当に不味い。
「悪魔を狩る立場の癖に、随分と君に御執心だったからね。あれは失笑ものだったよ」
既にライドウは開こうとする扉に向かい、すらりと立っていて…
俺はエレベーター酔いしたかの様に口元を手で覆い、壁に肩を寄せていた。
「すぐ、蹴る…っ」
「君だって、僕の股間を潰そうとしたろうに」
「どうしてついて来るんだよ」
「指定された場所がこの先に有るからさ」
ライドウより後ろに居ては、俺が後を追う形になってしまう。
それを避けるべく、小走りに通路を歩く。
ただ、嫌な予感が俺の足を強張らせては、ギクシャクさせていた。
「あの…すいません、中で待ち合わせていて」
スカイレストランの一角、サンカントヌフの入口で女性店員に話し掛ければ…
隣のモミアゲ野郎がニヤニヤ哂っている。
「はい、お名前をうかがってもよろしいですか?」
「功刀です」
「…其方のお客様は…御一緒ですか?」
矛先がライドウに向いたので、俺は咄嗟に否定しようと首を振った。
が、肝心のライドウは「はい」と答える始末で。
「ブロンドの西洋人は居りますか?待ち合わせている者がそういった容貌でしてね」
続けられた言葉に、踵を返したくなる…が、踏み止まった。
魔人の気配を感じつつも踏み止まる…それと同じくらいに、眩暈がする。
違った、魔人よりも厄介なのだ。しかもライドウまでおまけとは。
(寧ろライドウは、居た方が良いのか…?)
ライドウが同席すれば、一対一の恐怖は軽減されるのかもしれない。
しかし、イラつかされる予感もする。ライドウとあの堕天使は、俺には分からない会話をするから。
「は、はい!見えております、御案内致します」
ライドウの暑苦しい黒を透過して、多分あの顔面に心を躍らせている女性店員。もう俺の存在を忘れている可能性が有る…
仕方が無いので“連れ”という事を認め、ライドウに倣って案内されて歩いた。
「あんた、俺に教えてなかったんじゃあないだろうな」
「僕こそ、個別に召集を受けていたとは思わなかったよ」
「個別に呼ばれていたって、報告くらいしろよ」
「そういう君は、僕に本日の予定を教えてくれていたかな?」
ああ、馬鹿馬鹿しい。互いに、一対一…サシで会うと思っていたのか。




案内された先は個室、広々とした窓が壁を透過させている。
特等席に等しいその場所で、穏やかに手を上げる西洋人。
「やあ、ごきげんよう」
「御久し振り…です」
「久しい?此処の時間の流れまでいちいち把握していないものだからな…とりあえずは座りなさい」
先日出くわした時とは、また違うスーツ。
眼を凝らさないと判らない程度に、薄っすらとストライプの織りが入っていて…彩度が低めのネイビーカラー。
細幅のタイが、オフ向きな雰囲気を醸し出している。
そもそも見目は麗しい西洋人なのだから、着こなせて当然だ。
ビー・シンフル号でスーツに着られていた自身をそれとなく思い出し、何やら虚しくなる。
「御機嫌麗しゅう、閣下」
「ふふ、ライドウ…君も着座しなさい」
「一介の人間如きが、会食に同席しても宜しいので?」
腰の低い台詞に一瞬聴こえるが、ライドウの声音と表情に塗り替えられる。
隣の俺を挑発している、恐らく。
「喚んだのは私だろう?気兼ねもしていないのに口にするべきではない、ライドウ」
「では御厚意に甘んじて」
「上着は脱がないのかね」
「個室とはいえ、料理が運ばれて来るでしょう?店員を驚かせてはいけませんからね」
「その程度の兵装で、私を圧倒出来ると思っているのか?」
クスリと哂って、ライドウが外套を観音開きで靡かせた。
胸元の管は相変わらず冷たく光って、ウエストベルトに提げた刀と銃もくらりと揺れる。
そのウエストベルトから腿に這う様にして伸びたベルトが、銃を更にもう一丁備えさせていて。
チラリと覗き見ただけでも、重装備だった。
ボルテクスの頃は常にこういった感じだったライドウだが、この東京ではあまりお目にかかれない。
「閣下、此れは自分の普段着に御座います故、他意も無いのです」
「食事の席だというのに、相も変わらずだな」
ほらまた、俺の知らない世界の話だ。
その事実を知っていれば、こんな男と手を組んだりしなかったのに。
「あの、どうして別々に喚ばれたのですか」
見つめ合う視線を遮断するかの様に、俺の口が勝手に割り込む。
すると、此方に矛先が向いてきた。その蒼い双眸は、擬態の虹彩だろうか…
透明感が有って、静かな湖面の様で。でもその湖は底無しなんだ、背筋にぞわりと悪寒が奔るから。
「別々?そのつもりも無かったのだが、気を揉ませたなら済まなかったね、矢代」
「えっ、あ……いえ」
「どちらかに伝えるのみでは、伝達が途絶えるかもしれないだろう。君達其々に使いを出したまでだ」
「…でも、一緒に来いとは…」
ライドウと来い、とは聞かされなかった。恐らくライドウも、俺と来いとは聞いていない筈。
チラ、と隣を見れば、ライドウが口角を上げる。
「自分も同じく」
怯えも何も無い声音で、キッパリと云い放つライドウ。
そういえば、学帽を被っていない。
「ライドウ、君にとって人修羅は指導対象の悪魔だろう…?何故連れ出さなかったのだね」
「閣下の勅命なれば、当人に知らせが運ばれている事と思いましてね。余計な真似をしなかったまでに御座います」
「なるほど、しかし思い遣りが無いな」
「……フフ」
テーブルに用意されていたグラスを、俺とライドウ各々に差し出すルシファー。
トン、と置き去りにする際、離れていく指先が淡く光る。
「そうだ、冷えていなかった」
途端、薄らと霜がグラスの縁を化粧する。
ブフの様なものだろうか、目配せも呼吸も無しにやってのけた。
「これは光栄ですね、閣下直々に持て成して下さるとは」
「ライドウ、君は少しくらい肝を冷やしたらどうかね」
「心の臓まで凍らされてはひとたまりも御座いませぬ、只一介の人間ですから」
並々と注がれる液体の赤は、濁った血の様に黒ずんでいる。
ルシファーの用意した酒では無い…と思いたい。この店で注文した物…そうだろう?
何が入っているか分からない、悪魔の用意した飲食物だなんて。
と、俺の目の前のグラスに瓶の口が寄せられた。
「あっ…」
「どうしたのだい、矢代」
「俺、その…アルコールは…」
未成年、とか云って通じるのか?この制限だって、人間の決めた法でしかない。
それも俺が提示するのは、日本の中だけの法。
「閣下…先日目にされた事と思いますが、あのガッコウという所に通う以上、その類の飲み物は禁じられているのですよ」
「そうか、ではライドウ、君は何故呑んでいたのかね?」
「僕は不登校児でしたから」
「ふ……では存分に呑めば良い」
「お先に」
とんでもない事を、いつもの哂いでサラリと述べるライドウ。
ワインの揺蕩うグラスを軽く振って、乾杯の素振りの直後に啜る。
それを横目に暫く見て、どうやら即効性の毒は入っていない事を悟る。
「矢代、お前もそうだろう」
「えっ!?な、何ですか」
ライドウで毒見をしていた俺を、苛む声音では無いがやや探る様な堕天使の口調。
「何故ライドウを誘って来なかったのだい?君のサマナーであり、現在の指導者だろう?」
「俺も、ライドウと同じ……二人で来いとは云われなかったので」
この世界では慣れっこの、右に倣え、だ。
周囲と同じスタンスで居れば、こういう時に追及されない。
そう、本当のところは違う理由を抱えていた。
ライドウ抜きで閣下と会食するだなんて、確かに身の毛もよだつ…畏怖が有る。
それでも、行くメリットは感じた。
ライドウの知らない、俺とルシファーだけの秘密が欲しかった。
出し抜く為に、単独で臨んだ…つもりだったのに。
「ふふ、お前達に主従関係は難しかったか」
何と返せば良いか分からず、俺は沈黙のまま俯いて皿を見てばかりいた。
タイミング良く個室の外から声がかかり、ウエイターが料理をテーブルに並べて立ち去る。
蛸のカルパッチョ…パプリカのカラフルな彩に、目が惹かれる。
立て続けに、フォアグラのポワレ。
(こんな面子の席で無ければ…)
溜息が出そうになり、横を向いて小さく咳払いに留めた。
「好きに食すと良い」
「は…はい」
そうは云われても、俺の両腕は鉛の様に重い。膝に畳み置いたジャケットを、少し汗ばんだ手で握り締めるだけ。
隣で既にナイフとフォークを軽やかに舞わせているライドウは、本当にネジが吹っ飛んでるのだろう。
「高い処が不得手だったか?」
「いえ、そういう訳じゃ」
「ボルテクス界でも、この建造物は健在していたと思ったが…お前は登らなかったのかい?」
「…少しだけ」
訊ねてくるが、知ろうとすれば知れるのだろう。
俺が説明しなくても、悪魔伝いに俺の過去なんていくらでも明らかになる。
散らばる記憶を寄せ集めれば、俺の人生の面舵を握るのは間違い無くこの堕天使で。
今、ライドウという異質な存在が介入しているこの時こそが…
「考え事かね?」
「す、すいません」
ようやく頸木から抜け出せるかもしれないのに、俺は反射的に謝罪しているではないか。
この恐怖は、悪魔である半分がさせるのか?それとも、叩き潰された記憶が揺り起こすのか?
「なかなか良い眺めだろう、地を歩く人間達の小ささを見てみなさい」
促すルシファーの蒼い眼に釣られ、またしても反射的に視線で追ってしまう。
「トウキョウは大勢が犇めき合っている、この狭い範囲に」
「…はい」
「人間だけと思うかな?矢代」
「え…?」
ワイングラスを傾けて、一口啜った堕天使が優美に微笑む。
くるりくるりとグラスの中で回されるワインが、赤みを増して毒々しい光を帯び始めた。
「脅える事は無い、一足早く夜が訪れるだけだ」
身体を強張らせる俺の隣、ルシファーの台詞に一瞬ライドウが静止した様に感じる。
でも、ビビって動けない俺とは違い、自分の意思で静観を決めているんだ…恐らく。
「呼吸しても大丈夫と云ったろう、本当にお前は疑り深い」
失笑以上嘲笑未満の笑みで、ルシファーが立ち上がる。
片手のワイングラスからは、赤黒い煙がドライアイスの冷気の様に溢れ出すばかり。
その煙で着衣が染まりそうな気さえする、そのくらい透過率が低い。
「は…ぁ……はっ……」
「だから大丈夫と云っている…深呼吸をするんだ矢代、さあ」
「ッ――うぅッ!?」
項に触れる指先が、一瞬で俺の中身を崩していく。
仰け反った視界の端に、ルシファーの黒い爪が見えた。
激しい動悸に見舞われ…熱い身体を鎮める様に俺は自身を抱き締めた。
ジャケットを握る震えた指先は…黒い斑紋が巡らされて、先刻のティーカップを思い出させる。
強制的に解除させられた擬態に、周囲を思わず警戒した。
が…煙の解け出した個室の空気自体が、どこかおかしい。
人に見られる不安よりも先に、問い質したいくらいに……「此処が何処なのか」を。
「異界だよ」
まるで俺の心を読んだかの如しタイミングで、発するライドウ。
ナプキンで口元を拭い、懐から取り出した学帽を被りながら席を立つ。
「ライドウは慣れたものだろうが、お前は馴染みが薄いだろう?」
奴の普段を知る様なルシファーに、俺は置き去りにされた心地を味わう。
いいや、こんな奴等に付いて行きたく無い、本当は。
それでも、立ち上がる。悪魔姿へと変質させられた俺には、残される路は少ない。
「異界って…さっきまでの俺の居た世界には、帰れないって事ですか」
「直ぐに帰還が可能だ、表裏一体なのだから。わたしが虚空を引っ掻けば、其処が出入口になろう」
悠然と微笑むルシファーの双眸は、既に蒼色では無い。
青みがかった碧、朱色の激しいコントラスト。その二色が、俺とライドウを交互に見やる。
「少し暇が出来た、君達と会食しようと思った事に嘘は無い。ただし、この面子では腹を割って話す事が無いだろう?」
「では何故、両者共招いたので御座いますか」
「察しがついていないのか?そんな事は無いだろう、ライドウ」
パチン、と指を鳴らすルシファー。まるで手品の様に、指先に白い羽根が現れた。
真っ白で…少なくとも今の堕天使の背には無いソレ。
「この辺りに結界を張った。わたしのものだからね、容易に打ち破れるとは思わないべきだろう」
「フフ…囲む様にですか、閉じ込めて何とする」
「さあ、少しだけ遊戯をしよう。人修羅、ライドウ」
その名称で呼ばれ、項のツノがビリビリと共鳴した気がする。
出来る事なら、脳内から消去したいその名称。俺の本来の個体名を掻き消す悪夢。
「天界の奴隷達を数体捕えた…が、わたしも少し郷愁に絆されたかな…彼等に“条件”を与えた上で存命させてやる事にしたのだ」
黒い爪先が、白い羽根をくるくると弄ぶ。
薄暗い室内で、それは薄っすらと輝いて見える。
「人間世界の日没まで逃げ切れば、この結界から解き放ってやろう…という娯楽だ」
いまいちピンときていないのは俺だけなのだろうか、ライドウは慌てもせずに少し肩を揺らした。
「天使の数は?」
「十だ、キリが良いだろう」
「して、猟犬はどちらに?」
「察しがつかない筈も無いだろう、ライドウ」
「狐の次は犬に御座いますか、これは腕が鳴る…フフ」
また二人の世界に入りかけているので、俺は勝手に脳内で要約する。
今の会話からすると……この周辺に結界を張った、其処に天使を放した、日没まで逃げ切った天使は命拾いする。
そして、天使達を狩るのが…
「あの、それはこの異界とやらで行われるんですか」
俺とライドウ、そうなんだろう?
本当は不平不満をぶつけたいところ、問い質すだけに終わる俺。
「異界と人間界、そのどちらに逃げても構わないと彼等には説明をしたが」
「人間の世界で暴れたら、大騒ぎになります!」
「だろうな」
「人も大勢巻き込むだろうし、あまり…目立つ事したら、敵対してる天界勢とかを刺激する事になりませんか?」
「本当に我々の事を想っての発言かね?それは」
探る様なルシファーの眼に、俺は視線を逸らしたくなる。
微笑んではいるものの、見透かしているであろう嘲弄が感じられた。俺の…被害妄想なのかもしれないけれど。
そうだ、俺は別に天界勢と堕天使勢がドンパチして、どちらが勝とうが本当はどうだって良い。
とにかく「人間世界で暴れろ」という命令には抵抗が有った。
俺がヒトとして生きる場所を、失う事になりかねない。
このおぞましい姿を、休日の池袋で晒せというのか?冗談じゃない、話が違う。
(話…?そういえば、ライドウが勝手に俺を使役して…勝手にルシファーと話をつけたんじゃないか)
ある日唐突に、そう、こんな風に終わりが来るのかもしれない。
堕天使の気紛れで、ライドウの勝手で、俺の猶予は泡の様に爆ぜる。
「覚悟は決まったようだね、偉いぞ」
少なくとも、この連中の遊びに付き合わされたなら、戦いに発展する。
不本意だが“悪魔の俺”は、それで鍛えられる。
視線を逸らさずに黙して堕天使を見つめれば、偉いと繰り返して頭を撫でられた。
「話は…理解しました。天使を十ほど始末すれば良いんですね」
「しかしな、ただ狩りに放つのもつまらない。矢代、お前にはライドウと競って貰う」
「…はぃ?」
思わず声が裏返る、だっておかしいだろこの展開は。
どうして競わせる必要性が有るんだ?
困惑が顔に出たか…ルシファーは俺の眼の前に羽根を突き付けると、その先端で額を擽ってきた。
びくりと竦めば、満足したのか羽根を退かせる。
「これは天使の翼の“小翼羽”だ。此処にMAGが溜まり易い……わたしの云いたい事が解るかい、矢代?」
「その部位の羽根を引っこ抜いて来いという事ですか」
「そうだ、MAGは人間でいう血液と同じ…個体判別の材料となる」
と、ルシファーの台詞の切れ目に割り込む形で、ライドウが一歩出た。
「小翼羽は通常片翼につき二、三枚有る事と存じますが?」
「天使の小翼羽は立派なものが一枚ずつ、MAGが集まるのはどちらかの翼のみだ」
「そうですか、では十で全てという事に御座いますね」
「多く此処へと持ち帰った方に、わたしと会食を続ける権利を与えよう…どうだね?」
どうだね、じゃないだろ。そんな御褒美、与えられても嬉しくない。
最初は一対一のつもりで俺も足を運んだが、競争の先にそれが有る事が不味い。
単に負けるだけならば「腹立たしくはあっても、痛くはない」事だと、俺は感じる。だから躍起にはならない。
堕天使も、その俺の心理を想像する筈。
絶対何かを用意してあるに違いない…俺が奮起せざるを得ない仕掛けを。
「…負けた方は、何か有るんでしょうか」
ジャケットを羽織りつつ、抑揚の無い声音を意識して問い掛けた。
ビビってるだとか、思われたくない。
「何、按ずる事は無いよ矢代。会食の際にメインディッシュが有るので、それの下準備を手伝わせるだけだ」
「労働みたいなものですか」
「そうだ、痛い事も無い」
「そう…ですか」
そう返した自分の声音が、安堵の溜息混じりだと吐いてから気付く。
ジャケットの、襟からボタンホールの羅列を指先で正しつつ下ろして行けば…
(…どうしてだ?)
違和感の根源を指が探る。
無い、胸と臍の異物が。悪魔の俺を戒める呪いのアクセサリーが。
「異界への出入口は気紛れに閉開する、どちら側に天使が居るのか見極めてから利用しなさい。分かったね矢代?」
背後から、声と同時にカラカラと華奢な音がした。
振り返ると、ルシファーがグラスをテーブルに置いている瞬間だった。
そのグラスの中には、アルコールもドライアイスも無い。
有るのは、金属と鈍く光る赤瑪瑙。薄暗い部屋の中で、テーブルキャンドルの様に光っている。
ついさっきまで、俺の肌に喰い込んでいた筈の呪具。
「この遊戯が終了すれば、返却してあげよう」
ルシファーの声は、それほど嬉々としてはいない。
でも解る、感じる。俺にプレッシャーをかけている、言動のひとつひとつが。
「では矢代、ライドウと私を落胆させない程度には頑張るのだよ」
ひとりでに開いた個室の扉、それに気を取られる俺の肩へと手を置くルシファー。
耳元で何か唱えられたが、何の言葉か解らずに反応も出来なかった。
「しかしお前は迂闊だからな、ひとつだけ“おまけ”をしてあげよう」
「は……はあ」
何だろうか、話がややこしくなる前にさっさと発ちたいのに。
そうだ、ライドウがもう狩りに行きたくてウズウズしてるんじゃないか?
あの男は、こういう勝負事に熱くなる性質だった筈。
「過保護」
ぴしゃりと云い放った当のライドウは、やや冷たい一瞥を俺にくれて部屋を出た。
いや、今の眼は俺の背後に…だろうか。堕天使にガンを飛ばすとは、心臓に毛が生えているんだきっと。
「ふ、どうやらお前のサマナーに火を点けてしまったようだ」
「はあ…」
「さあ、遅れをとらぬよう行きなさい。天使達も追跡者の事を考え、常に動き回る者、潜む者、様々だろう。そして、奴等は野良悪魔達との決定的な違いが有る」
「…何ですか」
「障害であるお前を排除しにかかってくるだろう。出くわした瞬間、追うか構えるかを判断しなさい」
背を押され、俺は個室からよたよたと出る形になる。
軽く振り返ったが、扉はゆっくり閉まって行く途中で、ルシファーの姿が垣間見える事も無かった。
溜息して視線を戻せば、確かにレストランの中ではあるが…来た時と明らかに違った。
白を排除したかの様な薄暗さと、そこらじゅうに点在する異形。
椅子の方が四肢があるじゃないか。座る悪魔達の手足は、少な過ぎたり多過ぎたり。
そもそも浮遊しており、着座の必要性も無いガス状の悪魔だとか。
(まるで人間の様に居座りやがって)
鏡映しの世界の様に、殆ど同じ。生き物だけが違う。
人間真似をしてふざけ合っている様に感じられて、苛々するんだ。

『あれぇ、今のってぇ』
『人修羅ダヨ!ホラ、アノ蟲ミタイナノ呑マサレテ、俺等ノ仲間入リシタ奴』
『ほほー、人間の真似が上手いんだねぇ』

その会話が聞こえたテーブルを蹴り飛ばしたい衝動に駆られたが、堪える。
一瞬止まった俺に脅えたのか、斜め後ろからMAGの震えを感じた。
ひょろ長い悪魔と、星型の悪魔だ。
イヌガミかマカミか、キウンかデカラビアか……どうだっていい。
ガツガツと、ひたすら謎の食物を口に運び続けるトウテツ。その傍を通過して、レストランを後にした。




「……うぇ…」
先が長い程、歪曲して見える廊下。まるでボルテクスの国会議事堂を思い起こさせる。
床が揺れている訳でも無いのに、船酔いの様な気持ち悪さがこみ上げてきて。
早いところエレベーターで地上まで下りてしまおうと、急く足。
が、いざ扉の前まで来てみれば、地階滞在のランプが点灯したままなかなか消えない。
じりじりと時間の経過を感じ、携帯で時間を確認しようとして止めた。
時間の流れが違うなら、日没までの目安になりやしない。
それにしてもなかなか箱は昇ってこず、試しにもう一度ボタンを押してみる。
もしかして故障中か?いやそもそも原動力は何なんだ、こちらも電気が通っているのか?
こんな所から足止めを喰らっては、かなりの差をつけられてしまう。
「くそっ」
小さく吐き捨てて、踵を返した。一直線に向かうは、大量の段数が連なる階段。
下りならまだマシだ、それに今は擬態を解いてある。面倒なだけであって、そこまで苦には感じない。
まさに非常階段といった程度の簡素な造りで、軽く深呼吸してから一歩を踏み出した。
考えずとも、身体が勝手に駆け下り易いリズムをはじき出す。
展望台から飛び降りたなら、エレベーターより早く到達する事は知っている。でも御免だった。
同時にダメージが大きい事も知っているから。
いくら再生能力が高いといっても、痛覚は有る。
(それを、あのデビルサマナー…飛び降りるくらい平気だろうとか、確か抜かしやがって)
思い出して沸々と身体が熱くなり、相手も居ないのに挑発を喰らった心地。
ボルテクスの記憶は、ぼやけている割に嫌な事だけ鮮明だった。
きっとあいつは、悠々とエレベーターで下ったのだろう。
俺より大胆に動いて、それでも慎重だから馬鹿を見ない。
索敵だって、確かイヌガミが得意としていた筈…
調査依頼を請けるとか、そういう仕事をしていたのなら…プロじゃないか。
『ねえねえ、この階段って何段有るか知ってる〜?』
途中の階から、フワフワと付いてきた気配が有ったが。殺気は無いのでその声を無視する。
『わっかんないかなあ?正解は千二百四段でしたー!』
答えない俺に焦れたのか、悪魔は勝手に正解を述べている。
無視を続けてはいたが、突然攻撃してくる可能性も有るので神経だけは向けておく。
『問題!今は何階に居るでしょうか?』
嫌がらせでは無いが、駆け下りる速度を上げて階数を定める事すら難しくしてやった。
『正解は〜“異界”でしたーっ!』
しかも下らない洒落だ、どこぞのデビルサマナーかよ。
あの男、TPOを無視して時折とんでもなく下らない発言をする。
最初はボルテクスの環境に頭がイカレたのかと思ったが、人間世界でもあの調子だったから、きっと神経が無いのだ。
『ちょっと〜アタシの事憶えてないのぉ?』
足は止めずに、一瞬だけ横目で背後を見る。
そのシルエットに心臓が跳ね、堪らず目を逸らした。
足がもつれ、俺は一気に踊り場まで飛び降りる羽目になる。
『ちょっとどーしたの?ダイジョブ?前より美人になってて驚いちゃった?』
「憶えてない」
俺の知る、あのピクシーと挙動が似ていたので驚いたが。
改めて見れば姿も違う。ハイピクシーという奴だ、この悪魔は。
『んもぅ!前さぁ、ヨヨギ公園でナンパしたじゃないよ〜』
「悪魔にナンパなんかしない」
『ちっがーう!アタシがお兄さんを!ナンパしたの!』
手摺を乗り越えて滑空するハイピクシーは、足で下りる俺よりも随分楽そうだ。
はためかせる翅から、薄らとMAGが透けて見えた。
『でもあの時はアタシ、ピクシーだったからね〜分からなくても無理ないカモ。人間って見た目だけで個体判断するでしょ?MAGの味もしっかり違うんだからねっ』
いつの話なのだろう、代々木公園で遭遇した覚えは無い。
まさか、ボルテクスの話なのだろうか。あの世界と、この世界の悪魔は共通しているのか?
『「ピクシーなら間に合ってる」ってフられちゃったから、ハイピクシーになって出直して来ました!じゃ〜ん!』
俺の前に回り込み、胸を張るハイピクシー。それをしっしっと手で払い、また下り始める俺。
「仲魔を作る気は無い」
『はあぁっ!?せっかくハイピクシーになったのに無駄になったワケぇ?』
項垂れつつも、しつこく追尾してくるやかましい妖精。
口煩いのはこの種類の特徴なのか?相手にもされていないのに、お喋りを止めそうにない。
『お兄さんを二度目にヨヨギ公園で見た時はねえ、ちょーっと声掛けられなかったわね、だって女神様ばっか連れてんだもん。ちゃっかりあのピクシーも居たけど。お兄さんて冷たい割には女悪魔好き?お姉さん系に弱い?あ、地母神とか居たから母性有るカンジの悪魔に弱いんだ?』
ファイアブレスでも噴きつけてやりたくなったが、何かを認める気がして実行には移さない。
『でも見てる限り、仲魔への待遇悪いっぽいよね〜だから仲魔少なかったの?でもでも〜割と寄って来られるでしょ、だってお兄さんのMAG美味しそうだもん。美味しいといえばね、此処の展望レストランがね、美味しいって評判なの。でも今はなんかVIP来てるってウワサで〜――』
殺風景な空間がようやく開け、地階である表示を確認してから通路に出る。
『あーあ、階段ランデブー終わっちゃったあ、そういえばお兄さんはどーして階段使ってたの?狭い箱の中で他人と乗るの嫌とか?』
「…エレベーターが来なかった」
『えーっ、せっかちなの、女の子に嫌われちゃうよ?』
「…もう付き纏わないでくれ」
そこそこ酷使した足首を回しつつ、ハイピクシーの言葉で気付いた。
そうだ、どうしてずっと地階止まりだったんだ?あのエレベーターは結局どうなっている?
見なければ気が済まない俺は、直通エレベーターの有る位置まで足早に向かう。
角を曲がり、真っ先に視界に飛び込んできた“白”に、俺は一旦引っ込む。
翼だ……水鳥のようなソレ。エレベーター扉の前で、膝を着いて蹲って居た。
(天使…まさか、こんな早く出くわすなんて)
今度はそうっと角から覗き、様子を窺う。
天使の指先が、パネルのスイッチを押し続けているのが見える。
一瞬唖然としたが、単なる悪戯や時間稼ぎとも思えない。
あんな事で追手を足止めしたつもりなら、雑魚中の雑魚だろう。
(一瞬でケリをつければ……振り向く動作の隙がデカいから、向こうが不利)
二、三呼吸をしてから、息を殺す。
着衣の衣擦れの音が予測されたが、人間界と往復するなら脱ぐ訳にはいかない。
それに、俺は肌を晒す事が嫌いなんだ。
(翼を燃やすのは不味い、小翼羽まで燃える)
指を端から折り、拳にしてはまた開く。
やはりアイアンクロウだろうか、一撃で仕留めたいなら遠距離攻撃は避けるべきだろう。
(そういえば、小翼羽ってどの辺りに生えているんだ?)
始末した後に翼を物色すれば良いか…MAGが一番溜まっている羽根を探せば良いだけの事。
もう飛び出してしまえ、先に振り向かれたら面倒だ。
床を一蹴りして駆け出し、天使がゆっくり振り向くのを睨みつつ間合いを縮めた。
攻撃魔法の類なら、こちらも攻撃して打ち消してやる――

『ハマオン』

その呪文を聞いた瞬間、身体が反射的に防御に傾く。
(しまった!)
もんどりうって、天使の手前に突っ伏した。が、返って来た血飛沫から、爪が相手に届いた事は察した。
ビクンビクンと痙攣する天使に合わせ、翼の揺れる圧が俺の頬を撫でる。
「…っ……は……ぁ、はぁっ、う……ぅ」
耳鳴りが酷かったが、やがて遠ざかる。
破魔の術が、俺の身体に入り籠めずに泡と消える感覚。
悪運が良かったのか、どうやら生き延びた。
ボルテクスでは稀に掛けられても、すぐに蘇生させてくれる仲魔が居た…が、もう頼れない。
悪魔に頼るのが嫌なら、しっかりマガタマで回避しなくてはならないというのに。
すっかり頭から抜け落ちていた、そうだ…俺は魔物だった、半分だけは。
最悪な気分でよろりと立ち上がり、肩口から背までざっくりと抉れた天使を見下ろした。
それほど致命傷とも思えないので、警戒しつつ生死を確認しようと観察する。
生臭い臭いが鼻を衝くが、あと残り数体分が控えているのだ。いっそ鶏を捌いていると思い込んでしまえれば…
(どういう事なんだ、傷が正面にも有る…?)
靴をなるべく汚さない様に残骸を蹴れば、スイッチから指が離れてべしゃりと崩れた。
スイッチパネルにずるずると赤いランダムストライプを残して、気味が悪い。
(俺のやった傷じゃないぞ、これ)
倒れ捩じれた天使の胎に、一閃。先刻の姿勢のままなら、ぴったり閉じていたであろう程に綺麗な傷痕。
鋭利な刃物による傷……見覚えも、身覚えも有る。
身体が熱くなる、額に嫌な汗が伝う感じ。
これが汗なのか、返り血なのか…俺は無意識に、真正面のエレベーター扉に反射する自分の顔を見た。
が、それが半分に分断される。扉が開き始めたのだ。
「階段ご苦労様、功刀君」
真っ黒な外套に、イヌガミを従えて現れたのは例の男。
そうだ…エレベーターの箱が留まるには、扉の閉開を交互にし続ける必要が有るじゃないか。
天使の悪戯か足掻きなのかと疑う前に、ずっと開かないエレベーターを疑うべきだった。
「何…のつもりだ、あんた」
「君は理由が無ければ天辺から飛び降りる度胸も無いだろう?そしてエレベーターが起動しなければ、残る道は階段に搾られる」
悠々と箱から降り、血濡れた翼を跨ぎながら少し腰を曲げているライドウ。
「嫌がらせかよ」
「競争者の行動を制限するのは策だろう?」
「この天使…なんであんたにはハマ打たなかったんだよ」
「軽くひねってやれば命乞いを始めたのでね…「階段から来る標的を魔滅しろ」と命じたのさ。すれば小翼羽のみ頂いて、命を取った事にしておいてやろうと交渉した」
哂って云うライドウに、俺は寒気がした。
「ほら御覧、功刀君……此処にある、これが小翼羽さ」
おっぴろげさせた翼から、ぶちりともぎ取るライドウ。
白い指先が、ルシファーがしていた様にくるくると羽根を弄ぶ。
「ま、プリンシパリティにしてはよくやってくれたかな。堕天使の“おまけ”も剥がれて、ようやく対等に競えるだろう?僕等」
「おまけ…――」
ようやく繋がって、息を呑んだ。先刻の悪運が、ライドウの計算通りだった事を知る。
堕天使が俺にくれた“おまけ”とやらは、恐らくテトラジャだったのだ。
「天使の十八番を忘却するとは、君は随分と平和ボケが過ぎるね。どうせ今もイヨマンテなのだろう?」
「元々こいつを助ける気なんて無かったんじゃないか!」
俺に破魔の術を跳ね除けられる事を知りつつ、嗾けた事になる。
天使への同情では無いが、思わず叫んだ。
「功刀君。此処が今、結界内だと分かっている?小翼羽なぞ関係無しに、一度捕らえた天使達の場所くらい堕天使は把握出来る」
「じゃあ何でこんな事やらせた!?」
「先刻も云ったろう?君から、ルシファーのベタベタな過保護という衣を剥ぎ取る為だと」
カツカツとヒールを鳴らして、また先に行こうとするデビルサマナー。
イヌガミがふわふわと、あんな残酷な主人なのに活き活きと追従していく。
「階段も良い準備運動になっただろう?少しは感謝し給えよ」
振り返り、指先の羽根を手旗の様に振るライドウ。
やや虚脱状態の俺は、其処でまたハッとした。
「俺が始末したんだ!返しやがれっ!」
咆哮も虚しくホールに吹き抜けただけに終わる。
ライドウは血濡れの小翼羽にくちづけ、投げキッスだけを俺に返して去った。
こんなにおちょくられるのも久々で、怒りのままにイヨマンテを吐き出す。
ゲッシュを掌に喚びながら、脳裏をボルテクスの記憶が漂っていた。
残虐非道を行いながらも…惑う俺の目の前を切り開いていく、あの黒い後ろ姿。
「くそ…野郎っ…」
大した仕置きが無いなら、適当に済ませれば良いと思っていたが…
流石にそれでは怒りが治まらない。
せめて半分の五枚は携えて戻ろう、おあいこが無難だ。
応え過ぎて悪魔になるよりも、完敗して双方から失笑されるよりも…
一番マシ。
(…だって、あんたがおかしいんだ、ネジが外れているんだ、こんな嫌がらせみたいな…遠回しな…)
忠告の通りにゲッシュを呑み、エレベーター扉の映り込みで確認しつつ、頬を拭った。
袖が錆色に汚れ、これだからあの男は黒しか纏わないのか…などと考えている。
そんな自分に一番苛々して、紅潮した顔に拳を叩き込んだ。
一気に奔る亀裂、バラバラと崩れる表面…
映り込んだ自分にしか攻撃出来ない俺を、どうせまた哂うんだろう。
(あいつなら迷わず、自分を殴れるんだろうな)
胎内で馴染んできたゲッシュが、指先からツノの先までを魔力で痺れさせる。
漲る違う色の力を感じながら、このマガタマを入手した経緯をぼうっと思い出していた。
(あいつが居れば、浅草のパズル…もっと楽勝だったのに)
また思考がライドウに辿り着き、いよいよネジが緩んでいるのは自分かと疑い始める。
血の臭い、悪魔の陰鬱な気配、人修羅姿の俺。
その光景の中にいつも、黒い影が哂っていた所為だ。

 「信じ易い、警戒も薄い、潔癖、変に自尊心が高い」

初めてマトモに投げられた言葉が、罵詈雑言で。

 「貴方が彼を殺しに来るなら、僕が受けて立とう。彼が渡り合えるようになるまでは、僕が代わりにお相手致す」

意味も分からず護られて。
…そうだ、あいつを葛葉ライドウと知ったのは、マントラ本営前…位置的には、此処だった。
ライドウに助けられた俺は、確か…あそこの壁に押し付けられ、管で傷口を抉られて…

 「でも知りたくなったらいつでもお聞き、僕は君の後をついて行く予定だからね」

ああ……ライドウに云われたんだ…人修羅を知っている、と。
あの蠱惑的な口調と哂いに唆されて…人修羅の正体を知って絶望して…

今、ついて行っているのは…背中を追っているのは…結局どっちだ?
「違うっ!」
途端、通路の隅でたむろしていた悪魔達が身を竦ませた。
それを一瞥して、無意識に叫んだ事を知る。
溜息して頭を振りかぶり、黒い外套が居ない方向を見定め足を進める。
奴の影踏みにならない様に、しかし出遅れない様に。
ボルテクス以来の、悪魔だけが行き交う交差点へと流れ込んだ…


御留ロードハンティング・前編・了


* あとがき*
いきなり執事喫茶からのスタートで。乙女なロードとサンシャイン60です。どちらも行った事が無いので描写は適当です、すいません。
池袋周辺を舞台に暴れさせようと思いまして、後編へと続きます。
第一章では、別れ際に投げキッスをしたのは…誰だったか憶えてますか?
ライドウはいつも、さり気無く嫌味です。でも、ルシファーのおまけにはムカついたみたいですね。思わず直ぐに打ち消しちゃった十四代目でした。
そして人修羅が、ライドウの事ばかり考えていておかしいですね。段々とライドウの事が分かってきたみたいです。思い出してきたというか…

タイトルの《御留》は、御留場(おとめば)から取りまして乙女ロードとかけました。
御留場とは、一般に狩猟が禁じられている場の事です(江戸時代の将軍様の狩猟場など)
しかしロードハンティングというと「ヨッシーのロードハンティング」を思い出しますね、SFCスーパースコープの…って、古いですかね…あのスコープ型コントローラの、かさばる異常なデカさが好きだったのですが。あのコントローラで横落ちパズルゲームやってる時なんて、もう何故わざわざスコープ使ってプレイしてるんだろうという、よく分からない気分になってましたね。