入学式に、私の母は来なかった。
周囲の子は皆、一様にして女性が付き添っていたから。余計に私が目立つ。
春らしく、パステルカラーのスーツを着込んだ母親がぞろぞろ。
「千晶ちゃん、一人なの?お父さんは?」
呼ばれる名前にまず立ち止まり、続いた問い掛けに自分の事と認識して振り返った。
女の人だ、なんとなく憶えている。幼稚園の参観日に、父と話していた。
きっと、仕事仲間。会話に外国の名前が出てきていたから。
「はい、一人です。パパ――ち、父は仕事が早く終わったら来るそうです」
「そうかあ、お父さん働き者だね。千晶ちゃんも一人なのに、落ち着いててお利口さんね」
「ありがとうございます」
少し屈んで、私に目線を合わせてくれた。
春だからって瞼にブルーを乗せる、そんな浮かれた人も多い中、この人は凄く化粧が薄い。
風が吹くたびにふわっと降る桜の花びら、そんな色の瞼と頬。
よそ行きの母親達よりも淡い、家の中に居る心地にさせる。そんな柔らかさを感じた。
……私の勝手な“一般家庭の、穏やかな母”のイメージだけれど。
「おかあさん、おかあさんってばぁ…」
と、突如現れた声に、思わずきょろきょろとする私。
目の前の女性の背後から、ひょこっと何かが顔を覗かせた。
まさか、ぴったりくっついている子が居るとは思わなかったので、私は思わずビクッと肩が跳ねる。
「どうしたのヤシロ」
「シャシンだって、シューゴーシャシン」
「はいはい、じゃあ行こうね〜」
男の子だった、私をチラッと見てきたから、こっちからも見つめ返した。
そうしたら、サッと視線を逸らして、また母親の背中に隠れてしまって。
「千晶ちゃん、一緒に並ぼうか」
「えっ……」
「お隣さんが全く知らない人だと、心細いでしょ?ね、おばさんの隣おいで」
結局、間に合わなかった父。だから、入学式の集合写真、私の隣は血縁者じゃない。
提案してくれた女性が、私と息子を両側に座らせてニコニコしてた。
(この人、私のママは来ないって、もう知っているのかなあ…)
優しさと惨めさに、私は胸が締め付けられていた。
どんなに上等な晴着を着ていたって、寂しい子。
隣に母親が居る方が、胸を張って居られた筈。
「おかあさん、もっとこっち」
「あらあら」
「だって……おかあさんは、やーくんのおかあさんだもん…っ」
見知らぬ女子に取られるとでも思ったのか、息子が必死に反対側から、母親の袖を引っ張る。
甘えん坊、まだ母親のお乳吸っているんじゃないのかしら。
デレデレした様子に、なんだかカチンと来て、思わず呟いた。
「知ってる、そういうのね、マザコンっていうの」
「まあ、千晶ちゃん物知り!」
気を悪くするどころか、大笑いを始めた女性に…私が恥ずかしくなる。
だって私、息子さんに対して意地悪で云ったのに。一人でツンツンしてる自分が、みっともない。
当の息子はポカンとして、桜の花びらを頭にくっつけたまま。相当抜けてるんじゃないかしら、そんな印象。
しかも寝癖のまんま…と思ったけど、あれは癖っ毛なのだと、後に知った。


御留ロードハンティング・後編




「ねえ、なんで桜の木の下に居るシチュエーションが多いワケ?」
「そういうものなんだって」
「しかも、追ってきた側が一様に同じ台詞じゃない。このシーン、さっきも見た憶えがあるわ」
「お前が消えてしまうかと思った――ってトコ?いいのいいの、それも王道だから」
「ふぅん」
試読用の薄い冊子、その頁をパラパラと指先で送る。
隣の子のお陰で、ボーイズラブの大体の仕組みは分かったけれど、読めば読むほどファンタジーだ。
こんなに可愛い男ばかりの世界なら確かに、女を相手にする男は減るわね。
デートの服装にも煩く無いし、小奇麗なレストランやカフェでなくても構わないだろうし。
同じ身体だから悩みも共通し易い、生理痛への理解力を責められる場面も無いでしょう。
「それ、私一巻持ってるよ、貸してあげる?橘さん」
「別に私はどっちでも…」
閉じようとした冊子の隙間から垣間見た、男と男の馴れ合い。
受の黒髪に、桜の花びらが留まっていた。それを攻が指先に摘んで、何やら可笑しそうだ。
「くっついてたぞ、気付いてなかったのか?可愛い奴」とか何とか云っちゃって。可愛いとか、関係無いでしょ。
男に云う台詞かしら?ところがどっこい、受は頬を染め、少し俯いている。こんな乙女、リアルの女子ですら滅多に拝めないわよ。
「どうどう?橘さん!?」
「これはヤバイわね、攻も一緒に消えてあげた方が幸せだと思うわ」
「それってつまり、二人だけの世界に行くべしって事!?キャー橘さん解かってるぅ!」
この世界じゃ生き辛いでしょうから、って事だったのだけれど……ま、興奮に水を差すのは止めておく。
試読冊子を元の位置に戻して、隣の《腐女子》に目配せした。
「もういい?それなら私はレジ済ませちゃうね。あっ、あとこの後メイトも行きたいの」
「お好きにどうぞ。私は貴女から借りられるなら、それで充分だから」
「おおーっ!どお?ハマりそう!?私のオススメはねー…」
訊いてもいないのに、唐突に語り始める辺りがオタクっぽい。別に嫌ってワケじゃないけど、この子の場合は歯止めが利くし。
それにしてもこの書店、階数も多いけれど何がアレって…本当に、この階にはボーイズラブしか無いのが凄い。
昔読んだ事のある漫画のキャラが乳繰り合っている本とか、眼が点になっちゃった。
公式的な物ではなく、完全に一般人の創作物らしい。其処にお金が発生する辺り、なんともキナ臭いけれど。
「聴いてる橘さん?」
「あら、御免…九割は聴こえてなかったわ」
「殆どじゃない、もうっ」
「で、何を薦めてくれていたの?先に云っておくけど、とりあえず“ガチムチ受”ってのは趣味じゃないわ」
「大丈夫、淫夢系じゃないから安心して。最近はね、幼馴染モノが私の中でアツイの」
インム系が何の事かはよく解からなかったけど、今度はしっかり相槌して、彼女の熱弁を促す。
「BLだけじゃなくて、ノーマルでも好き」
「ノーマル?男女の恋愛物って事?」
それなら、何故ボーイズラブはアブノーマルラブという名称では無いのかしら。アブノーマルだと、範囲が広過ぎるから?
「はぁ、いいなあ幼馴染…」
「そんな良いモノ?」
「友情と恋慕の境目がね……告白したら、もう今までの関係で居られなくなる不安とか葛藤がね……あ、駄目、長くなっちゃう」
「まだ会計までかかりそうだし、どうぞ」
長蛇の列は、女性しか居ない。当然と云えば当然か、私も男なら、この階ごと避けたいものね。
男でコッチの嗜好が有ったとしても、無難にネット通販で済ませるわ。
周囲が同類だらけにしたって、なかなか露骨な帯の文句とかに、こちとら失笑気味よ。
「聴いてる橘さん?」
「七割程度」
「あっ、ちょっと増えた。そうそうそれでね、男同士の場合は、更に葛藤が増すのよ!今の関係が崩れる可能性メチャ高だからね!家が隣同士だと、告白した翌日気まずいでしょ〜?」
「……私が男じゃないのが残念でしょうけど。さっきの彼、幼馴染よ」
「へっ」
「功刀矢代、あれ私の幼馴染」
燃料投下だったのだろうか、こういう事に眼を輝かせる辺り、腐っていても女子。恋バナで喧しい女子と一緒か――…
「もしかして…橘さん達、リア充?」
「なにそれ、カップルって意味?」
「まあ、そんなものだと思って。ねえ、ねえどうなの橘さん、私もしかしてデートにくっついてた金魚の糞ポジだった!?読者に「このモブいらねえ〜」って文句云われてるあのタイプ!」
やっぱり前言撤回する。この子、なんだか表現がおかしい。読者とか云い出す辺り、頭の中が二次元に移行し易いのでしょうね。
「落ち着きなさいよ。それなら普通、貴女を誘わないわ。ダブルデートするならともかくね」
「ううっ、どうせ私は年齢イコール彼氏いない歴ですよ…」
「まだ十七年程度じゃない。高校の時の彼氏なんて続かないわよ、今は考えなくて良いと思うけど」
「ねえ、功刀君って昔からああだったの?」
「ああって何よ」
「えっ……なんていうのかな、何考えてるのかよく分からないよね。普段も家で何してるんだろ」
流石に家の中の姿までは知らないけれど、母子家庭だからやる事は多いでしょ。
部活もやらないで、バイトに直行してるし。二輪はどうなのかしら、あれは趣味?
でも、燃料価格が高騰したら、パッタリと乗るのを辞めそう。彼が抱く執着なんて、その程度のイメージ。
「昔って、いつから一緒なの?下の名前で呼び合ってたりしなかったの?ちゃん付けとかは?あだ名とかは?」
「…幼稚園からの付き合いよ」
「ええっ、そんな頃から……でも考えてみれば、橘さんってお嬢様学校とかじゃないの不思議だよね」
「あまり遠く無くて、それでいてほどほどの偏差値なら充分よ。大学なんて実力さえ有れば入れるし、私家庭教師付けてるもの」
「……あっ、もしかして……ふふっ」
笑みを堪えきれないのか、えくぼが浮かんでいるクラスメイト。会話の流れを知らなければ、下世話な笑みには見えない…筈。
「何よ」
「功刀君と同じ学校行きたかったとか――」
ほらきた、これぞ幼馴染モノにありがちな台詞。
しかし彼女の好奇心は、レジからの「次のお客様」というコールによって掻き消された。
まあ、何度訊かれたって、私の答えは「否」だけど。
だって、違うわよそんな。一緒に居たいなんて、思わない、思えない。
昔の彼は、私の邪魔でしかなかったんだもの。



可愛い小花柄や、チェックの端切れ。
ピンクッションに埋まらない様に、おしりに飾り玉の付いたマチ針。
見ているだけなら可愛らしい小道具達も、作る側になった途端に憎たらしく思える。
「針と糸で自由に裁縫して、作品を作りなさい」という、学校の課題だった。
とはいっても、小さな子供にそこまでの発想は難しい。作品例が載ったプリントも、同時に配布されていた。
「むずかしいところは、お母さんにてつだってもらいましょう」って、そんな事が書いてあったものだから、私は独りで頑張った。
ちくちくぷすぷすと、布を刺しているのやら指を刺しているのやら…
当時、恥ずかしいくらい不器用だった私は、老眼でも無いのに針に糸を通す所から苦戦を強いられた。
途中で嫌になって、窓を開け放って其処から投げ捨てたい衝動に駆られたけど、なんとか我慢。
「パパ!見てこれっ」
提出する前に、真っ先に父へと見せに走った。
なんてこと無い巾着袋だったけれど、私にとっては大作だ。
縫い目も均等じゃないし、裁断が少し歪んでいる。端切れと端切れの境目が、緩急付き過ぎた糸で波打っていたり。
それでも、完成したそれは間違い無く「可愛い」と思えた。今思えば、あれは端切れの柄が良かったのだろうけど。
「おお、千晶にしてはちゃんと形になってるな。頑張ったな、偉いぞ」
あの時、幼い私は単純に喜んでしまったけれど。思い返せば「千晶にしては」って、ちゃんと云ってたのね。
父は忙しい人だった、でも、娘の得意不得意は心得ていたみたい。
「先生ほめてくれるかな」
「ちゃんとこなしたんだ、褒めないワケないさ」
父の云う通り。教師は一人一人の作品名札に、赤いペンでコメントを丁寧にしてくれた。
作品の優劣を感じさせない、絶対どこかを褒めている文章。
私の作品へのコメントは『かわいくできましたね。こんどは糸の色を、あわせてみよう』
指摘の通り、縫っている最中に見失うからと、布地と正反対の色にしたの。
統一美なんて考えられない位に、余裕は無かった。


参観日、教室の後ろに、それ等は展示された。
皆、作品の形はまちまち。色とりどりの布小物で、棚の上は賑やか。
「いやー、功刀さんトコの息子君は、随分と手先が器用だ」
「仕事で…私が手伝ってあげられなかったのが苦労させちゃったかなあ。どうも裁縫の本を引っ張り出して、それ見てやったらしくって」
「それじゃあ全部一人で?大したもんですな」
「もうちょっと男の子の喜ぶモチーフが載っている本、用意しておけば良かったなぁ…」
授業の後、作品棚を眺めつつ父とおばさまが会話していた。
おばさまと云っても、小学校低学年生の親、まだまだ若い。
友人の親という関係性上、私はそう呼んでいた、功刀の母親を。
「私はもっと簡単な物ってイメージで、出がけに『正方形に縫えば、ハンカチとか給食マットになるよ』って云ったのに……ふふっ、おかしいですねえ子供って」
おばさまは台詞の通り、可笑しそうに微笑んでいた。
その視線の先には、息子の…功刀矢代の作品が置かれている。
各家庭で用意した端切れは様々だったけど、功刀矢代の用いたソレは、かなりあっさりした風合いの生地。
リネンのハンカチーフだ、確か。ごわごわのじゃなくて、柔らかそうな質感に見えた。
彩度の低い正方形の隅っこに、天使の刺繍。金色の糸で、ソツなく縫い込まれた繊細な画。
薔薇のモチーフも一緒に踊っていて、少し大人びている。子供の、それも男の喜ぶモノとはかけ離れていた。
「うちの千晶は母親に似て少々不器用な所があるので、ははは。離れていても血を感じさせられますよ」
快活に云い放たれた父の台詞は、鋭い矢となって私の胸を抉った。
まだ机でランドセルに教科書を詰めていたから、聴こえていないとでも思ったのかしら。
不器用とか、わざわざ他人に云う事ないじゃない。しかも別居中の母の事まで……
あの様子だと、恐らくおばさまは事情を知っていたと思われるけれど、そんな問題じゃあないの。
「千晶ちゃん」
いつまで経っても椅子から立ち上がらずに、ランドセルの蓋を撫でている私。
「千晶ちゃん、どうしたの。後ろでお母さんたち、まってるよ」
私の席まで駆け寄って、声をかけてくる…功刀矢代。
黒いランドセルに背中を引っ張られそうな体躯、私よりも背の低い男子。
それなのに、眼の上のたんこぶ。どうして私を惨めにさせるの。
いつもいつも、しれっとソツ無くこなして、私のちょうどすぐ上の成績。
体育だけ、私がギリギリ勝っている程度。でも分かる、そんなのそろそろ逆転してしまう事。
いつか私よりも大きくなるんでしょう、男の子だから。
「……先に行きなさいよ」
「どうして?」
「あなた、トロいからイライラするの」
邪険に扱った、いつもよりも露骨に。
一瞬、戸惑った眼をするのだけど。「…ごめんね千晶ちゃん、ぼく、もっとてきぱき動くね」とか云って、怒りもしない。
これが泥沼、最初の一歩だった気がする。

そのぼんやりとした柔らかい真綿の様な微笑みが、私の妙な苛立ちをいつも刺激した。
工作の授業、国語の授業、算数の授業、音楽の授業。
なんだっていつだって、私の影の努力が無意味に感じさせられる。
少し前よりは色々出来る様に上達したのに、それでも功刀矢代は私以上に出来るから嫌だ。
「千晶ちゃん、はい、あげる」
二月十四日、何故か貰ったチョコレート。ナッツ入りのクッキー、ココア生地でチョコチップもふんだんに使われていた。
赤いリボンで包みの口はギャザーを寄せられ、きゅっと結ばれている。
「何コレ、私女なんだけど」
「お母さんといっしょに作ったから…おすそわけ。あとね、もうひとつプレゼントあるよ、それはまた今度わたすね」
「……ふーん、とりあえずもらっておいたげる」
デレデレして、嬉しそうな顔。今でも鮮明に思い出せる、功刀矢代は母親の話をする時、ちょっと首をすくめてはにかむの。
私の傍には、そんな母親居なかった。彼が悪いワケでは無いと、そんな事、理性では解かっている。
それでも私は、その仕草も笑顔も…羨ましくて、殴りそうなのを必死に堪えていた。
幼馴染、気の知れた友人?
いいえ、一番近い所にいる比較対象。それは、幼い私にとって只のライバルなのよ。

「ねえ、矢代くん」
黒いランドセルの背を、掌で叩く。
振り返った功刀矢代は、よろけながら私を真っ直ぐ見つめてきた。
私から声を掛けた事が珍しいから、少しドキドキしている…そんな眼。
「大事な話があるの」
あの時、私の手で関係を引き裂いた――…





ビルとビルの隙間は、山間の様に影を落とす。日没より一足先に、夕紅が池袋を染める。
異界はざっと廻った為、戦々恐々としつつも人間の世界…元の世界に戻ってみた。
ただし、擬態を完全なものとしてくれた呪いの装備は、今ルシファーの手元に有る。
(いつ擬態が綻ぶか分からないじゃないか、下手に力を使うのは不味い…)
ショーウインドウはライトアップを点々と始めていた、其処に映り込む自身をチラリと確認した。
アレが肌に食い込んでいた時と同じ様に、体内のMAGの巡りを意識する。
いつ擬態を会得したのか、自身も把握はしていない。
気付けばマロガレを宿していたんだ…教師を見舞ったあの時には、既に。
だから、本来備わっていた能力なのかもしれない。あのピアスが、自転車でいう補助輪の役割を担っているだけで。
『人間は身体を飾るのが好きだね…この国は寒暖差が有るから、こんなに服もコロコロ変わるのかな…』
声の主は、ウインドウに映り込んでいない。それは完全な悪魔であり、当人も姿を見せる意思が無いからだろう。
ディスプレイされている服達は、もう薄かった。まだ少し肌寒いというのに、マネキンの動きもどこか陽気だ。
アパレルは生もの、と聞いた事がある。
そういえば、それを云っていた彼女も、よくこうしてウインドウで姿を確認していた。
ヒールのシルエットが云々、踵の高い靴を好んで履いていて。結果、俺よりも上背が高くなっていた。
履かずとも俺を見下ろす葛葉ライドウよりは、幾分かマシだったが。
『そんなにジロジロ見て、ヤシロ様はこれが着たいの…?』
他の人間には視えていないセエレに対して、俺は先刻から言葉を返さない。
独り言がデカいと、気味悪いだろう。そんな注目は浴びたくないから。
『うーん…ちょっと、肩幅が合わないと思うよ…』
「……硝子で確認しただけです、擬態が出来てるか」
『あー…なるほどね。大丈夫だよ、ちゃんと黒い線消えてる…』
誤解されたままなのも癪だから、結局は小声で簡潔に返した。
そうだ、メンズ物のディスプレイ前で確認すれば良かったんだ。手っ取り早い位置に在ったから、何も考えずに寄ってしまった。
足早に立ち去る、初夏向きのワンピースなんて誰が着るか。プレゼントする相手も居ない。
『擬態、まだ難しいの…?』
混みあう交差点、セエレはやや上空から言葉を投げてくる。
間近で見れば、その楽そうな事。確かに上空なら、人間の混雑なんかモノともしない。
『あっ、ヤシロ様、見て見て…』
雑踏に揉まれる俺に、どう立ち止まれというのだ。
ゆるゆると上空を闊歩する馬に跨るまま、セエレは棒切れの様な腕を伸ばしていた。
白い腕は夕映えにコントラストを作るが、その指先が示す位置までは認識出来ない。
『ほらほら…』
しつこいが、交差点を渡りきるまでは完全無視だ…
『あそこ、天使が見えるよ』
「何処!?」
黒山の中、通話中でも無いのに唐突に声を荒げた俺。
振り返る周囲の人々、視線を感じて一気に頬に熱が溜まる。
(不味い、アガるな、意識を乱すな…擬態だけは維持しろ……)
セエレに一瞥をくれ、そのまま交差点を乗り切る。
路の隅にじわじわ歩行位置を詰めてゆき、裏路地に転がり込むと振り返った。
地に足を着けた馬、その頭を軽く撫でつつセエレは微笑む。
『さっきね、建物の窓に、白い翼が見えたよ…』
「どの建物です、さっきは位置がよく判らなかった」
『連れていくから…後ろに乗って』
「何云ってるんですか、飛んだら通行人に丸見えじゃないですか」
『ヤシロ様…スカートじゃあないでしょ』
「違う!悪魔の貴方等は、人間に視えてないんですよ。俺だけ飛んでるのが丸見えなんです!云ってる意味解かります?そもそも貴方なんて全裸じゃないですか!」
何をすらっとぼけた回答をしているのだ、この悪魔。
俺が語気も強く返すと、セエレは更にニコォっと破顔した。
「何が可笑しいんですか?」
目許がヒクリと引き攣る感覚を覚えながら、詰ってやる。
すると、段々と見慣れてきた調子で答えたセエレ。
『だって、人間達にはボクが視えてないんでしょ…?ボクが全裸でも、困らないよね…』
そうだ、たった今自分で云ったじゃないか俺、悪魔の姿は視えていないと。
「お、俺が…俺が目のやり場に困るんです!」
『そっかあ、ごめんね…』
ばつが悪い、何が腹立たしいのか後々になって分かり始めた。
俺が普通の人間では無い事を、自称した様なものだったからだ。
視えている側の俺は、わざわざ“悪魔の外見”を気にしてしまった……
『信号でいちいち止まるの…大変だね、ヤシロ様』
セエレに先導されつつ、しかし交通ルールには従って進む。
悪魔の肉体が再生を促したとしても、社会的に死んでは元も子もない。
信号機の明滅が鮮明に見える、もうそろそろ日没だろうか。
堕天使の下らないゲームも幕引きが近いという事に、不安と安堵が脳裏を過ぎる。
『ヤシロ様…ここ』
が、次の瞬間には更なる不安が押し寄せ始めた。
セエレは指し示しつつ、ビルの出入口上空でホバリングしている。
だが俺は、腰が引けていた。
(本当に此処か!?アニ○イトじゃないかよ!)
声には出さず、チラチラとセエレを睨み、察して貰おうとした。
が、セエレは寝ぼけた様な笑みのまま、数回頷き『間違いないよ』とはっきり述べた。
俺は深呼吸をし、とりあえず出入口の脇に身を置き、セエレを顎で呼んだ。
『はい、なあに…』
「此処の何階だった」
『窓から中が見えるのは、上の方の階だね…八階とかその辺かな…』
「居なかったら怒りますよ、っていうか貴方が調べてきて下さいよ」
『ボクは擬態出来ないし、狭い所は好きじゃないの……ね、アナキスト』
跨る黒馬にしなだれて、脚をぶらぶらさせるセエレ。行ってくれる様子は皆無だ。
だが、それに憤った所で無意味な事も分かる。
この悪魔が、人混みに視えぬ姿のままズカズカと入っては、転倒者続出だろう。
ああもう仕方が無い、これ以上独り言を続けては目立つ。
「……ちょっと、待ってて下さい」
『いってらっしゃーい。危険になったら窓から炎でも吐いてくれたら、すぐ駆けつけるから…』
俺が色々バレない様に苦心している事、解っているのかこいつ。



初めて入るが、想像以上の広さと濃さだ。
エレベーターで同席する状況が嫌なので、階段を昇る。
たった数秒間されど数秒間、こいつは何のオタクなのだろうかと詮索される眼が嫌だ。
階段の側面にも、細切れになったアニメか漫画の広告が……頭が痛い、逃げ場が無い。
四方八方、三六〇度、何処を見ても二次元。
漫画もアニメも嗜んだ事が無い訳では無いが、それにしたって……
(私用で居れたとしても、三階までだな)
一般書店であっさり入手出来る本しか、俺は買わない。後は、新田が月曜日に所持するジャンプをめくる程度だ。
モヤモヤしつつ、階数もいよいよ上の方まで来た。
確かに、下階とも異なる妙な空気がフロアから漂っている。
(イベントか何かやってるのか…?)
コスプレでごったがえしている。私服の人も大勢居て、カメラを携えては囲んでいたり。
作り物だと思うが、武器の様な物を持った人も多い。
階段から外れた俺は、人の渦に飲まれぬ様にフロアの端に留まると、眼を皿にして捜した。
(くそ……紛らわしい)
白い翼を背負った者が、複数居る。もしかしたら、その中に本物が居るかもしれない。
だが、全員コスプレイヤーであり、人間の可能性も有る。
(いや…これ、全員人間だろう。セエレの奴、早とちりをしたに違いない。寧ろ、そうであってくれ)
接近すれば、悪魔だと感じるだろうか。いや…俺はそこまで鼻は利かない。
そもそも、そういう意識をして奴等を見た事が無い。視えているのだから、気配の色を確認した事なんて無かった。
翼も、精巧な作りという事が遠目でも判る。背負っている事が確認出来なければ、いまいち判断がつかない。
どうなんだ、滞在するだけ時間の無駄か?あともう一枚で五枚目に到達するのだから、躍起になるべきか?
「どういう仕組みなんですか?」とか云って、翼の付け根を見せて貰うか?いや、そんな事いちいち…しかもこういうイベントのルールも分からない…
こういう時、いっそ完全な悪魔なら姿を隠せたのに。などと思ってしまう自分が嫌だ。
ライドウなら…小回りの利く悪魔を使役しているから、調査に出す事が可能なのだろう。
狡いのか?いいや、あいつの生業は悪魔召喚師。狡いもへったくれも無い。
悪魔を使役したがらない俺が、勝手にハンデを作ってしまっているんだ。
(ルシファーは、痛い罰は無いと云っていた。このまま此処で時間を潰してしまえば良いか…)
万が一擬態が解けても、此処ならカモフラージュしてくれるのではないか。そんな、甘い期待に縋りたい。
半裸に近いコスプレも居るし……と、未だボルテクスの自身を肯定している虚しさに、溜息が出た。

「チアキ様!」

聴覚が以前より増しているとはいえ、この喧噪の中で真っ直ぐ飛び込んで来る声。
思い浮かべた人物と合致するかを確かめるべく、其方に視線を向けた。
ああ…予感は的中した。呼ばれていたのは、俺の知っている“チアキ”だった。
「な、何……人違いじゃないの…」
「まさかボルテクスでの事を忘れていらっしゃるのですか。それともこの世界は、トウキョウが生まれ変わる以前なのですか…!?」
翼を背負った男が、橘千晶の手を取って、身の毛もよだつ台詞を吐いている。
隣で狼狽えているクラスメイトの女子は、介入出来ずに周囲を見回していた。
スタッフを捜しているのだろうか、しかし彼女等の近くにそれらしい人間は見当たらない。
「ヨスガの世を創るという崇高な意志は、眠っているだけなのです!ささ、私と共に…」
項が熱い、突き破ってツノが生えそうだ。
聴き憶えの有る単語の羅列に、肌を掻き毟りたくなる。
「ちょっと待って頂戴。私は友人の付き添いで来ただけで、悪いけれど貴方のコスプレしてる作品を知らないし、ノってあげられないわよ」
「私は現在、追われる身。謝罪は後ほど致します、手荒ですが付いてきて頂きます」
「いい加減にして、人を呼ぶわよ…!?」
気付けば、俺は翼の男の腕を掴んでいた。
間近から見下ろされる、カラコンと云えば納得してしまう淡い色味。
眼と眼が合い直感的に思った。人間では無い、という事。
姿形はドミニオンだったが。それ以上に、この天使が取り乱していた事が要因だろう。
掴んだ腕からも伝わってくる…心拍音にも似た、魔力のリズムが。
「く、功刀君…どうして此処に…」
開放された橘が、ふらりと一歩退く。俺とドミニオンを交互に見て、まだ警戒している。
この天使を、不審者だと思っているのだろう。
でも、それでは駄目だ。スタッフに突き出したところで、こいつはふらりと逃げてしまうに違いない。
逃しては駄目だ――…
深呼吸してから、普段以上に声のトーンを落とす。
「…あんた、人の彼女に何手ぇ出してるんだよ」
出来るだけ、攻撃的にドミニオンを詰った。
傍で女子達が息を止める気配がしたが、今はどう誤解したって構わない。
連れ出す理由が欲しい、こいつと二人きりで、落とし前をつける流れが欲しい。
「私は大事な用事があるのです。貴方がチアキ様とどの様な仲であろうと、関係は有りません」
「一、二分話させろ」
掴んだ腕に力を籠め、背後の橘を振り切ってドミニオンを引きずり去る。
ホールの端に来た所で、一帯がすうっと薄暗くなる。マイク音声の後、大音量でBGMが流れ出した。
ショーか何か始まったのだろう、好都合だ。
男性トイレの個室に、二人で無理矢理入る。
一人客と擦れ違う際、怪訝な眼で見られたが気にしている場合じゃない。
「私刑ですか?はは…野蛮な事。此方からスタッフを呼んであげましょうか?」
余裕を見せる天使は、本を抱えたまま薄く笑った。
その高をくくった態度に、俺の中で沸々とボルテクスの記憶が滾り始める。
「ヨスガとか…云ってましたよね、貴方。こんな所で姿晒してないで、逃げてた方が良かったんじゃないですか」
「一般の者には関係の無い事。私は翼の同胞が居ないかと思い、この集会を彷徨っていただけ」
「…コスプレって知ってます?」
「人間が我々を讃え、贋物の翼を背負う仮装パーティーでしょう?時折本物の我々が混じって視察しますのでね。あの中にも同胞が居るかもしれぬと思ったまでですよ」
「は…そんな集会じゃないですよ、あれ……」
馬鹿らしい、恐らく俺と同じノリで来たのだろう。窓から翼が見えたから、という程度の理由で。
このゲーム、上手く逃げ切るには単独の方が有利だと、俺でも考える事なのだが。
「さ、下らぬ話はさっさと終わらせて下さいな。かつての指導者を見付け、私は興奮しているのです」
「橘千晶を、またコトワリの指導者に引き戻すなら――…」
ドミニオンを掴むこの指に、黒い斑紋が奔る。その瞬間、何かを唱えようとした天使の口。
俺は其処に、すかさず空いた手の指を突っ込んだ。ゲッシュを呑んではいるものの、ハマを使わせる事自体が腹立たしい。
噛まれる指に血が滲み、天使の青白い唇を鮮やかに染めていく。
「…此処で貴方を殺します」
驚く程、冷たい声が出た。これが脅しなのか本気なのか、俺は決めていなかった。
ただ、胸中に渦巻くのは…橘千晶がボルテクスの事を思い出すかもしれない不安。
「ルシファーからどう聴いてるか知りませんけど、俺は小翼羽さえ手に入れば良いんです。確実に殺せとは云われていないですからね」
「ん、んっ!?――」
指を掠める舌と唇の戦慄きが「ヒトシュラ」と発声したがった事を、俺に知覚させる。
やはり、この天使はボルテクスの記憶がそのまま有る。もしかすると、ボルテクスと天界を行き来していたのかもしれない。
次元の繋がりなんて分からないが、俺にとって重要なのは…現状に波を立たされるか否か、それだけだ。
「貴方の小翼羽をくれたら、命は獲らない。ただし、さっきみたいに橘に嗾けたら…次は無いと思って下さい」
少しの間の後、ゆっくり頷いたドミニオン。それにつられて、片手の天秤もゆらゆら揺れた。
俺は口に突っ込んだ指で顎を捕えつつ、腕を捕えていた指を翼に移した。
生暖かい羽毛の中を探り、一番MAGの密集した羽を摘む。それを撫でた瞬間、ドミニオンが軽く喘いだのが気持ち悪い。
ふつり、と抜き取ったが、どうやら痛みは殆ど無いらしい。人間でいうと髪の毛に近いのかもしれない。
そのまま俺は、小翼羽をジャケットの内側に仕舞う。そして、強張った視線で見下ろしてくるドミニオンに、云い放った。
「有難う御座います…此処から出る際には人間から姿を隠して下さい。多分、他の天使の格好した連中、全員ただのコスプレですから、捜すだけ無駄ですよ」
突っ込んだままの指を、更に奥まで忍ばせる。
「……でも、いまいち天使は信用出来ないので、保険としてもう一枚貰います…!」
爪を突き立て、根本からブヂブヂと千切る様に。暴れるドミニオンを無視して、その唇からずりゅっと引っこ抜く。
呻きの様な悲鳴はどこか霞がかっている為、トイレの外からぼんやり響いてくるBGMに掻き消されていた。
「……うぇ」
ああ、気持ち悪いったら無い。本体から断たれた舌べろは、だらりと指先で滴っている。
俺は便器の蓋を開け、不気味なそれを投げ入れて洗浄ボタンを押した。
一瞬で水流に飲まれていった器官。見送るドミニオンは口元を本で抑え、顔面蒼白だ。
いいや、元々青白い面だったか。熱を感じない、人外めいた肌。
(擬態…しないと)
他人の事を云ってられないじゃないか。俺の今の姿こそが、あまりにも――…





「功刀君…!」
男性トイレに引きずり込む姿を最後にして数分、再び現れた彼の着衣に乱れは無かった。
喧嘩には発展しなかったみたい、それとも出てくる前に鏡で乱れを整えた?
駆け寄り、その顔を睨んだ。頬も腫れてはいない、いつもと同じ生白い肌。
「さっきのコスプレ男は?」
「……具合悪いらしいから、暫く出てこないんじゃないか」
「何かしたの」
「俺は何もしてない、話し合いで白黒つけただけだ」
あのコスプレ男の事なんて、半分以上はどうでも良い。
功刀矢代に、そこまでの腕っぷしは無いと私も認識している。
じゃなくて、そんな事よりも。
「貴方、いつから私の彼氏になったのよ」
「ただの知人って云うより、話が早いだろ」
「スタッフに引き渡せば良かったじゃない、どうしちゃったのよ。嘘にしても、らしくもない」
「ああいう奴は注意されたって、その場でしか効果無い。此処の外まで付け回されたかったのか、橘さんは」
それって何なの、思い遣り?
幼馴染のよしみ?いいえそんな筈は無いの、だって功刀矢代は……私を憎んでいる筈。
……違うの?
もしかしたら、これはチャンスなの?
あの時の事を切り出すきっかけなの?
「じゃあ、俺の用事はもう済んでるから……」
「待って“矢代君”」
激しい音響がステージからする、まるでこのフロアがディスコみたい。
私と眼前の彼とで、そんな処に行った事も無いけれど。
「大事な話があるの」
昔と同じ台詞を吐いた自身に、直後気付いた。
でも、彼の表情は硬いまま。少し視線を逸らして、私を見ようとしていない。
「…何か」
「以前の事よ……私、貴方の……」
ああ、駄目だわ。背後にはクラスメイト、周囲は仮装した天使達と大音響。
鮮明に出来ない、あやふやにしか今は伝えられない。もっと静かな場所で打ち明けたいのに。
だって、懺悔室はココまで開けてないものでしょう?
「貴方の邪魔をしたじゃない、私。謝罪があるのよ……」
「…邪魔…それは、どういう意味だ」
「忘れちゃったの?あの約束事。そんな筈無いわよね、だって未だに態度が硬い」
「いつの話」
問われるままに「小学生の頃の」と答えてしまうと、背後のクラスメイトに後々しつこく訊かれそうだ。
回りくどいのは好きじゃないけど、少し間接的に訴える。
「……円かった時の話」
「東京が!?」
「えっ?違うわ、貴方の態度が円かった頃の話」
妙に慌てて返してきた功刀、東京って何よ東京って。
しかも、それだけ確認出来れば良かったとでも云いたげに、どこか胸を撫で下ろす表情を見せて。
「さっきのコスプレ野郎の話にピンと来なかったなら、それでいいんだ…」
「もしかして疑ってる?知人なんかじゃないわよ。ボルボックスみたいな名前挙げてたけど、憶えも無いし」
「それなら、もういい。謝罪される憶え、俺も無いから」
「ちょっと待ちなさいよ、さっき助けてくれたじゃない。だから私も貴方にお返ししないと……」
階段に足を運ぶ功刀の背、ジャケットを軽く掴んで引き留めた。
ランドセルが有れば、もっと間接的に出来たのに。
「あの時の約束、まだ守ってるなら…もう考えなくていいのよ。私が大人気なかったわ、もっとやる気出していいのよ矢代君」
間近に、口早に発した。謝罪の態度とは云えないかもしれないけど、私からこの件を掘り返した事に意味が有るのよ。
「……やる気?」
「そうよ…だって、私に遠慮したままでしょう、貴方」
布を伝って来る振動に、思わず掴んでいたジャケットを放した。
功刀矢代は、肩を揺らして…笑っている。
幼い頃の真綿の様なそれでなく、細まる眼は弓張りの様に鋭い。
「別に、これが俺の普通だけど」
「……普通…?」
「上位を維持するのも面倒、周囲と張り合うのも疲れる。中の中が一番とやかく云われないし、楽だってよく分かった」
「じゃあ、遠慮とか…約束を意識してるつもりは、無いって事?」
「……所詮、子供の口約束だ。でも、あの時の橘さんのお陰で、楽な生き方に気付いた。有難う」
本当?その眼はだって、笑ってないわ。
「もう行く、用事があるから」
明らかに、私を蔑んでいた――…



「結局トイレから出て来なかったね、あのしつこい天使」
「そうね」
「狭いだろうにね、翼邪魔でしょうがないよねアレじゃ」
イベントの袋を両手に提げ、クラスメイトは満足気だ。
すっかりライトアップされたウインドウの反射が、その袋の表面をテラテラと光らせる。
太陽はすっかり隠れて、肌寒い。それでも軽やかな衣装のマネキン達は、硝子の内側で踊っている。
「橘さん、やっぱリア充だったんだ」
「聴いてたでしょ、誤解よ」
「本当?でも確かに、功刀君って女の子にあまり興味無さそうだもんね」
本当よ、女子からの謝罪を突っぱねて……約束なんて無かった様なものだって、平然と述べて。
あの調子だと、恋愛結婚は無理じゃないのかしらね。
「あっ!男の子には興味あるのかな?な?」
「どうしてそう飛躍するのよ」
「あの天使の人と、もしかしてトイレの個室で……うわぁ…ハレンチ」
「狭いだろうに〜とか云ったばかりじゃないのよ、貴女」
「功刀君は平然としてたよね、つまり攻……ゴクリ」
「ものの数分で、ちょっと無理がない?しかも功刀君の方が身長低かったわよ」
「橘さん修行が足りんよ。私の秘蔵の書を、今度数冊貸そうぞ」
どういう修行よ、とツッコミながら池袋駅で別れた。
私は予め電話で呼んでおいた車を待つ為、西口に立つ。
(私からの大事な話よりも大事な用事って、何よ)
サンシャインでの用事はもう済んでいたのかしら、というかどうしてあんな所に居たの?
謎が謎を呼ぶけれど、訊いた所で答えてはくれないでしょうね、そんな予感がする。
(子供の口約束……)
目の前でチカチカと、光源がチラつく。面を上げると、見慣れた車が停まっていた。
カスタムも何も施していない、シンプルな白のポルシェ。
ロックが解除されたのを目視してから、後部座席に乗り込む。
「お友達は良かったんですか?」
「いいの、帰りがてら寄る所有るんですって。それより御免なさいね、稽古でも無いのに」
「いえいえそんな。それに、私もお家の高級車を運転出来るから、役得なんですよ」
「高級車って云う程?」
「そうですよ。あっ、別に賃金に文句が有る訳では無いので、お気を悪くしないで下さい」
「でなけりゃとっくに辞めてるでしょ」
ふふ、と笑いながらミラーを確認している運転手。
専属ドライバーという訳ではなく、昔からお世話になっているハウスキーパーだ。
母の居ない家、定期的に出入りする彼女の方が付き合いが深い。
家事と同じでテキパキと安全確認を済ませて、ハンドルを回す。
「よく小さい頃なんかは送迎しましたね、あの頃はクラウンでしたっけ」
「だったかしらね、とりあえず私は白の方が好き」
「クラウン黒でしたもんねえ」
他愛も無い事でも、さらりと聞き流してくれる。昔からそうだ。
母親よりもう一回り年齢が上だったけれど、それが却って安堵感を与えてくれた。
「慣れない所で遊んだから、ちょっと疲れたわ」
「着いたら起こしますよ」
「そうして」
結局この人だって、誰かの母親なのだけど。
小さい頃には、とっくにそう思って拗ねていた。
(サンシャイン60が見える……)
瞼を下ろす瞬間、遠目に見えたビルのシルエット。
あそこの水族館にも連れて行ってもらったっけ……功刀一家に誘われて。
確か“大事な話”をぶつける前の事よ。
薄暗いゾーンの、特にエイにビビっちゃってたわね功刀君。
母親にひっついて、なんだかそういう種類の海洋生物みたいで、密かに笑ったの。
笑顔は見せたくなかったから、こっそりとね。
車窓に映る街の光が、巨大な水槽を思い出させた。
完全に瞼を閉じて、さっさと眠ってしまいたかったのに。
脳裏を巡る、大事な話――…



連れ出す時に、周囲の男子達が「ひゅーひゅー」「矢代と千晶らぶらぶー!」と囃し立てた。
功刀は耳まで赤くしていたけど、私に気が有った訳じゃないと思う。
そんな、恋愛感情が芽生えている風は無かった。彼の一番は母親だって、傍から見ていればすぐ判るし。
「あっ、そういえばこないだ云ってたの、はい」
校庭の花壇の傍まで来た時に、功刀はラッピングされた小さな包みを寄越してきた。
ラッピングといっても、簡易的なもの。クラフト封筒に、シールで封がしてあった。
私はそれを一瞥して、さっと受け取る。中身を確認する事も無く、手提げに放り込んだ。
「千晶ちゃん、バラの花好きでしょ。展示終わったら、あげようと思ってたから」
「よく分からないけど、ありがと」
「大事な話って、なに」
周囲に誰も居ない事を、視線でざっくり確認する。
少し、心臓がばくばくした。告白みたいな空気に嫌気が差して、いよいよ打ち明ける。
「ねえ、矢代くんって私の事嫌いなの?」
「えっ、どうして……」
「私のジャマばっかりするじゃない」
「じゃま……?」
青天の霹靂だったでしょうね。「嫌いなの?」から「じゃあ好き?」という繋ぎでも無いし。
彼の眼は戸惑い始めて、それでもこの時はまだ、しっかり私を見ていた。
「いつもいつも、テストも発表会も、私のすぐ上ばっか。嫌がらせなの?」
「そんな事ないよ、ぼく、そんな……」
「目の前でお母さんにばっか甘えてるし、お母さんのいない私の事バカにしてるでしょ」
「いない…?」
この反応からして、功刀に他意が無かった事なんて、既に察していた。
それでも歯止めが効かなかった、幼稚な乗り物の様に、ブレーキも無く。
「ねえ、矢代くんのお母さんって、私のパパの部下でしょ、ブカ」
「……た、多分そうだけど」
「じゃあ、私が「矢代くんにいじめられてる」ってパパに云ったら、矢代くんのお母さん、こまっちゃうよね」
馬鹿、本当に馬鹿げている。
幼稚なスピードに任せて、この幼稚な脅し。
でも、功刀矢代は顔面蒼白だった、元々色白な顔から血の気が失せていた。
黒いランドセルが震えていた。多分頭がパニックだったから、身体にも響いていたのだと思う。
「私、いつも矢代くんと比べられて、さんざんなのよ」
「……ごめん」
「ねえ、私よりおりこうさんになるの、止めてよ」



決定的だった。
功刀矢代は、あれから私の事を真っ直ぐ見ない。
朗らかな笑みも徐々に消えて、そこそこ上位だった成績はかなり落ち着いてしまった。
見えない努力が、本来彼にも有ったのかもしれない。妬んでいた私以上の苦労が。
母親を喜ばせたい一心で……もしかしたら。
でも、当時の私の頭は、そんな事考える余裕も無かった。
彼の「どれも程々に」という、あの現状維持・低空飛行は、私が与えたきっかけのせい。
既に板についてしまったのか、彼はさっき「むしろ楽」だと云った。
けれど、私は憶えているの。あの脅しをした時の、不安そうな幼い横顔を。
きっとあの瞬間、私は彼の中で“友人”から“母親に害を為す者”に変貌したのね。
(だから……最低最悪の幼馴染なのよ、私は)
薄眼を開ける。光のチラつきが穏やかになったから、そろそろ家だと思う。
フロントミラーで運転者の視線が此方に来ていないかを確認して、そっとポシェットからハンカチを取り出した。
リネンの質感が指先に冷たい。天使と薔薇の花を見て、更にテンションが落ちた。
普段なら愛しいモチーフも、この刺繍で見ると今は胸を抉るかのよう。


足を引っ張ったのよ……出来の悪かった私は、一方的に妬んで。
幼かったとはいえ、罪深い。
動物の世界なら、淘汰されて当然なのに……姑息に地位を得た。
上の人間が下に合わせたって、結局何も生み出さない。
私は結局、同じ速度で飛行を続け、功刀矢代だけ失速した。
私の一言が無ければ、二羽で同じく飛んでいたのに。
(弱い者は、乱すのだわ……)
もう、二度とそうなるまいと、握り締める。
決別の日、帰宅してから包みを開いたらこのハンカチが入っていて。
溢れる涙を吸わせ続けた事を思い出しながら、微振動の揺り籠に再び眼を瞑った。


御留ロードハンティング・後編・了


* あとがき*
あれっ、勝負はどうなったの?と思われそうですが、回想と場面転換が多いので今回はこれでキリにします。
ライドウと人修羅との決着は次で……このままいくと引き分けな羽枚数ですが、当然人修羅の目論み通りにはいきません。ネタバレにもならない展開ですので、先に述べておきます。
人修羅のあの性格のきっかけは千晶ですが、そこからどんどん他者との交流に積極性が無くなったのは、元の素質かと。

『ヨスガの思想』に辿り着くには、どういった記憶が必要なのかと考えており…あの攻撃的なコトワリも、そう感じるのは人間社会に持ち込むからであって。生物としては案外ノーマルだったのだなあと思いました。
お嬢様で帝王学を叩き込まれたとしても、それは周囲を出し抜いたり教育する能力であって。もう少しコンプレックスに近い、恥の意識が必要だと考えました。
嫌悪対象というのは、自身に覚えがあるというパターンが一番攻撃性を増す気がする為。
幼馴染というのは公式設定なので、この辺も活かして。第一章の頃から、千晶との関係はおぼろげですが構想してありました。今回ハッキリさせた次第です。
…創世転生を繰り返すごとに、コトワリの思想も塗り替わるか?でも転生のタイミングは受胎前なので、幼少時の記憶は結局同じままですね。千晶の根源にある意識は揺らぐ事は無いでしょう。

「弱い者は乱し、惑わすの。自分では何もできないから。」「彼らの相手をしている限り、美しい世界の完成する時は来ないのよ。」「どう?私の言うこと、わかってくれるでしょ?」
ゲーム中の彼女の言葉。

乙女ロードに行った事が無いので、これまたあやふやな情景描写。腐女子のイメージ像は、皆様に任せます。