蟲の知らせというやつか。教室の扉の前まで来た途端、胸の内が軋んだ。
中に巣食うマガタマが、俺に何かを感知させ足止めする。

 「先生、もう大丈夫なの」
 「いつまで居られるの、また入院とかしないよね、卒業までうちの担任でしょ?」

ああ……いよいよ戻ってきやがったか、あの女教師。
まじまじと面を拝むのは、どれくらいぶりだろう。
病院の屋上で見た時も、病室で見た時も、様子は変わらなかった。
無感情では無いが、しかし取り乱す事も無いその姿勢……穿って云えば、無神経。
ボルテクスで氷川に捨てられていた際も、正直ざまをみろと感じた。
独りで出来ると公言しながら、俺を頼って来た事を忘れてやるものか。
「……功刀?」
声に振り向くと、男子生徒が怪訝そうに見下ろしてきていた。
同じクラスの……苗字はなんだったか。
「立ちくらみ?」
「いや……」
「おう、だったらさっさと入れ」
室内履きの踵を爪先で軽く小突かれ、俺は仕方なく扉をスライドさせた。
「おはよう」
笑顔の高尾祐子が、真っ先に挨拶を仕掛けてくる。
無視しても面倒が発生すると思い、俺は一瞬目を合わせ「おはようございます」と返した。
俺の後に続けて入室した男子生徒は、おおっと歓声を上げて教師に歩み寄っていた。
「いつ退院した?」
「こないだよ」
「今日から来てんの? オレ昨日休んだから分からんくて」
「あら、風邪でもひいてたの? もう平気?」
「いや〜昨晩まで立ちくらみ酷くってさ」
他愛ない会話も、良い囮になってくれて助かる。
モラリストなあの教師は、生徒をないがしろになど出来ない筈だ。
着席し、俺は自然と新田の席を見た。
仁王立ちの橘に制され、椅子から尻を離せない様子の新田が垣間見える。
散々あの教師に付き纏った男子を、見かねたクラス委員が自重させた……そんな所か。
それでも橘の隙間から教卓を窺う新田。一部始終を見た俺は最早、呆れた溜息しか出なかった。



エンノウ





「ねえ、真面目に選んでる?」
ずっと鉢植えを見ている俺に、ぴしゃりと冷たい声が刺さる。
視界の端に、橘の髪が揺れた。肌から眼から……色素が薄いのか、茶髪に見えるそれ。
当人の利発さが不良要素を排除するのだろう、校内で彼女が“染めている”と疑う人間は居なかった。
「しかも土有りのプランターって貴方……病室じゃないとはいえ、まだ根っこモノは避けるべきでしょ」
「……まだ安静にしてた方が良かったんじゃないのか」
「ふうん、そんな事云う訳? 新田君の盲目っぷりも失笑ものだけれど、貴方のその態度も褒められたものじゃない」
「じゃあどうして俺を同行者に選んだんだ」
逆に詰れば、むっと唇を引き結ぶ橘。
普段、打てば数倍の音響になって返る金属の様な彼女が、最近どこか大人しい。
密度の高い木材の様な、響けど鈍い反応だ。
「それは……貴方なら、連れ慣れてるからよ」
「真面目に贈り物選ぶなら、新田を選ぶべきだったと思うけど」
「……そうね。全く、祐子先生の事となると本当に冷たいんだから」
快気祝いとかなんとかで、唐突にクラスの連中から資金を巻き上げた挙句の生花店だ。
一人百円程度で済むので、全員あっさりと財布を開いていた。
預ける先が橘だから、という安心感も手伝っているのだろう。
そういった意味では、俺も信用はしている。
「ま、とりあえずさくっと選ばなきゃね。いくら近くとはいえ、昼休みの間に戻らなきゃならないし」
学校から徒歩十分の距離、逆算すればまだ余裕が有る。
出来れば、ぎりぎりまで吟味してくれ。
俺は少しでも、あの教師が居る空間から離れていたい。だからこのお使いにも乗ったんだ。
「祐子先生どんなのが好きかな」
「……好みが分かれそうなのは避けたら」
「例えば」
「えっ……香りが独特なものとか、色合いが派手だったり……」
「霞草オンリーにでもする?」
「そっちこそ、真面目に考えてるのか?」
「あら、貴方に合わせているだけだけど?」
やはりおかしい、先日ドミニオンを追い払ってからずっとだ。
「下らない」と一蹴するタイプだった筈なのに、どうして確認するかの様な態度ばかり取る?
俺に合わせるだなんて、気色の悪い……
「でも霞草ってのも、悪く無いわね。景気付けなのだし、個人的にはもっと華やかなタイプを贈りたいけれど」
「方針が決まったなら、店の外で待ってても良いか」
「アレンジメントを買うんだから一瞬よ」
「それなら尚更だ」
噎せ返る花の匂いから逃れる様に、重い扉を開けて外に出る。
少しだけ曇ったショウウインドウに、緑の呼吸を認識した。
透け見える店内、ぼんやりした彩の中……橘千晶のセーラーだけが重い色を落とす。
こういう絵を描く画家が居た気がする、名前なんか憶えていない。
「男の子は、買い物に付き合うのが一様にして苦手なのかしらね?」
鮮明に聴こえた声を振り向く、橘はまだ店から出てきていない。
視線の先にはあろうことか、俺が本日散々回避してきた教師が居る。
室内履きでもない、黒革のショートブーツで。腕組みしつつすらりと立つ姿こそ、久しかった。
「良いんですか、学校出てきて」
「橘さんが居るって聞いたから妙な不安は有りませんでしたけど、生徒のみで学校の敷地から出させるのは少し怖いわ」
「学年主任に一応許可貰ったそうですけど」
「そうね、主任から此処だと聞いたから……貴方達が誠実な生徒で良かった、こうしてちゃんと居た」
「他に何処へ行くって云うんです」
「男女でフけちゃう生徒も、偶に居るのよ? 制服を着ていれば、平日の街中でお察しだと思うけど」
「俺と橘さんはそういう関係じゃありませんし、こうして教師と立ち話するくらいなら一人で先に戻りたい」
棘を隠さずに物申せば……軽い静寂が訪れた。
硝子に近い薔薇達が、ひっそりと艶めいた様に見える。
あの花の構造を思えば、人を傷付けても許される錯覚を抱く。

「矢代君、メールは見てくれた?」

脳裏に文面が甦った瞬間、弾かれた様に俺は走り出した。
高尾の声と、微かに橘の声が背後から聴こえる……駄目だ、まだ離れなくては。
幾つかの脇道に逸れ、その道のまた脇へと入る。
知らない路地……大通りに出れば迷う事も無いだろうが、今はとにかく学校に戻りたくない。
「出先で具合が悪くなったので、そのまま帰路に就いた」と事後報告すれば良いだろうか。
いや、鞄も財布も眼鏡も学校に置いてある、辛うじて携帯電話を持ち出しただけの丸腰だった。
どうしても一度は戻る必要が有る、定期も鞄の中か。
(何なんだよ、救世主って)
あの教師が、本当に只の教師だったのなら、薄気味悪いの一言で済んだ。
カルト宗教に傾倒しているとしても、説明がつく。
彼女はどちらにも該当しない、後者は少し違うと思う。
憶えている限りでは、氷川と手を組んでいただけで……ガイア教徒という風では無かった。
創世の為に利用された、一時的な巫女に過ぎない。
(あの教師、俺に個人的な因果を感じているのか)
其処が恐ろしく、おぞましい。ボルテクスで彼女だけが孤立した事も、理解がいった。
他の連中は何かしら結託したり、所属したり。あるいは自ら打ち立て、同志を募っていた。
しかし高尾祐子は異質だった……なにより《人修羅》というフレーズを、殆ど発していない。
まだ普通の人間だった俺に、真っ先に干渉してきたのだから。
やはり、どう考えてもおかしい。
「はあっ……」
人目につかぬ細い路地だからと、端にへたり込んだ。
湿った臭い……緑の吐き出す空気とは違う、息苦しい都会の臭い。
他で暮らした事も無いのに、この東京を酷く煩雑に感じる。
以前も人混みは嫌いだったが、此処まで鋭敏では無かった。
(誰も居ない東京を、知ってしまったからだ――)
懐かしいだとか、思いたくも無い。
トウキョウと云う名の一括りでは有ったが、あの世界の大半は砂漠と化していた。
重ねてしまうな、これらは似て非なるモノ。受胎後の東京なんて、違う次元だ……
『アノ人間……』
『う、うめぇ!』
『マダ食ッテナイダロ』
『こいつぁとろけるMAGのニオイ!』
『オレ様達ヨリモ鼻ガ良イッテ、オマエナァ……』
どこか距離感の無い会話が耳に入り、察知されぬ様にそっと頸を上げた。
目の前の壁面に茂る苔、それを視線で這い上がる。
二階程の高さに有る、あれはベランダだろうか……フェンスにぶら下がる猿と、網越しに犬が視えた。
項をびりりと痺らせつつ、目を凝らせば連中の姿がくっきりと色付く。
違いない、どちらも悪魔。猿の方は……オベリスクに居た奴、桃色の体毛に金管がケバい。
犬の方は二匹居るのかと思ったが、首が二つ有るだけだった。
オルトロス……確か、火が効かない。
この世界の悪魔がボルテクスと同一の性質なら、間違いなく面倒な相手。
獣のくせに火が平気とか、理に反しているじゃないか。
俺は徐に立ち上がり、素知らぬ顔で路を抜けようとした。
『アッ、逃ゲルゾ』
『挟み打ちされるとも知らずに、キッキッキ』
『ソンナ作戦、聞イテナイッテ……』
ガシャンとフェンスの震える音がして、向こうに立ち塞がる猿の影が顕わになった。
背後からも着地の気配、犬の微かな唸りが大気を微振動させた。
この路地と合流する大通りは、営業回りかはたまた休憩中のサラリーマンが行き交っている。
そんな日常的なシーンが、悪魔の背景で流れている、まさに不協和音。
頭が痛い、酷く苛々した。
(他にもいっぱい居るじゃないかよ、人間なんて――)

ああ……違う……この脳の軋みは、光景の所為だけでは無い。
路地にはぐれていたからといって、俺だけが狙われる。その事実に納得出来なかった。
野良悪魔共に、嗾けてやりたい。
「今すぐ大通りに躍り出て、好きなだけMAGを喰らえば良いじゃないか」と。
そんな妄想を一瞬で想っていた……

無差別行為を許した自身に眩暈がし、この思考を誰にも知られたく無いと背筋が伸びる。
(相手してやるもんか)
確かに、現状では挟み打ちに遭っている。
しかし悪魔達から迫って来ないのは、多分俺を軽んじているからだ。
“MAGがそこそこ美味い只の人間”程度にしか思っていない、そうに決まっている。
軽く深呼吸し、壁を向いたまま左右を確認した。
この路地を覗きに立ち止まる者も居ないし、勝手口らしき扉も開く気配は無い。
俺は地を蹴り跳び上がると、窓のサッシへと靴先を引っ掻けた。
それを蹴り離す様にして反対へと跳び、同じく僅かな突起を踏む。
先刻まで悪魔達が屯していたベランダへと転がり込み、今度は連中を見下ろした。
ぽかんと此方を見上げてくる犬と猿に、俺は一瞥くれてから身を退く。
この建造物が何かは分からないが、とりあえず中に入れた方が助かる。
洒落たテラス、という風情は無い。コンテナが無造作に高々と積まれ、いかにも消防法違反といった風情なら有った。
灰色の扉に耳を近付け、神経を澄ませる……すぐ近くに気配は無い。
雨風に晒されて退色したドアノブを掴み、捻ったが空回りする。
ガチャガチャとノブを鳴らしている内に、フェンスのギシつく音が背後から迫る。
『おいっ、お前! 悪魔のクセに人間の振りしてんのかっ』
追いついてきたのはピンクの猿だ。片手の剣が邪魔をしているものの、よじ登る事は難でも無いらしい。
手足と指の本数が同じなだけはある、こういう時に人間の形の悪魔を恨みたくなる。
『おぉん? 無視するキかーっ!』
面と向かった俺に対し、突っ込んでくるかと思えば剣を投げつけてきた。
咄嗟に体軸を反らせば、スコンと小気味の良い音が響く。
背後を横目に見る、扉と壁の溝に丁度突き立った剣が微振動していた。
『避けやがってっ、ムキーッ!』
猿が威嚇の声を上げ、跳ねる様な足取りで接近してくる。
俺は刺さったままの剣を抜き取り、反射的に投げつけた。
金冠が割れ、額に銀色の剣を携えた猿がよろりと踊る。
弾ける血飛沫はコンクリ床を雨の様に濡らすだけで、大した赤味も無かった。
「はっ……はっ……」
投げつけた姿勢のまま硬直していた、己の荒い呼吸でようやく我に返る。
ふと手を見れば黒い斑紋が浮かんでおり、思わず息を呑んでうずくまる。
大丈夫だ……目の前の悪魔は戦闘不能に陥った……集中して擬態しろ……
先刻は高い位置から辿り着いていたのだろうか、オルトロスは下に留まるまま二重で吠えていた。
(他の足場から此処に来るとしても、まだかかる筈、焦るな)
こういう時に、あの呪いのピアスが有れば……等と考えてしまう。
頭から消しておきたい存在……“葛葉ライドウ”の与えてきた、あの装身具。
最早お守りの様な感覚だ、ミス出来ない時に有って欲しいと思う。
あんな物に頼らずとも、せめて姿は人間でありたいのに……
そうだ、まだルシファーから返して貰っていないじゃないか。
何と云えば此方に戻してくれるんだ? あんな呪いのアイテムの為に、頭を下げたくは無い。
「……あっ」
ひとまず黒が抜けた手でノブを掴めば、今度はあっさりと回った。
というよりも、引っ掛かりすら感じない。
そっと開けば、扉の側面がおかしい。どうやら先刻突き立った剣は、錠を分断していたらしい。
隙間から内部を覗く……薄暗い廊下に人影は無い。
いっそ何かの店舗なら、客を装い中を通過出来たというのに。都合の悪い事に、何かの事務所らしい。
己の肩越しに、ちらりと背後を見る。まだ微かに痙攣している猿が、血溜まりにそういうオブジェの様に在った。
意地を張って相手をしまいと逃げてきたが、結局一体潰してしまったのだ。
諦めて引き返し、オルトロスも始末してしまおうか?
ただし、路地で戦うのは危険だ……肉体的生死では無く、社会的な死活問題。
一般人にバレずしてやり合う為には、路地より更に人目につかない所が良い。
それこそ閉鎖空間、密室の様な所が――……

「いやぁっ! やめて!」

隙間風の様に、薄く開いた扉を揺らした。悪魔の声ではなく、人間女性の肉声だ。
俺は反射的に扉を閉め、身構えた。暫くしても廊下に人の気配は無かった為、再び開く。
通路に連なる部屋の何処かから、断続的に怒号が聴こえる。
(俺には関係無い……)
ゴキブリが出たって、お気に入りの食器が割れたって、悲鳴する人は居る。
一大事かどうかも判らない、しかも此処で俺が押し入れば不法侵入で更に悲鳴されるだろ。
完全な悪魔なら、人間から姿を隠せたのだろうか?
ふと脳裏を過ぎる……召喚が出来ないのなら、身近な悪魔が一匹居る。
俺は転がったままの猿に歩み寄り、軽く靴先で尻を蹴った。
反撃では無いものの眼をひん剥いたので、此方も即座に一歩後退する。
「まだ生きてます? お使いに行って欲しいんですけど」
『…………ゴポッ』
「動けるだけのマガツヒ……じゃないか、マグネタイトなら差し上げますから、お願い出来ますね」
内心「どうして喧嘩を売ってきた悪魔なんかに」と思いつつ、俺は猿の額に突き立ったままの剣に触れる。
柄を握り締め、気を集中させ力を流す。吸われる事なら多かったが、こうして自ら流す事は少ない。
何時の間に、意識せずとも出来る様になってしまったのか……
そんな複雑な気持ちが見え隠れする頃には、猿も血の気を取り戻していた。
しかし朦朧とするらしく、フラフラと危うい足取りだ。
俺は余計な事を考えない内に、鬣から突き出た尖り耳に命じる。
「人間にバレない様に、奥の部屋の様子を探ってきて下さい」
『様子……ヨウス……揚子江が見えるゥ……』
その視線が未だに彷徨っているので、突き立つ剣の柄頭をぐぐっと押してやる。
わっと眼を見開いた猿が、桃色の毛を逆立て悲鳴を上げた。
『ヒヒッ!』
「目、醒めましたか」
『何をシテこれば良いんだ』
「暴力沙汰が起こっていないか、確認だけしてきて下さい」
『たった今! ココで発生してるっしょ!』
「しっかり報告しに戻ってきてくれたら、以降俺から干渉はしません……寧ろ、さっさと消えて欲しいし」
俺が語気を強めれば、眉間に皺を作った猿。
これはばっくれそうだな、と感じたので、見送りつつ釘を刺す。
「其処の隙間から、一応見てますからね。他の階に逃げたら、後ろから撃ちます」
精度は悪いが、魔弾を撃てた筈……
滅多に使わないので確信は持てないが、この際ハッタリだ。





「やめてっ、まあ君が死んじゃうっ!」
金切声の煩い女を、組員が両脇から抑え込んだ。
当のまあ君は、僅かに呻いて蹲っている。
ちょっとばかし腹を小突かれただけだってのに、軟弱な野郎。
今のメンツでは一番口の回る組員が、まるで悪役の様な口調で二名を詰る。
「はは、大丈夫よネエちゃん。人間ってのぁ案外、ビシバシされた程度じゃ死なねえから」
まあ君一人なら、適当にボコして終わりだったろうに。
運悪く、デートしてる所を目撃されちまったから……お二人様で御案内ってワケ。
「オタクの彼氏はブツの売人をしてて、そのブツってのぁウチから買ってたの、分かる?」
「ブツ?」
「アレだよアレ、たかーい粉薬。何だ、キめてヤった事無いの? 注射器使わんだってゴムの先っちょに垂らしてアソコ突っこみゃ、まず女にゃバレないからねェ」
「し、知らないよそんなの! ねえもう帰りたい、どうしたらまあ君放してくれるの!?」
「こちとら金さえちゃあんと納めてくれりゃ文句無ぇんだ、何だったらまあ君からオタクが買い取ってくれても良いのよ?」
いかにも優男風なまあ君は、常連客が旨く掴めなかったんだろう。
一度目なら警告で済ませる延納も、二度目三度目となればドツキ回されて当然。
「分かったからっ、お金立て替えれば良いんでしょ!?」
「おっ、気前が良いねーネエちゃん。現金でいけるの? 結構あるよ? デート代の持ち合わせじゃ足りんで多分」
ここでまたテンプレみたいな、サマンサタバサの財布なんぞ開きやがって……
街中で見ても群像の一角としか映らない、特徴の無いルックス、型にはまった女子大生。
こんな男を選んでしまうとは憐れな奴……シャブってないなら、まだマシか。
とりあえず現金下ろして来ないと無理だから、さっさと財布は仕舞えって。
「当然だけどネエちゃん、チクんなよ? まあ君もお縄になっちゃうからね?」
「……はい」
「うんうん、聞き分けが良いね。そいじゃ此処の一階ですぐ下ろしてきて」
「えっ、でも銀行ATMなんて無かった」
「130万も貯金有るの? 無いっしょ?」
「そ、そんなに!?」
「ほぉ、無理? 風呂沈めたろうか?」
「ひっ」
「……はっは! なんて都市伝説かい! んな七面倒くさい事ぁ云わねえよ、ほら借りに行った行った」
下階に在るのは無人契約機、そういう事。
流石に不安が累積し過ぎたか、目許のラインが滲んでパンダになっている女。
気風の良い奴には一目置くので、そう乱暴にはしない。
寧ろ、其処でへこたれてるまあ君みたいな野郎に、こっちの連中は手厳しい。
オレは先刻から見ているだけ。部屋を出ようとする女の為に、扉の横で待機していた。
と……ふと妙な気配に引かれて、横目に擦り硝子を確認する。
扉にはめ込まれた縦長の窓に、人影は無い。
しかし気になってしょうがない、利き手を自由にした状態で唐突に扉を開け放った。
扉の背が何かを押しやった感触があり、一歩踏み出し覗き込んだ。
(雨漏り……?)
点々と、廊下が濡れている。びっしょりというには程遠い、濡れ布巾を絞らず持ち歩いた時の様な。
「どうした、誰か居た?」
「……いや、ちょっとそんな気がしたけど、居らんかったです」
「ワレそんなんばっかやん、まーた幽霊かぁ? お前、この仕事向いて無さ過ぎ」
事務所がドッと沸く、それはいつもの事だから良い。
やっぱおかしい、ぺたぺたと足音が聴こえる……その音を拾って、視線で追えば……
最後に見た時はしっかり閉まっていた筈の、ベランダへの勝手口が薄く開いている。
(何か光ってないか)
日光じゃない、逆光の中で点の様にして何かが光っている。
つまり、其処に誰か居る。
「おい!」
威嚇の声を上げ、目掛けて走った。
徐々に幅を広くする隙間から、何かがコッチへと躍り出てくる。
「っう、げはっ、げえっ」
喉に一撃喰らったのだと、歪む天井を見ながらに察した。
咽ながらもんどりうって、体軸を捻る。ジンジン痺れる首を反らし、事務所の出入口に向かって喘いだ。
駄目だ、喉が潰れて声が失せている。
(何だ、あいつ)
その背中は、どう見ても学ランだ。学生が殴り込みに? んなバカな。
オレが立ち上がる頃には怒号が飛び交い、学ランは平然と室内へ侵入。
慌てて加勢に駆け寄れば、戸は開いている筈なのに何かにぶつかった。
「ってえ……おい、しっかりしろ」
重い、押し退けてみれば、それはぶっ飛ばされたらしい組員一のデブ。
まだ寄りかかってくるキングサイズのスーツが邪魔で、廊下側にごろっと転がしてやる。
「どこの組のモンじゃてめえ!」
ナイフをチラつかせた組員が怒鳴る、それでも学ランの挙動にブレは無かった。
突いてくる切っ先を紙一重でかわすと、柄を握る組員の手首へ目掛けて手刀がかまされる。
それは刃物よりも鋭利に感じられた、風切り音さえ聞こえた。
喰らわされた奴は悲鳴を上げて、二三歩後退する、多分骨がイったんだ。
床を打ってクルクル踊るナイフを拾おうと、脇の組員が跳び込む。
あの学ランより近い位置だ、先に拾われる事は無いだろう。
そう認識していた周囲の安堵は、またもや悲鳴で帳消し。
学ランは我先にと焦る事もせず、組員がナイフを掴み上げた瞬間を狙って、その手首を蹴り上げていた。
弾みでポオンと放られたナイフを曲芸みたいにキャッチしたソイツ、いよいよコッチを振り向く。
顔にクッキリと、墨が入れてあった。
明るいLEDの電灯の下、鮮明に映るそれは異様な空気を事務所に流した。
見慣れている筈のモンモンに、一同押し黙って悶々とする。
と、学ランが息も乱さずさらっと喋った。
「……殺人しようとしてたんですか?」
開口一番がそんなセリフなもんだから、何て返せば良いのか、誰も分らないのだろう。
「襲撃したんはテメエだろうが!」
「舐めた真似して、ガキだからって見逃して貰えると思ってんのか!」
口々に野次は加速するが、誰も飛び掛かろうとはしない。
オレは押し退けたデブが気絶しているのを好い事に、その影に回り込んでそろそろと廊下を移動した。
デブの垂らした鼻血のせいで這いつくばった手が滑ったが、立て直して前身する。
「逃げられませんよ」
学ランの声は、恫喝といった凄みも無い。それが却って、気味悪い。
「他の上階にベランダは無い。其処のベランダは今、外から押さえて貰っています」
「んだとオイ、仲間が居るのか!?」
「仲間なんかじゃないです、一階も止めておいた方が良いですよ」
マジだろうか……ハッタリかもしれない……
他の連中が応酬している間にと、オレはベランダの方へと駆け出す。
さっきまで薄く開いていた扉は、僅かに揺れるがそれ以上開いてくれない。
ノブを回しまくれば、金具の感触も無かった。
誰かが向こうから押さえていると云っていたが、まるで重い空気の様だ。
力みや息遣いのカケラも伝わってこない、薄い金属扉一枚しか隔てていないのに。
人の居る気配が無かった、もしかしたら積んであったコンテナで塞いである?
いや、結局協力者は居るって事か。
「くっそ」
それならばと踵を返し、再び廊下を走る。
事務所の前を通過したが、学ランの邪魔は入らなかった。
階段を数段飛ばしで駆け下り、無人のフロアに出る。
契約機だけが挨拶する空気を裂いて、表に出ようと――……
(やべえ、何か居る)
直感だった、呑気に開く自動ドア……その狭間からぶわっと吹き込むのは、外気だけじゃない。
思わず立ち止まったオレの脚が、突如空中に引っ張られる。
「うおぁッ!?」
そのままズリズリと見えない何かに引き摺られ、フロアの中央へと戻された。
熱い、数年前に頭の飼い犬に噛み付かれた時みたいな。
スーツのズボンにめり込む空気は、まんま獣の歯型の並び。
「うわっ、うわぁっ」
既に自動ドアは閉じている。外の方が明るいので、この状況は表から見えない。
パニクって逆に冷静な頭が、そう判断していた。
「だから云ったでしょう、しかも血の臭いさせたまま……」
うんざりしている、といった声音が階段の方から降りて来る。
どうすりゃ良いんだ、見えない獣と学ランのバケモノと、どっちにやられるのがマシなんだ。
「おわっ」
自制の利かない身体が転がされる、どうやら見えない何かからは解放された。
ボロボロになった裾を指先に確かめつつ、風向き通りに視線をやった。
きっとオレを放って、あの学ランの所に突っ込んでいったんだ。根拠も無く思った。
「獲物の見分けもついてなかったんでしょう? 悪魔といえど、犬の眼だ……」
それは嘲りを含んだ声だった、先刻ドンパチしていた時より遥かに冷たい。
間髪入れずに学ランは、何も無い所に向かって思い切り蹴り込む。
ビビッと空気が歪んだ気がする。あのスニーカーが一瞬、何かにめり込んでいた。
奴の視線が動く、まるで蹴り飛ばしたボールを追うみたく。
(悪魔とか云ったか、このガキ)
ふうっ、と息を吐いた学ランが、床からようやく視線を逃した。
オレに一瞥くれてから、自動ドアへと歩き出す。
学ランを客と認識したセンサーに、そりゃ誤解だと云ってやりたい。
「俺だって、別に荒事が好きでやった訳じゃないです」
引っ掻け棒もスイッチも使わずに、ジャンプして天井のシャッターに掴まり、勝手にガラガラと下ろしている。
とりあえずカタギじゃない事は分かった、やんちゃな学生なんて形容もハマらない。
無駄口を叩いたらヤバそうだと理性は云うが、無言のまま始末されるのは冗談じゃねえ。
オレは意を決して学ランに怒鳴った……つもりだった。
しかし聴こえたのは、裏返って吹き抜ける風みたいな音だった。
「お、おぃ、お前、他の組の奴か」
「は? 組って……貴方スーツ着てますけど、同じ高校なんですか?」
「違ぇよ! その組じゃねえ! っゲホッ、ゲホ」
信じられんボケに、思わずツッコミを入れちまった。
傷んだままの喉が再熱して、咳が言葉を食い止める。
「あのな……オレ等が《阿修羅会》って分かってて、此処に来たんじゃないのか」
組の名前を出した瞬間、コイツの眼がオレを睨んだ。
気のせいじゃない、やっぱり関係者か?
「ああ、ヤクザ……どうりで」
「シラ切ってんじゃねぇ、本当は分かってんだろ」
「襲撃って、そんなドラマや漫画みたいな事、本当に有るんですか」
「お前なんなんだよォ!?」
腰が抜けているのか脚が砕けてしまったのか、立てない。
そんなオレを余所に、学ランはごそごそと内ポケットを漁っている仕草。
やべえ……何が来る、いよいよチャカか?
学生服ってのは割と隙間を作るもんだ、何が仕舞ってあってもおかしくない。
「今から通話するので、静かにして貰えますか」
おいおいおいケータイかよ、と拍子抜けしたが、すぐに我に返った。
「てめえ、まさかマッポか?」
「……服着てますけど、見て判りませんか?」
「てめぇワザとだったらブッ殺すぞ! マッパじゃねえよマッポ! サツかって訊いてんだよケーサツ! っげほっ、げほおっ!」
「俺は警察関係者でも無いし、今から電話する先も無関係です」
「そうだ、上の連中はどうなったんだ、おい」
「大怪我はしていない筈です、大人しくして貰ってます……あ、すいません」
散々やらかしときながら、通話開始だと謝罪している。
形だけの社交辞令が、黒々とした墨と学生服とのアンバランスを強調する。
どれもヒントになりゃしない。このガキが何者なのか、全く分からない。
そういった得体の知れぬ意味不明さが、一番やばい。

――あ、おい切るなよ、簡潔に説明する。擬態解除して、人を数名ボコした。

顧みない無鉄砲さはシノギ連中も持ち合わせていて、多分それが強みだ。
しかしそれってのは様式美というか……悪く云えば単純な縦社会というやつで、分かり易い。
オレ達の統率は組長が執る、組長ってのは他の組にも存在していて、共倒れしない為に《手打ち》なんかが有る。
同業者が突如消えてもメリットは無い、組長を殺るなんざタブー扱いだ。(ただ、近年じゃ怪しい)
そういった他との兼ね合いが、シノギの古めかしくも古風な理性なのかもしれない。

――何哂ってんだよ、楽しい話題じゃないだろ。ああ……そうだ、どうせあんた暇だろ、早く来てくれ。

それぞれの組に唯一絶対の親分は居る、そして目に視える。
だがカルトな集団は違う、あいつ等のトップはただひとつ、カミサマしか居ない。
カミサマは視えない、なのに視える物をかなぐり捨ててまで、信者は必死にソレを守る。
己をを含め、カミサマ以外の全てがどうなったって良いんだ……そういう意味の無謀さが、恐怖の源なんだろう。
オレにとって、理解がまるで出来ない連中だから……目に入れたくもねえ。

――場所? 俺も把握してな……ちょっと待て、待ってろ! すぐ確認する……

昔からハッキリとは視えないが、気配にだけは敏感なんだ。
そんな揺らぎに立っているのが気持ち悪くて、尚更コッチの業界が居心地良く感じた。
目に見える金と力と、人間だけが確かな世界。
オレが時折ボヤいても、そんなものは居ないと笑い飛ばしてくれるこの世界が――……
「あの、此処の住所を教えて欲しいんですけど」
ボーッと考えに耽っていた所を、通行人にも訊かれた事の無い台詞で遮断された。
這いつくばったオレを見下ろす学ランのガキ……ああ、光って見えてたのは眼だったのか。
妙な気配なのに鮮明に視えていて、シルエットだけは人間ときた。
実家の田畑に居たカカシを思い出す。
「その携帯で調べろよ」
「これ通話しながら現在地を出すとか出来ないんですよ、古い機種だから」
繁忙期に手伝ってやろうと帰省したら、援農の余所者が複数名、実家の畑に居た。
家にとっては、もうオレが余所者なのかもしれない。コッチで何してるか知ってるだろうし。
ただ、あの時酷くモヤモヤした。あの辺に来る援農者なんて、多分東京者だ。
東京者は東京に居ろよ……と、ムカムカした。オレだって、今は東京者なのにな。
「…………○○ビル」
「どうも」
向こうさんが東京在住かは知らんけど、ビル名で場所を探すくらいは出来るだろ。
龍でも華でも無い、意味不明な墨入れやがって。似た様な奴が、この後此処に来るんだろうか。
代々木公園の現場で見かけるあの輩でも、そんな物騒な見た目してねえよ。
何つったか、うちのフロント企業が仕事請け負ってるんだよな……あのナントカ教団から。

――○○ビルだって。今入れない様に細工してあるから、近くまで来たらそっちから電話してくれ。
――ああ、そうヤクザ。なんか中二病っぽい名前、阿修羅会だとさ……哂う所か?
――仕方ないだろ! 俺だって好きで暴力行為してる訳じゃない、あんたとは違う。

おい中二病とか云いやがった。戦闘神だぞ、これ以上無いくらい良い名前だろう。
しかも更なる暴力野郎が来るのかよ、おっかねえ。

――だって、人が殺されそうになってたんだぞ!? あいつら、女性を「風呂に沈める」って。

「ちげえぇ! そりゃソープに売り飛ばすっつう意味だよ! 溺死させるんじゃなくてだな!」
絶対勘違いしていると思い、横から大声でツッこんでしまった。
じっとオレの眼を見てくる学ラン。その眼を見つめ返す限り、マジで大当たりだったらしい。
信じられん、早とちりかよ。
「しかも売らねえよ! んなドラマや漫画みたいな事するか! っげほっ、げほぉッ!」
ジクジクと熱を冷まさぬ脚が、更に血の巡りを良くして出血する。
これはさっさと失神しちまった方が楽だな、新しい客も来るらしいし。
“まあ君”への意見は撤回しよう、現実逃避に五体投地してるオレも大差無かった。
どうやって上の連中を治めてあるか知らんが、寝たオレの事も其処に放ってくれ。
息の根を止めたいなら、そうしてくれても構わん。
粉々にして、実家の畑に肥料として撒いてくれよ、そうすりゃ流石にオレも敷地に入れて貰えるだろう。

-了-


* あとがき*
先生復帰⇒花屋⇒からの暴力団事務所。 という脈絡の無い展開ですが、ひとつのアクシデントとして読み進めて下されば幸いです。しかも後半がモブ組員のツッコミメインという…

次回作は「ライドウにヘルプコール(証拠隠滅)を求めた人修羅だが、ライドウはそこまで甘くなくて…」といった具合です。人修羅が此処まであっさり人間を対象にした理由(という名の言い訳)を書いていきたいと思います。
ブログで予告してあった「ライドウがキレる」というのは、このヘルプ要請に関してでは無いです。ちなみに、閣下×修羅の予定です(フラグ)



↓余談↓

《手打ち》に関しては、ここの「暴力団ミニ講座」が分かり易いです。
ttp://www.web-sanin.co.jp/gov/boutsui/mini10.htm」