臍を噬む銀

 

居間の砕けた床の間を、土足のまま踏みしめた。
ひとつ扉を開けば、何事も無かったかの様に整然と、磨かれた廊下が伸びるだけ。
いや、少し零れているか…蒸発し切らぬ体液が。
『おい、人修羅は本当にあれで正気に戻るのか?』
僕を見上げ、眉間に皺を寄せる黒猫。
お目付け役という名の監視が、問いかけてきた。
「戻らせるのですよ、ゴウト童子…寧ろ、正気というものの定義を知りたいですね」
『またお主はそう……酷い怯え様だぞ…ボルテクスの時の覇気すら無い』
とろりとした赤い水溜りを避けて、かつ、かつ、と階段に近付いた。
銀楼閣よりも頑丈そうな構造の家に、時代の流れを感じる。
赤いそれに導かれるまま上の階に出れば、ある部屋で途絶えていた。
適当にコン、と扉を叩き、訊ねる。
「功刀君、入るよ?」
拒絶されても押し入るのだから、この問いかけに意味は無いが。
冷たい金具は薄く濡れたままで、指先をちらりと覗けば錆の色に染まっていた。
「…フフ、まるで幼子だ」
あまりに滑稽で、失笑すれば傍のゴウトが溜め息した。
『ほれ見ろ…梃子でも動かぬぞ、恐らく』
僕等の視線の先、寝台の上で布団が膨らんでいた。
血に汚れたままの衣類は脱ぎ捨てられ、机の椅子の麓にくしゃりと転がっている。
あれから数刻経ったというのに、未だにその身体を認めたく無いのか…
「功刀君、しっかり見たろう?その肉に奔る黒き斑紋を」
寝台に歩み寄り、平らな箇所に僕は腰掛けた。傍の布団の膨らみは、微かに震えている。
其処に手を翳し、触れてみる。
「違ぅ」
くぐもった声が、その中から聞こえてきた。
「いやだ、こんなの、どうして戻ってきたのに、どうして」
「あのねぇ、君…戻ってきてからが始まりなのだよ」
「違う、俺は悪魔なんかじゃ無い…無ぃ、っ」
何も見たくないのか。部屋の全身鏡は、蜘蛛の巣が如く亀裂を広げていた。
眺める僕が、その巣から大勢見つめ返している。
「叩き割った?馬鹿だね、割れば複数の人修羅が見えてしまうだろうに」
鼻で笑って、立ち上がる。
きっと人修羅は、このまま布団の中で朽ちたい気分なのだろう。
半分悪魔のその身体が、それを赦してしまうかもしれない。
人間ならば、飢えが其処から這い出させるだろうが、彼にはそれが無い。
そう、純粋な空腹が無い筈だから。
「しかしだね、君は人間の功刀矢代のフリをして、当分生きなければならぬのだよ?分かっている?」
片脚を振り上げ、その臆病な山に踵を突き立てた。
篭った悲鳴が小さくしたが、殻を脱ぎ捨て反撃してくる事も無い。
(ボルテクスの頃の君はどうした)
僕の名すら吐かず、吐くのは悲鳴と弱音と血反吐だけ。
あまりに脆弱で…秘めたる力の行き場が無いその事象に苛立つ。
『無理では無いのか、精神は人間のまま…外に出る事も適わぬ。野垂れ死にすら時を要するだろう』
「童子」
『お主も堕天使も…見込み違いをしているかも知れぬな?』
「フン…貴方様もあの焔を御覧になられたでしょうに…ボルテクスにて」
堕天使に刃向かい、獣の様に襲い掛かっていったあの無謀な様を僕は見た。
今で鮮明に思い出せる。金色の双眸が輝く瞬間を。凶暴、魔的な姿を。
「僕は、絶対にコレを“捨てれる駒”にまでは、仕上げるつもりですから…」
朽ち果てさせて、なるものか。
無為に廻らせて、なるものか。
人と悪魔の境目をたゆたう、新たなる可能性に僕は疼いたのだから。
「安心おし、功刀君…僕がせめて、身動きが取れる様にはしてあげる……フフッ」
少し捲れた布団の隙間、暗いその闇目から、ぼんやりと金色が僕を見た…気がした。

  Ave Maria, gratia plena――

「功刀君、また鳴っているよ」
聞こえない筈無いだろう?悪魔の肉体ならば、下の階から流れるメロディ。
この静かな屋内の、それさえ拾えぬ人修羅ではあるまい。
研ぎ澄ませた僕の耳には幽かなそれは、君には容易いに決まっている。
断続的に、しかし続くその呼び音。
持ち歩ける通信機器がひっきり無しに、功刀矢代を呼んでいる。
…が、やがて消えた。
「人間時代の大事な遺物だろう?無視して生きるのかい」
人間の己を呼ぶ音だったというのに、無視した。
矛盾めいた彼の判断。きっと今は、己の姿を外に晒したくない。
ただ、それだけなのだろう。




『ライドウよ…一体目処は何処でつける気なのだ?』
勝手に功刀家の設備を借り、身支度を整える。
荒れたままの居間に、薄い陽射しが揺らいでいた。見えぬ青空。
「帝都の脅威は二度退けたでしょう、暫く大きいのは来ませぬ」
『それはお主の推測だろうて』
「ええ、僕の希望的観測に御座います」
曇りの乾いた白い空を硝子越しに見つめ、拭った肌にシャツを羽織り、学生服を着込む。
床に散るままの家具の破片を、これまた勝手に拝借した室内履きで跨ぐ。
『不思議なものだ…刻のみ逆行させ、魂すべては転生された世界という事か』
黒猫が焦げたソファにくたりと丸まり唸る。其処だけ切り取れば、ごく一般的な家の風景だ。
「アカラナからでさえ、時間を操る事はままなりませぬ…この宇宙を支配するモノが創世を望む限り、繰り返すのでしょう」
『堕天使はそれを良い様に利用しているのか?』
「そういう事になりますね、恐らくは」
そして、この僕も、投じられた賽を手の内に引き込もうとしている。
ただの人間であるこの僕が握れば、腕まで燃えるだろうか?
しかし、悪魔を使役しむるは、その“人間”であり。神が羨むのも“人間”なのだ。
「御安心を、ゴウト童子……此方の帝都も、それなりに守護致しますよ」
僕が見下ろして哂えば、黒猫は牙を剥いた。
『当然だ、影響が出るのは過去から未来だけとは限らぬでな』
「危険因子を滅さんと、何かの力が働く可能性…僕も危ぶんでおりますよ」
『はっ、どうだか…せいぜい葛葉ライドウとしての格は落とさぬ様にしてくれよ』
「勿論、人に害を為す悪魔は、葛葉として――」
常套句の途中、僕の心を見透かすかの如く割り入った音。
今度は、アヴェ・マリアでは無い。
『…鐘?』
「呼び鈴でしょうか」
家全体にこだまする音、物質的とは云い難いその妙な響き。
どうせ功刀は殻から出られぬ、と、僕は廊下を真っ直ぐに歩いて玄関に向かった。
冷たい廊下に電気は灯されて無い、垂れた赤は薄闇に紛れて、外からは見えないだろう。
「用心深いね、二箇所も」
簡素だが、硬質な鍵。玄関扉の上下に、きっちりと施錠はされていた。
堕天使と僕の侵入を赦し、結局無意味に終わった訳だが。
『おいライドウ、何者かも分からぬのだぞ』
黒猫の警告を無視して、小さな覗き穴から外を見る。
外の人間の姿に、唇が吊り上るのが自身でも分かった。

「おい矢代、お前何度電話したと思って――」

開いた扉の前、やや怒り顔で吐き捨てる少年が、静止した。
僕を見上げ、口が薄く開いたままだ。
「お早う御座います」
ニタリと微笑みかければ、ネジ巻きの終わった玩具の様に動き出す。
「あ、は、はよーございま…す」
「新田君…だったかな?」
呼べば、やや驚いた表情で戸惑いの声を出す。
「よく憶えて…だって、あの病院の時だけすよね」
「記憶力は悪くない方でしてね…」
新田 勇…“ムスビ”のコトワリを開いた男だ。
学生服に鞄…通学の格好をしている。これから学校なのだろうか。
「功刀君を迎えに来たの?」
「いや、連休なんすけど…俺等進路の関係で資料を取りに…どーせなら時間合わせて行くかって」
「今日約束していたのですか?」
「昨日思い立って、メールで何回か…どうせ返事面倒なだけだろって思ってたんすけど…もしかして、見られてないぽい?」
電子郵便の機能が有る事は知っている。携帯電話というアレに。
当然、功刀はあれから携帯電話の確認なぞしておらぬ。つまりはそういう事だ。
「えぇ〜…んだよくっそ…休みの日まで学ラン着たかねーっつの!」
やや長めの髪を撫でつけ、その指をそのまま耳に下ろす新田。
その指先が、耳朶をそわりといじる光景に、少し見入り思考した。
(耳飾)
髪に隠れた彼の耳飾が、殆ど主張せずに暗がりに輝いた。
その金属の光に、僕はある事を思いついた。
「ねえ、その耳の飾り…この辺では何処で手に入ります?」
「へ?ぁ、ああ…ピアス?見えちゃいました?しっかり普通にガッコの時は外してますよ、先生に悪ィし」
その指先が捉えた、金属。僕は確認し、頷いた。
新田は少し間を置いて、半分笑いつつ答える。
「いや何処って…こんなん、何処にだって売ってますよ〜!」
「出来れば純粋な金属が良い、銀とか」
「シルバーって事?」
「ブリタニアかスターリング程度の純度で」
「んー…この辺だと……って、あ・の!そういや!矢代は今どーしてんすか…」
来た目的を思い出してか、新田はその名を出した。
「寝てますよ、風邪が悪化した様でしてねえ…」
「ああ、そーいや風邪っぽいとか云ってたわ!て事は…うわ、俺の勝手な無駄足だ…うっわ」
落胆する少年…それなりの善人。ボルテクスの彼が呼び寄せた神をふと思い、可笑しかった。
あの丸い砂漠は、確実に人間の内部を斬り込んでくるのだ。
今こうして、友人を迎えに来た少年さえ…媒体になる程の、強い憎しみや絶望を抱いたのだから。
「んじゃ俺、出直しやーす」
がっくりと肩を落とす少年が背を見せたが、僕は其処に声を投げた。
「一人で学校に資料とやらを取りに行くのですか?」
振り返りつつ、頭に腕を組み回す少年。ぶらんと鞄が反動で揺れる。
「もう行かないすよお、今日は帰って寝る!」
「何でしたら、僕を少しばかり案内してくれませんか?」
ぎょっとしたその顔に、僕は笑みを隠せない。
背後でゴウトが鳴いたが、きっと向かいの少年には言葉として聞こえていないのだろう。
『突然ノアを呼び寄せたらどうするつもりだ?』
これがはっきり聞こえていれば、少なからずとも反応は出る筈だから…





一体、あいつとどういう関係なんだろ。
遠い親戚…かと思ったけど、哂ってはぐらかされちまった。
そうだよな、あいつ、身内は母親しか知らないつってたし…それも妙な話だけど。
「新田君は真面目ですね、休日に学校なんて」
「真面目じゃないから今更バタバタしてんすよ」
何かモヤモヤして、適当に口を開いた。
「もっとラフに扱って下さいよ、矢代にしてたみたいにさ」
名前をいざ挙げてみれば、何故か違和感。
俺は未だに、あいつの下の名前を云うとクラスメイトに怪訝な表情をされる。
そんなに仲が良かったか?と。
「フフ、そうだね…君はそういう付き合い方が楽そうだしね」
「そうそう、俺は息苦しい思いさせんのもすんのもイヤ」
すぐ傍だと、どうしても見上げる必要がある。
暗い目元、まさかの学帽に俺はそわそわしていて、落ち着かない。
いくら何でも、いつの時代の人間だよ…此処は大正村か?
「あーと…紺野さんて呼べば良い?」
「どうぞ」
「帽子とマント、すげ目立つ」
「すまなかったね」
「暑くないですかー?まだ秋も序盤っしょ…」
「もしかしなくとも、悪目立ちかい?」
くす、って。上品なのにどこか意地の悪そうな口が吊り上る。
やっぱわかんね…何者だホント。
(この辺の事、知らないみたいだし…)
信号待ち、公道を縦横無尽に行き交う車。交差点。
紺野の視線が追う先は、留まってない。
おのぼりさん?都会が珍しいとか?その割にゃ垢抜けてる…
「これだけの人数が動くとは、目まぐるしいね」
哂うまま、帽子を脱いで…マントの襟を緩めた紺野。
俺はさっきから、何回ぎょっとしてんだか。
帽子が無くなってよく分かった。この男、モテる顔だ。
どうして神様ってのは贔屓すんだか。あー泣けてくる。俺にも少し分けてくれよ。
案の定、青になったスクランブル交差点、傍の紺野がジロジロ見られてる。
俺が案内してるってのに、この惨めさ。無残なり。
「どーしてそのモミアゲすら良く見えんだか…」
「何か云った?」
「いーえ!そろそろ着くって云いました!んーだけ!」
だって、驚いた。矢代にこんな…何かこう、世界の違う空気のダチが居るなんて…
おまけに、よそよそしさは無かった。病院で、小突きあう程度にゃ親しいと判った。
「矢代の奴、しっかり事前連絡しろってんだよ」
ぼそりと俺が吐けば、紺野はマントと帽子を一緒くたに腕にかけて哂う。
下は学ランだ…でも、近隣の学校じゃない。白いラインのこんなデザイン見た事無い…
そもそもこの人、学生だったのか?
「折角の友達を蔑ろにして、功刀君も罪だね」
「そっすよねーぇ?もっと云ったれ云ったれ!」
小さく肩と肩がぶつかり合いながら、人混みを潜り抜ける。
俺はぶつかるのに、少し後ろの方から来る紺野はぶつかってない。
周囲が、何となく避けてる気がする。
「あー紺野さん、そーいやシルバーだっけ?」
ふと聞きたい事を思い出して振り向けば、何か見知らぬオッサンと話してるし。
「紺野さん、ちょい待ったぁ!」
ぐいぐいと白ラインの袖を引っ張り、優しい俺は再び人混みに戻る。
哂うままの綺麗な顔で、紺野は俺におっとり云った。
「大丈夫だよ…フフ、凶器の類は見られなかったからね」
「そうじゃなくてっすねーあれ、アレだよ、勧誘っしょ今のは……本物か詐欺かわかんねけど」
掴んだ袖から伸びる白い手。その先にはひらひらと名刺。
それを学ランの腰ポケットから取り出したケースに、颯爽と仕舞う姿はサラリーマンだ。
「ちょ、名刺ケースなんて持ってる学生居ないよ紺野さん!」
「そうなのかい?よく名刺は頂くのでね、常備しているよ」
やっぱその顔じゃ勧誘されまくるのか?ソッチの業界に。詐欺か否かなんてお見通しってか?
「すご、一体何処からのスカウトなん…」
「最近では、バロン…デカラビアからも頂戴したね」
「バロン?デカ…ラ…?」
聞いたこと無い。一応雑誌とか、メンズアパレル物は網羅してる俺だってのに。
それとも全く別の業界だったのか?
「紺野さん自身の名刺は無いワケ?」
「僕の事は、これ等の名刺を見せる事で把握して頂くのでね、必要無いのだよ」
「解ったよーな解んないよーな」
変人。矢代もちょっと風変わりだったけど、それ以上だろ。
「ねえ新田君、功刀君は学校ではどの様な感じなのだい?」
セレクトショップの並ぶモールに入り、いくつかの店を通過した際に突然聞かれた。
俺はちらちらと新作のディスプレイに目を奪われてて、ぼんやり答える。
「目立たない」
いや、ちょい違うな。
「…様にしてる」
そう追加すれば、隣で失笑した紺野。
「成る程ね」
「無愛想、潔癖気味、群れたがらない、すげーツンツンしてる」
云っておいて何だけど、それでも周囲の反感はそう喰らわないアイツ。
どうしてなんだ、完全に埋もれてない。除け者にも、されない。
「あれでいて苦労してっからかな」
「苦労?」
「ホラ、知らないすか?だって母子家庭じゃないすか…」
「あぁ、そういえば“そうだった”ね」
今、何か引っかかったけど、特に追求せずに歩みも止めない俺。
紺野は親しいようでいて、あいつをよく知らないのか?
距離感の微妙さが不気味だ。

「ねえ、君は友達で居てあげてるの?それとも、友達で居てもらっているのかい?」

お目当てのショップに入る直前に、思わず俺の脚は止まった。
見上げれば、紺野の眼が俺を見下ろしていた。
いや、見下ろすのは当然だろ、この目線の差だし…
そういう問題じゃなくって、こう、何か憐れみなのか、蔑みなのか。
俺の何かを抉る、そんな視線。
どっちが上なのか、聞き出したいのか…
「何云ってんすか、そんなんいちいち考えないすよ友達の意味とか理由なんて…」
「功刀は友達という付き合いを歓んでいた?」
「さあ……ってか、俺等は互いの利益の為にそういう付き合いしてっから」
そう、先生との接点の調整の為だけだ。
俺は増やしたい、アイツは減らしたい。だから一緒にいれば配分出来る。
「成る程、そういう契約なのだね」
「…まぁ、契約も何も、血判有るワケでも無ぇけど」
まだ会話を始めてちょっとしか経ってないのに、あんな質問をしてくるこの男も得体が知れない。
「へぇ、これなんか良いね」
陳列されたガラスケースの中で、小さい銀色が光る。
おいおいそこは高いコーナーなんですけど。
「どれすか」
「これだよ」
覗き込む俺の傍、高い視線をゆっくり落とし込んでくる紺野の横顔。
顔を見て話すつもりが、あまりに近くて止めた。
「あの、何かお香とか焚いたんすか」
「フフ、何か薫る?」
「いやいや別に接近しなくて良いすよ!!」
心臓に悪い、ガラスケース越しに女性店員の視線が痛過ぎるっての。
慌てて陳列された商品に意識を切り替えて、話も切り替えさせる。
俺はこういう時の逃げ方だけは自慢出来る。
「その石の一緒になってるヤツ?」
「そう…ファイアーアゲートだね…火の石」
「俺石についてはあんまし、形だけで選ぶから」
いくつか形状が異なるそのピアス達、見つめるその眼にやっぱしそわそわする。
見ちゃマズイものみたいな、そんな感じの眼だ。
「この種類、すべて頂こうかな」
結局デレッデレの女性店員に頼んでそれを引っ張り出してもらった。
紺野がマントのポケットから裸でお札出し始めたのには、俺も店員もぎょっとしたが。
って、本当に今日はぎょっとしてばっかだろ、俺。
帰路の交差点で、思わず溜め息が出た。どうして俺、案内してんだそういえば。
「助かったよ新田君、望み通りの物が手に入った」
小さな紙袋を白い手に提げた紺野は、口元だけで満足そうに微笑む。
切れ長な眼は、どうしてもどこか鋭くて冷たい。
見透かされてる気分になる。いや、俺別に何もしてねー筈なんだけど…
「いやーいいすよ…俺ああいうの好きだし、矢代じゃぶーたれて話にならないから」
「確かにね、アレは興味を持ちそうに無い」
アレつったろ今。
「ホントはもうちょい遠くに良い店あるんすけど、そこは細工が専門らしいから」
「へぇ、細工」
「RAGっつー店、個人経営っぽいけど…まぁ気が向いたら調べたらどうすかね、ネットとかで」
「憶えておくよ、有難う」
少し肌寒い。鞄に突っ込んであった薄いストールを引っ張り出して、首に巻く。
マントが暑くないか、と聞いておきながら、やっぱ秋だな、とか脳内で訂正した。
「結構したっしょ、あんなセットで買うなんて豪胆だよなあ紺野さん」
寂しい街路樹の通り、人混みから遠ざかると、冷えた空気に肺が締め付けられる。
孤独感…とかいうものから脱したくて、何気なく話しかける俺。
それが最近まあまあ親しんでた矢代でなくても、別にどうでも良かった。
「アゲートはね…古代より燃える魔除けとして使われていた石なのだよ」
「へぇ、実用性ばっちりって事?」
「豊作を願い、雄牛の角に括るとかね……まぁ、見つからなくなるかも知れぬが」
くくっ、と哂って勝手に道を曲がった紺野。一度通った道は逆行しても憶えてるのか、器用なこった。
「紺野さん、何かに憑かれてんの?そんな事考えて買うってさぁ」
疑問に思って聞いてみりゃ、マントを羽織る姿が眼に映る。
黒いそれが翻るのを見て、まるでカラスみてーの…と、ぼんやり感じていた。
「憑かれて…?フフ、まあ、常に精神力は吸われているかな」
「んだそれ、やばいんじゃないすか?悪いのに憑かれてるっしょ、ほら、狐とか!」
「…狐?」
振り向いて、凄いニヤァって哂うその顔に少し恐怖した。
何だ、何かミスったか?狐憑きとかいうじゃんか。
「畜生の類では無いよ、何かは判明している」
「あ、そうなん……」
「それに、身に着けるのは僕では無いから」
「え、まっさかプレゼントとか」
まさかも何も、こんなヤツに彼女居ても違和感無いだろ。
いや、彼女とかさえ畏れ多いっていうのか、出来なさそうなイメージもあるけどさ…
と、夕暮れに薄く染まった空を見て、あっと声を上げた俺。
「俺、ここらで別の方面から帰って良いすかね」
矢代の家には、少し迂回する必要があるんだ。
どうせもう一人で帰れるだろ、そもそも帰る家があそこなのか?
(居候?やっぱ親戚?)
どうでも良いだろんな事…俺には関係無いんだから。今日はどうも詮索癖が酷い。
「大丈夫だよ、今日は有難う新田君」
「いや、どーも、矢代に早く風邪治せって云っといて下さい」
「優しいね」
「いやいや、アイツ居ないと先生戻ってくるの遅くなりそうだし!そんだけ」
そう、それだけ。矢代個人にそんなに優しいワケじゃない。
そう、この男が親しそうに名前呼んでるの見て、竦んだワケじゃない。
矢代は…
どうして、あんな素っ気無い素振りで、触れるなと云わんばかりの冷水みたいな態度で…
周囲から咎められないのか、先生に構ってもらえてんのか。
俺は、そうじゃなかったのによ。
「んじゃ、俺はこの辺で」
軽く手を振って、正体不明の紺野という男に別れを告げた。
軽く頭を振って、正体不明の矢代への苛立ちをかき消した。







『何事も無かったか』
「僕からもお聞きして良いですか?」
『此方は何も無い…人修羅も、ずっとあのまま動いておらぬ』
「そうですか、それは実に好都合だ」
居間、少し傾いた大きい卓の上に、購入した装飾具を並べた。
訝しげな唸りと共に、ゴウト童子が卓上に乗り上げる。
『…これは何だ、魔具…にしては、力をそう感じぬが』
「これから魔具にするのですよ、童子」
並べた金属、時折煌く焔の石が、彼の焔を思わせる。
石そのものの効力と同時に、その見目に惹かれた。
「イヌガミ」
傍に転がした管から、ぬるりと白い影が煙の様に立ち昇る。
鍛え育てた僕の犬が、項にじゃれた。
「少し淀んだままだ、この卓の周りだけでも良い、ブレスで祓っておくれ」
『了解シタ』
察したゴウトは、僕の足元に避難し、尾を逆立ててフーッと鳴いた。
『また燃すのかお主』
「いえ、あの時の空気が滞留している…それを少し祓うだけで御座いますよ童子」
何より堕天使の羽根が一、二枚残っている、それが気に喰わぬ。
イヌガミに吐かせた火は、僕を取り囲み、やがて消え失せた。
焼け付く空気が心地良い。研ぎ澄まされた神経に、じくりと熱を血潮の如く送り込む。
ホルスターの裏に忍ばせた小太刀を抜刀し、そっと指先に潜らせる。
赤い雫が滴る…
「胞衣いよいよからみからみて…」
脳裏に巡るは、人修羅の焔。熱い火の色、熱い緋の色。
「水火二つを吹かんとする詞なり…」
連想する熱に、魂の鼓動を乗せ、雫に送る、僕の霊力を。
言霊がもたらすのは鞴の役目であり、その力では非ず。
彼の焔を覆い隠す、あの鮮烈な金色を、月の冷たさで。
それには、焔に抱かれる夢想にて言挙げをする必要がある…
『火浮言霊か…』
黒猫が僕から少し離れた、恐らく邪魔をすべきで無いと悟ったのだろう。
当然、今邪魔されようものならば、いくら童子様とて、僕は蹴り飛ばしてしまうだろう。

嗚呼、人修羅
ホチなりや
この世は、君が生み出した
その火、水の為に吹かれ
また水は、火の為に吹き分けらるるなり
動きを止めるな、揺らめきを正すな
その焔、主の為に吹かせ
水に成ろう、僕が
僕が君を追い立てよう
火浮の刻まで、燃え盛れ
夜明けに唄う、どちらかの為に

「君がカグツチに成るのだよ、矢代…」
血に融かしたMAGを、装飾具の銀に垂らす。
じわり、じわりと染め上げる、呪いを込めて。
ただ、今だけは君を隠そう、岩戸の如く…
うっとりと、つい出た言葉、完成した魔具を眺めて、僕は言霊を切り上げた。







「お、矢代はよー、風邪治ったんだ」
「おはよう功刀」
「オレ等と違うし、サボリじゃねーだろ流石に」
新田達が教室に入った俺を見て、談笑している。
俺は“いつも”の様に、教室の後ろの方にある自分の席に腰掛けて、鞄から本を取り出した。
薄い陽射しは今日も曇り空の証。最近ずっとこの空模様だ。そう、ずっと…
「おいおい聞いた?紺野さんから」
本の背表紙をぐい、と引かれて、その上から新田の視線が俺を射抜く。
屈んで俺の机の前にへばりつくそいつを睨み、本の文字に視線を戻した。
「俺さ、一昨日あの人と一緒に買い物したんだぜ」
「そうか」
「お前どんだけダウンしてたよ?メールすら返せんかった?」
「寝てた」
「寝てたっておま…せめて枕元に置いといてさあ、飯とかトイレん時に確認しろよ」
「そんなの必要無いから」
「…へ?」
「もう良いだろ、会話疲れるんだ…っ、戻れよ」
だって、必要無いんだ、もう。そこに対する欲求は、失せていた、殆ど。
空腹さえ生じない、だから排泄さえ起こり得ない。
俺は、間違い無く…半分、悪魔だ。
「つれねーのな、ちぇ」
俺の室内履きの先を軽く蹴り飛ばした新田が、立ち上がると吐き捨てた。
「相変わらず新田新田って……お前なんざ紺野さんとつるんでりゃ良いよ、け」
冗談なのか本気なのか、そんな事を未だに気にしてるのか、お前。
馬鹿だ……そんな事云ってるから、ボルテクスで孤独感に負けて暴走したんだろ。
どうせ、人は個体なんだ。それに俺と違って、あの世界でも人間だったくせに。
カテゴリでは幾つかある内に居たくせに。
悪魔でも人間でもなかった俺より、はたして孤独だったのか?お前は。

過ぎてく時間、いつも通りの授業、入院中の担任の代わりの教員。
俺の、高校生活。人間の生活。

人間だ…
ああ、確かに人間の生き方を出来ている、今間違い無く。
このまま、もしかしたら普通にずっと過ごせるのでは?と思っていた。
きっちりと罫線に沿って並び書いた、黒板の教え。
「…はい、で、三種の神器って全部答えられるか?」
教師の言葉の尾が、誰を指名するか彷徨う。
こういう時、せわしなくノートに筆記する奴は、それから逃れたいのがよく判る。
「ほれ、新田」
ピンポイントの指名に、周囲が少し肩を揺らして笑う。
「ひっでえよ先生!俺今一生懸命書いてたっしょ?」
「同じ箇所にそんなにシャーペン滑らして、怪しいんだよ」
「ちきしょー……えーと、三種のジンギだっけ?」
少しの間の後、声を突然弾ませる新田。
俺は何となく憶えていたので、ぞわぞわと胸が冒されていた。
「鏡と剣っしょ確か、あと何でしたっけねー、あと一個が思い出せね」
「そう、八咫鏡、天叢雲剣」
「へへっ、最近形見たばっかだから、でもあと一個の名前が思い出せねーって事です」
「そうか、形は浮かんでるのか、新田にしちゃ珍しいな」
「ちょお待って下さいよ先生、俺結構真面目すよ?」
周囲の肩がいよいよ大揺れになって、教室に笑いがさざめいた。
中肉中背の教員は、そのまま教卓に腕を突いて……
(見るな)
「はい、三つ後ろの席の功刀」
残りを俺に云わせるのか。
「怖い顔すんな、まぁ笑えとか云わんけどな」
教員の言葉に、俺へと視線がちらちら集まる。
怖い、バレるかもしれない、見られるかもしれない。
「……マガタマ…」
「ん?」
「八尺瓊勾玉!」
思わず叫び、立ち上がった。その反動で椅子が後ろに勢い良く転げた。
唖然とする教室の空気を、慟哭滲む声で押し退ける。
「…す、すいません、ちょっと、気持ち悪、い」
はっ、とした教員が俺の脇に視線を泳がせて命じた。
「おい、筆記終えて暇な奴、保健室」
「あーハイハイ先生俺が」
「新田はそのままフケる可能性高いから却下な」
「ちくしょーケチだからハゲるんすよ」
爆笑するクラスメイト達の意識が逸れてくれた、俺はその隙に教室を飛び出た。
教室前方の席の橘が、廊下を足早に進む俺に一瞥くれていたのが、引き戸の窓から見えた。
(マガタマ…)
単語だけで虫唾が走る。
なあ、こうして安穏と学校に来ている俺は、先日何を殺した?
なあ、どうして胎に蟲を飼っている?それを吐き出したら、消えるから?
死にたいんじゃなかったのか?俺。
「すいません…失礼します」
小さく聞いて保健室に侵入すれば、保険医は不在の様だった。
都合が良い、色々詮索されても、この不快感の原因なんて知れてる。
そして、説明出来ない。
真っ白いシーツのベッドに腰掛けて、カーテンの仕切りで空間を遮断した。
気配が自身以外に無いのを確認して、そろりそろりと学生服の釦を外していく。
白いシャツ、馴染み深い無添加柔軟剤の、厳かな香り。
ぱり、とアイロンされたそれに今までの郷愁を感じつつ、剥いだ。
剥かれた俺の胸元と、胎が冷えた空気に晒される。
「……くそ…」
蘇る先日の記憶。


引き剥がされた布団、哂うデビルサマナー…
俺の肉に針を打ち込むカラス達。
貫通する九十九針、一箇所につき一羽、カラスが嘴の奥から、凶悪な針を出してきた。
喚き散らす俺に跨り羽交い絞める、三つの影。
「ネヴァン、マハ、モリーアン」
哂うままのライドウが、床の俺を見下ろし号令した。
「宜しく、僕のバイブ・カハ達」
ベッドで組んだ脚をぶらりとさせて、光る何かを放り投げた。
それを器用に嘴で受け取るカラス、俺を鋭い爪で押さえるまま、三羽とも受け取って鳴く。
「功刀君…どうしても人間の姿が良いのだろう?その斑紋が憎いのだろう?」
「はぁ、黙、れっ…」
「未熟な君は自身で擬態すらままならぬ…しかしそれでは、いつまで経っても殻から出られぬ」
ニタリと狂気の笑み。俺を上から跨いで、カラスの黒に埋もれて。
葛葉ライドウの冷たい指先が、カラスの嘴から光る何かを受け取った。
「感謝し給え、僕が人間にしてあげよう、形だけね」
「ひ…!」
「神闕穴と乳中穴……身体の経絡…まあ、これ等を塞げば見目だけは事足りるだろう」
「あああいぎぃいいいっ」
「おや、巧く入っていかぬね?穴がまだ狭かったかな?」
「やだあああやめっあ、やめ」
「姿を隠すアゲートの石も共鳴して、君の悪魔の斑紋を消してくれるだろうさ…」
高笑いに重なる俺の悲鳴が煩い。
「この恥ずかしい装飾を着ている間だけはね…ククッ」




「……畜生…ッ」
胎の上、臍にまとわり付く重み。
冷たい鏡状に細工された、銀色の環。
眼を覆いたくなる、乳首を貫通する剣状の針が二つ。
「こんなの…こんなのっ……」
脳裏を過ぎるあいつの台詞。

“早く擬態を覚えぬ限り、君はこんな淫猥な姿の己を自覚する他、人で在る術は無い…”

焔色の石を頂く、銀色のピアス。
鏡と剣が俺の肉を穿ち、ライドウの血で呪われたそれ等が魔脈を停滞させる。
一時的に、身体の斑紋を祓っている。

“素敵な形だろう?三種の神器さ……残りは何処に在るか…勿論解るだろう?”

「狂ってるっ、狂ってる!」
シャツの開きを、交差する程に強く行き合わせ、ベッドに突っ伏した。
「っ、ライドウ…ライドウ…ッ…」
俺の尊厳は無視して、とにかく立てと急きたてる。
あんな悪魔に俺は悪魔扱いされ、これからも使役されるのだ。
ボルテクスでの、奴とのやり取りを、いよいよ鮮明に思い出して、魂が疼いてきた。
(十四代目葛葉ライドウ)
分かった、良いさ、立ってやる、骨だけになっても、この脚で。
俺だけがボルテクスに、あんな形で残ってしまったこの不条理を解消する為に、ぶち壊す為に…
人間に戻る為に、崖っぷちまで悪魔になってやるんだ。
そうだ、どうして忘れていた、この怒りを。
「最後に立ってるのは…俺、だ」
無理矢理立たされたからには、あんたを、堕天使を、上から見下ろしてやる。
今は無理でも、いつか…この憎悪の焔が消えない限り。
「…紺野」
みなまで呼ばず、胎を抱き締めてシーツにうずくまった。
この胎の中で、残りの神器が嗤った気がする。


臍を噬む銀・了


* あとがき*

乳首と臍に呪具をピアッシング、酷い辱め。
それが嫌ならさっさと擬態を覚えろ、というライドウのスパルタ。 いいや、単に自分の血で生成した装飾を人修羅に施したかっただけかも知れないですが…
両乳首に天叢雲剣、臍に八咫鏡…形状的には剣はバーベルタイプ。鏡はディスクタイプ。
潔癖な矢代には拷問並みの装身具。
ピアスは自分がしないので、適当に調べただけです…色々違うのかもしれないです、すいません。

一見良い奴の新田勇にも、密やかにこぞむ妬み。

《言霊》は、言霊(コトタマ)学から。
葛葉一族が呪文の様に挙げるのかと問われれば、そんな事は全く無いと思われますが御勘弁を。空気感です。
虚空の宇宙の中に、最初に生じた一点、それをホチというそうで。
「胞衣いよいよからみからみて…」の胞衣(えな)は、胎児を包んでいる膜や胎盤諸々。

《ファイアアゲート》は炎瑪瑙…メノウの変種。古来魔除けに使われてきたそうで、勾玉とかにも。
燃え盛る焔の様な模様。魔を祓うので、それを利用した、という感じに捉えて頂ければ。
前進・進歩・発展とか、なかなかポジティブな作用が働くそうですが…この使い方では…
姿を消してくれるという伝承が有るので、それも兼ねて。

《経絡》については、深すぎる上、自分がよく解ってない為、説明しません(怠惰)神闕穴は臍。乳中穴は乳頭です。
力が集中してる経穴のイメージからの選出箇所。
いえ、そんな決して…そこにピアッシングしたいからなどという理由で………すいません。

タイトルの「臍を噬む銀」は、様々な後悔の念に駆られる(「臍を噬む」)人修羅と…彼の臍そのものを噬む金属(銀)をイメージして。 銀は月の象徴…今ひと時のみカグツチを覆い隠すライドウの思惑の具現化。