入室したライドウが放った第一声は、どこか珍妙に思えるものだった。
「なるほど、まごう事無きシノギだね」
 荒れた室内、適度に負傷した黒服達。それに臆する事もなく、薄ら笑いさえ浮かべて零したのだ。ほら見ろ、部屋の隅に固まるヤクザ共と同様、あのカップルまで俺達を畏怖しているじゃないか。確かに、ライドウは俺から見ても得体の知れぬ雰囲気を纏ってはいる。相変わらず帽子から靴先まで黒ずくめなせいで、一層カタギには見えない。それこそ、この事務所の関係者と誤解されてもおかしくない。
 ただ、俺は違うだろ? どうして助けてやった連中にまで、そういう目で見られるんだ……納得いかない。
「で? 僕にどうしろっていうの?」
「どうって……証拠隠滅だ、呼ばれた時に察してたろ」
 俺の出した単語に、息を呑む音が聴こえた。カップルは更にひしと抱き合い、おいおいすすり泣き始める。絶対勘違いしている、別に俺はこの人達を消して欲しいだなんて、露ほども思っていない。
「これだけの人数となると、結構な量の歴青が必要だね」
「だから沈めないって云ってるだろ! ところで何だよ、そのレキセイって……やっぱコンクリ?」
「アスファルトの事だよ、それに“沈める”だなんて僕も云ってないだろう。確実なのは、道路用アスファルトに遺棄し融かし込む、これだ」
 何を急に、プロみたいに事語りだすんだ。俺の弁明の余地を奪いつつ、ますます饒舌になるライドウ。まるで此処の主であるかの様にソファへと体を投げ、レザーのクッションを弄んでいたが……徐に立ち上がり、ゴウトを抱き上げた。
「それか愛玩動物……ペット用の火葬車なんかも足が付きにくい――」
「いい加減そっちの方法は除外してくれ、全員五体満足で済ませたい」
 俺の気落ちを代弁するかの様にうんざりと鳴いた黒猫は、軽く暴れて腕の外へと逃げる。ライドウは空になった腕をそのまま組み、どこか挑発的な視線を寄越してきた。にじり寄って間近から覗き込めば、その眼に俺の燐光が照り返す。
 ああ……人間からすれば、この野郎よりも今の俺の方が、化け物に見えるんだ……きっと。
「そういう術を持ってるだろ」
「僕はただの人間だが? 君と違って、ね……フフ」
「ボルテクス界の俺の記憶、一部戻っていないんだ……あんたが故意に仕掛けたんだろ」
「記憶操作だなんてとても、ましてや半人半魔の君にヒトの術が効くと思うのかい?」
 逃がすな、ハッタリかもしれない。本当は出来るのに、出来ない素振りをしているだけじゃないのか?こないだのホテルでだって、あの盗撮野郎の記憶を塗り替えたじゃないか。容易いんじゃないのか? 色んな悪魔を従えているだろう、あんた。
 暫し睨み合ったが、更に口角を上げたライドウが先に口を開く。
「君が勝手に忘却しているだけさ……再び相見えたあの時、僕の名も出てこなかったくせにねえ?」
 唐突な掘り返しに、思わず反論が遅れる。何を根に持っているんだ、こいつ。こんなキチガイ、普通なら忘れる事も難しいに決まっている。
 絶対ボルテクスから戻るまでに何かあったんだ、外部からの何かが俺に対して。
「あんたルシファーと口約束したんだろ、俺の面倒見るって。だから許されてるんだろ、その立場」
「いつまでも親に尻を拭かせる赤子なぞ存在しない、ましてや他人の糞の始末? 笑わせてくれるよ君」
「人間同士の無益な殺生を見過ごすのかよ!」
「堂々と人助けの真似をしたくば、仮装でもして悪魔の力を存分に揮ったら如何だい? ま、警察に追われる事となろうね……そんな姿では」
 哂うライドウは腰に提げた得物を掴み、ソファー上のクッションをスッパリと抜き打つ。突然のドスに一同が硬直したが、当人はお構いなし。裂け目の綿に指を潜らせ、硬質な何かを引きずり出した。
「随分重い枕だと思ったら、フフ……緊急時に活用出来なければ、意味も無い」
 引きずり出されたのは拳銃。ライドウの銃とは違うタイプの、角ばったヤツだ。くるくると指先で回し、さらりと360度から目視した後、俺へと投げ寄越してきた。咄嗟に掴み取ったが、こんなもの貰っても困る。
「それ、もう持ってる種類だ、要らぬ」
「おい待てよ!」
 当然俺の制止など聞き入れる筈も無く、ライドウは部屋を抜ける。と、血に染まった廊下からひょこっと顔を出し。
「ああ君、そういえばピンクの猿と連呼していたが、あれはオンコットという悪魔だよ」
 それだけ云い残し、姿を消す。
 背中に侮蔑を吐きつけてやりたかったが、俺が部屋から躍り出た時にはもう、ベランダ扉がひらひらと揺れているだけだった。



ノウエン





「あのー……つかぬ事をお伺いしますが」
 タクシーの運転手と、ルームミラーで目が合う。
「はい?」
「お客様、その服……もしかして汚れちゃいませんか。汚れというか、濡れているといいますか」
 そっと腰を浮かす、白いレースのシートカバーに先刻までは無い錆色が浮いている。
 しまった……失念していた、学ランの色の所為で気付けていなかった。車窓を通過する夕の陽射しで、ぬらりと黒地が輝く。
「すいません、弁償します」
「そろそろ到着ですから、お降りの際で宜しいですよ」
 学生服の俺がきちんと金を出せるのか、運転手は疑念を抱いているだろう。
 それを打ち払うかの様にして、俺は内ポケットに突っ込んである札束を引っ張り出した。
「運賃と合わせていくらですか」
「……えー三万円です」
 キリが良過ぎる金額だ、それに発するまでの妙な間が有った。足許を見られたか……料金メータは一万円も到達していない。この札束が相手を強気にさせたのか、座席一つ分のシート弁償にしては高い。
 ただ、釣銭が有ってもかさ張るだけなので、支払う事への戸惑いは無かった。これはヤクザの汚い金だから、散財しても痛くない。
「はい丁度で、有難う御座いました」
 運転手に一万円札三枚を渡し、自動で開かれたドアから車外に出た。
 湿った風、晴海の水面から運ばれる臭いに清涼感は無い。
 以前来た時はルシファーも居たからすんなり通れたが、俺一人ではどうなるだろうか。
 不安を抱きつつ教会の扉を押し開いた……誰も居ない。もしかしたら、常に無人なのかもしれない。教会なのに魔界への路が開くなんて、実際問題だ。
 今開いた扉だって“普通の人間には通れない”とかだったら……どうする。
 己の掌を見つめた、呼吸に合わせてトクトクと光が明滅し出す。擬態を完全に解いて、唱えた。自分でも何の言語か理解していないが、ルシファーに吹き込まれた通りに紡ぐ呪文。
 薔薇窓の色が濃くなり、透ける陽で輝いていた板張りの床も暗くなる。ターミナルに近い感覚だ、この密室の外だけが入れ替わる。あの石のオブジェに刻まれていた言葉を、唱えている様なものだろうか。アマラ天輪鼓……ヒジリがどういう物かを当時説明してくれたが、頭に残っていない。
 あの男に襲われた瞬間から、関わって来た記憶を忘れようと必死だった気がする。
(襲われた……? そういえば、どうして人間に後れを取ったんだ)
 何かされた、という記憶だけは鮮明なのに、その前後があやふやだ。
 ライドウは俺を糾弾するが、ここまで忘却していると俺だって困る。ボルテクスでの関係性を憶えていただけマシというか、もっと酷い事をされていたかもしれない。
 利害の一致とはいえ、安穏と手を組んでいる場合じゃない程に……
(確か“均衡の柱”を通れば、ケテルに行けた筈)
 扉を開くと、晴海の海は消えていた。
 俺は予定通り、堕天使の城へと歩き出した。




 魔具を返却して欲しい、という口実の謁見だ。
 ルシファーが指を鳴らし掌を翻せば、その内には緋色の石が輝いている。
「これかね」
「はい」
 大して確認もせず、即座に返答した。
 あの手を除きに接近する事の方が、恐ろしい。
 俺と会うからだろうか、人間界を歩く時の様な姿だった。
 先日会食した時とは違うスーツ、アパレルはよく分からないが、恐らく洒落たやつ。
「何処の抽斗に入れたかと、少々探してしまった」
 玉座の傍に控える彫像の様な悪魔が、ふっくらとした青いベルベットを手元に広げ、ルシファーへと跪く。
 其処にころんと放られた三つのピアス……やんわりと包まれたソレが、俺の目の前に運ばれて来た。
 手を出して良いものか躊躇したが、誰も彼もが無言だったので、さっと摘み上げポケットに落とす。
「そんなに大事か」
「えっ」
「その魔具はお前の力を抑制する物だ、本当に必要なのか? 会食をした際も、しっかりと擬態出来ていたではないか」
 指摘されてみれば、確かに……躍起になって取り戻す程でも無い。
 付け焼刃とはいえ、化けるコツは掴めてきた気がする。
 補助具が無くても斑紋が消せる、特殊な状況でもない限りこの自信は揺るがない。
 それどころか……ここ最近は意図的に晒してしまった。よりによって、ラブホと暴力団事務所で。
 不可抗力だったとは言い逃れし辛い。
 場所も場所だし、人間相手に暴力を振るってしまった。
「……まだ、感情に左右されてコントロールが難しいんです」
「己を変質させるより、周辺の人間に催眠をかけた方が手っ取り早いとは思わないか」
「俺の周りだけ気付かなくても、遠くからの目の良い人が見てるかもしれないです」
「土地に呪いを施せば、お前の姿を誤魔化す事は出来る。ただし、我々の様な存在が視えていた者は異変に気付き、要因を捜すだろう」
「……ライドウみたいな奴ですか」
「そうだな、デビルサマナーは鼻が利く」
 結局、自分以外に施す術はアテにならないという事か。
 少し期待した俺が馬鹿だった。
「まだ何か云いたげだな」
 堕天使の眼が、真っ直ぐに俺を刺す。
 紅と翠の左右が、交差して睨みつけてくる。
 咄嗟に返事も出来ない俺は、どこかぼんやりと林檎の色みたいだと感じていた。
 楽園の林檎は、何色をしていたんだろうか。
 俺がライドウに齧らされた林檎は、真っ赤なやつだった……マガツヒの様な、蜜の滴る。
「矢代」
 気付けばルシファーが横に居た。
 控えの悪魔は微動だにしない、俺が刃向かうつもりも無いと踏んでいるのか。
 一発くれてやったらどうだと、想像だけして止める。
 この悪魔に痛い事をされた記憶は有った。途方もない大きな闇に、雁字搦めにされた記憶だ。
 海馬がこの身を萎縮させて、ストッパーをかけている。
 力量を考えればこれが正しいのかもしれないが、同時に歯痒い。
「少し奥で話をしよう」
 俺はただ頷いて、追従する。
 重量感のあるカーテンは壁の飾りに見えたが、するりと開かれると通路が有った。
 綺麗に切り出された石が整然と組まれ、他の廊下よりも此処は冷えていた。
「その服、ガッコウに行っていたのか?」
「ええ、まあ……」
「随分と血腥い、獣の臭いがする」
「オルトロスと戦いましたから」
「もう一種類相手しただろう、別の臭いも有る」
「猿……ピンク色の」
 ライドウに教えられた名前も思い出せず、適当に説明している内に扉が見えてきた。
 ルシファーが開けながら俺を一瞥する。形だけの軽い会釈をして、入室した。
 私室だろうか、テーブルに四足椅子……緩やかなアールをしたソファに、背の高い本棚。
 ベッドも有るが、不思議なくらい生活感が無い。
 悪魔に寝床が必要なのか? そんなブーメラン誰が投げるか。
「何か飲むかね」
「いえ、結構です」
「マンドレイクの根を焙煎した珈琲に、妖樹の樹液を煮詰めたシロップを入れたものが此処最近の流行だが」
「そんな悪趣……いや、だってマンドレイクって、歩き回ってませんか? 他の悪魔と同じ様に」
「彼等が自らの脚を切り売りしているのだ、何も問題は無い」
 促されるままにテーブルへと着いた、大広間のそれとは違い天板は狭い。
 正方形で、大理石の様な質感。継ぎ目が一切無い、巨大な石から削り出したかの様な調度品。
 椅子の座面は想像よりも柔らかく、低反発スポンジにも似た感触だった。
「ピンク色の猿とは、これの事かな」
 黙って天板を見つめていた先、開かれた本が唐突に割り込んできた。
 図鑑だろうか、記されるのは日本語ではない文字の羅列で、既に読む気力が失せている俺。
「これ、悪魔の文字ですか」
「人間もラテン語を使うだろう?」
 云われてみれば、確かに形だけはアルファベットっぽい。
 並んで描かれている絵を見れば、そこにはピンク色の猿が居た。
 平たい曲刀を掲げたポーズで、太陽を見上げていた。簡略化されてはいたが、特徴から同一悪魔と判断出来た。
 向かいの席に座ったルシファーが、頁の上に白い指を滑らせ唱える。
「オンコット」
 黒い爪先を辿れば、それらしい字面が有る。
 ああ、そうだオンコットだ。あんな状況で云われたから、憶えられる筈も無かった。
「そうです、こいつに喧嘩を売られたので……」
「買ったと」
「ええ……」
 目の前の本は分厚く、まだまだ読む所が残っている。
 そうだ、全書という形で、記録帳の様なものが有ったじゃないか、邪教の館に。
 ただ、俺は殆ど悪魔を仲間にしなかったから、とんでもなくスカスカだった。
 あれならまだ、この図鑑の方がそれらしい。
「ひとつ賢くなったかな」
「はぁ、有難う御座います」
「礼ならライドウに云いなさい、それを書いたのは彼だからね」
「はぁ……はぁ!?」
 予想外の事実に、思わず他の頁を捲った。
 さっと指を退けたルシファーが、テーブルに肘付くと薄く微笑んでいた。
「彼の研究熱心は、お前も知るところだろう」
「俺はあいつの事なんかさっぱりで」
「ボルテクスで共に過ごしたろう?」
「これ、どういう経緯で渡されたんですか」
「本の中より、過ぎさりし空気を読みたいか成程……お前は正直だね」
 指をくい、と曲げたルシファーの手元に本は釣られ、そのまま本棚に飛ばされていった。
 空いていた隙間にぴたりと納まると、前置きも無しに語りが始まる。
「私はヒトに化けて彼の生存期間を散歩した事がある、その頃に少し縁が有った程度だ」
「縁ってどういう」
「大した関係でも無い、聴いてお前は愉しいのかい? それともライドウの弱点を聞き出そうとでも?」
「弱点有るなら教えて頂きたいですし、俺ばかり知らない事が多いのは納得いきません」
 卑怯と笑われるか? いいや違う、俺はフェアに扱って欲しいだけ。
 俺にお遊びでマガタマを呑ませたくらいだ、同じノリで餌が与えられないとも限らない。
 この堕天使の玩具は、俺だけじゃない筈だ。
「弱点……暫く酸素が吸えないと窒息死するし、脳が損傷すれば壊れた人形の様になり、心臓が止まれば動かなくなる」
「そんなのは……」
「挙げればキリが無いだろう。弱点は人間である事、此処に帰結する」
「じゃあなんでライドウは悪魔と渡り合えるんですか、使役なんか出来るんですか」
「人間だからだ」
 答えになっていないと、先刻から苛々が滲む。
 反面、分かりそうになる自身に嫌気がさす。
 俺の悪魔の部分が、人間であるライドウに従っている。その揺るぎようのない事実が、理屈抜きの結論だった。
 人間への憧れと、欲望が……縛りつけて放さない。
 MAGの香る肉塊が、俺の内の悪魔に命じるんだ。餌が欲しくば云う事を呑め、戦えと。
 その餌というのは、デビルサマナーそのもの。
 ああ、そうだ喰らい付いたんだ、其処で喰わねば先が無かった、毒物と知りながら俺は――……
 俺は、ライドウと何をしたんだ?

「矢代」

 瞼が重い、それでも目一杯こじ開ければ、天幕が見える。
 先刻自分が着座していた席が見える、背の感触で此処がベッドだと把握した。
 起き上がろうにも、四肢が杭でも打たれたかの様に動かない。
 辛うじて視線は動かせる、声の主をすぐさま追った。
「またマガタマを呑まされるとでも思っているのかね。安心しなさい、今お前に与える物は特に無い」
「……一体、何を」
「お前が呻き出して、勝手に倒れた。こういう場合には床より寝床が適切なのだろう、寝台が有って良かったな?」
「体……動かない」
「ついでに見せて頂こうと思ってね。思えばゆっくりと見た事が無かった、その紋様」
 何の事かと問う前に、自身の着衣が無い事に気付く。
 斑紋の燐光が強く瞬いた、体が頭より先に警戒している。
 ルシファーはベッドの端に腰かけ、俺をじっと眺めてくるだけ。その眼に下卑た色は無いが、此方の恥が軽減されるわけも無い。
「それにしてもお前は自己催眠にかかり易い、そればかりはマガタマが跳ね除ける事も無いか」
「覚えが無いです、自己催眠……?」
「城内の者に“記憶操作”に関して訊ねていたそうだな」
 道中の事なのに、いつの間に耳に入れたんだ。知られた所で痛い内容では無い、其処に言及してくれるなら逆に助かる。
「記憶を消すも錯覚させるも、得意とする悪魔は居る。ただしそれは完全な書き換えには成り得ぬ、施されたモノの耐性も素養も左右する」
「人間の……少人数でいいんです、記憶を、一日分でもいいから消したくて、そういう悪魔が……欲しくて」
「序列七十番のセエレに訊くが良い。アレは顔が広い、すぐに連れてくるだろう」
「はい」
 悪魔的な駆け引きに、自嘲したくなる。
 のびていたオルトロスを引っ張り上げ、事務所に留置した人間達へ《麻痺かみつき》をさせてある。一般人相手だ、そうそう解ける事も無い筈。これでこの件は、なんとか済むだろう。
 しかし、結局あのカップルの男の方がヘマをやらかす限り、事務所に引きずり込まれる顛末なのかもしれない。繰り返させるだけなのかもしれない。消された記憶をまた辿る形になって、それをデジャヴと感じたりして。
 ああ、今更になってライドウの云った「人助けの真似」という言葉が刺さり始める。
 そうだ、俺はあの時、俺を助けたかったんだ。
 悲鳴する弱者から逃げない俺でありたくて、勝手に……
「記憶の話だが……矢代、聴いているのか」
 己の迷走っぷりに視界がぐるぐるとして、ルシファーの声も遠く感じていた。
 素肌の胸に触れられて、ようやく俺は相槌だけした。
「まだ何か有るだろう、疑問が」
「どうして……そう思うんです」
「お前が其処から起きようとしないからだ、私は緊縛した憶えは無いよ」
 触れてくる指先が冷たい、黒い爪はマニキュアと違ってエナメルの様な輝きは無い。それ自体が漆黒で鋭く、俺の肌に軽く痕を残した。
 ライドウと違い、欲望のかけらも見えない。
 ……ライドウと違って?
「ボルテクスの記憶が綻んでいるのか」
「はい、多分俺が……思い出したくないんでしょうけど。さっき云われた自己暗示とか、そういうのも実際有るでしょう」
「ライドウに使役されるを選んだ己が許せないのか」
「決定的な何かを忘れている気がするんです」
「合意の上で使役関係になったと、彼からは聞いているよ。例え違っていたとして、私に仲介を求めるのか?」 
「いえ、もっと感覚的な部分です。ライドウの事をよく知らないのに、味だけは知っている……みたいな……」
 何を云っているんだ俺は、改めて反芻したら気まずい。
 もういいこんな事、それこそ堕天使には無関係だ。
 気持ちにケリをつけて、早く起き上がって服を返して貰おう。病院でも無いのに、いつまでも全裸でいられるか。
「それはね矢代、お前がライドウを喰ったからだよ」
 聞き捨てならぬ台詞に、決意が揺らぐ。
 スーツの皺も厭わずに、ルシファーがシーツ上に這い上がって来た。
 黄金の髪が、向こうの燭台の灯で稲穂の様に照り輝く。その穂先が俺の肌をくすぐる、眼が近い……林檎の薫りは無かった。
「いや、喰われたが正しいのかもしれないな」
「……ライドウはともかく、俺にカニバリズムの趣味は無いです」
「お前の抽斗を開けてやろうか、矢代」
「ひきだし……って、どういう意味でしょうか」
「抽斗は抽斗だ、お前は己の歴史を整頓したりはしないのか。必要な際、探し易い様に封じておかないのか」
「意識してそんな記憶術使いません」
「記憶術? ああ……そうか、人間は意識しなければ、抽斗に仕舞った事すら忘却するのだった。その程度で済む寿命だったな」
「いっ」
 項を掴まれた、正確には突起部分。
 ルシファーの眼がブレて見える、揺さぶられているのか俺の眩暈か、定かではない。
 見た事も無い光景が脳裏をうろつき始めた。はっきりとした形状は無いが、それは確かに抽斗だと思った。開きそうで開かない。隙間からぱらぱら零れる砂は、ボルテクスの地表を覆っていた物と同じ。
 他の段は何が入っているのか、それとなく分かる。今開けようとしているこの段だけ、癒着してスライドしない。
「鍵が必要か」
 赤と翠の眼が、ゆるゆると色彩を変えた。薄紫に墨を落とした様な、そんな虹彩が俺を見つめている。
 あの特徴的な服装が無いから一瞬分からなかったが、これはライドウだ。
 ルシファーがライドウに化けて、俺に跨っている。艶やかな黒髪と妙に鋭利なもみあげ。ルシファーよりは小柄で、俺よりは筋肉のある整った身体。
 あの男が俺をひん剥いて苛めてきた事は、幾度か憶えがある。でもこんな状況は、これまで無かった。互いに丸腰だなんて。 
「人修羅、カルパの底で対面した時に感じたよ、お前が既に毒されていると」
「……ぐ」
「葛葉ライドウの使役悪魔は管を仮住まいとするが、直接施されるのはせいぜい紋程度……しかしお前はどうだ? 表面的には何も無い、あの魔具とて一時的な物であり、着脱は任意」
「っ、はぁ、はぁ」
 ようやく圧迫感が和らいだ。項から抜かれた手が、今度は俺の心臓の上に留まる。
 トクトクと振動が其処に奪われる様な気がして、気が休まる暇も無い。
「それだというのに強い繋がり、魂の束縛を感じる。お前が彼とどういった儀式をしたのか、察する事が出来る。少なくとも、人間に興味の有る悪魔連中……私も含め、ね」
「な、何……どうして、その姿に」
「形はどうあれ、お前が血と精を交わしたという事だ。そしてあのライドウの事だ、お前を支配したがるに違いないと、私は思った」
 俺は、気が気でなかった。
 どうして裸のライドウに化ける事が出来るんだと、本当はそればかりが気になって。
 帽子も無い、一糸纏わぬ姿。俺は……見た事が有ったか?
 有った気もするが、それはあの抽斗の奥かもしれない。
 見たい、見たくない、恐ろしい、おぞましい。
 俺が忘れているだけだとしたら? それもやはり、納得いかない。
「半分人間のお前相手に、ライドウが何を仕掛けて精神的優位に立つか……答えは単純明快。そしてお前も単純だから、この姿で刺された方がよくよく思い出せるだろう」
 中身はルシファーだから、酷い違和感だ。
 触れ回る指先にいやらしさも無く、だからこそ恐怖が滲む。
 俺の為だという言葉に、爪先だけでも乗った瞬間から共犯になる。
「あのっ、俺……も、もういいです、思い出せなくて構わない」
「本当に嫌ならば、跳ね除けても良いのだよ? 鍵を挿して、お前とライドウの記憶を解錠してみよう矢代……ふふ……何が出てくるかな」
 その薄い笑みだけは本物に似て、思わず呼吸がひきつる。
 俺の股座を“鍵”に見立てたモノが、ひたひたと叩いていた……

-了-


* あとがき*
これは寸止めというのでしょうか? 私が「事前・事後」の描写ばかりする話は、このサイトでは有名ですが……つまり。
人修羅が目の前の事よりも「なんでライドウのそれを知ってるんだ」と、閣下とライドウの関係性ばかり気にしてるのがポイントでした。


↓余談↓
タイトルの「ノウエン」は「濃艶」のイメージで。