チャイムの音より遅い「起立」に、周囲の溜息が聞こえるみたいだった。
 数学の教師って数字に厳しいイメージ有るのに、どうして終業時間にはルーズなんだ?
「新田君」
 着席と同時に睡眠体勢へ入ったオレに、女子の声がかかる。
 自分の頭を包むように伸ばした腕の内から、もぞりと首を捻って相手を確認。
 意外な事に、橘千晶だ。いつもの刺々しさが声音に無いから、てっきり別人かと思った。
「どうしたよ」
「ねえ君、功刀君の家に行く気、無いかしら」
「はぁ? アイツ今日も結局来てないって事?」
「この後から来るとは思えないけど、もうお昼だって過ぎてるし」
 二人して、じっと当人の机を見た。
 空っぽの席は乱れも無く、ちょうど席を外しているだけのようだ。
 昨日の帰りまでは横に提がっていた鞄も、今日来たら無くなっていた。
 てっきり当人が回収して、授業だけフけてんのかとばかり。
「貴重品って事だから、鞄は事務室のロッカー。昨晩それを伝えようと思って、彼の自宅に電話したけど……途中で切られちゃったわ」
「えっ、マジ?」
「こんな屈辱的な嘘、私が吐くと思う?」
「思いません!」
 何やってんだアイツ、橘女王を怒らせるとは……いい度胸してるぜ。
 いかにもな脳内台詞を浮かべつつ、寝がえりを打った。
「病み上がりの祐子先生に行かせるワケにはいかないでしょ、昨日だって花屋まで様子見に来させてしまって……ああもう、こんな筈じゃなかったのよ」
 苛々を隠さない橘千晶だが、今日はそれ以上に不安の色が強い。狼狽っていうのか、そうでもなけりゃ勝手に矢代の家行ってるよな、このヒト。
「で、どうしてオレが行かねばならんの?」
 とりあえず訊いてみた、教室の時計を眺めながら。
「……あのね、最初に電話出たの、功刀君じゃなかったの」
「紺野さん?」
「ええ……その、正確に云うと功刀君とは通話してないの私。紺野さんが対応してくれて、その途中でブツリと切れたのだけど……切ったのは多分、功刀君よ」
 何だそりゃ女のカンか? でも確かに、紺野はそんな雑な事しない気がする、男のカンだけどさ。
 時計の針が進む、返事を決めなきゃな。ああ面倒くせえ、でもこのまま放置したら、きっと祐子先生が訪問する事になるし。
「何か揉めていたらと思うと少し厄介だから、男友達の君が適材かと思ったの」
「あーはいそっすね、行かせて頂きますよ、お嬢様」
 放課後のホームルームが終わったら、まず事務室……で、鞄取り出すにゃ先生の同伴が必要だろうから……ま、そこだけは楽しみだな。
 次の授業のチャイムが鳴り響くと同時に、オレはバリケードの様に教科書を机に立てた。
 放課後の用事の為に、もうひと眠りしとかねーとな。


帰って来た嘯く鳩




 まるで流れ作業のようにアッサリと手続きは済み、オレは祐子先生と正門で別れた。
 内心思う、これが矢代だったら先生はきっと引き留めて喋り込んでるだろうって。
 でも正直、本当に「私も家まで行くわ」とか云い出すんじゃないかと、ヒヤヒヤしてた。
 先生の身体が心配……ってのも有るけど、自分にいいわけしたってしゃーねえし、こんなの正直嫉妬だ。
 何をどうして、先生はアイツの事を気に掛けるんだろうな。アイツ以外の全員には、平等なのに……
(それってつまり、矢代が特別って事)
 オレは当然《功刀矢代以外》に該当するワケで、区別の理由さえ分からない。
 矢代の鞄が急に重く感じた、受け取った時はそうでも無かったのに。
 この中に入ってんのは、課題に必要なアレコレと、財布と定期と眼鏡……くらいかね。
 オレの鞄みたく「学校で使う必要ゼロ」な物が詰まっている筈も無い。
 音楽プレーヤー、リップクリーム、爪切りピンセットに鏡、借りっぱの漫画単行本、DSかPSP……中の寒い財布。
 昔だったら、きっと煙草も入ってたな。中坊の頃、別に美味しくもなかったけど必ず持っていた。
 もう味も思い出せない。燃える先端の色だけが、脳裏にチリチリと焦げ付いてる。
 頬を撫でる風が冷たくて、肩に力が入った。人混みとビルの隙間から、焼ける空が見える。
 妬ける胸からチリチリと、あの日の空と重なる。
 
 
 なんかよく分からんけど中学時代、オレはパシられてた。
 大金ってほど巻き上げられてるワケでもないし、痣が残るような暴力をくらってるワケでもない。
 それでも何かにつけちゃあ馬鹿にされ、格下に扱われ、散々イジられるオレ自身も孤立してた。誰と喋るでもなく、休み時間には机と常時キス。飯は殆ど噛まずに飲み込むクセがついた、長時間一人で食ってられっかっての。
 デカイ顔したクラスメイト(名前は忘れた)が、移動教室の度に荷物を投げてくる。うまい事キャッチしないとだ、落としたら背中蹴っ飛ばされるからな。ポンポンと周囲から放られ、オレは異国の運び屋みたいに山盛りの荷物を抱える。柔道着はかさばるし、工具箱はクソ重い。
 どうして自分以外の野郎の鞄とか、持たなきゃいけねえんだっての……そんな反論も出来ずに、オレは中身すっからかんで従った。
 これが漫画とかだったら、クラスに大抵一人くらいは正義感の強い女子なんかが居て、庇ってくれるモンだけど。リアルワールドなので、そんな存在居やしねえ。気まずそうに、遠目に見守ってんだか観察してんだか。ま、多分アレだな、自分がやられないように予習してるんだ、周囲の奴は。
 オレは在るが見えない空気の様に扱われ、空気なのに荷物を運び、空気なのに参考例になった。そんな空気はやさぐれの証みたいに、煙草を自販機で買ったんだ。税金デカイから、小遣いを圧迫しやがる。
 大して美味くも無い煙を飲み込んでむせた、慣れるまでは人目につかない場所で訓練した。
 しかし問題発生だ。色々あってこんな不良になっちゃいましたよアピールのつもりが、誰も注意してこねえ。でも堂々とコンビニで買う気はしない、きっと事務的に「未成年への販売は出来ません」とかハネられるだけで終わる。そこでゴネるのが目的じゃないし、そもそも本当は煙草吸いたくないから押し通すまでの欲求も無い。
 
 あくる夕暮れ時、愁いモードMAXでオレは校舎屋上に出て一服してた。
 久々の学校だったが、より一層自分にとって居場所の無い箱庭になってて、ちょっと絶望気味だった。
 屋上が開放されてる事は、生徒間でも殆ど知られてない。一昔前はそれこそたまり場だったらしいが、夏暑く冬寒いので「最近の若いモンは好んで居座らんだろ」とか用務員のオッサンが教えてくれた。
 確かに出歩ける範囲は制限されてて、玉遊びさえ難しそうな狭さ。そんなお一人様専用席みたいな場所で、フェンス越しに真っ赤な空を眺めては煙を吐いた。
 グラウンドを駆けるサッカー部員達は、球に群れ集う虫みたいだった。並走しながら粒が乱れていく陸上部員は、窓の露。
 そういうの何から何まで、全部真っ赤に染まっていた。地面も人も樹も建物も、見渡す校内一帯が燃えるみたいに。
 独りで居ると、いつもより色々よく見える、見え過ぎる。
「あらっ、こんにちは」
 唐突な女性の声に振り返ると、生徒じゃない人影が居た。
 服装からして教員だ、でも見覚えが無い……オレのクラスは担当外の人か。
「煙草は吸っちゃダメよ」
 教育者なら当然の言葉へと続き、オレもテンプレみたいにヘラヘラしつつもウンザリといった表情で返した。
「一応注意はしましたからね……わ、凄く真っ赤」
 と、女性はオレの隣に来て自分も一服始めたから、ちょっとびびった。
 互いの煙に紛れて、オレは横目に見上げる。(相手の方が背が高かった)
 キリリとした眉は、なんとも意志の強そうな感じ。顔はちょっと童顔っぽい、でもスッキリした服装と少し暗めの口紅が、これまた大人っぽい。黒髪は結構短く切り揃えられてて、ジャケットの肩に毛先がギリギリ触れない程度。
 似た芸能人が居た気もする、思い出せない。美人だから、勝手に居そうと思い込んだかも。
「よく吸いに来るの?」
 無視した方がボロが出ないと思ったけどもう遅い、オレは内心ドキドキしながら言葉を選んだ。
「いや、たまに……」
「そう、私も」
「あの、他の先生もココ来んの?」
 オレの声音で察したのか、ふふっと煙を吐き出して笑った。
「大丈夫、まだ遭遇した事は無いから」
「そっすか……」
「人気スポットだったら私も困っちゃう」
「独りになりたいんすか」
「そうね、今日は二人になっちゃったけど」
「嫌?」
「ううん、そうでもなくて今ホッとしてる所」
 なんとなく「オレも」って云いそうになる。でも煙と一緒に飲み込んで、無様にむせた。
 軽く背中を叩かれて、そのトントンと触った掌が空気みたいに軽くて優しかった。良い意味の空気ってヤツ、自分みたいのじゃなく。
「でも体に好くないのは本当よ、成長過程なんだから考えて吸いなさい」
「じゃあ先生は吸っていいの、体に悪いのって成長云々関係無いっしょ」
「先生って私の事?」
「違うんすか」
「……ううん、一応先生だと思う」
 見目に反して、なんだか自信なさげな反応。
 女性の眼が赤い。充血なのか、夕焼けの色を吸い込んでるんだか、どっちか判らない。
「授業で何か教えてたら、先生って自称してイイっしょ」
「そう?」
「そうすよ」
「君はこの学校の一員、生徒としての自覚って持ってる?」
 なんだか生真面目な質問で、そういうトコが教師っぽいなって思った。さっきの口ぶりからして、教育実習生かもしれない。
 茶化さず答えたかったけど、うまい言葉が見つからない。いや違う……答えがオレにも分からない。
「つうかですね、正直、そんなのいちいち考えて学校生活送ってる奴なんて居ないと思います! そんな自覚が皆に有るんだったら、もっと平和っしょ」
「平和って?」
「えっ、うん……その、イジメとか無いと思うんですけどね」
「イジメを見たの?」
 おいおい自分が被害者ですなんて、まさかこのタイミングで切り出せない。見たと云ってもややこしくなるし、見なかったと云えば「知った口を利くんじゃありません」って話になるし、いきなり詰んだ。
「御免なさい、別にいいの云わなくて。君がイジメを好くないって思ってる、それだけでひとまず良いのよ……自分を一番大事にしなきゃ」
 無言のオレを気遣ってか、先生(仮)は勝手に話を終わらせた。でもなんだか、その言葉はオレに向かってない気がした。
 オレの目を見て云ってない、夕焼けの向こうに話しかけているようだった。誰にも向かわない言葉の行先は、何となく知ってる。
「それにしても凄い夕焼け、なんだか今日は一段と赤い」
 オレに同意を求めてるのかな、確かに凄い色してるし、でもさっきからずっと気になってるんだよな。
「先生もココで夕焼け、よく眺めてるの」
「私、高い所が好きなの、こうして見下ろせる様な……」
「夕陽の色が好きってワケじゃなくて?」
「……そういえば私、さっきから綺麗とは一言も云ってなかったのね」
 すぐに自覚する辺り、頭良さそうだなあと思った。
 オレはしゃがみ込んで、足下のコンクリに煙草の先端を押し付けた。一瞬ジッと音がして、燻る臭いが漂う。
「最近、こんくらいの時間にココ来て、学校が燃える妄想してた」
 灰で黒ずんだ一点を眺めながら、オレは吐き出した。喋る内容のせいかニコチンのせいか、舌の根が苦い。
「イメージし易くって、全部真っ赤だし。でも吸い終わる頃には身体すげえ冷えてんの、ブルっときてなんか目が覚めるっつうか、燃えてたらこんな寒くないよなって思って、結局虚しいっつうか」
 どうして初対面の先生(仮)にこんな事暴露してんだか。でも今しか云えないと一瞬でも思ったら、もう口から洩れてた。
 不謹慎と怒られるか、冗談と笑われるか、どっちかだろうと思いつつ……この人なら、黙って聞いてくれる予感がした。
 火事の炎とキャンプファイヤーの炎と、何が違うのか。燃える物が違うだけで、火の色は同じ。
 赤いオーロラを、前にテレビで観た。キレイなんだけど火事にも見えて、実際昔は悪魔のしわざとか云われてたんだと。何のしわざでも良いじゃん、燃えてないしキレイなら。
「ああ……それ、きっと私も同じ」
 ところがどっこい、黙って聞いてくれるどころか同意が帰って来た。
「どうしてか“綺麗”って云ってはだめな気がしてたの、きっと後ろめたさがあったからね」
 一体どんな表情してるのか気になって見上げると、目の前に携帯灰皿を差し出された。吸い込まれるように其処へ吸い殻を入れた時には、先生(仮)はもう向こうを眺めてて、確認出来なかった。
 この人もイジメられてんのかな、この狭い学校で。
「でも、焦土から芽生える新たな生命や文化って、夢が有ると思うの」
「はあー先生、放火でもする気」
「すると云ったら君は止めてくれるの?」
 教師らしからぬ返しに、オレがうーんと唸ってしまった。妄想で済ませてくらいだから、本当に燃えたらショックだと思う。
 それとも、こんな気持ちも無駄なのかね。周囲の下らねー奴等が燃えて、オレが心に火傷したとして。
 その逆……オレが燃えようが、周囲は「なんだか熱かったねー」の一言で済ませるかもしれんし。
 今は身軽な筈なのに、まだ荷物を負わされてる気がする。運んでも運んでも消えない、身体に痕は無いのに。
「こうやって見下ろしている世界が、いきなり燃えてしまったら……まず何を思うかしら、ね?」
「えぇ……自分の家どうなったかなあ、とか……水や食料の確保はドコですりゃいいのか、とか……」
「誰かが死んでしまった可能性を思って、心がざわついたりはしないの?」
「ショックは有るすよ、でもうっすいショック。家族の事とか心配っちゃ心配だけど、自分の事でいっぱいになっちゃって多分すぐ忘れる。っていうか今、例えば本当にそうなったとしたら……多分先生と一緒に生きてく事考える」
「初対面から数分よ」
「だって先生優しそうだし、たった二人で生き残ったら運命的じゃないすか」
「この屋上がノアの箱舟になるって事?」
 一笑で流されたけど、オレ別に的外れな事云ってないと思うし。
 この人、おっかない所たまにチラチラ見えるけど、やっぱり優しいんじゃないかな。
 でもそれって多分、今のオレにとって優しいって事で……
 妄想で燃やされた世界にとっては、優しくないんだろうな。


 オレ、祐子先生はあの時の先生(仮)だと思っている。
 高校入ってから、二年になる直前に見かけて一目で分かった。しかも自クラの担任とか、漫画みてえな展開。
 まあ、そこから何の進展も無えし、先生は他の野郎にばっか構ってる始末だけど。
 もう煙草は辞めたのかな、元々そういうの好きなタイプにゃ見えないし、ひょっとしたら入院を期に辞めてるかも。
 あの頃はストレスも溜まってたろうし、だからバッタリ出くわした生徒に合わせて、あんな話で盛り上がってくれたんじゃねえの。
 ここまで妄想しときながら別人オチが一番怖いから、本人に確認した事は無い。
 いい……それでイイんだ、別人だったらそれはそれで。だって今のオレは、祐子先生が好きなんだし。
 ただしあの頃からだ、オレは燃えるような夕陽を浴びると体が蒸発するイメージが止まなくなる。何処か高い所、フェンス越しに見下ろしてくる視線が無いか気になる。
 祐子先生が、ある日唐突に「世界が燃えてしまったら」とか、云い出すんじゃないかって。
 それを聴き逃したくないから、いつも傍に居たいのにさ。あれからずっと独りだったか、確認したいのにさ。
(周りは惚れた腫れただ茶化しやがってよ)
 オレは、独りで居る事を認めて欲しくて、コケにされないよう今度こそはと高校デビュー頑張って、気付けば独りが怖い。
 祐子先生、実はこっちの正体を(あの時のガキだと)分かっていて、わざと話題にしないんじゃないか。
 あの時の事を掘り起こすと、オレが怒るとか思ってるんじゃないか。
 怒らないのに……先生、今のオレが見えてないのかな。
 互いに独りだったから、中坊の頃は見えてたのかな。
 オレに今もまとわりついてる荷物って、一体なんなんだ。この、矢代の鞄じゃなくってだな。
(出なかったら、玄関先に置いて立ち去ってやるぞ)
 功刀という表札をチラ見してから、インターホンのボタンをゆっくり押す。
 扉が開いて……紺野だったら、いっそその方が楽だし早い。コレ渡しといて下さいつって終了だ。
 矢代が来たら、何を云ってやろう。最近のアイツは、なんだか以前にも増して壁が厚い。オレの言葉が聴こえてるんだか聴こえてないんだか、スルーしてたかと思えばいきなし食いついて来る事もあるし。
 別に矢代と仲良し友達ごっこしたいワケじゃないけど、全部を知りたいとかそんな気持ち悪ぃ事思わないけど。
 でもなんか、隠し事ばかりが増えている気がする。んん……オレが隠してる側じゃないから、この場合は「隠され事」か。
「ぅおッ!」
 開いたドアに思わず声が出た、当然心の準備はゼロ。
 黒くない……紺野じゃない矢代だ、部屋着にカーディガンってとこか。コッチを見て、無言。
 オレも云う事なんか決めてなかったから、無言。互いに押し黙ったまま、数分経過したような気さえする。
 ああ、そうだ荷物、とりあえずコレ渡すのだけはハッキリしてる。
「おいこれ、オマエの」
「ああ……ありがと」
「オマエ、わざわざ先生の前で失踪したんだって? 学校ダルいなら、荷物持って出りゃ良かったじゃん。祐子先生に迷惑かけんなよ、カントク先責任っつうの? 問われたら可哀相じゃんか」
「……別に学校が嫌になった訳じゃないし、あの人の前でわざとそうしたつもりも無い」
 なんだ? なんか無性にムカっとキた。
 あの人って何だよあの人って、オマエは生徒なんだから先生呼びが適切なんじゃねえの。
 そういう呼び方って、なんか個人と個人みたいで。
「ちょっとオマエやらしくね、そういうの」
「は?」
「あのさ、もしかして抜け駆けしてんじゃないだろうな。オレの知らん間に、何度か祐子先生んトコお見舞い行ったりしてさ、親密になって、いざ学校で顔合わしたら恥ずかしくなっちゃってーとかそんな話だったりしないよな? な? おいどうなんだよ」
「どうして俺が自分から接点増やしに行くんだ、あんな人と関わりたくないって何度も云ったよな」
「あ、あんな人とか云いやがったなてめー!」
 ガキみたいな事に腹を立てていると自覚してる、が、聞き捨てなるかよこんな。
「隠し事してるのは間違いないだろ! 最近付き合いも悪けりゃなんだその、ギ……ギシアン?」
「はあっ? 誰がしてるかよ馬鹿じゃないのか!」
「ああっ、ギシンアンキ! 疑心暗鬼なんじゃねえの」
 ヒートアップするオレの襟首を、いよいよ掴む矢代。一瞬奥歯を食い縛ったが、殴られるなんて事もなくグイっと引き寄せられた。
 玄関のタタキに叩きつけられる感じで、支えも無いままパッと放される。
「声が大きい、近所迷惑になる……用が済んだなら帰ってくれないか」
 不機嫌MAXっぽい声音の矢代が、鞄を片手にオレを睨んだ。まだこいつもサンダルのままで、家に上がってはいない。
 オレを追い出すまで粘るつもりだろうな、そう思ったら火が点いた。
「なあ、紺野さんと喧嘩でもした?」
「どうしてあいつの名前がそこで出てくるんだ、あいつが俺をまともに相手する事なんか無いし、喧嘩にもなりゃしない」
 あー橘千晶の予測は当たりだな。答えるまでに一瞬間が有ったし、妙に説明的な矢代はいかにも怪しい。
 薄目で見下ろす、靴は少ない……矢代のスニーカー、ライディングブーツ、今履いてるサンダル……だけだな。多分、紺野は外出中。
「ちょっと通せよ、久々にゆっくりさせてくれっての」
「あ、おい勝手に……おい新田!」
 脱いだ靴を揃える事もしないで、オレは廊下を小走りした。どうせいつも通り親御さんは居ないだろ、こいつ一人だ。
 ああ、親御さんつっても片親だから……そういや、最近本当に矢代のカーチャン見てないな。
「麦茶ある?」
「……今ほうじ茶だけ。勝手に飲め、飲んだら帰れ」
 諦めた矢代を尻目に、戸棚からグラスを出した。こいつの家の食器って、クリアか無地ばっかだよな。
 トクトクと注いで、ボトルを冷蔵庫に戻す。庫内の違和感なんじゃこりゃ、食材があまりに少ない。
「最近料理してねーの?」
「いちいち質問が多い」
「オレのおやつになりそうな総菜ねーのかよ」
「最近食欲無いから……作り置きもしないんだ、悪いな」
「おふくろさん元気?」
「もう質問止めてくれないか」
「だってオマエ、なんかおかしい。オマエとゆーか、オマエの周りもだけど。先生のお見舞い行った時だよな……オマエがダチや身内以外と行動してるの、初めて見たわ」
 どっかりソファに座ってみたが、矢代は隣に座らない。いや……元々そういうタイプじゃないっけ。距離感がさあ、遠いんだよな毎度。いやオレだって男とくっつきたい筈無いんだけど。でも以前にも増して遠い、なんでだ。
「周りといえばさ、“功刀には学園祭の日の事は訊いてやるな”って、周りの大人からきつーく云われてるけど」
「じゃあ訊くな」
「いんや訊きたいねオレは、オマエを心配してるなんて綺麗ごとは云わないぞ、そういうの別にオマエも望んじゃいないだろうし」
 あの日、体育館で何かが有ったんだ。あっという間に一帯が包囲されて、覗き見た奴さえ居なかった。
 オレ達生徒には「外部の人間が傷害起こした」って、相当ボカして説明されたけど。そんな扱いにしちゃ一気に生徒減ったよな。
 矢代は暫く休んでたけど戻って来た。あの日あの時、体育館に居て唯一無事だったんじゃないかって、既に噂されてる。
「でもさあ、オマエから誰かに話す事も出来ないって、つまりはそういう事になるだろ。そうしたらオマエの性格だし、どんどん引き篭もっていくんじゃないの?……オレは一応トモダチのテイで居るもんだからさ、先生の悩みの種は回収しておきたいのよ」
「引き篭もりはお前だろ」
 思わぬ指摘に、グラスを落としそうになった。的外れなら、笑ってスルー出来るのに。
 なんだ、なんなんだ、心音が速いしデカイ。
 こいつ、オレとは違う中学だったよな? 今のはこいつの、オレに対する勝手なイメージだよな?
 中坊の頃にヒキコモリした事実を知ってたら……じゃあどうするってんだ。
「他人の事なら知りたがって、根掘り葉掘り訊く癖に。オマエは確かに輪の中心に居たり、お喋りで流行に敏感で、最近何にハマっただとか宣うが……自分の事は晒さない。全部うそぶいてる様に聴こえる、新田……お前の話す全部だ」
「ははあ、なんだぁ突然」
「お前の感情って何で構成されてるんだ、先生か?」
「オレが無いって、そゆこと云いたいワケ?」
 おっかねえから、グラスは目の前のローテーブルに置いた。
 手が震える、投げつけちまいそうで。
「新田自身の目的が見えない、お前は他人の集合体に見える」
「集合体」
 ゾワッとした。それを云われた途端に、自分の身体がバラバラになりそうになった。喩えじゃなくて、マジで。
 眩暈がして、視界がブレブレになったと思ったら天井に固定された。どうやらオレは、ソファから転げ落ちたっぽい。
 矢代って声に出したつもりが、ヒューヒュー風みたいな音になって聴こえた。
「新田!」
 抱き起こされる、オレは自分で立てない動けない。今、力を内側から入れると、崩れそうで怖い。
 自分の呼吸音と違う、謎の耳鳴りが何重にもなって鼓膜を震わせた。
 皆、好き勝手云いやがって、オレはオマエらの指図なんか受けないし、シカトしてやるからな。
 引き篭もって何が悪い、引きずり出そうとする癖に、いざ表に出したら後は放置か腫れもの扱い、それなら最初からほっとけっつーの。
 矢代、オマエ独りが好きだったよな、そうじゃないのか、もしかしてそのつもりは無かった?
(ああ……こいつ、そういえば云ってたっけ)
 「独りとか、感じた事ない」って。
 そうだよ、完全に忘れてた。いつ聞いたなんて、サッパリ思い出せないけど。
 オレさあ、オマエの独りっぷりが羨ましかったんだよなあ、多分。
 口では責めながら、それでいいのかって諭しながら、平気なそぶりのオマエを見て過去の自分を慰めてた。
 “独りが辛い”って顔をまるでしないオマエに癒されてたけど、矢代って実は全然独りじゃなかったのかもな。
「体が、カラダが熱い、ちぎれる」
「落ち着け! 深呼吸しろ!」
「赤い、何だコレおい矢代ッ、部屋が真っ赤だ、オレ目がイカレてんのか?」
 室内なのに、燃えるような赤が目まぐるしく流れを作っている。
 オレと矢代の隙間から炎が揺らぐみたいにギラギラ光って、脳天がぐらんぐらんして。
 体を包む学ランが邪魔だ、オレがそう思ったワケじゃないけど、指先がボタンを掻き毟った。
「動くな新田、呼吸だけ整えてジッとしてろ」
 視界が真っ暗になった、目許に何か被せられたか。赤が見えなくなったせいか、少しだけ血肉が冷えた。
「見ると余計慌てる、俺が身体確認する……そのまま楽にしとけよ」
「はあっ、なんか怖えっ、オレビョーキなの?」
「医者じゃないし、そこまでの判断は出来ない。必要そうならすぐ救急車呼ぶし、不安なら後日病院行ってくれ」
 背中の感触……ソファに寝かされたな。ああ、学ランの前が開いたな、シャツも捲られて風通し良くなった。
 あーあ、どうしてこんな流れで脱がされなきゃならんのか、どうせなら祐子先生みたいな大人のお姉さんが良かった。
「表面的には異常無い、湿疹だとか腫れたりも無い……内蔵痛む感じとかは」
「うー……」
「まだ熱いのか」
「や、さっきよかマシになったけど……」
 長い立ち眩みのようで、長いトンネルのようで、動くタイミングが掴めない。
 ああ……耳鳴りはまだ酷ぇ。
『集合体とか抜かしやがって』
『いつも高みの見物でもしてるつもりか』
「はぁ、悪ぃな矢代」
『オマエは運が良いだけだ環境が違えば孤立してたハズ』
「休んだ人間に看病させたの知れたら、千晶サマにどん叱られちまうなぁ、ハハ……」
『これは分かたれた思想の数だけ出来た個だ全てオレだオレ自身だ』
『孤立と固有は違うオレに同調しないオマエはいずれ前者になる』
『世界が滅亡したってオマエにだけは頼らねえよ!』
「いッ?」
 何の前置きも無しにシャツの裾が下ろされ、布越しに矢代の指が鳩尾を擦った。
「おい最後までキッチリやれよ、いってえなあ」
「……ああ」
 何だ、今度は矢代の方がおぼつかない雰囲気だ。
 オレは目許を覆っていた物を勝手に除けた、お上品な刺繍入りのハンカチだ。まだ視界が眩しくて、その細かいモチーフが何かは判らんかった。
 胸元を確認すると、オレの学ランを神妙な顔して閉じる矢代が見えた。
 ボタンをはめる指が震えているのは気のせいか、オレの視界がブレブレなだけか。
「ど、どした? なんか今度はオマエが具合悪くなっちゃったって感じ?」
「元々……好くなんてない」
 青褪めたその表情が、オレの気持ちをまた騒がせる。
 勝手に診たのはオマエだろうって気持ちと、気を遣わせた挙句の悪影響でバツの悪い気持ち。
 しかし芳しくない反応を見るに、実はオレの身体ヤバい事になってんじゃねえの?
 だからといって今、目の前でまた脱ぎ始めたら……矢代が文句云いそうだ。家帰ったらソッコー風呂入るか、鏡の前で一回転しとこ。
「なんか今日はさ、悪かったよ。さっきもカチンときてついつい……あ、もしかしたらオレ、血圧一瞬で超上がったから倒れた?」
「……どの辺りでお前を怒らせた」
「へっ?」
 おいおいそれを云わせるんかい、まぁでも、こういう流れでも無きゃオレも永遠に暴露しないだろうし。
 矢代のデリカシーの無さと鈍さに、この際乗じておくかね。
「あーあのさぁ、オレ中坊の頃にマジでヒキコモリしたのよな、だからさっきのは図星ってやつ? しかも“オレ”が無いとか云われたもんだから、じゃあ此処に居るオレは何なんだよって思って。本物のオレはまだ引き篭もってて……この体は生霊とでも云いたいのか! ってさ、ハハッ、は……」
 数分前とは別の理由で、息が止まった。
 オレから目を逸らし、部屋の隅を睨んでいた矢代の頬が光っていた。
 落涙に音なんか無くて、むしろ周囲の音を全部吸い込んだみたいに、時間ごと凍った。
「お前が居ないんじゃなくて、俺がお前を見ようとしていなかったのかも」
「は、はあ」
「悪かった」
 同情……するようなタイプだっけ、こいつ。
 いや、そういう掌返しとも違う、応じる空気が変わったのはオレが倒れた辺りからだ。
 確かにオレを見る目が、此処に来た時と今とで違う気がする。
「もういいって、あんま大事に受け取られても困るし! まあ拭けよ、オレのじゃないけど」
 さっきまでオレの瞼に載っていたハンカチを、矢代の頬にグイグイ当てる。預かる様に矢代の指が重なったから、手を引いた。
 っていうか、こいつ泣くんだなあ……そんな所に何故かドキっとした。そりゃ人間だし涙は出るか。
 しかし野郎の涙でも一瞬怯むくらいだから、女、それも先生だったら、オレどうなっちゃうんだろう。
 シチュエーションに期待ばかり膨らむが、要求がとんでもなかったらきっと破滅だな……うーん、下らん妄想が止まらん。
 そんな事でニヤつく自分に、やっと体調が戻ってきた実感が湧く。
 
「今日の所は帰るわ。無理矢理上がってこっちも悪かったし」
 身だしなみを整えるフリして矢代に背を向け、ススッと学ランの内側に手を巡らせた。
 違和感無し、痛みや熱さも完全に失せてる。病院に行くまでもなさそうだな。そもそもあんなの説明しようが無いし。
「じゃな、あんまフケんなよ、次の出席ダルくなるかんな」
 玄関まで黙って見送ってきた矢代だったけど、オレがドアノブに手を掛けたらやっと口を開いた。
「またな……勇」
 先に体が反応して、一瞬引き返しそうになったけどガマンした。ココで尻尾振って向かって行くとか、冗談じゃねえ犬かよ。
 ああでも、それを聴き逃したくないのもあって、なんとなく傍に居たし。オレが独りじゃないのか、確認したかったし。
 先生の事で協定結んでからどれだけ経った? 長かったなあ、下の名前で呼ぶのってそんなに難しいモンか?
 ま、あいつには難しい事だったんだろうな。憎い教師を慕ってるのがオレなんだもん、理解し難いだろうさ。

 空はもう赤くないし、めいっぱい吸い込んだ空気も冷たい。用事でこんなに時間割くとは思わんかったけど、収穫は有ったな。
 心なしか身体も軽い。矢代の鞄だけじゃなくて、なんかそれ以上に降りた感じがする。
 纏わりついていた荷が、ようやく――……


-了-


* あとがき*
勇に関する掘り下げの回、中学時代の事は完全捏造です。戦闘もCP要素も無く、大人しい内容でスイマセン。
先生(仮)が祐子先生なのか否か、明言しません。勇の云う通り、今となってはどちらでも良いので。
後半、複数の声が詰るシーン有りますが、勇には聴こえていません。自分から発された声だとしても知覚していません。
彼の学ランを開けた人修羅が何を見たかは、また近いうちに……

勇って、調子のいい事ばかり言って、実際ズルい所があって、優しさに見せた依存が強く(だから裏切られたと思い込んだら掌返す)
こうして特徴を上げていくとしょうもない人物だが、自己防衛本能の強さが何処から来るんだろう、と想像すると面白い。
同時に、誰か真面目に相手をしてあげた事があるのだろうか、と思ってしまう。
道化のなりそこないみたいな印象が強く、痛々しい。

↓余談↓

(うそぶ)く》とは本来、鳩を呼ぶ為の口笛を指すらしいですね。「嘘吹き」という音が「うそぶく」になったのでしょうか……
「ウソブキ」ってノア(コトワリボス形態)の技名だったと思いますが、なんとなく勇らしくて当時クスっときました。勇の事なんかゲーム中殆ど語られないのに、何故かそう感じました。

タイトルの「帰って来た」とつけたのは、ノアの箱舟で放された鳩のイメージ。