Mimesis
1:芸術理論上の基本的概念の一。芸術における模倣。自然はイデア(事実の本質)の模倣である、とするプラトンの論や、模倣は人間の本来の性情から生ずるものであり、諸芸術は模倣の様式である、とするアリストテレスの説が源にある。
2:他者の言語や動作を模倣して、そのものの性質などを如実に表そうとする修辞法。
3:隠蔽的(いんぺいてき)擬態


ミメシスの仔



「見付からぬ筈が無いだろう、しっかり床を這ったのかい?」
「ついでに拭き掃除だってした、充分這ってるだろ」
「そういえば一粒、階段を駆け下りていく音がしたね」
「下の階も捜した、でも出てこなかった。もういいだろ……その手のシャツボタンなんて、いくらでも売ってる」
 先日弾け飛んだボタンのうち三つを、人修羅が机上に並べていた。傍にはやや年季の入った木製の裁縫箱が置かれ、その蓋が展開される。まるで要塞の様だ、機構の中に設置された様々な道具を見て思う。
「いくらでもだって? これはねえ、ライジュウの捕獲された《あずま貝》から生成されし特殊な貝ボタンなのだよ」
「……何か効力でも有るのか」
「秘密」
「あんた出まかせ云ってるんじゃないのか、さも重要な素材の様に聞かせて」
「そんなに気になるのなら、君で試してあげようか?」
 リスクを伴う好奇心は持ち合わせていないのか、ふいと余所を向いたまま無言の人修羅。
 針に糸を通し、作業に没頭するポーズで流したつもりか。
「さっさと脱げよ、つけて欲しいんだろボタン。とりあえず足りない所は目立たない一番下のボタンを持ってきて、代わりに付けとく」
「このまま付けてよ」
「はぁ? どうして非効率な方法取るんだ、やりづらい」
 僕は学ランの上を放り、寝台に腰掛け後ろ手をシーツに這わす。腰をやや突き出す様に仰け反り、大股開きしてその狭間を眺めた。
 其処に跪け、とは云わずとも伝わったのか、納得の欠片も無い人修羅が床に膝を着いた。
 まずは一番下のボタンを外すのか、小さな糸切り鋏を手にしている。
 シャツの端を裏に返し、ボタンを留める糸を指の腹でくすぐっているのが判る。
「切ったり刺したりして御覧、仕置きしてあげるからさ」
「分かっててやる様なマゾじゃない……だからってミスしなかった俺に八つ当たりするなよ」
 肌と近い距離に刃物が有るだけで、何処か疼く。糸が切断される僅かな音が、呼吸よりも鮮明に感じる。
 肉を切断した音よりも、千切れきらぬ繊維がぷつぷつと発する音の方が大きいだろう。まるで残り火の様な、耳奥に残留するあの音。
「……僕の肌に何か?」
 手の止まった人修羅を煽ると、自覚が無かったのか「あっ」と声を漏らした。
 ボタンを括っている最中だというのに、何故かシャツの隙間を凝視して。その眼が鈍く、金色に光っていた。
「地味なものだろう、君の様に派手な刺青も無い。ああ、背中はそうでもないかな? フフ……」
「なあ、ボルテクスに居た人間は……俺みたいに記憶が残っていたりするのか」
「さあ? 僕はこの世界の創造主でも、カグツチとやらでも無い、断言出来る訳が無い」
 ボルテクスに人間なぞは、数える程しか居なかった、限定的な界隈に絞れてしまう。
 おそらく連中の何れかが人修羅を怯えさせた、そんな所だろう。
「《人修羅》とでも呼ばれたかい、それとも彼等が目の前で悪魔に成った?」
「呼ばれちゃいない、成ってはいない……」
「成ってはいない、と。随分引っ掛かる物云いだね、まるで君が己を完全な悪魔に成ってはいない≠ニ喚く時の様だ」
 図星なのか、いっそ追及して欲しいのか、沈黙する人修羅。掴む針が震えている、このままでは僕の肌にボタンを縫い留めそうだ。
「新田が……つい最近、あんたが居ない時うちに来て、喋ってる最中に魘されだしたんだ。そしたら声が、聴こえてきて……」
「声とは、彼の呻きとは別の?」
「覚えの有る声達だった、以前あいつの体中に巣食っていた外道共の声だ……! 俺は介抱する体であいつのシャツを開いた、蠢いてたんだ、悪魔の顔がそこかしこに!」
「で、新田君はどうなったのだい」
「落ち着かせたら、浮き上がっていたモノも消えていた……」
「君の怖れが見せた幻覚では?」
「その方がマシだ、俺だけがおかしい方がマシなんだ、知り合いの居ない何処かに隠遁すればいいんだ、もう学校なんて放置して──」
 暴走し始めた人修羅の項に、奪った針を突き立てた。ただし、刺さらない程度の接触で。
 言葉を呑み、じっと僕を睨むその眼に高揚する。憤りと猜疑心に満ちた視線は、人修羅の意識がすべて此処に向かっている状態を示してくれた。
「勝手に隠遁されては困るよ功刀君、僕との関係を忘れたかい? 僕が戦場に立つ限りは、君も同じく戦場に居らねばならぬ」
「あんたからも逃げてやろうか」
「フフ、僕は探偵事務所に勤めていたのだがね、捜す事には慣れている」
「新田や橘が悪魔に成ったら、俺を殺しに来るんだろうか。氷川はまた受胎を起こすんだろうか、先生は……また俺を頼って来るつもりか?」
「ねえ君、先刻から質問ばかりではないか。それとも何、脅威から護って欲しいとでも?」
「そんな事云ってない!」
 不安の種である僕に、別の不安をぶちまけて、君は一体何を求めているというのだ。
 ボルテクスの頃から知ってはいたが、その妙な狡猾の自覚は有るのだろうか?
 人の好さそうな悪魔狩人は従ってやっていたが、此方にそのつもりは無い。嗾けられるなど御免、僕は武器を折られまいと握り直すだけ。
「そんなにも恐れているのなら、いっそ手にかけてしまえば?」
「人間として生きる連中を殺せる訳ない」
「さてどうかね、君の様にフリをしているだけかもしれぬよ」
「先手打ったとして、もし只の人間だったらどうするんだよ!」
「馬鹿だねえ、人のフリした悪魔なんぞ、その辺にごまんと居るさ。いちいち人か悪魔かを気にして生きては、それこそ身が持たぬよ」
 そう、たったそれだけの事。以前は一般学生だった君の倫理と、僕のそれとはかけ離れているのだろう。
 推測は出来るが、君の人間時代はもはや過去。置き去りにされた精神は病むだけだ、器と環境に適応させなければならない。
 己の生き方を決めるのは、それからだというのに。それを弱いと云うのだよ、功刀君。
「針……返せよ」
「このままずぶずぶと君の頸に針を呑ませるか、それとも君が前に逃げて僕の一物を呑むか、どちらが良いかな」
 やや前傾し、人修羅の黒い頭を見下ろす。一瞬視線が絡む、しかし即座に解かれ彼は針から逃げた。
 恨めし気に眉根を寄せるものの、スラックス上から膨らみに頬擦りでもしそうだ、どこまで本気なのだろう。
「しゃぶる方がマシというのであれば、さっさと前を開けて御覧よ」
 促せば、まるで自動人形の様な手付きで、僕の股座に手を掛けてくる人修羅。
 以前の君なら果たしてどうだった、僕を退け自ら針を埋めたのではないか。
 自らの潔癖も忘れ、ただただ逃避しようというのか、僕の肉など異物の様に置き換えているのだろう、その頭の中で。
「お返しするよ」
 ぐぐっと白い項に半分ほど針を埋めれば、僕の腕を鷲掴みにしてきた。
 呑み込まれた悲鳴を引き摺りだそうという気も起らず、人修羅を蹴飛ばし生き残りのボタンだけでシャツを閉じた。
「帰るまでに残りのボタンひとつ、見付けておき給え」
「……帰ってくるな!」
 自分から抜いた針を握り締め、怒鳴る人修羅。僕を睨む事もせず、蹲り床を見つめていた。
 貶すも哂うも気が乗らず、学生服の上を羽織り、学帽を直し部屋を出る。
 調査に繰り出すは、彼を護る為ではない。この世界が如何に創り替わったか、継続された魂は有るのか、それを確認するだけ。
 なによりこの時代は未来、見過ごせる筈も無い、己の居た機関の事を……


『おいライドウ、外に怪しい奴が居る』
 玄関に座るゴウト童子は、此方を見るなり口早に、どこか声を押し殺し唱えた。
 僕は居間のコートハンガーから外套をさらい、上がり框に腰を下ろす。
「不審者変質者の類は、毎日の様にテレビニュウスで報じられております」
『そういったものではない、その、なんだ……まるでお前の様な男がうろついているのだ』
「へえ、それはまた恐ろしい」
『おどけている場合か、平行世界の十四代目の件が有るだろうに。無関係とは思えん……』
「我々の居た世界と平行世界とは誤差程度。しかしこの平成は時代もかなり違います故、自分の同一体であるとの見解は致しかねますね」
『だから得体も知れず、不気味なのだ』
「日々悪魔を相手にしている身で、何を今更」
 僕が靴を履きながらせせら哂うとゴウト童子はムッと口を噤み、それでも気になるのか追従してきた。
『武器は携帯したのかお前』
「機動性を重視し、コルトディフェンダーとピクシーナイフ」
 両方とも僕好みでは無いが、適当な散歩には十分過ぎる装備だ。当然、悪魔も数体持ち出す。
 ピクシーナイフは翅飾りを折り畳む事により、ブレードを保護出来る。シース要らずで、携帯には大変便利である。
 外套を羽織り扉を開け、アプローチを堂々と進んだ。
 門を出てから、気配のする方にまず視線から送り、追って頸を傾いだ。
 其処には僕と瓜二つの男が、やや身構えて立っていた。いつぞや見たまま、傷痕も残っている。
「やあどうも、前の合同稽古以来」
 声を掛けたが相手は軽く会釈するだけで、何を話すべきか困惑しているのだろう。
 こいつの召物、弓月の君の学生服に似ている……白線を黒線に替えただけのデザイン。
 学帽を被るスタイルも、平成帝都を歩いては滅多にお目にかかれぬものだ。
「君の話は矢代君から聞いているよ、彼に用事でも?」
「あ、いや……そのつもりは無く」
「では何、只眺めていただけかい、この家を」
「そんなつもりも」
「暇人?」
「そ、そう、いや確かこの辺りに住んでいると窺ったものだからな、表札を少し確認していて!」
 標的は定かでないが、嘘は云っていないだろう、目的も無く足を運んだ訳もあるまい。
 僕の顔を幾度か見た後は、足元の黒猫が気になってしょうがないらしい。
「そんなに暇なら僕に付き合っておくれよ。矢代君と違って、今日の僕は暇人なんだ」
「付き合えって……それは」
「喫茶でも映画館でも何でも良いさ、ああそうだ、ビー・シンフルでも」
 具体名を挙げた途端、表情は崩れなかったものの殺気が奔った。
 鎌をかけたという程でも無いが、やはり同業者で違いない。しかし同業者といっても色々居る、更に絞りこみが必要だ。
『おいライドウ、必要以上に干渉するな』
 童子が口を出した瞬間、向かいで更に強張ったのを見逃さない。
 成程、この猫の声が聴こえているという事か。



 矢代君に用事が有った訳ではない、出くわせば少しくらい喋って、長くなりそうであれば何処かの店にでもと。
 あの家の前に留まっていたのは、別の理由。
 そもそも自分は《矢代》を姓と勘違いしていたので、功刀という表札の家に矢代君が住むとは思いもよらなかった。
「ところで、何と呼べば?」
 問われたが、何故か即座に言葉が出ない。この男に名乗る事が、正直怖い。
 とはいえ真名を教える事こそ不味い気がする、仕方無く通名を引き摺りだした。
「雷堂……」
「へえ、どの様に書く?」
「かみなり≠ノ、講堂のドウ」
「随分と古めかしい名前だね」
 失敬、と哂う傷の無いドッペルゲンガー。
「僕は紺野、さっきの家に居候させてもらっている」
 てっきりその口で同じ名を名乗ると思っていたが、教えられたのは全く違うもので。
 安堵と裏腹に、猜疑心が強まる。お前こそが《クズノハライドウ》ではないかと──……
「腰を落ち着けて話したい、適当な店で良いか?」
「勿論、要望が有るのなら此方で決めるのが筋さ」
「馴染みの店は一駅乗って、更に其処から歩く、本当に良いのか?」
「suicaも有るし、何に乗ろうが構わないけど」
 そういう問題だろうか、もしかしたら本当に暇だったのかもしれない。
 紺野は鞄のひとつも持っていないが、あの外套から何を出すか知れない。
 つかず離れずついてくる黒猫は、あれから言葉を発していない。注視し過ぎたか、警戒されたかもしれない。
「何を緊張している」
 思考の波が一気に引いた、傍で同じ背丈の男が哂う。
「先日の試合中の方が、まだ解れていたよ」
「ああ……そうかもな、会話があまり得意でなくて」
「その担いでるのは竹刀? それとも刀?」
「模造刀」
「やはり一人で振っている方が好きなのかい」
「……そうだな」
 云わずとも分かるだろう、朝霧の神社で邂逅した事を思い出せば。あの時の靄が次第に晴れてきた、そうだ、この男に違いない。
 電車に揺られながら、込み上げる気持ちで脳内が混濁する。暗い車窓に映り込む自分の顔は、どちらかというと電車に飛び込みそうな人間に見えた。時間の流れが速い、あっという間に降車する羽目になり、改札で無心にカードをかざす。
 例の黒猫はあっさりと改札をパスし、慣れた様子で紺野を追う。キュッと傾斜のついた黒いローファー、それに蹴られそうな紙一重の位置を維持している。うちの黒猫とはえらい違いだ、あいつはたまに距離感が掴めず、俺に寄ってきてはぶつかる。
「よくしっかりついてくる、君に懐いているんだな」
「まさか、僕はこの猫に監視されているのだよ」
「監視? また面白い事を云う」
 紺野の返事に軽く笑いが零れたが、ふと己を顧みる。家のあの化け猫も、実は自分を監視しているのだろうかと。くだらぬ妄想かもしれない、でも万が一そうであれば、少し困る。身内の中ではあいつとしか、もう何年もまともに喋っていない。だからこそ筒抜けになっていては困る、何をこれまで話していたか恐ろしい予感もするが……全てを思い出せる筈もない。


 目的の店に入るなり、窓際角のテーブルに向かう。以前、矢代君と訪れた喫茶だ。これといって目立つ所は無いが、やや老舗といった風情。混雑している事はまず無いので、すぐ着席出来て助かる。
「珈琲、アメリカンにしようかな」
 メニューを開くなり、即決する紺野。その辺りはドッペルゲンガーらしからぬ性質だ、自分は初見のメニューに振り回される優柔不断な方だから。その違いに「やはり別人だ」と思わせられ、少し冷静になった。
「アメリカンだけ? 軽食は頼まないのか」
「ケーキ全部」
「……全部?」
「全部と云ったって、四種しか無いから四個という事だろう?」
「まあ……そうだが」
 注文を取った店員は、お冷とおしぼりを残して去っていく。すぐ傍の窓には、硝子越しの黒猫が居る。プランターのレンガ上に、バランス良くスラッと座り、じっと目を閉じている。耳を澄ましているのか、此方の会話はきっと丸聞こえだな。
「ところで君、此処は灰皿無いの」
「その恰好で堂々と吸うのか」
「ああ、そういえば結構厳しい世の中だったね」
「分煙されていないし、云えば持ってきてくれると思うが……正直、厄介事は避けたい」
「フフ、分かったよ、物が来るのも早そうだしね」
 一瞬見えた煙草の箱は見覚えの無いもので、紺野はするりと外套の内に其れを仕舞い込んだ。自分が吸わないのだから、見覚えの有る煙草こそ少ないだろうが、それでも珍しさを感じる箱だった。コンビニのバイトでもしていれば、この辺の知見も広がるのだろうか。
 そうこうしている内に、注文品がテーブルを埋めた。ケーキは二個ずつそれぞれの前に置かれたが、まあ納得の配置だ。流石に四個全部、一人で食べる奴は滅多に居ないだろう。モンブラン、ベイクドチーズケーキ、ココアスポンジの苺ショート、アップルパイ。見ているだけで腹が膨れる。それ等をフォークでさらい容赦なく口に放る紺野を見ていると、確認作業の様に掘削していた矢代君を思い出し妙な笑いが漏れた。まさか彼が絡んでいるとは、一体どういう仲なのだろうか。
「さっき矢代君から聞いている≠ニ云ってたな、何を話されたんだ?」
 そっくりな男が居たとか、その辺だろうか。電車で痴漢に遭った所を……なんて、その辺りは話しづらいだろう。自分は結局、彼を痴漢から引き離してあげたとはいえ尻を揉んでビンタされたのだし。いや、無礼な男として愚痴られているかもしれない。そう考えた途端、警戒心に羞恥心が加算されてしまった。
「ああ、それね、聞いて無いよ」
「え?」
「矢代君は君の事を話してなどいないよ」
「何故……さっきはあんな云い振りを──」
 唐突な嘘を暴露され、困惑しかない。
 そんな自分を無視して、紺野はストックから紙ナプキンを引っ張り出し、口元を拭っていた。続けてもう一枚引き出すと、ケーキ皿を退けた場所に広げ置き、ぱたぱたと正方形に畳み始める。
 ぼんやりと眺めていたが、次第にソレが何に成るかを察し、全身が強張った。
「雷堂君、こういった御守りは御存知?」
 伸ばされた腕に一瞬身じろぐが、避けようとすれば椅子をひっくり返す羽目になる。
 中腰に立った紺野は、パーティー参加者にリボンでもつけるかの様な仕草。此方の胸ポケットに差し込まれたのは、いつぞや自分が紙ナプキンで折った式そのものだ。似て非なる物ではなく、全く同じ作り方。
「これは……あの文化祭の日、彼に世話になって」
「感情で制御される式だ、どう暴発するか分からぬ。一般人に対し、気軽に施して良いものとも思えないね」
「かもしれなかった、申し訳ない。ところで、矢代君は視えていない$lなのか?」
「さあ? 視ようとしていないだけかもしれないし?」
 一般人と称されてはいたが、この男と密に接しているとなれば、それも少し怪しい。
 何より今は確認したい気持ちが強まり、抑えられそうに無い。出方を窺っていた所に、賽を直接投げつけられた気分だ。
「紺野さん、貴方の察している通りだろう。自分がお宅周辺をうろついて居たのは、自分と似ている人を捜す為だった。単刀直入に訊く、同業の方か?」
「同業なんて君、はぐらかしても話は進まないよねえ」
「分かった、ハッキリと訊くぞ、デビルサマナーか?」
「召喚して読んでみたら、僕の頭の中でも」
 最早その応答が解だろう。間違いなくデビルサマナーであり、しかも場数を踏んでいる男だ。
 読心させてみろという挑発も、されない自信が無ければまず云えないだろう。逆に、こうして警戒させる事で防ぐ術かもしれない。いずれにせよ一筋縄ではいかぬ相手だと、改めて緊張が奔った。
「ま、読んだところで、君に何か得が有るとも思えないけれど」
「……追及はひとまず置いて、しばらく黙って聴いて欲しい事が有る」
「いきなり相談とは、こんな外で構わないのかね?」
 勢いに任せて喋ろうとした矢先、確認された。これは彼なりの親切心だろう、確かに空いた店とはいえ、ぽつりぽつりと客は居る。かといって場所を今から変えるのか、変えたとして何処で話すのか。此方が思案している間に、紺野はすっかり珈琲を飲み干しカップをソーサーに置く所だった。そして再び外套内に手をしのばせた、煙草でなければ今度は携帯だろうか。
 黒い布地の隙間から、淡い光が滲む。それはただ一匹の蛍の様にふわりと宙へ泳ぎ、すぐさま消えた。自分だけが見慣れた光だという思いが、判断を鈍らせた。はっと見回すと、周囲の客人は皆弛緩し、マスターはカウンター内の休憩椅子にちょうど寄り掛かる様にしていびきをかいていた。ドルミナーだ、それも対象者を絞った精確な術。
『二人っきりで内緒話? これから愛の告白でも?』
 悪魔……恐らく紺野の仲魔だ。彼の肩にしなだれつつ、ゆったり羽を広げている。確か名前はリリムだったか……時折電車の中で見かける種類で、夕方から夜中に徘徊しては居眠りする乗客を見繕っている。人混みに紛れようが、白いレオタードなんか着ていれば流石に見分けもつく。
「そうさ、しかし君に拝聴させるつもりは無い、管にお戻り」
『でも相手ソックリさん、帽子までソックリ、このナルシスト』
「ああそうだ、戻る前に出入り口の外看板を《CLOSE》にしてくれ給え」
『マカジャマ覚えてないんだけど、ワタシ』
「掛けてあるプレートの裏表を返すだけだよ、スライムでも出来る」
 よく分からない漫才を見せられ唖然としてしまった、いつの間にやらさっさと用事を済ませたリリムは『脈アリだと良いね〜』と台詞を残し、MAGの光と共に空間を去った。
「で、聴いて欲しい事とは何なの」
「……あ、ああ、手間を取らせてすまん」
「ドルミナーの効果は二十分程度にしてある、疲れが解消出来る最適な仮眠時間だ」
「はあ、そうなのか」
「さ、お好きにどうぞ」


 いつからだろう、雷堂という名で呼ばれる様になったのは。
 本当の名が消えた訳ではないのに、両親から《名前》を呼ばれなくなった。
 幼い俺にとってそれは、自分が消えてしまうのと同義だった。
 
 武道というにはあまりに実戦的な稽古、学校の教科書には載っていないオカルトな個人教育。箱入りで無い事が、却って周囲とのギャップをしらしめた。俺は明らかに、一般的とは云い難い教養を受けていると早くに自覚した。
「視えない$lを気遣って、皆悪魔の事を口にしないのです」と、家庭教師から教わっていた。俺は昔、普通の人が視えている≠フだと、勘違いしていた。これに関しては後々、家庭教師から謝罪が有った。「幼い間は錯乱しない様に、とにかく貴方が普通≠ネんですよと、そう云い聞かせていました」
 
 親族は皆、俺を大事にしていた。本当に昔は、そうだった。それが徐々に、脆い鉱石でも扱うみたいな、そんな関わり方へと変わっていった。磨かれはするのだが、常に距離が有る。観察はされるが、包んではもらえない。

 俺の父は政治の仕事をしている、だからスーツの偉そうな輩が頻繁に家を出入りする、そう認識していた。だがある頃を境に、何故か俺も談義に参加させられた。発言を求められる事は無かったが「耳に入れておけ」という父の無言の威圧は、よく覚えている。俺の人生経験が浅いからか、それとも純粋に難しい話をしているのか、いまひとつ判断出来ぬまま大人の会話を黙って聴いていた。
 話し合いの中、たびたび出てくる《クズノハ》という単語。立て続けに出てくる《ライドウ》という単語は俺が呼ばれる雷堂に違いないと察したが、では肝心のクズノハとは何なのか? 当時は知る由も無く、それでも次第に感じ始めた……クズノハライドウというのがひとつの単語であり、それは何者かを指す名称。大人達は俺にその役割を求めているのだと。
 何故自分なのかと、まず一番の疑問だった。元々の俺で居られた、あの頃の生活に戻りたかった。まるで「別人になれ」と云われている様で、余所の大人はともかく、どうして親はその空気を受け入れているのだろうと、悲しくなった。

 デビルサマナーの仕事に同行させられる事が増え、直接参加せずとも悪魔使役の関係は理解出来た。そこいらを闊歩する悪魔にも様々な種類が居て、突き詰めれば人間と大差無いと感じた。悪魔も人も、利用する奴はする、される奴はされる。種族のルールを乱す者が異端扱いされる点は、全く以て同じだ。
 悪魔の方を身近に感じ、訓練で一時支給される仲魔に対しては、共感さえ抱いた。俺も使役されている身なので、当然の気持ちだ。組織のサマナーが雇う悪魔達は、組織のモノなんだろう。
 では野良の悪魔はどうなのかと、家の庭に入ってこれるよう手引きした際は大層叱られた。街中を歩けば大勢の悪魔とすれ違う、しかし人混みの中で彼らと戯れるのは難しい。殆どの人間には視えない≠フだから、悪魔に寄れば俺はたちまち異端になってしまう。もしかして視えている≠ゥら、今こんな運命に呑まれているんじゃないのかと、自分の当たり前を呪った。ひょっとしたら、既に異端なのではないか……そう気付いた俺は、サマナーへの同行を拒み始めた──


「しかし君は今現在、葛葉雷堂として組織の命令を聞いているという事かい」
「ああ……別に楽しくも無い、降りられるのならそうしたい」
「話によれば、奪い合う事も無くその地位に就いたと見えるが」
「争うどころか、全て御膳立てされていた。でもそれを食わねば生きられんとは、どういう事なんだ」
「別に組織名まで吐けとは云わないがね、君は僕に聴かせて何を仰ぎたいの?」
 組織の名は、この男なら幾らか見当をつけているだろう。名の知れた所で個人的な痛手は無いが、叩けば吐き出すと思われるのは少し危険だ。俺が今、一番気にしている問いを投げ、しばし様子見する。
「紺野さんが、真の《クズノハライドウ》なんだろう?」
「僕は余所者さ、君の所属とは無縁だね」
「異界には何度か行った、世界が、宇宙が広がっているという説も習った。立つ次元を選べるのが悪魔であり、視る次元を調整出来るのが我々サマナーだと。ドッペルゲンガーも平行世界の己も、存在を疑う余地が無い」
「僕が君の云うライドウで無い事は確かだが、仮にそうだとしたら、何?」
「……家に養子に来てくれないか」
 此方は真剣だったのに、大笑いされてしまった。紺野の声で客が目を覚まさないか、一瞬不安になる。ちらと見た窓の外では、黒猫がしかめ面をしていた。
「君の兄弟になれと?」
「いいや、俺の席をそっくりそのまま譲りたい。貴方なら命の危険もそう無いだろう、要求すれば対価も積んで貰える筈」
「別に金に困ってもおらぬし、名誉欲も無い。自ら進んで見知らぬ檻に入る気も無いね、君にとって居心地が悪いと、今しがた説明されたばかりではないか」
 その通りだ、自分でも呆れるくらい無茶な相談と今更思う。それでも聴いて欲しかった、この人は一体どう答えるのかと、期待では無く好奇心が俺を突き動かしただけ。
「ところで君の先代は御健在なのかい」
「既に亡くなっている、かなり昔に遡るが……俺で十五代目、間はかなり空いたそうだ」
「十五?」
 紺野の怪訝な声を初めて耳にした。思わぬ所に反応が有り、俺も即座に返す事が出来なかった。雷堂の後継回数が、彼の中での計算と合わなかったという事か。ああ、やはりクズノハライドウの関係者に違いない。しかし実際のところ、何者なのだろう。連れの黒猫は、紺野を《ライドウ》と呼んでいた。それを俺が見過ごさなかった事を、彼も分かっている筈。
 と、ここで着信音が割って入る。数年前に流行ったバンドの曲だ、タイトルは思い出せない。紺野は外套から取り出した携帯電話を開き、静かにさせた。レモンイエローのボディが鮮やかな折畳み携帯、ヒット曲の着信音。どれも彼のイメージと合わず、妙に胸がざわついた。
「二十分経ったそうだ、まだ聴いて欲しい?」
 しかしこの男、いつの間にアラームをセットしたのか。二十分前を思い出す、もしかするとリリムに気を取られていたかもしれない。
「いや、これ以上は正直、どこまで話して良いか自分でも迷っているので……」
「メールアドレス、交換するかい」
「えっ、あ、ああ……構わないのか?」
「赤外線通信で交換するのだっけ」
 まさかの展開に、慌ててポケットを探る。自分の携帯を開き、焦る気持ちでメニューを選択した。今断ったら、二度と交換して貰えない気がする。紺野に何か魂胆が有るのかもしれないが、アドレスで繋がる分には問題無い。ポートを突き合わせ送受信している間、沈黙が長く感じる。
「ひとつ訊いて良い?」
 てっきり携帯画面を眺めていると思っていたが、紺野の眼は帽子の影から此方を観察していたらしい。
「ああ」
「その傷はいつこさえたのかね」
 一気に心拍数が上がった、差し出す携帯も微かに震え始める、これは不味い。打ち明けたところで、何か損失する訳でもない。ただ、俺の家の恥を曝すだけだろうに。
「確か小学生の頃だったか……あの頃は色々悩んでいて、知れば知る程、納得いかない事ばかりで……自分が招いた結果だ」
「悪魔ではなく、人間同士の揉め事で作ったのかい」
「そうだ」
 肝心な部分は外してから、答えた。
 紺野は追及してくる事もなく、さっと携帯電話を引っ込めた。此方も受信したデータを確認すべく、翻した本体を眺める。一瞬、誤操作で別の画面を表示しているのかと思った、しかしそうでも無いらしい、苗字に見覚えがある。再び本体を翻し、まるで印籠の様に見せつけた。
「紺野さん、受け取ったアドレスの個人名が功刀になってるぞ……下は女性の名前の様だが、別人のものを送信したのでは?」
「だって此れ、僕の電話じゃないからね」
「それはどういう意味だ」
「フフ……料金は僕がしっかり払っているので問題無い」
 恐らく紺野も、肝心な所は外して答えているのだろう。功刀といえば、先程辿り着いた家の表札にあった名前。紺野は居候と云っていたが、果たして何処までが本当なのか。矢代君と同居状態ならば、何故矢代君は彼の話題を出さなかったのか。これ程までに似た人間、二度も有った茶の席で、触れもしなかった。名義変更が面倒だとか、本体ごとお下がりだとか、色々な理由が浮かんでは消えたが、紺野が絡むだけで猜疑心が疼く。
 この男が、ひとつの家を侵食したのではないかと。俺の家を、カラスが侵食した様に。


 ──小学生の頃だったか、なんて、とんでもない。
 あの日、あの時、鮮明に記憶している。
 学校帰り、骨董屋で大枚はたいて小さなランプを買った。ガレの作品を模したような、名も無い職人の逸品を。
 結構な額を出す小学生など通常怪しかろうが、父が贔屓にする店であり、連れられていた俺も常連に等しかった。
 ガレの藤文ランプとは違う趣が心地好く、何より自分は藤の花が好きだったから惹かれた。
 これが買える対価の貯まるまでは、と頑張って来たのだ。父の云い付けを守り、稽古もサマナー業もこなす。
 今にして思えば、我ながら涙ぐましいひたむきさだった。

 部屋に飾る前に一目、こっそり母に見て欲しくて。
 ランプ片手に彼女の私室へ、久々に、そして恐る恐る入った。
「最近、ずっとヤタガラスに同行していなかったそうですね」
 文机に片肘をついて、俺に背を向けたまま発された言葉。
 実は薄々予測はしていた、実際自分はさぼっていたのだから仕方がない。
 気乗りはしないが、また何か目標を、自分の為に餌を用意すれば頑張れるから。
 それだから今はとりあえず見て欲しかった、母の好きな柄の美しいランプ……のついでで良いから、息子である俺を。
「そんなに雷堂が嫌なの」
 だって俺は雷堂ではないし……と、云いたい気持ちを嚥下して、そんな事はありません、と返した。
 返したつもりだった、唇が開かなかった。俺の何かが、頑なに拒絶していた。
 気付けば母に馬乗りされ、頭の傍ではバラバラになったランプの笠が鈍く光っていた。
 窓から射し込む夕映えの色と混ざり合って、それを綺麗と思う事で心を逃がした。
「ねえ雷堂になって、頼む、頼みますから、貴方はもう明じゃないの、もうあの子は死んだの、なんの為に私が手放したと……」
 肩に食い込んでいた母の爪が、すっと離れた。
「足りないせいだわ」
 頬を撫でる、母の手、次に硝子が。
 悲鳴を上げても、押し返しても良かった、それが出来る力量は持っていた。
 ただ耐えた……奥歯が割れそうな程、食い縛って。
 隣室から何事かと駆け付けた父の、あっと息を呑む音が聴こえた。しかし制止の声が発される事は無かった、もはや儀式だった。
 俺は、古い史料に残る葛葉雷堂と同じ傷を、顔に刻まれた。
 その瞬間から、本当に雷堂に成るしか、道は残されていないと思ったのだ。
 模造品だとしても、本物の様に振舞わねばならないと。


-了-


* あとがき *
殆どライドウと雷堂の会話シーンでしたが、このあたりで雷堂の事を挟んでおかねばと思い…
そっくりなのに十五代目ってどういう事? ライドウじゃなくて雷堂なの?
疑問符が浮かぶ事と思いますが、それは今後じわじわと、人修羅やライドウを軸に判明させていく予定。
冒頭で投げやりな態度の人修羅、これからどうなる?
ライドウの所持する携帯電話は、過去作「2-9.船上のメリークリスマス」から分かる通り、矢代の母親のものです。「2-18.灰色のテーブル」でアイドルオタクらしき描写も有るので、登録メロディもその類でしょう。ライドウは特に気にせず利用している、と。

↓余談↓
《ミメシス:Mimesis》
タイトル前に説明入ってますが、長編における雷堂を象徴するワードです。単なる模倣と捉えるか、模倣こそを上位(潜在・人間の本質)と捉えるかで、また解釈が変わってきますが。
ガレの模倣ランプが砕ける様も、その破片で模倣を助長されるのも、ミメシス要素を強めている描写です。

なお芸術論(哲学解説)に関してはこちらのブログが分かり易かったので、URLで記載しておきます。https://ameblo.jp/kengonagai/entry-10117529238.html