祈る螳螂

 

割れたままの鏡を片付ける事もせず、ただただ寝台に横たわっている。
再びその胸と胎に、擬態を施す金属を嵌めてやった。
あの日から幾日、放心した人修羅は何も口にせず、壊れた木偶の様だ。
『おい、荒療治過ぎたのでは無いか?』
黒猫の声に、少し嘲りが滲む。僕の失態を微かに望んでいるのだ、このお目付け役は。
「荒療治も何も、此度手を施したのは自分ではありませぬよ、童子」
『では労りの言葉でも掛けてやったらどうだ?』
喉をゴロゴロと云わせ、階段をたたっ、と駆け下りて行くゴウト。
追従するつもりは無かったが、この屋内に響き渡る電子音に脚を運ぶ羽目となる。
「功刀君、出なくて良いの?」
無反応。しかし居留守は通じない、あの学校の生徒は自宅待機を命じられているのだから。
やれやれ、と鼻で笑おうが、ぐったりとしたその身体は怒りすら発さない。
再度鳴らされる来客のベルが急かすので、折角だ、と階段を下りた。
功刀が以前していた様に、モニターから玄関の確認をする。覗けば外が見えるとは、便利な機械だ。
確か、此処のボタンを押せば会話が出来た筈。
「どちらさまでしょうか」
平然とやってのければ、僕はまるでこの家の住人になった気分である。
今現在、設備を人間らしく利用しているのは実質僕の方であり、人修羅では無い。
《こんにちは、××高校の件で参りました、加藤と申します》
学校の関係者か。モニタリングされる影は、中年よりは手前の女性。黒髪をひとつにまとめた大人しい形だ。
「どういった御用件で?」
まるで家主の様に問い質せば、迷い無く返る言葉。
《関係する生徒の家を巡回してまして…あの、メールが行っている筈です、学校から》
メェル…ああ、あの電子に分解されて飛ばされる手紙の事か。
あの携帯電話、とやらでも可能な、何とも気軽な電報。
「申し訳ありません、その文章を未確認な上、当事者は臥せっておりましてね…」
《無理に、ではありませんが、お呼び頂ければすぐに参りますので、お子様にはそうお伝え願えますか?》
「お子…」
《ああっ、失礼しました、お兄さんでした?そういえば声がお若いですものね》
「フフ、お気になさらず…メェルは確認しておきますよ」
《こちらの…ええと、矢代君、ですか。眼を離さぬ様に、出来ればお願いしますね》
その言葉を最後に、会釈した女性は踵を返した。対面しておらぬというに、会釈とは…
まあ、この国の人間にそういう者が多いのは、知っている。
たった今、玄関で追い返した人間の正体を知る為に、僕は彼の部屋に戻る…

「っつ…」
「ほら、口があるだろう?己の道具の癖に、それの説明もで出来ぬのかい?」
独特な癖のある髪を、指先でくい、と引っ張れば頭がついてきて、くぐもった呻きが零れる。
半ば強制的に座らせた椅子の軸を、爪先で挟んで遊ぶ。金属の冷たさが心地良かった。
「…だから…此処に、学校からメールが来る仕組みになってんだよ…」
「このモニターに?君の所有するこの箱にだけ来るのかい?」
「大抵の家はパソコン有るから、学校はまず家のパソコンにコンタクト要求するんだよ…」
「携帯電話、というモノもメェルが出来たよねぇ?あれにも手紙を送れるのだろう?それとこの箱とどういう違いがあるのだい?」
ちらちらと角度によって眼に痛いその画面を前に、功刀は無気力なまま指先を躍らせる。
画面を見れば、何かが動く。その指先で操っているのか。
表記される文字は判読可能、日本の言葉が殆ど。稀に交じる異国語も、難しいものでは無い。
「説明なんて…無理だ、大正人のあんたには」
「おや、馬鹿にしてる?」
僕の生きた時代が遅れをとっていると、人修羅の奥底で嗤う声がした気がする。
椅子に座らせた人修羅の項に、じり、と煙草の先端を押し付ければ、指先が踊る板に今度は額を叩き付けた君。
一点のみ赤くなった白い項には、今は突起がそびえる事も無く、人間らしい脆弱な肌を晒すのみ。
「……てめえ…ッ…」
「いやすまないね、先日の一件から更に元気が無いものだから、少しばかり灸を据えてやろうかと思ってね」
些か使用法の間違っている言葉に、僕はニヤリと口元が歪むのを感じた。この自覚が我ながら愉しいのだ。
Personal computerとやらの仕組みはまた別の機会に学ぶとして、今知りたいのは電子文章である。
哂って紫煙を吐けば、額をさする人修羅が僕の唇を見つめ、侮蔑を吐く。
「俺の部屋で吸うな」
「最近口寂しくてね」
「あんたの家じゃない、寧ろ…」
出てけよ、と小さく呟いた君は、項垂れた視線で画面を見つめる。
力無く指先が彷徨って、少しの間の後。
「…さっき来てたの、多分これだろ…」
面に表示されている文面は、酷く整然と並んでいる。

《本件におけるPTSD発症傾向、解決への手引き》

「…P・T・S・D…ねえ」
面白い事に、この箱ひとつでその単語の意味すら検索出来てしまうのだ。
とんでもない玩具だ、僕も自分のが欲しい。
人修羅に調べさせたその結果を読み上げて、僕は先日の光景を思い出していた。
「Posttraumatic stress disorder…」
心的外傷後ストレス障害…とやらを、人修羅の学校は示唆している。
それも仕方の無い話だ、あんなに短時間で結構な数の生徒が謎の死を遂げたのだから。
それも、実に猟奇的…カマイタチにしたって、無茶な現場である。
現場にて目覚めた生徒は、恐らく此処に表記されているPTSDに罹っているであろう。
学校としては、解決しようも無いこの件に関しての手当てが、“治療”しか残されていないのだ。
ニーズホッグを始末した君は、目覚め始めた生徒達に紛れてあの場をやり過ごした訳だが…
学校は、本当の君を知らぬまま…被害者と断定している。実に滑稽だ。
「君も罹っているのかな?PTSDとやらに」
椅子に座る人修羅に哂って問えば、ジロリと睨み上げてくる眼。
「マガタマ呑まされた時からな」
「フフッ、どの様に発露している?その睡眠の要らぬ状態?感覚の鈍った味覚?不安定な精神状態?」
抉る様に投げかければ、血の気の引いた肌色の拳が飛んできた。
ぱしり、と掌で往なして、その腕を逆向きに捻り上げれば、人修羅の悲鳴も上がる。
「ああ、すまないね、それは君の悪魔の部分、か…フフ」
震える君の拳に、怒りを感じる。底知れぬ憎しみの焔をその胎に飼っている事を知るのは、僕だけだ。
「カウンセリングとやらを受けてみたらどうだい?“悪魔にされてしまった、どうすれば良いのか”とね…ククク」
項垂れる君。確かに、ボルテクスの頃から諦観めいた節は有ったが…
ルシファーにニーズホッグをけしかけられたあの日から、その無気力加減は度を増している。
僕に手助けされたのが悔しかったのか、眼の前の虐殺を黙って見ていた己を恥じているのか。
捻り上げた人修羅の腕を、そのままダンスの様にくるりと頭上に回させて、その身を寝台に叩き付ける。
薄手の部屋着が乱れて、背を少し丸めた君が僕を睨む。…そう、それで良い。
その力の根源、失せてしまったのかと思い、少し苛々していたのだよ。
「いつまで意固地になって居られるのか…フフ…」
窓から差し込む薄い陽射しは今日も白んでいた。まるでボルテクスにも近い白濁した空だった。




「一体いつまで休校なんだかなぁ」
数日間の自宅待機は解かれたが、未だに学校は機能していなかった。
向かいに座る新田が、コーラの上下するストローを歯先でガチガチと噛み潰す。
その行儀の悪さに溜息と、見慣れた仕草への安堵が滲み出る。
あんな事あったし、気晴らしにどうよ?と誘われた散歩。
チープな味のファーストフード、ただ聴いてるだけのカラオケ、いつも通り、昔通り。
「新田…そんなに学校好きだったか」
「ち…っげぇし!休校ってこたぁ先生も戻ってくるの遅くなるだろ?裕子先生、折角チョーシ戻ったってのによお…そりゃないぜ」
「別に、そのまま戻ってこなくて良い」
俺の発言に、冗談と受け取る新田がいつも通りヘラヘラ笑うと思ったのだが。
潰れたストローを口先から解放し、ぽかんと開いたままで俺を見つめてきた。
「…お前さ…最近どうしたよ」
「別に、何か違うか?違いが有るなら教えて欲しいくらいだ」
「先生が苦手ってのは知ってたつもりだけんさ…何か…」
うっとおしい前髪を指で耳に掛ける新田が、何か云いたげで俺は苛々する。
何が違うんだ?お前も本当は見えているんじゃないか?それとも、ボルテクスの記憶が残ってるのか?
「矢代…おま、なぁに怖い顔してんだよ!」
自分で問い質しておいて茶化す新田が、薄っぺらい手拭を掴んで、俺に投げてきた。
それをただの手拭と認識しているのに、一瞬心音が跳ね上がる。
「やめろっ!!」
短く怒鳴る俺、眼の前でくたりと落ちゆく白いそれを、思い切り横に薙ぎ払う。
まるで他人事の様な瞬間だった。
唖然とした新田の顔を見て、ようやく俺自身、何を思ったか認知する。
(こ…攻撃されたのかと)
自分に呆れた。何だよ、攻撃って。
日常生活…単なるクラスメイトだぞ…それも、馴れ馴れしい類の。
どうして俺は、たったこれだけを攻撃と認識した。
「おいおい、どした?痴話喧嘩ならお外でやんなボウズ達」
突如割って入る声に、静止していた俺も新田も意識を向ける。
思い切り払った簡易手拭が、その人物の指に握られていた。
「こっちのテーブルまで飛んできて、何かと思ったぜ……ん?」
俺を見て、訝しげな表情をした、その長髪に髭の細身な男性。見覚えが…ある。
いいや、鮮明に甦る、ボルテクスの…天輪鼓の前で…
俺を…俺を…

羽交い絞めにした男。

「…ぁあ!どっかで見たと思ったら、ほら、こないだお前さんに“アヤカシ”やったろ?憶えて無いのか?」
「おい、矢代?」
「ほら、丁度特集記事がさ…“ガイア教とミロク教典”だった号」
「また気持ち悪いのか?お、おい!?」

口元に掌を当て、込み上げた何かを懸命に押し返す。
全身があの瞬間の記憶を引きずり上げて、俺の脳に指令しようとする。
黒い電気が染め上げようとする、俺を衝動に任せて、暴れさせようと。
眼の前の男を消せ、と。
「…悪ぃ…ちょっと、俺、帰る」
指の隙間からそれだけようやく吐き出せて、立ち上がる。
「はぁ!?おい、吐くなら便所行けば良いだろ、ちょ、矢代!」
会計は済ませてある、そんな眼で追ってくるな新田。もう今日は放っておいてくれ。
まだ何か云っていたが、あの男から俺は何が何でも、急いで離れたかった。
ヒジリ。
オカルト雑誌のジャーナリスト…ボルテクス界で、アマラを制するつもりで喰われた男。
おまけに、それを執行したのは、俺の向かいに座っていた…新田…お前だったじゃないか。
ヒジリが、磔から引き摺り下ろされ、マガツヒの海に融けた瞬間を思い出す。
人間の形はほろほろと一瞬で崩れ、海に還った。
酷く細かい、赤子よりも昔の形。
卵子と出会う前の、精子にも似た、赤いオタマジャクシの群れがわあっと泳ぎ出す様な…
「ゥ…うぐぅぇえ、っ」
駅前のマックから飛び出していきなり吐き出す、そんな俺を振り返る通行人達。
無理矢理詰め込んだばかりのファーストフードが、指を汚した。
添加物だらけ、もともと俺の胃には厳しい、それだけ、ただそれだけ。
「はぁ、はぁ、は…」
生理的な涙が出る事に、何処かで安心している。
(まだ、人間の部分が残ってる)
何とか着衣を汚さずに済んで、それでも今の自分の姿を確認したくて。
逃げ込んだ公園の公衆便所。水垢が付着したまま放置されている鏡で、顔を見る。
眼は、少し灰がかった暗い色。肌は、自分でも失笑したくなる程の白さ。
金色も、斑紋も無い。
「大丈夫…ダイジョウブ…」
大丈夫、大丈夫だ、人間の形だ。
胸の硬いしこりを指先に撫ぞる。忌まわしい飾りに救われて、人間に溶け込んでる俺。
ライドウが居る限り、形だけは保てるんだ。
(早く擬態…覚えたい…)
こんなにもおぞましい飾りなど取り払って、何事も無い生活を。
ぬるりと指に絡むのが、先日の悪魔の血にも錯覚して、急いで洗い流したくなる。
捻った蛇口から流れる水は、切り裂く様に冷たい。ツメタイ。この感覚が残っている俺は、正常だ、そうだろう?
見上げた鏡、どこかやつれた俺の顔。
がちゃり
横の方から扉の音、先客が背後を通過して、陽射しの降る公園にそのまま出て行く。
(不衛生…)
手ぐらいしっかり洗えよ、と、他人事ながらぼんやり思う…
違う…何だ…何か違和感がする…手を洗わぬ事ではなく…もっと…視覚的な。
「…あ」
視線を鏡にしっかりと合わせた直後、振り返る。遠くの雑踏に消える今の男性。
中肉中背、何処にでも居る様な、ただの人間だったじゃないか、肉眼にうつったソレは。
ヒップポシェットに入れたハンカチで指を拭いつつ、その影を視線で追いかけてみたが…見失った。
(映ってなかった…)
背筋が、ぞわりとする。
こつん
「ひっ!」
突如、スニーカーの踵に当たった衝撃。情けない悲鳴を上げてしまう。
そのまま足首を掴まれ、放られ、床に叩きつけられる…そんな妄想を一瞬で展開した…俺。
ボルテクスでは、それが日常だったから。
「あらら、ごめんね!」
親子連れ、若い女性の声、俺の脚の傍で転がっている黄色いボール。
「びっくりさせちゃったねえ、ごめんね!ほら、あっくんも謝って」
母親に促され、首だけ曲げる謝罪をした小さな子供。小さな眼は、何が悪いのかを理解出来ていない。
「いえ、その…」
(母親)
ボールを拾ってあげる事も出来ずに、俺は踵を返した。
赤く紅葉し始めた樹の間を駆け抜ける。人のはしゃぎ声の、影の、気配の無い場所を探して。
苦しい、其処に居るだけで、罪悪感に消されそうになる。

鏡に映らぬ男は、下手糞な擬態をする悪魔だろうか。
俺にボールを当てた子供は、無垢な存在を装った敵だろうか。

擬態した奴等で出来ているんじゃないのか、この世界は。
学園祭の中にだって、悪魔を使っていた奴が居たじゃないか。
その、悪魔の中でさえ、異質なんだ俺は――…
(何処に居れば安全なんだ)
怖い、何処かで監視されている。
擬態すら自力で出来ない、見破れない。
眼の前の人影が、本当に人間なのかも判らないじゃないか…!

喉の奥、更に奥が、熱い。
胎の蟲が、俺の中で嗤っている。
明るい白の雲間、薄い月影が俺の眼に訴えた。





「ふぅん…成程…これならば封書の伝達は失せてくる訳ですね」
新田勇と会うらしい人修羅は、まだ帰らぬ。
膝上にて液晶画面を見つめるゴウト童子が、僕の指先に翡翠の眼を右往左往させる。
『お主の覚えの速さには舌を巻くわ』
「フフ…この時代では幼子も扱うらしいですよ、このマシン」
情報収集には適している、このPCというモノ。
悪魔の辞典なぞ無くとも、そこそこの情報なら名前を入力するだけで表示されるのだ。
数年で培う専門的な知識だろうが一瞬で、見るだけなら可能。
「ローマ字の入力方式とは云え…訓令式ローマ字というモノらしいですねえ」
『違いがあるのか?』
「僕等の時代のモノは日本式ローマ字であります」
『…何が違うのだ』
「《やの行》に“い ”(yi)“ え”(ye)が無い事や…長音にマクロンを使用せぬ所でしょうかね」
『…もう良い、勝手に進めてくれ』
フウッ、と息を吐く黒猫。きっと面倒になったのだろう。新たなる知識を得ようとしない御方だ、童子は。
「ああ、愉しいな…フフ、こんな玩具が蔓延しているとは…なかなか危なげですね、この世界」
マウスで矢印を動かせば、それを眼で追う童子。ねこじゃらしのそれにも似て。
ひょこひょこ、と振ってみれば、ジトリと僕を見上げて睨む猫。確信犯とバレてしまったか。
『どういう意味だ…無知からは遠くなるではないか…まあ、国家での操作は難しくなるやもしれぬが』
「国家?フフ…こんなモノが在っては、個人での情報操作が可能ですよゴウト童子」
未だそこまで理解出来ておらぬが、そう感じさせる仕組みである。
可能性の拡がりが愉しい様な、見え過ぎてつまらぬ様な。
「何が真実か…これでは見抜く能力が有る者しか得をしませんね」
メールの画面に戻る、学校からの連絡に目を通す。人修羅は、僕が情報を閲覧する事に、最早何も口を挟まない。
時折交ざるのは、担任教師から生徒に送られるもの。
高尾…あのニヒロの巫女と云われていた女性教師。
どの様にしてシジマの総司令官と手を結んでいたのだろうか…
何故、功刀をボルテクスへと導いたのか…
ガイアなのか、いいや…シジマなのか、それとも…
(新たな世界を築く為に、元より氷川と接触していた?)
廻る思考は、またもや呼び鈴で中断させられる。
『出なくとも良いだろう、此処はお主の家では無い…訪問者なぞ放っておけ』
「既にパラサイトして候、フフ…この家に用件の有る者など限られておりますのでね、認識しておくべきでありましょう」
立ち上がれば、膝上のゴウトが床へと飛び降りた。
離れる前に覗いた液晶、受信したばかりの未読メェルが目に付き、矢印でくすぐる。
学校が寄越したPTSDの心理カウンセラー…もとい、臨床心理士の加藤保子から。

“お渡ししたい物が御座いますのでこの直後、寄らせて頂きます。”
“不在の様子でしたら、郵便受けに入れておきます。学校は無関係、高尾先生と私の勝手です。不要なら捨てて下さいね”

呼び鈴に応えるべきか、身内ですらないこの僕がメェルを読んだ事に文句するだろうか。
その様な雰囲気は感じられぬ女性だったが…
「個人的な贈呈品とは、気になるね」
管だけ携えて、学生服のまま下の階に下りて行く。インターホンモニタに映る女性の影を確認出来た。
郵便受けの隙間を目視しているその姿に、モニタ越しで呼び止める。
「玄関まで出ましょう、そのままお待ちを」
ビクリとして、手提げ鞄から何かを取り出しかけて静止する加藤。
『腰の後ろに銃くらい携帯したらどうだ』
「フフ、甘くみておられます?玄関の広さならば、何があっても僕が勝ちますよ」
『気を抜き過ぎでは無いのかライドウ、帝都の頃よりも悪魔が蔓延る“トウキョウ”ぞ?』
背後からの黒猫の説法も、僕が扉に手を伸ばす瞬間に止んだ。
術すら施されて無い貧弱な施錠を解除し、その隙間から秋の風が吹き込んでくる…
「すいませ……あ、ら」
対面した加藤は、何か驚いた様子で僕を見上げてきた。低いという程では無いが、首が少し辛そうだ。
「が、学生さんでした?お兄さん…?」
「驚かせてしまいましたか?フフ…まあ、遠い親戚みたいなモノです」
適当を云いつつ僕が微笑むと、少し赤面し、遅れて微笑み返す加藤。
悪魔の気配は無い、その手元の鞄の隙間から抜けるのは、小型銃かナイフ。
(銃は出せてコルト・ポニー程度か、ナイフなら肥後守辺り…)
召喚出来る悪魔は人型以下の規格か霊体、それ以上は身動きが取れぬであろう。
咄嗟のムドも失敗し易い、この現状に問題は無い。
「本日は何か御用でしょうか、二度目の訪問もモニタ越しでは失礼かと思いましてね」
そして、想定を廻らせつつも僕は整った微笑みを浮かべる事が出来ている。完璧だろう?
「まあ、すいません…いえ、そのですね、此方の矢代君の話を高尾先生から聞いておりまして」
「ああ、担任の…」
「そうです…高尾先生、今はまだ療養中ですが、私個人的に接点が御座いますので」
緩く光る光沢生地の鞄から、そっと引き抜かれたのは…
「カウンセラーが宗教に偏っていて良いのですか?」
クスリと哂って、その指先の護符の様な物を改めて見る。星の印。
表情には少しの戸惑い、それでもはっきりとした意思表示をしてくる加藤。声音には迷いが無い。
「高尾先生から、此処の矢代君は注意深く看てあげて欲しいと、云われておりますので」
「それは晴明桔梗?ドーマンセーマン?デビルスター?」
「偏りはありません、ただの魔除けのつもりです」
「此処に悪魔が寄り憑いて居るとでも?」
居るよ、うじゃうじゃとね、僕の仲魔が。
そもそも、貴方の云う此処の生徒が悪魔なのだ、半分は。
「学校の猟奇殺人で、妙な動きをしていた矢代君を見た子が居まして…講堂に一人向かった後、あの騒ぎですから」
へえ、ハッキリ云った…この女性。テレヴィジョンでも明確な表現は避けているのに。
「まさか、矢代が犯人とでも?」
「そんな…!そんな事を云いたい訳では、寧ろ逆です!」
どうだか。
「暴動事件、御存知です?代々木公園の」
「ああ、サイバースの氷川氏が挙がっていたアレですか?」
「あの事件の死体、とても人の手で与えれる裂傷では無かったのです」
「フフッ、つまりは…人外の仕業ですか?その暴動も、学校の件も…貴方はそう云いたい?」
差し出された護符を、スッと受け取る。呪力は感じない…今のところは。
「高尾先生は、矢代君の事気にしてましたよ…」
どの様な意味合いでだろうか。フフ…嗚呼いけない、嗤ってしまいそうだ。
ボルテクスでのニヒロの巫女を見ていた所為か、人修羅を導いたエゴイスティックな衝動が透けて見えて滑稽。
「成績ですか?素行?真面目に勉学に励んでおりませんか?」
「何か悪いものを引き寄せている…いいえ、これから引き寄せる、らしいです」
「先生は預言者か何かですか?」
「…お兄さんは、矢代君の保護者?」
「……フフ、高尾先生や貴方よりは知っていると思いますよ、加藤さん」

《代々木公園の通信塔建設をめぐる暴動は、氷川氏が被害者となった事で一旦鎮静化しましたね》

背後、リビングで流されるままのテレヴィジョンから聞こえて来る声。
ゴウト童子がソファで丸まって見ているのだろう、居間でのあの方の定位置だ。

《工事、今後どうなるのかが注目ですね、続行なのか、中止なのか…》

しばしの間、僕も加藤も、黙してそれを聞いている。
「そういえばこの御札、何処に置けば良いですか?加藤さん」
その沈黙を破れば、女性の視線が僕の眼に注がれる。
「矢代君が持つ事が、最良なのですけれど」
「そうですね…渡しておきましょう、僕から」
口約束に、加藤は微笑み返す。きっと半分は信用していないだろう。僕も信用を得る回答をしなかった。
「お願いします、きっとカウンセリングが無意味な範疇と思いますので」
云う彼女の背後に迫る夕刻の茜色。薄く月が見えている。
ローヒールの靴で後ずさる加藤、背を向ける前に一押ししてきた。
「私個人でも承りますので、お兄さんもどうですか…何か、吐き出したい事柄は有りませんか?」
僕の眼を探るその診療士の視線。喰わせてなるものか、癒せると思い上がるな。
「PTSDに罹る様な体験はしておりませんのでね、結構ですよ」
御札を指先にひらりと振って、かわす。
「…そうですか、御免なさい変に問い質して…失礼ながら…少しだけ“その気”がしたので」
「いえ、人間何かしら内抱してますからね、気付かぬ内に抱えている可能性はありますよ」
会釈する加藤、その後姿に何も憑いていないか、僕は長く見送った。
上に浮かぶ月は、丸い。いよいよ波紋の様にその力をさざめかせるのだ。

(人修羅の帰りが遅い)

受け取った御札を片手に、ソファで尻尾をゆらゆら振るゴウト童子に一瞥呉れる。
すれば、童子は翡翠の眼を薄暗い空間に光らせた。
『ようやっと終えたか、して、その片手の札は何だライドウよ』
「類感呪術と感染呪術、どちらだと思いますか?」
『随分と唐突だな…何だ、来客は同業者だったのか?』
「さあ?近い者とは思いますがね」

(擬態が解けたのか?身動きが取れないのか?)

人修羅に何かを持たせようとする輩、赦せない。
それを以ってして、何を望む?人修羅の、この世界での安住か?魔を退ける為?
あれ自体が魔だというのに、それとも何だ、彼の色を消すつもりか?
「加藤……少し憶えが有りますよ…ヤタガラスに居りましたよね、童子」
陰陽道…巫蠱が得意なサマナーの一人だった。代々続いている専門の。
『お主、勘繰り過ぎでは無いか?女性の声だった…ずっと同じ姓であろうか?』
「徳を得ようと、名は継ぐ可能性が御座いましょう」
居間の卓上に、札を叩き付ける。どうなのだ、条件が揃えば効力が発揮されるのか…
高尾の知人…ガイアの者か?学校から探りを入れているならば、人修羅を通わせるのは危うい気もする。
『…おい、そういえば人修羅はどうした』
「そろそろバイブ・カハでも飛ばしましょうか…門限すら守れぬなら躾が必要ですねえ」
ああ、でもこの月夜…仲魔を偵察に行かせるのは面倒を呼びそうだ。
慣れた築土でも無い、錯乱のまま迷子になられても、僕は捜さないだろう。仲魔のたった一体等…
『おいおい、人修羅を幾つと思うておる、お主より二つ下な程度であろう?門限とは…』
「最近、蹴り飛ばそうが無反応で…クク、少し困りましたね」
札を眼の前に、椅子を傾けて着席する。四本脚の半分である二本のみで支えさせ、ゆらゆらと。
庭先の照明が独りでに灯った、夕刻の訪れの証。
「……功刀」
肥えた月、しかし、人修羅が外出したのは早い時間だった。
最近街中を歩む事でさえ疲弊するアレだから、心配をしていなかった。
あの無気力さで、この停滞した檻にすぐ帰ってくるだろうと…
「……クヌギヤシロ」
誰に云うでも無く、喉の奥底から、出でた。契約名が身体を突き動かす。

“あの、シキガミは何者から得たのだ?”と、ひたすら甚振ったあの晩から、人修羅は抵抗を弱くしていった。
悪魔との戦いの後の脱力なのか?それとも、甚振り過ぎた僕の所為か?
シキガミに噛まれた腕で、人修羅を絞め上げ殴った、僕の揺らぐ感情をそのままに。
(僕の見えぬ範囲で、お前に何かをもたらす者達が居る)
それが甘ければ、お前は縋るというのか、人修羅。
人間に戻るという意識は何処に消えた?育っておらぬ君は、脆弱な半人半魔のままではないか。
擬態だけ覚えて、偽って生きるのか?堕天使に急かされるその刻まで。

二本で支えさせていた椅子をそのまま蹴倒し、卓上の札を鷲掴みにする。
『おい、ライドウ!何処に――』
胸のホルスターを腕に通す、帯刀するのは短い刀。外套だけ羽織り、学帽は煩いゴウト童子に被せた。
猫に留守を頼むのもおかしいが、そのまま玄関の扉を開け放つ。
高級住宅街、人の影は少ない。街灯の灯りも厳かで、月光の方が強い。
遠くのビルヂングの光の洪水は、雲のカーテンに遮光され塞き止められて。
「イヌガミ」
呟けば、僕の歩調に合わせて飛ぶ犬が鳴く。
『ライドウ…』
「承知している、この住宅街だけ探ってくれたらそれで良い」
『イナイ』
「そう、御苦労、管で眠り給え」
傍に張り付かせた犬を、管に仕舞う。今、頭上にある月は、悪魔には蜜であり毒だ。
暴れさせる予定も無いのに、月光に仲魔を晒すつもりは無い。
カツリカツリと綺麗に描かれた石畳を踏み鳴らし、人間の海を泳ぐ。
こんなに多くの生き物の中、人間、悪魔、飼われる動物、身を焦がす灯蛾、踏まれる蟻、珍しくない。

人修羅

何処にも居らぬ。何にも該当せぬその存在。
ほら、早くあぶれてしまえ。何もかも、信じられなくなってしまえ。
蒼い闇が上から人間の世界を覆う、夜の時間が来る、僕の安らぐその刻限が。
電子音のかごめかごめ。
信号に制御される人垣を迂回して、建造物の隙間から上へ上へと舞い上がる。
フレスベルグで屋上まで、冷えた風切り音が隙間に響く。
上から見下ろす人混み、烏にでもなった気分で眼を細める、意識を集中する。
この満月に、カグツチを身体が思い出しているのだろう?
お答えよ、さあ、ほら、僕の悪魔。
浅はかな足取りで、崩れ落ちて御覧、あの泥山の上の君みたく。
心の擬態が出来ておらぬ君は悲鳴する筈…この世界では…
「功刀…返事し給え」
結んだ胎が熱い、僕にマガタマは宿っておらぬ筈だというに、契約の血がさせる躍動。

君が無気力なら、僕は苛立つ。邪魔な存在を燃したいのは、お互い様だろう?
君が燃したいその時は、僕が注いでやろう、燃料を。

小さき悪魔が、群れるのが見える。
見覚えのある工事現場、君が悪魔狩人と駆けていた赤い鉄塔。
恐らくあそこだ、彼の歩む経路は把握している。そして、今宵望むであろう影の場所を推測すれば…一致する。
「辿り着ければ、一、二匹喰わせてやろう」
フレスベルグの嘴を指先で撫で、囁く。褒美が目的地にあるだけ、鳥は速く飛ぶ。
その背に飛び乗り、地上の人間には目視し難い速度で月光の雲間を縫う。
迫る赤い鉄骨、工事が止まったままの其処、蠢く星は悪魔達の眼。
僕を一斉に見上げて、獲物が来たと嗤うその海に、飛び降りた。
牙を剥き出しにして飛びかかってきた餓鬼を踏み台にして、鉄骨の上に飛び乗る。
『ギチギチ』
下等と云われる属ばかり、胎の脹れた餓鬼、爬虫類の形のヨーウィー…イツマデがこの中では強い方か。
「ねえ諸君、少し風変わりな悪魔モドキ、見なかったかい?」
ジャイヴトークの必要が有るか探りつつ、普通に問い掛けてみる。
『風変ワリィ…?モド…キィ?』
「人間くさい悪魔で、悪魔じみた人間の事さ」
『っせえナア!喰わせろよいいカラ!!』
嘶き飛んできたイツマデに、フレスベルグがぶつかっていく。何も心配して居らぬ、明らかに僕の仲魔が強い。
勝手に数匹喰えば良い、僕のMAGをわざわざ与えずとも良くなる。
『人間ぽい…?下に美味そうなヤツなら居た、ヒョロイけど』
『ンー、ヤラナイケドネ…!MAGダケハ…ウマソーォデナァ、アイツ…ケヒヒ』
人間なら弱いと思い込んでいるのだろうか、哀れなり。この時代において無知な部類の悪魔らしい。
僕とて生物…真上の月に一切の高揚が無い訳では無い。無意識に滾る衝動で、腰の短刀を握る。
銃声が遠くまで響いては面倒だ。上空から人影を確認したとは云え、この場は熱く静かに屠るべきである。
「下ねぇ…ふぅん…ありが、と!」
脚に絡み付いてきたヨーウィをヒールで強かに踏めば、細やかな骨がミキミキと音を立てる感触。
しなった瞬間吐かれる毒液を外套で掃い、低くした姿勢のままその細い胴を輪切りにする。
ぶつぶつと落ちていく蛇の胴、一階層下の鉄骨に群がる餓鬼達が、口を目一杯開けて踊り散らす。
同属だろうが、意識を持たなくなった瞬間からは餌でしか無いのだ。
ゲラゲラ笑って僕の散らした屍肉を喰らう悪魔達に、僕も哂いながら舞い降りて行く。
「ねえ!何処!?」
僕をも喰らおうと腕を伸ばしてくる餓鬼共に向かって、腰のホルスターに備えた刃物数種を投げつける。
鋼は口に合わなかったのか、仰け反って鉄骨から落ちていく数体。その出来た隙間に着地する。
「黒髪に妙な撥ね!不健康な白肌に貧相な身体!ねえ、見なかったかい!?」
フレスベルグが月光に煌き、いつも以上に食べ散らかす。その散った滓が僕の髪を濡らした。臭い。
踵を足場にカツカツと鳴らし、MAGを震わせてやれば、一声鳴いたその鳥が帰ってくる。
僕の苛立ちをようやく察して、咀嚼を止めるフレスベルグ。
「フフ、管の中を汚すで無いよお前」
外套の端、毒液で破れてない部分でその嘴を軽く拭ってやれば、胸の管におずおずとした粒子となり還る。
さあ、代わりに何を召喚しようか、それとも僕だけで済ませてしまおうか。
君と対面した瞬間に、僕のMAGが君だけに一直線に向かう様に。
それを君はどんな顔で受け止めるのだろうか、想像しただけで満月よりも滾るのさ。
「お退きよ…!クッ…フフ…諸君に喰わすMAGはね……無い!」
蹴り飛ばした餓鬼の頭を引っ掴み、そのこめかみに押し当てて引鉄を引く。銃声は脳漿に吸収された。
更に向かいより押し寄せる餓鬼、銃を持つ僕の手を狙って口を大きく開いた。
「ふ、っ」
『アギャッ』
牙が囲むぽっかり開いた暗い穴に、愛銃を握り締めた拳ごと叩き込む。
「まだ半分しか入ってないよ?」
『ゲヒャアァアガガガ』
更に喉奥まで突っ込んで、肉の薄い行き止まりまで押し付ける。
「クス、御免…尺八はお嫌いだったかい?」
首を傾げて哂って問う、顔を歪めたこの餓鬼の、更に奥の方を見る。
一直線に他の餓鬼を掻い潜り、此方へと飛んでくる悪魔の眼。フレスベルグの喰いきらなかったイツマデか。
睨みを利かせてくるが、僕の眼には通じない。本来は麻痺してしまう筈…金縛りが如く。
呪力を呑み込む、この闇の眼を見るが良い。葛葉の霊力だけと思うで無い。
これは、僕が培った魔の力なのだから。
「綺麗な音色で鳴かぬ笛なぞ要らぬよ」
イツマデの眉間に、鈍い音でぱすりと鉛が埋まった。
サイレンサーの代わりを務めた餓鬼の口内から、ずるりと拳銃を抜く。
唾液とも血とも云えぬその液体のぬめりをさらり、と外套で拭い、イツマデの屍骸を踏みつけつつ鉄骨を駆ける。
妖精の国は無い、此処一帯に蠢くのは、満月に飢えた狂える悪魔達だけ。
喰いあぶれた悪魔は、一所に集う事が多い。此処は最適な場所なのだ。
そして、君が逃げ込むにも、ね。
(居た)
三角のコーンが重ねられ、真赤な鉄骨が規則的に積まれた最下層。
地味な色目の薄いジャケットが、襤褸になっている。
鉄骨に腰掛け、前傾姿勢でだらりと…そのなで肩を微かに蠢かしている。
斑紋も角も発露してはいない、が…あの呪具は、表面だけを偽る物。
君もこの月の下、それを悟ったから此処でそうしているのだろう?さあ、振り向き給え。

「功刀」

首だけで振り返った君、薄く光る金色は上空の支配者にも負けない厳かな色。
もそもそと動いていたその頬がぴたりと止まって、紅潮していく…
「月にさえ無抵抗かい君は…全く…本当に」
カツンカツンと歩み寄る程に、君に吸われるMAGを感じる。引き抜かれていく、飢えた君に。
「僕がカウンセリングしてやろうか?その“PTSD”」
哂って、その情けない頬を革靴の甲で穿つ。悪魔の滓がこびりつく、君の普段嫌がる臭いソレが。
「僕はね、そんな雑魚悪魔を狩って申し訳程度に啜らせる為に…君に擬態の術を与えた訳では無い」
鉄骨に垂れ掛かる君の肢体を、上から更に踏み躙る。肩をヒールで抉れば、ビクンと腕が跳ねた。
「カグツチにも、月光にも、支配され切るで無いよ!利用してやれ!」
その虚ろな視線、苛々する、投げ出されるままの肢体、今直ぐ奮い立たせ。
支配者共を見返してやれ、踊らされる振りで己を昂ぶらせ、喰い殺してやれ。
「無抵抗に結ばれる両手なら、僕が削ぎ落としてやろうか人修羅」
契約の熱が篭るその胎に跨って、黒曜石を魔術で砥いだこの短刀を、肩口にさくりと喰い込ませる。
「ぁ…ぁあッ、ぐ!!」
「この世界に溶け込ませる為に…擬態させていると思っていた?」
刃を傾ければ、君の腕が震えながら反応して虚空に踊る。
「祈れば救われると思ってる?そんな螳螂にした覚えは無いよ」
「お…れは…人間」
「擬態も満足に出来ぬ蟲は、空腹で朽ちるだけだろうねぇ…」
「胎、が、充たされないっ、俺、人間の物喰っても…っ、だから、だから!」
だからそんな中途半端な状態でも殺せる悪魔を狙ったのかい?
そんな屑の様なMAGで満足する程、君は悪食だったかい?
「それで君が良いなら、そのまま擬態を続けて…人間の贋物になっておしまいよ」
僕の言葉に、君の焔が揺れる。消さない様に、煽ぐ。その無力感だけを吹き消してあげる。
君を治療出来るのはね……僕だけだよ。
「お…れは…」
戦慄く君の腕の先、力を帯びたその指先が、己の胸を引き裂かせる。
「俺は贋物なんかにならない!!絶対ならない!!」
無理矢理引き抜く金属の楔、奔る反射でその指が血塗れになろうとも。
君の胸を齧っていたピアスが月光に煌き、その指先に一瞬にして斑紋が迸る。
僕の突きたてた刃を、僕の手首を掴んで押し退ける凄まじい金色。
上空の金色よりも僕の脳髄に響き、支配しようと睨み上げてくる。
「動くなライドウ」
普段より低い声で呟いた君が、赤く光る斑紋の爪先をずくりと突き立てた。
僕の外套の襟を伝い落ちる液体が、君の頬を濡らす…
「そうそう…ククッ…出来るじゃないか」
少しばかり僕の耳をかすめたのか、じわりと熱い其処。
僕の背から襲い掛かろうとしたイツマデの脳天を、その窄めた指先で貫いた人修羅。
嫌悪に塗れた貌は、しかし高揚しているのか、斑紋がイツマデから溶け出すMAGに輝く。
勿論気付いていた、人修羅がどうするのか、見届けたかったから、放置した。
ぼとり、と地面に落ちたイツマデが崩れた粘着質な音を立てる。
…そう、僕が君にさせたのは、隠蔽擬態に非ず。
「そんな不味そうな餌で満足しているのかい?」
「…MAG…なら、もう今、何でも、いい…この震えが止まるな…ら!」
生温い風が吹く。寝そべるままの君の上で、擬態も必要無い鉄骨の森で。
「悪食祟って君のMAGまで不味く成られては癪なのだよ、功刀君」
外套のポケットに忍ばせたままの札の存在、今の時は忘れよう。
「ねえ、新田君と何してたのだい?」
向かい合うまま、突如出た己の発言にしかし疑問を抱いた。何故そんな事を聞いている?
少し呆然とし、悪魔的な興奮を少し潜めた人修羅がぽつりと零す。
「……か、カラオケでいつもと同じ歌聴かされて、ま、マックでしなびたポテト喰った…」
「あ、そう。人間の食べ物で胎は膨れたかい?」
「…結局…吐いた」
ふい、と横を向いた人修羅の頬にかかる悪魔の体液を指で拭う。その耳元で続いて囁く。
「何が一番美味しいか知ってるだろう?」
「俺から求める訳…無い」
「では満月の度に、弱い雑魚を啜って生きるのかい?人間の振りをしたまま…ただ祈る?」
見上げてくる眼は物欲しそうな癖に、その肢体も覇気もしな垂れる柳の様だというに。
「祈りで飯が喰えない事くらい…俺だって、もう…!」
小さく叫んだ人修羅は、その両腕で僕の肩をがしりと掴んだ…いいや、縋った。
柘榴の果肉みたいに荒れたその胸元も痛々しいままに、僕のホルスターの胸が引き寄せられる。
唇が、眼と鼻の先まで来て静止する。寸止めではないか、無意識なのか?
蜜が、芽と花の先まで来て滴る。僕にとって、君のMAGが美味しくないといつ云った?
擬態を見抜いて尚、啜りたい獲物。
「  ――…」
「んっ!…ん……ァ」
秘める強かさを、毒を知って尚、罠に掛かる愚かな蟲になって吸い付く僕。
舌遣いの下手糞な君は呻くが、吸魔だけは滞り無く行っている。
脆弱な人間の振りで、強かに獲物を狙う攻撃擬態。まさしく僕が教えたかったのは、それで。
つまりはこういう事なのである。





「お前こないださーぁ…ったく、びびったよ俺!勝手に帰りやがって」
向かいの新田がストローを噛む。
相変わらずの行儀の悪さに、辟易しつつもやはり安堵してしまう。
「悪かったって云ってるだろ」
「オゴりゃ良いってもんでも無いだろが!ったく……ん、でもこの米のバンズうめー!」
「金出すなら、マックよりこっちだ」
俺は、自分のトレーに乗るフライされたオニオンリングに指を伸ばす…が。
寸前で獲物が消えた。いや“横取りされた”が正しい。
「ふぅん、玉葱の揚げ物も悪くないのだねぇ」
俺の隣の椅子に、脚組みで腰掛ける黒いコートの男。煙草を片手に、空いた手で齧ったリングを弄ぶ。
「っすねえ!俺あのマックのしおっしおになったポテト好きなんだけど、オニオン有んならモスも悪くねー!」
煩い新田、こいつと話さないでくれ。苛々するんだ、何云い出すか怖いから。
「そいや、前買ってたピアス、反応どうっした?カノジョでしょ?喜んでた?」
オニオンリングが駄目だったので烏龍茶を飲んでいた俺は、思わずストローをギチリと噛んだ。
隣で紫煙を燻らせて、ニタリとしたライドウが新田に答える。
「今も着けてくれているよ」
「マジ?気に入ってくれてんだぁ〜そりゃ良かったすねえ」
ずきり、と胸と胎、三角地帯が熱を孕んだ感覚。仕方ないだろう、未だ自力で擬態出来ないのだから。
「というか、付いて来るんじゃねえよあんた……ッ」
発した俺のスニーカーの甲に、その瞬間めり込むヒール。テーブル下の躾に新田は気付いていない。
「別に俺は構わねぇけど、橘女王よか話解るからさあ、俺は紺野さん好きだぜ」
話を寛容に聞いてる振りして、飛び込んできた獲物を挟み込む鎌を持ってるのに、その男は。
新田、馬鹿な奴。その男みたいに、中まで擬態出来て無い俺にすら気付かない。
孤独が怖いお前を、ボルテクスで見たんだぞ…俺は。
「…お前は…PTSD、とか無いの」
ぼそりと呟けば、コーラ片手の新田が一瞬止まった、が、いつものヘラヘラした顔で茶化す。
「何それ、新しいバイク?」
「違う!…ったく…学校からのメール見てないだろお前…」
「ぁあ、カウンセラーとか何とかそいや来たわ!祐子先生が来てくれりゃ最高だったんだけど」
俺が云う未知の単語なら、何でもバイクか料理だと思ってやがる。
快活にというか、軽薄に笑うその顔を見て、それでも甦る。
“ダチで良かったよ…俺も敵だったら、命が無ぇんだろうな”
それがお前の本心なんだろう、敵を作らない為に、こういう形を取ってるんだろう。
お前の大好きな高尾先生への障害でしか無い俺なのだから。
今、そうして笑ってる姿は、擬態だろ。
「どしたよ矢代」
「…え」
「ストローすっげ噛んでね?いつも俺にはそれで文句垂れるクセにさぁ」
どうしてよく分かってる。観察か?敵の。
「どうだって良いだろ…少し、その…苛々してた」
ああ、嫌になる、俺が。何もかもが、紛れる為か攻撃の為の仮初の姿に見えてしょうがない。
(こんな世界に生きてきたのか…あんたは)
隣で煙草を吸うライドウを、ストローを噛むままにちらりと覗いた。
それに気付いたのか、奴は唇の端を吊り上げて俺に一瞥くれた後…新田に哂って云った。
「フフッ…口寂しいのでは?」
頬から耳まで、一気に血が昇る。考えるより早く、その指が挟む煙草を、俺の指先に奪い取っていた。
眼を丸くして、ぽかんとした口から潰れたストローの先を逃す新田が、視界の端に見えた。
「違う…あんたと一緒にするな…紺野…ッ」
勢い余って灰にしてしまいそうで、急いで灰皿にそれを叩き付けた。
さして驚く事も無い様子のライドウ、そのすらりとした綺麗な指先は、頬杖を着く為に頬に添えられた。
“最近口寂しくてね―…”
妙に云い訳じみたタイミングで鮮明に憶えている。
満月の夜、冷たい鉄骨の上で、極上の餌と与えられた台詞だったから。
擬態したまま風に揺れるより、憚り咲けと命じてきた闇色の眼。経験者のそれ。
(あんたも…何か、あったのか…過去に)
無気力に悪魔を殺すより、己を殺すより…理由を、欲望の先を見つめている。
あんたに使役される俺は、研ぎ澄まされて生きている。
下手すれば、東京受胎前よりも。


俺を苛んでいたトラウマティックな病を麻痺させる
あんたの歪なセラピー



祈る螳螂・了
* あとがき*

いつも以上に淡々とした文になった気がします。大きな揺れや、接触は無いですが…人修羅の感覚の狂いを書ければ、と思いました。それにしても御札…これはまた後々。“加藤”は、帝都物語の加藤からです…安直。 とりあえず、イメージの為にマックも行ってみました。レモン果汁0%に驚愕。“風味”は人間を誤魔化せる。

《PTSD》
心的外傷後ストレス障害。凄く端的に云えばトラウマ、かと思いますが…通常体験の範囲をはるかに超えた出来事で生じる。その再びの苦痛を避ける為に、喜怒哀楽が調整されてしまい、弊害が出る。生理的反応…不眠だとか怒りっぽくなったり、無気力になったり。しかしこの症状に対するカウンセリングが、万人に適切かと云えばそうでもないらしく。難しいですね…なので、浅くしか書けませんでした。
ちなみに、ライドウは複雑性PTSDの方と思われます。

《お祈りするカマキリ》
被虐待児症候群から。虐待を甘んじて受け入れてしまう様になった子供に見られる症状。癒しの手を拒絶して、両手を組み自ら制している形から、こう呼ばれるそうで…
ライドウは、己が祈るカマキリに成りたくなかったから、人修羅にもそうあって欲しいと思って焚き付けている。

《擬態》
狙われない為にする隠蔽擬態。獲物を待ち伏せする為の攻撃擬態がある。

《螳螂》
カマキリ。攻撃擬態をする昆虫。祈るような姿勢の為か「拝み虫」と呼ばれたり…英語でも「prayingmantis」だったりする。praying=祈る。 この昆虫の体腔内には、ハリガネムシが寄生したりする。しかしそのハリガネムシが抜け出た螳螂は、急激に衰弱して死ぬ事が多いらしい……マガタマの様。