責任点火

 
異邦の神アラディア…
バアル神の化身…
漂流の神ノア…

「どうしたの、矢代君」
「先生、功刀君たら最近ずっとこうなのよ、放っておいて良いわ」
「コイツよか祐子センセ、俺に構ってちょおよー」

白が程良く眩い病室。未だベッドにその身を置く担任教師が、俺を見て微笑んだ。
「大丈夫?」
背筋が凍る…何と答えれば良いのだ。そもそも、この担任教師には東京受胎前から悪寒していた。
俺を見る眼が…酷くねちりと、湿っていたから。自意識過剰では無い、本能的に察した。
それは、生徒を温かく見守る教師のソレとは、違う。
(今、此処の面子がボルテクスの時の形に還ったら、どうなるだろうか)
ぼんやりとそんな事を考えていたとは、云える筈も無い。
(俺は…どうやってこの人達を殺したんだ…)
カグツチ塔の記憶は、酷く薄い。まだ混濁しているだけか、いつかは記憶が戻るのだろうか。
戻ったところで、苦悩しか呼び起こさない気もするが。
「私が居ないからって新田君、勉強サボってない?」
「それこそ大丈夫すよ祐子センセ!戻ってきた時には進化した俺をお見せ致しましょう!」
ようやくあの日に着てきた一張羅をお披露目出来て、ジャケット姿の新田は生き生きとはしゃいでいた。
いや、其処の教師の肉声と空気に高揚しているのか。
新田が人修羅になってくれたら、高尾先生も望みのままに世界を創れたかもしれないのにな…
それを考えて、自嘲の様な、憐れみの様な、何ともつかぬ失笑が零れた。
「功刀君…寧ろあなたじゃない、そういえば進路、どうするつもりなのよ」
腕組みのままベッドサイドに立つ橘が、じろりと俺を見た。
「学校の担当には、聞かれたら答えてる」
「私達の本来の担任に云って、安心させて然るべきじゃなくて?」
「この空間で堂々と話す内容か…?」
この問答に、ベッドから高尾がやんわりと横槍を入れる。仲裁と云うべきか。
「そうね橘さん、ありがたいのだけれど、公に出来るものでも無いわ…真面目な話しは気恥ずかしいものね」
その言葉に、橘と反対側に立つ新田が嬉しそうに笑った。
きっとその気さくな台詞に共感しているんだ…“流石、俺の敬愛する先生”と。
「でも先生、彼の為にもならないわ」
「卒業後に全てが決まる訳でも無いのよ橘さん、急かすものでもない…」
病院着から覗く肌は、確かに健康的とは云い難い。でも、俺はそれを見て、他の二人とは違う感想を抱く。
そんな肉体で、神の依代に…巫女になれるのか、と。
ナイトメアシステムだろうが、アラディアだろうが、素体がそれでは…
(脆弱な人間の肉体では)
は、と思考を止めた。俺は“人間”という区分に今、自分を入れていたろうか…?
「俺、帰ります」
ブーツを鳴らしても、埃ひとつ立たない床。綺麗な空間の透明な空気こそ、距離感が鮮明で怖い。
もう、早く出たい、この空間から。
「おま、最近付き合い悪くね?いや、別に構わねえけどさ…」
云い直す新田には、恐らく罪の意識が有る。
俺と接しているのは、高尾祐子との接触を増やす為だけ…利害の一致だから友人付き合いしてるのだという、その意識が。
そこに距離感を感じるなら、最初からこんな関係始めなければ良かったじゃないか。
「矢代君、帰りは一人で平気なの?」
「最初から今日は一人で来たんで」
「そう、気をつけて帰ってね、最近この辺は物騒だから」
この病院こそが、物騒の根源だったじゃないかよ。
やり場の無い感情を噛み砕いて、奥歯を噛みながら俺は病室を出る。
ああ、来るんじゃなかった。どうしてお見舞いなんかに乗ってしまったのだ。
(…人修羅とか、東京受胎とか、結局云わなかったな)
ぼそりと俺だけに零すかと思ったが、それも無かった。
あの教師にも、ボルテクスの記憶は残っていないのか…他の人間同様に。
それを探る為に見舞った俺は、慈しみや偽善のカケラすら無い。
自然に、あの教師を敵だと認識している。
(どうして俺を助けた…人修羅に成ると、予知でもあったのか…先生)
病室から出て少し歩き、渡り廊下を通る…外の風景がガラス越しに見える、開放感のある通路。

“躊躇しちゃ駄目よ!あなた悪魔にしては臆病ね〜”

玉虫色の翅をカグツチの陽に透けさせて、カラカラと笑う妖精が見えた気がした。
(悪魔なんか…嫌いだ…)
東京受胎の後目覚めて、得体の知れない己と周囲、変貌した世界に絶望したあの時。
此処でようやく拠り所を得た記憶が、やはり抜けない。
この命を得てからというもの、自分の悪魔が増す程に…悪魔への嫌悪感が増す。
ピクシーの不安そうな、それでいて誘う様な、潤んだ小さな瞳が俺を見ている……やはりそんな気がして、傍を見た。
傍らには何も居ない、行き交う看護士と、見舞い客と、患者。
ガラスの向こうに流れる白い雲の隙間には、カグツチでは無く太陽。
(今日も、曇りの空…天には、空、地面じゃない)
そうだ、馬鹿馬鹿しい…東京受胎は逃れたんだ、何を怯えている。
何食わぬ顔で、気持ちを切り替え歩き出す。
見覚えのある院内、幾度か行き来した…悪魔を殺しながら…此処から出る為に。
殺すのは、立ち塞がるからだ、血肉やマガツヒを求めているからじゃ…無い。
(……此処は)
《A203号室》の手前。名前のプレートは無い。丁度患者も掃けて空き室なのか。
通り過がる看護士が、車椅子を押しながら談笑している。
「声が聞こえるとか云って…ええ、皆さん他の部屋に移りたがるんですよ…」
車椅子の患者は「うそだあ」と笑って流している。
(声…)
どうしても切り替えきれぬ感情が、俺の足を逸らす。
その、ひっそりと佇む扉の前に近付いて、肩のショルダーバッグの紐をぎゅ、と握り締めた。
あの日の彼女の真似をする。

「マガツヒ…アルゾ」
何をしている。
「イッパイ…モッテキタ」
馬鹿じゃないのか、俺は。

………やはり、無反応だった。扉の向こうから、ガキの声は無かった。
それに安堵なのか、俺だけが普通の世界に着いていけてない事実に苛立つのか、どっちつかずの淀みに襲われる感覚。
「くそっ」
小さく吐き捨てて、頭を軽く振り被って足早に退出する。
(万が一、ガキが出てきたとして、俺はどうするつもりだった?殺すのか?マガツヒでも吸うのか?)
広いロビーを抜けた先、この後そういえば電車か…と、溜息を吐いて見上げた…が。
送迎レーンに異質なものを発見して、思わず立ち止まってしまった。
艶めいた黒塗りのリムジン、まるで映画に出てくるソレ。
(病院にリムジンかよ…)
お偉いさんなら、もっとひっそり行動するものだろうに、何なんだろうか。
いや、もしかしたらヤの付く職業の人が絡んでるかもしれないだろ。
目立つ物には近付かないのが吉だ。触らぬ神に何とやら、で…
…いや、それなら今何故俺はこんな運命を歩んでるんだ。
やはり、やり場の無い理不尽に苛立ちを感じつつ、レーン脇の道を歩き出す。
が、視界から黒が消えない。
(まさか)
消えるどころか、鮮明になる。距離が狭まってくるのが分かる。そう、来ているのだ、俺に向かって。
足を速めれば、更に加速したリムジンが俺より前方に走り込む。
壁を作るかの如く、助手席が開いた。いや、違う、左ハンドル…運転席。
すらりと伸びたスーツの腕、人間離れした白い指先…黒い爪。
ぞくぞくと身体を戒める記憶が、脚を竦ませた。
「あ、ああ…」
情けなく抜けた俺の喘ぎ。サイドミラーに映る運転手の口元は、うっそり微笑んで俺を見つめている…気配。
「後ろに乗りなさい」
抑揚の無い、諭しているのか命令しているのか、絶妙な声音。
俺は呼吸を落ち着かせ、ちら、と傍の車体を見た。
「鍵はかけて無い、そのまま引くと良い」
「…はい」
云われるまま、後部座席の扉を開く。内装は薄暗いが、上質そうな臙脂色ベルベットの座席。
この車は、本物だろうか。模して作った悪魔の紛い物なんじゃないだろうか、動力すら怪しい…
腰を下ろせば、沈み込む。ゆったりしたクッションの利いた座席に、却って身体が強張る。
既に扉を閉めて、発進している車。流れる景色はカーテンによって遮断されている。
前を向くしか無いのか、どうしても…運転手が見えてしまう。
「最近ガッコウには行ってないのか」
「…休校中で、無いんです」
貴方の召喚した悪魔の所為だ…と。
そんな文句、云える筈も無い。
「そうか、普段は何をしているのだね」
「………バイト…あ、し、仕事です…仕事と…学校の知人と出たり、です」
運転手の、ハンドルを掴む指先に、金色の石の指輪が光る。眼が痛くなった錯覚に、一瞬襲われる。
この国の…人間の決め事を守って運転するなんて、馬鹿馬鹿しくないのだろうか。
そもそも、何故運転出来る?そんなに人間界の散歩が好きなのか、この堕天使は。
「矢代」
「は、はいっ」
思考を押し退けて、思わず上擦った声で返事する。
「これから何処へ行くと思う…?」
突然の問いかけに、俺が答えられる訳無い。真剣な返答を求めているのか、面白く返せという意なのか。
どちらにしたって、俺にはそんな知識もボキャブラリーも無いのに。
「あ……と」
「では選ばせてあげよう矢代……左、直進、右、どれが良い」
云われフロントガラスから景観を見れば、それなりに見覚えのある範囲。
このままのレーンで進めば、直進になる。
そっちは……
「み、右!!」
「右…ほう、理由は何だね」
「お、俺の家に…」
適当を云った。本当は違う、直進でも左でも、俺の家までの距離にそんなに差は無い。
直進されては…所謂ホテル街に突っ込む事になる。
行った事は無いが、街路からちらちらと見える怪しい建造物を視界に確認した事はある。
いや、この堕天使がその中を通ったからと云って揶揄したりする事も無いだろうが…
目的地が其処になる訳でも無いだろうが、俺は何故か心臓がばくばくと嫌に波打っていた。
「家…ふふ、そうだね、お前の自宅という拠点には、一度寄るつもりではあった」
「は、はい」
“寄る”って事は“帰してくれない”という事か。
振動も殆ど無い高級な車体は中も静かだ。
緊張で不規則な、俺の呼吸すら煩い。
「あれから悪魔は殺したかね」
「…少し」
「人間の世はどうだ?少しは慣れたかい」
慣れるというのも、可笑しな話だ。本当は、俺は…人間なのに。
ぎゅ、と膝の布地を握り締めれば、少し後にクスリと微笑む声がした。
濃いグレーの、黒に近いスーツ…金色の髪がその肩に零れる様は、確かに綺麗だ。
その背中に六枚が広がった瞬間から、きっと俺は更に心臓を握り潰されそうなプレッシャーにやられるのだろう…
「あ、の…閣下、俺の家は」
「分かっている」
「はい…っ、申し訳…ありません」
たった一言にさえ畏怖してしまう、この恐怖の源はヒエラルキーというやつだろうか?
「方角さえ捉えてしまえば、路なぞ、どうにでもなる」
「そ、そうですか」
「…と、お前のサマナーはよく云っていたが?」
赤信号、完全に止まっている車体の中、俺の感情だけずるずると動いている。
「ライドウ、が…」
「そう、お前の今の飼い主…葛葉が十四代目」
「あの男と、親しい…のですか」
「親しい…?…親密…友好…ふ、人間の範疇で云えば、それなりだろうか」
「ライドウは閣下を…し、慕っているのですか?」
「どうした…饒舌だな。ライドウの事が気になるのか」
はっ、と口を閉ざすが、もう今更だ。そんな自分に気付かされ、頬に熱が篭もる。
「…気に、なるというか…その」
「人間の世界は散歩するには愉しいからね…よくよく降りたものだ」
「ライドウの時代に?」
「そう、矢代…お前よりも長く接触してはいるのだよ、実質」
そんな奴と契約してしまったのか、俺は。嫌な汗が額を伝いそうな気分だ。
(ライドウとルシファーが、グルの可能性は)
だとすれば、俺に勝機は無い。
…契約を受けてしまったのは、正気も無かったからか。
「彼はなかなか、ヒトとしては強いだろう」
「…そう、ですね」
認めたくないそれに、認めざるを得ない記憶が甦る。そして俺は肯定する他無い。
「わたしの翼を前にして尚…憚った…恐ろしい人間さ」
「戦ったのですか」
「この刻よりも一世紀近く以前かな…ふふ……あの時は、わたしが彼の骨を砕いたが…」
「骨」
「ああ、ヒトの肋骨は透き通った音がする、爪先で舞踏曲を奏でるには少し足りぬが」
ぞく、とその穏やかな声に寒気がして、外に視線を戻す。
いつの間にか動き出していた景色、反射する陽の光が、堕天使の金糸の髪を輝かせる。
「今度はどうだろうな…お前はその時、わたしの傍に居てくれるのだろうね?息子よ」
「あ……」
「………もう到着の様だ…狭いな、この世界は」
気付けば、答えを出さずに云い淀んでいたまま、俺の家に横付けされて停車していた。
悪魔たる力で飛べば一瞬だろうに。そう思っても、勿論云わない。
「ライドウを呼んで来なさい」
堕天使のそれは、今度は命令だった。




「へえ、閣下直々に送迎ですか、これは大変恐縮に御座いますね」
隣に座るライドウは、恭しい喋りながらも脚を組んでいた。
学帽に、外套の内側からちらちらと見えるホルスター…流石に、完全武装だ。
車の傍まで来たゴウトに「畜生は車に乗っては参りませんよ、童子」と哂って云っていた先刻。
『電車に毎回乗る際には、何も云わなかったろうが…フン』
去り際にゴウトの発した言葉が本当なら、ライドウは単に今回“ゴウトを連れ発ちたく無かっただけ”という事になる。
組織の身内に見られたくない…というのは、やはり信用出来ない男という事には違いない。
「人間の発明品には常々興味があるのだよライドウ」
「成程、昔とお変わり無い御様子で。人間への造詣の深さには感嘆致しまする」
「君は更に“人が悪く”なったな…背負う影が一層濃くなったのが視えるぞ」
前後で交わされる応酬に、俺は入る余地も無い。聞き耳という訳では無いが、黙ってそれを頭に入れる。
俺よりもライドウの方が、堕天使と近い事は明白だ。
「人修羅の居場所がすぐお判りになるのですね?」
「私の立場を理解しているだろう」
「そうで御座いました、其処等一帯に眼があるにも等しいですねえ…悪魔に一声掛けて視覚を借りれば早い」
「借りるまでせずとも、この狭さならば聞くだけで足りてしまう」
「己で歩くのがお好きな事で、フフ…矮小な人間共の世界は愉しゅう御座いますか」
いつもの哂いを浮かべて、口調と裏腹にずけずけとモノを云うその不遜な態度。
隣に座るライドウに、逆に俺が冷や冷やしている。
暮れてきたのか、前の席から刺す陽は茜の色に変わってきている。
ルシファーの黄金の髪が燃えるように光る。こうして見れば麗しい異国の青年だというのに。
まあ、そんな事を云い出せば、隣のライドウだって見目だけは容姿端麗としか云い様無い。
「さあ、憶えたかね」
そう唱えると、ブレーキがかけられて車体が緩やかに止まった。
「降りなさい」
続けられる命令に、俺は「はい」と答えていいなりに動く。
ライドウはといえば、遮光カーテンを薄く指で退け、外を確認してから扉を開いていた。
ああ、此処に差が出るのか…確かに俺は無用心なのかもしれない。
即座に開いた扉から降り立った俺は、沈む陽を見て、其処に浮き彫りになるシルエットを眺めた。
何だ…教会…だろうか。
「何処か分かるかな?矢代」
共に降りたルシファーが、俺にゆったり微笑んで問う。
当然分からないので「いえ…」と、小さく被りを振れば、突如背後で笑い声がした。
振り返ると、ライドウが…口を開いて腹を抱えていた。さも、滑稽と云った調子で。
「方角と位置関係から、まさかとは思いましたが、そのまさかで御座いますか、閣下…ククッ」
光の加減だろうか、ライドウの眼が…酷くギラついている。
「君達が通れる“路”を、此処に確保したのだ、さあついて来なさい」
「…路?」
「そうだ矢代、お前は人修羅…完全な悪魔では非ず、そしてお前のサマナーも人間…そうそう簡単に魔界へは来れぬだろう」
魔界、という単語に、心臓が跳ねた。悦びからの動悸で無い事は確かだ。
此処に放置されたリムジンはどうするのか、いや、もしかしたらこの教会がルシファーの持ち物なのか?
私有地にどう停めようが問題無いとは思いつつ、堕ちた天使が教会を所有するのもおかしいだろ、と思う自分が居る。
周囲を見渡しつつ、人の姿のルシファーに追従する…此処は、何処なのだろうか。
「晴海だよ、功刀君」
背後からライドウの声がした、俺の心を読んだかの様なタイミングでの解答。
晴海…自宅から結構離れたというのは分かった。
そして、ルシファーは此処に“路を確保した”と先刻云った事から
今度から、此処に自分で足を運べという意味なのだろう。
「……ぅ、わ」
足を踏み入れた教会の中、思わず声を上げてしまう。
夕紅の陽が、ステンドグラスの色を中央の通路に注いでいた。
その、色とりどりの光の帯に、感受性が強くない俺まで溜息が出る。
「美しいかね」
「は、はい……」
「一度粉々に砕けたのだよ…その薔薇窓は」
うっそり笑うルシファーが、口元を白い指で覆いふふ、と零す。
生じた疑問を、とりあえず素直に出しておく。歴史の有りそうな威厳の聖堂、きっと戦前からの建造物だろう。
「砕けた…?天災とか…戦争の空襲時に、とかですか」
俺の疑問に、ルシファーが唇を開いた…が、それより先に返事が返る。
「ククッ……昔、烏が一羽、其処にぶつかってねぇ」
背後からの声、ライドウだ。薔薇窓の光の帯をその身に受けて、見上げて哂っていた。
「カラス?」
俺の訝しげな声に、今度はルシファーが返してきた。
「間違ってないよ、矢代。愚かな烏が一羽……ふふ………まあ良い、これはいつか烏に直接聞きなさい」
「はぁ……は、はい」
よく意味が分からないのに、俺は返事だけした。カラスに直接…って、悪魔ならともかく動物と会話は出来ないぞ。
それに、この面子の云う“時代”に、俺が存在しているのかすら怪しいじゃないか。
一世紀前の大昔の生物と、たった今会話出来る筈も無いし、この東京にもカラスなんて大勢いて困るくらいだ。
「月が満ちていれば通り易いのだが、此度はわたしから迎え入れるので影響も無いだろう」
祭壇に歩み寄るルシファー、振り返れば、先刻までの蒼い双眸が色を変えていた。
燃えるような赤と、深い青銅の様な翠。
「異界、というものを知っているか」
「イカイ…?」
「お前の主人はよく散歩する世界だが…ああ、そうだった…お前は悪魔が現世の住人となりしボルテクスに居たのだった…知る由も無い」
俺に手招きする堕天使、仕立の良さそうなノーブルなスーツの腕が揺れる。
其処に向かう俺の背後、ライドウの気配が鋭くなった。警戒している…
「矢代、お前に鍵をあげよう…魔界への」
「鍵…?」
視界の中に扉を探すが、魔界へ通じていそうなソレは見当たらない。
そんな俺に、クス…と眼の前のルシファーが笑う。
「鍵と云っても、物質では無い…お前の中に与えるのだ」
「…え、っ」
「詞を教えてやろう、わたしの」
云うなり、その黒い爪が俺を指す。
いや…刺した。
トン、と、胸元を貫かれる感覚。身体の中央から、するりと這い上がる謎の冷たさ。
「ぁ、ああぁあぁ」
意味不明な不協和音が脳内に流れ込む。何語なのか、それが意味を成す言語なのか、ただの音なのかすら解らない。
「此れを以って、祭壇の十字に祈るのだ、我が息子よ」
「あ………はぁ、っ……あ」
爪先から俺の血管を浸食された感覚だったのだが
実際にはつぷ、と肉を少しばかり、黒く薄い爪が割いていただけだった。
退いていく指先を、血色の悪い、しかし形の良い唇に持っていく堕天使。
そこからちろり、と覗く舌は、驚く程に赤い。
「其処のライドウと違って、随分と瑞々しい味だ」
濡れた爪先を舐めたルシファーは、ふ…と微笑みかける、困惑する俺に。
「今の詞に空気が騒ぐであろう。お前の魔の力を乗せて、路を開いてみなさい」
「俺……無理です…そんな事」
「わたしの息子が、己の城に来れぬなど…そんなふざけた話があるかな矢代?」
頸を掴まれ、くい、と上げさせられる。ライドウとも違う…威圧感。
ぞく、と背がしなる。反射的に口が謝罪を吐き出して、懇願している。
いつから俺はこんなに、ルシファーの支配下に成った?ライドウに使役されるソレとも、やはり違うのだ。
す、と俺から放された指先が、薔薇窓の天を指す。堕天使の指先が…遥か故郷を仰ぐかの様に。
「早く開いてみせてくれ」
「……は、い」
魔法をマガタマから引き出す様に、指先に焔を踊らせる様に、ただ先刻の詞を意識した。
天空を見る堕天使の眼が、ほんの一瞬細まるのを見てしまった俺は、嫌に動悸していた。
浅い知識の奥底で“天界から追放された”とか、そんな事を思い出していた…
「此処すら開けぬ様なら、先に進めぬだろうからな…我々から空は、遠い」
唇を開き、吐き出す人間のモノでは無い詞。俺も、自分で云っておきながら理解が出来ない。
堂内の空気がぐにゃりと歪んで、俺の周囲から融け出す感覚。
すっかり暗くなって、月明かりが差し込む薔薇窓の下。
「よく出来た」
俺の頭を軽く撫でるルシファーの手は、温かさも無い。
「来なさい」
「…は……ぃ」
少し息を落ち着けて追従する。並ぶ椅子に寄りかかるライドウが、俺が歩くその傍からついて来る。
しん、と静まり返る教会は、先刻ともまた違う静寂を纏っていた。
焦げた色の扉が開かれて、隙間から吹き込むのは秋の風…の筈だった、人間の世界なら。

「間違えなかった様だな、ほら、見なさい…彼処を」

冷たい空気、暗い闇の空、上に輝くのは太陽でも無い…しかし月ともまた違う気がする。
ルシファーの指す方角を見れば、ぼんやりと鋭利なシルエットが浮かび上がっている。
「いつかはお前が住む処だよ、矢代」
「…し、城」
「ケテルだ」
車は無い、周囲に佇むのは、少し寂しい荊の樹木。
「ティフェレトがすぐ前に在るが、城の外を出歩くのはまた次にしなさい」
「は、はい」
「特に、今の姿では身の安全は保障出来ない」
俺を軽く振り返るルシファーの、その口から出たティフェレトが何かすら解ってない。
地名か何かなのだろうか、とりあえず此処が既に晴海では無い事は確かで。
(悪魔の世界…)
擬態のままの俺は、只の人間に見える。此処が魔界という所なら、当然無事で済まないのはイメージ出来た。
「ティフェレトには酒場も有る、城の酒には劣るがな…多様な者と接触したいなら、此処の酒場で遊べば良い」
「お、俺は…も、申し訳ありません、酒は…」
人修羅が何を云うのか、と少し失笑される。予測はしていたが、虚しい。
「強い酒を喰らう悪魔衆も多い…虚仮にされるぞ」
「はい…」
「お前の主人に鍛えて貰えばどうだ…ふふ」
その言葉に、視線を少し後ろに送る。
黒い外套が闇の空に溶け込んで、寧ろ空気と一体化しているデビルサマナー。
「魔界の酒は、人間には毒なのでは?閣下」
「毒が呑める君には、さほどの問題でもないだろう」
「あぁ、そういえば強いのを煽った記憶が御座いますねえ、貴方様の御前で」
クク、と哂って相槌すると、一瞬俺を見た。その眼に睨み返してやる。
どうしてあんたは、そんなに畏怖しない。人間だろ、相手は悪魔の親玉だぞ?
“人間の範疇で云えば、それなりだろうか”
リムジンの中で聞いた台詞が甦り、胸を揺らす。イラつくそれ。
互いの何かを知っている、ライドウと、ルシファー。
対局の狭間、二人に踊らされる駒の気分。



『お前がしばらく通るのは“均衡の柱”のみでしょう』
ゴモリーという悪魔が、ラクダの上で顔色を変えずに淡々と告げる。
女性の形に、顔を翳らせるベール。金髪の少年の傍の老婆や…車椅子の老人の傍の淑女を思い出す。
『閣下に感謝なさい、人間に解り好い形で、路を敷いて下さったのですからね』
「…俺を悪魔にしたいのに、人間の形式に寄せるんですか」
既にルシファーが傍を離れたからか、俺の言葉に嫌味が奔るのを自覚する。
この女性悪魔が、あの朽ちた教会からケテルへと運んでくれた訳だが、半分強制だ。
今後来る時には、こうして来い、というレクチャーのつもりか。
『人修羅、お前は確かに此度は生き永らえた…其処なる人間の助力を得て、ですがね』
ベールの隙間から俺を居る眼差しが、鋭く光る。鮮烈な蒼色の纏物が揺れ、指先のしなるソレを握り直す。
『錆びた剣は不要…勿論、実戦に使えぬ飾り物も要りませんのよ』
ラクダの出っ張った横胎に、握られた鞭がぴしゃりと打ち据えられる。
苛立つ主人を乗せたラクダは息を荒くしたが、鞭を携えたままの指に頭を撫でられ、すぐに機嫌を直す。
そんな悪魔の畜生に…反吐が出そうだ。
『良いですね、人修羅。閣下を落胆させぬ様になさい』
「俺は、閣下に許されて人間の世界に居るんです、あっちでの一挙一動に…何かを求められても、困ります」
『…ほほ、そうですね…人間界で“ままごと”をしているのでしたねぇお前』
城の中庭、噴水の傍を通過する俺とゴモリーの間に…決して穏やかとは云えない空気が流れた。
薄く霧を纏った薔薇園を抜けるまでに、俺とゴモリーは幾度睨み合ったろうか。
ルシファーの側近なら…尚更、俺を勝手に駆逐する馬鹿じゃないだろ。
こんな事を思って、未だに擬態を解除しない俺は、やはり浅はかなんだろうか…
解除するにしろ、肉を裂かずに済ませるにはライドウの手が必要なのだから、要求されるまでは、しない。
白い眼で見られようが、人間の姿で闊歩してやる。悪魔の城を。
大丈夫、殺されはしない筈…
『あのデビルサマナーの方が、余程悪魔らしい事』
ゴモリーがベールの隙間から投げた視線は、背後に一瞬向かった。
ライドウは、フ、と微笑み返すだけで、何も云わない。
石造りの廊下を歩くと、有象無象が左右に割れる。ゴモリーの地位が上というのか、それとも…
異端の俺を、じろじろと眺めているのか。人間に使役される半人半魔を。
『さあ、謁見の間にこれより入りますが…』
ひたり、と止まったラクダの背で、ゴモリーは俺を見下ろす。
『その姿で宜しいのです?人修羅。閣下も他も、皆、お前に合わせる事はしませんよ』
背後で、ライドウのヒールの音も止まった。俺の出方を待つ周囲の空気に、胸が締め付けられる心地だ。
いいんだ…これで。
「ええ、結構です。他の悪魔が本来の姿なら、俺も本来の姿で出ます」
恐ろしい、に、決まってる。
でも、開かれる重い扉の向こうに、どれだけの悪魔が居ようが…嗤われるだけ、だろう?
俺は……ルシファーがようやく堕とした、剣…なのだから。突然折られる事は無い。
俺は、まだ、人間で、此処に居る。まさか、処分の為に呼んだ訳でもないだろ…
『見目の割に、強情ですのねえ…それとも、先見の明が一切無いのか』
「何を云われようが、許される間は、俺は人間のつもりです」
冷ややかなゴモリーの眼は、何処か笑っている。
『閣下のお傍に連なるのが、このゴモリーでなく…お前になるその刻が楽しみですねぇ…ホホ』
華奢な指で開かれる扉、奥から感じるのは、先に城に入っていったルシファー……の筈、だが。
呼吸が途切れて、息が詰まった。魔力の圧が既に有る。
『ようやく来たか、そう広大でも無い筈だろう、ゴモリー…寄り道しなかったのか』
唇という器官から以外に、脳に、悪魔の己に呼びかける様な…声。
擬態を完全に解除した証拠だ。
『いいえルシファー様、貴方様のお好きな薔薇園を少しばかり通って参りまして』
『それは寄り道とは違うのか』
『少しくらいは案内しませねば…ほほ…人間の、それもごく一般の出では、此処は広すぎましょうぞ』
ラクダを撫でて、ルシファーに微笑むゴモリー。
(…翼が)
あの、ノーブルなスーツではなくて、背中から拡がる…六枚の影が。
威圧感だけでなく、滲む魔の力が、違った。
アマラ深界の奥底で、あの…あの存在に俺は…飛び掛ったというのか。
(馬鹿、だな…)
あの時の記憶がじわりと甦り、真っ赤な景色がチラついた。
『もっと此方に来るのだ、矢代』
石柱の隙間、ぼうっと差し込む翳りは窓でもあるのか…目立った灯りは見えないのに。
ブーツで歩めど、音が無い。床に吸われている。
堕天使の声に云われるまま、玉座から立っているその光源に寄る。
自ずとやんわり発光するその身体、翼は特に煌びやかに、しかし優雅に空に拡がっている。
高い天井の、天が見えない…闇が下りて来る様な空間の広さに、果たして此処が屋内なのか分からなくなってくる。
『久しいな、人修羅。いや、ヤシロと云ったか』
はっ、とその声の方を視線で追えば、暗闇からのそりと這い出す巨体…ヒトの形はしている、が…
『何だその眼は…はは、さては貴様、すっかり忘れているな…前の時もそうだったのだ、おかしな話でも無い』
弛む腹を震わせて、髑髏の頭を撫でさする太い指…何かと思えば、杖。
足腰が悪そうには見えないので、恐らく魔術的な用途の。
『ベルゼブブ、人修羅は人間の世に転生して間も無い。少し記憶が薄い』
『ルシファー様、こやつ、毎回毎回薄らいでいるでは無いですか…過去の記憶がいつかは駆逐されるのでは?所詮ヒトの肉体だ』
薄暗い中、血色の悪いその肌に布切れの様な毛皮を纏っている。
ベルゼブブ…それとなく思い出すのは、もっと違うシルエットだった気がする。
『相変わらず棒の様な体躯、魔力が高くあろうが、それでは苗床には少々頼り無い』
「い、っ」
杖の先をす、と振るうベルゼブブ。その先から何も見えないが、何か圧でも発されたのか、俺の臀部にびしりと衝撃が奔った。
かあっ、と一瞬恐怖と血が昇ったが、こんな上級悪魔の中で下手に動くのも不味い…
『よくよく見ればあの紋すら無いではないか貴様、本当にルシファー様の剣となる意志が有るのか?』
失笑するベルゼブブに、俺の傍から追い討ちをかける声。
『ベルゼブブの云う通りだな…矢代、少しは本来の姿を我々に見せて、安心させておくれ』
ルシファーが、薄い羽衣の様な着衣を舞わせて、俺の襟首をそっと掴む。
薄手のジャケットのフード。端にジップが付いたそれをくい、と引かれ、寒くなる項。
「か、閣下、本来の姿は」
『お前にとっての本来の姿が、ヒトと云いたいのか』
ぐぐ、と更に引かれ、よろけてルシファーにぶつかりそうになるのを踏み止まる。
『人修羅、周囲の者も見たがっているのですよ…カルパに行かなかった城の者は、噂でしか聞いておりませんの』
ゴモリーが、口元をベールで隠してホホ、と嗤う。
周囲、という言葉に意識すれば、ようやく感じた。
(囲まれてる)
ライドウはとっくに気付いてたのだろう、動じずに、ただ俺等から少し離れて、窺っている。
どういう神経をした人間なんだ…本当の人間は、あんたしか居ないぞ、この空間。
遠くの燭台の灯の様に見えるソレ等は、無数の悪魔の瞳。
『諸君、聞くが宜しい。人間の纏い物をしてはいるが、この者こそが待ち望んだ我等が剣……』
「閣下!俺、今している擬態は…!」
勝手に進む展開に、俺の言葉は無視される。
『脱ぎなさい』
「ぬ、脱いでも…俺、その」
『帰り道、襤褸切れを纏って人間界を闊歩したいのなら、わたしがしてあげよう』
微笑む堕天使。待ち望む周囲、それが賛美の為か嘲弄の為かは、解らない。
それでもざわつくMAGが、俺に教える。

 はやく ほんとうのすがたに もどれ

「俺はまだ、っ、半分人間で…!」
嫌だ、こんな形で晒されるなら、いっそ悪魔の姿で此処に入れば良かった。
胸と臍が痛くなる。張り詰めた緊張で、身体の末端が熱い。
この擬態の呪いを正式な形で外せるのは、ライドウ、あんただろ…
(そう、ライドウの、デビルサマナーの所為だ)
俺がそこの人間に、使役されているからこんな目に遭っているんだ。
そう、たった一言云えば良い。“これを外せ、ライドウ”と。
そうすれば俺は、情け無いながらも人間としての尊厳を保てる。
(ライドウ…あんたの、あんたのやり方の所為だ、こんな恥ずかしいモンで封じやがって…ッ)
擬態を未だにまともに出来ない俺を、棚に上げて責める。そんな事は分かっている。
自分で脱ぎたくない。自分で悪魔になりたくない。
ライドウに脱がさせれば良い。ライドウに悪魔にされたら良い。

全部、あの非道に押し付けてしまえ。
普段の奴の仕打ちに耐える俺には、この程度許されても良い筈だ。

(ライドウ…っ)
ルシファーの指先がジャケットを引き裂くその前に、俺は後方のライドウを見た。
暗闇に融け込む外套。やはり同じく暗い学帽の影から、薄っすらと俺を見つめる眼の光。
闇の色、ボルテクスで俺をずっと射抜いてきた、あの……
(あいつ…哂って、いる…?)
唇の端を吊り上げて。この空間に、まるで俺と己しか居ないとでもいうその真っ直ぐな眼。
その仄暗い双眸に映るのは、懇願の眼をした俺なのか――…

“早く、云って御覧、人修羅”

聴こえる、読唇でも読心でも無い、それなのに、あいつの声が。

“はやく僕に助けを求めて御覧、功刀君”

ぞくり、と這い上がる不埒な感情。此処に居るすべての中で、今一番、葛葉ライドウが…悪魔に感じた。

誰が
誰が助けを乞うか

「閣下、御手を外して下さい」
するりと唇から抜けた声、妙に冷静になった俺の声だった。
ジャケットの合わせ、じり、と其処のジッパーを引き摺り下ろす。
開いていく隙間から覗いたカットソーの襟首に指を掛ける。
爪先で、その襟を薄く裂いたなら、一気に下に引き裂いた。
息を呑む周囲の空気に、ルシファーがひそりと笑う。
『ほう、なかなか洒落た魔の装身具だ』
「…本来の姿を維持する為の物、です…」
上半身を、いくら薄暗い中とはいえ、晒すこの羞恥。赤黒い石を携えた金属が、俺の肌に噛み付いている。
悪魔共にピアッシングのセクシャリズムの概念が有るのかは謎だったが、そこは最早関係無い。
俺が、ただ恥なだけだ。
でも、ライドウに助けを求めて、これをどうにかして貰う…そんな光景を晒すくらいなら…

『アレは何だ』 『黒き紋様が拡がる肢体と聞いていたのに』 『呪ワレテイル…?呪力ヲ、アノ飾リカラ感ズル』

ひそひそとさざめく周囲の星がチラつく。俺の身体を凝視する複数の眼。
『矢代、しかし此処は我等が城…お前の今の理念など、喰い殺されてしまうぞ』
ルシファーの指が、俺の項からゆっくりと胸元に落ち……剣の形のピアスに触れた。
『成程…擬態とは云え、能力もやや抑制されるのか。どうりで魔力の震えを感じない』
「…ぅ」
黒い爪先は、俺の先端をこねくり回す。
『この姿は少々危なっかしい』
「あ、っ……ぁ」
ぷっくりと脹れる胸の其処が、黒い斑紋が無い所為で充血している事が見てとれる。
最悪な身体の反応に、脚がふるふると震えてしまう。他意は無いのか、悪戯なのか。
おぞましい声が出る、そんな自分の喉を絞めてしまいたくなる。
『城に慣れるまでは、なるべくお前の嫌う姿で居なさい』
「ひあ、ッ!!」
ぐずり、と引き抜かれるピアス。炎瑪瑙が瞬間輝き、肌を裂く。
強制的に外されたソレは、俺を痛めつけつつ堕天使の掌に納まる。
痛い、でも、見られつつ自分でやるより、マシだ。
「は、ぁ、はぁっ…あ、ぐぅ…っ」
塞き止められていた肌の上を、蝕む黒い憎悪。
『見憶えの有る姿に戻ってきたな、しかし相も変わらず、我が子等を産み付けるにはか細い、肉が薄い』
ベルゼブブが笑いつつ、のそりと俺の傍に寄る。
ルシファーの顔を一瞬窺うと、その太い指がもう片方の先端に…
『早くあの時の姿に成らぬかヤシロよ…!』
「ひ、っ!!」
堪らず、ベルゼブブを睨み上げる。至近距離から見た悪魔の眼の奥底から感じる魔脈…
項が熱い。髄から引きずり出される感覚。
(この悪魔、まさかあの時の)
『黒き肌から白くわらわらと食い破り出でる子等を見て…はは、久々に疼いたものだ』
俺に蛆を湧かせた、蠅の王だ。
ようやく記憶と一致して、あの瞬間を、汚らわしい奴の術が脳裏を巡る。
胸に触れる指を跳ね除けようと、俺は腕を閃かせた。
「触るな蠅野郎ッ!!」
振り上げた手首にヒリつく痛みが迸り、ぐぐ、と何かが締まる。
その紐の様な先端を視線で辿れば、俺の背面からビリビリと揺れて繋がる…鞭。
『ルシファー様の御前でありますよ人修羅、無粋な真似はお止めなさいね』
首で振り返れば、やはりゴモリーだった。咎める割に、嗤っている。
後ろに引かれる腕は上体を仰け反らせる。まるで胸部を突き出すこの姿勢。
『はは、ゴモリーよ、些か手荒では無いのか貴様』
『擬態しているだけですのよベルゼブブ殿。この者、その蟲を飼う胎では何を考えている事やら……半身は悪魔だけあって、心は読めぬのが惜しい事』
『…魔力だけは確かだ、先刻睨まれた瞬間、眼が煌々と光りおったからなこの童め』
堕天使と対照的に、爪も無いその丸っこい指先が、もう片方の剣を掴む。
細かい造作が難しいのか、金属だけを掴むなんて事は考えてない様子で。
「んっ、んんっ!痛ぅッ…や、ヤメ――」
肉芽ごと潰しそうな勢いで抓られて、悲鳴を噛み締めつつ空いた腕に力を篭める。
指先に熱が溜まった瞬間に、その脳天にぶちまけてやりたい衝動が生まれる。
俺の中の破壊の欲望が、それこそ、蛆が湧く様に。
『燃してみるか?ヤシロ、その与えられし悪魔の力で』
ずりゅ、と俺の胸の先端を引き裂きながら、二本目が抜かれる。
するすると伸びる黒い憎悪が、指先に集う。臍の戒めを、自らの指先で引き千切る。
既に沸騰している俺は、とうとう悪魔の自尊心を選んだ。

周囲のMAGがさざめく
どよめきの中
もうどうでもいい
ぶっ殺してやる

「触るんじゃねえ手前等ぁああああ!!」
ディスクタイプの血塗れたピアスを投げ捨てて、その指先にたなびかせる焔。
熱い項に溜まる熱、フードを押し退ける忌々しい角を感じて、更に苛々血が滾る。
『ルシファー様!っ、こやつっ――グ!?』
ゴモリーが引き絞る鞭を、手首を捻り指先で掴み、そのまま引きずり込む。
「ぅ、ぉおおおおおッ」
雄叫びを上げれば、周囲の星々が一歩退くのが判る。あまりに久しい術に、喉が引き攣りそうだった。
俺と繋がる鞭に引っ張られるまま、宙を舞ったゴモリーの影。
そのまま床に叩きつけてやろうと、括られたままの腕を今度は逆方向に躍らせた。
すれば、不快な羽音が間を掻い潜る。
『見た事かゴモリー!ははは!久しい感覚に翅が震えるぞ…!』
ゴモリーの身体を、宙で掬う様にして巨体が跳んでいた。急激に軽くなった俺の腕先、ぶら下がるのは千切れた鞭の紐。
思わず舌打ちし、手首で熱を孕むそれを急いで解く。
(とりあえず、間合を)
数歩駆け、宙返りつつ背面を確認し着地すれば、あのえげつないシルエットが空より舞い降りる。
『潔癖という特徴は、ボルテクスの頃より確認済みでしたけどね』
『触れた折にはこの形態でも無かったというに、よもや拒絶されるとは』
『早く降ろして下さいなベルゼブブ殿、流石に私も良い気分とは云えませんのよ、その御姿』
『は!揃いも揃って無礼な奴等め…』
ラクダならぬ、蠅に乗るゴモリーがくすりと嗤いながら床に着地する。
ふわりと靡くベールを指先で整え、埃を掃う優美な仕草。
『ルシファー様、如何なさいますか?お望みの姿はお披露目が叶った事と思われますが』
淡々と唱える彼女に、何も動じていない堕天使が抑揚も無く返答する。
『そうだな、ふふ、わたしに牙剥いた時程では無かったが…元気そうで何よりだ、矢代』
俺は姿勢を低く取り、視野に捉える。
呼吸を落ち着かせろ、次に備えろ、此処に味方は居ない。
『皆の者、今しがた解ったろう…これが、わたしの息子だ。この城に新たに住まう、仲良くしてやってくれ…ふふ…』
背後から気配を感じたら、すぐに焔を纏おう。
悪魔の“仲良く”は、騙し合いだろ?誰が、誰が染まるか。まだ死ねない。
「…閣下、俺は……」
感じている、全ての悪魔に歓迎されていない事くらい。
「俺は、完全な悪魔じゃ、ないです…」
叫んだつもりが、意思表明のつもりが。縋る様な声音になって、空気に消えた。

人間です、と、どうして云えない、誇れない。
それは、此処で云う事の恐ろしさでは無くて……
自信の、無さなんじゃないのか。

『そうだな…少し性急過ぎたかな、悪かった矢代、お前が潔癖という事を忘却していた』
翼を畳んで、悠然と微笑むルシファーが、す、と片手を仰がせる。
それに反射的に身構えたが、何も衝撃は無い。
『まだ必要だろう?ライドウ』
ぎょっとしてその声の指す主を見やれば、ルシファーと同じく、騒ぎに動じず佇むライドウ。
そして、同じく片手を空に翳している。
「そうで御座いますね、肉より外された瞬間に斑紋が伸びておりましたから、自力の擬態までは遠い事でしょう」
『ふふ、先刻も君は眉一つ動かさなかったな』
更に手を振る堕天使、ライドウもそれに合わせてもう片手を翳す。
「貴方こそ」
『意外性も無いからだ』
ライドウが両手を翳した後、堕天使が三度目を放つ。
『わたしの思うまま、動いてくれているよ』
ライドウの指先、受け止めているのは、鈍く光る金属。
(あれは…)
血塗れのソレは、先刻まで俺の胸を貫いていた二つのピアスだった。
受け止めた箇所は離れている。堕天使め、きっと意図的だ。
ああ、ライドウは指で三つ目を受け止めれない。
堕天使の黒き爪先の軌道を読めば、ライドウの顔目掛けて投げていた。
てっきりあいつが顔を背けるかと思い、俺は凝視する。
それが好奇なのか、不安なのかは、自分でもよく分からなかった。
「………クククッ」
静まり返る闇の間の中、此処ではただ一人の“人間”という存在が、哂う。
「それはそれは…つまらぬ茶番でしょうに閣下…」
どこかくぐもった声音。歪む唇が、薄く開く…
ライドウの、紅い舌が其処からするりと伸びる。
顔を背けなかったあいつの舌先に、鏡のピアスが濡れて輝く。
(口で受け止めやがった)
その冷たい声と金属の湿った輝きに、俺の指先の熱はいつしか治まっていた。
何故か、悪魔的な殺伐とした衝動は、俺の中で鎮まっていた。





「広いではないか、良かったねえ功刀君」
通された部屋から給仕の悪魔達が消え、僕と人修羅だけとなった。
城の一番高い位置……監視してるのか、されているのか。人修羅の為の、部屋。
堕天使は、やはり過保護だ、という事は解った。
僕ならばあの場で、全ての魔具を自ら外させる、理由を与えずに。
挑発の如く手を出すから…あんなにも軽々しく三つ目を解除してしまったのだ。
悪魔の所為にして、人修羅は擬態を解除したのだ…
「つまらないね」
呟いて、椅子に腰掛ける。大変座り心地の良いクッションと生地。
「何がだ」
「へえ、これまた豪奢な椅子だ…金華山織の椅子生地に、カブリオールレッグ」
「おい…」
「マホガニーかな?僕の部屋の椅子もそうだよ…フフ、磨くほど艶が増す、良い素材さ」
ぐったりした人修羅が、溜息のまま向かいの椅子に腰を下ろした。上着の隙間から、中に着た衣服が見え隠れする。
引き裂かれたその隙間から、更に白い肌が見え隠れするのだ。
「随分と人間臭い部屋だねえ?思わぬかい?」
「…どうでもいい…俺の家は、此処じゃないんだ」
「おやおや可哀想に、折角ビフロンス伯爵が用意してくれたのにねえ」
「誰も頼んでない!」
だんっ、とティーテーブルを拳で叩く人修羅。上に行儀宜しく並んだ茶器が鳴る。
此処まで案内した悪魔は、ボルテクスのアマラ深界で邂逅した“ソロモン72柱”の魔神の一柱。
人修羅が知らぬ内に…僕が一時的に取引した相手だ。
「何だよあの悪魔…俺に纏わりついてきて…っ」
“カルパの最深部まで人修羅を誘う”という依頼を成し遂げた。
つまり、あの時既に、僕は人修羅を売っている。
「崇拝しているのさ、君をね」
「この城で俺を崇めたら、それこそ失笑されるんじゃないのかよ」
フン、と自嘲する人修羅が、ちらりと背後を気にかけた。
部屋の説明をする伯爵の嬉々とした一挙一動に苛々していた割には、利用するつもりらしい。
「何がお披露目だ…俺を暴れさせたかっただけなんじゃないのか、悪魔ん中で」
上着をするりと脱いで、椅子から立ち上がる人修羅。じろり、と僕を睨む。
僕は脚を組んだまま、此処では無闇に召喚すら出来ぬ胸元の管を撫でていた。
いくら好戦的な僕の仲魔とて、この城の空気は重いだろう。満足な働きが期待出来ぬなら、MAGの消耗は抑えたい。
「…あんたは、怖くないのか」
流石にこの城では恐怖するのだろうか…悪魔の身なれば例外無く。使役悪魔も、君も。
「フフッ…恐怖……?勝てるか否かの算段はするがね…それは畏怖に非ず、警戒も同じく」
「やっぱ人間じゃないな…どういう生き方してきたんだよ、外道」
吐き捨てて、つかつかと仕切りの方へ向かう後ろ姿。その項に、黒くしっとりした角が生えている。
黒々と艶めくマホガニーの…磨いだアームの様な。
つい、撫ぜたい衝動が働くその控えめな光沢。
「功刀君」
「煩い、少し休ませてくれ」
間仕切りの細工はピアスドカービング、そのアンティークな向こう側に消えた人修羅が、着衣を仕切りに掛ける。
此処が魔界の城の一室という事すら、忘れてしまいそうになる。まるで上等の客室だろう。
用意された猫脚のバス・タブの内に張られた液体は、ソーマ。とんでもない代物だ、流石は魔帝の息子という立場。
「文句しながら君は水浴びかい」
「有る物は使う、あんたが悪魔を道具みたく利用するよりマトモな挙動だろ」
「フフ、君の嫌う“悪魔”を、召喚主の僕が如何に動かそうが勝手だろう?」
ビフロンス伯爵は、ただ人修羅が過ごし易ければそれで良いのだろう。
あの頭蓋の洞から、崇拝せし人修羅を眺めていられるなら、人間に未練がある存在でも構わぬのだ。
…そう、定まり切らぬはルシファーだ。あの堕天使は…何処まで、何時まで赦しているつもりなのだろうか。人間への執着を。
(僕が彼を全き悪魔へと唆すまで、自ら動かぬつもりか)
ク、と喉の奥から哂いが零れた。
あの堕天使は“人間に”あくまでも悪魔へと先導をさせたいのだろう。
人修羅が、自ら力を欲する…その欲望に魔の性質は応じる。
カルパの奥に導く様に、自ら踏み入れさせた様に、彼自身に望ませなければならぬのだ。

人間に、人間を辞めさせる手管を弄させようとする。
それは、あの堕天使が…“人間嫌い”であるから、と思われる。

「利用するにはね、よくそのモノについて、知る必要があるだろう?」
呟き、新世界…晴海の教会…次々に浮かんでは、消えた。
一年も前だろうか、ルシファーにとっては、ほんの一瞬の刻だったろうが…
大正という時代、共に過ごした事を再度、脳裏に浮かべれば、僕の胸の奥からぞわりとMAGが揺らめき立つ。
神を討つ、と豪語するその眼は、何を見ている?
憎き人間に共闘を提示するのは、人間にそれをさせたいから、ではないのか…
(親殺し、の汚名を被りたくないのでは無いのか…ルイ)
流石上等の椅子。腰を上げようが、悲鳴を上げぬ。
人修羅の方へと歩む、敷物が僕のヒールの音を喰い、部屋には水音だけが目立つ。
「君も然り」
「!!」
音も無く仕切りを素通りし、ソーマに身を沈める人修羅を真正面に捉える。
突然の事に応じきれず、水面にて硬直する人修羅…
斑紋が、与えられる魔脈の活性と癒しに、幽玄に輝いている。淡い翠と蒼の中間、彩度を落せば緑青の錆色。
「…覗きかよ、ボルテクスの時からそうだよなライドウ…あんた、影からコソコソ見てやがる、いつも」
「云ったろう?まずはよく知る事、と」
「来るな、寄るな、この…っ!」
僕は浴槽の端に指を掛け、水面に前のめる。寄るだけ、君は離れる。
水面を揺らす彼の右手首に、薄く痕が残っている。ゴモリーの特殊鞭だろう、人修羅だから痕だけで済んでいるのだ。
ソーマに濡れても癒えぬ所を見ると、やはり厄介な武器だと思われる。
「何故だい?」
「MAGならこの風呂で足りてる、あんたの助けは今要らない」
「へぇ…それなら、その眼、お止めよ」
「え?…なん、っ」
「この眼だよ、功刀君」
その、赤い手首を上から握り締め、上に吊り上げる。呻いた君はしかし、僕を睨み上げる。
懇願とは違う、射抜く様な鋭いそれ。出逢った時から見慣れた、それ。
「…そう、それで宜しい」
いつもの眩い黄金の眼に戻ったのを見て、僕の胸中の熱はいつしか治まっていた。
何故か、人間的な鬱屈とした衝動は、僕の中で鎮まっていた。
「全く…寄るな触るなと喚き散らして、同情でも引く癖がついたのかい?ボルテクスから思っていたよ、ククッ」
云ってやれば、震えだす右手。
ぱっ、と放してやれば、そのまま落ちて水面を叩くと思ったのだが――
「同情どころか!駒にする為…それだけの為に手を差し伸べる、あんたが!悪魔だろうが!!」
振り被る人修羅の腕、斑紋の光る拳が僕の顔に突き出される。
「フ、ッ…」
「…ぐ……ッ」
「フフッ」
掌に血を集める様にMAGを引き寄せ、僕はその激を眼前に受け止めた。
それなりに本気だったのだろう、人間に受け止められたのが意外だったか、覇気を消失させた人修羅の視線が惑う。
馬鹿め、そうしていつも惑うからだ。
「何かの所為にしなければ無理かい?」
はっ、と金色の眼を見開くその眉間に、空いた手の拳固を叩き込む。
「――ぁ、があッ」
一際大きく水柱が立ち、光るイキモノがソーマの水底に沈んだ。
撥ねたそれが学帽のつばを濡らし、雫が眼の前に垂れる。
「ククッ…それはね、自身の行為に迷いが有るからさ、功刀君」
少し指が軋む手で、くい、と濡れたつばを上げる。今だ浮上せぬ人修羅を、上から見下ろす。
「人間の尊厳を護りたいのならば、君はいつまでも人間に戻れぬだろうねえ」
ざぱ、と黒髪を滴らせ起き上がり、ぜえはあと忙しない呼吸で空気を貪る君。
「っぐ、がはっ、あ、はぁ、はぁっ」
少し呑んだのだろう、咳き込んでいる。その呑んだ液体すらソーマな訳で、恐らく無害だが。
はりついた濡れ髪の隙間から、金色が…
嗚呼、やはり睨んでくるその眼が、僕は気に入っている。
「人間の精神棄てて人間に戻ったって、意味無いだろうが…っ」
「しかし悪魔へと心を捧げ堕天使に服従せねば、君の望む路は開けぬよ」
濡れそぼる前髪を額から払い退け、人修羅が叫んだ。

「あんたみたいな悪魔モドキの人間に成るのだけはゴメンだ!!」

学帽のつばから雫が一粒落ちた。
ぱたり、と僕の頬を撫でる様に、つう、と顎を伝う。

「…僕も、君みたいな人間モドキの悪魔……使役していて苛々するね」

視線が宙に絡み合い、どちらも肯定も否定もしない。
暫くの睨み合いの最中、思い出していた。
先刻の謁見の間で、僕を見つめてきた人修羅の眼…
何か疼いたのは、ボルテクスで…手を差し伸べた瞬間、僕を見つめたあの金色に似ていたからか。
殺意では無く…縋るかの様な…
「未練がましく汚れを嫌い、エゴイスティックに悪魔を殺す、己を正当化させたいだけだろう?」
「黙れ葛葉!」
斑紋がMAGを散らしながら軌道を描く。君が寄るだけ、僕は背後に倒れる。
靡く外套の内側、潜らせた腕の先には冷たい感触。腿に当たるホルスターからリボルバーを抜き構える。
アイアンクロウを避け、浴槽から上体を突き出し牙を剥く、そんな半人半魔を捉えたまま引鉄を引いた。

一発目、アイアンクロウで振り被ったその腕で受け、赤い血が迸る君。
二発目が飛んでいく首筋を、咄嗟に隠したその逆の腕。

片脚を床に滑らせ、低い姿勢で狙い澄ます僕は、人修羅の腕の隙間を瞬時に認識する。
三発目、隙間から覗く、その顔面の中心目掛け――…

「ひあっ!!」

焔で打ち消す事もままならず、背後に転倒した人修羅。
三発目の弾丸は、素通りして壁際の照明に命中した。
カシャン、と硝子破片が床に降り注ぐ音が響き渡り、そして空間は無音になる。
「それは、避けたつもりかい?」
リボルバーを右腕に構えたまま、左手で刀の下を探る。僕は此処に、もう一丁携えている。
里が寄越したホルスターを改造して、己の武器を増やした。その分身体への負担も増す訳だが。
「君ねえ、攻撃の用意をしながら後退し給えよ」
肩まで仰向けに沈んだ君を、立ち上がり覗き込む。勿論、両手に銃を構えたまま。
「情け無く背面に倒れるなぞ、滑稽だ」
ばすん、と水面に消える風切り音。
「ぅグゥッ!!あっ!アアッ!!」
水を切り裂いた弾丸が、人修羅の脚に、腕に、胎へと埋まる。
具象化した空薬莢が、赤い水面にぷかりと浮かぶ。
濁ったソーマは曇り硝子の様に、人修羅の斑紋をぼやけさせる。
「ねえ功刀君、聞いているのかい?返事は?」
「はぁウ、うううッ、ぐむ――」
丸みを帯びた浴槽の縁に、頭をくたりとさせた人修羅。
その悲鳴を上げる唇に、銃口を突っ込んだ。
「返事、し給え」
見開かれるその金色の怯えに、寧ろ失笑が零れてしまう。
君に今、返事が出来る筈も無い。そのまま喉を撃ち抜かれると思ったのだろう…痛みに耐える眼を、していた。
いや、別に撃ち込んでも、僕は構わないが。
「……クク、装填しなければ六発だ、そのくらい記憶しておき給えよ」
「んふ、ぁ…はぁ、はぁーっ…はぁぁ、っ」
ずりゅ、と小さな唇から引き抜いて、蹂躙を止めてやる。
「良かったねえ、ソーマのお陰で今のは帳消しさ…フフ」
ぐったりした人修羅の両脇に、その背後から回って腕を差し入れ、引き摺り上げる。
「ぅ……」
「ほら御覧、水面は真紅だというのに、君は無傷…化け物らしいねえ」
水で威力も半減した銃弾くらい、瞬く間に傷が塞がるのだろう。
その証拠の様に、肉から弾き出された弾丸が、薬莢と入り乱れて水面に浮かんでいる。
「斑紋も瑞々しく、立派な悪魔の見目ではないか…もっと精進し給えよ」
「…俺…は…そんな風に……生きてこなかった…」
「今の君は、誰が見ても人間とは云い難いね」
「ん、っ」
角の横から顔を寄せ、耳元に囁く。
「この姿で帰るのかい?帰りも車だとは、堕天使も云っておらぬが、ねえ…?」
「あ」
斑紋の黒に紛れる胸の突起を、爪先で嬲る。
「擬態も未だ出来ぬ、何処かの誰かさんは、道具に頼る他無い……フフ…」
「……っ…ぐ……ぁ…悪魔、ァ」
「それが頼む態度?」

あの場で散々他に弄らせて、挙句に僕から眼を逸らしたね。
何故、素直に僕の所為にしなかった?
僕を糾弾して、僕に魔具を外させなかった?

「そんなに僕に助けを乞うのが嫌なのかい……ねぇ?」
「ひっ…ん、の、変態、っ」
哂って耳を甘く噛む。歯を喰い縛る君が、突起を充血させる。
いよいよ金属を噛ませ易くなったであろう肉芽を、キリ、と摘んで云い放つ。
「ッ、はァ」
「もう一度訊いてあげる…人間の形で、家に帰りたい?」
「……ライドウ…ッ」
「ゴモリーの云う“ままごと”を、再開したい?あの魔具は僕の手にある…君の手では装着出来ぬよ?」
濡れた髪、薫る血と…滲む君のMAG。
ボルテクスで、泉に君を投げ込む時の、薫りだった。満身創痍の君を、担いでは投げ込むあの日々。
途中から、もう何やら可笑しかったものだ。
君の視線は、そう、いつだって僕を射抜かねばならない。
契約主の、この僕を。君を利用せしめんとする、憎いであろうこの僕を。
アマラの海で溺れ、路頭に迷う君を、縋らせる。甘美な気もするが、毒にも成り得る。
君の金色の双眸は、僕から平静さを奪うが…僕の眼に繋いで、導かねばならぬのだから、これは仕方の無い事。
ルシファーの傍に辿り着く前に、僕の眼を頼りに泳がせる、闇の中の一等星の様に。
「…つけて、くれ」
「何処に?」
「…む、胸と、へ、臍…に」
震える声…身体を触られるだけで、顰められる眉。悪魔を殺す時には、そんな悲愴な顔をせぬ癖に。
「宜しい…ハメてあげる、功刀君……ククッ」
恨みがましい金色が、僕の眼のすぐ傍で煌々とする。
「路はね、選べば迷うものさ……棘だろうが湿地帯だろうが、越えられる己に成れば問題は無いだろう」
「だから、って…人の道から…外れるのか」
「引き返す暇があるなら、進み給えよ。惑うのなら主の眼を見て…君は馬鹿の様に障害を灰にしていれば良い」
「あ…んたは……迷わないの…かよ」
「選べる路なぞ、用意されても居なかったからね。迷うなんて…フフ、解らないね」
取り出した金属を、再び君に噛ませると、ぷっくりとした其処から少し出血した。
呼吸も浅い人修羅が、ゆるゆると角を消す。緩やかに人間に変容していく…
「何もかも僕の所為だと喚き散らして、僕の眼を見ていれば良いだろう?」
「あんたが迷ったら…俺まで、迷うじゃないか」
「安心おし、僕は迷わぬ……今後もね」
太陽と月の人間界とは違う…カグツチのボルテクス。日輪が輝る魔界。
方向感覚すら奪う、その人外の世界では……僕が、君の灯火となり、導こう。
ねえ、だから、点火してみせ給えよ。
縋るあの眼で、責任を押し付けて。あんたのせいだ、と呼吸の様に叫び続けて。僕の眼に焔を宿せ。
悪魔達の眼…その数多の星の中に、一等強く燃ゆる此れに縋りつき給え。
お前を使役する眼は、此の双眸だけだ。

人間の尊厳なぞ、とっくに棄てたこの眼を見給え――





「やっべ、本当お前の所為だかんなオイ!」
ホームから抜け出す、雑踏は普段よりやや少ない。それはいつもと時間帯が違うから。
薄手のマフラーを首に巻いた新田が、学ランのポケットを探る。
「げっ、悠長にしてらんねーのマジで」
「何時」
「あと十五分で学校に滑り込む必要がありまーす」
折り畳んだ携帯を、すとん、とポケットに戻し、俺をジロリと疎ましい眼で見てくる。
「悪い」
「ったく、何だよ、どした?下着選びに迷ってた?寝癖が直らなかった?え?」
「下着なんて迷う必要無いし、これは寝癖じゃないって何度も云ってるだろ!」
とりあえず駆け出すが、隣の新田が減速していく。
「あーも、いいや、まだ祐子センセ居ないし……」
「おい」
「このままフケちまう?休校明けなんだしさ、精神的にまだ行く気になれねーって云えばガッコはOKするっきゃ無いっしょ」
「そういう問題じゃ…」
「出遅れたお前が云い訳してイイワケねーだろ、つって〜あは」
下らない冗談は毎度の事なので、念仏の様に聞き流したが。急に立ち止まる俺に、新田は怪訝な顔をした。
「そんなにイラっときた…?」
「……其処の」
「へ?」
「其処の裏路地、通るか」
俺の視線の先を追う新田が、怪訝な顔を変えずに振り向いた。
「妖しいショートカットじゃねえの」
「脇目振らずに通過すれば問題無いだろ」
「ホント、お前どうしたの?バイクでだってショートカットしねえ癖によ」
暗がり、陽の光も届かない路地。仕事明けで、眼の下に隈を作った夜の住人がちらりと居る程度。
集荷前のゴミ袋を、カラスが啄ばんでいる。
路面は何かの屑が散らばって、何とも云えぬ腐臭にも似た饐えた臭いが、風下のこっちに来る訳だ。
「そんな無理して出んくてもさ…まぁ、イイじゃん、二時限目とかからで」
「…俺はともかく、新田は出席に傷付けたくないだろ、進路も決めてるみたいだし」
「んな、別に…責任取れとか云わんし俺」
そんな気まずい顔するな、俺が嫌な気分になる。
家を出遅れたのは、ゴモリーに受けた鞭の傷を隠していたから…だとか、説明出来ないだろ。
今朝、膿んだ手首を切開して、ライドウに清めてもらい、縫われた。
呪いの一種なのか、放置すれば骨までいくものだったらしい。ライドウは哂って、針を俺の肉に通していたが。
(これで遅刻したら、それこそ無意味だろ)
縫い目を腕時計できっちりと隠す。
「嫌なら、俺だけで行く」
「ちょ、待てって矢代!寧ろお前だろが、こんな…濁ったピンクな路地をよ…平気なのか?無理してないのか?」
その、香水の残り香とゴミの腐臭が入り混じる、生臭い路に足を踏み入れる。
そう、此処を突っ切れば、十五分もかからない。
「少し眼を瞑れば、息を止めれば、一瞬だろ…」
そう、迷ってない、俺は。そう思い吐き棄てると、新田が背後から拗ねた様な声を上げる。
「眼ぇ瞑ってる間に何かにぶつかったらどーするよ」
無視して、歩みを止めずに。
「息止めてんの、苦しいじゃん」
無視して、呼吸もせずに。
「遅刻したって、お前らしくねー、とか…云わねえけど俺…」
ぐに、と踏みしめたゴミ屑の感触は、マネカタの泥山にも似ていた。
「俺の為みてーに云っておきながら、何考えてんの?」
「…何が」
いよいよ込み上げてきて口元を押さえれば、駆け寄ってくる新田。
「学校の規則破ろうが、故意でもねえしさ……寧ろ、こんな路選んだっつう事実の方が、お前らしく無いし」
背骨をさする指は、心配だろう…穿って見れば、同情。
「ムキになんねぇでよ…もっと軽く構えれば?こういう暗い路こそ、しっかり見ないと危ないぜ、矢代…」
ああ、見られたろうか。吐きそうなフリをして俯き、泣きそうな顔を隠した。
「おい、吐く?吐いちゃう?おいゴミだ、ゴミの上にしちまえ!紛れっから!」
アマラの神殿で、同じ笑顔で俺を罵った新田を思い出してしまっていた。
神殿の暗い床に呑まれたあの時、確かに集中出来ていなかった。あの神殿で、冷静で居れる筈無かった。
「……誰の為に、だと、思ってんだ」
「お、おい…走るなって!」
友達ごっこに、少しでも心地良さを感じていた俺が…
お前の為に、暗い路を奔った。あの時は、確かにそうだったんだ。
最終的に、教師との距離感調整の為だけの関係だとしても。
最終的に目的地が、俺の人間の尊厳や、記憶の為…だとしても。
あの瞬間は、お前の為に間違い無く。
(お前の…為…?)
そうなのだろうか、これは、もしかしたら錯覚なのかもしれない。
責任、というモノが変容した、自己満足なのかもしれない。
あの時、アマラの神殿で…お前の為と云いつつ奔ったそれさえも、俺の人間への郷愁がさせたというのか?

「お前が走れって云ったじゃないか!」

きょとんとする新田に、ボルテクスの時の叫びを今更ぶつけても、此処に光が差す訳でも無い。
吐きそうになりながら、泣きそうになりながら…悪魔になればいっそ、吐くモノも流す涙も無いと思った。
でも、それは嫌だ…此処まで来て、今更引き返せるか。
(…苦し…ぃ…)
次はあそこまで、と、眼星が欲しい、闇に在っても強く揺れる昏い輝きが。
あの、俺に向かってくる闇の眼が。
ライドウの様に、己で路を作れない俺は、やはり路頭に迷う。
黒い影の灯台が無ければ、俺は難破し赤い泡に呑まれ
誰にも見つけてもらえない深界の生物に成る他無いんだ。
少なくとも、今の俺では。
「ライドウ…」
小さくかすれた声で、恨みがましく呟いた。 これは、助けを求めているんじゃ、ない。ただ、星を捜しているだけ…

暗闇の中、あの眼を捜す癖が
ボルテクスの頃から、もう……


責任点火・了

* あとがき*
タイトルは態と。責任転嫁の“転嫁”部分を、此処の人修羅らしく“点火”に…
ようやく魔界に行ったので、今後は好きに出来そうです。晴海の天主教会を経由して行く仕組み。人修羅に鍵が与えられたので、ライドウだけでは行けません。この辺りはSS『汚点(後編)』を読んでいるとニタリと出来ます… 人修羅の不安と、責任の所在、を書いたつもり… 新田は基本善人、だからこそ後が痛々しい。

《ティフェレト》
セフィロトの樹においては第6のセフィラ。魔界の中央辺りに位置する、基点となる街。BARも有る。

《ケテル城》
セフィロトの樹においては第1のセフィラ。ルシファーの居城。西洋の城のイメージですが、やや造りは歪…薔薇庭園があり、シャンデリアの大広間があり、酒場もあるし医務室もある。SSで出てきた施設は、長編の此処にも殆ど備わってます。人修羅の部屋はとても豪奢で、ソーマ風呂が完備されている。

《均衡の柱》
ケテル、ティファレト、イェソド、マルクトからなる柱。

《ゴモリー》
ソロモン72柱の魔神の内で、唯一の女性。魔法の鞭を携え、ヒキガエルを従い、ラクダに乗っている。
あの喪服の淑女がゴモリー…らしいですが。とりあえずその形で長編も書いております。人修羅を正直馬鹿にしている。閣下がまあまあお熱なので、従うのみ。ライドウの事はかなり警戒している。

《ベルゼブブ》
蠅様、長編ではアマラ深界以来の登場。人間の形態は何故あんなにメタボリックなのか…いえ、痩せこけてても違和感ですが。 人修羅の事を苗床にしたいと、未だに考えている。ルシファーの配下にならず転生させられる人修羅を幾度か見てきた事もあってか、今回はいつもより進展していて少し愉しいと感じている。
余談で『蠅の王』というとウィリアム・ゴールディングの小説がまず思い浮かぶのです…『十五少年漂流記』よりも好み。

《マホガニー》
センダン科マホガニー属に属する3種の木本の総称。高級木材。現在では条約によって取引が制限されているので木材としては入手困難。作中のは、クイーンアン等…18世紀のイギリスの装飾様式の椅子のイメージ。黒っぽい艶のが好きです。骨董屋で買えたりします。

《金華山織(きんかざんおり)》
金糸・銀糸で模様を織り出した紋ビロード。壁や椅子のファブリックなイメージですが、西陣織袋帯なんかでも有ります。素敵な柄が多く、アールヌーヴォーな雰囲気が漂う感じ。