船上のメリークリスマス
透明なレンズ越しに見えるのは、着飾られた鮮やかなモミの木。
「お客様、如何でしょうか?」
店員の横からの声に、一旦外す。
「これで良いです」
色形さえ合えば良いのだ、だって、どうせ視えている。
目許が落ち着かないだけであって、視力向上は求めていない。
この間、堕天使にそういえば奪われたままだった眼鏡。
「今年は柄フレームが流行っているんですよ」
「学校で使うので、あんまり派手なのは…」
「最近の学生さんお洒落じゃないですか、眼鏡くらい許してもらえたりするんじゃないですか?」
「ケバいの嫌いなので」
淡々と返せば、営業スマイルで釣銭を渡してくる店員。渋茶色のカッターシャツの腕が、更に手先に躍る。
「これ、五千円以上お買い上げのお客様にお渡ししておりまして、会場は一階の生鮮売り場横のロビーになっております」
「はあ…有難う御座います」
「ハズレでもマスクとかポケットティッシュが貰えますので、どうぞお気軽に」
福引きのチケットだった。
購入したばかりの眼鏡の紙袋に、それをはらりと落とし込んで、店を去る。
たった一枚で渡された瞬間、残り九枚無ければ…と、考えた事に苛々していた。
(何がしあわせチケットだ)
得られた物は、悪魔にとっての品物ばかりだった。
俺の心を充たす筈も無く、しかしボルテクスでは役に立つ…日用品の様な物品達で。
一回の買い物の金額を小分けにしていた自分の守銭奴ぶりを思い出し、頭が痛くなった。
そう、元を辿ればこういう所からだ。買い物先の、スーパーなりショッピングモールの、抽選券。
日々の食品や生活用品を買っていれば、ポイントだって券だって貯まる。
「おかあさーん、サンタさんにおねがいしといてね!」
小さなサイズのコート、きょろきょろと見渡し、はしゃぐ声。
そんな子供と玩具売り場に来ている親、サンタにかこつけて、欲しい物を聞き出している。
善い子にしていたらね、と、きっと云い聞かせているのだろう。
何故毎日見ていないサンタに、俺の普段の素行が判るんだ、と、昔ぼんやり思っていた。
幼い頃、毎日見てくれていたのは…
もう、居ない。俺が焼き殺したじゃないか、魂を。
「おや、一枚ですか」
悪かったな、食品は殆ど買ってないんだ。
人間頃の様に食欲も湧かないのに、同じ量食べ続けるのは、精神的に疲弊する。
しかし、冷蔵庫に突っ込んでおけばおいたで、あの黒い居候が喰らってしまう。
「カラスかよ」
「え?」
「あっ、いえ……」
視線で促されるまま、チケットを渡したその手で、がらりがらりと引き回す。
朱色の多角形の箱が、ぐるりぐるりと廻れば…カラリと皿に転がる色。
レモンに近い金色は眼玉を思わせて、ぞくりと項に悪寒が奔る。
「お、おああ」
途端、まだクリスマスでもないのに鳴り響くベル。
周囲の買い物客が、こっちを見るので、思わず俯く。
「一等賞ですよ!!一等!い・っ・と・う!」
は?と、カウンター越しの表を見れば、確かに…金色は、一番上。
赤いサンタカラーな羽織を着た店員が、ベルを片手に薄い箱を取り出す。
浮かれる中年店員、赤い鼻はどちらかと云えばトナカイだ。
「オメデトウ御座います!!クリスマスにゃピッタリなプレゼントですよ!」
表に大きく掲げられた一等の項目。
堪らず困惑の顔をしているであろう俺は、正直に云った。
「あの、これ要らないです」
「何云ってんですかアナタ!彼女とかと行って聖夜楽しんできちゃいなって!」
「そんなの居ませんから」
そう返せば、禁句だったかと横に眼を逸らした相手。
「これ装置に戻して、五等にしてもらえたりしませんか?米60kgに」
「すいませんねえ、出た色の対象景品しかお渡し出来ない決まりでして」
「…ですよね」
「まあ、それまでに彼女作れば早い話じゃないですか!」
笑顔の店員の横っ面を一瞬殴りたくなったが、まさか人間相手にそんな野蛮な。
色々虚しくなって、結局景品を受け取った。
道中に換金ショップも無いので、鞄に突っ込まれたままの景品。
図体の広い箱ばかりがかさばって、スペースを圧迫している。
所謂、招待券が当たってしまった。
ビー・シンフル号とやらの、宿泊券……クリスマス期間、自由に使えるらしいソレ。
豪華客船として、最近晴海に停泊しているのは知っている。
運が良いのか悪いのか…どうして欲しいタイプの物が当たらないのだろうか。
学校の“マナー訓練”と称したイベントで、数日後には其処に赴くというのに…馬鹿馬鹿しい。
ちら、と見上げれば、曇り空。
だが、やけに流動し、近い…雲じゃない、煙の様な。
「……は」
そのたなびく流れの先を視線で辿れば、自宅の方向。
(何だ、火事?)
少し足早にスニーカーを動かし、提げたエコバッグのしゃりしゃりした音が足下から響く。
と、その根源を確認するなり、俺は荷物を落としそうになった。
俺の家のベランダからだ。
「…おい…っ!」
一瞬頭が真っ白になったが、可能性を考えつつ駆け出した。
どうしようか、放火?火事ならそれしか考えられない。
もし、放火魔がまだ居たらどうしようか。揉み合いになったら、思わず悪魔に戻ってしまいそうだ。怖い、避けたい。
門を通過し、玄関へ向かわずに横に逸れる。
何があっても良い様に、と警戒しつつ、ベランダに飛び出した。
「な…な…」
白い煙に巻かれた庭先、人影に怒鳴り散らす。
「何やってんだあんた!!」
草葉にしゃがみこみ、適当に敷いた新聞紙の上で七輪を眺めるライドウ。
網上で燻る秋刀魚が、ぐずぐず啼いている。
「ああ、功刀君遅かったではないか」
「ざけんじゃねえよ!煙っ…出し過ぎ、げふぉっ」
「この秋刀魚、養殖?随分と脂が垂れ落ちて仕方が無いね」
ふん、と鼻で笑って菜箸でひっくり返している。
文句を云うのなら、冷蔵庫から勝手に拝借するなこの外道。
『銀楼閣の屋上と違い、煙を気にしつつの作業…ちと面倒ではあるな』
「左様で御座いますね、蛮力の壁でも張れば煙が防げましょうか」
『ぬかせ』
秋刀魚に眼を爛々とさせるゴウトに、わざと扇子で扇いで薫りを送るライドウ。
猫の本能に逆らず髭をヒクヒクさせるゴウトの仕草に、馬鹿にした眼をしている。
「もっと気遣って焼け!煙で近所から苦情来たらどうすんだよ…!」
薄く開いた窓から、急いでリビングに駆け上がり、適当な皿を持ち出す。
網上からぱっ、と秋刀魚を移し、七輪の炭を確認する。まだ酷く熱そうだ。
「麦酒は?功刀君」
「そんなもん買って無い」
「だって買い物に行ったのだろう?」
「俺は未成年だし、成人したって呑まないつもりだ」
尻尾を振りおあずけをくらっていたゴウトの前に、皿を乱暴に置いた。
「冷蔵庫の中で腐らせるより、僕の胃に入れた方がこの魚とて浮かばれるだろう?」
菜箸で身を綺麗に解すライドウが、ニタリと哂い俺を見上げる。
割いた胎からずるる、と内臓を引きずり出して、舌先にそれを垂らす。
それを目の当たりにして、色々思い出した俺は顔ごと背けた。
「家の中ではすぐに煙が充満してしまうのでね」
「あ…たりまえだろ!万が一火災報知機でも鳴ってみろ、あんたのせいだからな」
「一般家庭にそんな設備があるのかい?」
「消火設備だと、家には消火器ぐらいしか無いけど、でかい施設とかなら水を散布するスプリン――」
って、何故丁寧に説明しているんだ俺。
時代背景の違いか、ライドウでもピンとこないのだろう。
はらわただけ咀嚼して、残りの身は全てゴウトにくれてやっている姿に、どこか納得してしまう俺が嫌だ。
「説明も面倒だ、勝手に調べてくれ……この七輪、押入れから引っ張り出したのか?勝手に人の家漁るんじゃねえよ」
「押入れねえ…クリスマス・ツリーが邪魔だった」
その言葉に、胸の奥底、カチンときた。
もうリビングに出す事も無いだろう、だってそれは俺の仕事ではなかったから。
「ふむ…確かに秋刀魚の季節も過ぎたかな。周囲はイルミネイションやモミの木で随分と賑やかしい…流石は宗教に縛られぬ国だ」
「クリスマスにどんちゃん騒ぎしたいなら勝手にしてくれ、俺はあんたの為にそういう事はしない」
「へえ、何ならしてくれるのだい」
すっくと立ち上がると、ヒールも相俟って目線が高いライドウ。
俺は首の運動がしたい訳じゃないんだ、この野郎。
「襲ってくる悪魔を…駆除する事だけだ」
「僕より弱いのに、よく云う」
クク、とひと哂いして、骨だけになった秋刀魚を摘み上げると、噛み始めた。
「ねえ、零れそうだけど、その箱」
「え?……あ」
骨までしゃぶるライドウの指摘に、手にした鞄を見下ろせば、あの景品の箱が顔を覗かせている。
処分ついでだ、叩き付ける様にしてライドウにそれを差し出す。
「フフ、御主人に献上品かい?最近そういえば御無沙汰だったからね」
「そんなんじゃない」
中を確認すると、俺を見下ろして哂うライドウ。
「ペア・チケットという物らしいが?」
「俺は学校の用事で来週行くんだ、二度も行く気になれるかよ」
「共に相手が居ないと何故云わない?」
避けた所を突いてくるライドウに苛々しながら、俺と七輪の熱が冷めるまで待った。
図体が巨大な所為か、客船上という心地は無い。
お陰で船酔いする事もなく、食事の席に平然と座って居られる。
「ちぇ、祐子先生の引率なら良かったぜ…そしたらおめかしスーツ姿、見れたのによぉ」
不満を漏らす新田に、近くの生徒が笑う。
「どうせスッピンだって褒めまくるんだろ〜お前」
「たりめーじゃねーか、こないだ病室でさ、寝巻き姿でもビシッとしてたぜ〜うへへ」
「違う妄想で興奮してないか?」
けたけたと笑っているところに、料理が運ばれてきて押し黙る一同。
新田の普段と変わらぬ話より、俺は料理が気になるのだ。
シェ・村正の創作フレンチなんて、こんな機会でもなければお目にかかれない。
その村正は三十三代目らしいが、それを聞いてライドウの十四代目を意識してしまうくらい、最近頭が毒されている。
「ね、ねえ……功刀君、食器が沢山あり過ぎて、何処から取るの?」
左隣からの声、小さな声で訊ねてくる女子生徒。見慣れないリクルートスーツ。
今夜はマナー教室という就職の為のソレであって、仕方なく俺もスーツに着られている。
「…基本は外から…フレンチだから、フォークの背に料理は乗せないで」
「一対ずつ使っていいの?」
「そう、でもイギリスではないからフォークの持ち替えは別にしていいです…箸休めは皿に八の字に置いて、食べ終えたなら二本揃えて置いて下さい」
「ふーん、あ、ありがと、助かった…!」
「どうせこの後説明されますから、それ聞いてから動かせば良いんですよ」
体裁を気にするなら、前日に予習でもしておけば良いのに。
別に其処にとやかく思う訳では無いが。だって…目障りな食べ方さえしなければ、気にならない。
あまりに堅過ぎる席は、食事の味を落とす。それくらい…俺にだって、解る。
「ねえ、この布が掛かってるのは何かな?」
「さあ、最後に食べるんじゃないのぉ…?」
細長いテーブルの上、中央につらつらと、布で覆われた何かがある。
近くの女子生徒達がこそこそと、その布を爪先で摘み、隙間から覗こうとする…
『さて学生の皆様、味わっていらっしゃいますか』
マイクを通してホールに響く声、同時に女生徒の捲ろうとした布は手放された。
『シェ・村正に代わり、簡単なコースの説明と…それとマナー解説をさせて頂きましたが、いよいよデザートとなります』
その単語に浮き立つ女性陣、別腹という事だろうか。
一番奥、テーブルの端でマイク片手に案内するのは、タキシードの男性。
学校側で依頼したのだろうか…マナー教室の講師なのか、船の関係者なのか、定かでは無い。
数名おきに、生徒の間に立ち、腕を伸ばすウエイター達。
細長いテーブルの中央、例の布に手を掛ける。
『フルーツのコアントロー・フランベです』
がばりと上げられ、退けられる白布。
思わず、席を立ちそうになった。
(眼を合わせるな…!)
『これを、此方側から火を点けまして…一気にそちらの端まで…!一気にフランベされるというエンタテイメント性の高い仕上げを致します』
きゃっきゃとはしゃぎ始める周囲、キャンドルサービスの様な感覚なのか。
俺は、今直ぐにでも此処から逃げたい。
眼前には、確かに…スライスされたオレンジやパイン、レモンやバナナ、絡められたバターとカラメルの艶が、見目から既に美味しい。
金属鍋は特注か、細長い形状で組まれている。
(何者の仕業だ)
その、連なるステンレスの輝きの周囲。
ウィスプ、ブロブ、絡みつくようにスライムが、粘着質にてらてらと光る。
見覚えのある外道衆、思わず近くの新田を見てしまうが、へらへら笑うだけ…気付いていない様子だ。
『着火は、もう少し後になります、学生皆様のお皿がもう少し片付いたら、ですねえ』
はっ、とテーブルの端から端を見る、まだ箸の遅い女子が数名。
コースの途中、まだ数品目分の猶予がある。
じりじりと、慣れないスーツの内側が張り付く感触。嫌な汗が滲む感覚。
きっと、着火と同時に、この外道共…
(自爆するつもりかこいつ等、ふざけるな、俺を巻き込むな)
密着し、ひしめき合っている。端から、フランベが如く誘爆される寸法か。
スペクターを彷彿とさせる影に、胎内のマガタマが暴れる様に熱を孕む。
悪魔達の主人の命令なのか、このホール内の誰かを嵌めようとしているのか。
どうする…俺だけ逃げれば、悪魔の主には感付かれるかもしれない。
だったら、どうやってこの爆発物を除去すれば良い?
斑紋を滲ませない様に…さりげなく指先に焔を点す事は、出来ないとは思わない。
魔具で抑圧されるのは表面が主で、俺の力が決して出せない訳では無いから。
ただ、焔で自爆を誘発させるのが、目に見えている。
確かウィスプもスライムも火に弱い…ブロブも耐性は無い。
しかし、テーブルを端まで埋める外道を一瞬で全員灰にするには、人の眼が多過ぎる。
(バレずに、どうしたら良いんだ、俺だけ逃げる事は可能だ、いや、怪しいだろうか)
先日のニーズホッグの時だって、俺だけ意識が鮮明で、妙な顔をされたというのに。
「ん、どしたよ矢代」
ナプキンを退け席を立つ俺に、目敏く新田が呼びかけてきた。
外道共のリーダーやってた癖に、と、侮蔑してやりたい気持ちを堪える。
「少し…」
「あぁ、便所?」
周囲のくすくすと笑う声。
「こういう席で声に出すなよ新田〜」
茶化す他の男子生徒に「違う」と、やや荒く往なして、ホールを抜ける。
化粧室では逆に不審がられると思い、寒空のデッキに出た。
夜の海、遠くの灯台が小さく光り、星空に紛れる。
吐く息が白いのは、俺の胎内が今焦りに踊っているからか。
意味も無く携帯を取り出す、とりあえず時間を確認したかった。あの様子では、もう十分がいいとこか…
「…え」
白い息を呑む。呼吸が止まった。在り得ぬ名前が着信履歴表示されている。
咄嗟に着信履歴から発信し、コールが終わると同時に叫んだ。
「母さん!!」
無音…返らない。いつもの穏やかな、それでいて子供扱いする声音は無い。
静かに波のたゆたう音が、ノイズの様に遠鳴りしている。
『…ッ…ククク』
あの、耳障りな哂い。
『何だい、随分と情け無い声だね功刀君』
「ど…うしてあんたが…」
『手っ取り早く端末を入手する手段として、君の身内の私物を拝借した』
「母さんの物漁ったのかよ手前!」
『故人の電話…しかも契約は続いており使用が出来る、これは使わぬ手は無いね』
携帯を投げ捨てたくなった、が、着信画面には“母”と表示されている。
この微かな記憶に縋る…だけだ、電波の向こうに頼る訳じゃ、ない。
「悪魔が……居る」
怒りを押し殺し、そうとだけ呟けば。
『君が悪魔だろう』
「違う…!ホールに…他の生徒も大勢居るレストランホールに、ぎっしり居るんだ」
『へえ、どの属だい?』
「アマラ経路に居た奴等みたいな、自爆する種…」
『君は今何処に居るのだい?一人で逃げて来た?』
薄々予感はしていたが、やはり指摘されて頭に血が上る。
「俺だけ抜け出したら怪しいだろ…!悪魔の存在には、他の生徒は気付いてないんだ…多分」
『様子が分からぬ事には、僕からは何とも助言し難いねえ』
歯がカチカチと鳴る、冷える海風に腕を抱き、震えながら手摺に寄りかかる。
「複数の外道が連なってて、誘爆可能な状態なんだ…!一瞬で全員始末しないと…」
『此方から手を出す以外には、何が爆発のきっかけになりそうなのだい』
「…フランベ演出の着火」
『クッ、それはそれは、実に面白い演出ではないか』
「面白くない!」
思わず怒鳴れば、遠くのカップルの影がひそひそと俺を見て更に遠のく。
そういえば、クリスマス直前だっけか…もう、色んな意味で薄ら寒い。
『フフ、まあ待ち給えよ功刀君、とりあえず席に戻る事だね』
「爆発物の前に大人しく座ってろってか」
『僕も今、罪深き船に乗っているのでね、しばし待ち給え』
意味が解らない、そう返そうと口を開いた瞬間、不通の電子音。
「くそっ!」
ポケットに無造作に携帯を突っ込み、あんな奴に相談するんじゃなかった、と後悔が押し寄せる。
どうなんだ、フランベを止めるべきなのか?理由が説明出来ないじゃないか。
新田も橘も、本当に見えていないらしい。気付きもせずに死ぬのか?
まだ、悪魔に身を堕としていない彼等が…
(後々、糾弾される可能性がある)
また堕天使の策謀だとすれば、あの城に今度訪問した際、この事をネタに虐められるのは目に見えていた。
(もう、偽善だろうがエゴだろうが、好きに云いやがれ)
ボルテクスで、あんなに散々に扱われたのだ。
彼等が死んだとしても、俺の心に翳りなんて無い。
無い…筈…
「遅かったじゃんかよ、喰ったモンすぐに出してんじゃねーのか?」
再び着席する俺を揶揄う新田が、隣の男子生徒に後頭部を叩かれていた。
「少し外の空気吸ってきただけだ」
「あー、こういう賑やかいのやっぱ苦手?」
「その…フランベされるってデザートに、酒振ってあるから、気化して少し酔うんだ」
適当を云って誤魔化す、だが実際アルコールの気配は感じていた。嘘じゃない。
「おま、船じゃなくてコッチで酔ってんの?あっは、そりゃおかしいわ」
「……!」
笑いながら、鍋のデザートを一切れ、フランベ前に頂戴しようと指を伸ばした新田。
かつて従えた外道共に微か、触れている。
その動きに俺の額から冷や汗が垂れそうになった、その瞬間。
「つまみ食いなぞしては、お里が知れるよ新田君」
新田の指がフルーツに触れる前に、停止する。その声の主に、周囲の生徒が眼を向けた。
俺は……見なくても、憎いその声音を、よく知っていた。
「こ…紺野さん!此処で働いてたんすか!?」
「フフ、今晩は。コアントローは度数40、果皮・葉・花に独自の調合で香味を引き出し蒸留させたリキュール…弱い人間が咽ても仕方の無い話さ」
ちら…と、背後を視線だけ寄越して見れば、ウェイターの格好で、あの哂い。
黒いネクタイリボンとベストエプロンが、白いシャツに映えている。
何より、すらりとした背格好に似合っているのが一層腹立たしい。
流石に学帽は被っておらず、きっちりと分けられた前髪は清潔感のある艶やかさだ。
「おや、此方の御方は衿が折れている」
「ひっ」
いきなり不躾に、俺の項に冷たい感触。
「食事の作法だけでなく、身形もマナーの一部で御座いますからね、学生の皆様」
さり気無い流し眼で、女子生徒が浮つく。
何故か俺に刺さる視線が鋭い、もう意味が解らない。
眼の前の爆弾も、背後の爆弾野郎も、どっちも本当は燃してやりたいというのに。
「……どうしてあんた、此処に居るんだ、その格好は何だよ」
俺の衿を直すライドウに、こそりと問い質す。
「云ったではないか、罪深き船に乗っていると」
「何の用事だ、どうやって乗り込んだんだよ」
「誰かさんがチケットを厄介払いしてくれたお蔭でねえ、宿泊付きさ」
そうだ、俺が福引の景品をこいつに渡したのだった。
指先がするりと、俺のシャツとスーツの間を滑り、手前のネクタイを軽く締めていく。
少し身を屈めたライドウの囁きが、耳にかかる。
「MAGを流している者は、見える範囲に居らぬよ。其処なる外道の数からして、爆発が生じた場合には着席者の全員が爆傷するだろう」
まるで読み物でも朗読する様な迷いの無さで口早に。周囲には悟られない声量が、肌を撫ぞる。
「介達性鼓膜穿孔により各自の退避は困難を極め、生存したとて五体満足では無いね。悪魔の君ならともかく」
「おい…っ!」
堪らず振り返ると、す、と腰を伸ばして一礼するライドウ。
それにいちいち、女子生徒がきゃあきゃあとさざめく。
「お兄さん私の衿も直して下さい!」
「ちょ、ずる〜い私のも!」
マナーどころか、自ら衿を崩し出す彼女等。
呆れんばかりだが、食事の手が止まっている、これは時間稼ぎか。
でも稼いだところで、いつかは外道がフランベされる。
「順番に直して差し上げますよ、さえずるのはお止めになって下さいお嬢様方」
俺の気持ちも知らないで、何故この男は余裕綽々。
「ほら御覧下さい、天井のシャンデリアが揺れる程に御座います」
ライドウの声に、周囲が各々天を見上げる。
吹き抜けの造り…中二階の客席はちらほらと埋まっている程度だ。宿泊客だろうか。
肝心の豪奢なシャンデリアは、金色とクリスタルパーツが煌いて…しかし揺れている様には見えない。
「この様に高い天井ならば、秋刀魚を焼いたところで火災感知もされぬでしょうね」
と、飾り立てた言葉から突然の所帯じみた台詞。
その転落にどっと笑いが零れた。
「秋刀魚って…この場でそんな事考えるんですかお兄さん」
「突然の雨天に七輪の火が消える事も無い、とても良い環境と云えましょう」
薄っすらと妖艶な笑みで滅茶苦茶を云うライドウ。
俺はどこか、何か突っかかり、もう一度天井を見上げた。
シャンデリアの隙間、眼鏡のレンズ越しに凝らして見る。
(…有った!)
この男、回りくどい。
「…おい、あんたの手が入って、何か更に首周りが違和感出来た。自分で直してくる」
吐き捨てて、再び席を立った俺に一瞬静止した周囲。
だが今は、この偽りのウェイターに皆興味が有るらしく、視線は瞬時に俺から外れた。
「化粧室はあちらから」
恭しく俺の傍で指し示すライドウ、その手指は実際化粧室への出口を指していたが、俺は眼を読んだ。
口ほどに…と云うだけあって、その深い闇色の眼は階段へと流されている。
その癖、ハッキリと助言しない、底意地の悪い野郎め。
「煩いな、分かってる、あんたは女子の衿でも直してやがれ」
ぼそりと侮蔑混じりに返して、足早に臨む。適当な口実だったが、侮蔑は本物だ。
ホール上層、中二階ににあたる所まで階段を上る。
見下ろせば、ライドウが手懐ける鳥達がぴいぴいと黄色い声で鳴いていた。
化けたライドウ、大勢のウェイターに混じるのは確かに怪しく無い。
優雅な身のこなしは、他の従業員と比べやや目立っているが。あのベストの下…一本くらいは、管を忍ばせているのだろう。
(あんたに上からブチかましてやりたいところだけど)
シャンデリアの光が近いこの層、手摺から更に上を見る。
周囲に眼を配る、円形テーブル数席が埋まるだけ、人数にして五人程度。
己に視線が流れてない事を確認して、手摺に少し身を寄せ、肺の奥から熱を渦巻かせる感覚…
(腕を振るうより、自然に、肌に斑紋すら出さずに、集中しろ)
ふ、と焔の吐息。照明煌を掻い潜り、最小限に止めたファイアブレス。
標的のスプリンクラーヘッドを直接炙るそれが、天井を呻らせる。
屋内では有り得ない雨天に、全員総立ちし、頭上を見上げ始めた。
俺はヒリつく唇を舐めずり、出来るだけ平静を装って階段を駆け下りる。
大丈夫だ、見られていない。
学校側に説明が出来ないであろうスプリンクラーの放水は、きっと誤作動だと伝えられる。
「皆さん!落ち着いて下さい!係りの者に従ってまず廊下に――!」
テーブルに取り残された外道は、突然の放水にふるふると身体を蠢かせ方々に散っていく。
生徒と客が先導される反対側の扉、その隙間からゆっくりとホールを出て行く奴等。
「これでは秋刀魚も焼けないねえ?」
濡れ髪を後ろに撫でつけ、ニタリと先導されていく俺に向かって哂うライドウ。
これなら確かに、瞬時に人が掃ける。着火もされない。外道が自ら判断しない限り、爆発は起こり得ない。
「イヌガミにでもさせろよ、天井まで飛べるじゃないか」
「召喚に溢れるMAGは察知され易いからねえ、君、火加減だけは得意だろう?」
俺を試しやがった、ピンと来るか否かを。
直接云えよ、スプリンクラーを狙え、と。
「最悪…っ、くしゅ!」
濡れたスーツの心地悪い感触に苛々しながら、睨もうと顔を上げれば、いつの間にか姿をくらませたライドウ。
軽く舌打ちし、ラウンジに案内される列に連なった…
ふと見上げれば、頭上のシャンデリアが嘘の雨できらきらと輝いていた。
「最悪」
客船側で用意されたタオルを羽織ったまま、隣のライドウに吐き捨てる。
「良かったではないか、僕が丁度業魔殿に居て」
薄気味悪い装置の並ぶ空間は、MAGが漂っている。
まさか、噂の豪華客船の下層がこうなっているとは知らなかった。
「結局帰ったところで一人なのだろう?フフ…此処のホテルのは、自宅の寝台より豪華だと思うがね」
「…あんたとどうして同じ部屋でクリスマスなんざ」
「安心おし、寝台は二つだよ」
「同じ部屋の時点で終わってる」
合体悪魔のMAGの揺らぎが波動で伝わる。この世界に固着するまで一拍置き、主に名乗る奴等。
それに満足気に管を指で回したライドウが、ヒールをカツカツ鳴らして歩み寄る。
既に外套姿のその背中を見つつ俺は、船から貰ったタクシーチケットを握り締めた。
他の生徒は乾燥し切らぬスーツに震えながら、帰宅先ですぐに着替えて暖をとり、笑い話にしているのだろう、スプリンクラー誤作動事件を。
(…寒い…魔具で擬態してる所為か?この施設が金属ばかりの所為か?)
帰ったところで、冷えた部屋が待っているだけだ。
クリスマスの頃には、どんなに忙しくても仕事先から帰ってくれた母親も、ツリーも、ケーキも無い。
「…おい、さっさと部屋に戻る…客室の鍵、寄越せよ」
呟けば、新たに生まれた悪魔と主従の契りを交わすライドウが振り返る。
その肩越しに見えるのは、確か…
「オーディンだ、この時期には相応しいであろう…ワイルドハントを恐れるなら、従えておくべきだな…」
びく、と突然の声に隣を見れば、船長服の初老男性。
落ち窪んだ眼は、いまいち何処を見ているのか分からない。
「ヨーソロー……お前…業魔殿は初めてか」
「…邪教の館なら知ってますけど、似た様な薄気味悪さでしたよ」
もう、ライドウと此処に来ている時点で、一般人のフリが無意味だと思った。
それに、何だよヨーソローって。責任者なら謝罪の時に従業員に任せてないで表に出ろよ。
「ほほう、お前もサマナーか」
「俺は…」
云い淀んでいるうちに、管にオーディンを封じたライドウが哂い声を上げた。
「ヴィクトル殿、ソレはあの装置に“掛けられる側”ですよ」
「な、なんと…人に擬態しているのか?」
カチン、ときた。俺は本来人間だ。
「鍵!寄越せって云ってるだろ!」
怒鳴れば、外套を探って腕を振るうライドウ。
合体装置の光を反射するそれを慌てて受け取り、踵を返す。
「入口の女給にゴウト童子を預けてある、しっかり引き取って部屋に戻ってくれ給え」
「この船、ペット禁止じゃないのかよ」
「おや、では君も連れ歩けぬね」
「……ッ」
振り返るのも馬鹿馬鹿しい、聞く耳持たぬのが多分良い。
まだ合体という悪魔的儀式を繰り返すのか、聖夜も間近だというのに、罪深い召喚師め。
溜息を吐き、受付の人影に声を掛ける。
入ってきた際には気にしてなかったが、青白い肌のメイドは、何処か人間離れしている。
「こちらの黒猫様ですね」
淡々と云い、ブランケットの敷かれたバスケットを差し出してくる。
無表情ながら綺麗な顔立ちで、しかし真紅の眼に背筋が凍った。
『人修羅…困惑の様子だな、良いか…人間では無いぞ』
「は…」
『このメイドは“この時代の”業魔殿の主ヴィクトルが作り出した造魔という存在らしい』
バスケットからゴウトがニャア、と俺に鳴く。
『お主と同じ、人の形をした人外という事だ』
「…あの、俺はまだ半分人間です、しつこいようですが」
苛立ち混じりにゴウトへと云い返せば、視界の端に映ったメイドの手が一瞬震えた。
「私と…同じ?」
「…違います」
どうして、心が痛む。
「申し遅れました。私は、ヴィクトル様に仕えている召使のメアリと申します…以後、お見知りおきを」
抑揚の無い声音、だが、赤い眼はまだ何か云いたげだった。
俺は、人外に仲間意識を持たれるのだけは、御免だ。
受け取ったバスケットを片手に提げて、足早にメアリの傍を通過する。
「俺、部屋に帰りますから、これで失礼します」
「…お待ち下さいませ」
「何ですか、俺は帰るって――」
「Merry Christmas」
脚が止まる。非人間からの、祝いの言葉。
そんな事すら云えない俺に…余裕が無いと、自信が無いと、自覚させられる。
「この期間に業魔殿へ訪れた皆様に、僅かばかりのお祝いを、と、ヴィクトル様からのサービスで御座います」
義務だからなのか、それを無心で云って差し出しているのか。
ゆっくりと振り返れば、一人分のクリスマスケーキ。小さな皿に乗せられて、ご丁寧に蝋燭までひとつ立っている。
それを両手に、だが微笑みすら浮かべない擬人。
「…一人きりのクリスマス…って感じですね、そのケーキ」
「サマナーの皆様は、連れたって訪れる事は殆どありません」
「俺はサマナーじゃないですよ、貰ったらまずいでしょう」
失笑して、それでもこのメイドの為に拒絶すれば。
赤い眼が俺を見つめる。ライドウの眼と違って、合わしていると…少し、締め付けられる感覚がする。
血の様な赤い眼は、悪魔的であり、鮮烈な色が視覚に響く。
「…私は、訪れた人間にサービスを施すよう仰せつかっております」
そして、劣等感を感じる。
「貴方様は、先程から“感情的”かつ“抑圧的”であります、それは私の記憶中枢にある人間の熱と近いのです」
きっと素直に述べているんだ、そんな素直な人間、あまり居ない。
この女性が、人間から離れている事がじんわりと分かる。
それでも、人間という枠に縋る、どこかの誰かよりも、余程…
「此処で食べさせるんですか」
「そちらに休憩可能なスペースが御座います、宜しければお茶の用意も可能です、お申し付け下さいませ」
「火はどうしてるんですか」
「火、ですか」
「だって、蝋燭立ってるのに点けないんですか?マッチもライターも用意してないんですか?」
「それを希望される方は今まで居りませんでしたから、気付きませんでした」
「誰が用意しているのか知りませんが、こんな中央に蝋燭立てたらケーキの概観崩しますよ」
バスケットを床に下ろし、メアリの持つ皿に片手を添え、苦しい視線を合わせる。
「一人で点けて、一人で吹き消す物じゃないから…一人分のケーキに立てる必要が無い」
「複数人で行う…という事で御座いますか」
「クリスマスは…大切な人と過ごして、ケーキ食べてツリー眺めて、子供はサンタに欲しい物貰う行事です」
酷く日本人的な解釈で説明すれば、バスケットから黒猫の失笑が聞こえた。
仕方ないだろ、そういう無宗教な家で育ったのだから。
「贈り物の話は、知識として得て居りますが…ヴィクトル様は下さいませんでした」
「何を希望したんですか」
「私に…“心”を、クリスマスプレゼントとして下さいませ、とお願いしたのです」
嫌な予感は的中した。
この造魔という存在への同情は、俺自身への同情となるのだ。
それが酷く、叫びたい衝動に駆り立てる。
「…火、俺が点けますよ」
「着火道具を所有しているのですか?」
その問いに、蝋燭へ吐息を吹きかけ答える。
眼前で揺れる小さな火に、メアリの赤い眼が微かに細まった。
「アギですか」
「少し違います」
憐れみじゃない、同情じゃない。ただ…クリスマス、だから。
「蝋燭、吹き消して下さい」
「私が、ですか」
「云いましたよね、一人でするものでも無いって、さっき」
ぐ、と催促の様に押し付ける。
これでメアリが造魔でなければ、一瞬でもクリスマスの男女のシミュレートだけは体感出来る。
寂しさに感けて、ごっこをするのでは…無い。
ちょっとしたお節介で、人間らしさのアピールを……先輩風を…
(いや、違う…たまるかよ!)
根底に有るのは、母親と吹き消したケーキの蝋燭の記憶、ただ、それが脳裏を過ぎっただけだ。
ややあってから、やはり無表情に発するメアリ。
「…かしこまりました、それでは…」
小さな血色の悪い唇から、熱の無さそうな吐息が吹き掛けられ――
…ると思った瞬間だった。
眼の前を、鉄の鉛が駆け抜けた。
蝋燭の先の、温かな灯火は消えた。
「Merry Christmas!火の後始末くらい、己でし給えよ、功刀君」
緩やかな曲線を描く階段の上、ホテルと云うには悪趣味なタペストリの前で不敵に微笑むライドウ。
鈍い銀色を片手に握り、眼前へと垂直に立て、ふっ、と銃口の煙を吹き消していた。
俺の記憶の甘やかな灯火を、あんたの哂いが吹き消して往く。
底冷えする溺れた正装のまま、セフィロトの樹の下。
悪魔になって初めて迎える、クリスマス。
船上のメリークリスマス ・了