晩夏の挽歌



 タヱから渡された写真を、穴が開くほどに見つめていた。このままでは気付かぬうちに視線で灼き切ってしまいそうだと思い、そろりとポケットにしまう。  ほぼ同時に下階から、扉の啼く音……踵が床を鳴らす音……続いてカラカラと調子良く弾む女性の声が響いてきた。
「それじゃあ鳴海さん、ライドウ君に宜しくね」
「はいはい、しかしあまり首を突っ込み過ぎるモンじゃないよタヱちゃん」
「あらっ、心配してくれてる?」
「最終的にあいつの仕事が増えるだけだろうし……ぶっ」
 短い呻き声、そして階段を下手なピアノの様に駆け下りる足音……やがて一際大きな開閉に、銀楼閣ごと揺れた様な錯覚を抱いた。きっとタヱに胸倉を叩かれたか、爪先を踏まれたかしたのだろう。鳴海は時折、そうなると分かっていて他人をおちょくる。ライドウの様に嫌味な感じはしないものの、いい大人なんだから道化を演じなくても良いのにと思ってしまう。それともあれが素なんだろうか……俺が買いかぶってるだけで、ただの天然だったりするんじゃないのか。
 あてどない思考を巡らせ、ライドウの寝台に横たわる。天井のモールドや梁をぼんやりなぞっては、それが途絶えた瞬間にはあの写真へ舞い戻る。
 
 外套姿の書生と、小さい子供の後ろ姿が写っている。堀の横、青々と揺れる柳の下に並んで歩いている。
 まだらに降る木陰が、陽の強さを匂わせた。これは割と最近……この夏の間だろう。タヱが「いつも珈琲ありがとね」と、まるでチップの様に握らせてきたのだった。  「横の子供、誰ですか」と問えば、撮影した張本人が「私にも分からないのよ」と答える始末で。撮影日、ライドウが此処に連れて来たらしい。ああ見えて写真に残される事を好まない男だ、きっとこれはタヱの隠し撮りだろう。
 「でもどうやら隠し子では無いみたい」と云っていた。そんな事を堂々と確認する彼女も、もしかしたら鳴海と同属かもしれない。
 
  ボーン…… ボーン……
 
 薄っすら時計の音が聴こえる、思えばそれを遮る蝉の声も今日は無い。やっと正午か? なんだか今日はやけに遅く感じた、予定を意識し過ぎたかもしれない。
 寝台から起き上がり、姿見のクロスを除けて身なりを正す。これから向かう先が呉服屋なので、普段より少しだけ気を遣った。ライドウに命じられた通り、俺は風呂敷一枚を携帯した。部屋を出ると廊下の方が暑かった、窓ガラスが外の熱気を吸い寄せているせいだ。さっき傷めつけられたであろう階段を、俺は一定のリズムで下りた。
 
 
 指定された呉服屋で葛葉の名前を出せば、一発でお得意様扱いだ。依頼名が鳴海探偵社では無い所からして、この件はライドウ個人の用事か……
「いやはや随分と汚れや擦れが有りましたね、その分のお値段を頂戴致します」
 てきぱきと話を進める店主は恰幅が良く、夏も終わりだというのに熱気を発している。窓ガラスの反射の様に、禿げあがった額が輝いた。お直しした箇所の説明後、畳まれていく着物……と、店主のむっちりした腕がぴたりと止まる。
「ところで、お着物と兵児帯の隙間に挟まっていたのですが……コレ」
 脇に除けられていた懐紙を摘まみ上げ、こちらに差し出してくる。正体不明だがスルーも出来ず、俺はそっと受け取った。折られた懐紙をやんわり開くと、水分の抜けた緑が見えた。雑草みたいな植物が、ペラペラになって数枚挟まっている。押し花にしては色気無い。
「その葉が押し潰され汁が滲み出ておりまして、いやはや染み抜きするのが一苦労でしたな」
「……わざわざ取っておいてくれたんですか」
 棄てても良かったんじゃないのか? という俺の内心が滲み出たのか、店主の営業スマイルに染みが出来た。
「しかしですねえ、お子様の大事に摘み取ったオオバコかもしれませんし」
「ああ……これオオバコなんですか」
 名は聞くが、大抵姿と名前が一致しない。そもそも雑草なんて殆ど緑色だし、似た様な形状が多過ぎる。茎を掴みくるくると、指先を擦り合わせ葉を回転させる。干乾びて軽くなったオオバコは、俺に踊らされるがままで抵抗も無い。
「お客様、お品物と……御代」
 店主の要求を認識した瞬間、咄嗟に葉を差し出してしまった。
「そういえば《葛葉》って名前でしたよねえ、いつもの書生さん。もしかしてアナタも……」
 慌てて懐の財布を開き、今度はお札を出した。これぞ人間の証明書だ、少なくともヒトの通貨を出せば罪には問われない。バツの悪い俺は、受け取った着物をササっと風呂敷に包み、まるで泥棒の様に音もなく立ち去った。
 
 
 この後もまだ仕事が残っている、筑土町のはずれから黒塗りの車に乗らなければいけない。
 正体はライドウの仲魔、オボログルマだ。きっと運転手(に見える擬態)は、スマートな礼服でも着せられているのだろう。そんな予測をしながら歩みを進めていると、足に何やら違和感を覚えた。下駄だろうか、ただし道端でもたつくのは変に注目を浴びそうで嫌だ。ひとまずオボログルマに乗り込んで、そこで確認すれば良いか……
「よっ、居候君」
 黒塗りの車体を視界に認めた時だ、俺の苦手な声音が背中を叩いた。しっかり体を向けずに、何となくの視線で返事する。相手も刑事なのだから、俺の態度には以前から気付いている筈だ。あまり相手をしたくないのだと、読み取れないのならカンが悪い。
「ライドウちゃんは?」
「今日は忙しいみたいですよ、帰りの時間は聞いてません」
「坊ちゃんは何処行くよ」
「そんなの……答える義務があるんですか、葛葉からの頼まれ事です」
「おっ、脅すねえ? 詮索無用ってか」
 へらりと笑って、コートの懐に手を差し込む風間。きっと煙草だろう、さっさと離れたい、臭いが移る。
「いつも御苦労さまです、俺はこれで」
「あの車だろ、本当にライドウちゃんの用事かぁ? 実は密会しに行くんじゃねえのかよ坊ちゃんよぉ」
「は?」
「あんな高級車寄越してくる相手だ、依頼の一環だとしてもお前さんに任せる真似はしねえだろ」
 風間刑事が俺をおちょくる時は……此処で終わればただの戯れで、まだ続くのなら裏が有る。ライドウほどではないが、俺も警察をあまり信用していない。
「俺だってお使いくらい出来ます」
「んな事云っちゃってよお、いつもより高い召し物纏っちゃって、意味あり気な小包み抱えちゃって」
「高そうって思うなら目の前で吸わないでもらえますか」
「俺の方が風下だぃ、それに着物は洗えば済む」
「そういう問題じゃない、こちとら金払って受け取った荷物をヤニ臭くされたら困ります。喉も痛くなる、民間人の健康を害するって訴えますよ」
「おーおー口うるせえ女房みてえだな、って思ったケド……そういやぁこないだライドウちゃんにも注意されたっけな、お前ら似てきちゃいねえかい?」
 さっさと車に乗り込んでしまえば遮断出来るのに、俺の足は街灯みたいに路地で突っ立っていた。
 あいつが注意?……まさか他者の喫煙に文句出来る立場ではない、それこそ今の風間の様に、何処でも一服しようとする奴だ。
「納得いかねえ顔だな。あーそうだそうだ、あの時は坊ちゃん居なかったから知らんだろ。坊ちゃんの代わりみてぇな、小さい小僧連れてたぜ」
「小さい……それって男の子ですか」
「おうよ、見当つくんかい? 実は俺もちいっと気になっててよお、当人は隠し子じゃないと云い張るんだが……さてどうなのよ」
 火の無い煙草を咥えたまま、面白そうに笑う風間。俺の脳裏では、再びあの写真が燻っていた。あの写真を見せようか……空いた手が虚空を彷徨うと、何やら勘違いした風間がニンマリしつつ煙草を寄せて来た。  火のない所に煙は立たない、ならこれはどうだと写真を突き出す事に決めた。着物と襦袢の隙間で、指先に写真がかすめた瞬間――
 
  パァーッ パパーッ
 
 甲高い音が通りを駆け抜け、明らかに俺へと向けられた。オボログルマのクラクションだ、急かされている。
「すいません、急ぎます」
「ちぇ、火くらい呉れても良かったのに」
「……分かりました」
 次回、またネチネチとつつかれるのが癪なので、軽く恩を売っておく事にする。
 俺は風間の咥える煙草をぱっと摘まみ、一瞬背を向ける。かじかんだ手を温める仕草で、口元に運んだ先端に火を吹いた。くるりと向き直り、きょとんとした刑事に一本差し出した。
「どうぞ」
「へぁ? ど、どうも」
 手品の様な速度でこなした俺を、きっと訝しんでいる。ライドウならともかく、俺の要領では難しいと判断しているからだ。憶測で更に苛立ったので、俺は宣言通り場を離れた。去り際、微か臭った煙に眉を顰めながら。


 相変わらず静かな車だ、俺の時代で流行り始めた電気自動車を思わせる。内装も上品なトーンでまとめられていて、この黒光りっぷりは一歩間違えるとその筋の車に見えた。ただし、郊外へと抜けるまではかなりのロースピードだ。これなら自走した方が速い。
『市街地オヨビ人目ノ多イ所ハ、安全ノ為16km/h走行維持シマス』
 そんな事を考えていた矢先のアナウンスに、読心を疑ってしまう。ライドウの仲魔に読まれるなんて、絶対勘弁して欲しい。そんな事は暫く無かったので油断していた、少し警戒を強めて過ごそう……
『該当区域ヲ離脱、速度上昇』
 オートパイロットだ、俺がどうこう意見した所できっと無駄。ライドウからは〝オボログルマに乗り、到着地点で待つ人物に着物を渡せ〟と云われている。目的地さえ知らない俺は、指図しようも無い。
 後部座席という事もあり、ゆとりを使って軽く伸びをした。踏み縛る足に違和感が有り、そういえばと下駄を脱いだ。
 オオバコの葉だ、どうやら一枚落としていたらしい。俺の踵と下駄の隙間に、はらりと舞い込んだという事か。元々ペラペラだった葉が、更に圧迫され見るも無残だ。
「ちょっと……窓開けて欲しいんですけど」
 オボログルマに呼びかければ、俺のすぐ傍の窓ガラスがゆっくり下がった。時代にそぐわぬパワーウインドウに、どこか乾いた笑いが漏れた。
『ポイ捨テ禁止』
「ただの葉っぱだ」
 雑に返答しつつ、窓の隙間からオオバコの葉を風に流した。葉は一瞬で小さくなり、見届けるより先にガラスが遮断した。残りのオオバコはどうなったかふと気になり、隣に座らせておいた風呂敷を広げる。
 風呂敷の紫紺を開けば、小さく畳まれた着物と帯が現れる。オオバコの葉はひっそりと衿許を飾っていた、端の欠けた物からまだ少し瑞々しい物まで、個体差も有る。
(何処かで見た)
 着物は七宝柄で、縦糸の目立つ生地を使っている。寒色が涼し気で、白い兵児帯がそれを助長させた。俺はさっき取り出し損ねた写真を、そっと着物に載せてみた。写真はまるでカタログの様に、現物の着こなしを説明してみせた。
「オボログルマ、小さい子供を乗せた憶えは無いのか」
『顧客情報ノ漏洩ハ禁ジラレテオリマス』
「俺は関係者だ」
『葛葉ライドウノ、仲魔トイウ事デスカ』
「……まあ、そういう事になるんじゃないですかね」
 どこか腑に落ちなかったが、渋々肯定した。
『小サイズノ人間、乗車履歴有リ』
「何処の子供だ」
『情報入力サレテオリマセン』
「しらを切ってるんじゃないです?」
『MAG個体情報ニヨレバ、乗車履歴ガ有ルノハ〝葛葉ライドウ、ゴウト、アナタ、アリス、葛葉ゲイリン〟以上デス』
 ゲイリンというのは……現時点でのゲイリン、つまり凪だろう。乗車人数は想像以上に少ない、この情報に嘘が無いとしたら……俺の推測はハズレという事になる。
「小サイズの人間ってのは、アリスの事か」
『個体質量トMAG識別結果ハ、関連付ケラレテオリマセン』
「分かったもう結構です」
 これ以上は無駄だ、俺だって体内に入った異物をいちいち識別出来ていないし。こいつが機械であっても悪魔であっても、人間の識別能力は低そうだし。
 ……なんとなく、ライドウが子供と一緒に長時間の徒歩移動なんて、しない気がした。コウリュウに子供を乗せるなんて、危険だ……たとえ大人しく跨っていたとしても、金色の鱗はなかなか堅く鋭利だ。幼子の柔肌が傷付いてしまうんじゃないだろうか。俺なら柔肌の青果を、硬く粗い網目の籠では運搬しない。


 到着した地点は、一見何のランドマークも無い平地だ。唯一の目印といえば、道祖神の残骸と思わしき石塊がごろりと転がっている、それだけ。
 もう少し向こうにはか細い小川が流れていて、せせらぐ密かな音もする。遠くの山の端を、太陽が舐めるように降り始めていた。
『車内ニテ、オ待チクダサイ』
 オボログルマが停車してから、淡々とアナウンスした。
 俺も「窓から渡せ」とだけ、ライドウに云われている。余計な事をすれば折檻が待っているだけだ、誰が外になんて出るものか。
 水の流れを割く様に、さくさく、と草を踏みしめる音が雑じる。気配に神経を澄ませば、次の瞬間には小川を跨ぐ人影がひとひら見えた。その相手と目が合った瞬間、思わず互いに「あ」と口を開いた。すると、それまで丁寧に隠し包まれていた気が一瞬にして乱れ、足取りもざくざくとガサツに接近して来る。
 表情まで確認出来る位置になれば、オボログルマが窓をす-っと下げた。
「はぁ? 十四代目は来てないんですか」
「はぁ? はこっちの台詞ですよ、どうして俺にお使いさせるんだ……どうせ里には定期報告で行くじゃないか」
 ライドウの後輩、次世代候補生の少年だ。正午(しょうご)とかいう奴。頭巾とマントで全身真っ黒にしてはいるものの、背丈のせいで威圧感は薄い。里帰りすれば、必ずといって良いほどライドウにぴったり、金魚の糞みたいにくっついてくる。
 急ぎの荷物だったんだろうか、そうでも無ければ納得いかない。お前が直接渡せと、怒鳴ってしまいそうだ。
「っていうか元に戻っちゃったんですか……ガッカリ」
 ウンザリといった声音で意味不明な事を呟きつつ、荷物を受け取った少年。俺だってウンザリだが、ひとつ気になったので訊ねる。
「その着物、オオバコの葉が納まってたらしいけど心当たりは」
「オオバコの葉? やだなあ、蛙の死骸とか一緒に入ってなかったでしょうね」
「葉っぱだけだ」
「ま、子供って雑草摘んだり、好きですもんね。仕方ありません、ウン」
 今度は何故だか偉そうにふんぞり返って、一人頷く正午。胸元で風呂敷の結び目を緩め、中を確認し……眉根をぎゅっと硬くした。
「あーちょっと蛙臭い、だから葉っぱ入れてあったんだ」
「蛙臭いって……一応それ、呉服屋に洗いと直しをさせた物ですよ」
「そりゃそうですよ、衣装専門じゃ気付かないですって。着てた子が入れたのか、十四代目が入れたのかまでは分からないけど……」
「どうして蛙なんだ、虫とかじゃないのか?」
「あーもーそんなの十四代目に訊けばいいでしょう、アナタいっつも十四代目に金魚の糞みたいにくっついてるんですし?」
 カチンと着火しそうになったが、脳内で水をぶっかけ鎮めさせる。同じ事を考えた己の思考に対し、バツが悪かった。
「染み抜きじゃ厄は落ちませんのでね。でもこれはボクの私物だから、里の人間には頼まず自分で適当に祓っちゃいます」
「君の着物?」
「ええ、何か?」
「いや……」
 写真の少年が、目の前の少年と同一人物には見えない。背丈も違う、後ろ姿の年齢が既にかけ離れている。つまりライドウは《正午から借りた着物》を《何処かの子供》に着せ、連れ歩いてたって事か?
 必然性が見えず、俺の知らぬ間に何かがあったのだと、再び推測が憶測に戻った。
「もう帰って良いですよ、コレ返してくれるっていう用事だけでしたからね、ボクこの辺までしか外出許されてませんし」
 別れの言葉も無いままに、正午は俺に(オボログルマに)背を向けた。打ち捨てられた石塊に着物を捧げ置き、きょろきょろと周辺を俯き歩く。何となく察したが、おそらくオオバコを探している。
『帰還シマス』
 淡々と告げるオボログルマのアナウンスで、窓が上がっていく。透明な壁一枚隔てた先では、正午がしゃがみ込んでいた。オオバコなんていくらでも自生している、きっとまじないに具合の良さそうなものを吟味したんだ。
 振り返るのは癪だから、フロントのミラーで見送った。夕暮れる野辺に草摘む少年を見て、ライドウもああだったんだろうか、なんて一瞬想像してしまった。

 〝僕の子供時代ってのは君、想像出来るかい?〟

 なんか、そんな感じの事をあいつに訊かれた。見覚えの無い寺の帰り、この車の中で……
 何の意図が有ったんだろうか、今更気になってきた。あいつの子供時代なんて、どうせ今のミニチュア版みたいなものだろう。それよりも俺は、あいつがわざわざそんな問い掛けをしてきた理由が知りたい。
『緊急停車シマス、揺レニゴ注意クダサイ』
 オボログルマの警告が終わる頃には、俺は前座席の背もたれに頭突きする羽目になっていた。文句を云おうと顔を上げると、オボログルマに立ちはだかる黒い影が見えた。こちらにツカツカと歩み寄って来ると、運転席の窓をノックした。そして何故か俺を降ろす事もせず、かといって運転を自分がする事も無く、後部座席の扉を開けてきた。
「やあ、しっかりお使いは出来たかい」
「どうしてコッチに乗るんだよ、あんたが運転するか管に戻すかしろよ、どうせもう筑土町だろ」
「オボログルマ、適当に走行してくれ給え。そうだね、晩夏を感ずる景観が好いな」
「もう暗くなるぞ、鳴海さんの飯とかどうするんだよ」
「風間刑事が事務所に来訪中さ」
 ははぁ……この男、面倒になって押し付けてきたんだな。そしたら丁度オボログルマが帰って来た、そんな所だろう。だから銀楼閣から離れたがっているんだ。
 そして俺は、隣にずいずいと押し寄せるライドウから離れたがっている。


「正午は何か云っていた?」
「別に」
「君の記憶力なぞ元より当てにしておらぬよ」
「……あんたに会いたがってたぞ、あと着物が蛙臭いって」
「そういえば落とし忘れたね」
「わざとじゃないのか」
「さあ? しかしその程度も祓えなければ、僕の見込み違いだったという事になるかな」
「どうして自分で行かなかったんだよ」
「定期報告までは間が空く、正午に会えば長くなる、そして僕自身本日は用事が有ったのでね」
 ちら、と隣のライドウを見る。あと一息で潰える西日が、精悍な横顔を鮮明にさせた。遮音性はそこそこ有る筈なのに、ひぐらしの声が遠くからこだましている。
「そんなに大事な用事だったのか」
「蝦蟇の見舞いに行ってたよ」
「ガマ……って、蛙?」
「蛙かな……フフ、蝦蟇はガマだよ」
 背凭れに身を預けたライドウは、どこかぼんやりして見えた。なんとなしに呟かれた言葉も、返事を求めない色をしていた。
「蛙は脆くていけないねえ」
「物騒な奴、どうせあんた蛙の尻に爆竹突っ込んで遊んだタイプだろ」
「失敬な、異物挿入で遊ぶなぞ君の尻くらいでしか覚えが無い」
「あのなあ! 此処あんたの仲魔の内部なんだぞ!」
「爆竹みたいに騒ぐでないよ、オボログルマが可哀相だろう?」
 こんな時だけ良識あるサマナーの振りしやがる、オボログルマも無言で田園の合間を縫うだけ。俺一人が辱められた気がして、肌が火照る。相手にするだけ疲れると知っているのに、どうして追ってしまうんだ。
 胸元に仕舞ってある写真を、いっそ突き付けてしまいたい。
「もう口も利けなくなっていたよ」
 ぽつりと零すライドウ、主語が無い。
「自業自得とはいえ、憐れなものさ。僕は売られた喧嘩を買うだけ、それを続ければ相手が勝手に自滅していった。子供の喧嘩と侮るでないよ、肉体は成長するが魂などはそう変質しない、つまり決着がつくまで延々と脳裏で殴り合いが展開されているのだ、無音のまま」
「何の話だ」
「カラスの老いぼれも、同期も皆先に逝く。ゴウト童子は昔の僕をさほど知らぬし、今だって本当は忌避しているかもしれぬよ」
「何が云いたい」
「昔の僕を知る者が消えてゆくのだよ、まるで呪いの様に次々と」
 ぽつりぽつりと……何の音だ。気付けば車内が薄暗い、日が暮れると同時に窓ガラスを叩く雨粒。その音に呼応するかの様に、ライドウの言葉もぽつりと鼓膜を叩く。
「功刀君、君は僕の子供時代をどの様に思った」
「思った、って……見聞きしてもいないのに、感想なんか」
「想像も出来ないのかね」
「それはまあ、あんな所で育てば……捻くれるよな」
 てっきり足でも踏まれるかと思ったが、ライドウはフンと鼻で笑うだけだった。
 気持ち悪い……謎の感傷に浸っているのか、こいつのノスタルジーは大抵エグいから不安になる。それと同時に「そう簡単に吐露する奴ではない」と、昏い優越感が胸をエグる。でも同情は嫌うし、かといって完全無視なんかも機嫌を悪くするだろうし……どう反応しろっていうんだ。
 オボログルマを雨が鳴らし、ガラスを伝う雫が車内に投影される。瑞々しくも冷たいブラインドが、空気を更に重くした。無言のライドウは怖い。だからって、喋りの得意ではない俺がどうして必死になる必要が有る。
「あ、あんたってさ、実は子供好きなのか?」
「何故そんな事を訊く」
「いや、その……呉服屋で受け取った着物、子供用だった。俺の知らない所で、何処か他所の子の面倒みていたりとか……って、まさか本当に隠し子か!?」
「君までそんな寝惚けた事を云うのかい、僕は己の血を継いだ人間なぞ見たくもないがね」
「……きっとあんただって、普通の子供だったろ」
 慰めでもなく、純粋にそう思った。普通の基準は説明出来ない……でも、時折ライドウに見え隠れするのは間違いなく子供心だ。
 甚振りが好きな残虐性も、未知を知ろうと火に飛び込む好奇心も、我儘な独占欲も。さっきこの男が自称した通り、魂はそのまま。子供時代を通過しない人間は居ない、生まれた時から完成されてるなんて神か悪魔だ。
「普通、ねえ」
「ガマって、里の知り合いなのか。見舞いって……親しかったのか」
「僕が喧嘩を買って、喧嘩に勝って、奴は再起不能に陥った。潰れた蝦蟇の如く、ひしゃげた面を此方に向けてねえ、フフ……〝喧嘩の続きを〟と未だ唸るのさ。勝者の暁にアレの使役していた仲魔を貰えと周囲は云うが、要らん。他人の手垢まみれの悪魔なぞ、誰が」
「あんたが相手する程度には、縁が続いてたんだな」
「誤解するでないよ功刀君、利用価値が有ったから今の今まで決着をつけなかったに過ぎぬ」
「もう、いいだろ……!」
 俺も、写真の子供の事は忘れる。もしかしたら、この男の大事にしたい部分かもしれない。気遣う必要なんか皆無だし、それなら俺の事を根掘り葉掘りいじくり返すなと云ってやりたい、詫びろと云いたい。
「あんたの今の喧嘩相手は俺だ、その人の事は忘れろ」
 衿へと手を挿し、写真をぐしゃりと握り潰し内で燃した。一瞬熱くなった身体を深呼吸で整え、なんとなく恐ろしげに隣を見る。
 ライドウは乱反射する窓から、俺を眺めていた。薄く映り込む目と目が合った、息苦しい、金縛りになる。憎たらしいのに、どうしていつも逸らせない。
「……そうだね、一先ずはそうするとしよう」
 あまりに珍しい肯定の声に、俺の呼吸は解かれた。安堵の息を漏らした瞬間、ぐいと衿の後ろを掴まれ引き寄せられる。
「君が辞めたいと云おうが、勝つまで続けるから宜しく」
 強張る俺の耳元で、囁かれるが……雨音が流していく。この一雨が過ぎ去ったら、もう秋なんだろう。
「僕は執念深いからね、喧嘩が終わろうが忘れてやるものか」
 つい先刻まで写真が忍ばせてあった隙間に、今度はライドウの指が入り込んできた。