「なかなか瞼を開かないんだよな、こいつ」
「君の声は少し威圧感が有るから、起きるべきでは無いと無意識に判断させているのではないだろうか。もっと優しく声を掛けてあげないと…」
「そんなの母親の役割だろ?オレ等はダチだぜ?しかも野郎同士の」
「…友人である前に、同胞、仲間だ。友人以上に気遣いや配慮が必要だと思うよ?」
すぐ傍で行われる問答に、いつも瞼を上げるタイミングを逃す。
ワルターとヨナタンだという事は、声と会話で把握している。
危険が無い事も判っているのに、やり過ごそうと身体は石の様に重くなる。
「元気付けてあげようという君なりの思い遣りかもしれないけど…ほどほどに」
「わーってるっての…お前がオカンかよ」
扉が開いて閉じられる音、どうやらどちらかが部屋から出て行った。
まだ気配は在る、きっと自分が起きるまで出て行かないつもりの…
「おいフリン、起きろ!ほんのちょっとで良いから、一緒に釣りでも行こうぜ!」
短い付き合いだが、彼等のやり取りは脳裏にありありと浮かぶ。
瞼の裏に光景が流れる様に、声と物音はイメージを掻き立てる。
途中で瞼を上げれば確かめる事が出来るのに、いつも出来ない。
いつも、思うだけ。
愛の無智
「お前妙な指使いじゃねえかそれ?」
見せてみろよ、と覗き込んできたワルターが、一呼吸置いた後にぶっと吹きだす。
「それだと餌を持って行かれるばっかだぜ」
糸を手繰り寄せられて、釣り針を放す他無くなる。
「この頭んトコからぶっ刺しーの……腹辺りで一旦外に抜いて、もう一回ぶっ刺し…反対側に抜く」
「そんなにしたら餌が傷まないの」
「もう死んでんだから気にすんなよ、劣化が気になるんだったらさっさと投げ入れな」
ほら、と釣竿を持ち上げるワルターの仕草に、倣う様にして自分も持ち上げた。
餌を付けてもらった針を、今度はこっちから手繰り寄せれば先刻より僅か重い。
ぶすぶすと針に貫かれた岩虫と目が合った気がして、咄嗟に水面へと釣竿を振るった。
(目なんてもう無いのに)
入水音と波紋が広がった後は、鳥の声だけとなり。
これから長丁場なのだろうと、脚を崩した瞬間…
「悪かったな、いきなり誘って」
隣のワルターが静寂を割って、唐突に話しかけてきた。
「いきなりは毎度の事だから、何に謝罪してるのかよく判らない」
「いやソコじゃあなくってだな…いや、まあそれも悪かったわ」
「なら一体どうした」
「俺の村じゃあさ、あんまりしんみりしないでよ…こう、親しかった連中で集まって夜通し騒ぐんだ」
これまた唐突なので、硬直したまま返答出来ずに居ると…
察したのか、今度はこっちをまじまじ見つめて話す彼。
「ヨナタンもイザボーも、お前を気遣って触れない様にしてるのは解るけど。いやしかしな、慣れねえんだよ…そういうの」
此処まで話して貰い、ようやく何の事なのか感付いた。
当事者の自分が一番鈍感なのは、性質なのか、無意識の内になのか。
「イサカルの事?」
「ほら、なんかよ…釣り餌も付けられなかった…って、あいつに云われてたろお前」
「ああ…」
「ま、本当に下手糞でビビったけどな、さっき」
ハハッ、と笑って、故人絡みの思い出を揶揄う態度は、確かにヨナタンともイザボーとも違った。
これがカジュアリティーズとラグジュアリーズの差なのかといえば、また別な気もする。
「一応これでも教わった」
「はあ、誰にだよ」
「イサカル」
「マジか?そりゃあいつも他人の事云えたクチじゃねえな」
「でも、イサカルはよく釣れてたぞ。いつも収穫が均等になるように、帰路の途中で分けてくれた」
「釣り場で分けりゃ良いのに、手間だぜソレ」
「重いだろう、って」
「あっはは!何云ってんだよそりゃ、お前の得物なんて鈍器じゃねえかよ。それに村の畑仕事とか手伝ってたろ?着痩せしてるだけじゃねえか」
別に鈍器が大好きという訳では無いのに、大笑いされてしまった。
村でイサカルに無理矢理付き合わされた剣術修練は、慣れない動きと構えに身体が痛くなる事ばかりだった。
サムライになってからは、修練に使っていた木刀とは段違いの重量が得物で…辟易してしまった。
「畑の土に振り下ろすつもりでやれば、クワみたいで一番使い勝手が良かった」
「え、何が」
「ディエス・イレ」
「…あ、お前の武器だっけ?」
「そう」
「ははぁ、クワか…成程な――っと、早速だぜっ」
言葉尻を荒立たせ、立ち上がったワルターの制服から草葉がはらはら落ちた。
ピンと張りつめた糸を横から見ていると、ふつりと断ちたくなる衝動に駆られる。
勿論妄想だけで、実行する気はさらさら無い。
いつも思うだけ。
「ほら見ろよ、ちゃんと引っ張ってこれたろ?」
得意気なワルターが、手繰り寄せた先の魚を見せびらかす様にして晒す。
「本当だ」
「だろ?お前疑ってたからな、眼が」
「そうだった?」
「オレの出身教えたろ?漁師に囲まれて育ったんだ、舐めんなって」
針からぐりりと魚を外して、浅瀬に置いた魚籠にそれを投げ込んだワルター。
日光を反射した魚の鱗が玉虫色に輝いて、水音と共に水面に沈んでいく。
「沢山釣れたらどうするんだ」
「寄宿舎の厨房にでも持って行けば良いだろ」
「此処から寄宿舎まで歩いたら、鮮度が落ちないか」
「発つ直前まで水に入れてあるから平気だって、しっかり〆てから運ぶしな」
「〆る?」
訝しんでしまった事を少し悔いた。またワルターが笑い始めたからだ。
「まさか〆る方法も習ってないのか?」
じりじりと、先刻から詰る様な陽射しにやられそうで。
いいや、陽射しではなく。多分予感…
均等に分けられた獲物、そういえばイサカルが寄越してくれた魚はピクリともしなかった。
単純に、道中で息絶えただけかと思っていたが…
(事前に殺してあったのか?)
同じ時刻に自分の釣った獲物は、辛うじて生きていて。
しかし、生死の境を彷徨って暴れた所為か、酷く傷だらけだったではないか。
「だって、イサカルが…」
〆方なんてものは、教えてくれなかった。
「少しでも生かしてやろうな」と、幼い頃の自分に語りかけてきた兄貴分。
それは彼の優しさなのだと、ただ真っ直ぐに受け止めて、同時に尊敬した。
「またイサカルか?持ち帰った魚、あんま美味くなかったろ?しっかり〆てから運ばないとな…極度の精神疲労で旨味が逃げちまうんだ。脳を潰してさ、血抜きして…」
「…ああ…そういえば、イサカルの釣った魚だけは…美味しかった」
「ははあ、そりゃあアレだ…イサカルは、お前に内緒で手前の収穫だけはちゃっかり〆てやがったんだな」
ワルターの顔からは、いつの間にか笑いが消えていて。
自分も何故か、釣竿を握る手が強張っていた。
「僕の事を嫌いだったのかな」
「嫌いな野郎にトドメなんか頼まねえだろ」
「でも刺せなかった」
「…いいや、仕方無いと思うぜ。あん時は口出ししちまったけど…外野のオレ等がどうこう云えた問題じゃなかったな、悪かった」
ワルターの素直な謝罪に対して、咄嗟に言葉が出てこない。
何かを知れば知る程に、自分が嫌になる。
剣の振り方ひとつだって、イサカルに教わった事は実戦では役に立たず…
それどころか、模範的な動きを妨げる、余計な疲労を生むものだった。
すぐに疲れてしまう自分の額を拭い、痛めた手首に手拭いを巻いてくれた笑顔が…胸を切り刻みそうで。
(すべて嘘だった?)
帰宅して、表に干してある魚の干物は自分の釣ったそれ。
イサカルに分けて貰った活きの好い魚は、当日の晩にとっくに調理されている。
何をしても、何を見ても、凄いのはイサカルで。
鈍い自分を笑顔で迎え入れ、面倒を見てくれる兄貴の様な…
(木刀の構え方ひとつ)
(釣り針の餌の付け方、獲物を持ち帰るまでの方法)
(森に野兎を獲りに行く自分に、渡された方位磁石)
(群れから見えなくなった羊の事で、庇ってくれたのはイサカルだけだった)
確認のしようも…無い。
もう、イサカルは存在していない…
(イサカルの構え方、持ち方は違った気がする)
(彼の釣り針の先は、そういえば見た事が無い)
(迷った自分を捜しに来てくれて、安堵に思わず抱き着いた。けれど…あの方位磁石は、本当に正常に機能していたのか?)
(…イサカルに、ほんの少し番を任せた事を…今の今まで忘却していた)
「お、引いてるぞフリン、早く寄せろ!」
ワルターの声に、反射的に釣竿を立てた。
逃れんと惑う糸の先、水の抵抗、全てを一緒くたにして引き上げる。
「へえ、悪く無いんじゃねえのか。こりゃ早いトコ〆て帰るべきかもなぁ、魚籠を占拠しちまうデカさだし?」
横から糸を手繰り、慣れた手つきでワルターは針を抜いてくれている。
それを横目にしつつ、自分は水を滴らせる魚と目が合った。
血走った、まるで「目を逸らすなよ」と、訴えかけてくるかの様な、剥き出しの魚眼。
「おい、どうした…?」
釣竿を投げ打って、一歩退く。
先刻まで自分が腰を下ろしていた場所の脇から、冷たく重い得物を掴み上げた。
「何だ、悪魔か!?」
ガントレットでサーチしようとするワルターは、針を抜いたばかりの魚を置き去りに立ち上がった。
そこへ目掛け、大きく振りかぶって打ち下ろす。
「嘘吐きっ!イサカル!何が兄貴だ!」
ディエス・イレが濁った色に染まる。
悪魔の血よりも、身近で生々しい血液と臓腑の臭いが弾けた。
「トドメの刺し方なんて教えてくれなかった!」
唖然とするワルターの顔が、振り下ろす自身の腕の隙間から垣間見える。
幾度目かの打ち下ろしで、いよいよ鈍器の先端が土を抉っている感触に気付き、荒い呼吸のまま武器を脇に放った。
滅多打ちにされた魚は、脳どころか半身まで潰れていて。
どうしてこれをイサカルにもしてやれなかったのか、また込み上げてくる悔恨に、堪らずしゃがみ込む。
きっと、眼を逸らされ、トドメすら放棄された瞬間、苦しかったのだろう、地獄だったのだろう。
でも、自業自得だ。今まで散々頼られて、気持ち好かったんだろう?
駄目な弟分を作り上げて、知識を奪っていたのは誰なんだ?お前だろう、イサカル。
「サムライなんて…どうだって良かった」
ワルターに背中を軽く叩かれ、そういえばイサカルにも過去そうして慰めて貰った気がして。
思うだけ…に留めきれず、己の心にも打ち下ろした。
「譲れるものなら譲りたかった…ずっと、僕の兄貴で居て欲しかった」
ミカド湖の水面は穏やかで、あの頃イサカルと一緒に見たままだった。
魚の残骸をちらりと、腕と膝の隙間から覗いて…、いたたまれなさに涙が滲んだ。
そうしてまた目を逸らす。
違う…自分は昔から、意識的に逸らし続けていたのかもしれない。
長く垂れた髪を結って貰う時、項に微かばかり触れる熱い指も。
起こしに来た彼が、此方が覚醒しているとも思わなかったのか…覆い被さり撫でてきた事も。
ただ、ただ思うだけに…すべて、逸らせてきた。
瞼を上げる事なく、夢見心地のまま…水底に沈んできた。
しかし、独り外気に躍り出たイサカルは、〆られる事も無く渇いて死んだのか。
『御取込み中失礼マスター、生臭いニオイに悪魔が数体向かってきているわ。多分風下に居たのね』
道を別った原因が、左腕から警鐘を鳴らした。
「全く、バロウズは空気読まねえ」
『あら、生臭い空気を読んだ末の警告よ?』
「そういう意味じゃあ…って、解かって云ってやがるんだな、こいつ」
コツン、と、此方のガントレットを手の甲で叩いたワルター。
「立てるか?」
「…ああ、御免」
「お前こそ、何に対して謝ってるのか分からないぜ」
へらりと笑うワルターに、釣られて少しだけ笑ってみせた。
膝を伸ばし、続いて構え、再び冷たい鈍器を持ち上げる。
追い立てられるかの如く、ガントレットで召喚し、悪魔を見据えた。
何が慈悲かは分からない。それでも向かって来る敵は、せめて一撃で仕留めてやらなければいけないと感じ始めた。
俺の惨めな姿から、目を逸らすんじゃねえぞ
彼と己の甘えを砕く様に、得物を打ち下ろす。
ミカド湖の水鏡に映るのは、サムライの制服を着た自分だけで。
ほつれた麻に身を包み、笑い合う兄貴分の姿はやはり無かった。
愛の無智・了
*あとがき*
イサカルとの関係は凄く美味しく見えたので。 何でもやってくれる・教えてくれる兄貴分のせいで、フリンは自我が育っていないか抑圧されていたのではないかと、勝手に推測。
イサカルとも縁が切れてしまい、新しい環境で役目を与えられ、この先どうなっていくのだろうか…という主人公像。 フリンが唐突に感ずる動揺は、無知の知と成り得るのか…
ブログ掲載時は「陸の魚」というタイトルでした。