吊るされた写真。
角隠しに隠れる、咎める様な視線の花嫁。
狐の面の影で、哂いを忘れて見つめる花婿。
見えぬ筈なのに絡み合う視線は、彼等の様に不器用で。
それでいて強く求め合っていた。

何も生み出さないこの関係が
狂おしく、甘美で、幸せなのだと、予感させるセピアの写真。


訪れぬ夜明け



 
「ええっ、こんなに有休取って、何処行く気?」
上司の声には、微妙に不満が混じっている。それもそうか、私の行動はかなり、突拍子も無いから。
「ええ、ちょっと聖地巡礼に行こうかと」
「はぁ?宗教やってたっけ朝倉さん」
「いいえぇ、そういうの好きですけど、属してはいないですよ?」
承諾の声を聞かないままに、お気に入りのショルダーバッグを提げる。
「お先!」
まだデスクに齧りついている同僚達に挨拶して、椅子の乱立する通路を縫う。傍を通ると首で振り返って、返事なり文句なりを云ってくる。
「葵鳥(きちょう)さん!ずっこいっすよ!」
部下にあたる若造の、その呼び方が気に喰わなくて。オフィスの出入り口から一喝してやった。
「下の名なら、タエって呼べと云っているでしょッ!?もう…!!」
祖母は尊敬しているけれど、こんな名前を付けられる身にもなって欲しい。
男性にも舐められない…って、そんな問題じゃないでしょ。今の時代、名前は飾りよ、実力勝負―…って、名前に文句云ってる時点で矛盾してるぞ私。
とにもかくにも、朝倉葵鳥なんて本名は隠すに限る。
私の名刺は《朝倉タエ》と、誇らしげに名乗っているのだから。少なくとも仕事のフィールドでは、私はタエで居られる。


「ふひ〜…きっつ…」
緩やかな傾斜も、長々続くと拷問だと思う訳よ。無人駅から結構歩いたのに、なかなか見えない人里。ボストンバッグを草むらに降ろして、その上に腰掛けた。
ジップ下の仕切りから、携帯を取り出す。
(う〜ん、一応電波は有る、か)
開いた画面の三本線は、行ったり来たりして、おぼつかない。ぱたりと折りたたみ、元の位置に突っ込んだ。
深呼吸して、空を仰ぐ。やや白んだ空が、秋の訪れを思わせる。
「並ぶ山の重なりし、導くかのよに段に咲く曼珠沙華…」
周囲を見渡すと、確かに点在している、赤い帯。僅かだが、緑の隙間で揺れていた。
(お、当たってんじゃないの、タエちゃん!?)
飽くほどに読んで、暗記した文脈を思い出して立ち上がる。
(ゼンリンの地図でもかなりあやふやなのよね〜…この辺)
一応無人駅は在るのに、変な話だ。陽射しは熱いのに、山の陰に入ると一気に冷える。砂漠みたいな環境に、額の汗を拭った。
記者仲間の数人は、この先の里を知っている。そう、この辺は道も無い辺鄙な土地だが、しっかり人の気配が在る。偶に業者の出入りが有ると聞いたくらいだ。流石に方向音痴な私でも辿り着けるでしょ。


やがてぽつり、ぽつりと見えてきた家。棚田と曼珠沙華に囲まれた、集落。
(あった…!!烏の里!)
一見、只の山間集落に過ぎない。でも一部の人間達の間ではそう呼ばれている…。
物云わぬ里、忘れ去られている事実。巡礼には必須のスポットなのだ。仕事柄疼いて足早になり、ジーンズが内股で擦れる。
特に門戸の無い其処は、さりげなく侵入するには適していた。軒先で会話する人。小さな畑を行き来する人。押し車に自重を預ける老人。
(まあ、普通の辺境集落よね、ぱっと見)
首を捻る。どう考えても此処なのだけど、仲間内でも此処でストップする人続出。
あの草子、暗号でもあるのかしら。換字式暗号?転置式暗号?
(ううん、頭良いあの作者ならやっているかも…)
きょろきょろしながら、それらしい名残を探してみる。しかし、悪魔的な物は、何処にも感じない。住民に聞いても、ヤタガラスという単語に笑われてしまう。
「そら、お嬢さん、いつの時代の話だいね?」
朗らかに流され、こちらとしても苦笑いで返すしか無い。数軒当たって、どの家でも笑われてしまった。お茶でも飲んでいくかね?という誘いに、笑顔で遠慮し、引き返す。
お狐様の社を横切り、溜息を吐いた。
(らしい感じはしてんのに…誰か一人くらい、知らないのかな)
もう、血脈が途絶えたとか?そんな事を考えながら、ちょっとした広間のベンチに腰掛けた。やや間が有って、ふと気付いたが…此処は子供の広間だろうか。木造の遊具が見られる。
(一応、子供居るんだ……過疎地の義務教育ってどうなってんだろ)
学校に生徒が一人、というのも無い話では無い。教員の資格を持つ村の大人が、授業する。そんな身内の世界。
視線を向こう側に運べば、木造の…しかし、しっかりした造りの建造物が。
翳ってきた空模様に、窓硝子の反射が消える。
(学校…?)
いくつかの人影は、やや幼い。並ぶシルエットが、座る。自然に対面する側へと、視線をずらしていく。
「あ」
思わず立ち上がり、一歩、二歩と脚が動く。私の視力は低くない、しかし、もう少し…もう少し近くで確認したい。硝子窓が、開け放たれている箇所、その傍まで歩み寄り…蔦の這うその壁に寄り添う。
角度を変えて、内部からこちらが見え難い様にして…黒板側を見た。
(似てる)
そっくりだ、あの切れ長な眼といい、妙に鋭いモミアゲといい。
何より、遠目に確認しても判る、綺麗な面立ち。祖母に見せてもらった、古い写真の中の召喚師。小さい頃からの、私の王子様。
(って、ちょっと待ってよ、生きてる筈無いでしょうが)
しかし、あまりにピンポイントな出来事に、動悸が止まらない。
「先生、どうして管の方が良いの?」
「では君は、どうして機器型のCOMP(コンプ)が良いのかな?」
「だって、まずかっけえし…管ってちょっとアナログ過ぎん?」
「管はね、直接封じておけるのだから、実に精確(せいかく)な媒体だ…」
生徒と教師の会話にしては、偏っている。こんな辺境で、おまけに大学でも無いのに悪魔学?
「自身のMAGを操作出来ぬ癖がつく、あまりにCOMP頼りではね…」
黒板に白いチョークで描かれていく図式は、反牧歌的である。
「筆記し給え」
教師の言葉と同時に、机側から紙を擦り、黒鉛の削れていく音がし始めた。学生時代を思い出す。
「Handheld(ハンドヘルド) Computer(コンピューター)…は、悪魔召喚におけるプログラムをインストールする事で、対象との交渉が可能になる訳だが…」
箇条書きされていく、いくつかの要点。
「あくまでターミナルだ…接続が途絶えると、干渉不可能に陥る」
すらすらと黒板に紡がれていく文字は、酷く流麗で、迷いが無い。
(そういや、昔にはDSのCOMPとか、流行ったのだっけ?)
他には携帯電話とか、PSPとかそんな端末機器に無理矢理悪魔召喚プログラムをぶち込んで…とか何とか。自分は詳しく無いから、事情はよく知らないのだけど…
その時は暴走やら、仲魔の迷子が頻発して社会現象になったとからしい。
あれからサマナーの取り締まりが強化されたんだっけ?まあ、今の時代、純粋なサマナーなんて皆無に等しいのだけど…
「おや、もう時間だね……では今日はお開きにしよう」
チョークは止まり、教科書すら持たぬ教師が、少ない生徒達に向き直る。
「悪いが、本日で僕の授業は終わる、そのつもりで」
「ええええ!急じゃん先生!たった一ヶ月?」
「明日からは普段通り、里長に頼んである」
「ねえ、紺野先生って講師してる時以外って何してんの〜?」
「諸国漫遊だよ」
「偶にしか働いてないの?ずっけえの〜」
「フフ、婚姻休暇をずっと頂いているのでね」
ドキリとした。少々ショックというか、納得というか。
(え!あの人結婚してんの!?)
授業の終わった様子に、自身も息を吐いて、遠くの山を見た。
夕日の少し前の色、やや眩しくて、眼を細める。
「で、如何でした?」
その声が間近からのものと最初気付かなかった私は、普通に背後を振り返ってしまった。
「わ、あッ!!」
弾かれた様に脚がもんどりうって、花の無い花壇に尻餅を着く。見上げれば、窓に肘を掛けて哂っている教師。
「まさか子供以外にも御静聴頂けるとは思わなかったですよ」
クスクス哂って身を乗り出し、手を差し伸べてきた。なんだか色々恥ずかしくて、顔を熱くしながらその手を受ける。
「あ、ってか色々すいません、私勝手に…」
「構いませんよ、葵鳥さん」
その呼び名に、ジーンズから砂を掃う手が止まった。ゆっくりと教師を見て、問う。
「ちょ…っと待って!何故その名前を…?」
(私、そんなに有名になってたかしら!?)
訝(いぶか)しんで見ると、窓から肘を退いた彼が云った。
「古い知人に似ていたのでね、失礼」
その哂いのまま、教室の奥へと消えていく。
「あっ!ちょっと待って…」
窓に齧りついて、内に向かって声を張り上げる。
「貴方こそ十四代目にそっくりとか!云われませんっ!?」
歩みを止めて、少し振り返る教師。教室の中の翳りがさせるのか、眼が薄っすらと光っている様な錯覚すら抱く。
「何の十四代目です?」
まるで、試すかの様な、その哂い。何故だかびくびくしながら、答える。
「ヤタガラスの、最後の代の葛葉ライドウ」
云い終わると、教師は一呼吸置いてから、突然笑い出した。
「クッ…アハハ…!」
そのまま行ってしまい、置いてけぼりの私は呆然としていた。空になった教室を黙って見ていると。
「葵鳥さん」
背後から声。
(えっ、い、いつの間に?)
振り返ると、逆光に包まれたあの十四代目もどき、もとい教師。
先刻の白シャツに、スラックスと合わせたベスト姿。ほぼ黒尽くめ。
「何をしに、本日はこちらの里へ?」
その上から、さらりと黒い外套を羽織った。
(うわ、そうするとますますライドウなんだってば)
胸の高鳴りを潜ませて、落ち着いて返答する。
「昔、民俗学とか専攻してまして」
「土俗学ですか」
「まあ、そ、そうです…で!結構参考文献としてお世話になったのが悪魔草子で」
「ククッ…あの教育に悪い?」
外套を秋風になびかせ、教師はせせら哂う。
「先生も読まれた事あるんですか!?」
「紺野で良いですよ」
歩き始める彼に、追従して、たたみ掛ける様に問う。
「古い本だから周りに知ってる子がなかなか居なくて!嬉しいなぁ…!」
自分の事の様に誇らしくなって、読者の存在に口が綻ぶ。
「だから、読み解く限りでは此処がヤタガラスの里だと思ったんですよね、私」
「成る程」
「偶に台詞に出る訛りとか、里の描写の感じだとこの地方っぽいんですよ」
「確かにね」
「悪魔学は専門外なので、そっちからはアプローチ出来ないのが難点でしたけど」
「まあ、大凡(おおよそ)当たりなのでは?」
紺野はクスリと哂って、道を往く。道中の老人達も、笑顔で会釈している。まるで紺野が目上の様な扱い。
「紺野さん、此処ってヤタガラスの里で間違いないですかね!?どうですっ!?」
折を見て、再度確認してみる。
「フフ、そもそも十四代目が自らヤタガラスを潰したのでしょう?」
可笑しそうに哂う紺野に、ますます興奮する。
「わぁ、知ってます!?そうそう!そうなの!凄いと思わない!?だって当時の日本における国家機関なのよ!?」
思わず地の出た口調に、ハッとして止まる。
「お構いなく、造詣深い話に熱が篭るのは当然だ」
「ん、お言葉に甘えて…」
ボストンバッグを持ち直し、改めて口を開く。
「日本の悪魔って、殆ど彼に従属していたんでしょう?」
「さあ?流石に全てとは思いませんがね」
「一般にも悪魔が馴染み出てしまったけど、十四代目のお陰で崩壊しないで済んでるし、この国」
「へぇ…どういった考察で?」
「悪魔ってよく解らない…でも思うのは、十四代目が大正で、零(ゼロ)に戻したって事」
「零に?」
「そう!悪魔でも勢力?派閥的なのがあったらしいじゃない?」
「ガイアとメシアなんかは未だ根付いてますがね」
「えっ、でもそれは人間の、でしょ?」
「悪魔も人間も同じですよ」
向かいからすれ違う初老の男性に気付き、紺野が話ながら会釈する。
「紺野先生!」
駆け寄ってきた男性が、一瞬私を見たけど、まあ気にしない。
「明日発つのですか?」
「ああ、そのつもりだ…暫く空けるので宜しく」
「先刻集会所に向かったら、子供達から質問攻めですよ」
「フフ、申し訳無いね……まぁ、君は一番出来が良かったから、指導に不安は無い」
その紺野の台詞に、やや違和感を覚えた。
(出来が良かった?)
逆の見目なら解るが…これではまるで紺野が、男性の師みたいだ。
「では、無事に帰る事を祈っております」
「次に君が存命ならね…ククッ」
「そんなに空けます?」
「さあ?出先の様子によるので、何ともね」
飄々と返し、一瞥して通過する。そんな紺野に、何処か浮世離れな空気を感じる。
「で、零の説明は?」
「あ!そうそうそれでね!十四代目はそういう垣根関係無く、戦い、使役したのね」
「ふぅん」
「で、白黒分かれていた勢力が混濁して、変な争いとか、小競り合いが減ったのよ」
「…」
「白のトップも黒のトップも、争ってる場合じゃないって、雲隠れしたんだって」
「何処の情報?」
「悪魔専攻してたサマナーかぶれの元(モト)彼(カレ)」
あっけらかんと云い過ぎたか、紺野は失笑した。
「大方、貴女が十四代目の話ばかりして怒らせたのだろう?」
すい、と、綺麗な指で耳に黒髪を撫ぜつける姿。なんだか、そんな一挙一動にも惚れ惚れしてしまう。
「当ったり〜…」
「まあ、まだ若いのだから、もう数人いけるでしょう?」
「ちょ、紺野先生だって若いでしょ!おまけに結婚されてるそうじゃない!」
あはは、と笑って見つめれば、その双眸にじっと見つめられる。オレンジの夕日の反射じゃない、映り込んだ光でもない。
独りでに光る、冷たい瞳。
「若くないよ、僕は」
ニタリと哂って、続けた。
「十四代目はね…白と黒の頂点に君臨する悪魔を、敵に回した…」
「人間なのに、そんな相手出来たのかしら…」
「勿論、簡単では無い…だから手始めに、偏る事を止め、混濁した悪魔を率いた…」
「あ、そうなの!零ってのは私、そう云いたかった訳!」
「分かるよ、葵鳥さん…確かに、この国の悪魔の大半は…大正から無所属さ」
「十四代目は黒でも白でも無い悪魔達を率いて…何が目的だったのかな?」
私の率直な疑問に、外套を翻して紺野が颯爽と往きつつ答える。
「さあね…混沌が好きだからでは?」
その答えに、悪魔草子のストーリーが脳裏を駆け巡った。私は、両掌をパンと合わせ鳴らし、思わず発した。
「ああ!混沌の修羅ってモチーフ!らしいと思う!!」
思い出し、躍る心がお気に入りの台詞を口走らせる。
「―すべて下らない戯事よ、この世すべからく―…」
「―陰陽に分かれるのみ―」
途中から声を揃えて発した紺野に、はしゃいで訴える。
「十四代目って変わってるよね〜!ま、そこが好きなんだけど、うふっ」
「大正の、おまけに翳りの故人を何故そこまで?」
「悪魔草子もだけど、小さい頃に見せて貰った写真が決め手なの」
「あれの写真なぞ、そうそう有りはしない…」
「祖母が帝都新報の記者でね、お陰で葵鳥なんて古めかしい名前付けられちゃって」
「で、貴女も同じく記者に?」
「あれ?云いましたっけ?」
「いいえ、しかしそれらしいですからね、アポ無しな所とか」
意地悪く哂った紺野は、木々が影を落とす境内に入っていく。
「んもう〜からかわないでよ紺野さん!」
「フ…失敬……では何と呼べば良いのかな?」
「朝倉かタエでよろしく!」
そう云うと、紺野は肩を揺らして哂った。
「妙な感じだな、逆だと…クス」
そう呟いて、狐と狐の間を通る。外套姿の彼。どうにも時代錯誤な光景で、私は惚けてそれを見つめていた。
(この人、年齢不詳だな〜…)
そんな雑念に囚われている私を振り返り、紺野は延べる。
「タエさん、今から山を下るのは危ないと思うよ」
「ああ、まあ確かに…でも宿泊施設なんて無いわよね?此処」
「僕から話を通しておきましょう…今宵は此処の一室を借りていくと良い」
一体誰が里長なのよ?と突っ込みたい衝動に駆られながら、竹箒で石畳を撫ぜる袴の人間に紺野は何やら話している。いくつかうなずいて、袴の人間が私を見た。
「朝倉様、我々が休憩に使う場で宜しければ、なんなりと」
そう云われ、慌ててボストンバッグを掴み直して駆け寄った。
促されるまま、石畳から外れてちょっとした建物にその足が向かされる。
先刻聞かされた通り、きっとこの社を管理する際の休憩施設だ。
「ではタエさん、僕は明日発つので、もうお別れかもね」
少し遠くから、調子を崩さぬ笑みで発する紺野。それに少しがっかりしながら、礼を云う。
「もっと色々お話したかったわ、紺野先生、とても博識でいらっしゃるから!」
「フフ、したいようにしているだけさ…ではね、御休み」
すると、どこからともなく黒い影が現れ、彼の脚下にととっ、と寄った。夕刻の薄闇に、翡翠の眼がキラリと輝いた。
(黒猫!)
ますますライドウっぽくて、感嘆の溜息を吐いた。
「朝倉様」
「あっ、は〜い!今行きます!」
袴姿の管理人に呼ばれて、私は向きを直す。
ちらり、と振り返った時には、紺野と黒猫は姿を消していた。


『お前、秘密を知りたいのだろう』
(何よ…流石に疲れてんだから、ちょっと、寝かせてよ…)
『今宵は特別なり』
(煩いなあ)
『ヤタガラスの里へ向かうが良い、人間の女』
「ヤタガラスっ!?」
がばり、と布団を跳ね除けた。ひんやりとした板の間に、私しかいなかった。
脳内に響く声は、何だったのだろうか。まさか、心霊現象?
それが霊なのか悪魔なのか、判断すらつかずに震えた。流石に、社の傍だけあって…まあ、いない事も無いと思う。
「うへ…ちょっと待ってよぉ」
恐怖を誤魔化す様にひとりごちて、ボストンバッグから携帯を引き抜く。開けば画面のバックライトが周囲を薄く照らす。今何時なの…と、画面の端を見つめる。
《社の中から里に入れ》
メール画面に切り替わって、ただ一文、ぽっかりと表示されていた。いつの間にメールの項目なんて、選択したのよ、私。

《ヤタガラスの里は奥に有らんや》
《秘密を知る事がお前は出来よう》
《人間の気配に 人間なら乗じる事が出来よう》
《お前しか知る事の無い世界が すぐ其処にあるのだぞ》
流れていく文章。ぼうっと見つめる私。電波状況、ゼロ。
《さあ 立て その手でこじ開けよ 秘密の園を》
携帯を持つ手が、じんわりと熱を帯びてくる。
(ああ、私、何しに此処に来たのよ)
ハンガーに掛けておいたカーディガンをもそりと肩に羽織る。携帯をポケットに放って、腕を通しつつ出口に向かう。足取りが妙に軽い。
(ヤタガラスの里を探しにきたんじゃないの…)
そう、そうだった、このまま帰るのはどうなのよ。そうよ、私、有休取って来てるんだし、結果出さなきゃ。
山歩きに買った、新品のスニーカーに素足を突っ込む。無用心に施錠すら無かった扉をガラガラ、と横に開く。薄く、霧がけぶる、月光に照らされてそれがぼやける。
脚が先刻のメッセージを思い出し、社へとふらふら進む。拝殿の奥から、違う空気を感じる…
格子に指が伸びる。勝手に?いえ、私の望み通り?普通に、其処は開いた。
やんわりと内部から吹き抜ける風は、生暖かい様な、冷たい様な。
(なんで屋内から風が吹いてるのよ…)
そんな事はどうでも良いでしょ、と脳から送られる電気信号は思考回路よりも脚の動きを優先する。
ギィ、ギィ、と、背後で格子が揺れる音がする。暗い拝殿内を、板を啼かせて進んでいく。ふわり、と、赤い光が周囲にチラつき始める。
(夢かな)
ぼんやりとする視界の中に、段々と色を増して、鮮明になってくる。
(曼珠沙華…?こんなに沢山咲いてる)
さざめく赤い海、いえ、そもそも此処は拝殿内だったのでは?違う所に繋がっていたのだろうか…朦朧と歩いてきたので、位置関係も把握出来ていない。
振り返ると、同じ様に社がある。でも、先刻いた里ではない。もっと赤い、もっと鮮やかだった。首を捻って、向き直る。そのままぼんやりと歩き出す。踏みしめる草原が、本物かすら分からなかった。
(ああ、里がある)
古めかしい木の門。そこに辿り着くまでに、小さなせせらぎを渡る。音も無く流れる水は、空の色を含んで、薄暗い。月光が照らし出す、その全景を見て…身体に震えが奔った。
ああ…こっちが本物だ…ヤタガラスの里だ、直感で思った。その門を潜って、私はやや興奮気味に見渡す。
「旦那も相変わらず人使い荒ぇっての」
「悪魔使いでなくて?」
遠方からの声に、思わず近くの小屋の影に身を潜めた。声は段々近くなる。会話だから最低二人は居るのだろう。
「もうこのカッコに慣れすぎて、今じゃバリバリの人間サマよ」
「あらあら、しかし貴方、元々人間ですものね」
「九郎って呼ばれるのも、正直悪かねぇわな」
「随分チャラい九郎ですわね」
「っせぇな真珠婦人!」
通過していく会話達、愉しげに消えていった。ドキドキしている胸を押さえ、深く息を吐く。そりゃそうよ、里なんだから人は居るってば。何故隠れた?そんなの、ぼやけた思考回路でも解る。招かれざる客なのだ、私は恐らく。
遠くなる若そうな男女二人を視線で追い、霧に消えるまで確認した。
(皆、召喚師…デビルサマナーだったりするのかしら)
警戒しつつ、それでいてずけずけと歩みを進める。
「待って!こらっ、待ちなさいってば!」
駆け寄ってくる声と、動物の息遣い。ビクリとして隠れる場所を咄嗟に探す。
しかし、そうこうしている内に声の主達が姿を現す。霧を縫って出てきたのは、帽子をした少女と犬だった。
「ワウッ」
その犬が、立ち竦む私の脚の先で止まる。不思議な犬、首から上だけ毛色が黒だ。
「しょぼたんの命令では止まんないくせに!この駄犬っ!」
駆け寄って来た少女が犬に一喝して、すぐに私を見上げて云う。
「おね〜さん、新入り?」
その問いの意味が解らなくて、私は口魚みたくぱくぱくさせた。
「あ、その」
「あ〜いい、いいって事よ!分かんない事があったら、このショボーにまかせて」
胸を張る少女、跳ねた髪が愛らしいが、何処か浮いている…
「しっかしライド…夜もい〜かげんココを空けすぎだっつうの!ねぇ?」
同意を求められ、答えれる筈も無いのに…
「ライドウ?」
引っ掛かった単語を鸚鵡返しする。
「あぁう、昔の癖でやっぱそう呼んじゃうんだって、しゃんないでしょ…!」
頬を両手でむにゅ、と挟んで、苦い顔をした少女。傍の犬は私をジッと見つめて、どうも詮索されている心地になる。
「って!こんな立ち止まってる場合じゃ無いでしょイヌガミ!」
イヌガミと呼んだその犬の尻尾をぐい、と掴む少女。
「アオンッ!」
「え?そりゃヤシロ様を久々に御拝顔するために決まってんでしょ〜がっ!」
薔薇色に染め上げた頬と、綻ばせた口元。満面の笑みで少女は尻尾を引っ張った。
「ギャウン!」
「はぁ?うっさいわね〜!ホラ準備!明日にはまた行っちゃうんだからっ」
じゃあね!とまだ冬には早いのに、薄手の手袋の片手を上げて挨拶する彼女。
もの云いたげな犬が、私を幾度か顧みて、引っ張られていった。
(び、びっくりした…!)
よく分からないが、勝手に解釈してくれたようだった。なんだろうか…こう、おかしい感じがする。
人は居るのに、人の気配がしない、そんな感じ。
(やっぱり夢?)
しばらく歩き続ける。薔薇園で悠然と微笑む美女やら、軒先で人形の糸を付け替えているフードの人物。まるで…
(悪魔草子の劇中みたいよ、これ)
大丈夫?私。好き過ぎて夢に創っちゃった?それだったら是非、狐の化身も見たいんだけどな。そんな煩悩に囚われたまま、奥へ、奥へと進む。
「っわ!?」
唐突に、ポケットからじわりと熱が流れ込んできた。それがきっかけで、携帯を持ってきていた事を思い出す。取り出し開けば、またあの文字。
《主は懲罰房に在り》
懲罰房とは、これまた物騒ね。霧が少し濃い中を、手探りで進む。ふわり、と、穏やかに薫ってくる、白檀の香。赤い光がたゆたう、開けた空間に出た。
(庵(いおり)…)
広い空間に、ぽつりと庵が在った。曼珠沙華に囲まれて、その庵の傍には赤い紅葉の樹が垂れている。上に浮かぶ月が、その全てを照らしていた。
《目的の場は、すぐ奥に》
手元の携帯が、そう文字を打った。もう一度見上げると、確かに…庵の奥に倉みたいなのが見える。……行けっての?
もう、こうなったらとことん行ってやるわよ。記者魂を有休中にも発揮してしまう、そんな私に拍手と溜息を贈りたい。ざくざくと、赤を掻き分けて、その朧気な庵に近付いていく。落ちる影の揺らめきに、ふと脚を止めた。
光源は、上に鎮座する月だけでは無い。庵の丸い、洒落た窓を横切ろうとする私。その窓から漏れる仄光りが、人の気配を匂わせる。
(覗き見なんて、昼もしたけど、悪趣味よ…タエちゃん!)
でも、気になる。正直、向こうの懲罰房より、この瞬間、気になるのだ。耳を澄まして、そっと視線を投げ入れる…
「産後だから緩いね」
「なら…挿れんな…っ…」
「折角君の為に里帰り出産させてやっているというに」
「あんたの…エゴだろ」
「この身体の君を味わえるのは、この期間だけだし?」
「変態野郎…っあ、あ」
「ほら、僕を生んだ時の様に、もっと力んでくれよ、フフ…」
頬が紅潮する。元彼と別れてから、既に渇ききった砂漠のタエちゃんにはキッツイわよ。おまけに、片方は聞き覚えのある声。眼を凝らすと、灯篭に揺れる影が二つ。
(うわ、やっぱり紺野さん)
妖艶な笑みで、はだけた着物から見える肌が白い。少し解けた前髪が、云い様の無い色香を漂わせている。つまり、相手は奥さんという事だろうか。
好奇心で、その組み敷かれる側を見た。
(…えっ?)
その相貌は、ともすれば少年の様で、更に私を驚愕させたのは…その肌を渡る、黒いラインだった。仄暗い中、深海生物みたく、幽(かす)かに光を脈動させて。その指先が、紺野の首を絞める様に、絡んだ。
「あ、っ…いい加減に、しろ…」
「くびり殺す?ククッ」
「はぁ、っ…ぁ…あ!奥に、やめっ」
「先刻まで身篭っていた肉体に抉られるって、どんな気分だい?」
「き……鬼畜っ…」
「魂とすぐに馴染んでくれるのは、君が僕を欲しがっているからか?フフ」
「ぁ、ぁあ!っ、ざ、けんなっ」
「男で身体を嬲られるのと、女で尊厳を嬲られるの、どちらが好き?」
「どっちも反吐が出るっう、あぁあ…ん」
「ああ、どちらも甘美?それは結構…フ、アハハッ」
絡めた指は、絞めている様な、求めている様な。零れた胸元を見れば膨らんでいた、つまりは紛う事無き女性である。彼女の、睨みつける金眼が眩しい。その視線の先、酷い物云いで嬲りつける紺野の瞳。それもまた、ゆらりと金に輝いていた。
(あ、悪…魔?)
悪魔の瞳というのは…猛き悪魔ほど、純粋な金色に輝くと草子で読んだ。では、組み敷かれるあの女性は…悪魔?確かに、あの身体の紋様…一瞬そういう民族を思い出したりもしたが…しかし、彼等の全身刺青の魔除けは発光しない。
(何か、思い当たるのが…)
考え込むと手元の携帯が怒る様に光った。
《早くしろ》
《此処まで介入したのだ 覚悟はあるのだろう?》
その、脅しに近い文体に冷や汗が出てきた。
《奴等に見つかればお前は殺されるかもしれないぞ?》
《さあ早く懲罰房の封を解け》
《すれば 中より放たれし主がお前を護ろう》
(何、つまりそれしか道は残ってないよ〜って云いたい訳?)
窓からゆっくりと離れ、庵の影にひっそりと佇むその倉に寄った。扉は一見何も施されていない。試しに、掌を扉の肌に当ててみた。すると、携帯からその掌まで、一気に何かが駆け上がる感触。
「ッ…?」
携帯の液晶から、ぐらりと何かが立ち昇る。見えない、けど圧を感じる。そこに…何かが居る。
『御苦労、後は此方で解呪しよう』
声が聞こえる、それにぞわぞわと栗立つ。かしゃん、と内部からの音が響いて、懲罰房なる倉の扉がゆっくりと開く。慌てて、その見えない何かに向かって小声で叫ぶ。
「ち、ちょっと!バレちゃうじゃない!こんなバタバタしたら!」
『私はシトリ様を解放出来ればそれで良い、お前の処遇など知らぬわ!』
そのあんまりな返答に、見えない相手とはいえ怒りが込み上げる。開かれた扉から、轟々と風が吹き抜ける。
『おお!シトリ様!永きに渡る幽閉!今救わんと参った所存ですぞ!』
声が感極まって、叫び始めた。もう此処に居るのは危険。そう感じて、震える脚を踏み出そうとする。
「おい!何してくれてんだぁ?姉さんよぉ?」
来た道を戻ろうと踵を返した視線の先、入口付近で見かけた青年が居た。
「ありゃあ旦那の大事なお客さサンだからさ、特等室に入れてやってんだよ」
黒い挑発を後ろの高い位置で束ねた、少々ヤンキーな口調の彼。崩して着た甚平が、祭りのヤンキーそのものである。
『邪魔させぬ』
あの携帯から出てきた声が、どうやらヤンキーに噛み付いたらしい。
「けっ、シトリの野郎、正座のし過ぎで脚痺れてんじゃあねえのかい?」
『ほざけ!』
「まぁだ房から出てこれねぇでやんの〜ひひっ」
腹を抱えて笑う青年が、私をジロと見て通り過ぎていく。
「アンタの処分は旦那が決めるこった、俺はこいつ等を戻すのが役割なんでね」
ビビって声の出ない私に背を向けたまま、怖い台詞。そのまま彼は束ねた髪をばさりと解いた。長い黒髪が舞ったと思った瞬間、その姿が消えてしまった。
『あ〜あ、久々の鎧とかタリぃわ〜重!』
あの声だけが響くその空間。肉声が、ぼやけたそれに変わった。
『十四代目のヨシツネか!!貴様』
『旦那につられて悪名高くなったヨシツネたぁ、確かに俺様のこった』
私は走り出す。背後から衝撃がきて、それに背を押されても、とにかく走った。
「はっ、はぁ、はぁ」
息が簡単に上がるとは、典型的な運動不足。こんな時に人間は後悔するんだろうな、とか思った。
パァン
突然の乾いた音に、反射的に振り返る。庵の、あの窓の位置から…突き出た腕、それが握るのは…まさかの銃。
『旦那、さっすが〜!』
遠方からでもしっかりそう聞き取れた。あの青年の敵を、つまり私を導いた不可視の存在を銃撃したのだと思う。日本では滅多に聞かない発砲音に、全身が震え上がる。
(紺野さん…!!)
絶対撃ったのは、彼だ。転げそうになりつつも、もう背後は振り返らずに走った。
霧をつん裂いて、宵闇を駆け抜けていく、赤い海に波立てる。
(殺される)
悪魔だ、きっとそう、悪魔なんだ。確かに、此処はヤタガラスの里なんだろう。
でも、悪魔しかいない。歩いていた彼等も、紺野も、皆、悪魔なんだ!
(追いつかれたら、殺される!!)
見えてきた里の門に、一瞬の安堵。だが、その門下の中央にあの犬が居た。まさか、と思い動悸が跳ね上がる。
『待テ、ライドウニ、突キ出ス』
人語が脳内に垂れ込んできた。片言な感じだが、きっとその犬。眼の前で、黒い頭がぐわぁんと上がってきた。いや、胴体が、ろくろ首が如く伸びたのだ。
その瞬間に見えなくなり、立ち止まった私のカーディガンがぐいぐいと引かれる。
「きゃぁああああッ!!」
暴れて、腕から捲れ脱げるカーディガン。それが巻きつく様にして、私から見えない犬に移った。
『ムグ、ク…』
引く力が和らいだ隙に、カーディガンを置き土産にして走り去る。小川を飛び越え、草を掻き分けて、霧の向こうにぼやける社を目指す。
(あと!あとひと息!!)
ああ神様、もう私はずっと葵鳥と呼ばれても構いませんからお助け下さい。具体的に思った訳では無いが、本当にどうでも良い事で逃れようとしている。
無神論者が祈る瞬間なんてそんな時しか無いと、普段せせら笑っていた私。
社に一歩、踏み入れる。白檀の薫りも、濃い霧も、鮮明な月の光も背後に吸い込まれていく。踏みしめる草が、板の音と感触に変わっていく。
「ぜぇっ……は〜っ…は〜っ…」
暗い拝殿内。息の上がりきった私の、情けない呼吸が響き渡る。膝に手をつき、逆さになった背後の視界を股の間から見た。向こうの闇からは、何も追ってくる気配は無かった。
(助かった……生還ルートよ、これ、タエちゃん…!)
カーディガンも無く肌寒いが、何事も無かったかの様に布団に潜り込もう。そうすればきっと、朝が来たらきっと…!
「お嬢さん、何しに此処へ入っただね?」
前方からの声、それは人間の肉声。頭を上げて、しっかりと立つ…いや、立ち竦む。
拝殿の入り口に、いつの間にか数名、ぞろぞろと。この人影達…もしかしたら、里の人間全員ではないか?
「あ、あのっ、すいません、勝手に入ってしまって!その」
説明しようが無いけれど、一応謝罪から入る。
「何故上の里に行ったんだ?」
昼に見た里の人間が、一斉に糾弾してくる。
「折角寝床も提供したのに、仇で返すのか」
「手先かもしれん…」
「この時期狙って来たなら、姑息としか」
口々に呟かれるその台詞、覚えの無い事に恐怖しか這い上がってこない。
「待って!私、別に迷惑を掛けたくて来た訳じゃ―…」
「朝倉さん、我々の存在意義は、貴方みたいな不穏な者を除ける事なんですよ」
「な、何それ…除けるって」
「下の里はフェイク、そういう事です」
縁側で朗らかに会話していた人、社の管理人、農作業の中年夫婦…皆、私を射る様に、見据えている。
「あ…あ、あの……」
後ずさる、でも背後は怖い。《とおりゃんせ》が脳内でエンドレスリピートしている私。いきはよいよい、かえりは…
「十四代目の邪魔はさせぬ!」
荷車を押していたあの老婆が、片手でその荷を板の間に叩き付けた。その反動で、開いた荷の蓋から飛び散ったのは、実物は初めて見る召喚器。
(管!?)
散ったそれのどれが己の物か、まるで知っているかの様に…一同が床に指を伸ばす。体格はバラバラながらも、陣形を取った。
「ちぇ〜管かよ、お古だし」
交ざる子供が文句を垂れると、里長と云われていた初老の男性が叱咤した。
「ゲーム機にばかり頼らんで、管で鍛えんか!此処の力を落とす気か全く…」
「だってえ…」
管をペン回しする少年がしょげる。
「お前達も、丁度良い機会だから、責務をしっかと見ておき」
母親の様な女性が、その子の背を押す。一見暖かい光景、でも、間違いなくその管から召喚されるのは悪魔で…その悪魔達が攻撃する対象は、私、だ。
「上で何してきたか知らんが…昼にあんな探ってたもんな」
「い、いや…違う、違うの!ねえ、ちょっと!」
管を翳し、不思議な光を纏い始める彼等。老若男女、皆が管を振り翳す。デビルサマナー。もう、この時代には絶滅危惧種だと思っていた存在。
「かかれっ!」
里長が叫ぶと、ぐわっ、と凄まじい圧が向かって来る。でも見えない。
眼を瞑って、頭を抱えて庇う。丸腰の私には、もうそれ位しか出来ない。傍に稲妻が落ちたかの様な轟音が、腕に塞がれた鼓膜にまで伝わってきた。
…でも、痛くは無い。パラパラと砂埃が跳ねる音や、軋んだ天井からの音。ハッ、として瞼を開けた。誰かの脚が、落とした視界の先に在る。
「武力行使ってのは、昔から相変わらずなんですね、貴方達」
裸足に渡る黒いライン。それを辿る様にして、上へと昇っていく。白に赤い曼珠沙華の刺繍が艶やかな着物。それを適当に羽織っただけの、あの悪魔の少女が立っていた。その涼やかな項には、角の様なものが生えている。
「おお!修羅様!!」
絶叫する里の人間。管を取り落としている者も見えた。
「悪魔、さっさとしまって下さい」
ぼそりと呟く少女は、片手をぶらぶらと払った。向かいを見れば、柱から梁…天井までを奔る裂傷。
(この子がやったの…?)
眼の前の、貧相な身体つきの少女に畏怖する。
「だから烏も悪魔も、嫌いなんですよ…!」
「しかし修羅様!十四代目も今宵は大事な日では…」
「もう終わりましたから…ピンピンしてますよ、あの変態野郎」
苦虫を噛み潰す様な表情で、裾の砂埃を掃う彼女。修羅と呼ばれる、その姿…悪魔草子の陰徳篇を思い出す。まさか、混沌の…
「誰が変態だって?功刀君」
その声に、里の人間が膝を着いた。次の言葉を待っているのか、皆、無言のままで平伏す。背後から、私と彼女の間に現れた黒い影。
「皆、御苦労…」
黒い外套の紺野が、その里人の視線の中央に立った。
「朝倉さんは寧ろ被害者だ、丁重に扱い給え」
そう云いつつ外套の隙間から、す、と差し出されたそれを見て、思わず叫んだ。
「私の携帯っ!!」
いつの間に落としたのだろうか。確かにポケットに感触は無い。その携帯をパチリと片手で開いた紺野は、哂って語り出す。
「悪魔召喚プログラムがインストールされていた…彼女の寝ている隙に、だろうね」
あの昼の授業で聞いた単語が、まさかここで出るなんて。
「シトリの残党が、最近此処をうろついていた様子だ…彼女を媒介に利用した、という訳さ…」
パチンと閉じてニタリとした。
「ね?だから管が精確なのだよ、勉強になったかい?」
皆の中に紛れている、授業でCOMPを推奨していた少年がピクリとした。それを確認してフフ、と哂った紺野。私に顔を向け、携帯を投げて寄越してきた。
「わ!と、とっ」
鈍い私の反射でも受け取れる位の、親切なコントロールだ。
「葵…タエさん、今宵はすまなかったね、怖い思いをさせて」
しっかり名前を云い直した紺野に、功刀と呼ばれた彼女が突っ掛かる。
「何が怖い思い、だよ……あんたが一番凶悪だって」
云いつつ、紺野の脚下を爪先でつついた彼女。
「早く殺してやれよ、こいつ」
その言葉に違和感を覚え、よくよく見ると…紺野の脚は、何かを踏んでいるのか、浮いていた。私には見えていない存在、つまり悪魔か。
「人間を使って侵入してくる等と…意外な盲点を突かれ少々癪だったのでね」
クスッ、と哂った紺野は、外套を揺らした。連続して響く発砲音、液体の飛び散る音。あのCOMP少年と、私だけが身体をビクリと跳ねさせた。
外套の内側で銃を扱っていたのか…紺野の足下に、どす黒い水溜りが広がっていく。
「あんたも大概外道だよな」
「おや、シトリに逃げられて困るのは君だろう?」
「あんたもだろ」
「この身体なら当分持ちそうだからね…もう馴染んでるよ、ほら!」
蹴り上げる紺野、その先の壁にべちゃりと、何かが潰れて付着した。可笑しそうに哂う彼に、私は開いたままの口が塞がらなかった。
「ああ、弱いな…本当……」
十四代目と呼ばれる紺野、その眼が金色に輝いている。
「こんなでは終着点が近くなってしまう」
「近くて良いだろ」
「まだまだ遊び足りないからね」
「…云ってろ」
項垂れる悪魔の彼女に寄り添う様に、紺野は歩み寄っていった。返り血に濡れた彼のスラックスが、その身体に絡む。彼女の着物の裾に、違う赤の花が滲んだ。
「この世すべからく混沌なり」
哂って、苦い顔をしている彼女に接吻する。その、返り血が、眼元に朱を入れたかの如き彼の横顔。
狐の化身を連想して。その彼に向かい合う彼女は、修羅で。
悪魔草子を思い返しながら、私の意識は暗転していった。


「お早う御座います、タエさん」
「お早う紺野さん!」
流石に辺境の朝は清々しい。朝日が山に隠され、まだ青い朝。霧が涼しくて、身体を震わせた。
(おっかしいな〜カーディガンが見当たらないのよね)
お陰で結構寒い、しかし空元気で誤魔化せる範囲だ。
「駅までご一緒しますよ」
黒い外套に、トランクを提げる姿は既に旅人だ。そんな彼の背後に、見慣れない影が居る。
「ああ、これは僕の従兄弟ですよ、フフ」
哂って云う紺野は、すい、と身を引く。現れた少年は、癖のある黒髪が艶やかな、紺野よりやや幼い雰囲気の子だ。
「はじめまして朝倉さん、功刀です」
「はじめまし……て?」
私の差し出した手に、軽く握手した彼が怪訝な顔をした。
「あの、俺の顔になにか」
「う、う〜ん……いや、そのね、顔に何か…」
(何かが足り無い気がする)
おまけに、初対面だっけか?
「あの、双子とか、いる?姉か妹って」
そう問えば、一瞬眼を見開いた功刀。傍で哂う紺野。
「もしかしたら昨日、女の子と思われ、すれ違っていたのかもねぇ?」
そんな紺野に、功刀がキッとなって背負った鞄をブン、と振り叩き付けた。
「うるさいよ、あんた」
すれすれで避ける紺野が、相変わらずの哂いで帽子を取り出しかぶる。そのシルエットに、思わず口走る。
「やっぱ紺野さんって葛葉ライドウみたい」
「凄い変人でサド野郎って所は似てますけどね」
付随してきた功刀は、紺野と眼を合わせずにマウンテンパーカを着込む。それを見て、やっぱ寒いかな、と肌を震わせた。
「ヤタガラスの里、やっぱり血は絶えちゃってたみたい、結局分からなかったわ」
「それは残念でしたね…」
「ま、っぽさは満点だったからばっちり撮っておいたけどね!」
シャッターを押す素振りをして、笑いかければ紺野がニタリとして一瞬眼を逸らした気がする。
「ところで、お二人は何処に旅立つの?ってか従兄弟と旅行?」
「本当は新婚旅行の予定だったのですがね、家内が行けなくなってね」
「あら、お気の毒に!」
こんな十四代目似のイケメンと旅行だなんて、やはり神様は贔屓を許さなかったのね。意地悪な私の心は、密かにその奥さんが行けなくなった事実を笑っていた。
だって、ずるいんだもん。
「俺だってこんな奴と行きたくな―…ッ」
傍の功刀が云い切らぬ内に、紺野がその彼の臀部を強かに蹴り上げて述べる。
「次は倫敦に行こうかと思いましてね」
「わぁ!ロンドン!?良いなあ〜」
「悪魔学的に見てもメッカですから、好きでね、数回行ってますよ…フフ」
きっとその外套が風景に似合うのだろうな、と思い妄想してしまった。
「ブリティッシュスーパーバイク選手権あるから…それだけは好き」
臀部をさすり、不満気な表情のまま言葉を追従させる功刀。
「あら、なんか意外だわ、モータースポーツ好きなの功刀君って?」
あらあら、大人しい雰囲気だけど、やっぱオトコノコねぇ。
「ええ、ワイン・ガードナーが優勝した時が一番興奮し―…」
その瞬間、何故か彼の臀部にもう一発、紺野の蹴りが炸裂した。
「ってええな!!何だよあんた!?」
「興奮して時期も忘れたか?少しは意識し給え」
そのやり取りで、ハッとした功刀は口を紡いだ。きょとんとしていると、レールを踏む音が遠くから響いてきた。山間を縫うようにして残響が輪唱している。
「あ、じゃあお二人共、良い旅行を!」
片手を上げ別れの合図とし、ボストンバッグを掴む。
「タエさんも、気をつけて御帰り下さいな…フフ」
哂う紺野は、最後まで私の王子様と似たシルエットだった。
「もう少しマトモな所に観光した方が良いですよ、朝倉さん」
何故か失笑気味の功刀君、此処をマトモと見ていないのだろうか?赤い華も綺麗な山里なのに。ヤタガラスの里…っぽい、し。
乗り込んだ列車、誰も居ない車内の適当な場所に座る。遠くなっていく彼等は、霧の中を歩き出していく。
(まさかこの山、徒歩で下りるの?)
そうそう高く無い位置だが、しかしどうなのだ。一緒に乗れたなら、もっと沢山興味深い話が聞けたかもしれないのに。そう思いつつ、明日からの仕事を思い脱力するのだった。


「ちょ、葵鳥さん冗談きついって〜!!」
ドッと沸く一同に囲まれ、私はそれでも懸命に説明する。
「だから!本当にすり替わってたんだってば!」
「なんで盗られるだけならともかく、置き替えられてるワケ〜?」
「私が聞きたいわよっ!」
帰宅後、開けたボストンバッグの中。愛用のメタルピンクの五百万画素デジカメ…が、無くなっていた。そして何故か入っていたのは、年代物のセコハンカメラ。
(ちょっと〜高かったのよあのデジカメ)
やけにバッグの中でスペースを取っているなぁ、とか思っていたら…
それはそうだ、デジカメより二周り近く大きいのだから。しかも重い。
「良い有休だったようで」
「もぉ!勘弁してよっ」
外国帰りの同僚が、皆のデスクにお土産を置いて回っている。当然お土産なんて私は用意出来ていない。
「はい、葵鳥さんの分よ」
「…」
「はいはい、タエちゃんの分」
「ありがとぉーうう」
受け取れば、ハロッズの銘が入った紅茶葉のセット。
「え!ロンドン!?」
「そうなのよ、夫と楽しんできました〜」
にっこりする同僚に、微妙な気分で詮索する。
「あーそうですかそうですか、で、何か面白いの見れた?」
「それがねぇ、一部の区域が入れなくって…なんでもね、悪魔出たらしいわよ」
「はぁ!?悪魔!?」
周囲もぎょっとして、作業の手を止めた。
「枢機(すうき)卿(きょう)とかまで動いて、どーやら教会関係者はざわついてる様ね」
「そんじゃ、今ロンドン観光しても微妙って事かな?」
「そうねぇ、ハロッズで買い物して終了って感じ」
「なんだぁ、タエちゃんと似た様なもんじゃあないの!」
ゲラゲラと賑やかに沸く職場、私は少し胸がざわついて、席を立つ。
「ちょっと用事有るから、お先に」
貰ったお土産をショルダーバッグに入れ、つかつかと離れていく。
「今度はハネムーンで行けるといいね!タエちゃん!」
背後からの野次に「うっさい」と一言返しつつ、オフィスから出た。
(ロンドンで、悪魔…)
もやもやとした思いのまま、帰宅する。携帯を開くと、いきなり文章。
何故かドキリとしたが、どうやら受信したのを丁度開いてしまったらしい。
《暗室準備完了》
そんな一文だけなのが、相変わらずで思わずクスリと微笑んで返信する。
《では作業しに参ります!》
適当な黒いストールに、ぐるぐると包んだセコハンカメラそれをショルダーバッグに突っ込み、再度家を出た。


相変わらずな元彼氏の家。オカルトマニアで写真オタク、なんと好都合なのだ。
「きっちゃんさぁ、まぁだ追っかけしてるの?十四代目のさぁ〜…」
「うるさいわね〜もうこれは私の人生の華よ!」
「どうせまだ独り身なんでしょ?」
「貴方だって!いい加減バフォメットの置物片しなさいよ!不気味ね!!」
「良いじゃん!バフォメット!!」
「連れ込んだ女の子逃げるに決まってんでしょ!!バカね〜本当!」
「嫉妬されないって!バフォ様は両性具有だし!」
「違ぁうッ!!」
道具は暗室に用意されている。なのでセコハンだけ持って暗室に篭る。扉の向こうからなよなよした呼び声がするが、無視して遮光カーテンを更に引く。全く、どうして同じ悪魔好きでも十四代目とああ違うのかしら。ガッカリしながらセーフライトの赤っぽい光を見つめる。
(しかし、私までどうして覚えちゃってんのよ、焼き付け)
無音の空間で、セコハンから出てきたネガフィルムを甦らせる。まさか、入っているとは思わなかった。保存状態によっては何も浮かび上がってこないよ、との元彼の葉。思い出したソレを振り払って、自分でやるんだから良いでしょ、と作業続行する。
(え、なんとなく見える様な、見えない様な…)
微かに浮かび上がる景色に、首を捻りながら手を動かす。水洗いし、ぼやけたそれをクリップで挟み吊るす。浮かび上がる、影。
「あ…」
先日の里が、脳裏を駆け巡る。記憶の水底に沈殿した彼等を、撹拌して舞い散らせた、風花の様に。睦まじく戯れる、狐の化身と修羅が視えた。
「そっか」
その、くすんだ色の写真を見て…全てに納得した。
「なぁんだ、ちゃんと続いてたんだ、悪魔草子」
暗い部屋で、もう点けても良い筈の灯りも点けず、私は椅子に座って、吊るされたその写真達を眺めていた。
「きっちゃん!出来た!?出来ないなら手伝おうかぁ!?」
「出来たけど、ちょっと独りにさせて!後で悪魔大全一緒に見てあげるから!」
扉越しの声に溜息を吐きつつも、そう云い返して吊るされる物語を読んだ。
私しか知る事のない、あの草子の続きを、心躍らせて。
◇◇◇

「I would like the same one」
またそれか。僕に追従して唱えた人修羅。相槌して去って往く店員…それを見送る横顔は、何処から見ても人間である。
「君は僕が下手物を注文したとして、同じ物を頼む事になる訳だが?」
「こういうカフェにゲテモノ有る訳無いだろ」
「僕が何を頼んだか解っている?」
もう何年生きているんだ君は。いい加減英語のひとつも覚えたら良いのに、時間は有り余っているのだから。
「あのさ、こないだ…朝倉さんに云ったワイン・ガードナーの話」
「ああ、アレ?」
「俺、もしかしてマズイ事云った…よな…ああ、今分かった」
一人で問い質して解決させ、勝手に頭を抱えている。そんな彼に煙草の箱を取り出しつつ哂う。
「ワイン・ミシェル・ガードナーの優勝年は西暦1984年度だ」
「…げっ」
「君の生まれる一年前頃の話を、君は観てきたかの様に意気揚々と話していたのだよ」
「此処、禁煙だぞ」
云われて思い出し、箱を胸ポケットに戻す。全く、そういう所はすぐ感付くのに。理解不能だ。
「あ、なんだ…やっぱ普通のサンドイッチじゃないかよ」
店員の運んできた皿上を見て、安堵と同時に僕を非難する君。これなら下手物の店に行ってやるべきだったか。
「君と違って、味覚は一切影響無しなのでね」
濡れ巾で手を拭い、摘んで食む。
「…シュリンプ?」
頬張って、疑問の眼差しを投げてくる人修羅に返す。
「クレイフィッシュ&ロケットだよ」
「何それ」
「ザリ蟹とルッコラ菜」
「ザリガ…ッ」
飲み込み、微妙な面持ちで嚥下した君を見て…僕はニタリとする。
「美味しいだろう?」
「…まあ、まあ多分悪く無い風味」
「偏見は捨て給え、僕等とて下手物だろう?」
「自分で云ってりゃ世話無いな、あんた」
もう閉店の時間が近い、僕等しか居ないカフェの店内。なんだかんだと云いつつ、全て食した人修羅が指を拭いつつ聞いてくる。
「こないだ来たのって何年前だった?」
「二十年前頃だ」
「あんまり変わってないな、ロンドンって」
「だから写真でも撮らねば記憶出来ぬ訳さ」
皿の横に取り出したカメラを置く、それを訝しげに見る人修羅。ピンクのメタリックカラーが上のランプを反射する。
「あんた、そんなの持ってたか」
「いいや」
「もっとこう、同じデジカメでもさ…地味な」
「これ葵鳥さんのだから」
「はぁ!?」
素っ頓狂な声を上げ、僕の方からそのデジカメを奪い取る彼。
「泥棒したのかよあんた」
「代わりなら置いてきたから、大丈夫さ」
「代わり?」
「物置にあったセコハンカメラ」
「はぁああ!?あんた、何考えてんだ!値段が違うだろ!」
「マニアに売れば、このデジカメ位は購入可能な金へと変わるだろう」
溜息で僕を睨みつけてくる、相変わらずなその視線。
「さ、ビッグ・ベンに行こうか、功刀君?」
僕は立ち上がり、黒い外套を羽織る。霧の深い此処では、湿気を吸うが無ければ肌寒い。とはいえ、近年そんなに寒気は感じない身体となってきた訳だが。
「ここ最近、倫敦は監視モニターが多くて困るね」
「別にどうでも良いくせに…」
「おや?何故そう思う?」
「モニタリングされてない暗闇を縫ってる」
流石に判るのか、君には。だろうね、僕の身体を生み落とす君だもの。そう、既に歩く場所は普通の地を離れている。
「この時間が一番好きかな」
車も殆ど無いテムズ河のウェストミンスター橋を渡る。勿論路面など足場にしない。手摺の上を駆けて行く。反対側の人修羅と競争する。ただ駆けるだけなので二十年前、僕は敗北した。君は力押しで生き延びてきたからね…脚だけは早い。
だが、今回はどうかな?午前四時の薄闇に浮かび上がる僕達。霧裂く身体。
この身体、あれから幾度か君の胎内を通して転生した、魔に近付いた肉体。身に纏う管も刀も銃も、全てが紙の様に軽く感じる。
外套がバタバタと音を立てて、疾走感を増す。一瞬横目に見た、君の視線が僕に刺さる。眼の金色が流れて、シャッタースピードを変えたハイウェイの写真みたいだ。
橋から一蹴り、君のスニーカーが宮殿の壁を穿つ。
僕の革靴の方が、一瞬早い。心躍る予感に唇の端が吊り上げつつ、垂直に駆け上がる。時計台の文字盤まで来ると、君の方に針が跨っていた。
「チッ!」
舌打ちが微かにして、それを飛び越える君。その一瞬で差がついた。ひと息に頂上まで上りつめると、君の方へと向き直る。
「今回は僕の勝ち」
ほんの少し上がった吐息で、そう発する。悔しげに眉を顰める人修羅が、頂点に腕を絡ませる僕に掴みかかってきた。
「っ…〜!!」
掴んでくる指の力が強い。無茶苦茶悔しそうだ。
「どうしたの功刀君?」
「……どうして人修羅の俺が負けてるのか、考えてた」
「子はいつか親を抜かすからねぇ…フフッ」
「なにが子、だよ…本当に、外道だよあんた」
「お陰で無理出来ている、堕天使にもヤハウェにも従属せぬ…僕としての在り方でね」
視線を真っ直ぐに繋げてくる人修羅の君。僕が神を使役する度、綻ぶこの肉体を…生み直してくれる。
「ねえ、僕がどうしてどちらにも属さず、こんな事してるか解る?」
世界に彷徨う、強い逸(はぐ)れ悪魔を探す旅。スカウトし、使役する、堕天使にもヤハウェにも渡さぬ。僕の支配下に入れる、日本の悪魔の大半をそうした様に。
「…どっちにも従うのが嫌だから?」
「フフ、それは確かにね」
少し、違うかな。
「さあ、今年度の写真を撮ろうか、功刀君?」
次に来るのがいつかは知らぬが、辿る軌跡を記録する為、写真は重要だ。
僕達のどちらも、永く生き過ぎて記憶が擦れていく一方だから。
「おい!結局本当の理由は?」
噛み付いてくる君に、哂って云う。
「どっちつかずが好きなのでね」
そう、君みたいな混沌が。
ぐい、と引き寄せ、驚く君に接吻する。きっと、片手で構えたデジカメに驚愕している。ビッグ・ベンからの夜景を背に、強制的なキスシーンのショット。
吐き気をもよおす程に甘ったるい行為。それに羞恥し、頬を染める人修羅。
「夜…てめ」
「嫌なら、次は僕より早く頂点に立ってみせ給え」
それは、何の話だろうか。君と僕の、どちらが悪魔の頂点に、という話か?
ルシファーと、彼と敵対する神とその両者に勝てば、僕等はどうなる?
「あんたを殺すのは絶対俺だ」
唇を腕で拭い、ナイロンパーカの涼しい音を鳴らす君。
「君を使役し続けるのも、僕だけで良い」
愉しげに挑発する僕の声。人修羅の金の眼が、僕の金の眼を映し込む。
あの日から、ずっと変わらない。僕を呼ぶ瞳。
「ずっと蜜月を愉しむのも、悪くないだろう?矢代」
「…まだ、ルシファーと戦うの、力が足りないから…しょうがない…」
「ねぇ、まだまだ旅行しよう?足りぬよ…まだまだ」
「はぁ……何してんだよ本当……俺達」
溜息の君は、僕の刀も罵倒も全て嚥下して、尚此処に立つ。
殺し合いの為の舞台を用意しているだけだ。
そうやって、口約束をして、もうずっと蜜月を送っている。
ずっと、僕は最終回を綴らない。
人道から外れていても、この身が悪魔となりつつあろうとも、永劫…君を使役出来るのなら…いつかは墨に埋もれた言葉が、僕にも見えよう。
ボルテクスから君に問うたその、感情を。


訪れぬ夜明け・了
* あとがき*

永久不変、非生産的、非人道的…
何も生み出さない、むしろ刹那的な判断で
婚姻を契った…
退廃の道を共に歩む伴侶に
病める程の愛情を
終わらぬ蜜月を、いつまでも


凄く幸せそうなライドウと、流されつつ微笑む人修羅。
そんな病んだ関係です。