阿闍世のリビドー

 
「げっ…え、ぅぇええっ…」
こみ上げる胃液、口内は云う程酸っぱくない。
普段から消化する物は少ないからだ。
『矢代様…』
背後の声に、振り向かず、前傾姿勢のまま手を上げた。
「手伝いなら、結構…っ…」
『ですが、御気分が優れぬ様を放っておくのは』
「主人の命令に反する、ですか」
相変わらず撥ねる様な俺の云い方に、パールヴァティは動きを止めた。
そう、それで良い、だって悪魔は嫌いだから。
口を拭って、瓦礫を歩く。
足の下でパキリ、と音を立てて小枝が折れる。
いや、白い小枝は人骨だ。
悶々と立ち込める熱が、この身体でも感じられる。
どうせ周囲に生きている人間は殆ど居ない、擬態はせずに歩いていた。
『酷い有様ですわ』
「別に、人間なんてどうでも良いんだろ…あなた等は」
『何者であろうと、理不尽に屠られるのは痛ましいですわ』
「はぁ……女神っぽい、ですね」
微妙に嫌味な俺の言葉も、その女神は困った様に息吐いて流した。
遠くまで、陽炎の様に空気が、景色が揺らいでいる。
空に稀に見え隠れする黒い影は、一瞬カラスにも見える。
胃液濡れの口を漱ぎたいので、井戸を探すが
そんなのは既に崩落していて、埋まっていた。
川にも死体が泳いでいて、そんな水を身体に入れる気はさらさら無かった。
「功刀君」
声の方向を仰ぎ見ると、黒い外套を無風の戦場にはためかせる男。
「さっさと見つけろよ、何探してんのか知らないけどさ…」
「君がその偽善的な感情で散策していたのが悪い」
「だってさ…息の有る人、もう少しは居るかと」
「フ…その姿の君を恐れて、逃げるか罵倒でもするだろうさ」
ライドウの台詞に、俺の斑紋が苛立ちを隠せず脈動した。
そんなの知っている、俺がどう足掻いたって、悪魔の姿をしている事実。
「そもそも、助けてどうする?眼の前で絶えそうな者を救うなら話は解るが…率先して人命救助なぞしていたら、どれだけの日数がかかる?」
「俺達、時間なんていくらでも」
「僕等の時間は止めてあるだけだ、無駄に割くのは止してくれ給え」
その“無駄”という単語に、カッとなって傍の岩を蹴り上げた。
人間には簡単に持ち上げれない程度に大きな、その岩。庭石だろうか?
それが宙で割れて、隙間から刀を振り上げたライドウが覗いた。
軽々と一閃して、俺を嘲笑っている。
「教科書で見た戦争とは違った?功刀君」
「…っるせぇよ……あんた」
脳裏を過ぎっていた感情を云い当てられ、釈然としない。
「きっと、その力を行使して人助けすれば贖罪にでもなると思ったのだろう?」
云いながら、半壊した建造物から飛び降りてくる。
着地して俺に歩み寄って来るライドウの背後で、建造物が崩落した。
砂塵に紛れながら、俺の眼の前で止まった。
「この辺で消息を絶ったそうだから、まだ探る」
「…」
「のこのこついて来たのなら…少しは役に立ち給え」
気付いたら、膝を折ってうずくまっていた。
「が…っ、ぁ……は〜っ…はぁ…っ」
先刻突っ掛かっていた胃液が、全て出た。
恐らく、胎に膝を入れられた、でもあまりに一瞬だった。
(あの野郎…一瞬、眼が光った…)
俺の与えた悪魔の力で、俺を攻撃するその神経。
あまりに非道で、冷酷。
「ほら、カラスの死骸が腐敗する前に」
振り返り、続けた。
「僕等の里から出た者は、死骸だろうと回収せねばならぬ」
まだ方々で煙が立ち上る地獄の中、ライドウは死神の様だ。
「脳から情報を盗られては困るのでね…たとえ離里し、系譜から外れていたとしても、だ」
強く云い放つ、その眼は真剣だ…
「…んだよ…っ……それ…」
理由が理由で、辟易する。
「ほら、君でも瓦礫を退かす程度は出来るだろう?尽力し給えよ?“人助け”をさ」
哂ってライドウが、前方を駆けて行く。
外套から覗いた、腕の腕章は“サマナー枠”の証。
『矢代様』
「手伝いなら…っ……」
また同じ事を女神に云ってる俺は、どこか滑稽だった。

第二次世界大戦

予定調和みたいに、それは普通に訪れた。
俺は知っていたし、簡単にそれを避けられるとも思っていなかった。
歴史の大きな改変は、そもそも不可能らしい。
そういうものだとルシファーは云っていた。
ライドウも、口裏を合わせた訳でも無いのに、そう云って哂っていた。

ライドウと、ヤタガラス…下里の一部のサマナー達。
彼等は“サマナー”として戦場に駆り出されている。
一般人における“徴収兵”とは違い、比較的安全。
前線で砲弾も火も浴びる一般兵士と違い、日陰で働くからだ。
要人の守護、スパイの炙り出し…
捕虜の脳内を探ったりもするらしく、なかなか趣味が悪い。
…ライドウは、里への干渉を軽減させる為に、率先して軍部に取引を持ち掛けた。
外界の激動に、翻弄されない為の…狡猾な逃げ。
「あんた、勝手に動いて大丈夫なのかよ」
前方の焦土の海を泳ぐライドウに、呼びかけた。
「今日にでも戦の終結が云い渡される筈だからね…少しばかり早めに自由行動させて頂いている、それだけさ」
「日本の負けって、そんなの一目瞭然なのに…こんなだらだら続けて、馬鹿みたいだ」
「僕等サマナーは云われた仕事なら完遂した…軍に文句は云わせぬよ、フフッ」
「あんた、自分の護った帝都がこんな結末を迎えて、嫌にならないのか?」
一所に留まり、じっと山になった死体を眺めているライドウ。
視線を逸らさずに返してきた。
「これが帝都の歩む道なれば、見届けるまでだ」
「アカラナの砂時計で、もう見知ってたんだろ?」
「そうだねぇ、断片的に、ではあるが」
外套を翻し、MAGの光を陽炎に融け込ませる姿。
相変わらずこの男の召喚姿は、華麗で腹立たしい。
「出でよ、矮小なる神の遣い」
管から呼び出されたのは、ヤタガラス。
一声甲高く啼けば、それが合図となり方々から黒い影が群れて来る。
「其処なる山は我等が同胞の所属する隊だ…」
肩に召喚した一羽を停まらせて、俺に云っている…のだろうか。
向き直ったライドウの横顔が、冷たく哂った。
「馴染み深い屍肉を漁り出し給え」
その号令に、ヤタガラス達が一斉に山を啄ばみ始めた。
食べてはいないが、啄ばんでは崩し、放り投げる。
粘着質な着工音に、思わず眉を顰める。
放られて、俺に飛んできた一体を横に薙ぎ払った。
受け止めずに、そうする俺も共犯者だろうか。
いや…もう亡くなっているんだ、まだ…赦される。
クチバシの先端を白く皮脂で濁らせたヤタガラス達。
山の半分まで削り、各々が動きを停滞させ始めた。
ライドウの召喚したメインのヤタガラスが、引きずり出すそれ。
山の頂に跳躍したライドウが、足下をじっと見つめていた。
「…違いない、御苦労」
掴んだままだった管をひと回し、指で弄ぶと
ヤタガラスは黒い羽を散らし還っていった。
「運ぶよ」
適当な蛮力属を見繕うライドウを見て、まるで物でも運搬するかの様な発言に苛つく。
「いいよ!俺が担ぐから…」
何となく腹立たしくて、その頂に俺も飛び立った。
着地する瞬間の靴底の感触が、重苦しい。
ライドウの視線の先を追えば、まだ年若い青年が埋もれていた。
「機銃掃射でも喰らったか…穴だらけだよ、それでも担ぐかい?」
「…別にこの人だって、望んでこうなった訳無いだろ」
腕を突っ込みその身体の下から持ち上げる。
襤褸切れになった兵服が錆色に濁って、まだ乾ききっていない。
「人間が人間殺してる方が、正直多いと思う」
呟いてライドウの後に続く俺。
『悪魔が人様を憎むのは、そう多く無いですわ』
女神の言い分に、やはり同種族における争いがこの世の常と思い知る。
腕でしっかり支える、肩の死体。
そう、国の為、なんてのはその瞬間を逃れる為の言い訳で
本当は誰も前線に行きたい筈無いってのに。
「どうしてこの人、サマナー枠で出兵しなかったんだ…」
『離里してますわね、先刻のご主人様の口調からすれば…』
「あの里、別に好きじゃないけど…そういう恩恵だけは受けれますよね」
『まあ矢代様、今更ですわそんな事』
「世界から隔離されてる、やっぱあそこだけ時間が停滞してるんだ…」
パールヴァティとのやり取りに、前方のライドウが振り返った。
俺を見て、哂っている。
自然と身体が熱くなり、睨んで返す。
「…何」
「その死体の子…君は判らぬのかい?」
「この人…?いいや、俺は知らないけど…」
子、なんて表現する辺り、ライドウの実年齢を意識する。
そうだ、考えてみれば本当はあの男、三十路超えなのだから
確かにそのライドウからすれば、青年でも子かもしれない。
葛葉の血と、俺の生んだ身体で、あの時から殆ど老いぬ見目が哂う。
「僕がその子の名付け親だよ…」
ライドウの、その言葉。
死体を掴む腕が、震えた。
相当幼い年齢の筈じゃないか、この死体…
どうして徴兵された。どうして青年なのだ。
いいや、そんな事より、今この瞬間脳裏を駆け巡るのは…
里もまだ若い頃の、あの出来事だった。







(まだ、微妙に暑い…)
残暑が日中は尾を引いている、この時期。
人の成りをして下里を歩く。
すれ違う人達は、俺を見て会釈なり道の端に退いたりする。
それが疎ましくて、本当は此処を歩きたくない。
(くそ、何処行きやがった、あの野郎)
心の内で悪態を吐き、微かに脹らんだ胎を見下ろして気が滅入る。
身篭って、こうして里に居る訳だから、俺としてはさっさと出して男に戻りたい。
のに、ライドウの野郎は上里から姿をくらませた。
行き先も告げずに消えられては困る、さっさと出させろ、胎のお前を。

「ほぎゃあ」

ぴたり、と脚が止まった。
今、まさに通過せんとした家屋から聞こえた声。
(赤ん坊の声か…)
胎に抱えているというのに、まるで無関係な様に聞こえる。
ちら、と覗けば、開かれた玄関口に並ぶ靴達。
そのひとつに、見覚えがあって思わず駆け寄る。
綺麗に磨かれた、黒く艶やかな、ヒールのやや高めの革靴。
でも、勝手に上がれる程、俺も大胆不敵では無い。
その革靴をじっと見つめて固まっていると、廊下に出てきた人影。
「ひ、人修羅様…!どうしてウチなんぞに!?」
「あ、いえ、その」
「十四代目でしたら来て頂いておりますよ、あれ?違います?」
「違わなく、無いですけど…」
自分でもよく分からない返答をしている。
「いえ、それが産婆が最近丁度亡くなったので、十四代目にお願いしまして」
「は!?あいつが産婆の真似事ですか!?」
「いえいえ!!パールヴァティ様が出来るらしいんで、手伝いにきて頂いたんです」
「あ、パールか……」
一瞬異様な光景が浮かんだが、あの女神なら違和感が無い。
それはそうだ、俺の初出産だって、あの女神が仕切った。
だからといって太鼓判を押すなんて、御免だが。
「そんな玄関に立たせておく訳にはいきませんよ、ささ、お上がり下さいな!」
「…ライドウに用件伝えるだけですけど、少し失礼します」
人の良さそうな家人に続き進めば、赤ん坊の声が近くなってくる。
ほぎゃほぎゃと、不安定なその声に胸がざわつく。
障子越しに、そのふわりとした泣き声とは違う声が聞こえてきた。
 「隔たってる、まぁ、僕が云えた事では無いがね」
 「そ、育つのでしょうか」
 「何とも云えぬね…まあ、産声が上がったのだし、そう悲観する事も無いだろう」
ライドウの声だ。
 「で、其処の君、突っ立って無いで、さっさと部屋に入るなり退くなりし給え」
その台詞が、俺に云われているのだと気付くのに、やや要した。
「失礼します」
障子を横にするすると開いた。
上体を起こした女性の胸元で、柔らかそうな生物が眠っている。
もう声がしないと思ったら、眠りについたのか。
「修羅様まで、ああ、すいません、こんな姿で」
恐縮する女性の布団の傍に、座り込む。
「いえ、その…お、おめでとう御座います」
こう云っておくべきなのだろうか、多分そうだろう、出産は本来お祝い事だ。
そう、本来。
はにかんだ女性が、汗もひいたのか、涼やかな…
それでいて晴れやかな表情で、胸に抱く赤ん坊をゆっくり揺らした。
「いえぇ、女神様に抱き上げて頂けて、この子もきっと嬉しいです」
幸せそう…だ。
「パールヴァティは居らぬ、もう上に帰ってもらった」
俺の思考を読んだかの如く、女性の傍に正座するライドウが発した。
「あんたも親子水入らず邪魔してないで、用が済んだなら帰れよ」
「おや?主人の僕を探しに来たのでは?」
「“亭主元気で留守が良い”」
「何だいそれ、ククッ…君が考えたの?」
「違う」
それだけ云って、俺は立ち上がろうと膝に手を置く。
あ、と気付いた女性が俺を見つめた。
「お待ち下さいな、どうか抱いてあげて下さいまし」
そう云いながら、中途半端な姿勢の俺に
胸の、そのふわふわした生物を寄越してきた。
ぎょっとして、でも受け取らなければ落ちてしまいそうで
思わず腕を差し出した。
「ちょ…っと、待って下さい、俺は別に」
「何だか抱きたそうな眼をしていらっしゃいましたから」
「そんな!貴女の勝手な…」
そこまで返した瞬間、びくん、と腕の中で震えた。
「ぇぅ…」
皺っぽい眼元を微かに開いて、その小さな口を魚みたくぱくぱくさせて。
「ぁぁ〜」
起きてしまったのか、そして突如泣き出したその生物。
「ま、待って、待ってくれって…」
気が動転して、眼の前の女性に救いを求める様に視線を送る。
すると、知ってか知らずか、ただただ笑っている。
(どうすりゃ良いんだよ!)
兄弟も居なかった、一人っ子で親戚付き合いも一切無かった俺には未体験ゾーンだ。
「おいおい、赤子をあやす事すら下手なのかい君は」
向かいから哂ってコケにしてくるライドウに、ムカっとくる。
「ならあんたは…」
云い返した傍から、黒い袖が俺の頭上に影を作った。
慌てふためく俺の腕から、その不安の根源が消え去る。
「あらあら十四代目!」
「旦那より早く抱き上げる男が僕ですまないねぇ」
(そりゃ確かに、俺は今女体な訳だけどな)
黒い洋物のシャツに、赤ん坊の白肌が浮き上がる。
抱き抱えるライドウは、別に優しげに笑っている訳では無い。
寧ろいつも通りの、あの哂いなのに、何故だか赤ん坊はぐずりを止めた。
「っおい……どうしてあんたの腕で安眠するんだよ」
納得いかずに下からじろりと睨み上げれば、フフンと哂うこの男。
「赤子をあやす女性を観察していれば、そう難しくない」
ああ、純粋で無垢な赤ん坊は、自分を抱き抱える男の気なんて読めないもんな…
そう自分を納得させて、ライドウの腕ですやすやと眠るソレを見つめた。
この世に生を受けて、泣き叫んで、拾い抱き上げられるのを待つ命。
(ああ、何か、違和感があると思ったんだ…)
俺の股から生まれるのは、動かない。
泣かない、冷たい。
…生を受けてない。
「……可愛いですね、赤ん坊って……知らなかった」
女性に、ぼやけた思考のまま、そう呟いていた。
何だ、ただ真っ直ぐに、そう感じた、生きている赤ん坊に。
「まあ、勿体無い御言葉です、そんな…!」
我が子を褒められ、喜ばない親は普通居ない。
舞い上がる女性の煌く瞳に、あの赤ん坊の未来が明るく感じた。
「このまま御名前も、出来れば頂きたいのですが…」
「名前を?名付け親になれって事ですか?」
「ええ……ちょっとばかり、調子良いですか?」
「そんな事は無いと思いますけど…でもそれなら俺じゃなく、ライド…」
「ふぎゃああああぁ」
会話を割って、その泣きで震撼させる赤ん坊の声。
俺と女性がえっ?と視線を上げれば、ライドウの腕で泣いていた。
「十四代目?如何されましたか?」
女性の声に、一瞬遅れてライドウが返答した。
「…いや、少し先の事を思案していた、悪いね」
少し屈んで、女性に泣く赤ん坊を差し出す。
受け取った赤ん坊の頬に、自らの頬をすりりと押し付ける女性。
「どう育っても、生きてくれてるんでしたら、それで良いです」
呟くその姿を見て朗らかな気分になる反面…
俺は妙な背筋の冷たさを感じていた。
シャツの衿を正し、腰のホルスターを巻き直すライドウ…
奴の、先刻黙って赤ん坊を見つめる眼が…怖かった。
哂っていなかった。




『ギ、ググ…ッ』
「さっさとして下さい」
呪詛の鎖に戒められるシトリを足蹴にして、俺は命令する。
「あなたに施された呪いの所為で、こんな転落人生を送ってんですよ、俺は」
その獣の顔に、やや笑いながら云う俺。
正直、執念深いかもしれない。
『貴様ガ、ルシファー様ニ相応シイ筈…無イ…』
「またそれですか…そんなの、相応しかったら俺が困る」
懲罰房と称されるこの倉で、俺が唯一、笑いながら悪魔を叩く瞬間。
「シトリさん、お願いします」
『ヒ、ト、シュラメェェエエ!!』
伏せるその体躯に、爪先でぐりりと促せば伝わってくる魔力。
それが俺の脚からじわじわと染み入り、斑紋をドクリと脈動させる。
筋肉の筋が、やや強張り、やんわりと有った丸みが消える。
予め履いておいたハーフ丈のスラックスは、臀部に余裕が出来た。
ああ、ようやく馴染みの形に戻ってきた…
そう安堵した矢先、鎖をがちゃがちゃいわせて、シトリが這った。
咄嗟に脚を引っ込めたが、その爪先に獣の牙が立てられた。
赤が散って、血煙が噴いた。
眼元をニヤつかせたこの悪魔に、怒りと嫌悪感が湧き上がる。
噛まれた足の肉が裂ける事を厭わずに、更に奥へと突っ込む。
くぐもった唸りを聞きながら、支える脚を踏み込んで軸にする。
「しつこいんだよっ手前!!」
振りぬいて、そのまま壁に跳ぶ。
鎖がギチギチと引っ張られて、壁に叩き付ける直前でピン、と張った。
ずるりと抜けた脚で弧を描いて、両手で逆さになった天地を掴む。
床にぐたりと伏したシトリを後ろ目にして、着地した。
微かに唸る声に、舌打ちをしながら吐き捨てる。
「鎖、有って良かったですね」
あのまま壁に叩き付けてやっても良かったのに。
そう思いながら、完全に男に戻った身体で、出入り口へと向かう。
『グ、グフフッ……俺ヲ、殺セナイノハ、何故カナ…?』
小さな、でもハッキリと聞こえる、その失笑の矢が俺の背に刺さる。
指摘されたその疑問、きっと答えは解っているんだ、あの悪魔。
俺がライドウと共存していく事に、この肉体転換を利用していると…
ゆらりと、首だけで振り返る俺。眼の奥が熱い。
暗闇に横たわる、少しひしゃげたシトリを見据えた。
「身体の慣らしには丁度良かったです、有り難う御座います」
鎖が繋ぐ場所は避けて、適当な部位を爆ぜさせた。
雄叫びが煩いので、扉を早々に閉めて表に出た。
(くそ……ライドウの所為で、殺せやしないし…)
人間は、やはり殺せないのに…俺にあんなきっかけを与えたあの悪魔は…
いくら殺しても殺し足りない。
(…棚に上げてるよな…俺)
自己嫌悪…滑る靴底が、俺をせせら哂う。
上から降り注ぐ月光に、思い出した様に脚を早める。
ライドウは、もう身体を移しただろうか。
俺が今朝生み落とした…あの容れ物に入ったのだろうか。
あの、泣かない赤ん坊に。
靴を脱いで、縁側から庵に上がる。
裏手から凪ぐ柳がひらひらと、月に影絵を作っていた。
障子を何枚か開けた先、最後の一枚に指を掛ける。
『お待ち下さい、人修羅殿といえど、此処より先…無断で通る事は赦しませんよ』
「別に、殺したりとかしませんよ、今は」
『血の臭いが此方にまで薫ってきますが』
「すいません、洗い忘れました」
ネビロスの云いたい事は、そんな事では無いと解っている。
でも、敢えて惚けた。
『今、魂魄を窶したばかりですから、ライドウ様に近付かせる訳には…』
やや困惑気味のネビロスの声に、俺はどうしてか苛々する。
早くライドウに会って、何がしたい?
あの、赤ん坊を見つめる瞳の凶暴さに…不安を抱いている…?
(あのまま殺すのかと思った)
まさか、自分を慕う里の人間に…そんな事する筈は無いだろ…
そうだろ?いくら非道なお前でも。

「ネビロス、通せ」

小さな声が、微かに聞こえてきた。
『いや、しかし』
「僕の命が聞けんのか、お前」
『そのお姿で!』
「案ずるな、MAGを塞き止めてるから止まってる、そんだけだし」
『…御衣』
会話の流れからするに、俺は中に入れる様子だ。
掛けてあった指が障子を開けると同時に、フード姿のネビロスが立っていた。
『…よく、解りませんが』
そう呟いて、俺の脇を掻い潜るように廊下にふらりと消えていった。
それを一瞬見送って、気配が消えたのを確認してから向き直った。
「おい、ライドウ、あんた昨日の昼……」
暗い部屋に、ひっそりと光る金色の眼。
寝台に腰掛けて、揺り篭を揺らす子供。
言葉を失った俺に、クスリと哂いかけてくる。
「やあ、功刀君…それとも」
揺り篭を横に放って、口の端を吊り上げた。
「お母さん、と、呼ぶんが良いかねぇ…!?」
訛りが入ったその口調、此処に居る筈の無い少年。
寝台の枕下にその細腕を突っ込み、引き抜いたと同時に駆け出す。
ハッとして、咄嗟に腕を眼前に構え、低く体勢を取る。
奔る熱さに、眼を見開けば…出した腕の肘に赤い雫が滴っていた。
「…っ、夜!?」
寝台のシーツを纏っただけの少年が、ニタリと哂った。
赤く濡れた小太刀を逆手に持ち、舌で舐め掬う。
「どうしたよ…君の望んだ、動く子だろ!?」
心臓が、ぎゅうと締め付けられる。
「なぁ!聞いてるの!?母さん!!」
戸惑う俺目掛けて、体当たりしてくる。
その小さな体躯を突き飛ばす発想が出来なくて、俺は床に打ち付けられた。
「あぐぅ、ッ」
突起が床を穿ち、苦痛に悲鳴する。
馬乗りの少年が、そのまま俺の胸に掌を当て、弄った。
「なんだ、もう男に戻ってんの」
「おい、その姿どういう…!」
「だって、君そういう眼であの赤子を見てたじゃん」
俺の眼。
「な、何…何云って…」
俺は、お前の眼に、不安を覚えていたのに。
「だから、君の子供で今宵は居てあげるわ、くくっ」
お前は、俺の眼に、そんな事を思ったのか。
「存分に母親面しなよ!功刀っ!」
叫んで、俺の頭ギリギリで小太刀を床に突き立てた。
ビクリと反射で強張る俺を失笑して、幼いライドウは胸にしがみ付く。
「何してんだよあんた…っ!?」
「母親は子を抱くんでしょ?ねえ?」
斑紋の流れる俺の胸に、そう云いつつ…むしゃぶりついてきた。
戦慄して、咄嗟に引き剥がそうとしたが
それを察知したライドウが小太刀を即座に抜き、首筋にあてがう。
おまけに、正確には項側…床に押しやられている突起に添わせている。
「ざけんなよおいッ!そんな姿で、悪趣味にも程がある!!」
乳首をぷちゅりと吸い上げたライドウが、首を傾げる。
幼いから似合うその仕草が、俺をより混乱させる。
「出ないねぇ…お乳」
「ば…っ」
馬鹿だろう、出たら滑稽過ぎる。
そう云ってやろうとしたら、小太刀を持ち直して下へとずり下がるライドウ。
「僕さぁ、母親のお乳、一度飲んでみたかったんだよねぇ…」
その行き先が、何となく解ってしまった。
「いい加減に…しろ、その身体でも容赦しないぞ、俺は…」
裏腹な言葉で脅しても、そんなの通じる筈も無い、中味はライドウそのものだから。
「ふぅん、してみ?」
せせら哂い、スラックスの釦をその小さい口で解して、外すライドウ。
そんな業にぞわりとして、上半身を起こす。
腕に微かに魔力が漲って、その少年の頬を強かに殴りつけた。
軽々と吹っ飛んだライドウは、寝台の側面に当たって床に落ちた。
「…ぅ…っ…ううっ…」
震える拳が、緊張で開けない。
あまりに、軽かった。まるで紙切れの様な感触。
俺は…
俺は、自分の生んだモノを、こうして殴りつけるしか出来ないのか。
向こう側でゆらりと立ち上がるライドウが、血を床に吐き捨てた。
「何…容赦しない割りには弱いじゃん…どうしたの?功刀母さん?」
シーツすらずるずると床に残して、一糸纏わぬ姿で俺に迫る。
どうして、そんな少年が…俺は怖いんだ?
「僕に飲ましてよ、白い栄養」
トッ、と胎から音が胎内に響いた。
視線を移せば、胎に刺さった小太刀。
抜きもせずに前方を見れば、いつの間にやら拾い上げたそれを投げたライドウ。
哂って、愉しげな子供の脚付きで俺に駆け寄る。
「こっちなら出るでしょ?ふふふっ」
どうして腰が重い、動けない。
じわりと滲む冷や汗が、胎の小太刀に落ちた気がする。
よくよく見れば、腹に咲く睡蓮の中心を見事貫いていた。
恐らく、この武器には何か施してある…
「ねぇ…功刀母さん…人修羅の母…」
「や、め……」
ひん剥かれたその下半身に、先刻の様にむしゃぶりついたライドウ。
幼い子にそれをされる、あまりの倒錯感に脳がやられそうだ。
小さい口が、萎えていたそこを行き来する。
身体の痺れが強くなり、くたりと横たわる俺。
れろ、と舌を突き出したライドウが馬鹿にした口調で唱える。
「いつも父さんに飲ませてんじゃん、ここのお乳」
その“父さん”が誰を指しているのか、認識した瞬間頬が熱くなる。
「誰が好きでそんな事!」
「父さんに身体盗られる僕の事、一瞬でも可愛がった事あんの?」
「え…」
続きは水音だった。じゅっ、じゅぷ、と唾を垂らして、俺のを舐めるライドウ。
耳を塞ぎたいのに、身体は痺れているのか、ビビっているのか。
高まっていくそれを意識しない様に、糾弾する。
「その姿で、よくもそんな…っ…好色、野郎っ」
ねっとり舐め上げていたライドウは引き抜き、唇を濡らして哂った。
「こんくらいの齢にはよくやってたし」
ぞわぞわする。
「汚いMAGを沢山飲んで育ったから、こんな僕が居る訳だしねぇ」
「黙れっ!」
こいつの昔話は、嫌いだ。
「だから、この身体に合ったMAGを頂戴?」
ぐぐ、と飲み込む様にして、俺の幹ごと喉に詰めるライドウ。
その細い喉に誘い込んで、ごりゅごりゅと舐る、嬲る。
「ぁ、ひぁッ」
股の間で哂う彼は、俺が今朝生んだ身体であり、その父親でもあり。
その彼にしゃぶられて、這い上がる快楽は罪でしかない。
「ぁ、ぁぅ、あっ、や」
こんな、小さな口に、手に、何をされているんだ。
どうして嫌悪感より快楽が上回る?俺は、やはり異常なのか?
「あ、ああーああぁーっあぁ、んっ」
横たわって嬌声を上げたまま漏らす俺こそ、赤子の様だった。
羞恥というか、もう泣きそうだ。
ずりゅ、と喉奥から引き抜いたライドウが、咽返る事もせず哂っていた。
「なんだ…しっかりお乳、出せたんじゃん…君」
酷い台詞の後、ぐい、と唇を拭っていた。
「ねぇどう?少しは母親気分、味わえた?くくくっ」
放心する俺の前で、胎を抱えて哂い転げるライドウ。
無邪気な子供の姿で、俺を見下す。
「僕を孕んでも、喜びもしない、早く出てけと疎む…酷い、母親め」
「お、れは…俺は、母親じゃ、ない……容れ物さえ、孕めば」
「ならば如何してあんな眼をしていた!?」
口調が強くなり、訛りの丸みは消え去った。
白いシーツをさらりと翻して羽織るライドウは、ゆるゆると成長する。
俺の下からの乳で、成長でもしたのだろうか…
「功刀君…君は、そんなに動く赤子を孕みたかったのかい?」
「別に、どうせあんたが、乗っ取るし…」
「子とすら思っていなかったのか?」
その指摘に、口を噤んだ。
ライドウが、すらりとしたその長身を取り戻す。
完全に、普段の形に戻った。
向こうに見える格子の窓から月光が零れて、そんな奴の横顔を照らし出す。
「僕と君から形を成した…ソレは、時を歩まぬから?」
どうして、そんな眼で、俺を責める。
「この身体は、僕を怨んでいるやもしれぬ…それを承知で父の僕は転生の為喰らう」
ゆっくりと、裸足で音も立てずに俺に近付くその姿。
「父に肉体を食まれ、母の腕すら知らずに、生も無し」
見下ろすその眼の金色は、俺と同じ…

「我が子の怨念すら飲下す僕の眼の前で、君はあの赤子に微笑んだ!!」

胎の小太刀の柄を、足蹴にされる。
「あぐぅうぅぅッ!!」
鍔近くまでめり込んだ刃が、胎内を探る。
痛みに引き攣る瞼を、なんとか上げた。
ニィ、と口角を上げるライドウが紡いでいく言葉。
「どうせその胎に今、宿していようが…この瞬間、嘆きもしなかったろうねぇ?」
「はぁ…はぁっ……ライドウ……」
「そんなに刻を真っ当に歩みたいのなら、降りろ」
「……ライドウ…ぅ…」
「僕と僕の息子を愚弄するなら消えろ!!!!」
金色が揺らぐ、俺とお前を繋ぐ証が暗闇に惑う。
(ああ…お前って…)
眼の前の男は…十四代目葛葉ライドウは…
(俺の男で、俺の息子なのか)
下ろした瞼が涙を突き落とす。
どうして、俺達の時間が動かないのか、そんな事解っていた筈なのに。
覚悟を決めたライドウの眼の前で…俺は強請ったんだ、時間を。
無いもの強請りして、奴の怒りに触れたのか…
「我侭…野郎っ……赤ん坊が可愛いって、云っただけ…だろ…」
「…僕は?」
「…」
「君を欲するこの僕は、息子か?夫か?」
どっちか…だなんて、知らない。でも、他の回答なら出ている。
「俺が……抱き上げるのは…」
胎からの血流に、擦れた声で答える。
「ボルテクスで泣き叫んでいた俺を抱き上げた…十四代目葛葉ライドウ…」
そう発する俺の視線を、ライドウの眼が雁字搦めにした。
もっと欲しいと、赤子の様に。
「夜…あんた、だ」
きっと、あんたの魂が、俺の孕む肉体にも宿っている…
どれも、あんたなんだ、今、解った。
「…確かに、あの世界で君が生まれる瞬間を二度も見たな」
「だろ…?…だから、あんたは、俺を支配したがる…」
「…フ、フフフッ…そうくるか」
「哂ってんじゃねぇ…っ……だから…逆も、然り、だろ…」
胎の小太刀をぐじゅりと引き抜かれ、奥歯を噛み締める。
カラリと床板に転がる小太刀の音。
それを遠くに聞きながら、金色の光だけを暗闇の中、追う。
「親も子も、互いを欲して、独占し、奪い合う…」
呟くライドウに、身内は居ない。
俺と婚姻したあの時から…すべてが始まって、瞬間終わったんだ。
もう動かないこの時間。成長しない俺とお前と、孕む子供。
「フ…アハハ……ッ………そうだ、僕はただの夜、だ」
痺れるままの俺を抱き上げ、白いシーツに包んだライドウ。
昨日見た赤ん坊の様に抱かれ、白い布に包まれる…
「この先永劫、君の主人で支配し、息子で支配する、完全に君を支配するんだ…」
何かに気付いたのか、それとも本当に壊れたのか。
恍惚としたライドウが、寝台に俺を横たえる。
シーツが赤く染まっている、純白なんて不可能だと俺達を嘲笑って。
「時間に取り残されていよう?矢代」
スラックスが脚の先から逃がされる。
互いに、泣き叫びそうな生まれたままの姿というものになった。
「今度から君のMAGで育てて」
覆いかぶさる妖しげな微笑に、俺は酔ったのだろうか。
寄せられた唇に、自ら舌を差し出した…
息子への贖罪なのか、主人への従属の証なのか。
この瞬間、昨日の赤ん坊よりも…成長の無い、時の止まったライドウが恋しかった。
そして、支配したくて、されたかった。
伴侶として、親として。
「狂って、る…」
喘ぎ漏らした俺の言葉は、ライドウの唇に啄ばまれて消えた。






朝の霧がすべて染め上げる刻限。
薄っすら浮かぶ月が、未だ夜半を思わせる空の蒼色。
山間では、この時期でも早朝は寒い。
「どうしてあんな成長してたんだ、あの子」
俺の疑問に、ライドウが霧の中哂う。
「偏っていると云ったろう?肉体の成長が早かったのだよ」
「十年近くも前の事なんか覚えてる訳無いだろ…」
あの、ほぎゃほぎゃ泣いていた赤ん坊も、今日墓石に入る。
昨日見た母親は、寂しそうだったが、笑っていた。
あんな掘り起こし方をしたライドウに向かって、頭まで下げて。
…一気に、彼女は老いた気がする。
「というか、あんたが名付けしたの、縁起悪かったんじゃないのか?」
「おいおい失礼だな、彼は外に伴侶を見つけたので、里を下りたのだよ」
「既婚者…」
「そうさ、だから外で普通に徴兵された」
愛に生きて、その流れに呑まれて、死んだのか。
「折角…育ったのにな」
俺の呟きに返事は求めていない。
あの記憶が警告する。刻の流れに乗るな、と。
(やば、またこの男が逆切れするかもしれないな…)
死体と共に発掘された記憶は、今の目的へと脚を早くさせる。
里のはずれにある墓地、その近くの小さな湖。
其処を過ぎる際に、彩りを感じた。
「御覧、功刀君」
先導するライドウが、湖畔を綺麗な指で指した。
「滅亡に向かって咲いてる」
淡い色の睡蓮が、蒼い空に照らされ咲き誇っていた。
「滅亡…」
「君の胎にも咲いているね、滅亡の証が」
可笑しそうに哂うライドウに、訝しげに云えば続けて返してくる。
「胎に宿す所為だろうかね?業深き者をさ…」
俺の胎の斑紋と、孕む子を絡めているのだろうか。
「そう思うなら、孕ませんなよ…下衆」
美しい睡蓮の薫りが台無しだ。
外套を翻すライドウが、俺の侮蔑に微笑む。
「しかし、そういう物に限って美しいね」
返事は返してやらない。同意したと思われたくないから。
さくさくと歩く湿った草の上。
「さあ、到着したよ功刀君」
眼の前に現れた、真新しい墓に刻まれた名の部分に、驚愕する。

“夜代”

鼓動が静かな空間に煩く響き渡る。
呆然とするままの俺を、傍のライドウが鼻で笑った。
「僕が名付けたと云ったろう?」
「………馬鹿だろ、あんた」
「読みは解るかい?」
「ヤシロ、だろ…」
「御名答」
どう反応すれば良いんだ。
両親から半々字を取るなんてのはよく有る話だが…それにしたって。
既に噛み付こうとしていた俺の口より早く、ライドウが口を開いた。
「あの晩君を抱き、翌日命名したので、少し私情が混じったのは確かだね」
「…」
こいつも、思い出していたのか、あの日を。
「せめて動く子に、僕等の名を冠してみたのだがね…」
霧でぼやける、ライドウの横顔。
時間を止めている張本人が、矛盾を吐いた瞬間…俺は叫んでいた。
「そんな必要有ったのかよ!!確認は何の為だ!夜!!」
眼を見開く、お前に向かって叱咤する。
「変わらなくて良い!俺の子も!あんたもだ!」
誰も居ない、下に眠る骨達しか聞いていないであろう叫び。
手向けの花を手にしたままのライドウは、墓を見つめるまま云い出す。
「…ずっと、息子の身体に嫉妬した、君の胎を占拠する特権を」
「…」
「…ずっと、傀儡としての生まれしか赦されぬから、父が憎かった…」
「どっちも、あんただ」
「そう、どちらも、僕だ」
「時間に乗れば、幸せなんだと思ってた、俺は…本当はさ」
薄く笑うライドウに、静かに呟いた。
「でも、こんな簡単に、命は散るんだ…」
可愛らしいあの赤ん坊を思い出す。でも、それを払拭させる想いが燻る。
「それなら…下手に動かない方が、良い」
だから、あんたを生み続けよう、今のところは。
クスリと哂ったライドウが、外套に突っ込んだ腕を弄らせる。
引きずり出したのは、サマナー枠の証、腕章。

「真っ当に生きた僕等の…もう一人の息子に」

ひらりと蒼き空に舞い上がった腕章。
瞬間抜かれたリボルバーがそれを射抜く。

「黙祷」

散り散りに、霧に紛れて消えていった。
空に還るそれを見送って、瞼を下ろす。
俺達を人間としての刻へ繋ぎ留めていたあの赤ん坊に、心の中で別れを告げた。

阿闍世のリビドー・了
* あとがき*

10,000hitのキリリクでした。
『エディプスコンプレックス』をリクエスト頂きまして…
どうでしょうか?しっかりとそれっぽいでしょうか?ドキドキ…
帳を基礎に書きましたが、女体での絡みは無いです。
むしろ息子からという何とも…(失笑)
戦争に疎いので、その辺の背景描写は適当です、すいません。
文字色が違う範囲は、過去の出来事です。

《補足》
【エディプスコンプレックス】
母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱いて、アンビバレントな心理を抱く状況を言う。

【阿闍世(あじゃせ)コンプレックス】
出生以前に母親に抱く怨みの事を意味する。

【リビドー】
様々の欲求に変換可能な心的エネルギー。

【睡蓮】
花言葉のひとつが「滅亡」