百合の夢
「この脚のタトゥー、彫ってあるのぉ?」
嫌いなタイプのヤニ臭い息をかわして、覆い被さってくる弛んだ肉を押し退けた。
「どっちだっていーだろ」
「もっと女の子らしい模様彫ればイイじゃないか、こりゃなんだい?」
「説明めんどー」
その臭い息までコッチにうつったら、ぶっ飛ばすぞこのオヤジ。
「蛇?」
「さぁーねー…」
肉ヒダから這い出て、鞄の内ポケットに突っ込んであった煙草をさぐる。
角が潰れた【BLACK DEVIL】を取り出して、安っぽいライターに指を伸ばした。
ラブホの名前が刻印されてる、日常では使えないソレ。
「うわ、それ甘ったるいね!くさっ」
「あっは、オッサンの体臭よか臭くないよ?」
嘲笑と共にココナッツミルクのフレーバーを吐きつけた。
思い切り吸い込めば、肺がトロピカルになる。
こいつも、そろそろ吸い尽くしたろうか?この指の黒い煙草みたく。
こっちからふっかけなくても、金品チラつかせて、纏わりついてくる。
良い感じに仕上がってきた使役豚。
「でねぇ〜その壷がさぁ」
糞ツマラン話を枕言に聞き流してりゃ、この中年は喰える。
貪欲に生きている人間程、精力が強い。
たっぷりと啜れる、金もエネルギーも。
「ほら、コレコレ、見てみなよ〜」
「うっせ、興味無い」
窓の外、高層ビルの星を眺めて噴かす煙草は悪くない。
傍の雑音さえ無きゃ、最高な眺めなんだけどね。
「ほらぁ、最近手に入ったの、真の骨董品だよ!」
丸々とした指が掴むのは、さっきまではアタシの胸で。
たった今は、ずい、と眼の前に差し出された鈍く光る…意味不明な金属。
「何か分かる?」
「しらね」
「COMPじゃない召喚器だよ?百合ちゃんは見た事ある?無いよねぇ〜」
「…召喚器」
にちゃりと自慢気に笑うオッサンは、その金属の先端の輪を掴んで遊ぶ。
「知ってるかな?あの悪名高い葛葉の十四代目が使ってたっていう封魔の管だよぉ?」
その単語、反射的に手が躍る。
ビビったオッサンがベッドから転がり落ちて、アタシを見つめる。
「葛葉…デビルサマナーの、か」
「そ、そそそそうだよぉ、し、知ってたんだ」
「おい、コレくれよ、この管ってやつ」
「ええ!?」
コイツは古物商だ、きっと転売先を考えてたんだろうが、誰がさせるか。
別に、コレをきっかけに探る訳でも無いが、眼の前に来たんだったら、気になる。
「何、嫌なの?根性焼きしちゃうよ?焼き豚って奴?」
「あ、いや見えないトコになら全然OK!」
「うっぜ…」
元々する気もないから、適当に流す、。
ネイルアートの爪先で、その管を転がす。意外と重量感がある。
「葛葉、ね」
思わぬ戦利品も手に入れた事だし、さっさと豚から離れないと、臭いが感染する。
「あぁ、待ってよ百合ちゃあん」
「ぅっぜーな!さっさと帰って愛情手料理食って糞して寝とけ!」
シャワーを浴びる間、絶対浴室には、相手を入れない。
ひと呼吸して、脚の印が戦慄くのを見る。
休憩を挟まないと、この状態を維持出来ないんだから仕方ないだろ。
「あ〜…だる」
あの管が、惹き合わせてくれないだろうか。
「おかーさん…だりぃよ、最近」
ああ、くたばる前に出逢えたなら、葛葉の十四代目。
(悪名高いつったから…恐らく、ライドウで合ってるだろ)
てめーをぶっ殺す。
代々木公園駅〜
代々木公園駅〜
アナウンスを聞き流して、車窓から外を眺める。
曇り空。昨夜の星はどうしたんだ、とか思ったけど、そりゃ錯覚だったわ。
あのプラネタリウムはビルの光だったんだし。
…それにしても、さっきからムカムカしてしょうがない。
(どーして跳ね除けるとか、しねーんだよ)
眼の前の滑稽な劇場に、ヤニ切れにも似た苛立ち。
周囲の見て見ぬフリも、らしいっちゃらしいが、ムカつく。
そりゃ、関わりたいたぁ思わないだろうさな、普通。理解は可能。
(このご時勢、若いのに着物かよ…雅なこって)
携帯を開く、その動作の隙間から窺えば、いよいよ合わせから指が入ろうとしていた。
尻を中心に触られていた子と、一瞬眼が合った。
光の加減?アタシの、これまた錯覚なのか?
金色に、一直線に貫いてきた、アタシの眼を。
(…あ)
次の瞬間には、伏せられてる。
おい、どうしてアタシは体を動かしてる訳?まるで、命令されたみたいに。
「おい、ザケてんじゃねーぞ、テメー…」
その、触り続ける中年…昨夜のと違って、痩せた体躯のオッサンだ。
ビクリとしてアタシを見上げる。まぁなんせ、アタシでっけえからね。
「汚ぇ手、さっさと退けろよ」
畏怖するオッサンは、丁度開いた扉に逃げ込む様に走り出す。
それを追う事は、別にしない。
そこまでヒーロー気取る程、善意も何も無い。気紛れだ、多分…
「おい、アンタもしっかり怒れよな?」
着物の子に、やや上から見下ろして云う。
なんだ、意外とこの子も、女の割にはでかい。
…いや、胸はサッパリみたいだけど。
「す、すいません…助かりました」
「エスカレートすっからよ、あーゆのってよ」
それだけ云って、アタシも降りた。
そうそう、タイミングもぴったり、アタシが用あるのは代々木公園の辺だから。
周囲の視線も痛いから、つかつかと降りた。
しかし、あまり人が居なくて助かった。
あんなのの後、混雑で降りれなかったら、胸糞悪い。
(あの着物、高ぇな)
素人目でも分かる、だって、プリントじゃねえ。
金糸の刺繍。華も、一針一針。
そんな子に手ェ出して、あのオッサンも容赦ねぇな。
降り出しそうな空を見て、少し足早に公園を目指す。
「はぁ!?」
「これで!これで良いでしょ百合ちゃん!?」
古物商、なんだその札束。
そこまで繁盛してる風でもなかったろうが。
「これで一緒に暮らそう!」
「おい、オッサンには一応伴侶っつうモンが居るだろ」
「妻の貯金をね!下ろしたんだよ!」
中年男の、血走った眼に、脳内がカッとなる。
その低い位置にある股間を蹴り上げて、悲鳴に並んで叫び散らした。
「もう会わねぇよ、それ持ち帰って、壷と奥さんの弛んだ胸でも揉んでやれよ」
醜い悲鳴を上げるコイツを食い物にしてんのは、確かにアタシさ。
でも、そこまで喰い散らかそうなんて思わない。
そりゃ…自分の中で、罪の範囲に入る。
(ち、使役すりゃ実は妻子有りとか、マジで勘弁…やっぱ駄目だったわ)
「ぃ、百合ちゃぁあああんんん」
「泣くんじゃねえよ!マジで!うざいんだよっ!」
気付けば脚に縋って、号泣の古物商。
人通りの殆ど無い、フェンスに囲まれた工事現場。
それを認識して、再度蹴り上げた。
「じゃあな、丁度良い機会だから、他の女とも縁切れば?くくっ」
踵を返し、街灯の在る方面へと歩き出せば、頭を小突く雨。
舌打ちして、少し小走りに入り口へと向かえば…
見覚えのある、着物。
その、少年とも見間違える涼しげな項が、少し寒々しい。
「何、してたんです」
「アンタにゃ関係無いよ、それとも、何…」
歩み寄れば、街灯の光がアタシの影を伸ばした。
やっぱり、金色じゃなかった、この子の眼。錯覚か。
「アタシに用?」
何歳位だろうか、同じ位に感じるけど。
ハイソールのローファーで上から見下ろすけど、実は同じ程度の身長か。
「これ、落としましたよ」
揺れた袖から覗く指先に、鈍く光る金属。
ん、と思い、鞄を見れば。確かにファスナーが弛み、暗い空間がぽっかりと開いていた。
「お、わざわざ?悪かったね」
其処目掛けて自分の指を伸ばせば、すい、と引っ込む管。
猫じゃらしで遊ばれる猫の気分になり、カチンときた。
「アタシは猫じゃない」
「この管、何処で手に入れたんですか」
少し苛めてやろうか。
「ソレ、アンタの物だった?」
「…いえ、俺の、では無いですけど」
へぇ、その風体で俺、かぁ。
意外な一人称と、惑う様でいて攻撃的な視線に、興味がそそられる。
「ソレさぁ、戦利品」
毛先の撥ねたセミロングを肩から払い除け、笑ってやる。
「どういう意味ですか」
「さぁ?さっきのオッサンとアタシのやり取り見てたんなら、察してみれば?」
「…ああいう人から、巻き上げてるんですか」
「フェアトレードってやつっしょ?しっかりアタシは身体で払ってる」
それを云えば、一瞬で空気が変わる。
着物を翻して、アタシに掴みかかってきた。
「これの持ち主と、寝たのか」
「さ〜ね」
「真面目に答えて下さい…!」
(あ)
やっぱ、ホラ、一瞬金色になった。
綺麗な眼。
「正直忘れた、アタシ、使役中の奴多いからさ」
適当に云い放ち、ブレザーを掴む指を上から掴んだ。
「葛葉って姓はいなかったけどね」
誘導尋問。その姓を出せば、一瞬ビクリと指先が震えた。
この子、葛葉の関係者だろうか。着てるのだって、上質な着物…
まぁ、無い話じゃない、かな。
「ぁ?」
旋毛に、更に冷たい感触。
ふと見上げれば、街灯が照らす範囲に、白い線。本降りだったのか。
舌打ちして、樹の茂る所を視線で探す。
「こちとら傘なんて携帯してねっつの」
思い起こせば、携帯のテロップに傘マークが流れていた…気もする。
掴んだ指をそのまま握り締めて、駆け出す。
「ちょ、っと!」
「濡らしても良いのかよ、その着物」
木陰に引きずり込めば、一気に強さを増す雨粒。
地面が色を一瞬で濃くして、葉の叩かれる音が煩い。
「…チッ、タクシーにしろ、こりゃ濡れるな」
呟いて、携帯を取り出せばもう20時だった。
チラリと横目に着物を見る。
「アンタ、その管返して欲しいの?」
「…別に、出処だけ、気になったから」
「もう暗いけど?そんな格好でどうすんよ?着物は濡れると重いよ?」
裾を少したくし上げ、跳ね返る水を除けるソイツ。
赤い鼻緒が見えて、どうしたもんだか扇情的だ。
「適当に、歩きます」
「電車は?」
「さっき乗ったのでもう…お金、無くなったんで」
は?ホームレスかよ?いっそその着物でも売ったらどうなんだ?
「…これ、もう良いです」
再度突き出された管は、少し濡れていた。
「電車では、ありがとう」
礼なのに愛想笑いも出来ないのか、この子。
そのまま踵を返す袖を、ぐい、と掴んで…アタシは勝手に喋っていた。
「ちょっと、ウチ上がってけば?」
都内だから、ワンルームでもまあまあそれなり。
そんな所に住んどいて、家族らしき姿が見えない事を疑問に思っているかもしれない。
ローファーを足先で脱ぎ棄て、廊下に散らかった箱やらビニールを蹴り掃ける。
なかなか上がってこない背後を振り返れば、怪訝な表情。
「何、潔癖?」
「ろ、廊下が埋まってる…」
「これでも開通出来てる方なんだけどね」
じっとり濡れた着物を玄関外で絞って、かつんかつんと下駄の音が後に続く。
湿った木はぼやけた音で、爽快感のカケラも無い。
「お邪魔します」
「ん、先シャワーでも浴びれば?着替えは適当に見繕っとく」
アタシの妙な世話焼きに、更に眉を顰める。
余程人見知りか、それとも不信感を抱き易いのか。
(ま、電車でフツーにあんな目に遭ってりゃ、人間不信にもなるか)
「…あの」
「ほら、その右の扉。大丈夫だっつ〜の、水周りは綺麗にしてるから!」
云いながら鞄をソファベッドに放った。
型の崩れた、教科書の入ってないそれは自立しない。
ゆるゆるとソファベッドから落ちていったが、フローリングにべしゃりとなっても無視った。
しばらくしてシャワーの音が壁越しに聴こえ始めると、クローゼットを確認する。
私服なんて、特に必要無いから少し困った。
(着れないこたぁねーだろ、アタシよか胸も貧相だったし)
そのセットアップを手にして、脱衣所に侵入する。
脱衣籠の縁を見れば、控えめな色の下着。
やけに面積が少ないのに爆笑する程、アタシは下世話だと騒ぐ性質じゃない。
磨りガラスの向こう、薄っすらとした人影に声をかけた。
「着替え置いとくから、勝手に着て」
水音が止み、簡潔な返答。
「ありがとうございます」
それだけ聞いて、さっさと廊下に戻り扉を閉めた。
向こう側に見える窓からは、チラチラ揺らぐ光の粒。
まだ止みそうに無い雨を見て、舌打ちしつつブレザーを脱ぎ捨てる。
ソファベッドの背凭れに、次々と脱いだ制服を引っ掛けて、ブラとパンツだけになれば身軽だった。
(どーしたもんだか)
捨て猫でも拾った気分だ。いや、拾った事は無いけど。
ノートPCを開く気にもなれないので、フローリングに転がる鞄から煙草を取り出す。
唇にフィルター側を挟む瞬間、扉の音がした。
「あの!これ以外無かったんですか!?」
その慌てくさった声に、少し気分が良くなった。
「ぉうよ、だってアタシ此処じゃ服着ねーし、それしか必要ないんだもん」
「っふ、服!せめて何か羽織って下さい!」
「ぴーぴー煩ぇな……はいはい」
あまりに気が動転している様を見て、鼻で笑ってしまった。
クローゼットから薄いカーディガンを取り出し、肩に引っ掛ける。
それだって校章の入った、プレッピー感半端ないブツだ。
そう、結局は制服か下着しか無いって事。
「似合ってんじゃん」
振り向いて声をかければ、部屋の隅にある姿見を見て呆然としてるソイツ。
「…こんなの……っくそ…」
何をそんな辟易すんだ?
「可愛いだろ〜?この辺じゃブランドだよ?その制服」
「着物乾いたら、すぐ着替えます…!」
「そーいや、下着は濡れてなかったん?良けりゃ貸すけど」
クローゼットの下方にあるボックスから、ポイポイ取り出して投げつける。
極彩色からレオパードまで、派手なのばっかりわざと選出。
「あの、もうちょっと普通なのは?」
「気に喰わねぇ?全部しっかりTなんだけど」
ニヤニヤと笑って云えば、頬がみるみる赤く染まる。
「…結構です」
真っ白いシャツに、ギャバ地のハイウエストスカート。色は清楚にグレー。
ダーツの入りが独特で、本当に綺麗なウエストラインが出る、お気に入り。
まあ、アタシみたいに他でケバくしてりゃ相殺されるって話だが。
「火」
「あ?」
「煙草、火…点けないんですか」
突然何かと思ったが、そういえば指に携えていたっけ。
しかし、またまた困ったかもしれない。
ライターなんか普段必要としないので、常備していない。
まさかコンロで着火する訳にもいかないか。
「あ〜…やっぱいいわ、吸う気失せた」
「そうして下さい、濡れ髪って臭い吸いますから」
「おま、結構慇懃無礼っしょ」
嫌いじゃない。
どうして電車の中でそれを発揮しなかった?
あれか、痴漢されている自分が赦せないって、そういう感覚か。
「それにその煙草、酷く臭いし」
ぼそりと呟くソイツを見て、何か引っ掛かった。
何だ、ダチが同じのを吸っているんだろうか。
だってコレ、なかなか販売店が無くて、在庫切れ=ヤニ切れって位だ。
「雨宿りに、好きに寛いでくれていーよ」
黙りこくるので、追撃する。
「帰りたくないんでしょ?」
濡れた艶やかな髪が揺れたのを確認する。その妙な撥ねた癖っ毛が独特だ。
「なぁ?どうよ家出少女A」
「っち…違います」
「じゃ何だよ」
「俺は……」
片手にしていたままの煙草を箱に戻し、どかりと腰を下ろすソファベッド。
ずれたブラの肩紐を戻していると、声がようやく続いた。
「…功刀」
「そりゃ名前っしょ。何者かを聞いてんだけどさ」
唇を噤むその姿に、なんだかどうでも良くなった。
アタシは軽く笑って、鞄から管を取り出しつつ云う。
「良いよ、無理にクチ割らしてまで聞きたい何かが有る訳じゃないから」
「じゃあ、俺から聞いても良いですか」
出た!この容赦の無い反応が可笑しくて、実はアタシ、ツボってる。
功刀は小さな棚の上に視線を流すと、更に硬い表情になった。
「宗教やってます?」
偏見の眼差し、そりゃ警戒するだろうな。
「安心しな、ガイアでもメシアでもねーし」
背凭れを倒し、其処へ背中を一緒に倒す。
ベッドにしたその上で、雨粒の夜光に光るソレを見つめた。
「これ、魔晶ですよね」
「ん」
「普通飾らないから、何か奉ってるのかと思いました」
「それな、アタシのおかーさん」
アタシの返しに、功刀はぽかんと口を開けて魔晶を再度見つめ直す。
突っ込まれる前に、笑って釘を刺す。
「…の、形見」
雨の匂いのしたままの、濡れた自分の髪を額から掃った。
天井に、窓を流れる水滴の影がプラネタリウムを描いてる。
故郷の夜空は、リアルな星空が見れる程、澄んでいたのだろうか。
「俺も片親でした」
功刀の呟きに、特に相槌もしなかった。
「シャワー浴びないんですか」
「もうたりーわ…このまま寝る、オヤスミ」
告げて、端の方に身体を転がしてスペースを空ける。
少しして、背中の方に気配を感じた。
疲れてたのか、すぐに微かな寝息が聞こえてくる。
本当に微かな、ともすれば死んでるみたいな。
(なんかこの子、人の気配を感じない)
折角招いたのに、結局妙な人間だった訳で。
結局、人のなれ合いを感じない添い寝だった。
「今日も雨」
「湿気で髪ヤられっちゃう〜もぉ」
隣の席の会話、それは何時の間にかコッチに振られる。
「ねえ、リリは今日バイト?」
バイトと称した都合は、大抵飼い慣らしたオッサンと密室でどーこーする用件。
「いや…今日は無い」
「マックかスタバ、この後行くって話なんだけど、どぉ?」
「遠慮しとく、ちょっと別の用」
机から覗く教科書を指先で小突いて仕舞う。
置き勉なだけで、別にアタシは勉学を放置してる訳じゃない。
今日はしっかり傘を持ってきた。ビニールだけど、蔦柄のプリンティング。
白い雨空に向かって開くと、ぱたぱた蔦の影に水滴が踊った。
(くっそ、こんな時に限って)
身体が気だるい。
湿気にヤられそうなのは、髪の毛だけじゃない。
“ごめんねリリ、海外出張で俺、明日から――”
一番の蔓が、日本に居ない。
おまけに先日の古物商は手を切ったので、もう頼れない。
他の奴はどうだ?いや、もう枯渇寸前だ。破滅に追いやるのは気分が悪い。
誰彼構わず吸うなんざ、アタシのポリシーに反する。
この身体を、ただ求めた男と、ただ酌み交わす財。
肉、金、精。
この存在を、ただ維持したいアタシの、勝手な罪。
雨雲に隠れ身した満月を呪う。
満月なら、人間だって無意識にエネルギーを撒き散らしているのに。
夜の街を歩くだけで、そのお零れが舐めれるのに。
車窓に流れる都会をぼんやりと眺めて、指先を毛先に運ぶ。
安物のピンキーリングに自慢のセミロングが絡め取られて、やっぱり止めた。
(おかーさん…)
ずっと、学校には居れない。
一所には、留まれない。
今更、曝して生きれない。
(何処に帰れば良いんだよ)
降りて数分、駅から近いアタシの住処。
家賃は使役するパトロンが勝手に出すから、気にして無い。
アタシには、食事は必要無いから、他にも金はかからない。
ずっと、帰る処を探して、生きてるだけ。
通路を歩くと、ワンルーム世帯らしい、気配の無さ。
挨拶を交わす機会に恵まれない最適な環境を掻い潜り、アタシの住処へ。
冷えたドアノブに指を引っ掛けると、ガチャガチャと音が響いた。
(ン?鍵?)
施錠の記憶が無かったので、ぎょっとして指を離せば…
勝手に動いて、開く扉。
「あ…すいません、俺、施錠癖ついてて…人の家だってのに、勝手でしたね」
「…いや、勝手して良いつったの、アタシだから」
そうだよ、今、独りじゃなかったっけ。
「…おかえりなさい、学校しっかり行く方だったんですね、意外だ」
さらりと述べて、奥に引っ込んでいく。
ああ、やっぱ、変だ、あの子は。
「…あ、あぁ」
おかーさんとの親子ごっこを思い出して、廊下を俯いて歩いた。
放置してあった空き箱やら何やらは、姿を消している。
「別に、居候だからって家事しろたぁ云わないけど?」
「俺が居心地悪いんで」
「けっ、悪かったな、汚部屋でよ」
灰皿しか置いてない小さな折り畳みのデスクに、何か見える。
たった今置かれていった、缶。
「疲れてるみたいでしたから」
多分、近所の自販機だ、一軒家の手前にある種類。
そのスポーツ飲料を見て、しばらく黙ってしまったアタシ。
「あの、お嫌いでした?こういうの」
「金は?」
「これ買う程度には有って、家に戻る程には無かっただけです」
「へぇ、で、アタシに?」
コイツ、やっぱ意味不明。
「台所に調理器具は無いし、冷蔵庫にも何も無かった…」
そりゃそうだ、アタシは食う必要が無いし、冷蔵庫は食い物貰った時にしか活躍しない。
そのまま捨てるのは性に合わないから。
「しっかり食べてるんですか?貴女」
「そりゃアンタに云いたいよ、功刀ちゃん」
茶化せば、また不満そうな顔。
「あんがとね」
プルトップを開けようと思ったが、ネイルアートが剥げそうで一瞬止まる。
じろ、と見兼ねた功刀が、アタシから掻っ攫って、指先ですんなり開けた。
「再びあんがと」
「そんな爪してるからです」
「へいへい、赤い花柄っすよ〜お気に入りっすよ〜」
爪先、指。其処の御洒落は、結構好きだから、こりゃもう仕方ない。
受け取って、ぐいぐいと味の薄いそれを嚥下する。
アタシの身体が求めているのは、食物でも、金でも無いんだけどね。
でも、呑んでやるよ。
物云わぬ魔晶の代わりに、迎えの挨拶が在って。
アタシは内心、浮き足立っていたから。
赤い…
赤い、揺れる花?焔?
朧気な記憶の、向こう側に視えるのは…黒い、外套の影。
“出て往き給え”
崩れ落ちる、おかーさん。
“烏の里にその身を置く事は、赦さぬ”
影の放った、冷酷な声。
「ハ…ッ!」
ぜえぜえと、夢は途絶えて唸りと化す。
乱れた呼吸を整えて、上体を起こせば、暗い部屋。
いつのまにか外は夜明けで、アタシはPCのモニターに照らされていた。
突っ伏して、適当に彷徨っていた電子の異界から眼を離す。
「功刀…」
振り返れば、ソファベッドに転がって、体を抱く様に寝ている姿。
まだ暗く蒼い空に照らされている、その寝顔を少し、覗き込む。
綺麗な顔だった。硬質でもなく、柔らかでもなく。
どこか、薫るのは…雨の匂いか。
でも、今、眼の前から…な気がする。
(ああ、勘違いしてた)
功刀と遇った日から、ずっと雨だから、雨の匂いだと感じていた。
そうではない。
芳醇な、それでいて清廉な、脳髄を刺激する香。
「…なぁ、アンタ、本当に何者よ?」
身体の抑制がぐらついて、ふらりと立ち上がる。
見下ろすその相貌に、少し光が奔った様に見えたけど、多分気のせい。
多分…
「なぁ、本当に、さ…」
赤い、曼珠沙華の着物に感じた郷愁。
金色の瞳。
その薫りは、薄く開いて呼吸を繰り返す其処から、色濃く漂う。
「ちょっとばかし、くれよ…」
最近、距離の遠い中年男性からしか吸って無かったから、舌も麻痺してるだろう。
ふらりと此処に迷い込んだアンタなら、赦される、と思いたい。
ゆっくりと上下する薄い胸。その僅かな膨らみに背徳を感じる。
上から、両腕をその相貌を挟む様にしてついて、覆い被さる。
本能が突き動かす、衝動の接吻。
呼気を自分の唇に感じて、熱が奔る。
「ぅ…」
アタシの髪が、その白い頬をそわりとくすぐっていたのか、ぐずつく功刀。
びくりとして、咄嗟に離れる。
動悸が止まないアタシの胸が、功刀のまな板胸にくたりと押し付けられていたままではマズイ。
(何、しちゃってんだよ)
見境無いのはポリシーに反すると、警鐘が脳内にこだまする。
落ち着かせようと、PCで時間を見た。
(ああ、駄目だ、抑えられないコレ)
同じ空間に居るのすら拷問的で、カーディガンを脱ぎ捨てて着替え始めたアタシ。
デスクトップに開いたメモ帳に書置きして、荷物を肩に引っ掛ける。
“着物、雨染みになるからクリーニング出してくる。金は前払いしとく、別に請求しないから。”
その画面のまま放置しておく。
たたまれた着物を引っ掴み、逃げ出す様に住処を後にする。
唇が、まるで香辛料でも口内に含んだ時のそれみたく、熱を孕んでいた。
この姿を保っていると如実に現れる肉体の現象。
(あの子、どういう生体エナジィ持ってんの)
強い酒みたいな、その呼気を啜っただけでガツンと脳髄に響いた。
そこいらの人間が束になっても敵わない程の、強いソレ。
あのまま同じ空間に居たら、無防備なままの功刀を眼にしていたら。
置いてやっている、という事実への見返りを求めてしまいそうだ。
スキンシップ…ましてや女性同士となれば、あの酷く潔癖そうな顔は歪むだろうな。
(見てみたい気もすっけどね)
暗い妄想に取り付かれては、それを振り払う。
肌寒い霧が、まだ帳を幕引きさせない空。厚い雲の切れ目から射す月光。
それでも、まだ降りそうだ。
紙袋なぞゴミを漁ればあるだろう、と思えば、そういえば功刀が清掃した事に気付き。
着物を直接携えたアタシは、ほんの偶に遭遇する通行人にじろじろと視線を頂いた。
不釣り合いだろ?きっとパクったとか思われてんな、コレは。
ふらりと入る、クリーニングの集荷をしてるコンビニ。店員は一人。
こんな時間帯なので、やっぱ客なんてガラガラで、商品も並ぶ少し手前の時間だ。
カウンターに置かず、着物を見せる。
「すいません…これクリーニングで」
眠そうなパーマのおばさんが、折角手渡ししたそれを、不躾にカウンターに滑らせる。
おいおい、汚れたらどうすんだ。金の行き交う汚い所にゴシゴシ設置させんなってば…
こりゃコンビニの商品じゃないんだって。
「この手のは一律で一万五千円となります」
「ふぅん、やっぱそれなりなんすねー…」
金だったら有るので、鞄から長財布を取り出し、開いた其処から札束を確認し…
「地直し、刺繍直し、ヤケ直しも本来願いたいのだがねぇ」
と、突如第三者の声。カウンターの店員を見れば、その視線は一直線にアタシの横へ。
「一般的な店に出すと、却って高くつく…か、そのまま返却される」
透き通る様で、鼓膜に妙に余韻する声。
「其れは僕が預かりましょう、良い店を知っているのでね」
黒い影。見上げると、確かに女なら釘付けになりそうな面してる。
「おにーさん、コレは知らねぇ人に任せらんないよ。第一アタシのじゃないし」
財布を一旦閉じつつそう呟けば、その男はクスリと哂って着物に指を伸ばす。
「僕も、知らぬ人に自分のモノを任せておくのは御免だからね」
財布を閉じていた指先が一瞬止まった。
何かを含むその台詞に、唇が妙に震えた気がする。
「フフ、申し訳ありません、御婦人」
「い、ぃいいえいいえ!」
キョドる店員に微笑で声かけ、そのまま着物を掻っ攫うその男。
「ちょ、待てって、おい!」
後を追って、自動ドアを同時に潜る。
黒いコートに鮮やかに映える、白地に赤の曼珠沙華。
「それ、アンタの…って事?」
「僕の物の物だからそうだね」
「何ソレ、どーゆうジャイアニズムよ」
鼻で笑って、少し手前に躍り出てやる。
ジロ、とやや上睨みになるアタシを、不敵に微笑んで見下ろしてくる高身長。
頭の天辺から、爪先まで真っ黒。
この着物の持ち主らしいし、着用してるのだって…確かに高そうだ。金持ちっぽい。
軍帽くさいそれは、レザーのフィッシャーマンキャップ。
立て襟のコートは、ロングケープのトレンチ。すごく細身。
着られてない、しっかり着てる。
「君の処に、僕の身内がお世話になっている、という事で良いのかな?」
切れ長な黒い眼は、孔雀みたいに整然と揃う睫毛で飾られてる。
(コイツ、絶対モテるな)
「でもさ、帰りたくない、っぽかったよ?何、痴話喧嘩?」
「そういう事になるかな」
けぶる霧、薄暗い藍がしとしと影を融かして、アタシ達も紛れてしまう。
点いては消える街灯の光が、歩く男の外套を照らせば、浮かび上がる。
前方からする物音に意識を向ければ、都会ではよくある光景。
定時外に出されたゴミを漁る、カラスと犬。
雨の臭いと排他物の臭いが混じりあって、アタシは眉を顰めて傍を通る。
同じ様に、颯爽と流れる動作の長い脚。
「フフ、夫婦喧嘩なぞ犬も喰わぬ」
呟いて哂うこの男に、唸り始める犬達。
首だけですぃ、とソコを振り返ったと思えば、この黒コート。
(眼が…)
向こう側を見やるその一瞬、金色に光る。
途端、一緒に残飯を漁っていたカラスの群れが、その野良犬に飛び掛った。
まるで、コイツが使役してるかの如き動き。
ぞわりとして、思わず吐き捨ててみる。
「“カラス”って、やっぱ汚ぇ」
アタシの侮蔑に、視線を寄越す男がニタリとした。
「そうだね、さて…君の家を濡れ羽で汚す訳にもいかぬ」
その視線が、更に流れて向こう側の景観に落ちる。
「少しお茶でもしようか?」
「何、ナンパ?今日び流行んねーよ」
「色々聞きたいからね、立ち話もどうかと思い、ね」
アタシだって、聞き出してやるつもりだ。
あの瞬間、立ち昇った強い生体エネルギーが…気になって。
着物を返して貰う以前に、探ってやりたくなったんだ。
功刀も、アンタも、同族か、を。
喫煙席を指定して、座るファミレスの硬い椅子。
客はアタシ等だけだった。
「食べるかい?お代は此方で持とう」
「いらね、むしろおにーさんこそ、喰うの?」
「呑む程度には嗜もうかな、何も払わぬのは拙いだろう?」
探り合っている。
「ふーん…一応喰う事はしてんのかぁ」
「味覚はしっかりと具わっているのでね」
「だんだんメンドくならね?食物摂取」
「無駄こそ生涯謳歌の秘訣と思うが?」
「ケッ、ゆとり無きゃんな事云えねーよ」
帽子とコートを脱ぎ、椅子に掛けている。
インは、これまたビックリなループタイとベスト。
赤い華が幽かに揺れる、魔晶の輝きにも似た留め金。
紐タイの先は、フリンジかと思えば…黒い羽だった、まるでカラスの。
「御洒落じゃん、おにーさん」
「君も、指先の赤い華、綺麗に咲き誇っているではないか」
「ぁあ、コレ?どうよ、アタシって案外器用だかっさ」
運ばれてくる珈琲。相槌してから、話の波が押し戻される。
「イイじゃん、曼珠沙華」
「フ…毒花だが?」
膝上で綺麗に着物を畳む姿、綺麗な指先は迷いが無い。
それを見て、改めてアタシも、鞄を横に置いた。
くたりと自重が出来ないそれは、自らの重みで椅子から滑り落ちそうになって。
トランクに着物をちゃっかり仕舞い始めた男が、見かねて哂った。
「その学生鞄には物が入ってないのかい?」
「置き勉してんの、だから大して入っちゃないよ」
「へぇ、つまりは勉学を放棄している訳では無いのか」
「馬鹿にしてる?」
「自立しない学生鞄の持ち主は、自立しないイメージなのでね」
「けっ、だれうま……どういった統計?」
「これでも指導する立場の者なのだよ、僕」
「マジで?ハンサムな先生ですこと」
背凭れに指で呼び戻した鞄の口を開き、その空間に手首まで突っ込む。
着物が空間から完全に消えたのを確認して、潰れた箱を引きずり出した。
「おや、奇遇」
その声に向かいを見上げれば、ほぼ同時に取り出す同じ形のブツ。
そっくりそのまま色を替えただけのパッケージに、唖然とした。
「アタシも…この種類吸ってる奴初めてみたわ」
「最近はこれの甘い煙を喰らっているね」
その爪先まで整った指で、黒い煙草を弄んでいる。
「先生は何て呼ばれてんの?」
「紺野先生、かな」
葛葉、じゃ、ないのか。
「そっか、じゃ紺野センセ、質問でーす」
互いに、ライターもマッチも取り出さず。
煙草を指先に、視線で詰り合う。
「云ってみ給え…名乗りを」
「百合の花の百合」
「では、百合君」
「はい、功刀はなんで家出したんですか」
「僕があまりに家を空けていたから、かな?フフ」
「はい、どうしてそんなに曼珠沙華が好きなんですか」
「郷愁を誘うからさ」
「はい、アタシが功刀を拾ったって、どうやって嗅ぎ付けたんですか」
「功刀君があの体で行動出来る範囲は限られているからね」
「はい、最近失くした持ち物とかありませんか」
そこまで進むと、唇の端をゆるりと吊り上げた紺野。
「君は、何故僕が失せ物をしたと思うのかな?」
「質問に質問で返すのって、指導者としてどーよ」
「おや、流石にすんなりといかぬか。普段相手している対象の方が幼いから、どうにもね」
「んじゃ、最後にもひとつ」
煙草を片手に携えたまま、珈琲を優雅に啜る紺野。
了承も得ずに、アタシはぶっつける。
「紺野センセ達って、人間?」
カップをソーサーに置くと、薄っすらと赤い唇を舌で拭った。
その仕草と同時に向けられた眼が、アタシの眼に…
背筋に、冷たい緊張が奔る。
「その疑問を抱く君こそが、怪しいというものさ…」
動けない、なんだよこれ。
「火、頼むよ」
命令が、脳髄に直接響き渡る。
「どうせ従業員の視界には入らぬ、普段している通りで良いよ?」
クスクスと哂って、アタシがライターを持ち歩かない事を見抜く声を発する。
功刀の視線が、求めてきたものと、また違う。
冷徹な圧力が。
「ァ…」
なんでアタシがこんな、でも、駄目だ、唱えてしまう。
紺野の指先が、眼前に差し出された瞬間、予定調和の如く。
自らの意思に背いて、喉奥から引き摺りだされる。
「-アギ-」
着火の合図。
同時に、立ち上がったアタシは鞄を引っ掴んでテーブルから逃げる。
外された視線はわざとなのか、でも今しかチャンスも無いだろうし。
ブレザーをしっかり身に被せて、出入り口の風除室ももどかしく躍り出た。
相変わらず暗い外、ビルの窓鏡が空の暗さを何処までも広げて。
巨大な闇夜に覆われる自分を、酷く小さく感じてしまう。
(疼く)
功刀の力を啜った所為なのか、術を唱えた直後だからか。
ずりゅ、と背の羽が、ブレザーを押し退け始める。
「ぁ、ぁぐ……くそ…ッ」
擬態が剥がれ落ちてく、アタシの、トウキョウに居る姿が…
隙間を、隙間を探して、とりあえず身を隠さないと。
「何故逃げたのだい?」
その声に弾かれて、思わず羽ばたいた。
正確には、羽の浮力じゃなくて、魔的な力で。
「アタシに近付くな!」
叫んで、ビルの鏡面みたいな窓を蹴る。
跳ね返って、紺野の頭上を過ぎる際、何かが鞄から落ちた。
金属の鈍い反射で理解して、鼓動が跳ねた。
紺野は、それを片手でキャッチして、流れる動作で虚空に梳かせた。
溢れる光は、完全な蛍光色。毒々しい緑の帯がたなびく。
『ヒホッ?あれれ?ライドウ?なんでだホー?』
粒子が一挙に形を成して、悪魔を喚び出した。
間違いの無い、召喚術。
そして今、なんて呼ばれた?あの男。
「おや、やはり…僕の管では無かったようだね」
『学校じゃないホ、ココどこだホー?』
ジャックフロストと会話してる、フツーに。
つまりは…コッチの人間。デビルサマナー。
アタシは、飛び移った外壁の刻みに爪先を引っ掛けて、方向転換を臨みつつ吼えた。
「ライドウッ!アンタがやっぱりそうなのかよ」
「今となっては、葛葉という名に意味なぞ無いがね」
「アタシには有るっ」
完全な悪魔からズレたアタシは、鏡に薄っすら映り込む。
隠し身なんて知らないから、学生服が迷彩服。
「アタシ達を追い出しやがって!十四代目ぇええええ」
脚の刻みから血潮が滲む。あまりに久々な攻撃に、身体が軋んでる。
おまけに、さっき功刀から啜った僅かな力しか無い。
「フフ…修学旅行の下見だと云ったら?」
『ヒホ、本当だホ!?学校のみんなと来れるホ?』
「東京タワーでも見学しようか」
アタシの放ったアギ・ラティを、談話しつつジャックの吹雪で掻き消す。
一層濃くなった蒸発の霧に、やがて紛れて互いの視界を遮った。
「はぁっ…はぁ……ちッ…くしょ」
指先の赤い華が熱に融けだして、血染めの様になってる。
闇雲な攻撃なんて無意味だと、解ってるのに、止められない。
見えない相手に向かって、やり場の無い憎悪が湧き上がり、口から吐き散らした。
「くっそ!十四代目!!」
「呼んだかな?」
が、アタシの咆哮に続いて、即座の返答。
(嘘だろ!?此処は上空)
霧裂いて黒コートを羽ばたかせた紺野が、アタシの額を鷲掴みにした。
「話なら聞くよ?」
云いつつ、唇を吊り上げた奴。
瞬間、視界が反転する。
「…っぎ!!」
アスファルトに叩き付けられて、ようやく理解した。アタシは地階に落とされたって事。
慣れない痛みが全身に広がって、唇を噛んだのか、鉄っぽい風味がする。
『痛そうだホー…』
ひょこひょこ寄って来たジャックフロストにお情けを貰う位、アタシは駄目っぽいのか。
ま、確かに…羽もへし折れて、尻尾だってひくひくと痙攣してる。
しゃあない、だって闘いなんか、慣れない。
此処に連れて来られてから、ずっと適当な喧嘩しか。
「怒りに塗れた焔なれば、功刀の方が上かな」
紺野の声が、一気に近くなる。ああ、上から今度は飛び降りてきたのか。
「やっぱ、十四代目ってのは悪魔なん?」
へらりと笑って横目に見つつ、地に手を着いた。
「昔からそう云われて、既に云十年さ」
「マジで……結構オッサンじゃん…」
「そうさ、若作りの術を会得しているのでね」
甘い薫り…MAGと呼ばれるソレなのか、紺野の銜える煙草の薫りか。
霧で湿って不味くならないのかよ。
「この管、残念ながら僕のでは無いよ…最近教え子の管が流出してね、それさ」
『ヒホッ!?つまりオイラは迷子みたいなものだったホ!?ガーン』
ショックを受けるままのジャックフロストは、するりと管にしまわれてった。
ようやく立ち上がったアタシを見るまま、紺野がその管をコートにしのばせる。
「リリムか……クク、成る程、名前の通り」
「…悪ぃかよ……」
「いいや、此処によく融けこんでいて、なかなかではないか」
真正面から捉えられる、するとやっぱ身体は怯える。
これが、ヤタガラスを統括した奴の力量、か…
尖ったモミアゲを見りゃ、そういえばそういう奴だった記憶が有った。
「君を使役していたサマナーは?」
「…いねーよ」
「何故擬態しているのだい、悪魔なら悪魔の空間に居る方が楽――」
「かーさんが!!」
黒い立ち襟に、崩れたネイルで掴みかかる。
間近に見れば、金色の眼、悪魔の色。
人間を捨てた、デビルサマナーの眼。
「かーさんが……里を、追放されてからはずっと……」
「母……リリス?」
「違うっ、アタシの…アタシの、サマナー…」
項垂れてみれば、零れる爪先の赤が鮮明に視界を奪う。
そう、燃える様な曼珠沙華。
「お門違いって事ぁ解ってんだ!んな事!!」
首元をがくがくと揺らせば、一緒に紫煙も揺れる。
滲んだ紺野の哂いに、アタシの心も私怨に揺れる。
「でも、赦したら、救われない、かーさん…が…あの人が」
「怨みなぞ、大正の頃より買い続けて、どれを指しているのか不明瞭だ」
「アンタに心を奪われた奴が!どれだけ居るか知ってんのか!?」
それだけ叫べば、それとなく思い当たる事例を思い起こしたのか…
アタシの掴みかかる片腕を、すらりと掴み返す。
「里の規律を乱す者は置けぬ」
「なら、ずっと若いままで夢みせんな…っ」
「使役されていた君がどれ程認識しているのか知らぬが、僕は誘惑した覚えは無い」
くい、と顎を掴まれ、その吊り上がった唇が…
(何、してんだコイツ)
アタシの口を吸う、吸われる、生体エネルギー。
「っふ、ん」
空いた手を振るえば、ぱしりと受け止められる。
襟を掴む手を弛ませ、その腕で撥ねようか、脚で蹴ろうか。
でも、思考時間は口から奪われ枯渇した。
「やはり、吸ったのだね?」
「は…っ…何の話だ、いきなり性急じゃねーのか…それ、誘惑じゃないの?」
「微かに感じた、君の唇から…」
頤に指を回すまま、親指で濡れたソコを拭った紺野。
「僕の矢代の薫り」
妖しく微笑んで、金色の眼の輝きが高揚している。
アタシは…それに腰が抜ける程の衝撃を喰らった。
馬鹿だろ、こんなの、墜ちない筈ない。
馬鹿だろ、かーさんも、こんな化け物に、本気で惚れるなんて。
「僕のをやったから、アレのは頂いて往くよ、構わぬね?」
色んな意味でフラついたアタシを、少し引き離す。
まさに、ソレだけが目的と云わんばかりの冷たい腕。
でも、注がれた分は、度数の強い酒にも似てる。
「待て、待ちやがれ…十四代目!」
颯爽と離れてく黒いコートに、せめて一発見舞ってやりたくて、駆け出す体勢を取る。
羽がビキビキと悲鳴を上げるのを無視して。
ああ、せめて一発。
一介のサマナーの、勝手な想いを籠めて、ああ、殴らせろ。
迫る、すれば振り返って、アタシを見据えるライドウの十四代目。
管を取る事もせずに、指先を虚空に翳した。
何かの合図か?隠し身をさせた悪魔でも放つのか?
鼓動が息を詰まらせる。
その、不敵に微笑む唇が紡いだ。
「-A G I-」
アタシと違う、唱え方と焔。黒いコートの裾が舞う。
その術がアタシを包むかと思い、一瞬眼を瞑ったら…腕先に熱が。
「…な」
ハッとして見れば、煙草の先端が赤く燃えていた。
そこでようやくアタシは、片手に煙草を携えていた事を知った。
あのファミレスから、ずっと、か。うわ、馬鹿か。
「しかし、歩き煙草は止し給えよ?」
クスリ、とひと哂いして、置いてあったトランクを掴み上げる紺野。
何時の間にか、奴の指先の煙草は灰になって空に散っていた。
甘ったるい薫りがする、けど、今度はあの男の煙草ではなくって、アタシの。
湿ったアスファルトの景色、蒼いシルエットに、仇は消えた。
(何も出来なかったじゃん)
乾いた笑いしか出てきやしない。
ああ、何もかも、一瞬だった。
帰宅するなり、廊下に躍り出てきた功刀。
眉を顰めて、アタシを見つめた。
「どうしたんです、その格好」
「ちょっと、喧嘩」
「喧嘩って…誰と!?怪我は…?」
「別に〜…無いんじゃないの?」
ブレザーも、制服もボロボロにほつれてる。
こりゃ、学校に着てけないわ。
「どうしてクリーニングに行って喧嘩に発展するんですか…」
「功刀ちゃん、アンタはどうして喧嘩してきたよ」
「え?」
「喧嘩して家出したんでしょ…何が、不満だった…」
愛されてるのに。あんなにも、強く。
「何が嫌で、里を出たの…」
明確な質問と、鮮明な単語。
アタシの脱ぎ捨てたブレザーを、甲斐甲斐しくハンガーに掛ける功刀が、静止した。
「俺は…書置きが、嫌いです」
「どーして」
「書置きだけで、置き去りにされて、待つ事が…怖いから、です」
「怖いの?」
「また、死体で帰ってきそうで」
ソファにゴロ寝して、黙って聞き続けた。死体って単語にツッコミも入れないで。
「たとえ"ごっこ"だろうが…失ったら、後悔、した」
「何、今回また書置きされて、それでキレちゃった訳?」
否定しない=肯定。
「そっか、なる……化け物には化け物の住処と伴侶が似合い、って事か」
「俺、そいつの事、嫌いです…でも、置き去りにされるのは、もっと腹立たしい」
「へえ」
「悪魔も嫌いです…でも」
功刀の視線が、アタシのPCを指し示した。
「やっぱり貴女の事も、心配になりました…」
アタシの書置き見て、重なったのか。
孤独に弱い、と見た。
「へえ、そっか」
何だか、意地張ってるのも、疲れてしまった。
前髪を額から掻き分けて、その隙間から功刀を覗く。
綺麗な横顔と、短い黒髪が、やっぱり涼しかった。
「なんだ、気付いてたんだ?鈍いと思ってたんだけどな、アンタ」
「やっぱり…悪魔…」
折角着火されたのだし、吸いきってしまおうか。
「ある里で、先生に惚れちゃった生徒が居てさ〜…」
甘ったるい煙を吸う。
「大きくなろうが、先生は若いまま…おまけに伴侶も若いまま」
肺という器官に、澱ませて。
「望みも無いまま、恋の焔は燃え上がっちゃってさ〜…心中でも狙ったのかね」
赤い爪先に煙を吹きつけた。
云われるままに、命じられるままにアギを撒き散らしたのはアタシ。
アタシの絶対的な主人は、あの人だったから。
「曼珠沙華にまで燃え移って、炎上、ブフ系持つ悪魔大活躍」
「なんとなく、覚えてます」
「そんなに昔でも無いから、流石に覚えてた?あはは、そりゃ話が早いね」
赤に煙る煙は、あの光景を呼び覚ます…
「追放されたサマナーは、トウキョウに流れ着いて、孤独に暮らしました、と」
「命を取られなかっただけ、マシでは?」
「そのとーりさ…無茶したもんだよ、あの人も」
容赦の無い言葉は、アタシの心を解した。
「だからね、唯一連れてる悪魔のアタシに云ったのさ」
”お母さんと呼んで”
ずっと、子供の居ないという十四代目の伴侶に話す。
アタシと同じ、片親だと語った、この子に。
葛葉ライドウの十四代目と、夫婦ごっこをしているという存在に。
「家族ごっこで幸せなフリして…過去と決別したかったのかな」
「貴女は、母と思ってましたか?」
「アタシ?ん〜…どうだろ…」
悪魔らしく、オッサンから吸い上げたり、通わされた学校にも、一応行ってるし。
どうして擬態してまで、今を生きてる?
「人間に、なりたかったのかな、アタシ」
功刀の視線と、絡んだ。
「おかーさん、悪魔に成りそこなって死んだから」
「え…」
絡んだ視線が外れて、あの魔晶を今度は見つめていた、一緒に。
「悪魔に成れば、惚れた男の使役下に入れるから」
あの人の…思いつめた瞳、半壊した肉体、禁忌の術。
焦げた臭いが、アタシの擬態した嗅覚を刺した。
融けた身体の忘れ形見…魔の結晶。
「だから、アタシは悪魔になってんの、嫌なんだ」
失って、哀しかった。
でも、涙は流れない、人間の部分が皆無だから。
独りになったって、意地張って生き延びても、愛を云われても。
アタシの寄る辺は、全ては、あのサマナーだったから。
「ずっと、家族ごっこで良かったのにさ、アタシは」
過去との決別なんて出来なかったんだ、アタシの御主人様は。
葛葉ライドウの十四代目に、小さい頃からもうずっと…精神を魅了されてたんだ。
「どうして…アタシの為に、おかーさんで居てくれなかったんだよ…」
煙草を、握り潰す。擬態してるから、熱い刺激が指を襲う。構わない。
「アタシの絶対はおかーさんだけだったのに」
人間って、脆い。簡単に怪我して、おまけに治癒も遅いんだ。
だからあの人も、ずっと傷を生乾きにさせて、膿んだのか。
「アタシが中途半端だから?人間に成れたら留まらせる事が出来たってのか!?」
魔晶に吐き捨てるアタシの視界から、功刀が消えた。
途端、煙草の感触が消える。
「指、燃えますよ…折角綺麗にしてたのに」
すぐ耳元での、囁き。綺麗な落とし文句にも錯覚する。
眼前を、アタシの煙草を掴んだ指が通過した。
黒い、ラインの通った、指が。
「俺、煙草嫌いですから、特にこの甘いの」
何時の間にか、そんな動作を一瞬で行った功刀を、まじまじと見つめる。
頬に、光を湛えた、黒い紋様が…
(ああ、これが、人修羅)
実際、紺野が云うまで、思いもしなかった。
こんな、繊細そうな奴が…まさか、半人半魔の…化け物だなんて。
上里の悪魔としか接さない、高嶺の花。
「アタシに見せて良かった訳?その姿」
「本当は嫌ですけど、同じ悪魔嫌いだったら、同志ですから」
酷い矛盾をはらんだ言葉に、薄暗い微笑み。
その黒が映える指先で、煙草を灰燼にした。
揺らぎで判る、アタシや…紺野よりも熱い焔だって事。
「さっき…喧嘩したのって、葛葉ライドウですか」
「そ、紺野センセ」
「あいつ…先生とか宣ったんですか?まあ、全く違う訳じゃないですけど…」
頬をひくりと引き攣らせた功刀に、なんか笑ってしまう。
どうしてだろ、仇に見てた十四代目の伴侶なのに、どうして。
「どうせ嗅ぎ付けてくるから…そろそろ行きます」
「あ、そ…」
どうして、寂しい。こんな短時間のなれ合いで。
「これからも、ずっと今みたいに暮らすんですか、あ…と…」
功刀の戸惑う口を見て、アタシは息を吐いて脱力させる。擬態が解けて、羽が伸びた。
「リリム…だったんですか」
「百合って名前はおかーさんから貰ってるよ、人間名」
リリー…
「今更悪魔として生きてく自信無いし」
「百合さんは、自分で働いて稼いだ方が良いです」
「え?」
「搾取してばかりだと、完全に悪魔ですから…俺の出来なかった、卒業とか、就職とか出来ますよ、まだ」
人間の世界から隔離された、そんな生き物が呟く。
「もうリリムじゃなくて、百合さんなんでしょう?使役されてないんだ…」
何処か寂しそうな、それでいて強い言葉。
ぎゅう、とアタシの何かを締め付ける。
「じゃ、さ、功刀ちゃんは今…何者なの」
人修羅?人間と云い張る?悪魔を認めない?
ずっと囲われている、それは使役にも等しい束縛じゃないのか?
里の羨望と畏怖に包まれて、アンタの居場所は何処に在るんだ?
アタシと同じで、そういう何かを求めてはないの?
「俺は…」
あの、涼しげな項には、黒い角が生えていた。
今にも、突き破って羽化しそうな。
「あいつの呼ぶ真名の通り"功刀矢代"です」
頬から、鎖骨まで、綺麗に流れる黒いライン…
アタシの脚の刻みと同じ、悪魔の印。
「この身体が、どっちの生体だって、奴にとってはもう…意味を成さない」
「元は…どっちだったっけ?人間?悪魔?」
「人間です、今だって戻りたい…戻る為に俺は奴と…」
云い淀む。
「いえ…今は、このままで」
前を過ぎると同時に、黒い紋様は形を潜めた。
一瞬で擬態した功刀の背中に、声掛ける。
「着物は紺野センセが持ってるよ」
「分かりました」
「揚羽蝶みたいで、綺麗だったよ、さっきの姿もさ」
「…嬉しく無い」
と、振り返った表情は、これまた不機嫌だ。
それがやっぱ可笑しくて、鼻で笑った。
視線を逸らした功刀は、そんなアタシを侮蔑でもするのかと思った。
「あの…少し、失礼します」
伸びてきた手が、頬に。
引っ叩くかと強張ったアタシの肩を、そのまま寄せる。
(は?)
唇が、冷たくて瑞々しい其処に触れて、背筋が凍った。
十四代目の熱いのと正反対の、震えるぎこちなさが、背徳を匂わす。
薄く開かれた唇に、数時間前を思い出す。
脳天にガツリとキて、こっちから引き離した。
「ちょ、おま…な、に……初心な顔しといてよ、おいおい」
加減を知らないのか、ぐわりと注がれる熱量がはかり知れない。
自分のエネルギーがどの位強いか、理解してないのか?
「吸いましたよね?あいつから」
「…え?」
少し、その涼しい顔が、血色良く見えたのは気のせい?
「唇から、ハッキリしたから、夜のMAGの薫り」
揺れる世界、ソファベッドにしがみ付いて、アタシはその台詞をしっかりと聞いた。
「不躾にすいません…腹立たしいから、奴の呼気、全部吸いました」
「お、い…おいおい…アタシ、中身が行ったり来たりで、ちょっとコラ…」
体内で、強い性質のエネルギーがちゃんぽんしてる。喧嘩してる。
「くっそ…あの、キス魔が…」
忌々しそうに吐き出して、喧嘩腰で飛び出して行く後姿。
アタシはフラフラの身体で立ち上がると、まだ薄暗い窓にへばりついた。
マンションの出口が見下ろせる此処が、一番視界に入れるには早い。
(馬鹿じゃないのか、本当)
おまけに、どっちがキス魔か分かったもんじゃない。
夫婦揃って、何考えてんだか。
地上で、功刀が飛び出した先…黒い影が既に待ち構えていた。
出くわすなり飛び掛る凶暴な功刀を、軽く往なした紺野が、腹を抱えて笑っている。
本当に愉しそうに。他に向けてた悪魔の哂いを、自然に崩して。
指差された己を見てようやく気付くとか、本当に鈍いというか、抜けてる。
「そりゃアンタ、女子高生の格好じゃ笑われるって」
それしか見てないなら、何も思わないだろうけど…
相手はアンタの伴侶だろ?それはそれは、もう。
(おかーさん、これ、無理な話だよ)
きっと、生きる次元が違う。アタシの唇を通して相手を認知する奴等だよ?…イカレてる。
アタシは濡れた窓を開け放ち、慌てふためく功刀に叫んだ。
「それ、くれてやっから、コスチュームプレイにでも使って!」
ぎょっとしたその顔が、やや怒りを含んでコッチを見上げて吼えた。
「百合さんっ!!」
憮然としつつ、今にも脱ぎ捨てそうな身じろぎが、ツボった。
ああ、なんだ、夫婦ごっこも、ずっとやってりゃ板につくのか。
白んできた空の色に、浮き彫りにならない内に、か。黒いコートを翻す紺野。
アタシを見据えて、何かを放り投げてきた。
武器の類で無い事を目視して、それを受け取る。
軽い感触に掌を見れば、黒い悪魔の絵柄が入った銀色の箱。
「ちょっと、アタシの吸ってるのと微妙に違うんだけど」
小さく不満を口にすれば、聞こえていたのか、背を向けてるのに返答が来た。
「此方の方が絶対美味しいよ」
悪魔の聴力か、人修羅よりよっぽど悪魔な男が押す太鼓判。
「どーも」
シャツブラウス一枚だと、悪魔の身体だろうが肌寒い気がする。
小さくなる喧騒を後目に、冷えた窓を閉めかけて、止まる。
何となく、今すぐ吸いたい気分になったから。
たった今受け取った餞別を開けてみた。
途端に薫る、甘ったるいニオイ。アタシの吸う銘柄の味違い。
「-アギ-」
小さく唱えれば、煙が薄く帯を引いた。
銜えてみると、この舌にさえ判る程の刺激。
「っ……甘」
フィルターから既に甘い、薫るチョコレート。
あの男もやはり、悪魔になってから味覚が薄らいだのだろうか?
(人間から…悪魔に…)
どの様な術を使ったのか、アタシは知らない。
里の一部は知ってるんだろうけど、十四代目の、身体の秘密。
いや、方法というよりか…どうして、人間を辞めたのか。
悠久を生きるなんて、そんなの…元人間にはきっついだろ。
抜いた煙草の隙間から、何かが覗く。
紙切れという確認をしてから、引っ張り出したそれを広げる。
メモの切れ端かと思ったら、多分あのファミレスのペーパーナプキン。
(もしかしてあの男、戻って休憩し直した?)
勝手な想像に呆れて、その面に視線を泳がせる。
黒いインクがつらつらと踊っている、綺麗な、フォントの様に揃った字体。
“蛇に欺かれ 禁断の果実 食むイヴ”
“悔恨の涙が 百合に成つた 聖なる華かな”
神話か……この辺は正直敬遠してた、存在否定になりそうで。
(涙が百合に)
どうしてだろう。
たったそれだけの文章が、何かを赦した。
“手先が器用なら、訪ねるが宜しい”
簡潔な言葉と、銀座の住所が最後に在った。
「失礼…依頼したいのだが」
声に来客を判断して、作業の手を止める。
第一施錠を向こうが勝手に開ければ、コッチで覗いて判断する。
「予約入れてある?」
「名義は八咫烏」
あ、と思い、帳面を捲れば、すぐに見つかった。
かなり興味深い件だから、記憶してた。
「はい、有ったよ、いらっしゃいお客さん」
第二を解錠、小さな小窓から、依頼者の胸元が覗く。
引っ張り出した依頼書を持って、その格子に寄る。
此処はただでさえ宝石だらけなのだ、簡単に入られては困る。
「ダイアモンドの加工だよね」
「これを使ってくれ給え」
す、と綺麗な袋から零れ出した、眩い輝きの石。
凄く純度の高そうなそれは、磨く必要が無いと見た。
「へぇ、凄いのじゃん、おまけに魔力も相当湛えてる…」
感嘆の声を上げれば、クスリと哂い声。
「数年間、吟味して精製した石だからね」
「血で洗った?でもなきゃこんなに強くないよね、呪力」
僅かに見える、口元。綺麗な唇が、三日月の如く吊り上がる。
「ラグの弟子は随分詮索好きだね」
「悪かったな、こんなブツ持ってくるアンタの所為だから」
伸ばす指先に光る、アタシのしているリングの石がランプを反射する。
「その指の石も、綺麗だね」
「…そう、ありがと」
アタシ自ら加工した、形見の魔晶。
深呼吸して、羽が蠢くのを抑えた。
「きっとこんな姿になっても、褒められるのは嬉しいだろーからさ…」
「フフ、そうかい」
軽く哂う、その声を忘れる筈も無い。
「何周年よ?」
「さあ…とりあえず八十年近くは経ったかな」
「そんで今更結婚指輪?」
「あっという間で、忘れていた」
「の割にはこの石の為に随分労力割いてそうだね、紺野センセ」
結婚指輪…情愛の証。
「しかしあの子がしっかり嵌めてくれるの?」
「させるよ…左の薬指に、ね」
ああ、だったらシンプルにしよう、家事が出来る様に。
あの黒い斑紋の邪魔をしない程度の存在感に。
そうだ、石のカッティングを、凹凸の無い華の様にしよう。
「あのさ、完成したら…引取りに来なくて良いよ」
窓を、押し上げる。露わになった互いの眼が絡んだ。
「功刀の顔が見たいんだ、アタシがそっちに届けても良いかな」
何も変わっていない、互いに。
「ああ…良いよ、僕が許可しよう」
その相槌に、よっしゃ、と拳を握った。
あの赤い曼珠沙華、今ならきっと焔に見えない。
きっと、綺麗なモチーフにしか見えない。
「でも、アンタも非道だよね」
「何故?給与の三ヵ月分以上の価値の指輪を贈るつもりだが?」
違うよ、其処じゃない…って、解って云ってんのか、コイツ。
「功刀を人間に戻してやる気、無いだろ」
問えば、周囲の宝石達に負けない位、この闇の中で。
「だって、戻ってしまわれては、僕が困るからねぇ…」
金の瞳が主張する。
「“adamas”…支配され得ぬ石の指輪で、繋ぐのさ」
ダイヤモンドは、このじゅえりーRAGでも希少な石。
品質にもよるが、扱いも難しい。持ち合わせる言葉は…
《永遠の絆と純潔》
「功刀はともかく、ペアだったら…紺野センセが純潔ってどうなの?」
「おや?僕は婚姻を結んで以来、接吻以上は他と断っているが」
「何…せめてもの、ってヤツ?」
「僕の遊戯について来れる者が、彼しかおらぬのでね…悪魔となった今は特に」
「“彼”…ぁあ…そういやそーゆー身体だっけ」
そうそう、男性の姿をした功刀を見てみたい、って願望もあったなあ、アタシ。
だって、キスして内心ドキリとしたのって、功刀だった訳で。
「ま、就職先を見繕ってくれた恩もありますしね〜センセ、マジで綺麗に作るよ」
「良い指導者だろう?」
「チョコレート味は頂けないけどね」
吐き捨てれば、綺麗な顔の男は哂った。
ああ、悪魔だな。その妖しい微笑でいつの時代も魅了してきたんだろ。
天性の素質…人間を僅か残した、悪魔召喚皇。
「僕等を支配するのは、互いだけなのさ」
その呟きの先に、真の幸福があるのか…破滅があるのか…
そんな終りの事なんて、きっとどうでも良いんだろうな、コイツ等にとって。
「今日は書置きで済ませて無いだろーね?紺野センセ?」
「フフ、大丈夫さ…他の悪魔にも言伝してある」
「まぁた家出されたら、今度はアタシが率先して拾って手懐けてやるから覚悟しな」
「女性体でも?」
「っせーな、功刀は功刀なんだよ」
「百合だね」
いい加減、揶揄するカラスを追っ払って、アタシは作業に戻った。
狭い空間、煌びやかな宝石達、変わり者だけど頼りになるラグのおやっさん。
(あー居心地、悪くない)
もう、誰からも搾取してない。羽をのばして創作の日々。
指先には、白い百合のアート。
「どーよ…卒業して就職ったぜぇ?功刀ちゃん?」
生体エネルギーは、ほんの微量で、もう生きていける身体になった。
肉では無く、腕で生きてる。
ねえ、こんなアタシを、褒めてくれよ。
子供がいないアンタに要求したい、人修羅…でなくって、功刀矢代。
ねえ、おかーさんみたく、いつかの様に。
(鮮明に覚えてる)
ぐ、とのびをして、作業台から離れる。
味の薄いスポーツ飲料缶を掴み上げ、唇から注いだ。
あの涼しげな仏頂面を思い出して、尻尾をひらひらさせ、なんだか笑ってしまった。
「今度は“ただいま”っつーからさ」
魂の、帰還。
燃した里に揺れる華が、郷愁に濡れる様に感じれたら。
安堵出来る気がするから。
里に着いたら“おかえりなさい”と云って欲しい。
百合の夢・了
* あとがき*
ダイヤモンドは永遠の証。
百合…リリー…リリム…
百合の夢…リリーの夢…リリム
女性体同士…百合
帳の二人を廻る永い刻の、一瞬の出来事。
女子高生の格好でプレイしたのかどうかは、ご想像にお任せします。
書こうか迷いましたが、入れるタイミングも無く、気力も…ゴフッ
この話、結構彷徨いつつ執筆していたので…
【BLACK DEVIL】という煙草、本当にあります。