暦の上では春だというのに、道中の真っ赤な絨毯に眼を奪われました。
山間から吹き抜ける風が、その赤をさらさらと細波の様に揺らがせて。
「季節感の狂いぶりが恐ろしいか」と、黒い外套の書生さんが私を見下ろしてほくそ笑みました。
その時は恐怖というよりも、私はただただ鮮烈な色に驚いて沈黙していたのです。
ただ、無反応もいけない事かもと思い、小さく首を左右に振りました。
すると書生さんは「蚕室に季節も何も無かったね」と、立ち襟の影で唇を歪ませて、可笑しそうにしていました。
どちらかと云えば、景観よりもこの書生さんが恐ろしく見えました。
ただし、共通して云える事があったのです。それはどちらも、酷く美しかったという事。

その悪魔の里で、幼い私は一時を過ごしたのです。

…まあ、こんな話をしても、妻や息子達は笑って躱すのですが。
もう少しだけ聴いてはくれませんか。どうせこの先、同じ様な景色ばかりが続くでしょう?
しかもこのゆったりした揺れ、眠気を誘う路なのは相変わらずですね。
寝物語にでも宜しいので、相席のよしみと思って聴いてやって下さい。



玉繭の化石




確か、七つの誕生日前。私は母に熱湯を浴びせられ、庭に放置されていた。
当時は母の無体に、何故そんな事をするのかと嘆くばかりの日々で。
今なら、あのヒステリックが何処から来ていたものなのか、少しだけ推測出来る。
私の家は代々続く養蚕家であり。蚕と共に年がら年中、四六時中在った。
そのような家だと承知の上で嫁いだ母だろうが、それでも予測と現実は違うというもの。
家族で何処かに出掛けたり、団欒の暇も無く。まるで蚕の世話係だった。
(熱い…)
春とはいえ、山の頭を残雪が染めていた。
寒い筈なのに、浴びせられた煮え湯が身体を火傷させている。
同時に飛び散った繭が、私の着物に幾つか引っ掛かって揺れた。
養蚕家は糸を紡ぐ為に、中の蚕ごと繭を、煮えたぎった鍋に投じるのだ。
それは当時、私の心を酷く抉った。
あんなに大事に手塩にかけて育てた蚕を殺す、その事実は幼い心に矛盾を生み出して、仕方が無かった。
「そんな所で寝てると、風邪をひくよ?」
この時間帯、蚕室に籠っている父の筈は無い。籠る以外の時間、あの人は遠方まで出掛けていた。
思い当たりの無い声色に、咄嗟に起き上がる。途端、着物からぼたぼたと繭が零れて地を打った。
「紡ぎもせずに纏うとは、随分と気が早いものだ」
黒い立ち襟の外套の影で、クスリと哂ったその人。
見覚えは無い、卸先の人間とは思えない。そのいでたちは、書生そのものだったから。
「養蚕なんて手伝わされると、勉強の暇が無くなっちゃうけどいいの」
まさかこの家に下宿するのかと勘繰って、私は大変に慌てた。
するとその書生さんは、生垣の隙間からするりと庭に入って来るではないか。
「書生では無いよ、既に修学したから此れは普段着の様な物さ」
「だったら、何しに来たのお兄さんは」
「君の家から糸を仕入れていたのだがね、そろそろ必要無くなる為、話をしに来たのさ」
随分とあっさり云ってくれるので、乾いた笑いが口から零れた。
はたして、どっちの糸だろうか。
私の家が扱う糸は、大きく分けて二種類存在していた。
「君はこの家の生業を継ぐのかい」
「……まだ小さいから、分からない」
「君が決める事では無いだろう?既に親から云われている癖に」
書生さんは初対面の割にかなりずけずけとした物言いで、怒りよりも先に驚愕してしまう。
だが、口と裏腹に私の肩には黒い外套が掛けられた。
しっとりと重く、香の匂いがふわりと漂う外套。
少し覚えのある質感。これは、私の家の繭から作られているに違いない。
「どうして此処の糸、要らなくなったの?」
「自分で作る事に成功したからさ」
「お兄さん一人で?」
「まさか、大勢召喚するのだよ」
はたして、どっちの意図だろうか。
私の家の顧客は、悪魔召喚師という特殊な技能を持った人間が半分。
この書生さんの召喚対象が、人間なのか悪魔なのか…それを妄想していた。
「仕事を減らして申し訳無いね」
「ううん」
全く悪びれもせずに哂う書生さんに、体面だけ取り繕う。
幼いながらに、家の事情を理解していたつもりだったから。
「買うより安く済むなら、そうして下さい」
「君の家が仕事を失くしてしまうかもしれぬよ?」
「普通の蚕も扱ってるから平気」
「クク…どちらにせよ、潰れて欲しい癖に」
その哂いに、この肩に掛けられた外套が途端、重みを増した心地だった。
悪魔召喚師は、人の心が読めたろうか?いや、悪魔に命じれば容易いのかもしれない…
畏怖と同時に、私は酷く情けなくなった。
「少し歩いて暇から潰そうか?裾を乾かしてからでないと、家に上がれぬだろう?」



薄く月が照らし始めていた、何も無い田舎道を二人で歩いた。
本当に何も無い土地で、私の家が生きる術は養蚕しか無いのだ。
「継がなかったら、ここじゃ生きていけないよ」
「君の母親は、家業の何割を知った上で嫁いだのだろうね?」
「怖くて訊けない」
きっと、半分程度。もしくは普通の養蚕しか知らなかったのだろうと思う。
私の母は、顧客に悪魔召喚師が居る事を知らなかったのだ。
「でもね、君の家の糸は悪く無いよ。魔除けを施しても滑らかな質感を保ってくれる、上質な絹糸さ」
それが要らなくなった、という事はつまり。もっと良い糸を作る蚕を手に入れた、という事だろうか。
その様な考えが頭を過り、ふと襟元を覗く。外套の裏地は紫紺の落ち着いた色調で、この書生さんには多分似合っていた。
視線をそのまま上げて、隣を歩く彼の横顔を見つめた。
不思議な人だった。冷たい気配の中、ふっと哂う唇に眼を吸い寄せられる。
優しげな笑みとは云い難いが、惹きつける妙な引力が有った。
「ほら、早速寄ってきた」
と、その唇が愉しそうに紡いだ。
ゆらゆらと、黒い影がいつの間にか書生さんの周囲を舞っている。
チッチッチッ、と雀の様な鳴き声。輪唱しながら空に渦巻いて。
これが視えるという事は、やはり悪魔召喚師で間違い無いのだろうと、その時確信した。
「外套を羽織る君には寄れぬのだろう、僕の方にばかり集る」
「本当だ」
ひらひらと舞う黒い影は、書生さんの詰襟の傍に留まってまた鳴く。
彼等は、私の家が飼っている袂雀(たもとすずめ)という生き物で、霊感の鋭い人間にしか視えない蛾だ。
雀とは名ばかりで、その姿は蛾であり、魔術を塗り籠めやすい繭を生み出す。
彼等大群を行商の行き交う野辺に放っておき、暫くしたら召還して蛹にさせるのだ。
「上等の着物を嗅ぎつけ、この様に人様の懐に潜り込み繊維を記憶するのだろう?だから効果だけでなく、質感も一級品の繭が出来上がる……君の家は半分デビルサマナーの様なものさ」
「おれはまだ成ってないよ」
「知ってるよ、フフ……気味悪いのだろう?人で非ざるものを使役するのが」
答えに躓いた。気持ち悪い…といえば、そうなのかもしれない。だが、わたしの家でもある。
すべてを否定する事は、私の何かを殺すに等しい。
恐らく意地悪で云っていたのだ、書生さんは。
「この袂雀達も、気味悪い?」
「鍋の中で茹でられてるのが怖い」
だが、その問いには正直に返した。私は袂雀という妖怪がおぞましいのでは無い。
散々に利用して、挙句に煮てしまう身内の姿を受け入れられなかっただけで。
「それはねえ、「家畜なら屠殺して良いのか?」という、何とも堂々巡りな疑問に耽る青春期の病気の一種さ」
その時書生さんの云った事が、当時は理解出来なかった。
そう、当時は。
「それよりも君は、家業の所為で家族ごっこが出来ない現状に不満を抱いている。それを袂雀に転嫁させて恨むで無いよ」
家族ごっこ…とは云われたが、はたして何をしていれば家族なのだろうか。
母のヒステリーに暴力を振るわれる…アレが無ければ家族らしいのだろうか?
哀しいかな、私は当時学校へ通う事も無く、自覚も困難であった。
「お兄さんは、家族居るの」
「家族かどうかは知らぬが、妻が居るねえ」
彼が妻帯者という事実に、あまり驚きもしなかった。この人なら、もう何があっても不思議では無い気がしてきていた。
見目が書生というだけで、正体不明なのだ。
「互いに喧嘩したら、叩いたりしない?」
「叩く?そんなもんじゃあないよ君。灼熱を吐かれるので、僕もその喉笛に刀を突き立てるのさ」
「大人って嘘ばっか」
不思議は無いと思った瞬間にこれだから、飄々として本当によく解からない人だった。
呼吸の様に途方も無い事を述べるので、一瞬全て信じてしまう。
「しかし、そろそろ喧しいね。その外套程には魔除けを施して無いのだよ、この学ランは」
「そうなんだ」
「何でも防げる様な魔除けでは効力が弱くなるからね。己の弱点を補う類の防御を、強く塗り籠めておくのさ」
軽く哂って流し、袂雀を軽く掃った書生さんのその指先が唇に運ばれる。
組み合わされる指に何らかの意味合いが有ったのかもしれないが、私は専門的な事を知る由も無い。
「“峠を通れど神の子でなけりゃ通らんぞよ、あとへ榊を立てておくぞよ、アビラウンケンソワカ”」
唱えた瞬間、わあっと黒い影が空に散って行った。
魔除けの呪文だろうか?飼っている家の人間である私が知らないというのに。
「ほら、君の家の方角に帰ってゆく」
彼方を見上げる書生さんが、私の肩からすっと外套を掬い上げた。
それがすっかり着物の湿気を吸ってくれたのか、私の纏う着衣は軽かった。
「君は帰らぬのかい?」
呪文に急かされて帰る蛾達を見て、私が帰還する必要性を脳内に問うていた。
本当に要されているのは、家を今支えている彼等であって…
家業を忌み嫌う、わたしでは無い気がしたのだ。



見知らぬ人に付いて行く等、幼い私でも善くない事とは知っていた。
しかし、気付けば足は家路では無く、書生さんのすらりとした足取りを追っていて。
「降りてからも、少し歩くよ」
目の前で駅員さんに運賃を渡し、切符を購入する書生さん。
私は構内で一歩踏み止まったが、その切符が大人と子供との二枚組だったのを目視して安堵した憶えが有る。
とてもローカルな線で、ゆらゆら穏やかに揺られて少し眠かった。
私の住む村が、丘の上、そしてやがて地平へと見えてきて。遠くに感じる事に、些かの不安も感じていたのは確かだ。
隣席の書生さんは懐から取り出した本を読み、じっと過ごしていた。
最初は薄暗闇に気付かなかったが、外套隙間から覗く下はこれまた謎な装備をしていて。
もしかすれば、軍人の悪魔召喚師だったのかもしれない。まさか、帯刀しているとは思わなかったのだ。
胸元に光る金属の管も、その時は何に使う物やらさっぱり分からなかった。
「さっきから眼が落ち着かぬけど、袂雀でも見つけたのかい」
「……父ちゃんが居るかもしれないから」
「この電車に?」
「最近、暇を見つけて遠くに行ってるから。もしかしたら乗ってるかも」
「へえ、養蚕業は暇無しでは無かったのかい?」
「新しいお蚕様を探してるんだって、見つけたらお願いして分けてもらうんだって」
「お願いというのはね君、それは“交渉”であって、何かしら裏で動いているものなのだよ」
父の普段云う蚕が普通の蚕なのか、それとも妖怪の類なのかは深く考えなかった。
どちらでも違いは無かった。父が蚕に憑りつかれており、私も母もその家業に悩まされている事実は変わらないのだから。
「父ちゃんに見つかったら、お兄さん人さらいって云われるよ?」
「怒られる恐怖と同時に、我が子を目敏く見付けて救い出す父親というものを君は渇望している」
「なにそれ」
「おっと失敬、思わず朗読しただけさ」
哂って本の頁を捲る書生さんはこの時、絶対嘘吐きだった。
脇目からちらちと垣間見た本の挿絵は、明らかに春画のそれで。あんな一文ある筈が無い。
しかし顔色一つ変えずに読めているこの人は大人だ、と、幼心に妙な納得もした。



結局、私達は最終の駅に到着し、誰にも声を掛けられる事無く降り立った。
もう空は真っ暗で、この闇夜をどうやって歩くのかと書生さんを見た。
すると彼は、まるで夜目の利く獣の様にすたすたと野を往くのだ。
置いて行かれては堪らないので、なびく外套を咄嗟に掴んで私も歩いた。
あの長い脚なら、もっと速く歩けたろうに。恐らく彼は私の歩調に、ほんの少し合わせてくれていたのだ。
「ねえ、どうして刀提げてるの?この辺、野犬とか多い?」
「野犬ならマシな方だねえ」
「もっと怖いのが居る?」
「悪魔の里を、噂に聴いた事が無いのかい」
風の噂では無く、数日前に家の中で聴いた。
父が養蚕家仲間の親族と、蚕室の中で作業しながらそれを話していたのだ。
悪魔だけで暮らす里には、それはそれは上等な物が行き交っていて。
人間の知識と資材では補えぬ結晶とも云えるべき代物が存在するとか、しないとか。
袂雀の繭より素晴らしい繊維質を生む生き物でも居れば、確かに養蚕家としては放っておけないだろう。
「でも悪魔だけで暮らすなんて無理だよ」
「おや、何故そう思うのだい」
「だって、ヤタガラスってお客さんが一気に居なくなって。それでウチ困っちゃったんだし」
そう、あの頃に顧客が激減して、父は躍起になっていた。
ヤタガラスというのは悪魔召喚師の集団で、我が家の好い商売相手だったのだ。
それが組織解体でもされたのか、めっきり姿を見せなくなった。
高額で売れていた魔の糸の需要が減り、残る顧客も質には煩くなる一方で。
父は生き残りと誇りをかけて、色々模索していたのだろうと、今なら思える。
天秤にかけられ、跳ね上げられたのは家族の自由なのだ。
「ヤタガラスが消えて、何故悪魔が住めぬと?」
「よく分からないけど…でも、悪魔を管理してたのってヤタガラスなんでしょ?多分悪魔って人間が居ないと暮らせないんだよ」
「成程、人間が居ないと生きられぬ蚕の様に?」
云い得て妙だった。その通りで、蚕というのは完全に家畜化された生き物なのだ。
人間の手が入らなければ死んでしまう。単独で外界へと出れば、あっという間に餌となるほど弱いのだ。
だから、人間は大事に蚕を扱う。蚕も人間の手に甘えて寄り、桑の葉を貪って大きくなる。
そうしていつか、ぐらぐらと沸かされた鍋に投じられるのだ。
「あっ、でも悪魔は蚕ほど弱く無いかもしれないから、やっぱり悪魔だけでも暮らせるかな…?」
「フフ、どうだろうねえ?サマナーは悪魔を利用するし、悪魔も人間の欲望と精を喰らって生きているからね」
「お兄さんはデビルサマナーなの?」
「さあ?」
「だって、視えてるでしょう?多分、おれより視えてるもの」
「それでも最近は弱くてねえ…葉を貰えずに痩せ細った蚕の様さ」
「どうして?お腹空いてるの?」
共感めいて、思わず声が大きくなる。私は母に昼食を抜きにされていたから、随分腹が減っていたのだ。
余裕に見えた書生さんでもやっぱり弱ったりするのか、と、実に単純に解釈して。
「奥さん居るんでしょう?御飯作ってくれないの?」
「御飯は一応くれるさ、でもね、最近あちらの相手をしてくれなくてねぇ」
「あちら?あちらってどちら?」
「お陰で生まれ直しも出来ぬのだよ、もう四年近くこの器だというのに」
「ねえねえ、はぐらかさないでよ、大人って皆そうだ」
「喧嘩の途中という事だよ」
云うと、少し意地悪そうに哂って私を見下ろす。
その瞬間的な哂いは、子供の私よりも子供に感じた。
「そうだね君…僕の里に着いたら、僕の事は「お父さん」とでも呼び給えよ」
「ええ、どうして?」
「だって、その方が面白いだろうから」
火に油を注ぐという言葉が、私の頭を過った。
どういう事が夫婦喧嘩を招くのか、その程度は理解出来る。
蚕を余所の女性に置き換えれば、私の両親での想像も容易い。妻は夫婦仲が冷えていても、嫉妬はする生き物だ。
「ほら、云ってる間に到着したからね」
時間でも調整したのかというタイミングで、路が見えてきた。
遠くの山の影から、光が薄く差し始める。朝の光とは云い難い、蒼い光だ。
それに照らし出されて、戦ぐ風が草葉を揺らす。獣道の様な足元を目で追えば、その先に小さな門が見えた。
大きな集落では無い、限界集落に近いのではないだろうか。
だが、電車から降りて暫く歩けば来れる。路さえ把握すれば、来れない場所では無いらしい。
門を共にくぐれば、先に広がるのは本当に普通の山村だった。
鳥の囀りと、水車の音。せせらぐ小川を跨げば、小さな魚が泳いでいる。
道中の会話から、悪魔の里に連れて行かれるのではと勘繰った私だが、その光景を見てすっかり勘は形を潜めてしまった。
しかし違和感は有った、人が居ないのだ。早朝の散歩が好きな老人の、一人や二人居そうな処なのに。
「誰も居ないね…」
と書生さんに訊けば、掴んでいた外套が唐突に大きく揺れた。私はつられて小走りになる。
無言で走る大人は少し怖いので、押し黙って追従して行くと先の方に神社が見えた。
その境内にようやく人影が確認出来たので、てっきり書生さんは声を掛けるのかと思ったが…
「僕が良しと云うまで、一言も発さぬ様」
耳元で囁かれ、吐息に項がぞわりとした。次の瞬間、がっしりと脇を掴まれ、鳥居近くの樹木に身を寄せられる。
すぐ傍の書生さんが睨む先を、私も見る他無かった。
社の手前に、数名と…向かい合って数名が云い合っている。険悪な空気が朝靄に滲んでいた。
「だから、お引き取り下さい。何度云えば済むんですか……この辺鄙な里にそんな特殊な物は無いですから」
袴の人が呆れ声で云った。やや高いその声から女性なのかと判断したが、いまいち確信が持てなかった。
黒髪の短髪だから、やはり男性かもしれない。
その袴の人の脇にも、控える様に男性が一人居て腕組みをしていた。睨みを利かせ、まるで臨戦態勢。
「此処に沢山今まで卸していたんですから、ちょっとくらい分けてくれても良いんじゃありません?」
彼等と向かい合っている男性が喋った途端、その背に私は思わず叫びそうになった。
いいや、殆ど唇は叫んでいた。しかし、書生さんの指に圧迫された声帯がそれを発する事は無かった。
里の人と向かい合っているあそこの男性は、私の父親だ。その取り巻きは、おそらく養蚕の仲間だったのだろう。
この里に何の用事だろうか…と、考えるまでも無かった。
「なんでしたら好きに回って御覧になって下さい。蚕室も勝手に入って良いですから」
「違うんですよ、ああいった普通の蚕ではなくてですね…糸そのものに妖の力が籠っている、そういう糸を精製する蟲を飼い慣らしている筈なんです!ほらっ、その着物だってそうじゃありませんか」
よくよく見れば父の懐から放たれた袂雀が、袴の人の胸元に留まり始めている。
「そんな大した服じゃないです…普通の蚕の繭から紡いだ、正絹ですよ」
「ほら、私等の袂雀が吸い寄せられてる」
「何を云ってるか…意味が解かりません」
「嗅いだ事の無い絹なのかもしれない、ねえ良かったらその着物だけでも呉れはしないでしょうかね」
我が父ながらその図々しさに、私の頬が熱くなった。
見れば更にわらわらと、袂雀は話し相手の衿にまで群がっている。
視えていないのか無視しているのか、それとも普段から不機嫌そうな顔をしているのか。
袴の人は項を撫でて溜息し、この寒空の下、その衿に手を掛けた。
「二度と来ないなら、こんな着物程度…お渡ししても構いませんよ」
大胆に上を脱ぎ始めるその人の隣で、大男が驚愕の面持ちになった。
「おいおい…!あんまし感情的になんなって」
「良いだろ、俺の勝手にさせやがれ。それにもうコレは着ていたくない」
「せめてよぉ、旦那が帰って来るまで待ってりゃいいのに。こんな始末の付け方したって、多分またガン首揃えて来るぜ連中」
「あんな野郎の帰りなんて待ってられるか」
ぶつぶつと応酬が繰り返された後、袴に薄い襦袢のみとなった人が片手に揺らす布。
まだ袂雀の群がるそれを、大男の脇からずいっと父達に差し出した。
「好きに調べて下さいよ、後は勝手に研究でも何でもして下さい」
その華奢な体躯にほんのりと胸の膨らみが見られて、思わず私は眼を逸らした。
あの気性から男性かと思ったが、どうやら女性だったらしい。
着物を受け取った父は、満面の笑みで礼を述べていた…が、あっという間に次に移る。
「いやしかしですね、私はこの里が…あの噂に聴く“悪魔の里”だと思っていたのですが」
「もう見たでしょう?人間も普通、養蚕に飼ってる蚕も普通です」
「デビルサマナーくらいは居るでしょうに?悪魔に等しい蟲だとか…使役してるんではないです?」
「里長がサマナーですけど、今は外出してます。居残ってる俺等は悪魔とかよく解かりませんから。…本当に、さっさと帰って下さい」
もう止めて欲しかった。この里の人に迷惑をかけているのだ、私の父親が。
今ここで、私が割って間に入れば止まるかもしれないと思った。
子供の前で我欲を優先する大人であっては、欲しくなかった。
「この襦袢もよく見れば…マグネタイトを抑制する為の織物ですか?悪魔から身を隠すならいざ知らず…」
「ちょ、っと……失礼じゃないですか、放して下さい」
「何の糸を使ってるんです!?ねえ!」
いいや、絶望的だった。私が躍り出た所で、何も変化は無いと悟る。
まさか女人の襦袢を掴むだなんて、そして理由が蚕だなどと。
「おいおっさん、もうそれくらいにしときな」
そんなどうしようもない私の父を、控えていた大男がいよいよ牽制した。
半笑いでぴしゃりと軽く、父の手の甲を叩いて振り払う。
「そうはいかないんですよ、我々のお株を奪われて困窮必死なのです。下請けでも良い、製法を教えて下さい!」
「だからって女の肌着奪うんかい?いくらちんちくりんだからって、女は女なんだからよぉ」
その大男の言葉に、袴の女性が眉を顰めた。
「誰がちんちくりんだと…手前」
「だって脱がねぇと、今どっちなのか正直判らねえしよ」
束ねた長髪を揺らして笑う大男、その尻尾の様な髪の毛を女性が掴んで引っ張った。
おどけて痛がる大男だが、再び伸びていた父の腕が見えていない訳では無かった。
だが、今度はそれを払い除けずにはっしと掴み引き寄せる。
次の瞬間、私の鼓膜は慣れない振動に悲鳴した。
「ほら、だーからさっきので止めにしとけって、云ったろ俺?」
羽交い絞めに遭う父が先刻まで居た向こう側、社の柱に何かがめり込んでいる。
少し遠いのではっきりは見えなかったが、すぐ傍から火薬の臭いがして把握した。
首を捻って書生さんを見上げれば、形の綺麗な手で銃を構えていた。
「旦那!今の当たってたら人殺しじゃねえの?」
「おや?正当防衛では無いのかい。それに急所は外してあった、お前が余計に動かさずとも死にはしない」
「正当防衛ってのぁ当人がやってナンボだろうよ」
発砲した人間に皆が一斉に振り向く訳だが、私にも当然視線は注がれた。
とうちゃん、と叫ぼうと思った。だが、項から背骨を一直線に伝う指に、喉奥が引き攣った。
頬を撫でる様にして、書生さんが私に語りかける。
「僕はまだ“良し”と云っていないよ」
言葉が出なかった。あれが術だったのか定かでは無いが。私は道中の口約束に、唇を閉ざされてしまったのだ。
そして肝心の父はというと、私を見てやや気まずそうに眼を逸らした。
取り巻きの養蚕家連中は、首を傾げて私を眺めた後、書生さんに詰め寄った。
「どうしてあいつんトコのせがれを連れてんだ、お前さん」
「不在にしており申し訳無かったですね。しかし僕も貴方がたの村へ降りたが、家長が不在だと追い返されてしまった」
「そのせがれに、わし等の居所でも訊いたんか?」
「いいえ、この子は放っておくと死にそうでしたので、連れ帰ってみたのですよ」
「死にそう…?」
「ええ、本来世話すべき人物から暴力を受けていたのです」
父は、銃撃されたというのに憤怒もせず、私が連れられてるというのに取り返そうともしなかった。
他の養蚕家の男性陣の方が、煩く喚き立てている。
そう、あの人は蚕の事なら我を顧みぬ暴挙に出れるというのに、それが無関係となると一気に興味を失くすのだ。
「だからこの子は、うちの子にしようかと思いましてねえ」
哂って述べた書生さんの唇が、続いて私に向かって号令した。
空気を振動させず、「良し」と形で紡ぐ。
それを確認した私は、背を向けている父にもはっきりと聴こえる様にして唱えた。
「父ちゃん」
片手に銃を携えたままの書生さんの腰に、抱き縋った。
呆気に取られる周囲だが、一拍置いてから「脅迫されてるんだ」等と憶測でまた煩くなる外野。
違う、あの時私は自分の意志で他人を父と呼称したのだ。
繭のままあの家で煮殺されてしまう前に、他の飼い主の所に逃げるか…
それか、気付いて欲しかったのだ。本当の父に。
「おい、誰が面倒見るんだよ」
乱れた襦袢を整えながら、書生さんに歩み寄る女性。
近くで見ると、やはり女性と云うには少し丸みが足りない気がする。
並べば、書生さんより明らかに身長は低く、睨むその視線も上目使いだ。
「産まずして子育て経験が出来て、良かったではないか。仲魔を育てるより気楽だろう?」
「誰も子供欲しいなんて云ってない、もっと厄介なのが既に目の前に居る」
「この身体も老いさらばえて幾年…先程の照準を合わせるのも手が震えてしまってねえ」
「嘘吐けよ、あんなに大量にはべらせてやがった癖に」
「仕事さ」
「どうだかな」
やり取りをぼうっと聴いていて、この二人が夫婦なのではないかと気付いた。
思わずじろじろと見上げてしまい、ふと此方を見た女性が止まる。
「君に怒ってるんじゃないよ、ごめん」
淡々と云われて、私が怯えているのだと誤解されたと知った。
勿論、世話になる事は迷惑を掛けると同義である、とは理解していたが。
私はこの二人に、少なくとも嫌悪は無かった。
得体の知れぬ気配と、不明瞭な背景に、多少の畏怖は有ったかもしれないが…
私の家よりも、その時は彼等の下に居たいと感じたのだ。
「……確かに、面倒を見てやれていないのは事実です」
遠くで父がぽつりと零して、私はその続きをじっと待った。
周囲も、阻む事はせずに私と父を交互に見やる。
「今は必死な時期だから、其方様の云う通り…余所様の世話になるのが良いかもしれない」
私を腰に抱き着かせるまま、書生さんはそれに返した。
「僕はですね、仕事の情けを感じて息子さんを引き取ろうとしている訳では無いのですよ、御仁」
「いや…知っておりましたよ、自分が家業に感けてて、妻がその子に苛立ちをぶつけている事も。これは良い機会かもしれません」
「そうですか、では息子さんの件に関してだけ接触を許可致しましょう。毎度こう不躾に里に入られては堪らないのでね」
着物を返そうとする父に、目配せで制する書生さん。
帽子の下で流し目をする、それだけで冷たい水の中に投じられる心地になる。
「それは差し上げます、袂雀が集り過ぎて鱗粉が付着しているのでね」
「繊維質は真似出来ても、魔力の質は上げられないのです。本当に何の糸を使えば……」
「もう養蚕の件にはお答えしないと、申し上げたばかりですよ?」
「…ですね、ではすいませんが息子に一時の別れの挨拶をさせてくれませんか」
私は、父がそれを望んだという事実だけで浮かれた。
私が居ないと、やはり何処か寂しい部分が有ったのだろう。私は父の中に存在していたのだという、揺るぎ無い証拠だと感じた。
軽く背を押され、書生さんに促されるまま父の前に躍り出る。
このまま父の方に帰っても良かったが、それでは話を持ちかけてくれた書生さんに悪い気がして。
それに父も今回の愚行に対し少し反省すべきだと、子供の癖に偉そうに考えた。
灸をすえるつもりで、私は父から離れて暫くこの里に暮らすのだ、と。
「もっと顔をよく見せなさい」
屈みこんだ父は、私の耳元で別れの挨拶をした。

「お利口にして気に入られなさい。率先して方々の手伝いをなさい。そうして我が家に帰ったら…何を飼っていたのかを、しっかり父さんに教えるんだぞ」

私は、父達が踵を返すまで棒立ちのまま。大男に肩を叩かれて、初めてそれに気付いた。
あの瞬間は、時間が止まってしまったかの様に…音も振動も、何も感じなかった。
「おい、行くぞ小僧っ子。お前さんの親父はしばらくの間、あの旦那だかんな」
ひょい、と肩車されるまま運ばれる。ぶつからぬ様に、大男は思い切り屈んで拝殿を潜る。
目の前には黒い外套と袴の二人が、喋りながら歩いていた。
不思議な構造の拝殿で、奥にはまた大きな扉が有るのだ。
だが私はその時、そんな不可思議さに気付く余裕も無かった。 
思い出せば、あれは普通の社とは違う。異界への門みたいな物だったのだろう。
「ちゃんとお別れしたのか?」
「うん」
間の抜けた声で大男に相槌すれば、「そうかい」とだけ返された。
私の腿に軽く当たっているその白い耳が、少し尖っているのを感じて…本当は聴こえていたのだな、と、ぼんやり思った。
「お前の背では小童には高過ぎやしないのかい?ヨシツネ」
扉を抜けて下った先、赤い絨毯の中で立ち止まり此方を向く書生さん。
大量の曼珠沙華が狂い咲いている。先刻の里の風景と打って変わり、まるで彼岸かという土地だった。
「んなら旦那が運んでやれよ、その靴の踵がちっとばかし危なっかしいけど」
「嫌だよ。生憎、今の身体ではすぐ疲れてしまってね」
「云う程かぁ?早く人修羅の機嫌直しゃ良いのに」
「まるで僕の所為みたいに云うで無いよ」
「ジョロウグモとアルケニーつったって、女は女だぜ?あんな大勢持ち帰って…そら奥方の気分も、好か無ぇだろ?」
「此処の産業発展の為、つまりはそれも仕事さ」
「んでもって今度はガキ持ち帰って……アイツに土産のひとつでも買って帰ってやったらどうよ?」
「だから、お前が今肩に担いでいるだろう?」
「おいおい、人間サマだろコイツは」
「子供でも持ち帰れば人の情に感化され、少しは子作りする気になるかと思ってねえ?」
くす、と不敵に哂う書生さんと眼が合う。私はどうやら土産だったらしい。
こうして悪びれもせずに目の前で云うこの人に、虚しい気持ちが少し紛れた。
「なる訳無いだろ、スケコマシ野郎が」
「功刀君、里の人間を家に引っ込ませたのは、君にしては英断だったかな」
「話逸らすんじゃねえよ」
「ま、あれ以上強く押してくるようならば住人も駆り出すのが吉か。その程度には鍛錬させてある、副業サマナーには負けぬよ」
書生さんの隣で、怒りながら袴の裾を捌く女性。
妻というにはあまりに少年らしいこの人は、つまり私の仮の母というだ。
「君も、家出にしたってこんな奴について行く事無いだろ、判断ミスも良いとこだ」
「旦那にのこのこついて行っちまったのは何処の誰…」
「九郎」
「んっとすまねえ、口が滑っちまったわな」
「燃やされたいのか、あんた」
「いやいやいや、この甚平は擬態中の一張羅だから勘弁してくれよ」
この連中は喧嘩ばかりだが、押し黙って裏で暴力にして吐き出す実母より、余程健全だった。
「ねえ…」
この先どうするか遠くの日の事は考えず、とりあえず自己紹介をすべきかと口を開いた…
が、空腹の腹が悲鳴して主張するものだから、一同が静まり返ってしまった。
「とりあえず帰ったら飯にしようか。君、何か食べたいのある?」
「そろそろ芽キャベツが収穫出来る頃だ、それと壺に大学芋の蜜も残っていた」
「あんたには訊いてない」
「人間は腹が減るのが早いからねえ、君もしばらく調理のやり甲斐が有るというものだろう?この土産に感謝し給え」
間に挟まれる様にして歩くと、その応酬が右の耳から左の耳へと。
「やれやれだぜ、お前さんも早く慣れるこったな。慣れりゃそうそう悪くも無いもんよ」
ヨシツネとか九郎とか呼ばれていた大男が、私の脛をぱん、と叩いて笑った。
つられて、私もはにかんだ。私の実の両親は喧嘩にすら発展しないので、とにかく新鮮で。
袂雀の一匹も居ない野辺は、とても爽快だった。




「今は何してるのか?しがないサラリーマンって奴です…よくある商社勤めですよ」
「こんな方面に何の用事で?仕事とは思えないですが」
「私の勤め先が販売の関係でして、古い物も取り扱っているんです。その中に懐かしい絹を見付けて…それに触れると同時に、わあっと記憶が甦るかの様で。気付いたら電車に乗っていました」
「本日はお休み?」
「ええ、家族には小旅行に行ってくるとだけ伝えてあります」
「でしょうね、フフ…こんな処、説明しても分からぬ場所だと思いますよ」
向かいの席で、くすりと哂う。黒い立ち襟の影で歪む唇が、やはり重なって見える。
私よりずっと歳の若い青年だが、衣装は何処か古めかしい。
「何故、僕に聴かせる気になったのです」
「貴方が…その書生さんにとてもよく似ていたからです」
「へえ。ところで家業は継がなかったのですか?その悪魔の里とやらに居たのも、一時だったそうではないですか」
「笑われてしまいそうですが、やはり実の親が恋しくて…私は実家に帰りました。そして、話したのです」
「何を?」
「父達が求めていた、袂雀の繭に代わる糸の製造法を」
車窓から見える風景は見知らぬ様でいて、懐かしい。
海馬からじわじわと滲み出し、当時のさざめく波草が甦っては、目の前の風景に置き換えられる。
と、向かいの青年がトランクケースの持ち手に指を絡ませた。
「そろそろ降ります?」
「終点ですからね」
「そういえばそうですね。お兄さんも終点までだったんですね、これは奇遇」
「降りたら何も無い、辺鄙な所ですよ」
「良いんです、辿り着けなかったら暗くなる前に引き返す予定なので」
登山客しか利用しない様な無人駅で降り、黒いマントコートの青年は私の前を歩いて往く。
ほんの少しの獣道が、薄い陽に照らされて見えた。
「父は死んだのです」
「おや、まだ話は続いてたのですか?」
「すいません、もう少しお付き合い願えますか、道中暇なので」
「過労死?」
「いえ、私が伝えた製造法を真似て、精も根も尽き果て枯れ枝の様になってしまいました」
「へえ、それは怖い」
「父が亡くなってから、母はぱったりと暴力を辞め…次いで生きる事も辞めました。私は留め金にはなり得なかったという事です」
「自殺?」
「ええ、服毒死…でした」
この青年は驚きもせずに私の話を聴いて、足取りも緩む事は無い。
もしかすれば、私の探す里の住人かもしれない。
悪魔の里と云っても、それはサマナーが住む処であって、今も普通に存在している可能性が有る。
あの颯爽と外套を翻していた書生さんも、綺麗な金属の管を胸に携えていた。
私には視える悪魔とそうでない悪魔が居たが、彼は出来る限り私の前で召喚を行わなかった。
土産として連れ帰った私を、サマナーに育てたいとは微塵も思っていなかったらしい。
「あれからは、遠い親戚の家で暮らしました。他の地域に行って解かりましたよ、自分の居た処の…何と閉塞的な事か」
「田舎とはそういうものでしょう」
「蚕達を見ていて、昔は得体の知れない嫌悪が有った……その理由を知りましたね。あれは恐らく、蚕が己に重なっていた」
「フフ……出られて良かったでは無いですか、今は平凡な家庭を築いているのでしょう?」
「それはもう…息子達もようやく皆成人してくれて、これで少しは落ち着きそうです」
「本当の家族を得たのなら、それは良かった」
心からの、というよりは、さらりと流す様に云う青年。
哂って流すその姿が、悪魔の里で家族ごっこをしてくれた人に、本当に生き写しの様に酷似して。
しかし生きている筈が無い、悪魔では無くサマナーの人間なのだから。
「それでも、私はあの里の事も恋しく思いますよ。首だけ黒い犬とか、暖かいのにいつもコートのおませさんとか。あの書生さん達の使役していた悪魔は、そんなにおどろおどろしいモノは居りませんでしたから」
ヨシツネと呼ばれていた青年も、薔薇を愛でる女性も、扱いからして恐らく悪魔だったが…まるで人間の様に過ごしていた。
里は大きく二つに分かれていたが、悪魔ばかりの上里に悪魔が悪魔として蔓延る事は無く。
殆どを上里で過ごした私は、下里の平々凡々とした様子は結局殆ど見ていない。
だから恐らく、あの里に辿り着いても判らない。
「懐かしいと?」
「ええ……でもきっと、もう通しては貰えないのですよ」
「へえ、何故そう思うのです」
「私は子供という土産として持ち帰られたのですから。今じゃ白髪混じりの初老ですよ?多分、あの奥の方の里には、許された者しか入れないのですよ」
暫く歩くと、辺りはすっかり薄闇に包まれて。青年のマントコートの色が、景色に融けている。
「もう暗い、少し泊まらせて貰っては如何です」
その誘いに目を向ければ、門の灯りが見える。
私の知るあの里なのか、問い質す事はしなかった。
きっと哂って流されてしまうだろう。それに、克明にさせる必要も無いと思ったからだ。
言葉に甘えて後に続けば、星空の下に行き交う住人は少なくて。
家屋の窓からぼんやりと零れる灯りだけが、道に伸びていた。
懐かしい…?いいや、思い違いかもしれない。幼い頃の記憶は、確かに自分でも信用しきれない。
停められた水車をじっと眺めていると、前方で人と話していた青年が私を振り返る。
「貴方が嫌でなければ、養蚕をやっている家が一室空きが有るそうだ」
「構いません、寧ろ簡単にでしたらお手伝いも出来ますが。昔取った何とやら、です」
「客人に手伝わせる様な無粋な真似はしませぬ。来客なんて稀ですからね、連中も気分転換になって良い事でしょう」
がらがらと門戸を開くと、やや大きい家に入る青年。追って庭を通れば、つらつらと長い縁側が向こうの暗がりに見えた。
此処のやっている養蚕は…果たして、上里と同じなのだろうか?
「女性ばかりで申し訳ない、姦しいだろうが許してやって下さいね」
くす、と哂う青年の周囲には、きゃあきゃあと糸紡ぎと機織りの器具を携えた女性達。
どうやら繭の生産から加工まで、全て此処で行っているらしい。
「嫌だわ十四代目たらあ、姦しいだなんて」
「おや、十二人は居るから姦姦姦しいだったかな」
「酷いですわあ、もう紡いでやりませんよお」
「では、僕も報酬をやらぬよ」
「んなけったいなあ」
何の十四代目かは定かでは無いが、どうやらこの青年も里では何かを務める立場らしい。
あの書生さんも、里長と云われていたし…田舎里の割には若者を推す其処に、違和感を感じないでもない。
いや、世襲かもしれない。あの書生さんの息子なら話は繋がる。
「さて、こんなに居るのですから…この中に一人くらい、誰かに似ていたりはしませんか?」
と、その青年は、女性陣に囲まれたまま私に哂いかけた。
真意を図りかねて、少し私は怪訝な顔をしたかもしれない。
「え…?と云いますと?」
「ほら、母親の顔だとかに…ねえ?」
唐突だったので、その言葉のままに私は思わず、女性の波にぐるりと視線を滑らせた。
が、引っ掛かる顔は居ない。他人の空似も無かった。
「いや…居りませんが、どうして急に」
作務衣の女性達が、取り巻いてくすくす微笑む。
青年は異性の中に孤立していようとも、何も動じる事なく佇み私を見据える。
「ギリシア神話のアテーナーは、トリカブトの汁でアラクネーを蜘蛛へと転生させた」
「…蜘蛛…」
「そう、ですから、貴方の母上も蜘蛛女に転生したのでは…と、可能性を述べてみたまでですよ」
上の空で相槌をした。何故ならば、私は服毒死とは伝えたが、トリカブトだったとは一言も告げていなかったから。
そして今、蜘蛛だと云った。この女性達が…それに該当するのか?
だとすれば、此処は間違い無く…

「……父ちゃん?」

呼び掛ければ、哂った顔のまま小さく小首を傾げる青年。
「貴方は、懐かしんでこの里を探し求めたのでは無い。記憶が不鮮明な部分を怪しんで、此処を訪ねたのではないか?」
「やっぱり父ちゃん?でもどうして身体が…貴方の歳は…」
「僕の質問に答え給え」
ぴしゃりと跳ね除けられる。その冷涼な声音に、周囲の女性達も一斉に震えた。
いや、彼女等は悪魔、蜘蛛女だ。
紡ぐのはジョロウグモで、織るのはアルケニー。この里が編み出した、類を見ない製糸方法だった。
幼い私は、あの書生さんに連れられ…この異様な養蚕の光景を目にしたのだ。
「…そう、そうです。私はこの里で知った事を、確かに父達に伝えました……そして、悪い方向へと転がった」
軽い眩暈を感じて、額に手を当てた。
「両親は…私が殺した様なもの、なのです」
「実際どの様な物だったか、再確認したかった?」
「…かも、しれません」
あの頃、小さな私の背を軽く押し、語る書生さん……此処での父。
その綺麗な横顔を思い出し、眼前の彼に重ねた。

彼等が作った新たな手法。
それはまず、使役する蜘蛛女達に上等のマグネタイトを喰わせるのだ。
恍惚とした蜘蛛女達は、その魔力の潤いに胎を膨らませる。
まるで孕んだかの様なその下腹部の先端から、しゅるしゅると白い糸が吹き荒れる。
サマナーと睦んで出来るその糸は、頑丈で柔軟で、何より美しく煌めく。
蜘蛛女達は、自らが吐き出した糸を紡ぎ、織り、精を注いでくれたサマナーに貢献するのだと。

「教えて頂いた事は、何でも話しました。だから、アラクネーの逸話も。トリカブトの毒で蜘蛛に転生する話を、母にも…」
何とか手に入れた数体のアルケニーやジョロウグモの使役に、父は耐え切れずマグネタイトは枯渇した。
今度は蚕では無く蜘蛛、それも女性型の悪魔に執着する様になった父の姿を、母は必死の形相で睨んでいた。
見かければ、それがどんな小さな朝蜘蛛だろうが容赦無く殺し。
家周辺の蜘蛛の巣を、嵐の前には箒で引っ掻き壊す日々で。
私に相変わらず浴びせる熱湯の火傷の痕が、まるで脚を開いた蜘蛛の様な形を描けば、その肌に爪立てて引き裂いてきた。
「本当に君は善意から伝えたのかい?」
は、っとその声に眼と眼を合わせる。気付けば、青年の周囲にはぼってりと胎を膨らませた蜘蛛が数匹。
節足の先を床板に引っ掻けて、這う様な姿勢で私を見上げて嗤っている。
顔だけは女性のままの、それはまさしく悪魔と呼ぶに相応しい形。
「結局君の父も母も、何ひとつ変わらなかったのだろう?君は幼心にそれを恨んだ…」
「だから私が両親に伝えたって云うんですか!?」
「恐らく君の両親は、君ではなく“君の知る情報”を温かく迎え入れたのだ」
ああ、どうだったろうか。伝えたが先か、恨んだが先か。
「いや、いいや違う、私は……あの人達に、幸せになって貰おうと」
「僕は内容の危険性を示唆した上で、君に述べたよ?幼かったなどは、云い訳に過ぎぬ」
この青年の推測は、見てきたかの様なまでに図星である。
蜘蛛達にマグネタイトを与える事が出来る人物は、この里でも限られていた。
それは消耗が激しく、更には上手に使役しなければ、一滴残らず搾り取られてしまうからだ。
そうやって哂いながら教えてくれた人は…すぐ目の前に居る。
「適当なサマナーでは先に廃人になってしまうと、云ったよねえ…?」
「聴きました…」
「きっと、蜘蛛達に嫉妬すると。分かっていながら母に伝えたね?」
「蜘蛛に転生すれば、黄泉で父も構ってくれるだろう、と、一言添えました」
決定的だ。私は父を見殺しにし、母を唆した。
「ほら御覧よ皆、人間の何と弱い事だろうね」
輪唱する様にして、青年に続き蜘蛛達が笑った。
女性の集いに一瞬聴こえるが、くすくす響くマグネタイトの異質な雰囲気が毒を添える。
「頭は白くなり、皺ばかりが増え、それでいて蓄積し得る解の乏しさ。都合良く「愛していた」という幻想を抱くままに老いているのさ」
冷徹なまでに、私に向かって来るその言葉の雨。
ああ、昔と何も変わりはしない…随分と冷たい人だ。何も嘘は無い。
愛していた事だけを信じたくて、己に嘘を吐いて生きてきた私と、大違いだった。
「ほんに…うふふ、アタイ等を使役するなんざ朝飯前とか思っとったんでしょうかえ?」
「蚕や愛人と同じ、大勢居れば居る程世話がかかるこっちゃよ?坊や」
「坊やて貴女、もうこのニンゲンはオッサンって奴よお」
けらりからり、広間にこだまする。
それから逃れたくて、煮え湯から逃れたくて、私は数歩後ずさる。
「フフ、あまり詰るのも可哀想かな?何せ…人間の子を攫って、親殺しへと誑かしたのはこの僕なのだからね」
マントコート…外套をひらりと靡かせて脱ぐ、その姿さえ美しかった。
一歩二歩と、迷いも無く近寄って来る、床板は無駄に啼かない。この青年は、里の父は、いつも流れる様な所作で暮らす。
いつかの様に、私の肩に外套を掛けてくれた。
「一張羅でも無いからね。帰り道は寒かろう?餞別にあげる」
「あの頃の私を…誑かしたのは…どうして」
「どうして?君が一体、いつになったら親への憎悪に気付くのかと思ってね、面白そうだから仮初の親になってやったのだよ」
外套が氷の様に冷たい、人肌で温い筈の内側はマネキンにでも掛かっていたと錯覚しそうな状態で。
私は震えている…しかし、寒さとは違う。畏怖に震えが止まらない。
冷たい氷の様な人でも一時は父と呼んだ、その事実が心を捩じり切りそうになった。
幼い私が溺れる蚕の茹で釜に、蜘蛛の糸を垂らした青年の姿が脳裏に浮かんだ。
「確かに…確かに私は!父も母もどうしてこうなんだと、苦しかった、寂しかった、あの人達から気付いて欲しかった!でも訪れなかった!」
あの頃、私を煮え湯から掬い上げて…救いあげてくれたのは…間違い無く目の前の…
この、仮初の父だったのに。
「貴方が私で遊びさえしなければ、殺す事も無かったのです!」
しっとりと白檀の香る外套を、投げつける様に叩き返した。
「化物!人でなしっ!」
床に落ちる外套を見る事もしないで、私に向かって哂ったままの青年。
父ちゃん、と、呼んでみた時に返される微笑みと同一で、ブレが無い。読めない、昔から。
多分、私と出会うもっと以前から、この青年の冷笑は溶けないのだろう。
「父と、一度でも呼ばせた貴方を呪ってやりますよ…!もう…父ちゃんなんかじゃ、ない」
大人気無くも、眼の奥がつんと熱くなっていた。
意識して忘却していた殺しの事実より何より、もっと他に突き上げる衝動が有った。
郷愁は嫌悪と憎しみへと育ち、私は来た道へと戻る為、駆け出し始めた。
重苦しい会話と空の色に反して、心は妙に軽い。
殺したのは…私だけの責任では無い。そう、私は嘘吐きな大人に騙されて、誑かされていたのだ…
それが判明しただけでも、今日という日は無駄では無い。この里帰りは、悲劇では無い。
そしてもう、二度と帰らない。
「大人って、嘘ばっか…」
憎悪の割には、何故か頬を伝うのは滴ばかりで。
思わず昔の口癖を呟いた。







「あー面白かったあ。最近イベントらしいイベントも無かったからなあ」
「それにしても、人間て老けるの早いわねえ〜。こないだ会った時はまだあんなおチビだったじゃないよお」
「ジャリの次の瞬間にはオッサンとは……イイオトコの時期は酷く短い!ほんに、十四代目が小奇麗な状態で悪魔んなってくれて助かったわあ」
きゃあきゃあと姦しい集団に、掌をひとつ鳴らして号令する。
「持ち場に戻り給え、見世物は終了したろう」
「でも十四代目ぇ、折角此処に来たんだからぁ…MAGのサービスしてくれたって良いじゃあないのお」
甘える様にして僕の肩に脚を引っ掻けようとするので、目配せで床の外套を示す。
促された事に気付いたジョロウグモは、節足の先端に外套を引っ掻け、改めて僕の肩に項垂れる。
「どうも」
それだけ受け取る様にして節足を掌で押し返せば、眉を顰めた蜘蛛が女性の顔で拗ねる。
「んもお」
「足りている筈だが?」
「んま、そうですわ。今織ってる分が出来上がる頃、もう一度吸わせて貰ったらそんで良い感じです」
「養分の与え過ぎは駄目なのさ、供給のバランスが崩れては普段の調整も無意味に終わるからね」
「でも、サービスしてくれたらもっと艶っぽ〜いイイ糸が紡げそうじゃないですの?」
「今の出来で充分、いつも御苦労」
軽く足の先端に接吻し、にたりと哂いかければひくりと胎が蠢くのが見えた。
楽なものだ、手懐けるなど昔から容易い。
「あっ!ズルいわアンタだけ!ねえ十四代目ぇアタシにもお」
寄って集って僕からMAGを搾取せんとする蜘蛛達を、外套を羽織って掃う。
「僕に糸を付けるでないよ、帰って何を云われるか分からぬからね」
そう唱えれば、黄色い声音もやがて静まる。
皆、アレの嫉妬の焔は恐れているのだ。
「人修羅様にもそろそろ新しいお召し物作りましょか?最近こっちの里に来ないでしょうあの方」
「んなアンタ、オンナノコじゃあるまいし、着物じゃ機嫌は取れんわよ」
「物じゃなくって気持ちの問題よお。物がたとえしょぼくたって、十四代目の口上で価値はグンと上がるでしょ」
「んん?ってか今って雄?雌?どっちのお身体なんだろ」
いや、やはり面白がられているのかもしれない。
どれだけ年月が経とうと、人修羅は女性悪魔におちょくられてばかりだ。
「どちらとて、君等には関係無い」
云い残して勝手口に向かえば、背後からはひそひそと皆で話す声。
僕の聴力が、人間よりは少しだけ優れているという事を知りながらにあの声量。
「「君等には関係無い〜」だってさ」
「ま、そらアタシ等には人修羅は関係無いけどさ。どっちの性別だって、さほど着物に変化無いし」
「けどねえ?」
「ネエ?わざわざ云わんとでも…うふ」
「相変わらず冷たいっちゃねえ、ショボーはそこにベタ惚れぽいけど。人修羅もそこが良かったんかしらね?うふ」
好きに推察し、語らえば宜しい。敢えて云い返す事も無く、扉を閉めた。
表に出て空を見れば、既に山の影は夜空と同化し始めている。星空が輝くには、阻む雲が多くて難しい天候。
昔に比べ野犬の類は少ないが、はたして無事に帰り道を辿れたのかね…と、先刻の彼を思って失笑した。
駅まで着けば、とりあえずベンチに横になって休憩くらいは出来る。明日の電車を其処で待てば良い。
(今宵に限っては、悪夢を見るだろうがね)
突き返された外套は羽織るだけにして、留め具も掛けないまま社に向かう。
堂々と土足で立ち入り奥の扉を開けば、鼻腔を擽る雨の様な薫り。
水を与えられた曼珠沙華の列が僕を迎え入れ、庵へと向かわせる。
「お、旦那、丁度良いトコにお帰りで」
へらへらとした声音で、曲がり角から僕を呼び止めたヨシツネ。
黒髪を適当に束ね、擬態姿に甚平という軽装。本来の重装備とはえらい違いだ。
「俺の甚平縫ってくれるように、下里ん蜘蛛女共に依頼しといてくんね?そろそろボロくなってきてよ」
「そのくらい己で伝え給え」
「だってアイツ等、旦那の頼みじゃねえと働かねえもんだから」
「知らぬよ、ユニクロでも勝手に行けばどう」
「はあーっ!?俺ぁ人混みがこれでも苦手で…ってちょい、待ってくれって旦那ぁ!あの店に甚平なんて有るのかよ!」
しかし追って来ない。僕の気が乗らぬ時は何を云っても無駄だと解っているのだ、ヨシツネは。
付き合いが長いと、向こうも懐柔されてくれるので楽である。
「また薙ぎ倒して、じゃじゃ馬め」
モー・ショボーの通った風の獣道を辿り、僕は住処の庭に顔を出す。
傾いた様に並ぶ草木と曼珠沙華から抜け出せば、縁側に仁王立ちする奴が僕を睨みつけていた。
「それを近道に使うのは、何処の野郎だ?」
「知っているかい?山深き森林内に唐突に現れる彼岸花の郡、それはね、其処にかつて人里が在った事を示唆しているのだよ」
「訊いてない、話逸らすんじゃねえよ」
庭から庵に入る僕を、ちくちくと視線で責める。
御構い無しに外套を脱ぎ、片手で人修羅に放った。
「靴は自分で玄関口に移せよ」
「良いよ、また庭から出て行くからね」
「俺が気になるんだよ!くそっ……」
かっかしながら、僕の靴を屈んで掴む人修羅。その袴の翻りを見て、着物の事を思い出す。
しかしジョロウグモとアルケニー達の想いを余所に、僕はもっと気になる事を問い掛けた。
「ねえ、ユニクロって甚平売ってるのかい」
一拍置いてから、怪訝な表情で振り向く人修羅。
「何だよ唐突に…あんたそういう所の服着ないだろ」
「どうなの」
「俺は人間の街どころか、最近は下里にだって行ってないんだぞ、知るかよ。それに今は夏じゃない」
と、外套を両手で広げた人修羅が、更に眉を顰めた。
黒い布壁の向こうで、ぼそりと呟かれた言葉が僕の鼓膜を揺らす。
「…臭い」
「へえ、何のニオイだい」
「蜘蛛の処行ってたろ、あんた」
「フフ、妻の素振りで嫉妬でもしてみるの?」
「するかよ、家畜に嫉妬なんか」
彼にしては反射的に怒らなかったと感心したが、述べている事は相変わらず冷淡だ。
悪魔に対して、恐らく死ぬまでああなのだろう。
「そうだね、他では生きられぬ様に使役している」
「残酷な奴」
「おや、僕だけがそうさせた訳では無いだろう?自然と出来上がった形さ」
住人は里の中で番い、子孫を作り、また番う。
君は僕と番い、生まれた僕とまた番う。
此処が一つの蚕室の様なものだ、と、ふっと感じた。
それをあの子にも云った事があった気がする、かなり昔の事だろうが。
「この里の人間は、生まれた時より里の物、僕等の子なのさ。どれだけ老いようが、大人になぞ成れぬ。思い悩む観念が育たぬ繭のまま、外に出られぬのだから」
「あんたはそれを非道と思わないのか」
「外に出た者を糾弾はせぬだろう?」
そう返せば、君は下げた外套の襟の上から、僕をやぶ睨みする。
「そもそも、外で暮らそうと考える奴が、居ない……」
「そうさ、外の世界を知ろうが護るべきは此処での己だと、そういう固定観念が生まれる。濃い血は呪い、悪魔とは違うこれもひとつの使役だろう?」
こういう事を述べる僕を見る君の眼は、冷めてて少し心地が良い。
それでも縋る他無い君こそを、まさに僕が使役しているという心地に酔い痴れる事が出来るから。
「…なあ、蜘蛛達のMAGは判る、糸引いてて納豆みたいにしつこいからな」
「他に何か?」
外套の襟元に顔を埋めた君が、そのままもごもごと返事する。
「何か…オッサン臭いっていうか、ポマードっぽいというか……」
おやおや、と哂ってしまった。
一瞬肩に掛けただけなのに、人間の移り香とはそんなに強いものだったか?それとも人修羅の鼻が良いだけか。
幼いあの子に掛けてやった時は、それはそれは生ぬるい蚕風味の煮え湯の香りだった。
虐待を受け入れるまま、素直に親を想う子供の姿。人間が、嘘を吐けない純な年頃。
「もしかして、加齢臭って奴か?でもあんたからはしないし…まさか、そういう相手と、何かしてきたのかよ」
「僕にその冗談かい?それは冗談にならぬから、つまらないね。御上共の様なしわがれ相手は、過去に腹一杯させられたさ」
人修羅もそれは無いと踏んでいるのか、それ以上の追及はしてこない。
が、矛先は別の推測に向いて、詰め寄る様に僕に歩み寄る。
「おい、歳取ってないだろうな、あんた」
人修羅の声音に恐怖が滲んだのは、どれくらいぶりだろうか。
ぞわりと爪先から天辺まで、熱く血が通る音を内部に聞く。
端的に云えば、興奮したのだ。ボルテクスの頃は頻繁にあった、この昂揚感。
カグツチの影響では無い、僕のバイオリズムは人修羅で決まるものだったから。
「どうだろうかね?フフ…君が拒絶してばかりでなかなか行為に及ばぬと、僕も下手すれば老化するかもね?」
「…あのな、産むのが楽だと思うなよ」
「痛いのだろう?僕は知る事の永劫無い感覚だがね」
しかし、その苦痛を知りながらも独りでは生きられぬが故、歯を食い縛るのだ、君は。
「最近、そこまで拒否したか?俺…」
「忘却する程、退屈させたかい?もっと激しくするべきかな?」
「そんな要望出してないだろ。どうしてあんたはいつも自分の良い様に解釈するんだ、苛々してしょうがない…!」
憤慨して、僕を責める君。
罵倒されようが詰られようが、僕は昔からそんな事には慣れている。
人間の頃の様に飲食し睡眠を摂り、人間の様に住処を持って暮らす。
ただ使役するだけならば、シトリの様に蔵か、それとも管に仕舞ってしまえば容易い。
何故この様な「ごっこ遊び」をしているか、君も半分程度は理解し始めたのではないか?



「そういえば…あんた、子供を連れて来た事、有ったよな」
褥で横たわり呟く人修羅の頬を、窓からの月明かりが照らし出す。
斑紋の光が炙りだされる様にして浮かび上がり、僕はそれを視線で撫ぞった。
別に僕は、普段からその悪魔の姿でも構わないのだが、人修羅は意地でも擬態を続ける。
老いぬ身体、老廃物の匂いさえ無い、時を感じさせぬその肉。
主に滲むのはMAGの香り、その内より出でるエネルギイそのものと、生活の移り香だけ。
料理の薬味の香りだったり、シャボンの香りだったり。それ等は、風と共にすぐ霧散するのだが。
「記憶力の乏しい君にしては珍しいね、何故思い出したのだい」
「俺が、シないからって…あの時云い訳してたろ。どうしようもない云い訳だ…」
「おいおい君、そこまで即物的な物云いをするでないよ。生命維持の為には必要不可欠なのだからね」
「また拒否しまくったら、同じ事するのか」
「あんなの、気紛れさ。生きている子を用意したからとて、君に母性が生まれるとは思っていないよ」
褥から身体だけ起こし、物書き机の抽斗から煙管を取り出す。
「君は男だからね」
貧相な肢体の雌の形をした君に、哂い掛ける。
「人の事女にしといて、よく云うな」
今がちょうど女性だったのが災いし、まんまと僕に抱かれてしまって只今憔悴中なのだろう。
指先に携えた煙管を口先に銜えて上下に振れば、溜息して眼を光らせる人修羅。
その憂鬱な吐息が火を点し、煙管からふわりと煙が立ち昇る。
「野郎が中身の女を抱いて、混乱しないのかあんた」
「せぬよ、だって功刀君は功刀君だろう?」
白い煙と共に吐き出せば、君はその言葉に一瞬息を止め、枕に顔を突っ伏す。
その、黒髪から覗く耳が、ほんのりと赤い。憐れな事に、人修羅となってもそういう身体変化は変わらないのだ。
其処に一石投じたくなるのは、きっと僕のイイ性格がさせる事だろう。
「性別が変わろうが、嘘の下手な子供の様に愚直だものねえ…?」
「…っ、そういう事かよ」
背伸びばかりして、一刻も早く利口であろうとする少年。
真意は塗り固めた繭の隙間から、ゆるゆると滲んでいるというのに。
残念な事に、君は僕に対して天邪鬼だからこそ、更に判り易いのだよ。
「そして悪魔の身、形からも大人になれぬという現状さ。君はこれからも、何もきっと変わらぬよ」
「あんたこそ、ガキみたいな野郎じゃないかよ。云っとくが、大正時代からな!」
「正直だろう?何せ、大人は嘘ばかりだからねえ…」
窓辺の空から、朧月が見える。其処にふうっと吹き掛けて、更に雲を纏わせてみる。
薄暗い部屋の中、傍から僕を見つめる双眸。金色はこれさえ在れば充分。
「大人は嘘ばっか…って。何かそれ、よく聴いた気がするな」
「そうかい?気のせいじゃないの。海馬も不老とは限らぬからね」
「どうしていつも悪く云うんだ。他人に好かれる気ゼロだろ、あんた。だから契約相手しか取り巻きが居ないんだ」
「君が云えた事かい?無自覚よりはマシと思うがねえ」
悪い相手と居た方が、己を可愛がれるだろう?
精神の弱い君等は、そういう奴の隣が居易いというのに…その癖に文句するのだから。
「…あの子、今頃何してるんだろうな」
「大人になったろうさ、何せ成長する人間様だからね」
子供は、嘘吐きになっていた。
呪う気なぞ、さらさら無い癖に。
でも、それで良い。真実に対峙した際、なすり付けられる何かが結局は必要だったろう。
攫った御代は、先刻払った。これで帳消し、僕等が悪い蟲だったという事で解決である。
「でもあんた、あの期間…割とまんざらでも無かった…っぽいよな…?」
人修羅の確認に、僕は頷く事もせず煙管を振るった。
「偶の部外者は、良い刺激になって愉しいだろう?」
「余所の子供攫っておいて、よくもいけしゃあしゃあと……本当に悪魔みたいじゃないかよ」
「殆ど悪魔の様なものになったろう?僕も」
盆に灰を落として、寝物語に歌う。
「玉繭という、通常より大きな繭が稀に出来る。異質な理由、それは一つの繭に、番いの雌雄が共に眠っているからだ」
「…どうしてそんなの出来るんだ、普通は単体で繭になるんだろ」
「どうして?さあね、己で考え給え」
実際、明確な理由は明らかにされていない。
節が有って糸が取りにくい為、玉繭は廃棄される事が多いのだ。
中の番いがその運命を知る訳は無いだろうが、それにしても理由は謎である。
「あんた、どうしてそれを今話した」
「全く…君は問うてばかりだね、推理せねば脳が退化するよ?」
結局、先がどうあろうと、同じ繭に入るのだろう。
共に眠る理由は、内の番いにも恐らく解からぬのだ。
そうしたいから、している。それだけだろう。
その感情に理由を求める事が無駄だと、今なら解る気がする。
「ただし、僕等の繭に人間は入れぬ。すぐに死に絶えてしまうからね」
管に容れた悪魔のMAGを感じる事は、酷く難しい。
絹糸の壁一枚隔てるのも、それと同じ事だろう。
「あの子はさっさと羽化したのか」
「そういう事さ、僕等が繭に置き去りのまま。この先ずっと何十年も、下手すれば何百年もね」
「それは…化石になるな、俺達」
失笑した人修羅の斑紋の光を、今度は指先で撫ぞってみた。
びくりと反射は有るが、払い除けられる事は無かった。
攻撃かそうで無いかは、流石の君も判断出来るのか。
「居心地悪いけど、あんたが無理矢理俺を容れたんだもんな…不可抗力だ」
「夢の無い玉繭だね」
「どうせ煮殺されるんだろ、夢も何も有って堪るかよ」
「ボルテクスの繭よりマシだろう?死ぬまでせいぜい謳歌しようではないか、ねえ?」
盆に置いた煙管から手を放し、腰の掛け布団で僕と君を、頭まですっぽり覆い包む。
わ、と声を小さく上げた人修羅は、続いて息を殺すかの様に押し黙った。
金色と斑紋だけが光る、存在を互いしか感じられない窮屈な暗闇の中。
小さく「夜」とだけ発したその麓に口づけて、MAGを啜り、同時に与える。

玉繭を割ってみせると、中から融け合う奇形が出てくる。そんな事を脳内が連想し始めた。
このまま…それも、悪くないかもしれない。
年を追う毎に、思考回路も更に悪魔らしくなってきた今日この頃。
あの頃、サマナー達の交易は愉しく、魔の身体を得た僕は少し浮足立っていた。
そして、更に酷く気紛れだった。
魔具や絹と同じ様に、ふとした直感で子供を持ち帰ったが……きっともう、人間は攫わない。
同じ繭では生きられぬと、よくよく理解したから。
煮え湯を飲まされる家には、もう居ないのだろう?無事に羽化出来た訳だ、飼い殺しされる事も無く。
だからずっとさようなら、僕等の蚕。
彼の中の郷愁は化石となり、やがて風化するだろう。

まどろみの錯覚の中、眼を瞑る…
シルクロードの夢を見た。悪魔だらけの絹の道、綺麗な魔の糸が織りなすこれまでの景色。
遠くに見えていた人里は、やがてぼやけて海に沈んだ。
砂丘のど真ん中、君と僕だけが残った。
そのまま沙漠の砂となるまで、ずっと生き続ける夢だった。
これが悪魔になるという事か、と、夢の中で哂った。


玉繭の化石・了
* あとがき*

書き出しから日をあけてしまったので、いつも以上に纏まりに欠けてます。 「袂雀」は別名「夜雀」。高知県高岡郡での呼び名らしいですが、場所は考えず題材として使いました。
養蚕業に関して少し調べたのですが、なかなか凄い。帰巣本能を殺がれた完全な家畜化を遂げていて、しかも羽化しても飛べない。
「羽化したのか」と、劇中で人修羅に云わせてますが、飛べている訳では無いという暗示です。
ライドウは、使役や婚姻など、契約の形式を取らないと共に居る事に不信を感じる。何をされても親を無償に愛せる者が、理解出来ない(SS「揺籃歌」にもその描写が有りますが…)
多分「私」と過ごした一時は、それなりに愉しかったのでしょう。悪役の必要性を説く夜。

それにしても色々済んでいる後だから、ナチュラルにべたべたくっついてて、書いてて少し恥ずかしいです。