ただこれ地水火風の、仮に暫くも纏わりて、生死に輪廻し、五道六道に廻る事、ただ一心の迷いなり。およそ人間の、徒なる事を案ずるに、人さらに若き事なし。終には老いとなるものを。かほど儚き夢の世を、などや厭わざる。我ながら、徒なる心こそ、恨みてもかいなかりけれ。
 


マイナス21g



「実は俺、昨日は少し感動してたんだ」
「へえ」
「何事も無く旅館に到着したし、食事に毒も入ってないし、掛け軸の裏に札のひとつも貼ってなかった」
「寝首を掻いてくる悪魔も居なかったろう?」
 外套を揺らし、たった今血振りしたばかりの得物を納刀するライドウ。
 その横顔にあんたも夜中ちょっかい出して来なかったしな≠ニ云ってやろうか迷い、止めた。一番の悪魔と寝所を共にしているのだ。場所が変わろうが、宵の心配は普段と大差無い。
 いや……考え過ぎだろうか、と自身の胎を見下ろす。少し膨らんでいる、餓鬼の胎みたいであまり好きでは無いこの体型。
(まさか身重の伴侶に……そういう事は、しないよな)
 そんな事まで考え始めた俺に、冷水をぶっかける様に唱えてくる。
「ほら功刀君、少しくらい動けるだろう?」
「……俺の感動を返せ」
「胎に一人抱えているからといって、僕が優しくなると思ったのかい?」
 踏み分けて行く荒地、人の気配は無い。水分の少ない尖った葉が、ぼうぼうと着物の裾を毛羽立たせる。
 前日の、緑萌える小路や、硫黄の薫りが情緒豊かな温泉街……と、うって変わってこれか。
「これで中身が流れても、あんたのせいだからな」
「だってその中身も僕だろう? 自己責任となる、君が気にする事ではないよ」
「そういう問題かよ──っ!?」
 がさりと飛び出してきた、何かの影。咄嗟に身を構えれば、野兎が数匹。立て続けに……薄茶、灰色、白と……
「嫌ならば、しっかり膣でも締めて戦い給え」
「あんたは気を引き締めろよ、この下品っ」
 最後尾の影は、明らかに兎では無い。
 俺とライドウの間を割って跳びかかって来た、触手の様にうねるそれ。砂埃を上げ、葉を散らしながら地を這い、幾つかに枝分かれして足下に巻き付いてくる。
「何だこれ、木の根!?」
「いくら枯れた地だからとて、吸われるのは御免さ。だろう? 功刀君」
 片脚を少し浮かせ、わざとヒールで煽るライドウ。しゅるしゅると根が巻き付いたのを確認した瞬間に、ギリリと踏み躙ってからサッと屈む。落下傘の様に一瞬広がった外套が、奴の足下を覆う。
「ほら功刀君もさっさとし給えよ、MAGをタダでくれてやるつもりかい」
 すぐに立ち上がったライドウが、俺に哂った。ふわりと靡いた外套の影から、バラバラに切り刻まれた根が姿を現す。先刻しゃがみ込んだ一瞬の内に、小太刀か何かで処理したのだろう。
「この根、何処に本体が有るんだ」
「おや、すぐに本体を叩こうとするとは、君も完全には忘れていない様だね。フフ……いや、何より」
「笑ってる場合かよ、本体の無い方にさっさと行くぞ。相手するだけ無駄だろこんな」
 一方で俺は姿勢も変えず、着物の裾を持ち上げてから足先に焔を宿した。
 魔力を通さない布地の足袋だけが、のうのうと焔の中で涼しい色をしている。履き口と合わせの隙間から、水が溢れる様にして零れる朱い灼熱。焼かれ始めた根は、灰になると同時に崩れた。
「流石は桐の下駄、一瞬の焔では点火すらせぬ」
「今の根は、すぐ燃えたな」
「ジュボッコ辺りかな?」
 さくさく草を掻き分け、俺の近くに寄って来たライドウが視線を流す。端から端まで見渡し、それだけでニタリと哂う唇。
「ほら、当たり」
 帽子の下、一瞬奴の眼が金色に光った。途端、駆けつつ抜刀する姿。僅か数秒の出来事だが、違和感は無い。
(元気な奴)
 自然と出た溜息を、自分で聴いて更に疲れた。俺は少し乱れた裾を整え、枯れ木に紛れたジュボッコをメッタ斬りにするライドウに接近していく。近寄りたい訳では無いが、放っておくとまた新しい獲物を探し始めそうで困るから。
「おい、もういいだろ」
「間違い探しの様だねえ、こうして樹林に潜まれると」
「追ってまで殺す事あったか? そんな雑魚、放置しといたって別に……」
 と、振り返ったライドウが片腕に何かを抱えていた。ふるふると震える毛玉みたいな、綿飴みたいな。
「兎か、それ」
「一匹だけ生き残っていた、ほら御覧」
 くい、と顎で示された先。倒木と化したジュボッコの枝に絡まる白骨は、小さな二体分。
 ああ、そうか……さっきの兎達だ。こんな小動物なら、あっという間に血肉は啜れるのか。
「あんた、そいつ助ける為に?」
「違うよ、こんなのは敵の落し物と同じさ、解かるかい? ドロップアイテムというやつだよ。しかし持ち運べる札や香ですら無い、そして邪魔になる」
 ぽい、と擬音がつきそうな調子で、その野兎を放ったライドウ。
「さっさと行き給え、君の抜け毛でコートがグレイになってしまいそうだよ」
 もさりと着地したその兎は、少しよたよたしつつ離れ……此方を一度振り返ると、脱兎といわんばかりに駆け出した。
「でもジュボッコと一緒には斬らなかったんだな」
「良い腕試しだ」
 実際、後ろから見たら刀でバッサリやっていた風に見えたのに。あの兎には、傷ひとつ付いていなかった。このサマナー、年々腕を上げている事が恐ろしい。先刻の索敵だって、イヌガミほどでは無いが見事なもので。このまま、俺があと数回産み直せば……完全な悪魔になるのではないだろうか。
「さて、暮れてきたねえ」
 ライドウは相変わらずの黒外套だが、旅行用の丈が長いやつ。そのいかにもなインバネスコートが、昨日の俺を安堵させていたというのに。
「旅館に戻りたい」
「しかし功刀君、此処は少しばかり遠いからねえ……少し休憩していこうか」
「休憩? ざけんなよ、草のベッドってか? ぺんぺん草の上で寝る気は無い、腰だって下ろしたくない」
「実は……この辺りにはねえ、良い旅館が在るのさ」
「は? 本当かよ、こんな辺鄙な所に?」
 馬鹿云え、と鼻で笑って前方を見た俺の視界に、何かが鎮座していた。それは、明らかに家屋。こぢんまりとしているが、廃屋とも違う雰囲気だ。
「おい、まさか」
「登山客を休憩させてくれる山小屋が、世の中には有るだろう? この平原は広いからね、似た様な小屋が存在しているのだよ」
「あんた、まさか其処アテにフラフラしてたのかよ」
「君だけ外で休むかい?」
「迷惑な奴」
「偶の客の来訪を、そういう住居の主は喜ぶものさ」
 扉をノックするライドウは、もうすっかり金色の眼をひっこめていた。その姿は、何処から見ても上品な美丈夫で……胎が脹らんでいなければ妊婦とも女性とも判らないであろう俺は、何やらいたたまれなかった。


「いんやあ、にしても色の白い娘っ子ですなあ」
「はあ」
「ほら見んさい、この婆と肌の違いが……ほほ、露草と枯れ枝の差だのう」
 意外と饒舌な老婆に、俺は先刻からどう返答して良いか分からず、げっそりしていた。まるで日本昔話だろ、こんな絵に描いた様な老婆。最初なんてダツエバかと思って、俺は殴る準備をしてしまった。後ろにひっつめた白髪が、顔の皺を更に目立たせている。
「お腹ん子は、もう名前を決めたんで?」
 ほら、こんな質問……困り果てるばかりだ。草臥れた茣蓙の上、俺は崩した足先の足袋を摘まんでは放し、気を揉んでいた。
「名前は夜≠ノするつもりに御座います」
 が、しかし。横からのとんでもない答えに、思わず口を挟みたくなる。
「何云って、あんた――」
「ははあヨル≠チてあの夜≠ナ? そら響きはええけんど、ちょっと辛気臭くねえですか」
 かっかっと笑って囲炉裏の火をいじる老婆に、俺は引き攣った。眉間にだけ、負けないくらいの皺を作って。
(この婆さんの返しもやばい、辛気臭いっておいおい、何か云うべきなのかこれ)
 ちらちらと隣を窺えば、当のライドウは平然としている。この男、そういえば忌名とか何とか云っていた気がするな、親から直接与えられた訳でも無いと。そう語っていたライドウの名前を、俺は契約の呪文として胎に刻まれているのだ。あのサマナーに怒りを覚えた事は多々有るが、名前自体に不快を感じた事は無い。
「……まあ、辛気臭いけど、妙に大層な名前にして名前負けするよりマシですから」
 何やら唐突に云ってしまったが、俺もたった今、この口に驚いた。これがフォローと思われても癪なので、自分とライドウに出された食器を盆に載せ、立ち上がる。
「ああ構わんでぇそんな、あんま動いたらかんで。お腹痛めちまいますえ」
「平気ですよ、産む直前まで動けますから。それに今回のが一人目って訳でも無いですから、勝手は分かります」
「ははぁ、もう数人目かえ? そうは見えんで、まだまだ若くてめんこいですわ」
「……はぁ、どうも」
 数人目だとか、平然と抜かす自分にも呆れるが……老婆のお世辞に対して、笑う余裕が有る訳でも無い。
 炊事場に逃げる様に向かえば、数種類の包丁が整然と並んでいる。大きな木の作業台は、少し老朽化しているのか色素沈着が見られた。
(砥いだばかりなのか)
 包丁の刃は、砥ぐと潤んだ艶を放つ。見慣れたその艶を確認しながら、囲炉裏の火が揺らぐ部屋に戻った。
「すまねえです」
「いえ……あの、ライ……主人は何処かに?」
「ええ、ちぃと薪を拾ってきて貰ってますわぁ。釜戸をもうちょいと使いますんでねぇ」
「そうですか」
 主人と云った瞬間、頬が嫌に火照った。未だにこんな関係、口にするのも恥ずかしい。用意された茣蓙に着座しようと、其処を跨いだ俺。すると老婆が手を翳し、俺の裾を掴んだ。
「待ってくだせえ、ちぃとせんべい布団だぎゃ、用意しときまんす」
「えっ、いいですそんな。本当に休憩だけで俺は良かったんです。食事まで世話になったのに、更に寝床を奪う訳には」
 よろよろと、俺の裾を掴みつつ立ち上がった老婆は、半分聴いていない。いや、聴こえていないのか?
 どちらにせよ、俺は正直これ以上厄介になりたくなかった。
「あの……」
「いやあ、こんな辺鄙な所でしょ? 若い衆と話す機会も、珍しいもんすからのお」
 窪んだ眼孔が、頬に暗い影を落としている。げっそりしている割に、俺の裾を掴む手はブレていない。この筋力が有れば、野生の獣を捌く事も可能か。
「包丁、色々持ってるんですね」
「んん? ああアレはぁ……動物バラすんに使うんすよぉ。この辺は猪なんかも居るけんね、虎バサミで昔はよう捕まえたもんで」
「料理のついでに砥いだんですか」
「んまぁそうです」
「……でも、さっきの料理に使うの、せいぜい二本でしょう」
 俺を放して離れ行く、曲がった腰がひくりと引き攣り、止まった。その老婆の白髪がかすめる細い背に、俺は更に問い詰める。
「この後、猪でも解体するんですか? 大きな出刃の……それこそ解体用かって刃物が、他にも数本並んでましたよね」
「……少し、婆の昔話を聴きますかえ」
 会話しつつ掛布団を畳み直した老婆が、俺を振り返りつつ遠くを見た。

 婆は若う頃、京の都の屋敷に、乳母としてお仕うしとりました。
 其処に産まれた姫様は、そりゃあとても可愛え御方で。
 しかし神も仏も無ぇ……病を持って産まれたから、先も永くは無いってぇ事です。
 おいたわしや、衰弱するばかりでぇ……そりゃあ口もきけねえ程で。
 婆は決心したのですわ、その姫様の幸せを祈って噂話に踊らされてみようと。
 そうして、自分の幼ぇ娘も家に残して……こうやって此の地で、老いさらばえてしもうたのですわ。

「噂話?」
「あるもんを喰わせれば、その不治の病も治るっちゅう噂でさぁ」
 老婆の語りは終わったのか、それとも続きが有るのか……やがて炊事場の暗がりに入って行くしわがれた気配、それを察知し続ける事に、俺は神経を削ぐ。
「一度は、手に入りそうだったんですわぁ……しかし、其れは婆が自分で喰らってしもうたのですわ」
「……どうして」
「恥ずかしゅうて、訳ぁ教えられませなんだ」
 姿より先に、ぬらりと光る艶が見えた。闇に光るのは、刃の艶と……悪魔らしい、発光する双眸。
「姫様を救うんは、身重の人間。胎児の生き胆が欲しいんす!」
 出刃包丁を両手に持った老婆、それほど動きは速くない。どちらかといえば鈍重なその攻撃に、俺は内心安堵しつつ脚運びをする。両刀は一見厄介だが、熟練が無ければ集中が分散するだけだ。普通の妊婦ではない俺だから、その程度の攻撃は恐怖対象にもならない。
 人間ばかりを相手にしてきたのだろう。砥がれたばかりの刃なのに、軌跡は酷くぬるい。身を捻りつつ後退を続ければ、背後に壁の気配。追い詰めたとばかりに、老婆の目が細まり光る。
「すぐに殺しゃあせんでな!」
 掠れた咆哮と共に、穿って来る対の包丁、下の角度から双肩を狙ったと思わしきその軌道。
 俺は即座に両腕を掲げ、尖らせた爪ごと指を壁に打ち付けた。ロッククライミングには場違いだが、そのまま身体を上に逃がす。落ちる前に、再び壁を抉って縋る。足袋の裏がざりざりと砂壁を削って、粉塵を舞わせた。
 ぐるりと反転した視界。下方の壁に包丁を呑まれた老婆と俺は、睨み合う形になる。
「お前さんっ、何ちゅう……」
「……残念ですが、俺からお望みの物は取れませんよ」
 ぐらん、と、俺の視界も身体も揺れた。片手を壁から離し、支えが減ったからだ。
「俺の中に居る胎児は、魂が無い。まだ、胎の中で死んでる」
 老婆が壁から包丁を抜くよりも、速く薙いだ。
「純粋な妊婦じゃないですからね、俺」
 アイアンクロウの圧で、自らの身体も弾んで跳んだ。茣蓙を踏み締めながら着地し、体勢を立て直す。
 一方、包丁を掴んだ腕をあらぬ方向へとぶらんぶらん垂らし、腰辺りまでを数枚下ろしにされた老婆が、ヤジロベエの様に左右に揺れている。
「おや、案外即断したものだね」
 ガラガラと、呑気に扉を開けて入って来るライドウ。俺はようやく息を吐いて、綺麗な方の手で着物の衿を直した。
「あんた、わざと俺とこの婆さんを二人きりにしたな」
「悪魔と判れば、放っておいても君が処理するだろうと思ってね」
 ぐらつく老婆の腕から包丁を取り上げ、ライドウはせせら哂う。
「これは良い感じの呪具になりそうだね、今まで多くの血を啜っている」
「趣味悪い」
 包丁を奪われバランスが崩れたのか、老婆だった生き物がべしゃりと倒壊した。
 まだ燃えている囲炉裏の火が断面を照らし、更に赤色を増す。
「君は《黒塚》も知らないのかい」
「知らない」
「では、次の休日には観に行こうか。多少の違いはあれど、たった今の出来事と同じ、鬼女物さ」
 観に行くという事は、恐らく能の演目にでも有る伝承なのだろう。
 鬼女……今の老婆は悪魔と同じ。たった今殺した他にも、各地に存在しているのかもしれない。同じ顔や記憶を共有する悪魔は、山ほど見てきた。このデビルサマナーと長年連れ添うと、自分が妖怪絵巻の中に閉じ込められた気分になる。
「しかし人の形をした老人だった訳だが、君も景気良くバッサリとやったものだねえ」
「ダツエバみたいなもんだろ。それに……この元人間が、自分の欲求の為に人間襲う悪魔だって事は、理解してからやった」
「フフ……そんなにしてまで僕の事、護りたかったのかい?」
 ニタリと唇を吊り上げ、俺の胎を着物越しに撫でてくるライドウ。しかも、掌ではなく包丁の肌で。
「自惚れるな、胎捌かれるなんざ御免だからに決まってる」
「黒塚の老婆はね、一度は胎児の生き胆を手に入れたのだよ」
「ああ、そういえば云ってたな」
 包丁を持つ手を押し退けつつ、俺は炊事場に向かった。大きな作業台を見つめていれば、背後からライドウがしつこく語って来る。
「しかし、その胎児の生き胆を己で喰らってしまった」
「何だよ、元からいかれてる食人鬼だったんじゃないかそれ」
「胎を捌いた後で、妊婦の身に着けていた御守りに気付いてねえ」
「どういう事だ」
「記憶の中の幼い我が子に、渡した御守りだったのさ」
 死んでいる筈の中身が、目の前のライドウと共鳴して哂っている気がする。
 俺は胸糞悪い話の展開に、老婆を引き裂いた手を早く洗いたくなった。
「殺した妊婦は成長した娘だったのさ、どうだい面白い因果だろう?」
「全然」
「それ以来、精神に異常を来した老婆は鬼女となり、旅人の肉や肝を喰らう様になったとさ」
 土足のライドウが作業台の板を蹴り、引っ繰り返す。現れたのは、死屍累々と詰められた白骨達。床下収納……どうりで近くを通った際、妙な気に中てられた訳だ。
「ハハ、ほら功刀君御覧よ、トゥルダクのひとつでも混じって居そうだ」
「もう見たくない、腹いっぱいだ、さっさと帰りたい」
「確かに、君の胎はいっぱいだね」
「ふざけてないで帰るぞ、もう用事は済んだって事だろ」
 隣でニタリとまた哂うライドウに、俺は溜息しか出ない。
「これで、此処一帯の力関係はまた変わる」
「何処かに依頼でもされたのか」
「いいや、しかし堅気の人間が襲われてばかりだと、不公平だろう?」
「あんた観光ついでに遊びたかっただけだろ」
「良いマヨヒガだったろう? 妊婦にしか反応せぬ悪魔を炙りだすには、今の君が好都合だった……そういう事さ」
 ああ、馬鹿だ。一瞬でも家族サービスかと思って、浮かれた昨日の俺を殴りたい。
「そういえば、美味しかったねえ、兎の肉」
「ああ……あれ兎の肉だったのか。そうだな、食事は普通の喰わせてくれたなあの婆さ――」
 と、俺は引っ掛かりを感じて立ち止まる。一足先に外に出たライドウが、振り返って首でも傾げそうな調子で哂った。
 嫌な予感に、思わず訊いてしまう俺も馬鹿だ。
「その兎って、あんたがジュボッコから助けた……」
「さあ? どうだろうねえ」
「もしかして、とか思わなかったのかよあんた」
「それならば、君も大人しくあの老婆に身を捧げれば良かったではないか。慈しみの心で延命させてやらなかったのは、何故だい?」
「殺される気は無い」
「皆そう思って相手を喰らうのさ」


 外は既に星空だった。ライドウのコートが靡いて、空気に融け込む。
 まだ少し冷えるという事が、悪魔の身でも分かる。虫の声も少なく、星も遠いから。
 人間の記憶が強いあの老婆も、だからあんなに囲炉裏の火を強めていたのだ。
「あんた、やっぱり底意地悪いよな」
「万が一、君が鬼女に捌かれていても大ハズレ〜≠ニ笑ってやれたのにねえ。いやはや今思えば、それも面白かったかな」
「何がハズレだふざけんな、俺の身体が捌かれている事を痛めよ」
「だって君は再生するし、胎の中身だってまた作れば済む事だろう?」
 あまりに簡単に云うので、俺が堪らず言葉を失った。いくら魂が宿っていないからといって、この男、本当に……
 自分の事を誇る癖に、大事にしないんだ。もう何十年も、そこだけは本当に変わらない。
「……あのな、確かにこいつ≠ヘまだ死んでるけど、本当に死体扱いになるのは気分悪い」
 さくさくと、足元の草が裾を引っ掻く音だけ。ライドウの横槍も入らないので、俺は仕方なく言葉を続ける。
「いずれのあんたに生るんだ、もう少し丁重に扱え」
 絞り出す様に云えば、反応が無く。それが却って俺の背筋を凍らせ、頬を火照らせる。
(何か云えよ、馬鹿)
 そうして脳内で呪い続けること数時間、ようやく旅館が見えてきてた。
 寝床が確保出来た安堵に、大きく息を吐いた俺。ロビーを通過し、上品な板目の廊下を踏み歩いて更に安堵する。
 そう、これが旅行だ。普通の旅館で、普通に郷土料理食って、普通に露天風呂浴びて、既に敷かれた布団で寝る。
 たったそれだけが、どうして出来ない?


「ほら、丁重に扱っているではないか」
 俺を下から揺さぶる男が、悪びれた色を一切滲ませずに云い放つ。
「どこ、が」
「胎に負荷は掛かっていない筈だけど?」
「そういう、問題じゃ……っ、う、ぁ」
 まさかと思っていた事が、当たり前の様に行使される。膨れた胎は、突き上げられる度にライドウの硬い腹を圧迫する。
「重く、無いの、かよっ」
「魂の重さ、21グラムと云われる話、知ってるかい、っ」
「んだよっ、こんな時、に」
「ク、クッ……つまり、21グラム分は軽い≠じゃあないのかい」
 ライドウはひとしきり中で暴れて気が済んだのか、横にくたりと倒される俺。抜けていく熱に一瞬息を引き攣らせたが、確かにこれは胎に負荷の掛からない体勢……いつも嘘は無い。だから堂々と憚れるのか、この鬼畜。
「しかしね、それが本当に魂の重さだとすれば、二元論が世を圧倒する訳だよ」
 今度は、包丁ではなく掌が触れてきた。
 俺の胎を撫でている、愛おしさはあまり無い。多分、手が遊びたいだけなんだろう。
「その研究は一応科学的調査による結果、なのに、唯物論を崩壊させかねない。ね? 自爆だ、お笑いだろう?」
「意味が解からない」
「精神と物質が生まれるのは、どちらが先かという事」
「はぁ……卵が先か鶏が先かって事か?」
「フフ、それではまるで今の僕じゃあないか」
 胎を撫でていた手が、少しだけしっとり密着した。ああ、何となく解かった。どちらが先も何も、無いんだ……
「あんた、オカルトと科学が喧嘩してるの、好きだよな」
「愉しいだろう?」
「難しい事はいいから、さっさと出して終わらせろよ」
「相変わらずお強請りが下手だね」
「だって強請って無い、早く終わらせて寝かせてくれって云ってるんだ」
「では君の喘ぎでも聴かせてやるかね、まだ精神の宿らぬ僕に」
 とんでもなく悪趣味な事を云って、再び俺を跨らせる。
「はぁ……んと、悪趣味な野郎……っ」

 俺もさっさとひり出して、楽になりたかった。
 あんたを胎に抱えているこの時期は、何が何でも死ねないと、身体が緊張してしょうがない。
 あの老婆が悪魔なら、今の俺も間違いなく悪魔で、鬼女なんだろう。
 揺さぶられながらぼやけた脳裏で、生きる為に殺す包丁を砥ぐ妄想をして。
 その砥ぎ音が絶え間無く、甲高くなってきて……
 いつの間にか達していた。


-了-


* あとがき*
2013年に拍手御礼SSとして掲載されていたものを発掘、ログにも載せていなかった模様。内容が《帳》本編以降だった為、こちらに掲載。これは劇中にも出てきた「黒塚」を元ネタに書いております。どちらかといえば福島県二本松市の伝説寄りで、夜が云う能の演目≠ナある黒塚(四・五番目物、鬼女物)は少し内容が違ってきます。安達ケ原と言った方が世間的には知られているかも?
(参考:http://www.kanshou.com/003/butai/adachi.htm)
当時、身重の矢代がアクシデントに見舞われる、という話を書きたかったのだと思います。容器としての存在ではあるものの、次代の夜には変わりないので「丁重に扱え」と胎の中身を大事にするのでした。