睡狂



 暗い洞が二つ、俺をじっと睨んでいた。
 赤黒い雫をだらだら垂れ流す獣、いくらか呻き、呼応して蔵が軋む。
「早く……」
 俺は抉り抜いた目玉を地面に打ち捨て、脇に蹴飛ばした。
 シトリの眉間を鷲掴み、豹の形の耳に吠える。
「早く俺を女にしろっ」
 妙にもたつく悪魔め、何故今日に限って食い下がる。俺の焦りを見てこれは好都合≠ニ、弄んでいるのか。命を掌握される分際で、俺の人生を狂わせた分際で、悪魔の分際で。
『グ、グフフッ……気分ジャナイナア』
 のたまい、金属を鳴らす獣。空っぽの両目が俺を馬鹿にしている様に見え、更に血が沸騰した。
「貴方の気分は関係無い」
 拘束具の干渉で爛れた皮膚を、爪先で踏みつける。体液で固まった体毛ごと、表皮がずるりと剥けた、と同時に咆哮するシトリ。抉れた肉は、粘着質な輝きを放っている。悪魔の顕在要素であるMAGが反応して、どんな暗闇でも傷口だけは鮮明に視える。そして、俺の脚を迸る斑紋も……嫌に明滅している。
『モットMAGヲ寄越セ』
「普段以上の要求は呑めません」
『魔術ハ精神集中ガ要。気乗リセン時ニ実行サセルハ、相応ノ対価ガ欲シイトコロダ』
 何を粘ってやがるこいつ。貯蔵してあるMAG含有の酒は、既に大量に与えた。最後の何瓶かは脳天に叩きつけて、雨の様に浴びせてやったのに。まだ何か欲しいのか、十分潤った筈だろう。
 ああ、こんな時……あいつならどうしたんだ。聞き分けの悪い悪魔に対し、どうしたらさっさと服従させられるのか。
(聞き分けの悪い?)
 寧ろ、俺があいつによく云われてた気がする。思い返せばむしゃくしゃしてきた、今の状況と相俟って納得いかない。
『ソウダナァ、貴様ノMAGヲ舐メサセロ、人修羅』
 追い打ちの様に、シトリの提示が俺を煽った。
「誰が……下賤な悪魔に」
『デハ、俺ノ気分ガ乗ルマデ……何時間、何日、何年デモ、待チ惚ケテイルガ良イ』
 万がいち死なせても、蘇生させる事は可能だった筈。だが、そんな悠長な事はしてられない、事情が控えている。一発ぶち殺してやりたい気持ちを抑えつつ、俺はシトリの鼻先に屈み込んだ。
「さっさと済ませて下さい」
 俺の言葉を押し退ける牙が、気遣いも無く食い込んで。まだ衿も下ろしていなかったのに、おかげで着物に穴が開いてしまった、このケダモノめ。
「……っグ、ぅ」
 前脚が胸を圧迫してくる、太い爪が肌を掻いて赤線を残す。吸われるに任せれば、背中に地面が触れた。埃っぽい土の臭いと、悪魔の吐息が煙たい。
『フッフッ、ガフッ……フゥッ』
 首筋を這う舌は、まるで紙ヤスリの様だ。ヒリつく其処を重ね重ね舐られ、堪らず喘いだ。
 俺は眼を閉じて終わりを待つ。獣に圧し掛かられることは耐え難い、未だに鮮明に蘇る記憶のせいだ。
『美味イ、美味イナ、極上ダ!』
「黙って済ませてくれませんか」
『グフフ……人間モドキノ貴様ニ、御誂エ向キノ姿デ、ヤッテヤロウカ?』
 身体にかかる重心が変動し、食い込む爪が引っ込んだ感触。シトリの不穏な言葉に釣られ、思わず瞼を上げた。
「なっ」
 反射的に肘で後ずさると、肩を抱き寄せられた。そう、人の腕で。
 ああそうだ、この悪魔はヒトの姿で現れ、人間を誑かすとか聞いた事がある。確かに今、目の前に居るのは宗教画にでも出てきそうな青年だ。背中に鷹の翼が残ったままで、シルエットだけなら天使じみている。
『痛イダケデハ苦シカロウ、フッフ……』
 獣の時と同じ声で、顔を近付けてきた。体毛と同じ赤茶のブロンドが、頬をかすめる。
「や、やめろっ!」
 唇が触れる寸前、殴り飛ばして事なきを得た。人の顔をしているから、手加減してしまった……いや、丁度良かったかもしれない、そうでもなければ頭を砕いていた。
 体躯に応じて締める拘束具が、シトリを繋ぎ留めていた。奴はよろよろと上体を起こすと、裸の筋肉と翼を震わせ……笑ってやがった。俯き垂れる髪の隙間から、ぽっかりと空いた洞が俺を見ている。
『アア、女体ガ好ミダッタカ?』
「……これ以上ふざけた真似をすれば、用の無い時も四六時中、生かさず殺さず、貴方を拷問します」
『コレハコレハ恐ロシイ』
 おどけつつも観念したのか、首を鳴らしてひとつ唸ると、みるみるうちに獣に戻ったシトリ。術の準備か、呼吸を正している。
 俺は着物の砂埃を掃い、ゆっくり立ち上がる。ぼうっとシトリを見下ろしつつ、先刻の景色を思い出して、軽く身震いした。見知らぬ野郎に抱かれるなんざ反吐が出る……俺に対してヒトの形であれば何でも良い≠ニ思っているのなら、コイツはとんだ勘違い野郎だ。
 
 
「おいおいおい、ちぃと待てッ」
 こっちは急いでいるのに、義経に水路の橋を遮られた。髪は相変わらず後ろで束ね、甚平袖を捲り上げている。多分、水路の緑を整えていたのだろう、蛍の為にと甲斐甲斐しい悪魔だから。
「退け九郎」
「お前さん、なんつう恰好してんだよ……ちょい、こっち来いって、何か羽織るモン──」
「放せっ」
 揉み合いつつ橋を渡れば、向こうから歩いてくるアルラウネが「あらっ」と声を上げた。
「やーね九郎さん、人妻に手を出しちゃって」
「違わいっ! こいつ、こんな恰好でほっつき歩いてて……一体何かと、俺様は心配してだなぁ」
「ほんと、随分大胆なスタイルね」
 派手なピンクのワンピースを纏うアルラウネ、彼女の視線が俺の胸元を、いばらの棘みたいに刺す。
 自らを見下ろせば……ズタズタになった着物はまるで絽のよう、衿は肩からずり落ちていた。女性体になったというのに、大して膨らんでもいない胸も露わで。視覚いっぱいにそれらが納まった途端、ぞわぞわと羞恥が襲ってきた。云い訳しようにも説明が出てこない、余計な世話を焼かれたくない、不安を口にしたくない、あいつの名前を出したくない。
 と、アルラウネがおもむろにストールをくるりと剥いで、俺の肩にさらりと置いた。衿ごとざっくり、整えられる。
「それ、貸してあげる」
「……どうも」
「お返し楽しみにしてるわ、ンフフ」
 肌に触れる感覚で判る、このストールは魔具だ……おそらく擬態補助の役割を担っている。目の前のアルラウネが、袖から裾から薔薇の花を咲かせ始めたので確信した。中途半端に術の解けた姿は、歩く花壇の様だ。
「潔癖の筈なのにおかしいわねえ、この里だからって油断してた? 九郎みたいなのが居るから、目の毒は作っちゃダメよ」
「だぁから、そんなつもりじゃねえ! おい、本当に大丈夫か矢代サマ? 何かあったら呼べよ、今は旦那も居ねえし」
 義経の言葉に、一瞬だけ精神が揺らぐ。今この場に、イヌガミが居なくて良かった。
 脳裏に浮かぶのは意識の中の幕≠セ。悟られたくない部分だけ、隙間風に煽られ、めくれ易い。読心術の得意な奴は、その衣擦れさえも聴き分け、癖でついつい読んでしまうらしい。
「云われなくても、面倒事が有れば呼ぶ」
「おう、頼りにしてくれ。それとな、もっとゆっくり歩いてけよ、転けて突っ伏したら更にまな板になっちまう」
 心配と揶揄を同時にぶちまける義経を横目に、アルラウネが乾いた笑いを浮かべている。
 俺は一歩二歩後退し、踵を返す。悪魔の気配も、せせらぎも遠のいていく。畦道に点々と曼殊沙華が現れ、次第に増し、溢れかえる。獣道の様に割れた紅い路、其処を辿って庭に入った。いつものあいつを棚に上げて、縁側に上がって。爪先で放った下駄が、背後で乾いた音を立てた。渡り廊下に影を落とす柳が、床板に模様を描く。薄暗い離れの中、障子を幾度か開いては閉め、開いては閉め。
『人修羅殿』
 ひとつ手前にネビロスが居た、フードをすっぽり被って相変わらず表情が見えない。表に居ない事もあってか、擬態もしていない。
「容態は」
『今、戦うのは難しいかと。治癒するまでは、かなりかかります。ま……正直替えた&が早いでしょう』
 簡単に云ってのける悪魔、人間には不可能なソレを。
『安静時期に此処を襲撃されては、下里の者達へ指令を出すのも危うい。人修羅殿、貴方も前線に立たなくなり暫く、不要な戦闘は避けるべきだ』
「……出来れば外で見張っててください、暫く俺とあいつだけになりたい」
 何か云いかけ止めたネビロス、数時間前と俺の身体が違っている事に言及したいのだろう。それを無視して、俺は最後の障子を開けた。
 
 
 しんと冷え切った空気、一気に雑音や気配が減る。正方形の部屋、四隅の行燈が薄く照らすだけの寝台。息をひそめて近付き、横たわる男を見下ろす。真白い掛け布に一瞬ぞわりとするが、それが顔まで被さっていないので安堵した。長い睫毛を伏せ大人しくしているこいつは、文句無しに綺麗な顔をしている、もう何十年も変わらず。
「夜」
 起こさぬ様に、それでいて気付かれる程度に、名を囁いた。ゆっくりと浮かび上がる、遠くに見える細い月の様な、金色。俺の眼が映り込んでいるのかと錯覚した、これは夜の眼だ。
「聴こえている」
「身体、マトモに動くのか?」
「問題無いが、動かすほどに回復は遅れるだろうね。まったく、君よりも自己再生能力に乏しい事が分かってしまったよ」
 自嘲気味な夜、あまり視線を合わせてこない。再生云々よりも、手負いとなった事が悔しいのだろう。他の連中に悟られない様に、ひっそり帰宅したくらいだ、この見栄っ張りめ。
 ネビロスとパールヴァティは詳細を聴いたそうだが、どうして伴侶である俺には教えてくれない。
「云えよ、何処の悪魔にやられた」
「フフ……秘密」
「今後の警戒の為にも、俺は知る権利が有るだろ」
「功刀君、ひとまず殺気を消してくれ給え、中てられると治癒に響くのだよ」
 納得出来ないが、指摘も最もだ。くそ、これだから俺には明かすなという事だろう、この男を傷付けた悪魔を想像するだけで……息苦しくなる、全身の斑紋がヒリつき肌を締め、唸り声が零れそうになる。一瞬で焼いて堪るか、後悔の色を見せるまで炭化させないでやる。
「全然消えてないよ君」
「おいっ……今からヤるぞ」
「は?」
「あんたの新しい身体をさっさと作るって云ってんだよ!」
 掛けられた布を引き剥がすと、白い単を纏う肢体が露わになった。警戒によじる片脚は、更に布が巻かれていた。おそらく欠損している、他にも数か所、大胆な縫い痕が見え隠れする。
「僕が動けるまで、待ても出来ないのかね君は」
「俺が欲求不満みたいな云い方してんじゃねえよ、寧ろあんたの尻拭いだ」
「ああそうだねえ、まだ少し不自由だし、君に尻穴まで拭いてもらおうかね」
「下品、人が気遣ってやればヘラヘラしやがって……」
 意を決して俺から示したのに、最低だなこいつ。まあでも、これがいつもの調子というか、この男のノリだから……俺もその方が、安定して居られる。そうだ、そうに違いない。
「帰ってから補充してないだろ。足りてないだろうから……少しだけ分けてやる」
 寝台の横から屈み込み、夜の唇を開こうとした。先に理由を述べた事で、少しだけ恥じらいは払拭出来る。他から奪うのが下手な俺が、わざわざ譲渡してやるのだから、これこそ感謝して欲しい。
「いっ、ぅぐ」
 MAGを流し込むより先に、喉が絞まった。揺れる視界で確認出来た夜、目が据わっている。俺の喉にかけられた片手、指の傷も治りきっていないのに……
「臭いな君」
「……んだ、と」
「何とじゃれ合ったのかね」
 ぐいと放され、自らのMAGを舌上で転がしながら咽た。
「っ、は、はあっ、はあ……シ、シトリ……に」
「対価は貯蔵してあった筈だが」
「散々くれてやった……それでも云う事聞かなかったんだ」
「だからと君は、己を吸わせたのかい、短絡的だね、ちゃんと交渉したの?」
 あんたの為、とでも云えば良いのか、それこそ火に油を注ぎそうだ。自分が原因で俺が弄ばれただなんて、色んな意味でプライドが許さないだろう。じゃあ俺は、このまま黙って責められるべきなのか?
「ざっ……けんなよてめえ!」
 そんな訳あるか。
「誰が何の為に、即行で女になって来たと思ってんだ! 喧嘩に負け帰ってきた伴侶の尻拭いの為だっつってんだろうが!」
 怒鳴りつつ寝台に乗り上げ、馬乗りになってやった。流石に痛いのか、一瞬だけ顔をしかめた夜、もうお構いなしだ。
「悪魔の血が入ったからって調子乗り過ぎなんだよ! なんでもかんでも再生するとか思ってんじゃねえだろうな、だから俺に滅茶苦茶な事してたんじゃないのかおい、云ってみやがれ!」
「……ククッ、その通りだねえ。流石は僕より先輩の化物」
 返事の真意は定かでない、不敵な笑みに苛立ちが含まれていようと、こいつはやはり冷静だ。熱源に冷水がぶちまけられる様に、濛々と俺は煽られる。頭では理解している、こんな応酬、何度も繰り返してきたのに。
「……あんたはその化物に生かされてるんだ、感謝しやがれ」
 否定はせず、そのまま鏡写しにした。どっちが先に相手の命綱になったのか、もう憶えていない、ボルテクスの頃から既に不明瞭だった気がする。
 夜はじっと俺を見据えていたが、やがてぽつりと零した。
「僕の身体を清めるにあたり用意された薬湯がそのままだ、軽く浴びてき給え。その獣臭さは堪え難い、気が散る」
 命令に高圧的なものは無く、どちらかといえば懇願にも感じた。ダメージで弱っているこいつを見て、俺が勝手に錯覚しているのかもしれない。一瞬頭が冷えた途端、吐き気が込み上げてきた。意識すれば、確かに獣臭い。
「…………分かった」
 今度は出来るだけ負荷をかけないように、ゆっくり降りた。さっと部屋を抜け、渡り廊下まで行けばネビロスと目が合う。
『何か』
「薬湯ってまだ流してませんよね」
『ええ多分。あの傷では浸かる事もさせぬでしょうし、湯は濁りもない筈、お入り頂けますかと……パールを呼びますか?』
 抱えた憤りを、ぶちまけてしまいたい気持ちに駆られた。パールヴァティは比較的話し易い、穏やかに聴いてくれる割に、辛辣な意見を出す彼女が丁度良い。俺も加熱し過ぎないし、多少は留飲も下がる。
「いえ、結構です……」
 でも断った、あれから臭いが気になってしょうがない。女性体の時は背中を流してもらう事も厭わないが、今はやっぱり駄目だ。義経とアルラウネも気付いていたのだろうか、じゃあ目の前に居るネビロスは?
 何やらいたたまれなくなり、脱兎の如く脱衣所へ向かった。琺瑯の洗面台で胃液を吐いてから、何度も口を濯いで、落ち着くまで深呼吸を繰り返す。
(そうだ、ストール)
 レース編みで施された幾何学文様は、まじないの一部だろう。持ち主を象徴するかの様に、端の処理は薔薇モチーフだ。これだけは汚してはいけない、借り物だから。
 肩から外して軽く畳み、小物用の籠に入れた。手洗いして返そう、そういえばお返し≠ニやらを期待してたな……別でくれてやる必要が有るって事か。いっそMAGで良くないかと思った矢先、夜の言葉が甦った。
「誰が短絡的だ!」
 ボロボロになった着物を脱ぎ捨て、脱衣籠へ突っ込んだ。体形変化のせいで部分的に緩んでいた下着も、丸めて投げつける。硝子扉をスライドさせ、浴室へ入る。
『それは勿論、矢代様ですわー』
 両掌を頬に添えたパールヴァティを見た瞬間、中途半端に濡れた床板で滑った。思い切り臀部を強打して、食い縛った奥歯を砕きそうになる。
「どうして此処に居るんですか!」
『お清めの為に、常に新しい薬湯を維持しなくてはならないでしょう? 薬草の種類ごと、量が均等になるよう、此処で処理しておりました』
 女神は開放されたテラス窓の向こうへ行くと、籐の椅子に腰かけた。ウッドデッキに草花の山を作り、それを指差しでヒョイヒョイと飛ばして、複数置かれた麻袋の上に寄り分けている。
『一週間だって、一年だって、十年分だって用意しましてよ、ふふ』
「あの、そんなに長い療養必要無いですよ、あいつ」
『帰着された際、ディアラマを幾度かに分け施しました。血を流して拭う際も、悲鳴ひとつ上げないんですのよ』
「内部はかなり再生してるみたいでしたよ。なんだかんだ、表面が一番くっつきづらい……固まった様に見えて、内側とくっついていない事が多い」
 シャワーを頭から思い切り浴び、ささっと石鹸で洗髪、続けて首から肩まで念入りに撫でた。やんわり膨れた胸は、どれだけ経っても違和感が有る。
『お背中流しましょうか?』
「……ああ、頼みます」
 女神の声に促され、檜の椅子に腰かけた。柔らかなブラシが、背をのんびりと往復する。泡が肌の端に留まって時折はじける感触、まろんだ空気。この状況でいつも、遠い記憶の母親を思い出す。そう、本当に遠くなってしまった……
『十四代目の下肢が無事で、なによりですね』
 悪気も無いパールヴァティに、思わず鼻で笑った。
「目測誤って死なれても困ります」
『魔物に成ってからの経験は、矢代様より浅いですもの。何処まで無理が利くのか、未だ判らないのかもしれませんわ』
「そんなの……最初から無茶するなって話です」
『あの御方、昔から頑張り過ぎ≠ネきらいは有りましたが……やっぱり、夫婦は似通ってくると云いうだけありますわ』
「はい?」
 思わず振り向けば、ざあっとシャワーで流された。
『今はちょうど、湯冷めしない温度ですわ、さあどうぞ』
「あいつ、一体何処の誰にやられたんです」
『私とネビロスしか知らぬ事を、簡単に洩らしてしまえと? 矢代様も人が悪いですわ……ふふっ』
 人じゃないし、と一ミリだけ思い自己嫌悪した。それにしても、この蚊帳の外っぷりは、いつぞやを思い出して気分が悪い。ふらりと消える直前まで、俺に黙ってたもんなあの男。
 檜の浴槽に脚をひと差し、薬草の香りを感じながら身を沈めた。近場の源泉から引っ張ってきた温泉に加水している拘りようで、イッポンダタラの技が冴える。テラス窓は閉め切っていても庭園が見えるので閉塞感も無く、天井近くのはめ殺し窓はステンドグラス、最早ちょっとした旅館レベルだ。
『落ち着きました?』
 湯上りの俺に問い掛ける女神、いいなりの様に身体を拭いてもらう。自分で洗濯したバスタオルは、やはり抜群の肌あたりだ。
「この後、また苛々しそうで気が重い」
『流石の十四代目も、手負いの今は激しくないでしょう?』
「手が出ない分、口が出ると思いますよ」
 既に用意された浴衣から香の匂いがする、白檀だ……これなら文句無いだろ、むしろ何のアピールだ。考え始めたらこの後、顔を合わせづらい。
「もう行きます」
『あらっ、矢代様──』
 女神の声にも立ち止まらず、帯を雑に結びながら廊下に出た。先刻ネビロスの居た場所は、代わりに人形が鎮座している、今は別の場所を見ているのだろう。
 
 
(変に間を空けたせいで、気恥ずかしい)
 障子で区切られた空間を一層、また一層と進むにつれ、自分の吐いた言葉が胸をギリギリ締めつける。何故さっき、強行に出てしまったのか。他の悪魔から提案されたのだと云って器を作るか否か%zに選択させれば良かったじゃないか。ああ今回は本当にミスった、きっとこの先何十年間、ネタかオカズにされるに違いない。
 気付けば目の前には、最後の障子。此処に突っ立ってる事なんて、気配でバレているだろう。部屋に入ったら、淡々と続きをすれば良いだけ、そう、まずはMAGを分けてやるところから…………よし。
 障子をスライドさせた途端、視界が真白になった。咄嗟に右腕で庇えば、足下にぼてりと落ちた飛来物。何かと思えば、枕だ。
「遅いよ君」
 寝台の上で片肘ついて、切長な眼で煌々と睨んできた。
 俺は反射的に枕を掴み上げ、力の限り投げつけた。いっそ煉瓦なら良かったのに、枕は柔くも鈍い音を立て、キャッチされた。
「あんたの要望通り綺麗にしたんだぞ、随分な歓迎だな」
「大した凹凸も無いのに、何をそんな丹念に洗ってたのやら」
 床板をぎっぎと鳴らして、怒気も隠さず近付いた。続きをするんだ、淡々と、そう、まずは……
「一発殴らせろ」
 重心を下げ、半身から捻り出すよう拳を繰り出す。ばすんと温い手応え、枕でガードされた。埋まる拳を抜く事で遅れたか、既にもう片方の腕を掴まれている。寝台側に引き摺りこまれるが、抵抗せずに身体を委ね、受け身をとる。背中から叩きつけられると同時に、夜が圧し掛かってきた。
「一発ヤるのではなく?」
「自分が欲しければ俺を丁重に抱け」
「丁寧な仕事は身体状況に依存する、ほら御覧よ」
 夜は俺の肩口に寄り添い、右脚をすらりと上げ、巻かれた布をするりと解く。剥き出しになった欠損箇所は、厳かに息衝いているかの様だ。血の滴りは無いが、僅かな明かりに白骨が潤んで見える。
「見せなくていいし、ぶらぶらさせるな」
「抉れた程度で良かったよ、分断されては杖のひとつも欲しくなる」
「オボログルマでも乗れば良かったじゃないか」
「そんな事しては帰還が目立つだろう」
「長い付き合いの仲魔なら、あんただってたまにヘマする事くらい知ってるだろ」
「世話を焼かせる対象は少ない方が好都合なのでね」
「俺の負担がでかすぎる……」
 項にちくりと障るモミアゲ、直後ひんやりと触る舌先。襟足の決まった位置をつつかれ、俺は溜息と共に擬態を解いた、そういう合図なのだ。そう、この黒い突起が邪魔だから……個人的には擬態したままの方が、やり易いのに。
「そういう事だから君、分かっているだろう。僕から動く気は無いよ」
 悪びれもせず云い放つ夜。仰向けになり、すっかり丸投げの体だ。俺はその、上がった口角の唇を軽く啄ばみ、反撃されない事を確認しつつ舐め、ゆっくり舌を挿し入れた。意識を集中して、出来るだけ純度の高い魔力を、生体エネルギーを流し込む。
(確かに、全然向こうから返してこない)
 普段はこっちの呼吸なんかお構いなしで、いいやそれどころか息を奪うかの様に舐ってくるのに。だからといって、俺からしつこくしてやる義理も無い。こうして一方的に注ぐ事は珍しいので、うまく調節出来ずに咽た。
「君は燃費が悪いのだから、少しは考えて落としてくれ給え」
「貰っておいて何だその云い方……礼も云えないのかよ」
「僕が与えた時、君はいつも感謝を述べたかね?」
 云われてみれば契約関係にあるから当然≠ュらいに思っていたから、感謝を表した記憶が無い。MAGを与えらえた際には、いつもどうしてたっけ、確か「美味しい」だとか、感想ならつぶやいた気はする。
(あのケダモノと同じ反応じゃないか)
 シトリを思い出し、また吐き気が込み上げる。口元を抑え、シーツの白をじっと見つめていれば、夜が隣から「悪阻には早くないかね」とか云ってきた、このクソ野郎。
「今のでそれくらい回復しないのかよ、本当に再生遅いな」
「君のMAGが治癒促進に値しないのかもね」
「あのなあ……」
 これ以上怒らせると本当にこのまま放置するぞ。そう云おうとした矢先、口元の手を掴まれ誘導される。死装束みたいな着物の股座……反する様な生々しさで、屹立している其処。
「此方は十分促進されたみたいだよ? ククッ」
「は……」
 恥ずかしい奴、破廉恥野郎、次々に言葉が浮かんでは消えたが、手間が省けたという思いが侮蔑を帳消しにした。もし何をやっても勃たなかったらどうしようと、不安があったから。
「僕の上に跨っておくれよ、早く」
「云われなくても……それしかないだろ」
 よろよろと上体を起こし、ゆっくり夜を跨いだ。思えばこの男、初夜で俺の骨を舐めしゃぶったよな……同じ事をしてやろうか一瞬迷ったが、それで快を得る自信も無いので止めた。そうだ、俺はこいつと違って猟奇趣味も、嗜虐趣味も無いんだ。
 欠損している膝下に気を付けつつ腰を落とせば、ちょうど挟む∴ハ置になった。夜の着物が局部に擦れて、やや刺激が強い。其処で違和感の正体に気付く、俺はいつ下着を脱いだ?
「綺麗にしてこいとは云ったが、ノーパンには恐れ入ったね」
「おい違うっ、わざとじゃない、その……忘れただけで」
 合点がいった、脱衣所で女神が引き留めてきたのは、恐らく穿き忘れ≠ノ関してだ。
「君、普段からその調子なのかい。僕の留守中、全裸で過ごしてるのでは?」
「そんな訳あるか! 待たせてると思って、これでも急いだ……うっかりしただけだ」
「煩わせたくない一心が有るのなら、そのまますべて脱いで」
 有無をいわさぬ欲求。
「僕の眼から視線を逸らすでないよ」
 こんなの羞恥プレイだ、見てくれといわんばかりの振舞いを強制している時点で。そうと解っているからこそ、ゆっくり脱いでやるものか。帯をぐいぐいと乱雑に解き、衿をがばりと開いては腕を抜き、背後に放った。
「君は力士かレスラーかい」
「煩い、俺に動けっていうのなら、黙ってろ」
「さて、本当に沈黙を望むのかね……フフ」
 それは悪手ではないか、と確認してくるあたり、まだマシな方だ。こういう時、今一度考えてみる。そう……確かに、ずっと沈黙されていては困る。ああしろこうしろと、多少扇動して貰った方が、気が楽だ。
「多少の要望なら聞く、それと痛かったら痛いって云え」
 ゆったり巻かれた夜の帯を解き、着物を観音開きにした。脚以外にも、点々と戦いの痕が見える。胸元はがっちりと包帯が覆っていた。
「魔界に行ってたのか」
 ずっと脳裏にチラついていた疑問を投げつつ、黒色の褌を緩めていく。
「だとしたら?」
「俺に黙って、勝手に博打を仕掛けるな」
「まだ云いたい事が有るんじゃないのかい」
「ルシファーに会いに行ったんじゃないだろうな」
 更に口角を上げる夜、眼が愉し気に撓む。これが図星であっても、見当違いであっても、いずれにしても面白いのだろう。
「だとしたら?」
「あんた達の過去にとやかく云うつもりは無い、よく知る訳でも無いしな。でもそれは過去≠ノ関してだ」
「褥を共にして、この身体で帰ってくると思うのかい、なかなか激しいのを想像しているね」
 露わになった夜のソレを股座に挟み、やんわり腰を前後させて自らの芽を弄る。ひくりひくりと疼くのが、どちら側の弱点かは判らない。
「……他とヤらせるくらいなら、どっちの身体でも付き合ってやるし、どこにだって突っ込ませてやるし、突っ込んでやる……」
 冷たい指先に胸を捏ねられながら、喘ぐ様につぶやいた。女性体の時は色々とすぐに湿ってくるので、嫌な刺激が少なく済む。利点といえば利点だが、これが生理現象なのか判断しづらく、気恥ずかしい。
「下手糞に掘られても嬉しくないね」
「知った風な口、ききやがって……っ……あ」
 ぬるりと滑る笠に指三本を添え、きゅっと窄んだソコに擦る。自らの指に先導させ、僅かな隙間を叩くようにこじ開けていく。
「クッ……ククッ……」
「なんだ……何が可笑しい。それと、勝手に突っ込むなよ」
「ねえ功刀君、君は腸で妊娠する訳?」
 一瞬何を云われているか解らなかったが、妊娠というワードでようやく察した。慌てて腰を上げ、臀部を夜の腿上に逃がした。
「素で間違えた」
「本来の目的を忘れていやしないかね、これだから助平は困るねえ」
「助平はそっちだろ! 大体、俺が男の時も散々──……」
 ああ駄目だ、釣られている。下手に取り合わない方が良い、あまりの醜態に口の中が熱い、何を云い出してしまうか、自分でも怖い。
「僕に責任転嫁しないでくれ給え、本当の自分は男だ≠ニ云い張る君を尊重してやっているのだから」
「本当に尊重してるなら、今こんな関係になってない」
「ねえ教えてよ、どちらの身体で致した方が気持ち好いの?」
「誰が教えるか」
 今度こそ、当初の孔に迎え入れる。後ろと比較すれば、流石に容易い。とはいえ一息で最奥までは許せなかった。これまで容赦なく貫かれてきたものの、それを自ら形にする度胸は無い。俺の躊躇いが見て取れるのか、夜は薄く哂ったままだ。目が合った途端に全身が強張り、思わず締め付けた。
「もっと奥でないと、結び付かぬよ」
「……急かすな」
 半分あたりまで挿入したその時、突然はっしと両脇を掴まれた。ぐいと抱き寄せられ、唇が触れるか触れないかまでの距離感になる。
「何だよ、これじゃ入っていかないだろ」
「いちいち云い訳する必要、無くしてあげるよ」
 言葉の意味も解らないまま、唇に噛み付かれた。歯を乗り越え、口腔をまんべんなく這いまわる舌。息衝ぎの瞬間を狙う様に、項の突起をぎゅうっ、ぎゅうっと扱かれる。
「っ、ひっぐ……ゥ、ふうッ、んっ」
 粟立つ肌、紋の縁が熱い。胸が潰される刺激から逃れようと、シーツに手をついた。すると、夜の手は無遠慮に割って入り、俺の膨らみを搾った。揉める様なサイズでも無いのに、指を埋めてくる。爪が端の指から順に立てられ、堪らず仰け反れば、突起ごと抑えつけられる頸。
 上は呼吸が出来ないのに、下はあられもなくぱくぱくと。中途半端に抉られたまま、夜に弄られるたびに滲ませる坩堝。
「ぶはっ……はっ、はあっ」
 どれだけ愛撫を受けたのか、呼吸を許された頃には突っ伏していた。途中、意識が飛んでいた気さえする。身体は弛緩気味というのに、あそこだけは別の生物の様に脈動していて。疼く腰を沈めようとしたが、突起を掴まれ妨害される。瞼を舌先で抉じ開けられ、眼球を舐られる。
「うぅッ、あ、あッ、んなところ……」
 自然と溢れる涙ごと啜られ、頬を伝うのは舌。首筋から鎖骨で揺れると胸まで下り、先端をぢゅうっと痛いくらいに吸われた。飽きもせず黒いレールを辿ってくるこいつ、肉体性別は関係無い。
「ぬ、ける、抜ける……やめ」
 夜の位置が下がったせいで、楔が抜けそうになる。俺は慌てて、脚で引き留めた。
「やだっ、夜」
 名前を呼べば膨らんだ、震えながら俯けば、胸元の翳りで金の双眸が撓んだ、途端、夜の腕がぱっと宙に躍り、俺を開放する。
「は……ああぁ──」
 俺は迷いなく最奥まで突き下ろし、軽く達した。眩い満月が視界いっぱいに広がって、脳天がわんわんと振動する感覚。しかしそれはあっという間に翳る、雲間の隙間に覗く光がくすぐったい、痒い、痛い、疼く。
「君だけ満足してどうするのかね……このままでは僕が先に逝ってしまうよ」
「先にイったのは俺だろ、良いからあんたもイケよ」
「早合点の早漏め」
「じ、女性に云う台詞じゃないだろっ」
 まだまだ余裕の面持ちの夜、それでも前髪は軽く乱れていた。なんでその程度なんだ、俺ばかり呼吸を乱して鼓動も駆け足で。ああイラつくこの野郎、もっと乱してやる。
「奥に、奥っ、おく……ぁ、あっ、此処っ」
 無我夢中で踊る俺、静かに呻く夜。
 何度も何度も名前を呼ぶから、だからもっと俺の中で憚ってくれ──……
 
 
 暗闇の中、白い糸が幾重にも連なって、上へ上へと昇ってゆく。植物の蔓みたいだ、成長記録を早回しに観る様な、そんな蠢き。あるいはクラゲのヒダ、昏い海底に漂う優美で不気味な白。
 しかし目の前のそれはどこか無機質で、生命力を感じない。破いた和紙の端みたく、薄く薄くなってゆくと、やがて黒に解け込み消える。
「……う」
 声を出そうとしたが、掠れた喘ぎになった。煙だ、煙草の……
 この臭い紫煙さえ、白檀と混じれば別の何かになる。正確にいえば、MAGも混じっているのだろう、だから甘い毒なんだ、俺にとって。
「ピロートークも早々に寝るとは、即物的だね」
「記憶が曖昧だ、寝煙草は止めろ」
 俺は再びシーツに突っ伏していた……ひどく怠い。ゆっくり肘をつき、手をつき、起き上がる。身体に掛けられていたのは、夜が着ていた装束だった。白い地に透けて、己の明滅が淡い差し色になっている。
 自分の着ていたものを探せば、寝台の足下に丸まっていた。そういえば、脱いだ時に放り捨てた気がする。
「おい吸ってる場合か、安静にしとけよ。そもそも、何処から煙草なんて」
「仲魔に持って来させた」
「は、じゃあ見られたっていうのかよ、この状況」
「君は爆睡していたのだから、恥ずかしい事も無いだろう?」
「意識の有無は関係ない! まったく、少しは俺のメンツも考えろよ……」
「己ばかり達し、挙句に失神する君が悪い」
 昔から変わらぬ仕草で、煙草をふかす夜。無事な脚の片膝を立て、背をやや丸めて座っている。乱れた前髪はすっかり額から退けられており、整った横顔が目立つ。ど畜生には違いないが、こんな飛びぬけた美形なかなかお目にかかれない。写しの抜け殻を産んでいるだけと、頭では解っている、それでも時折、芸術家心地に浸る事がある。
「火はどうした」
「アギくらい使える」
 そうだ、悪魔の血が入り始めた頃から、こいつは魔術が使えるのだった。マガタマから教えられた俺よりも素質が有りそうで、なんとなく腑に落ちない。
「じゃあいつも自分で着火しろ」
「僕はサマナーなのだよ? 此のMAGは、悪魔に術を使わせる為に有る……自ら魔法を撃ち続ければ、あっという間に枯渇してしまうよ」
 確かにこいつ、弱った悪魔苛めて、ガンガンにMAGを奪っていたよな。吸魔の様にも見えるが、多分違う、もう少し物理的な感じ……刀を媒介にしているのだろうか。俺から吸い上げてる時だって、得物ぶっ刺しているか、口から直接──
「なんか……おかしくないか?」
「何がだね」
 思考が違和感に掻き消された、発生源は夜の包帯。目覚めに視えた幻覚の様に、白がゆらゆらと解けている。その、まるで霧を纏うかの様な胸元に俺は這い寄り……予感がした瞬間、直に触れていた。夜は抵抗する気も無いのか、煙草の先端を煌々とさせている。
 何層も有る白を毟り、出来た隙間に指を挿し、上下に開いてやれば……わあっと霧に包まれた。毒の味がする……煙草の……
「どうして黙ってたんだ!」
 夜の胸の孔≠ゥら、紫煙が漏れ出していた。俺の怒号と対照的に、男はアハハハと高哂う。塞いでいた物が無くなったせいか、その声は少し遠い。
「いつ気付くかと思ってねえ、フフッ……まあ気付かずとも結構だが」
「脚より問題だ! 痛くないのかよ、こんな……最初は背面まで貫通してたんじゃないのか、これ」
「片方潰れた程度、人間でも助かる。軽い緊張性気胸でも引き起こすかと思ったが、肉壁や骨が崩れたお陰で圧迫もされなかった様だね。君が巨乳であれば、先刻苦しい局面も有ったろうが……ククッ」
 自分の身体を《替えの利く玩具》とでも思ってるのか、ふざけた野郎。俺にだって、シトリにだって、そして……あんたにだって限界が有る、すべて有限だというのに。どれか潰えれば、全てが終わるのに。
「呑気に吸ってんじゃねえ!!」
 哂う口先から煙草をかすめ取り、一瞬で燃した。灰の塗れた掌のまま、肺の崩れた男を押し倒す。
「出せっ、早く出せ」
「何を」
「せっ……精子だよ! 容態急変して死んだら、あんたの自己責任だからな」
「生死が係っている、と」
「かけるんじゃなくて中に出せ!」
 俺が憤るほどケラケラ哂うので、言葉も交わさず再び挿入を試みた。擦りつけて知覚する、そうだ今度こそ勃てる必要が有るのか、面倒だ、この精神状態でこいつを立てろと?
「心配無用さ功刀君、もう済ませてある」
 躊躇う俺の下、満身創痍である筈の男が吐いた、不穏な台詞。
「は?」
「君が失神している間に済ませた≠ニ云っているだろう」
「最低」
「それと君、死体からも精液は採取出来るからね、覚えておき給え。ああ、しかし種が生きておらねば無意味だがね」
 色んな意味で、慌てたり心配した自分が惨めになってきた。シトリの要求を呑む必要も無かったし、肌身晒して急ぐ必要も無かったし、ましてや性行為の必要も無いときた。
「もう次からは、あんたが死んだ後で勝手に作る」
 投げやりに吐き捨て、さっさと降りようとした所を掴まれる。こいつまだヤる気か、と警戒したが、そういう手つきとも違う。
「乗り換えた方が早いのだろう……今回の僕はもう眠るよ」
 傍らに納まる様に誘導され、俺は仕方なく隣に横たわる。
「眠るから……何だよ」
「長きにわたり活躍したこの素体に敬意を払い、見送り給え」
「自分が寝るまでは一緒にいろ、くらい云えないのか?」
 呆れから突っかかったが、自分でも云いづらいであろう内容だ。嫌味か蹴りのひとつでも飛んでくると思いきや、夜は俺の首筋に軽く頬擦りしてきた。
「僕に良い夢を見せて、矢代」
 唐突に飛んできた恍惚な響きに、俺はどう返せば良いか分からず、困惑した。気の利いた言葉も浮かばないなら、相槌でも何でも良いから受け止めなければ、肯定しなくては、と口を開いた……が、長い睫毛を伏せた夜は、既に呼吸をしていなかった。
 俺はそのまま深呼吸をして「おやすみ、夜」と呟いた。

-了-


* あとがき*
 タイトルは「すいきょう」と読みます。《器》を用意する前に、夜が死んでしまったらどうするのだろう?という疑問から今回の話が浮かんだ。種だけ保存しておけないのか、と一瞬考えたが、そういった事が可能なのか謎(そもそも人間の作るものと同じなのか)また、魂が行方知れずでは意味もない。何処かで野垂れ死なれるのが、矢代にとって一番の恐怖。
 しかし夜の云う良い夢≠ニは……バクに誹られた事を根に持っているのか(SS「揺籃歌」)それともこの先も≠ニいった比喩的な言葉だったのか。ともあれ矢代が隣に居ると恐怖感は薄らぐのでしょう、そう考えると徒花ラストの状況もマシに思えてきますね(思えねーよ)
 孕むぞ!と一人発奮する矢代のしょーもなギャグのつもりでしたが、眠りにつく前に甘える夜というイチャラブ(※当社比)になりました、帳好きの奇特な皆様に捧げます。
(2020/4/5 親彦)

煙草を買って来させられたヨシツネ「ぅえッ!? 腹上死!?!?!?」