美術館か博物館か水族館か、よく分からない空間。
巨大な影達はうつろいながらも、じっと此方を見ている。生きているのか、いないのか。見覚えが有るようで、違和感が拭えない、つまり悪魔かもしれない。
幾何学のうねりが平衡感覚を狂わせる、何処かで見た壁の色彩。不穏な、それでいて馴染みの有る。
前を駆ける人型は小さい、子供に見える。これは母の視点か、幼い日を俯瞰しているのかもしれない。そう思った瞬間、子供が何かに駆け寄った。それもまた人型、体格は大人のもの。
子供に縋られ振り返った、そいつの顔は──
海月の骨
ようやく覚醒した……二三まばたきして眼を慣らし、天井に揺れる行燈の影を眺める。海月の様に漂う光は、ついさっき見た光景を思わせた。
産んだ後は決まって変な夢を見る。どうしてライドウが……夜があのポジションなんだ。いくら俺に父親の記憶が無いからって、わざわざ埋めてくれる必要は無いだろ。
以前借りてきた子供≠ニ短期間過ごしたが、多少の名残惜しさは個人に対してであり、二人きりに戻る事に未練は無かった。別に俺は、あいつと家庭を持ちたかった訳じゃない、産んでる理由もはっきりしている。
(俺は、ただ単に夜と──)
駄目だ、さっさと自室に戻ろう、此処に居ると考え過ぎる。
今こうして一人という事は、多分あいつはまだ不在。だって滞在中なら、産後の俺が目覚めるまでは必ず傍らに……
(疲れてるんだ)
本当の生命を産んでいる訳でも無いのに、この消耗っぷり。俺は所詮、紛いものの母で、其処に寝かされてる赤子も紛いものに過ぎない。それだというのに、どうしてこんなに弱るのか、番いの男を求めるのか。
上体を起こし緩く伸びをした、まだ何となく下腹部が引き攣る……様な気がする。見下ろせば白い浴衣越しに黒と碧が透けて見え、そういう柄の生地に見えた。
(擬態してない方が、やっぱ回復速い)
このベッドは特別に作らせてある、仰向けに寝ようが阻害されない敷物が詰められており、籐細工の曲線は視覚にも穏やかだ。そんな上等の寝床から離れ、同じ素材で作られた揺籠に歩み寄る。部屋を出る前に一応見ておこう、いつも通りの流れだ。
揺籠の傍に膝をついて、中身をじっと見下ろす。床板の冷たさを心地好く感じながら、無心で赤子の顔を眺めた。
いつも考える、あいつを産んだ人も、こうして同じ顔を眺めたんだろうかとか。その時から葛葉とかライドウとか、息子の先に見えていたんだろうか、そんな他愛もない事を。
「ぅ」
揺籠に寄り過ぎたろうかと、軽く退く。しかし籠は大して揺れておらず、部屋の何処かが軋んだのかと思い直す。
「ぅ、ぁぅー」
理解出来ず、音の発信源も分からなかった、数分間、いや数時間硬直していた気さえする。
にじり寄り見下ろすと……赤子は微かに指先を動かし、唇をやんわり開いている。
俺は咄嗟に覆った、掌でその口を。
「──っ、は」
呼吸を妨げようと、泣き叫ぶでもなくじわじわと体を揺らすだけ。
やがて目が合った……そう、瞼を開いていた。
「ぁ、はあっ、はぁ」
塞いでいた側なのに、俺が呼吸困難に陥った。
何故生きている、動いているんだ、ただの器の筈だろう。
掌を退け、真正面から相貌を確認した。これまで幾度も見てきた顔だ、夜の面影はしっかりと有る。当然だ、他と通じた事は無い、他の要素が入る筈無い。
普通の子供が産まれたとでもいうのか、要因が見つからない、どうしていきなり。
「ぅ、ぐ……ぅえっ」
吐きそうになるのを、何とか堪えた。理解や憶測を置き去りに、ただひたすらの悪寒に襲われている。
次≠試して、今度こそ器が産まれれば一応マシだ、この子供をどうするかはさておき……最悪なのは次もこうなる事、ただの子沢山になってどうする、それでは夜が。
(そもそも赦されるのか)
ライドウの頃から、イレギュラーを嫌うあいつの事だ。万一に備えた思考も準備も、心構えもしているだろうが……これは流石にどうなんだ。
無かった事に出来ないか、これを無かった事に、器ではないこの生命体を──
『へェ、産まれたばかりの旦那ってこんな顔してたんだな』
烏帽子も相俟って、最近見慣れた擬態姿よりも大柄に見える義経。高い位置から揺籠を、角度を変えてはジロジロ見下ろす。
俺が産む日には、甲冑姿で庵の庭に佇んで居る。それを知っていたから、こうして無理矢理引きずってきた。
ネビロスは魂移しの準備、パールヴァティは下里に向かっている頃と思われた。古い器の葬送≠近々執り行うと、一部の人間に伝えるのだ。そう、何事も無ければ淡々と、いつも通り流れるだけなのに。
『で、他の連中には云ったのかよ』
「いや……」
『真珠婦人は慰めてくれそうなモンじゃねえの』
「真っ先にあんた連れて来た理由、少しは考えてくれ」
感情の抑揚も無く呟けば、隣で黒髪がはらはら揺れた。
『始末しろってかい?』
相槌の様に笑った義経は、手甲で揺籠の縁をトンと叩いた。
『いくらお前さんと旦那の子っつっても、まだこんなもんだぜ? それこそ赤子の手っつうか、首ひねれるだろ』
「…………俺が殺せない理由くらい」
『はっは、わぁってるって。すうすう息してりゃ人間みてぇなモンだろうからな……お前さん、人殺しだけは無理なんだろ?』
即答され、耳が熱くなった。続く内容を先読みして、自己嫌悪に震えが走る。
『ま、殺しても解決する事なんざひとつも無ぇがな。死体調べりゃ生きてた″ュ跡も残ってるだろうし、殺されたとあらぁ別の大問題だろうし、そんじゃ何処かに隠すってか? 旦那の昔の本職と帝都の居候先考えたら、発見されるのは時間の問題ってだけよ』
「そうだな」
『……これでいいか? 真珠婦人に優しく諭されちゃあ、もっとヘコむの分かってたんだろ』
「あんたに本音晒して、無茶だと笑われた方が……諦めがつくと思ったんだ」
『旦那よか短ぇけど、お前さんともソコソコの付き合いだからな。ちぃとばかし読めるぜ、へへっ』
揺籠から持ち上げた手を、柄頭に移す義経。
『でもな矢代サマ。旦那が不在の今、俺に命令する権限はお前さんに有る。だから始末しろと云われりゃあ、俺は殺してやれるぜ』
「おい……九郎」
『コイツん中に何の魂が宿ってるかって? んなの知らねぇな、勝手に入ってきた方が悪いだろ。ソレがお前さんを苦しめるっつうなら、肉体もろとも魂潰しちまった方が早くねえか』
「ヨシツネ」
義経の横顔を見る、赤子に注ぐ目付は獲物を狙う鋭さを放っていた。
柄頭に添えられた手を上から掴めば、反対を抜刀され。
俺は次の瞬間、何も考えず揺籠に蔽いかぶさった。
「っぐ、ぅ」
ツノ近く右肩辺りだ、鋭い熱がするりと抜けた直後、浴衣がじっとり湿りだす。
「駄目、だ……俺以外の、しかもあんたに殺させるべきじゃない……夜の身体って考えたら、やっぱり駄目だ」
『人修羅……傷を……手当してもらわねえと、着替えも』
急を要する深手ではないと、分かっているだろうに。納刀した義経は、まるで壊れ物を扱う様に肩を支えてきた。俺はそれを雑に引き剥がし、衿をはだける。
「啜れよ」
『はぁッ?』
「血……くれてやるから……俺が頼んだ事も、あんたが殺そうとした事も、秘匿しろ」
『や、っやいやい、別に喋らん事にはMAG消耗しねえからよ』
「じゃあ、このまま服に吸わせていいのか」
云い終えるか否か、痺れに声を失った。傷口を冷たい舌に撫でられ、吸われると痛みに筋が引き攣る。
緩く背後を確認しても、烏帽子に遮られ義経の顔は見えない。跪き、無我夢中といった風で舐め啜っている。
『は……はぁッ……っはは……お前さんが、庇うかもって、半分くらい分かっちゃいたんだがな……先刻の俺の言葉、ありゃ本心よ…………でも、こうして傷付けてりゃ、身勝手は誰だって話な』
「お、俺……だろ」
『なんでぇ随分、しおらしい……喰っちまうぞ』
傷口からいつの間にか逸れ、首筋を嬲られていた、舌で、唇で。
払い退けようとして、ようやく抱き竦められていた事に気付く。
「そこまで許可してな──」
『つってな、嘘々! そういう形で旦那に背く事ぁ考えてねえ……怖過ぎるぜ』
俺が強張った瞬間、一気に軽くなった。義経は両腕を解放し、ひらりと立ち上がる。
『おう、立てるかい』
「……ああ」
浴衣の衿をざっくり直し、差し伸べられた手を取る。平然としている様で、眼が煌々と輝いている義経。
口周りを袂で拭ってやると、無地の端が朱に染まる。既に穴開き血塗れだから、どうでもいい。
『悪かったな、余計な気力使わせちまって』
「いや……あんたのお陰で頭冷えた。それに、色々思い出した」
『俺様もよ、体液で貰うなんざ久々過ぎて……平気か?≠チて途中我に返ったわ。我に返るも何も、コレが本来だろうがよ。まぁしかし擬態してたらもう無理だな、気分的に』
互いに目が合うと逸らした。発露は違えど、口下手同士、気まずい。
与え与えられ、こういうものは双方共に高揚する事を知っている。MAGや触媒に敏感な身……悪魔であれば猶更だ。
『平和呆けした俺が云うのもなんだが、お前さんも大概だぜ、あんま気安く吸わせるもんじゃねえよ。いくら此処が環境良くて、傷の治りが速いつってもだなァ』
「舐めといて小言か」
『……美味ぇから、不味ぃんだよ』
内心どっちだよと詰りつつ、揺籠を見下ろす。
正体不明の赤子は、人の気も知らずにすうすう寝息を立てていた。
ライドウが帰還したのは、それから二日程経った夜更け。
出会い頭に蹴りのひとつでも喰らわせて来るかと、そんな覚悟で迎えたが何も無かった。事前に通信を入れてあった為か、着くまでに冷静になったのか、定かでないが助かった。
「確かに、他の要素は雑じらぬ顔をしている」
「疑ってたのかよ」
「相手をそのまま写し産む、という定義が破られぬ限りはね。此れが君の潔白証明だろう」
「じゃあ、どうして動いてるんだよ、誰が中に入ってるんだよ。もしかして写しの抜け殻≠カゃなくて……生き写し≠産むようになったんじゃないか、俺……」
先日の義経と、似た様な位置から揺籠を見下ろすライドウ。赤子に向ける眼は、まだ処遇を決めていない色をしている。答えが出るまでは、ひとまず維持してやろうという事か。
「この数日、何か与えたのかね」
「何かって」
「お乳とかさ、フフッ」
「ば、っか出ねえよ。MAGだけ試しに……軽く落としてる」
「それをこのまま続ければ、痩せ衰える一方だろうね。此れが純粋なヒトの赤子なら」
「…………で、どうするんだよ、この……」
「さて、どうするかね」
おもむろに外套から箱を取り出し、一本抜くと咥えるライドウ。
「はぁ? 赤ん坊の前で喫煙とか、信じられない事平気でするな」
「ガワは僕だし、中身は居候だろう? 此処のルールに従ってもらうべきさ」
なんだか義経と似た様な事云ってるな、と口には出さず、俺は溜め息で着火した。
何処の煙草だろうか、比較的上品なヤニ臭さと、馴染みの白檀が混じり合って……不安は払拭できないのに、意識だけは鎮まる、魚の寝静まった水面の様に。
「恐らく、実を結んだ後に……入ったのだろう」
呟いた後、ゆっくり吸い込み吐き出し、煙草を指に逃すライドウ。
「身籠ってから君、妙なものと接触しなかったかね」
「何も無いぞ俺……そもそも此処に部外者、殆ど出入りしないだろ。産まれたこの器に、何かが入り込んだとかじゃないのか?」
「此の屋敷から出してないのであれば、魂だけで此処へ侵入を試みるのは難しい筈だがね」
「俺が胎に抱えてた時期に、入られたって?」
「君の事だ、其れがいつもの散歩路≠ナあれば用心を怠る」
「人を注意力散漫みたいに云うなよ」
「ボルテクスに居た頃が一番マシだった」
「あのなあ」
「下りなかったのかね下≠ノ」
「何度か下りたけど、片手ほども無い。誰かと長々話した憶えも無いし、悪魔なら工場の連中と対面した程度だ、全員顔見知りだろ」
「住民の増減が有った気がするね、電信に見た」
「ああ……そういや有ったな。あんたの返事通り、俺は関わって無い」
「確か妊婦の死亡報告、鍛冶屋の家」
「だから遺体には近付いてないって云ったろ、火葬も今回ばかりは下の人達に任せたって」
ライドウの不在時、どれだけの勝手が通用するのか分からない為、たまにメールをしている。履歴を見ればいつ頃だったか、俺が書き洩らした事は無いか、確認出来る筈だ。
「ところで功刀君、墓参りには行ったのかね」
「えっ? ああ……一応。工場の裏手だろ、着物取りに行ったついでに──」
残る痺れに、堪らず蹲った。項を手刀で叩かれたのだ、いくら隠そうが弱点には違いない。
「……っ、くぅッ……何か文句有るのかよ!」
「僕も今から行こうかね、墓参り」
「はぁ?」
煙草片手に踵を返し、ライドウは部屋から出てゆく。俺は慌てて立ち上がり、紫煙を追った。
唐突に、そして淡々と動き始めるライドウは怖い。長年の付き合いから、そういう風向きにだけは敏感になった。
星の明るい空、麓の里は深海みたいな暗闇。こんな時間に農家の納屋を漁るものだから、流石に見張りの悪魔が飛んできた。雑木林に紛れ、田畑を監視するジュボッコだ。
『誰かと思うたら十四代目、それに奥方まで、こりゃあ一体』
「暫く日の目を見ておらぬ物は無いかね…………この鍬だとか」
納屋の片隅にぽつんと立て掛けられた鍬は、柄もだいぶ色褪せている。手前に並べられた農具と比較して、引っ張り出すのが面倒な位置だ。
「一週間借りる、畑主に宜しく」
鍬を担いだライドウは納屋を抜けると、ジュボッコを素通りして闇に姿を晦ます。
『耕すにしたって、ちと暗くないかの』
内心畑仕事な訳無いだろ≠ニ突っ込みつつ、では何の為に鍬なんかを……と数秒困惑した後、あっと声が出た。
『人修羅殿も、一本持ってくかね?』
「いえ、結構です」
雑な返事をしながら、思い当たる方へと駆けた。
蜘蛛女共の工場を横目に、樒の丘を登る。ざくざくと詰まれた粗い石垣の手前で、不揃いな石碑の影が波打つ。此処は旧墓の群れ。都合か時機の関係で、移設出来ていない墓が集う。古いとはいえ、ライドウが十四代目を襲名した頃、土葬は殆ど無かったらしい。なんでも鮮度の良い死体を掘り起こし、屍鬼と使役するサマナーが居たらしく……
そんな昔話と、目の前の男が重なった。ライドウは鍬で耕していた、墓石のふもとを。
「馬鹿っ、何やってんだ!」
外套の肩に掴みかかったが、ネックボタンを外されたのか、ずるりと脱げた。
「確かこの墓だろう」
「家族にっ、旦那さんに確認取ってからやれよっ」
「拒否されようと同じさ、血盆経でも唱えて掘るかね、フフ」
「それにしたって順序ってもんが──」
咎める口先に煙草の吸い口を突っ込まれ、思わず閉じて咥え込む。ライドウのMAGが舌先に一瞬触れ、甘さを塗り潰す様に苦みが追う。咽ながら指先に逃し、発火で炭にした。
「ほら御覧、見えてきた」
土の隙間に淡い色が目立つ。容器に詰めず、骨をそのまま埋葬する墓か。掘り返された土を避け、ライドウの背後から恐る恐る覗き込む。
「祟りを畏れるのかね、散々神仏を砕いて来た癖に」
「そんなんじゃない、だってこれ一家庭の墓だろ。勝手に発くのが失礼っていうか……いや普通に犯罪だし」
俺の意見はお構いなしに、胸元をさぐるライドウ。煙草の火を要求されるかと構えたが、爪が弾いたのは管。久々に見たヒトコトヌシが、向こうの樒をさわさわと揺らした。
「上だけ掃ってくれ給え、この様子なら骨は飛ぶまい」
ライドウが命じれば、風の軌道を空中に描き出す葉。波が帰ってゆく様な音、残されたのは貝殻色した骨。
膝を抱える姿勢で、横向きで其処に居た。全ての骨をさらえているとは思わないが、丁寧に〈人〉が埋葬されていると判る。でも何かがおかしい、胎の辺りから小骨が連なり、鎖みたいに伸びていた。
「やはり……死してなお産もうとしたか。此の臍の緒%`いに、外に出したのだろう」
ヒトコトヌシを管に戻し、ライドウは片手で鍬を担ぎ直す。
「成仏してないって事か? 燃して埋めて、一ヶ月半は経ってる筈だぞ」
「死因環境様々影響するが、総じて云えば個人差さ。僕の見立てでは、産んだつもりの魂はとうに離れている。さて、産まれた魂は何処に行ったと思うかね?」
下腹部が捻じれるような痛みを持った、ぎゅうぎゅうと示唆するな。
「肉衣の記憶に従い、近い器に入り込む。君が宿す赤子は魂無しなのだから、象嵌が如く納まるだろうよ」
「俺の所為じゃないだろ、そんな。墓参りに来た人間に憑くとか、迷惑……」
口にするほど寒気がした、産めずに抱えたまま死ぬというのは、どれだけ無念だろうかと。死んだ後、念だけの己を制御出来るか問われると、自信が無い。
「なあ、あの赤ん坊どうすりゃいいんだよ、そのまま育てるのか?」
返事の代わりに風切り音、反射的に身構えたが、痛みは無い。
鍬の刃が、骨の鎖を分断していた。
「誰が育てるというのかね、遺族か。君の肉を通過し、僕の姿に成る者を、他人が?」
「……上里の悪魔にでも任せるとか」
地に突き立てた鍬をそのままに、振り向くライドウ。俺の衿を掴み寄せ、耳元に囁いて来た。
「何も解かって無いね君」
その声音には嘲りも可笑しみも滲まず、こうなると俺には反応しようが無い。
ライドウは俺の手から外套を剥がし、ばさりと纏う。そうだ、掴んでいた事さえ忘れていた。
「此方で始末をつける、鍬には最低七日間は触れぬ様」
やけに声を張ると思えば、後方に数名、ぽつりぽつりと人影が居た。納屋を漁り悪魔と話し、挙句召喚からの口論。夜鷹のサマナーであれば、様子見にも来るだろう。
ライドウが通る路を開け、深々と礼をするサマナー達。俺は発かれた墓を一瞥し、悪心と戦いながら黒い影を追った。
「あの様な事を易々と提案出来るのだから、君は〈生き写し〉が居る事への想像が足らぬ」
「っ、ぷは」
「ねえ、功刀君?」
睫毛の雫に反射して、視界が悪い。斑紋の光が艶めかしい男を炙り出す。
庵に着くなり袴を剥かれ、浴槽に叩き込まれた、しかも水風呂。
夜明けの青に刳り貫かれた窓と、俺の発する光だけが頼りの暗闇。いつか見た水族館の夢の様だ、ただし自分は水の中。
「墓場の土、落とすだけならシャワーでいいだろっ、どうしてあんたに」
「久々に観たくなったのさ。死にかけの君が泉に漂う姿は、まるで海洋生物が如し美しさだったからねえ、ほら」
喉を指先で潰されつつ、再び沈められた。ツノが底に擦れ、息苦しさよりそちらの痛みに身を捩る。水中から見上げれば金色の月が二つ、俺をじっと見下ろして。
(こいつ、苛々してるな)
同属になったライドウを意識すればこそ、苦痛が却って頭を冷やす。
赤ん坊が声を上げた瞬間、くびり殺そうとした俺を見ていたら、また違ったのだろうか。
いや、分からない、未だにこいつの五割も読めない。あっさり人殺しをした瞬間、幻滅される様な気もする、ボルテクスの頃から散々唆してきたくせに。
「げほッ、は……はぁッ、は──」
引き上げられた直後、空気の代わりにMAGを飲まされた。こういうタイミングでやられると、一際濃く感じて駄目だ。項から指先まで、電流が奔る様な刺激。充ちるというより、一服盛られた様な感覚。浅く深く舌ごと嬲られ、濡れたもみあげが頬をくすぐる。
ようやく口を解放され、俺はだらしなく舌を見せた。ひとまず薄めたかった、生気と精気を。
「僕の席を取られたのだから、取り返すまでだ」
仄暗い色に戻った眼で、ライドウが呟いた。首を包む掌が、黒を辿り乳房に下りる。俺はそれを無心に眺めつつ、さっきの墓荒しを思い出していた。
宿る先が有れば、ただひたすらに移るだけなのか、あの赤子は。
「……じゃあ肉体返してもらったら、それでいいのか」
「嫌だね、一度居座れば何が残留するか分からぬ、君には改めて産んで貰うよ」
「生きることも許さないって、つまりどうするんだ、あれは殺すのか」
「元々ヒトとして生じておらぬ、死ぬというのも可笑しな話さ」
云うか云うまいか……墓場から引きずっていた事を、たぶん此処で捨てた方が良い。
「あんたの形してなけりゃ良いんだろ、だったら俺が遺族の誰かと〈器〉を作って、それに移せば済むんじゃないのか?」
胸に食い込む爪が、指の震えが、俺の鼓動を急き立てた。
また酷く冷たい眼で俺を睨んでいるのだろうと、そう思いながら面を上げれば……ライドウはまともに俺を見ず、視線を投げていた、揺れる水面に。
何を考えている……さっさと俺を打ち据えろよ、何をも許す訳にはいかないと、諦めろと詰れ。俺が他と繋がる事を、永劫許さないと暴れてくれ、夜──
「良いよ」
「……は?」
「構わぬと云ったのさ、したければすれば良い」
売り言葉に買い言葉か、別の思惑が有るのか、それとも……本当に構わないのだろうか。
「しかし早い者勝ちだ、此方も好きにさせて頂く」
云うなり立ち上がるライドウ、大きく揺れる水に一瞬身を捕らわれ、俺は出遅れた。
目の前で閉められた引戸を、開いた時には姿も無く。脱衣所の籠から衣類をさらった形跡も無い、一直線に何処へ向かったか、察しはつく。
「ライドウ」
障子が遠くで開いては閉まる音、俺は開け放ったまま裸で駆けた。
「夜!」
部屋に辿り着き、最後の障子を開くのももどかしく、半身で突進しぶち破った。
残骸ごと転がり込み、見上げた先には刃物片手のライドウが。
「やめろっ」
脚に縋りつき、床に引き倒そうとした。
「僕が殺すのだから、君には関係無い」
「中が他人だろうとっ、俺とあんたの間に出来た身体だ!」
「云ったね、つまり君は抜け殻だろうと、己を分け与えし者と見る訳だ。転移先を用意するだけのつもりが、意識を奪われかねない……余所の身内にね」
「やらないっ、やりたくない、違うんださっきのは、さっきは……俺」
何が違うというのか、自分でも訳が分からなくなってきた。嫉妬と諦観を同時に得たかったのだと、口にしたくない、どうせバレてる。
「とにかく……やめてくれ、あんたの顔してる人間が殺されるの、見たくないんだ」
「僕は平気だが」
「俺が嫌なんだって、云ってるだろ!」
叫ぶと同時に身を離し、脚を蹴り払った。回避するライドウと逆に揺籠を引き、間に入る。
裸身で取っ組み合い、刃物を奪おうと手首を捕らえる。よくよく見れば、これは夜の……器の守り刀だ。普段は揺籠の枕底に隠してある、俺とこいつだけが把握している物。
「魔除けで殺すつもりかよ」
「歴史上、自害の際にも使われてきた筈だが」
「身体はあんただけど、あの赤ん坊はもう別人だ、他殺じゃないのか」
「何だろうと構わぬ、君と違い僕はヒトも殺してきた、今更何だというのかね」
「それこそ今更だ、余計に手を汚す必要無い」
「此処で汚さずして何とする、肉体が僕と等しいのならば、流れる血も汚れも己のものだろう」
滾々と湧き出る殺意が、肌から直に伝わるMAGで分かる。冷静になれと云っても無駄だ、少なくとも俺よりは冷静だろうから。
「もし……もしも次≠ェ産まれなかったら、あんたどうするつもりだ。魂だけ抜いて、せめて器は確保しておくべきじゃないのか……お古が嫌とか、駄々捏ねてる場合か?」
「ならば今すぐ僕を受け入れ、孕み給え!」
「いつもそうしてきただろ!」
吠え返し、噛み合った。濡れた肌が、互いや上下を不鮮明にする。
手首を掴む指を、刃先の方へと滑らせた。紋を血が伝い、淡い碧を朱が覆う。命令も約束も無く、ライドウは俺の真赤な指先をすくい、口に含んだ。
脳裏で気安く吸わせるもんじゃない≠ニ近い記憶が甦り、すぐ云い訳した。気安いものか、利が無いのに与える筈が無い。悪魔として悪魔にくれてやる、過去の自分を消し去る様な行為を、進んでやる筈が無い。
血を、精気を吸う程に輝く刀身、悪魔としての性。痛いだけ熱く、熱いだけ愉しく、愉しいだけ充たされ、過ぎれば酷く渇く。覚える程に、単身ではどうしようもなく、それは人も悪魔も変わらないのだと今なら分かる。
「はっ……は、あっ……はぁっ」
徐に挿入され、身を捩り床板をぎゅうっと鳴かす。何十、何百とやっても慣れる気がしない。刀傷と違うのは、染み出す体液。云われた通り受け入れる∴ラ、一層濡れる股座が憎い。
「ぁぅ、ぁー」
自分と別の喘ぎを聞いた途端、強張り思わず締め付けた。
揺籠を視界に入れるもいたたまれず、真上の男をじっとり睨む。
「フフ……赤ん坊の前で、信じられない事するねえ君」
「……場所変えろよ、床痛いし」
「見せつけてやれば良いのさ、お前の入る余地は無いと」
「はぁっ、何云っ……馬鹿じゃない、のか……ぁ」
あろうことか、片脚を高々と掲げられ、結合の様を晒すライドウ。
羞恥の震えにつま先が引き攣る、角度が卑しい音を立て、俺の耳を責める。興奮ばかりが先走り、却ってソコの感覚が鈍る。
「あぅ、あっ……やだ」
「何が」
刀を放るライドウが、両腕で更に抱き込んでくる、片脚だけを。
「こ、れ、気持ちいの……あんただけじゃ、ないのかっ」
浅い、酷く浅い、焦れる、芽だけくすぐられ、無痛の壁だけ叩かれ続け。
「で……出入りの感覚、しか──」
言葉尻をはじく様に、一息に抜かれた。
陶然とする俺を抱え込み、肩に担ぐライドウ。足先で守り刀を揺籠に寄せ、障子の残骸を蹴り歩き、部屋を出る。
いくら庭園や囲いが有るからと、渡り廊下まで丸裸で移動するのはどうなんだ。肌寒い、実際朝靄も出ている。青い空気に染まる彼岸花は、いつ見ても現実味の無い色をしている、異界の様な。
「ああは云ったものの、やはり気が散る」
「……勝手な奴」
「関係を見せつけてやれど、君の痴態をお披露目する趣味は無いからね」
「痴態ってなんだよ人をスキモノみたいな云い方しやがって、あんた自分のセ……性行為の趣味が良いとか思ってんのかよ」
「成程、君は己の方が上品と思っている訳だ」
「いいからさっさと済ませてくれ」
運ばれた先は寝室で、既に敷いてある布団の上に降ろされた。どうして都合良く褥が準備されてるんだよと疑問を抱いたが、ライドウの帰還に合わせて自分で敷いた事を、ようやく思い出した。
「今度はしっかり、奥まで刺してあげる」
どうせこうなると思っていたんだ。
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仏間の畳上で、ふと思う。人が生まれた時と、死ぬ時と。思えば下里の家には、両極端な時に訪問している。今年生まれたと思った者が、気付けば成人し、系譜の子と思えば孫であったり。記憶力に自信は有るが、一目では錯覚する事も増えた。長期的な交流というものが……僕の人生に訪れた所為だ。
「此れを機に、君達の墓も新しい方へ移す」
「はいっ、お願い致します」
深々と座礼するは、鍛冶師の青年。件の妊婦の伴侶、つまり鰥夫である。
「継ぐ者も居らぬ、最初から夫婦墓で建てるが宜しいかね」
「あの、ひとつ確認しても」
「まだ娶る予定が?」
「いえ、そのつもりは無いのですが、この……」
膝上の黒猫を撫で、青年は言葉を濁した。
「何事も無ければ、君より永く生きるだろう、純粋な猫では無いからね」
「こいつが死んだ時には、自分達の墓に入れて欲しいんですが」
「君が約束を違わなければ、その様にする」
本来は人であったと教えるべからず、人の子として育てるべからず。言語を理解せぬ齢だからこそ、残る事を許した。
「何から何まで迷惑かけちまいまして、本当に……」
「あの鍬、君の作品だろう。大変出来が良い、死ぬまで腕を揮ってくれ給え」
「十四代目……有り難うございます」
再び礼をする青年から、ひらりと離れ僕を見上げる黒猫。翡翠に輝く眼を見れば、小言の幻聴がした。
『人修羅殿に説明なさらぬので?』
仲魔の唐突な問いが何を指すのか、一瞬考えた。赤子の魂を、結局他の器≠ノ逃した件だろう。人として生きる事を捨てれば、手段は幾らでも有る。そう、僕も同じく。
「パールヴァティでもあるまい、お前が気を掛けるとは珍しい」
『憂鬱なまま産み、何か差し支えなければ良いのですが』
「この程度で揺さぶられては困る。それに猫の中身を伝えれば、彼はあそこに通う可能性が有る」
『血を分けた魂でも無いのに?』
「産んだ器に一度は入った魂だ。それに、胎に抱えた者でなくては分からぬ感性もあろうよ」
『……それにしても、再び黒き獣に魂移しする機が来ようとは』
「さていつまで持つかね、MAGを詰め物にした剥製だ、ある日突然崩れるかもしれぬ」
『屍鬼の臓器も、在るだけで機能してはおりませんからな。腐る中綿は、いっそ抜いてしまった方が長持ちする……』
「しかし墓発きというのも、お前には懐かしい響きだろう」
『懐かしさを感じるのであれば、貴方はまだ人にお近い』
操り人形と共に一礼し、部屋を後にするネビロス。
僕は真に抜け殻≠ニなった赤子を見下ろし、外套の隙間に手を差し込む。煙草と迷い、小太刀を抜いた。
先日は抜き身であったが、今は元の鞘に収まっている。敢えて清めず、溢れるだけ血を吸わせた業物。鞘から抜けば、刀身は艶やかに輝き、烏の濡れ羽が如し色。
「……矢代」
呼びながら刃先でなぞる、彼の紋を描く様に。
伝う赤を指先に集め、朝露の様に落とした。
「矢代は僕のものだ」
次が産まれたその時には、お前は用済み。
帰結するが良い、それがお前の血、お前が本来吸う筈だった魂の雫、乳の代わりにそれで潤せ。
僕に成りきらぬ僕よさらば、お前はこの古き身と共に焼かれ、何者にもならぬ。
人修羅の、功刀の血肉となる事さえ許さない、何が宿るか分かったものではない。
「…………骨さえ残してやるものか」
僕も嫌だ≠ニ云えば、叫べば良かったのか。
中身の違う写し身に、視線をくれてやる君を見たくない。
ただ、ただそれだけ。
-了-