寝ても覚めても頭の上でギラギラと
あの世界の空は異常だった
幼い頃、キルトシーツの中の闇にすらビビっていた俺だが
ありゃ無えな、と笑った事だろう
たまには夜も必要さ
そう、たまには
Black Night
「今日という今日こそは、文句云ってやるんだから!」
「パティ、ちゃんと飲みこんでから喋るのよ」
「んん、んぐ」
まだ冷めきってないチキンソテーを飲みこんで、ちょっと喉が焼けた。
ビリビリする口内を冷やす様に、ザワークラウトにフォークを伸ばす。
「そもそも、文句も何も無いでしょうパティ。きっとお仕事が忙しいのよ、それに遅くにお邪魔したら悪いわ」
「数日空けてるなら尚更よお母さん、私が数日行かなかっただけでどーなっちゃうか、見た事無いでしょ!?」
「そりゃあ…無いわよ」
可笑しそうに笑うお母さんに、私は必死でアピールする。
何の為のアピールなのか、だんだんよく分からなくなってきたけど。
「んも本当に凄いんだから!デスクの上はピザの空き箱だらけ!読み散らかした雑誌が床に数冊落ちてたり…酷い時なんて電話の受話器が外れて、ぶらんぶらんしてるのよ!」
「ダンテさんもたまには休みたいのよ」
「たまじゃないってば!週休六日とかザラなんだから!」
急いでかき込んで、流しに食器を運んでから外出の支度をする。
マドラスチェックのマフラー、もう必要無いからって返品されちゃった。
私だって、気に入ってたからこうして使えるのは嬉しいけど…なんか残念。
「似合ってたのに」って云っても、ヤシロは首を傾げてそれっきり。きっと、私が何云ってるのか解かってないのね。
隣に居たダンテも、ヘラヘラしてるだけで肝心なトコは通訳してくれないし。
こうして鏡の前でマフラーを巻いてると、思い出しちゃって更に沸々してきちゃう。
「行ってきまーす」
「本当に真っ暗になる前には帰るのよ」
「分かってるって」
晩御飯の後の外出を、お母さんは心配していた。でも今の私を止める事は無理よ。
学校行って、クラブ活動して、帰宅して晩御飯で。だから遅くなっちゃったのは仕方が無い。
一昨日、昨日と出向いてやったのに、施錠すらしてない事務所はがらんどうとしてて。
(最近、私が遊びに行ってもちっとも相手してくれないんだから)
デビルメイクライの環境維持は私がしてたから、これまではそれなりに歓迎してくれたんだけど。
実は最近、数日空けてから行っても綺麗だ。
そう、多分ヤシロだ。居候させてる弱みにつけこまれて、掃除させられてるんだ。
ううん、違う。せざるを得ない状況なんだわきっと。
いくら住まわせて貰ってるからって、ピザ箱に埋もれたくは無いもんね。
「かーわいそっ」
思わず呟いて、くくくと肩が揺れちゃった。
そんな可哀想な居候君の愚痴でも聴いてあげて、ついでのついでにダンテの色んな事訊いちゃおう。
なんて考えながら、四つ目の角を曲がる。
本当は曲がらず、そのまま真っ直ぐ進んで更に大きな通りに出てから方向転換するのだけど。
(だって、こっちの方が早いんだもん)
細い裏路地は、開店準備中のパブの気配だけで。厨房窓からの光が、木漏れ日みたいに石畳を照らしてる。
酒瓶のコンテナを倒さない様に、狭い通路を掻い潜り……もう少し歩いて行くと、景観が開けた。
それでもさっきの通りよりは窮屈で、薄暗い。
大通りに比べると、この通りは数時間先を進んでいるみたいな感覚に陥る。
でもそれは暮れ時だけ。早朝は多分逆で、太陽を感じるのが遅れるのだ。
「ミャウ」
「あっ」
目の前を横切る黒猫に、気を取られる。
そうそう、人間よりも野良猫の方が多い通りかもしれない。
本当はお母さんには、明るい通りを使いなさいと云われている。
でも、このショートカットを使えば何と十分以上も短縮出来るのだから、使わない手は無い。
「ふふ〜」
野良猫相手にはしゃぐガキんちょな姿を見られまいと、普段は一瞥くれるだけの私だけど。
人が少ないのが都合良くて、思わずその影を追う。
だって、ちょっぴり珍しい。セルリアンブルーの瞳をした仔はよく見るけど、今の仔はエメラルドの色をしていた。
周囲の空気も薄暗いから、ぼうっと光っていて。気付くと、足がその光を追っていた。
「待って、もうちょっと顔見せてってばあ」
小さな影を追って、ショウウインドウも無い建物の間を駆けた。
歩道の切れ目、曲がり角。黒猫はカクンと鋭角にターンしたけど、私は勢い余って立ち止まるしか出来なくて。
しかも路面に出た瞬間、視界が突然真っ白になった。
「きゃっ!?」
光だ。こんなにも近いのに熱を感じないから、ピンと来なかったけど。
「な、なになに?」
照らしてくるそれは、黒猫の曲がった方からのもの。
煌々と光る二つ眼が、私の全身を浮かび上がらせている。猫の眼にしては大き過ぎるから、立ち竦むまま確認した。
指の隙間からもっとよく見る……眩し過ぎて最初は判らなかったけど、どうやらそれは車のライト。
見ている間にするすると、私の足下に光のビームが落されて。ようやく辺りが薄暗さを取り戻す。
改めて車を見れば、車体のカラーも真っ黒だ。その真っ黒のシルエットが開いて、中から人影が降りてきた。
「怪我はないかな」
男の人だ、とりあえず声で判断。だってこの人、帽子から靴まで同じく真っ黒で。
「う、うん」
「一応路面を走っていたつもりだがね」
「…ごめんなさい、私夢中になってて」
責めてる口調じゃないのが救いだ。だって今のは私の飛び出しで、万が一轢かれていても悪いのは私だし。
でも、違和感を感じる。直前まで光も感じなかったし、エンジン音だって…
「すまなかったね」
「ううん、こっちが悪いわ」
「残念ながら、黒猫はもう見えないよ」
それを聞いて、ほんのり頬が熱くなった。何よ、バレてたんじゃない。
理由を隠すのが馬鹿らしくなって、ガッカリしながら笑っちゃった。
「そっちの謝罪?可笑しいの!」
「ああいうのは袋小路に追い込まないと駄目さ」
「お兄さんもよくやるの?」
「まあね、猫相手では無いけれど」
チラリと覗く髪も、見下ろしてくる眼も、やっぱり黒。
この薄暗い通りじゃ、この人の事も避けられないかもしれない。
ぶつかって初めて気付くんじゃないか、というくらいに空気に融け込んでる。
「でもお兄さん、こんな狭いのによく車で通る気になるね」
「腕には自信が有るからね、君が飛び出しても止まれたろう?」
「う……まあ、そうね」
黒塗りのそれは、最近流行りのスポーツカーとは逆のレトロな風貌。
軽くフロントガラスを覗き込んで、やっぱり違和感。
ガラスに映り込む私が首を捻ると、その背後を黒い影が覆う。
「ハンドルかい」
「あっ!そうだそれで…」
ヒントを貰ってようやく気付いた、この車は右ハンドル。
珍しい、というか初めて見たかも。
黒猫から海外規格の車に興味が傾いて、思わず今度はサイドから観察する。
「古っぽいのに、エンジン煩くないのね」
「静か過ぎるのも危険と解かったので、次からはもう少しだけ音を出させようかな」
「……どーいう事?」
振り返っても、お兄さんは笑ってるだけで説明してくれない。
じっとその顔を見る……何だか、その笑いもニコニコとかガハハって感じじゃなくて。
煩くない、この車みたいな。
「小さな御嬢さんはそろそろ家に帰った方が良いのでは?特にこの界隈は暗いだろう」
「私、行く所があって」
「もう到着するのかい」
「ううん、もうちょっと歩く。でも、これでも結構なショートカットよ」
「だからこの路を通った?」
指摘されて、またヘコみそうよ。
「…まあ、そういうコト。お母さんには内緒だけど」
「いけないね、親の居るうちはある程度従っておくべきさ」
「ある程度なら、このくらい許されるよね?」
「自己責任さ。何かが起こった際、それを親の所為には出来ないねえ」
「大丈夫、都合悪い時は全部アッチの所為にしてるから」
「先方?この後向かう先かい」
「そ、私デビルメイクライに行くの」
ちゃんと眼を見て云ったけど、お兄さんの表情は名称に反応してない。
やっぱり知らないのかな、海外から来たばかりとか?
…ううん、あの店の知名度なんて知れてるって事か。
「デビルメイクライ…」
「そ!知ってる?下品なピンクネオンが看板の何でも屋」
「奇遇だね、僕も其処に用事が有るから」
「ホント!?お、お客さんだったのね」
まさかの返事に私が何故かはしゃいでる。これはミスリードは許されないわ…
週休を減らさなきゃ、あのグータラ男の為にも。
「でも反対方向に走ってたよね?」
「今向かおうとしていた訳では無いのでね…」
「あーあれでしょ、ダンテが日時も指定しないで「適当に来い、居なかったら後日来い」とか云ったんでしょ?あの人すっごくルーズだから!」
おっといけない、ダンテの評判を下げる発言をさっそくしちゃった。
でもお兄さんは納得の相槌もしないで、ただクスリと笑った。
「大丈夫、僕も予約はしていないからね」
「えっ、この後絶対居るか分からないよ?最近留守がちなんだもんあそこ」
「それなのに君は行くのかい?」
「ま、まあ……ほ、ほらっ、散歩ついでに」
「……宜しければ、送って差し上げましょうか御嬢様?」
「えっ」
運転席…じゃなかった、助手席のドアを開いて私を見つめるお兄さん。
一気に令嬢気分になった私。本当なら、高笑いしつつそのシートにふんぞりかえって座りたいところだけど…
「それは悪いよ」
「警戒している?」
うーん、直球ね……親切心を蹴る様な気がして、ちょっと申し訳無いからやんわり断ったんだけど。
オトナの対応を蹴られて、どうしたら良いか悩みどころだわ。
でもこの人には、何だか見抜かれてる気がしないでも無いから…正直に伝えるのがベストかも。
「そうよ、知らない人についてっちゃいけないって。これは親以外にも教わるもんね」
「それは確かに警戒すべき事項だね。しかし僕にはペドフィリアの気も無ければ、シリアルキラーの気も無い。そして金銭面の苦労も無い」
「私をどうこうする理由が無い、って事?じゃあ訊くけど、なんで送ってくれるの?」
「因みに、慈善活動も趣味では無い」
「あははっ、ホントに分かんないよそれじゃ」
「何、道案内ついでに話でも聞かせて貰おうと思ってね」
正直、凄く迷っている。道じゃなくて、選択肢ね。
車に乗りたい気持ちは強いけど、この正直者のお兄さんが何者なのかよく分からないし。
雑用を依頼するただのお客さんなら問題無いけど、悪魔絡みだとしたら…ちょっと危険な気もする。
「車への好奇心は有る様子だね、良ければ座るだけ座ってみるかい」
ふわっとなびいた黒いマント、ドアから手を放したお兄さんはカツカツとヒールを鳴らして遠ざかった。
「えいっ、って押し込む事も出来ない距離ね」
「だろう?所有物に好奇心を示され、自慢の心が疼かぬほど悟りを開けておらぬ身でね」
「結構俗っぽいんだ」
シートの手触りはベルベットの様な、それでいて滑らかな革の様な。
不思議な質感に二度三度、掌をぺたぺた押し付けてからチラリとサイドミラーを見た。
写り込む黒い影、あのお兄さんは遠く離れた位置でまだ待機してる。
「へえ、凄い!ダンテの乗ってた車より内装もキレイ」
以前ダンテに乗せられた真っ赤な車、見た目ばっかり派手で品も無くて。
吹き抜ける風も、ほどほどが一番だって思い知らされた。あの車、屋根も無いから潮風が髪に纏わりついてしょうがないの。
そういえばダンテって、運転のライセンスを持ってたのかしら…?
(今更だった、危ない危ない…悪魔じゃなくて事故って死ぬ所だったかも)
背中がぞわーっとして、妙な半笑いが零れちゃった。
「ねえお兄さん、この車って何処の国の物なの?」
遠くのお兄さんに問い掛ければ、その場から動かずに哂って答えた。
「“the nether world”」
「え?どういう事?云ってる意味解からない」
下界?冥土?何かのジョークかしら。
「ダンテも偶に遠回しなジョーク飛ばしてくるのよ、お兄さんのよりもうちょっと単純で下品だけど」
「へえ、応酬でもしてみたいね」
「止めときなってば!依頼した内容が面倒臭いものだと、ソレごとジョークにされちゃうんだから」
気になっていた右ハンドルに軽く触れて、本当に左右が違うだけなんだー…と、好奇心を埋めた。
フロントガラス越しに見る街路は、普段と別世界の様で……
って、ううんやっぱり、何か違う。
目を凝らすと、さっきまで居た石畳の上に…ふわふわ浮く光球とか、脚の長い影とか。
フロントガラスの埃とか光の反射じゃなくって…蠢いてる。
「お気に召したかい?」
「うん」
「良く“視える”だろう?ま、視え過ぎて情報量が多いから、時折人間に気付き辛いけれど」
サイドミラーに映る影がさっきよりも近い気がするけど、気にしないで助手席に腰を下ろした。
本当は下車するつもりだったんだけど…座り心地、凄く良い。
「安心し給え、無傷でデビルメイクライに送ってあげるよ」
サイドミラーに誰も映っていない、いつの間にか隣の運転席から聴こえる声。
ふわっと薫るお香が、頭をじんわりいい気分にしてくれる…そんなカンジ。
「到着まで、世間話でも頼むよ御嬢さん」
黒いグローブをはめたお兄さんの横顔を見る、口元がチェシャ猫みたくニタァと笑った。
見とれていると、シュルシュルと音がして…私の胴をきっちり固定するシートベルト。
「全自動なの、凄いね」
「フフ…ハイテクノロジーだろう?」
「でもこの車、なんだか…」
生きてるみたい、と云おうとしてやめた。
なんかバカっぽくて、ダンテの飛ばすジョークみたいだったから。
「ベルト、きつかったら教えてくれ給え」
「んー…大丈夫」
「其処から吸魔して動く車だからね。主に吸い上げるのは、運転手のベルトだけれど」
「キューマ?」
「ほら、前を御覧。道案内も宜しく」
云われて前を向けば、ゆったり流れ出す景色。
驚く程に音が無くて、これじゃあ接近にも気付けない筈だわ…と、独りで納得してた。
「最近デビルメイクライに、居候など居らぬかい?」
グローブがハンドルを握り直す度に、小さく鳴く。
髪の毛だけじゃなくて、指先まで真っ黒なんだなあ…と、ぼんやりした頭が思う。
「…お兄さんと同じ、真っ黒い髪だよ」
「へえ、指先まで黒かったりするのかい?」
「いつも素手よ」
「素手だろうと、黒い時も有るのだろう?」
初めて見た時、そういえば…黒い紋様が身体のあちこちに渡ってた。
私を追いかけてきて、マフラーを掴んだ指にも見えた黒。
「でもお兄さんのグローブほど…全部真っ黒じゃないわよ」
「知っているさ、ブラックニッケルのリングを填めている様な指だね。しかし、ツノだけは全体が真っ黒だろう?」
「そうそう、あそこだけ全部真っ黒………あ、そこの交差点は右…」
指示通りにハンドルを切るお兄さん、景色が開けて夜空が見え隠れ。
明るい時間には目立たない月に、カラスの飛ぶシルエット。
「あんな眼の色」
「知っているさ」
「んもう、じゃあ云わなくても良いよね、私より知ってるんじゃないの?」
「確認作業さ、パティ嬢。それに君も少女の例に漏れず、甘いお菓子と噂話が大好きだろう?」
「ストロベリーサンデーとかね」
「道案内の御礼に、後で御馳走してあげる」
「ホント?やったあ…」
そういえば、何の為にデビルメイクライに向かってたっけ。
ま、いいや。私はいつも依頼なんかしないし、ダンテの散らかしたピザの空き箱をカウントして…
多ければ多いほど、バカにしてやるんだから…このグータラ男、って。
「あー、でも…最近事務所キレイだもんなあ…」
思わず声に出して呟いちゃったけど、お兄さんは追及してこない。
すると、それはそれでウズウズし出す。甘いお菓子も無いし可愛いカフェでも無いけど、どうしてか口が弾む。
「あのね聴いて頂戴、最近ダンテってば私が世話してあげなくても暮らせる様になっちゃったの」
「へえ、男を奪られて御立腹とはマセているね」
「違うってば、あの居候が甘やかし過ぎるからいけないのよ!私がもっと、ダンテをこう躾ながら…!」
「知っているかい?そういうのを通い妻と云うのだよ」
「だーかーらっ……そんなんじゃないってば!そうそう、だってね――」
なんで、こんな見ず知らずの人に愚痴ってるんだろう…
でも気分が良い。ノってるのよ、車に、じゃなくって。
少し押せば、チクチクと棘が刺さって返ってくるから、それを抜く為に更に押すと……今度は違う棘。
無理矢理問い質されないから、出し渋る事すら忘れてしまうのかしら。
こうして分析出来ているくせに、どうして口がペラペラと伝え続けるのかしら。
(でも、イイ気分…)
お香の匂いと、吸い付く様なシートの座り心地と、走行の眠気を誘う揺れ。
ガラス越しの普段の路も、夢の中みたいに意味不明な生き物が闊歩してる。
(それとも、これ…夢かなあ)
だとしたら、ストロベリーサンデーは無しかあ…と、妙にがっかりした。
「…で、お前はノコノコと車に乗っちまった事について、反省してんのか?」
「そりゃあ…ちょーっとばかしウカツだったかなあ、と思ってるけど」
ソファにふんぞり返っているパティ、そのモーションに反省のしおらしさは微塵も無い。
こんな夜中に来て、事務所のドアを開けるなり「車で送ってもらっちゃった、お嬢様みたいでしょ」とか抜かしやがる。
パティの家に車は無い、怪しいもんだからその出所を訊けば…驚きの内容だ。
小さな来客の為に茶を用意していたヤシロが、手を滑らせてポットごと落とした位のバッドニュース。
「でも、こうしてちゃーんと送ってくれたわよ?無傷で」
「お前が手ぇ出すまでも無い貧相なガキだからだ」
「失礼ね!そういう問題じゃなくって……って、どうしてダンテ達はそんな顔するの?そんなに悪い人なの?」
「確かにクズノハって名乗ったんだろ?その男」
忘れたくても忘れられねえ、その名前。
人違いなんて事は無さそうだ。全身黒づくめの東洋人、角ばった帽子とモミアゲ、マントコート…
神出鬼没、ニヤニヤしたあの哂い。
「アイツ、替えのマントは持ってたみたいだなあ、ヤシロ?」
割れたポットの破片を箒で掻き集めるヤシロの背中が、一瞬止まる。
先日…レディに寄越されたという依頼主のマント、あれも間違い無くクズノハの物だろう。
「良かったじゃねえか、まだこの辺に滞在してるみたいだぜ」
「…嬉しい事なんて、ひとつも」
「ま、そうだな、そのまま帰っちまったみたいだしな」
デスクから脚を降ろして、ミリタリーブーツで床をギシギシ云わせる。
雑穀の入っていたジュートの袋を広げ、破片を突っ込んでいるヤシロの背中……そう、背中ばかりでこっちを見もしねえ。
今、どんな顔をしているのか…見てみたくなって、華奢な其処に軽く抱き着く。
「お前の事、もう諦めてくれたのかもな?」
「……だったら、助かるんですけどね」
ヤシロが袋の口を結ぶと、穀物の匂いも消えた。鼻腔を擽るのが、ヤシロだけのものになる。
一番強く匂いを感じる項に鼻をすり寄せてみれば、コイツの背に合わせて屈めた腰がちっとばかし窮屈だった。
強張っている身体、今度はその胴に腕を回す。
「な…に、ふざけてるんだダンテ」
「身体は拭いたぜ?水滴がフローリングに残る…ってお前が嫌そうな顔するから、最近ちゃんと拭いてからこっちに来るだろ俺」
シャワー上がりにトップスは着ないので、ヤシロの背中に押し付けている胸は生肌だ。
宣言通り拭いてあるので、ヤシロのパーカを湿らせる事は無い。
「…お客さん、居るだろ。それに、そういうの…苦手だ」
小さな声で、内緒話の様に呟くヤシロ。
俺の腕を上から掴んで、片腕ずつ開かせて剥がしていく。
「クズノハが迎えに来なくて、拗ねてるのかと思ってな」
そう云ってやれば、腕の中で震えた。俺は続いて目の前の、真っ赤になった耳に軽くキッスしてやる。
すると、振り解いてから睨んできた……流石にパティの手前、悪魔化はしていない。
「そんなの来なくていい、あいつは俺の邪魔ばかりするから」
「そうか?だってお前、目的の為にアイツの悪魔になったんだろ?」
「……都合が悪くなって…だから、もう契約を破棄したい」
「そうそう破棄っつったら丁度良い、二階の廊下にゴロゴロ転がってるブツが有ったろ?」
「あの大量の箱?」
唐突に切り出した俺を、少し訝しんでいる眼だ。
それでもすぐに話が通じる、廊下の障害物を余程邪魔に思っていたんだろう。
「そう、アレ全部弾の箱でな…ああ、弾ってのはアレだ、エボニーとアイボリーの」
「棄て易く纏めておけば良いのか?」
「実は、まだ中に弾残ってるまま放置してるのが多分有るんでな。中身残ってたらそれ抜いといてくれるか?」
「…確認してから放れば良いのに」
「ハハ、悪ィな。ピザと違って腐らねえもんだからな」
溜息と共に、ジュート袋を掴んで階段に向かうヤシロ。
その脚が少し急いて見えるのは気のせいじゃない、多分此処から逃げたかったんだろう。
昇って行く姿…赤いままの耳を軽く撫でるのが、最後にチラリと目に入った。
「お熱いこと」
呆れ声のしたソファを、俺は振り返る。
脚をぶらぶらさせて、ジロジロと見てくるガキの視線、別に痛くも痒くも無ぇ。
「お前もハグして欲しいか?」
「遠慮しとくわ、暑苦しい」
「俺も遠慮するぜ、お前硬そうだし。それにな、仕事の時の恰好よりは涼しげだろ?」
「着てた方がマシだってば、肌色の面積減らしてよ」
改めて淹れて貰った茶を啜っている…毎度世話焼きなガキ。
それでも最近は、ヤシロに仕事を取られて暇を持て余している様子だ。
家で大人しく母親と過ごして居れば良いのに、どうやら蛇が出るまで藪を突つつくのが好きらしい。
「お前も二階で弾、見たかったか?」
「どーして私が弾なんて見なきゃいけないのよ、油臭いしつまんないし」
「興味有るかと思ってな」
俺は再び椅子に座り、調整中だったエボニーとアイボリーを撫でつつ問う。
命中精度の高い黒…連射性に優れた白…
「な、そういうの大好きだろ。お前の撃ってくる弾丸…弾けば程度は判るぜ?エグい細工しやがって、只のコルトじゃねえだろアレ?」
「ちょっと勝手に妙な話を進めないでよ、おまけに意味分からないし!ジョークって万人に通じないと、寒いだけだと思うけど?」
「何処を弄れば殺傷力が向上するか、頭に叩き込んであるんだろ?悪魔相手となりゃ、本気出さないと死んじまうもんなぁ…“人間”は」
パティのぶらぶらしていた脚が、揃ってピタリと止まる。
横目にじっと俺を見つめた後、腹を抱えてゲラゲラ笑い出し、ソファにひっくり返っていた。
「ちょっと、ダンテ、あは、あははっ!何真面目な顔してるのよっ、あは、おかしぃ」
「さっきはよく我慢したな?あれでも結構ベタベタしたんだが…キスは唇にした方が良かったか?」
「だってヤシロといちゃついてるのはいつもの事じゃないの、一方的だけど」
「割って入ってくるかと踏んでたんだがな…あれじゃ俺の嫌われ損じゃねえかよ、ビンボー籤だぜ全く」
エボニーの黒光りを、照明に翳してから差し向ける。
ソファで転がり回っていたパティが、俺の向ける銃口を凝視しながら起き上がった。
「何してんのよ…」
「いい加減タネ明かししな、クズノハ」
「はぁ?どうして私がクズノハなのよ、さっき話したじゃん。あの人、事務所に寄らずそのまま帰って往ったって。何…化けてるとか云っちゃう訳?」
「悪魔の力を拝借すりゃそんなの朝飯前だろ」
「バッカみたい、そもそも私がクズノハなら、わざわざ話題に出さないわよ?自分の事」
まさか撃たまいと思っているな?その無邪気な笑顔は、確かにパティだ…
「お前はそういう奴だ、クズノハ……その「まさか」って虚を突く、そういうのが十八番だろ?」
「まだ云ってるし、あははっ!そんなに疑ってるなら撃ってみたら?損害賠償請求したいから、頭と心臓は止めて欲しいけど」
呆れた、と云うかの様に肩を竦ませるパティ…の偽者。
そう、偽者だ。今の台詞で確信した俺は、エボニーの安全装置を解除した。
「ミスったな、クズノハ」
依頼通り、急所は外した。至近距離からの銃撃を避けきれる筈もなく、パティもどきはソファの上で軽くバウンドした。
腿辺りを狙ったので、スカートに穴が開いているが…繊維の焼け焦げた穴とは違う。
魔力の揺らぎって奴だ、空いた穴からじわじわと拡がっていく黒。
夕暮れ雲の隙間から、闇が垣間見えるそれに近い光景。
「確かに昔のパティならさっきみたいに云うかもな。アイツは自分の強運を自覚してるし、アツくなり易いからな」
念の為に向けたままの銃口、その先にパティの姿は無い。
今見えているのは、ソファに凭れるまま俺を睨む“野郎”だけだ。
「……クク…余計な事を云いましたか?僕」
「お前にゃピンと来ないかもしれねえが、教えてやるよ。今のパティには母親が居る。命を賭ける様な事、ジョークでも云わねえぜ」
大事な存在が出来た瞬間から、自身も大事にする、そういうモンだろう。
守りに徹する、それはチキンでも何でも無い、牙が抜かれた訳でも無い。大事な物の為に、いざとなりゃ戦える。
天秤にかけていって、大事な存在の次に重いのが自分ってだけだ。
「思い切りが悪くなる…足を引っ張るだけだとお前は哂いそうだが…そういう奴が居た方が幸せだぜ?」
「へえ…貴方は居るとでも」
「俺は、親父の護った物を護る、悪い心地でもねえしな」
「人間を護ると?だからデビルハンターに?」
「ま、そういうこった」
「それならば、半分悪魔のアレは該当しないという事になる」
「そりゃお前の主観だろ?俺からすりゃアイツは人間みたいなモンだ」
鼻腔を擽る鉄錆の様な、ワインの様な匂い。ボトムの腿辺りを濃く染めるクズノハ、絶賛失血中だ。
45口径だってのに、悲鳴のひとつも上げなかった。こいつ、やっぱりイカレてやがる。
俺の攻撃で奴の擬態は解けたが、それでも既に得物の柄を握っていた。
「パティは何処にやった?」
「オボログルマでドライブ中ですよ…何、心配には及びません…率先して第三者に危害を加える趣味は無いので」
「必要なら、やるって事だな?」
「家に辿り着く事も無く、神隠しに遭った…という話は、何処の国でも珍しくも無いでしょう、フフ」
何処までが本気か、イマイチそれが判らねえ…このデビルサマナー。
しかしパティの奴、本当に車に釣られて乗ったんじゃないだろうな、お子様め。
「お前は何しに来た?ヤシロを連れ戻しにか?」
「おや、正直に云えば寄越してくれるのですか」
しばし睨み合い、俺は何となく気付いてふっかけてみた。
単なるボイコットな訳無い、ヤシロはバラバラになって俺に“お届け”されたのだから。
クズノハライドウが、あそこまでヤシロを傷付けるとは思えない。
人修羅としての治癒が働く範囲でしか、バラさない筈だ。
しかもヤシロのあの態度……どうやらこれは裏が有る。
「……ハハッ、お前アレだな、今回蚊帳の外だったんだろ」
「外だろうと内だろうと、アレは僕の使役悪魔。契約も切れておりませんのでね、返して貰うまで」
「何だぁ?あのジジイ…ルシファーの手引きか?」
「さあ?如何でしょうね。そんな事は人修羅に訊けば良い」
ビンゴ、コイツも何も知らないと見た。
だから慌てて追って来たって所か…残念ながらプレゼントの箱を開封したのは、俺だった訳だが。
「そうだよなぁ?アイツが堕天使とグルになってるとしたら、お前にとってはかなりヤバイ。何か手を打たねえと、エネルギーを吸われ続けるだけ…」
「心配御無用、いつでも契約破棄は可能ですからね」
「しかしお前は簡単にアイツを切れない、折角ボルテクスで弱みにつけこんで従えた人修羅を…手放せば二度と得られないからだ」
「へえ…断言します?」
「ああ、ハッキリ云ってやるぜ?アイツがシラフなら、お前の悪魔になんざなりゃしなかったろうさ。精神虚弱な所を突いた、お前がよっぽど悪魔さ」
「しかし貴方は、人修羅がシラフに戻る前に殺害しようとしましたね。気が動転し、訳も分からぬまま死に逝く人修羅の方が…都合が良かったから」
手負いで不利な状況だってのに、挑発してきやがる。
貼り付いた様なその哂いは、一体何処で習った?
「本当性格悪ぃなお前」
「アレが降りて来たら、先刻接吻されていた耳を削ぎ落としてやりましょうかね」
「おお、怖ぇ怖ぇ。此処でこれ以上血を流されても掃除が大変なもんでね、お引き取り願おうか?デビルサマナークズノハ」
「僕が死ねば、パティ嬢には冥府へとドライブコースを変更して頂く事になりましょう」
「…人間の致命傷ってのは、どの程度だったっけなあ?」
首を傾げると同時に、エボニーの引き金を引いた。
さっきは右足の腿を狙ったので、今度は左足の腿にしてみた。
すると、クズノハも既に擬態を解いただけあって、まんまとやられてくれはしない。
一発目は喰らってくれたが、それ以降の弾はソファにボスボスと埋まっていくだけに終わる。
俺も事務所のソファを蜂の巣にする趣味は無いので、片手にアイボリーも構えて椅子から飛び降りる。
「止めとけよ、人間に負ける俺だと思うのか?」
「此方の目的は貴方の始末では無い」
マントを翻し、銀色の胸元を掠めるクズノハの指。
目に見えているキツイ蛍光色は、あのサマナーの姿によく映える。
「ボイコットした犬の様子を見に来た、それだけ」
ヨヨギ公園の工事現場で以前見た、デカい蜘蛛を呼び寄せたクズノハ。
ソイツの脚が一本、ソファに喰い込みガスリと音を立てる。
「おいおい、それ以上穴増やしてくれるなよ」
アイボリーを連射しつつ、少しだけ間合いを取った。
案の定、蜘蛛の糸が俺目掛けて放たれ、撃ち出した弾は包まれ無効化されていく。
「ヒュウ、前より反応速いじゃねえか」
『舐めるな小童めが!今回は問屋が卸さんわい!』
蜘蛛に任せて、その隙にヤシロをどうこうしようって魂胆かもしれないが…虫一匹で足止めされる俺と思うな?
バッサリやればワケ無い、あの糸がどれだけ粘着質でも構わない。
繭みたいになったリベリオンごと、蜘蛛の頭をブチ抜いてやれば良いだけだ。
俺は片足を壁際に一歩寄せ、掛けてある武器に語りかける。戦いの準備をしろ、と――
「ツチグモ!あれを奪え!」
張り上げられるクズノハの声は普段より少しだけ高い調子で、一気に空間を通った。
即座に腕を伸ばしたが、リベリオンの柄に指先が一瞬触れるに終わった。
しゅるしゅると糸に巻き、引き寄せた剣をジロジロ眺める蜘蛛。
『ふむぅ…なにやら煩いぞ、この獲物』
「ヘイヘイ蜘蛛ちゃん、それはお前の獲物じゃなくて俺の得物なんだよ、とっとと返しな」
あの蜘蛛の手元でブツクサ云ってるらしいリベリオン。
攫われた事に関してじゃねえな、多分俺をマヌケと叱咤しているだけだ。
「残念ながらお応え出来ませんね、ダンテ」
「だろうな、まぁ構わねえがな。俺はヌードでだって戦えるぜ?丸腰と思うなよ」
「そうですね、武器も此方が預かっている事ですし。丸裸となってソッチの柄を握っておけば宜しいのでは?」
万人向けのジョーク云々とかぬかしやがったのは、何処のどいつだったか。
洗練された立ち振る舞いの癖にこのガキ、相変わらず品性下劣なスラングを連発する。
「さてと…ふざけるのもいい加減にしろクズノハ」
少し詰め寄れば、蜘蛛が天井と床に向かって同時に糸を吹き付け、俺の前に壁を作った。
魔人化もせず素手で触れると面倒そうだ、潜れる隙間も無い。
「白いモンびゅるびゅる際限無く吐きやがって、お前等が掃除しろよ」
「銃も剣も、貴方のはやたらと重量が有って大柄だ。フフ…股のソレも大きいだけですかね?」
剣に関しては、兄貴の使っていた閻魔刀とクズノハの武器が似た形をしているので、若干イラっとキた。
良いぜ、まんまと乗ってやろうかお前の口車に。パティの事は棚上げだ、俺もドライブに付き合ってやる。
「別に俺は大艦巨砲主義でもねえし、フニャってもねえ。ヤシロも云ってたぜ?「ダンテのはゴツくて跨ってもグラつかない、すげー興奮する」ってな」
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