モイライ三姉妹


何故人の背中はこんなにも温かいのだろう。
昔、母に背負われて、思った。
妙に幼少時代から、達観していた節の有る自分は
まるで人事の様に思ったのを憶えている。
「矢代は一体どんな人をお嫁さんにするのかな?」
母の声が、眠気に揺られる俺に降る。
「そんなの、わからないよ…」
寝惚けつつ云うと、笑う母。
「赤い糸は誰に繋がっているのかな〜?」
「あかいいと?」
「知らないの?やぁくん?」
茶化して云う母に、何となくはねっ返す。
「しらないよ」
クスクスと、母は微笑みで返す。
「運命の人に繋がっているんだよ」
「ないよ」
「見えないから、自分じゃ分からないのよ」
そんな事を話しながら、背負われて歩いた。
「女の人を護るのが、男の人の宿命なのよ」
「なにそれ…」
口を酸っぱくして、よく母が唱えていた。

母の背が不服と思う事は微塵も無かったが
父の背だったら、これがもっと広く逞しいのだろうかとか
ぬくもりが、匂いが違うのかとか
勝手に父の背を夢想していた。

何となくの温もりと、白檀の香の様な香り。
と、偶に混じる生臭い錆の臭い。

血の臭い…
身体がざわめく、脳が覚醒する。
それに自ら不安を感じて、背首を抱きしめる。
(離れないで)
(置いていかないで)
取り残されれば、その中に呑まれてしまいそうで
抱きしめた香りを吸う。
写真も無い父の仏壇に手を合わせる時の、香の香り。
あれよりは幾ばくか甘やかな。
「父さん…」
呼んだ記憶すら曖昧なのに、そう口が開く。
薄っすら瞼を上げた。

(…!?)

違う。
違う、こんなの違う…!
母でも父でも無かった。
そいつの反応が恐くて、回した腕をすぐ解く事も出来なかった。
刀を無慈悲に振るい、悪魔の肉を削ぎ落とす。
その残滓を掃う時の動きすら流麗な、迷いさえ無い。
黒い外套が死神の様な男。
(葛葉ライドウ…!)
俺は、なんて馬鹿なんだろう。
睡魔なんてここ最近無かった筈なのに。
まさか人の背が心地良い所為で…なのだろうか?
憎きこの男の首に腕を回す理由なんて、くびり殺す為以外有ってはならない。
いつ、絞めようか…
悟られぬ様、力は抜いたまま思案する。
敵から攻撃を受けた所を狙うべきか、気を抜いた瞬間を探すか。
様子を窺う。
しばらくして、細い通路に入ったのが分かった。
薄暗くなった空気が、瞼越しに陰を落とす。
すると、殺気が背に奔る。
悪魔と対峙したのだろうか、ライドウの手元から
柄を握り直した音が伝わる。
しかし、仲魔は管にしまったらしい。
一体どういうつもりか、と思い腕の隙間から垣間見る。
土偶の悪魔が二体…
(アラハバキって奴だっけ)
殴っても、ビクともしない為
いつも面倒だから逃げている。
迫るアラハバキ、防御に徹するライドウ。
何考えているんだこの男は。
こんな悪魔、わけないだろう!?
鈍い衝撃が背中越しに身体に響いてくる。
このままだと、目の前であの悪魔達がぶつかり合い、飛散する。
その欠片を浴びるのは、俺を背負う男だというのか。
…寝覚めが悪い。
そう感じた瞬間、腕に集中する魔力を掌になびかせて
ライドウの眼前に交差させていた。


「で、もう歩けるのか?」
背負われたまま、咄嗟に首に手を掛けた俺に対し
平静に問うライドウ。
この、絶対的に俺が有利な状況下でその態度。
それとも、切り札があるのか?
俺は何も優位に立っていないのか?
根拠の無いこの男の自信が、俺の意志を突き崩そうとする。
「黙れっ、俺の質問に…そのまま答えろ」
まずは喋らせよう。
語るこの男は、好きに語り終えるまで攻撃に移らぬ筈だ。
俺自身、この悪魔召喚師について知らぬ事が多過ぎた。
「…どうぞ、お好きに」
「じゃあ聞くが、あんたは何者だ?日本人ではあるみたいだけど」
「そうだね、日本人である事は確かだな」
「デビルサマナーって、職業なのか?」
「国の機関だよ、公務員というやつさ」
「んな訳有るかよ、悪魔を使役する公務員なんて…おかしい」
信じられぬといった風に反応する俺に、ライドウは哂った。
「時代が違う、君の知るところではない」
「時代?なんだそれ…」
「僕は大正20年から来た、ある方に依頼を受けてね」
大正20年?
違和感を感じたが、そもそも時代を超越する時点でフィクションだろ。
「君と同じ、学生だよ功刀君」
その言葉に、初めて気付かされる。
この男、外套の下は学生服だ…!
頭には学帽。
俺と、同年代…っていうのか?
色々な事実に辟易するが、先程の台詞が気になり掘り返す。
「依頼って、何だ?俺を狙うのも…その依頼、なのか」
「顧客情報は開示出来ません」
(こいつ…!)
おちょくっているのか。
首にかけた手に、力が入る。
喉仏の凸に指がめり込んだ。
「云えよ、葛葉ライドウ」
「…」
「何代目だっけ?あんたの代で終わらせてやろうか!」
俺がそう脅し叫んだ瞬間、脚を支えていたライドウの腕が解かれた。
重力に逆らわず、下に落ちる俺は
奴の首からだけは手を放さない様に、更に力を込める。
そのまま一緒に背面から、床になだれ込む。
「いっ!?」
酷い衝撃に、眼が一瞬飛び出そうになる。
恐らく、項から出ている突起が床に叩きつけられたのだ。
手から一瞬力が抜け落ちる。
それを知っていたかの様に、ライドウはがばりと跳ね起きる。
するりと紐を解き、俺の首から外套を持っていく。
見れば管を抜いていた。
「誰と戦いたい?」
「っな…」
「ヨシツネ?モー・ショボー?他にもいるが」
「舐めるな!」
「君相手なら、イヌガミでも事足りるかな?」
ビリつく突起を押さえ、立ち上がると同時に
ライドウに殴りかかった。
すると一瞬で抜刀するライドウ、管召喚ではないのか…!
俺の予測も虚しく、その刀で顔面からバッサリと斬られる。
痛さより、熱さが勝る。
「うううっ!!」
反射的に目元を押さえ、もんどりうつ。
背後には壁がくる様、ライドウから離れる様。
それだけは無意識の内にしていたが。
「失明したらまた負ぶってあげようか?」
赤い景色の中のライドウが云う。
視界が、血で染まっていた。
「いらないっ!」
吼えて、手を翳す、が。
(あ…っ!)
仲魔は、殆どが戦える状態では無かった。
主力は先刻、対峙する召喚師に痛めつけられ。
他の面子は此処の悪魔に太刀打ち出来る技量は無い。
停止する俺に、ライドウが口の端を上げる。
「悪魔を嫌い過ぎだろう君?この世界で生きる術なのに」
呆れたように哂うその顔に、沸々と怒りがこみ上げる。
「悪魔なんか誰が好くか」
「君は人修羅の名を冠しているのに?」
「いらねぇよこんな力!!」
額の血を拭い、気合を入れる。
踏みしめた脚から、魔力が滲む。 一発で、骨を容易く折る位の拳を見舞ってやる。
俺の心を粉々にしたあの男だけは、やはり赦せない。
「…まだだ、君はまだ成熟していない」
対峙するライドウは、そんな不明瞭な発言をし
くるりと踵を返す。
「待てよ!まだ終わってない!」
その後を駆けて追う。
なびく外套が、その軌道を印す。
追い詰めたと思ったが、それは行き止まりでは無かった。
赤い脈動が、壁を流れている。
(昇降装置…!)
赤く息づくブロックに、ライドウが飛び乗ったと思えば
それは上空へと舞い昇って行った。
「くそっ」
大掛かりな昇降装置の割りに、早い動作。
上空から、声だけが降りてきた。
「おいで人修羅、ボルテクスを上から眺めよう?」
抑えきれぬ笑い声が滲んでいた。



「俺は、悪魔が嫌いだ」
『…』
「君にこんな事云うのも、失礼な話だけど」
泉で仲魔達を休息させる際、俺はキクリヒメにそう洩らした。
思わぬ処に在った休憩地点に、安堵しつつも
俺は陰鬱な気持ちを引きずっていた。
『お嫌い…ですか』
「…」
『然様で御座いますか』
その伏せられた瞳が何を意味するのか、あまり考えたく無かった。
泉のせせらぐ音が、洞内に反響している。
「他の仲魔も分かっていると思うけど…俺は勧誘は、基本的にしない」
『ええ』
「君も合体から生んだ」
『憶えておりますわ』
「来る者は拒まないし、去る者は追わない」
だから、定員はいつも少ない。
最初の頃は、勧誘した事も有った。
でも、狡猾な悪魔に自分が勝る筈も無く。
苦汁を舐め、もうする気になれなくなっていた。
「悪魔が嫌いって、オーラでも滲み出てるのかな」
脚を伸ばし、膝に肘を付き頬杖をする。
「なあ、キクリヒメ?」
傍の悪魔に問い掛ける。
『あの…あまり、自身を責めないで下さいませ』
「…」
『その御身、大切にして下さい』
「…有難う」
その、真摯な瞳に俺は居た堪れなくなる。
思わず、彼女と逆の方を向きながら云った。
悪魔に慰められた。
それとも、俺はそれを望んで話していたのか?
『あの、ひとつ宜しいでしょうか』
その声に、俺は振り向かず返す。
「何?」
『此処の三姉妹に、貴方様は挑むのですか?』
「先せ…ニヒロの巫女に、会うつもりだから」
『三姉妹は女性の姿…その彼女達とまともに戦えるのですか?』
考えたく無かった事を、見事に挙げてきた。
「ヤクシニーを殺した事がある」
『ですが…』
「キス、されたんだ」
『えっ?』
「初めて他人に、キスされたんだ、俺…人間の頃から数えて、だよ」
『せ、接吻…に御座いますか?』
その少し言いよどんだキクリヒメを、今度は逆に見た。
付いていた頬杖を解き、片膝を立てて額を乗せる。
「舌を入れられて…俺は、それが正直…恐くて、気持ち悪くって」
思い出すと、寒気がする。
「その後、身体が恥と怒りで埋め尽くされた」
『…』
「俺は、その入ってきた舌を噛み千切ってやった」
そう云いつつ、思い出した。
そういえば、カブキチョウ捕囚所で
俺は何故ライドウに似たような事された時
何故舌を喰いちぎってやらなかったのだっけか?
如何せん、そんな際の記憶は曖昧で。
おまけに、思い出したい類の記憶では無い。
「この腕に、抱きしめた事も…望んでキス…した事も無い」
斑紋の浮かぶ腕を、間近に見る。
「護った記憶も無い」
『ヤシロ様』
「この手でした事は…女性悪魔を引き裂いて、舌を噛み千切り、ゴミ屑同然に棄て去った事…だけだ!」
腕に立てた爪が、痛い。
(普通に…還りたい)
あの時代に、戻りたい。
まともに働いて、結婚して、親の面倒を見て…
母に、赤い糸の相手を見せてあげたかったのに。
俺が今、してる事は一体何なのだろう?
「ひとに…人に還りたいんだ」
『お心だけでは、満足いきませぬか?』
キクリヒメは、解っていない。
「身体から、侵蝕されていくんだ、意識が」
(身体から、意識改革させられる)
女性、なんてモノの考え方を棄てさせられる。
女性、なんてモノ、この世界には無いのだと。
ボルテクスには、悪魔が居るだけ。
女性を模った、悪魔が居る。
それは女性、では無い。

使役するもの
殺すもの

「少し眠らせてくれ」
眠い身体は、おかしい。
この人修羅の身体にそんな異常が訪れているのは
精神がもたらす不均衡さが影響しているのか。
(倒さなきゃ…殺さなきゃ…)
その手で、囚われの巫女を、女性を救い出すのか、俺は。
狂ってる…この世界は、狂ってる。
『癒して下さいませ、ヤシロ様…どうか』
キクリヒメの声と、せせらぐ音が合わさり
俺の心を鎮めた。
俺の意識は、泥沼に引き込まれる様に呑まれた。



『ククク…ようやく解った?繰り返さずに済む方法が』
口の端の血を拭い、対岸に居る女性三人を見る。
「追い…詰めた…」
『“追い詰められた”の間違いではなくって?フフフ…』
『そんなボロボロで、今からわたくし達をまとめて相手しようと?』
あの時間操作の仕掛けに、相当惑わされた俺は
云われる通り、解けた頃には身体も仲魔もボロボロだった。
(仕掛けさえ無ければ、もう少しマシな状態で来れたのに!)
浅はかな自身を呪うが、もう後には退けなかった。
『お前の糸はこのクロトが紡ぎ出そう』
『その長さはラケシスが』
『終える瞬間は、わたしアトロポスが』
フフフ…
ククク…
ホーッホホホホ…
カグツチの光が射しこむ空間に、三姉妹の笑い声が響き渡る。
「マカミ!」
お決まりだが、まずフォッグブレスを放つ。
しかし、マカミも先の戦いでかなり消耗している。
チャクラドロップなんて、そう数を持っていない。
『こんな煙、何て事無い!』
編籠のような羽織を翻し、クロトがデクンダを唱えた。
一気に解消された効果に、思わず落胆する。
『ヤバイ、モウ吐ケナイゾ』
マカミの状態は危険だ。
しかし、構ってばかりもいられない。
『半分悪魔だと不便ねぇボウヤ!』
続けて攻撃を繰り出す姉妹の波が、一通り来ると
先刻デクンダを唱えたクロトが、冷笑を浮かべて魔法を紡ぐ。
その眩い光は危険な輝きを放っていた。
「キクリヒメ!防げ!」
慌てて指令を下す。
『テトラジャ!』
間一髪で、そのシールドが目の前で砕け散った。
つまり、クロトの破魔魔法が効いていた、という事だ。
ぞっとしながら、間合いを取る。
『中途半端だからハマもムドも効くそうよ』
『んまぁ、良いところ無しじゃあないの』
笑い声と共に、放たれる吹雪。
さっき来たのは炎だったのに…
先程喰らった火傷痕に、今度は霜がおりる。
骨の髄まで来る冷たさに、体が縮こまる。
このままやられているわけにもいかない。
集中して、魔力を均等に両腕に点す。
霜で固まった辺りを、灼熱で溶解させた。
その熱風に、羽織を焦がした姉妹が糸を舞わせる。
『暴れまわって、下品なネズミ!』
『さっさと繋いでしまいましょうか』
不敵な笑みを浮かべた姉妹が、顔を見合わせて頷く。
なにか恐ろしい技でも放たれるのかと、身体に緊張が奔る。
『我等の術、思い知るが良い!』
クロトの糸巻きから、糸、と形容するには若干太いそれが
軸を回りつつ解けていく。
『貴様の命運、此処で尽きたり!』
ラケシスが解けた糸をたぐい寄せ、魔力を込めて此方へと放つ。
生き物の様に迫り来る糸を、二転三転と後退してかわす。
「くっ」
まだ追ってくるしつこい糸に、逃げ場が失われていく。
『そうそう、考えてお逃げ!』
『その長さが貴様に与えられる猶予なのだから!』
(どういう意味だ!?)
猶予、などと恐ろしい単語が聞こえてくる。
柱の影に転がり込み、見計らい別の影に移ろうとする。
「!!」
ぐるりと這う様に柱を伝う糸が、自身の首を捕らえた。
「あがっ!うううううっ!!」
強い力で、そのまま引きずり出される。
絞まる首の糸を指で解そうと掻き毟る。
しかし身体は容赦無く中央へと放り出された。
『まるで聞き分けの悪い犬みたい!』
『嫌だわ姉さま、お下品で…』
姉妹の会話が耳に入る。
剥けた皮膚を下に、脚を地に立てようと起きる。
「う…っ」
『ほら姉さま!』
その声に反応し、糸を手繰るラケシスがぐい、と引く。
「ぐううっ!!」
更に絞まる首に、身体が強張る。
相手に攻撃するどころか、これ以上絞まらぬようにする事に必死だ。
『ヤシロ様!今癒します!』
『顔ヲ伏セロ!ゴシュジン!』
キクリヒメとマカミの声と共に、灼熱が俺とラケシスの間を吹荒れた。
マカミが余力を使い果たし、ファイアブレスを放ったのだ。
そしてキクリヒメの唱えたディアラマが、俺の身体を覆った。
だが、おかしい。
首の糸は、まだラケシスの手元へと繋がり
癒しの光に包まれた筈の肉体は再生しない。
『どうした人修羅よ、何かおかしいのか?』
『フフフ…』
俺の表情に焦りが浮かんでいたのだろうか。
姉妹の嬲るような言葉が、俺を穿つ。
「この、糸…っ」
よろけつつ、膝立ちになる俺に
もうひと手繰いしたラケシス。
「ぁう!」
その足下を舐めるように、俺は首から持っていかれ跪いた。
『これは切れぬ糸、お前の為に私が紡いだのだから』
クロトが傍で笑う。
『私が操れば、貴様はその糸に委ねるしかない』
ラケシスが糸をクイクイと引き、俺の首をゆるゆると絞め上げる。
『わたしの鋏で断ち切らねば、未来永劫ずっとそのまま』
愉しそうなアトロポスの声。
『そんな、ど、どうすれば…』
背後で慄くキクリヒメ。
無理だ、三体を相手に…
おまけに主人である俺がこの状態だなんて。
「戻れ、キクリヒメ…マカミ」
俺の搾り出した声に、眉をひそめて首を振るキクリヒメ。
『このままにして行けません!』
『今度ピクシーニ会ッタラ、殺サレル!』
半分は冗談だろうが、マカミまでそんな事を云って旋回した。
『ホホ!なかなか優秀な悪魔を従えているわね』
手の空いたアトロポスが、その顔を覆う外布の隙間から
光る眼を覗かせた。
『でも、何人たりとも邪魔はさせないわ』
鋏をキチキチ噛み合わせ、笑いながら唱える。
『大人しく凍っていなさい』
その冷笑で、心も凍ってしまいそうな
そんな笑みを湛えて、キクリヒメ達に猛吹雪を吹き付けた。
『っ…ヤシロ様!』
最後に一声上げて、キクリヒメは消えた。
マカミと共に、俺の中へと姿をやつし
辺りには凍結した地面の軋む音だけが残って響いていた…
『さて、お前だけになってしまったな人修羅よ』
クロトの声を皮切りに、一斉に姉妹の視線が俺に注がれた。
『しかし果たして本当にこれで創世を成す男なのか?』
ラケシスが嘲笑い、糸を引く力に緩急をつける。
『全然、弱いじゃない』
アトロポスが無邪気に笑い、背後から俺の頭を小突いた。
「ぐ…っ!」
視線だけを背後に送るようにして、俺は脚を大きく薙いだ。
『きゃ!』
脚の先に、接触を感じる。
悲鳴が示唆するのは、アトロポスに蹴りが入ったという事実。
『貴様っ』
だが、途端ラケシスの引く糸が俺を絞め上げる。
「ひぐ…っ」
『一思いに殺してやろうかとも思ったが、余程遊んで欲しいようだな』
クロトが云う、恐らくこれでハマが飛んでくる事は無くなった訳だ。
『痛いじゃない!』
背後からアトロポスの金切り声と、何かの圧を感じる。
背を一瞬で幾重にも鞭で切り裂かれたような衝撃。
ザン系の魔法だろうか。
「ふ…っ、う…ぅ」
脂汗が滲む、マガツヒを纏うそれが床に滴った。
焼け付く様に痛かった。
おまけに今、こうして糸に繋がれている以上治癒は望めない。
歯を食い縛って、その魔法に耐える。
『確かに、マガツヒだけは極上の様だな』
『どうせ放置しても我等ニヒロに害をもたらすだけ…いっそ我等姉妹の情夫として囲ってやらんでもないぞ?ククク』
その情夫なる発言に、俺は頭の血が沸騰しそうに燃え立つのを感じた。
糸を伝った先の、ラケシスと、傍のクロトを見やり云ってやる。
「あなた達みたいな…女性なら、こっちから願い下げ…だ!」
それを聞いた姉妹がみるみる内に表情を変えた。
やはり悪魔といえど女性。
尊厳を傷つけられた事による怒りが、その眼に宿る。
『情夫から犬に格下げか』
ラケシスが思い切り糸を寄せ、そのまま地を滑空する。
俺は首から引き摺られ、皮膚が摩擦で磨耗していく感触を味わった。
回転して、先刻の背中が接地した瞬間
激しい痛みが脳天を突き抜けた。
「あああ!!っあ、あ!」
絞まる喉から思わず洩れる悲鳴に、満足気な姉妹達の笑い声。
これ以上今絞まらぬようにと添えた手指が、逆に俺の行動を制限していた。
『顔はそこそこ良いだけに、勿体無い』
その小馬鹿にした様なクロトの発言に、遠くのアトロポスが
『ええっ、ちょっとガキ過ぎない?姉さまの趣味を疑いますわ』
と、もう俺を差し置いて好き勝手な品評をしていた。
『マガツヒの媒体として、このまま氷川様に献上しても良いな』
ようやく引き回しを止めたラケシスが、せせら笑って呟く。
「は…ぁっ」
血だらけの俺は、ぼうっとその後の事を何故か思い始めていた。
そのまま氷川に拾われたら、先生の様に利用されて
創世の駒にされて一生を終えるのか…と。
そのシジマなる世界は、そんなにまで望ましいのか…
集う悪魔達を見れば、それが真に想う者達だという事は嫌でも解る。
利用されてでも、生きた…として
最後に自身として存在しているのだろうか…
(誰かの創世に、身を窶す…?)
痛む身体から、思考回路が剥離していた。
痛覚から引き離そうと脳がした緊急手段だろうか?
もう精神が弱りきっている、だろうか…
『情夫で』
『犬でしょ』
『献上する話は?』
その姉妹の応酬に、突如割り込む声が響いた。

「その少年、初心ですからとても情夫など勤まりませんよ」

ハッと振り返る姉妹達。
俺は、見もしなかったが
嫌な事に、声だけでそれが何者かすぐに認識出来た。
「でも聞き訳が悪いから犬も向いていない」
『誰だ…貴様』
「だからといって献上するのは、僕が赦さないです」
その勝手な発言は、この三姉妹に負けず劣らず、である。
『フ、確かに…人修羅は幼いが、お前はどうなのだ?』
挑発するクロトに、その男は平然と返す。
「僕で良ければお相手願います、女神様方」
そんな甘い言葉と同時にしたのは、抜刀のすらりとした音。
『名乗れ小童が』
ラケシスが俺を手繰り寄せながら云う。
「デビルサマナー、14代目葛葉ライドウ」
ああ、やはり…
頭のどこかで納得している辺り、俺も末期な気がする。
『デビルサマナー?』
『人の身で悪魔を使役するか…我等が総司令と、同様…』
一瞬強張る姉妹だが、それをラケシスが打ち破る。
『貴様、人修羅を拾いにでも来たのか?』
「ぁぐ…」
ぐい、と糸を引き、俺を喘がせる。
視界が霞む…
「ええ、僕の依頼された件では要人ですので」
よくもあんな事が云えたもんだ。
あんただって、散々俺を苛んできたくせに。
『では条件提示させてもらうぞ、それが呑める様なら今はこの人修羅、始末しないで置こう』
フフ…と笑うラケシスが、姉妹を集わせ耳打ちする。
どうやらよからぬ事が、始まりそうだ。
『その胸元の召喚媒体、まず捨て置け』
「此れがそうだとよくお分かりになりましたね」
『透けて魔力が視えるからな…まあ、マガツヒとは違うようだが』
「他は?それを聞いてから応じましょう」
まさかライドウ、応じるというのか?
(馬鹿じゃないのか…いくら強くても、召喚師だろあんた…)
俺の不安を余所に、話は進んでいく。
『この人修羅と、糸を分けろ』
どういう意味か、俺は理解出来なかったのだが
ご丁寧にラケシスが説明する。
『動きも力も制限される、そして受ける負荷は均等に分けられる…』
「成る程…」
『それでも呑むか?デビルサマナー?』
その問いに、ひと哂いしたライドウが簡潔に答える。
「良いでしょう」
『…なかなかの自信だな』
「どうせ其れに繋がれたら召喚も制限されるでしょうから、管はこのままで良いですか?此れは外すのが面倒でしてね」
『クク、構わぬ…大人しく繋がれれば、後は我等も好きにさせてもらうからな』
(なんだよ、それ…)
つまりは、俺はライドウと命運を共にするって事か?
そもそもおぞましいが、しかし現在戦力外なのは俺だ。
あいつにとって得な部分は零に等しい。
『ではお前の為に紡ごうか、デビルサマナーよ!』
クロトの声で、糸が紡がれる。
俺の糸の先に、くるくると新しく紡がれた糸が光を帯びて
その方向へと向かった。
ちらり、とそれを見届ければ
ライドウの首に、確かに巻きつく糸が見えた。
「…ぁ」
それを見ると同時に、首にかかる締め付けが軽減された。
負荷を均等に分ける、というのはこの事か。
少し身体が自由になったのを感じて、ライドウに改めて視線を戻す。
「これで僕も召喚は出来ない、君の痛みも同じく味わう」
「…」
「君と同条件だな、功刀君」
その哂いは、どこか愉しげでさえあった。
(何考えているんだ、この男)
助力を得たのに、俺は何処か恐怖していた。
「ただし…人の割合が足せば多いから、破魔を喰らわないだけマシかな?」
云いつつ、抜刀したまま横に移動する。
俺はハッとして、糸を見た。
(今動かないとまずい!)
ライドウと俺は、実質同じ糸で繋がれているのだ。
尺が増え、容易に手繰り寄せられる事は無くなったが
考えて動かねば、糸を分けた相手の動きを酷く制限する事になる。
酷い運命共同体だ。
『意外と元気じゃない』
ライドウの方へと跳躍した俺を見て、クロトが笑う。
その笑いに、俺は確実に女性不信に陥った感覚になる。
「少しは考えて動いてくれよ」
ライドウの声に、俺は憮然としつつも返す。
「うるさいな…!」
「では、早速女神様のお相手をしないと」
奴の口の端が吊り上げるのが分かる。
刀を振り上げ、まるで嬉々として迫っていくライドウに
俺は戸惑いながらも、動きを合わせる。
『痺れろッ』
アトロポスの放つマハジオンガが、俺とライドウに牙をむく。
ライドウは素早く外套を翻し、刀で大きく薙ぎ払う。
退魔の力でもあるのか、電撃は宙に弾け散る。
俺はかわしきったつもりだったが、そこは電撃。
不規則な衝撃が、空気を這って俺に当たる。
「うわっ」
と、声を上げたものの、思いのほか軽い衝撃。
しかし、向かいに見える応戦中のライドウが一瞬よろけて
脚を踏みしめ、息を吐いた。
(負荷が均等に…)
その意味を思い知る。
「云わんこっちゃないな」
ライドウの冷たい叱咤に、俺は何となく恥ずかしさがこみ上げる。
「悪かったな!足引っ張って!」

ライドウの迷いの無い太刀筋が、姉妹を切り捨てていく。
もう俺は攻撃に当たらぬ様、糸が変に影響しない様
考えて動くのに精一杯だった。 同時に来るダメージの大半は
俺の喰らったものが原因で
その度に俺は、何故かライドウに哂われている気分になったのだ。
『こざかしいっ』
ラケシスが裂けた羽織から空いた腕を翳す。
彼女達の前にシールドが広がった。
感じるのは、物理的な攻撃に対する硬質な魔力。
ラケシスに手繰られぬよう、俺とライドウは
その次女からは一定の距離を保っていた。
「テトラカーンか」
刀身で攻撃を受け止めたライドウが
じりじりとそのまま俺の近くまで退行して来る。
「どうするんだよ、俺は魔力無いぞ」
「シールドは永久なものでは無い」
つまり…ライドウの云わんとする事は。
(解けた瞬間を叩く、か)
だが、姉妹達もみすみすそれを許す筈が無い。
ラケシスが、集中的に俺の方を手繰り寄せ始めた。
ライドウのお蔭で緩んだ首元。
自由になった両腕を振るい、逆に糸を掴む。
そのまま、互いに引き合い睨み合う。
『氷川様の理想も解らぬ愚鈍なる者よ!』
「その為に、世界をこんなにして…理解、出来ない!」
(まだか…!?)
まだテトラカーンは解けないのか。
糸を掴みつつ、ライドウを窺う。
魔法なり、追撃の打撃を避けながら地面を駆ける。
掃い除けれるものは掃い、避けれるものは避ける。
的確に判断してそれを続ける動きに、人間味が無い。
そして気付いた。
(俺の方が長く糸を取ってるじゃないか)
狭い行動範囲で、あの男は渡り合っているのか。
俺の中に、妙な焦りと対抗心が燻る。
『余所見してて良いのか人修羅?』
その声に意識が切り替わる。
掴んでいた糸が弛んでいる。
それが意味する事を思い、咄嗟に防御体勢を取る。
ラケシスの流石は悪魔と云わんばかりの打撃に
シールドによる反射が加わり、衝撃が増す。
「うぁ…っ」
皮膚が避けて肉が歪む。
しかし反撃する訳にもいかず、距離を置いて姿勢を保つ。
押さえて掴み続ける指と、首が痛い。
と、視界の端に赤い何かが見えた。
「あ…」

赤い糸

俺の首から伝い、その先を辿る。
それは運命を紡ぐ糸巻を介して、人間の首筋へと向かっている。
血で染まった赤い糸。
自分の糸の先に居るのは、男。
「呆けていないで、少しは動いてくれ!」
その男が、こちらに向かって駆けてきた。
「功刀君…どうした」
その男の首筋から赤い血が、糸を伝って滴る。
「あんたじゃない」
「何…?」
「あんたの筈無いだろっ!!」
今はそれどころでは無いと、頭では分かっている。
乙女じみた伝え話だとも知っている。
でも、赦せなかった。
赤い糸は、結ばれる為のものなんだろう!?
囚われるためのものじゃないだろう母さん!?



次のページ



back