入学式に、私の母は来なかった。
周囲の子は皆、一様にして女性が付き添っていたから。余計に私が目立つ。
春らしく、パステルカラーのスーツを着込んだ母親がぞろぞろ。
「千晶ちゃん、一人なの?お父さんは?」
呼ばれる名前にまず立ち止まり、続いた問い掛けに自分の事と認識して振り返った。
女の人だ、なんとなく憶えている。幼稚園の参観日に、父と話していた。
きっと、仕事仲間。会話に外国の名前が出てきていたから。
「はい、一人です。パパ――ち、父は仕事が早く終わったら来るそうです」
「そうかあ、お父さん働き者だね。千晶ちゃんも一人なのに、落ち着いててお利口さんね」
「ありがとうございます」
少し屈んで、私に目線を合わせてくれた。
春だからって瞼にブルーを乗せる、そんな浮かれた人も多い中、この人は凄く化粧が薄い。
風が吹くたびにふわっと降る桜の花びら、そんな色の瞼と頬。
よそ行きの母親達よりも淡い、家の中に居る心地にさせる。そんな柔らかさを感じた。
……私の勝手な“一般家庭の、穏やかな母”のイメージだけれど。
「おかあさん、おかあさんってばぁ…」
と、突如現れた声に、思わずきょろきょろとする私。
目の前の女性の背後から、ひょこっと何かが顔を覗かせた。
まさか、ぴったりくっついている子が居るとは思わなかったので、私は思わずビクッと肩が跳ねる。
「どうしたのヤシロ」
「シャシンだって、シューゴーシャシン」
「はいはい、じゃあ行こうね〜」
男の子だった、私をチラッと見てきたから、こっちからも見つめ返した。
そうしたら、サッと視線を逸らして、また母親の背中に隠れてしまって。
「千晶ちゃん、一緒に並ぼうか」
「えっ……」
「お隣さんが全く知らない人だと、心細いでしょ?ね、おばさんの隣おいで」
結局、間に合わなかった父。だから、入学式の集合写真、私の隣は血縁者じゃない。
提案してくれた女性が、私と息子を両側に座らせてニコニコしてた。
(この人、私のママは来ないって、もう知っているのかなあ…)
優しさと惨めさに、私は胸が締め付けられていた。
どんなに上等な晴着を着ていたって、寂しい子。
隣に母親が居る方が、胸を張って居られた筈。
「おかあさん、もっとこっち」
「あらあら」
「だって……おかあさんは、やーくんのおかあさんだもん…っ」
見知らぬ女子に取られるとでも思ったのか、息子が必死に反対側から、母親の袖を引っ張る。
甘えん坊、まだ母親のお乳吸っているんじゃないのかしら。
デレデレした様子に、なんだかカチンと来て、思わず呟いた。
「知ってる、そういうのね、マザコンっていうの」
「まあ、千晶ちゃん物知り!」
気を悪くするどころか、大笑いを始めた女性に…私が恥ずかしくなる。
だって私、息子さんに対して意地悪で云ったのに。一人でツンツンしてる自分が、みっともない。
当の息子はポカンとして、桜の花びらを頭にくっつけたまま。相当抜けてるんじゃないかしら、そんな印象。
しかも寝癖のまんま…と思ったけど、あれは癖っ毛なのだと、後に知った。
御留ロードハンティング・前編
「ねえ、なんで桜の木の下に居るシチュエーションが多いワケ?」
「そういうものなんだって」
「しかも、追ってきた側が一様に同じ台詞じゃない。このシーン、さっきも見た憶えがあるわ」
「お前が消えてしまうかと思った――ってトコ?いいのいいの、それも王道だから」
「ふぅん」
試読用の薄い冊子、その頁をパラパラと指先で送る。
隣の子のお陰で、ボーイズラブの大体の仕組みは分かったけれど、読めば読むほどファンタジーだ。
こんなに可愛い男ばかりの世界なら確かに、女を相手にする男は減るわね。
デートの服装にも煩く無いし、小奇麗なレストランやカフェでなくても構わないだろうし。
同じ身体だから悩みも共通し易い、生理痛への理解力を責められる場面も無いでしょう。
「それ、私一巻持ってるよ、貸してあげる?橘さん」
「別に私はどっちでも…」
閉じようとした冊子の隙間から垣間見た、男と男の馴れ合い。
受の黒髪に、桜の花びらが留まっていた。それを攻が指先に摘んで、何やら可笑しそうだ。
「くっついてたぞ、気付いてなかったのか?可愛い奴」とか何とか云っちゃって。可愛いとか、関係無いでしょ。
男に云う台詞かしら?ところがどっこい、受は頬を染め、少し俯いている。こんな乙女、リアルの女子ですら滅多に拝めないわよ。
「どうどう?橘さん!?」
「これはヤバイわね、攻も一緒に消えてあげた方が幸せだと思うわ」
「それってつまり、二人だけの世界に行くべしって事!?キャー橘さん解かってるぅ!」
この世界じゃ生き辛いでしょうから、って事だったのだけれど……ま、興奮に水を差すのは止めておく。
試読冊子を元の位置に戻して、隣の《腐女子》に目配せした。
「もういい?それなら私はレジ済ませちゃうね。あっ、あとこの後メイトも行きたいの」
「お好きにどうぞ。私は貴女から借りられるなら、それで充分だから」
「おおーっ!どお?ハマりそう!?私のオススメはねー…」
訊いてもいないのに、唐突に語り始める辺りがオタクっぽい。別に嫌ってワケじゃないけど、この子の場合は歯止めが利くし。
それにしてもこの書店、階数も多いけれど何がアレって…本当に、この階にはボーイズラブしか無いのが凄い。
昔読んだ事のある漫画のキャラが乳繰り合っている本とか、眼が点になっちゃった。
公式的な物ではなく、完全に一般人の創作物らしい。其処にお金が発生する辺り、なんともキナ臭いけれど。
「聴いてる橘さん?」
「あら、御免…九割は聴こえてなかったわ」
「殆どじゃない、もうっ」
「で、何を薦めてくれていたの?先に云っておくけど、とりあえず“ガチムチ受”ってのは趣味じゃないわ」
「大丈夫、淫夢系じゃないから安心して。最近はね、幼馴染モノが私の中でアツイの」
インム系が何の事かはよく解からなかったけど、今度はしっかり相槌して、彼女の熱弁を促す。
「BLだけじゃなくて、ノーマルでも好き」
「ノーマル?男女の恋愛物って事?」
それなら、何故ボーイズラブはアブノーマルラブという名称では無いのかしら。アブノーマルだと、範囲が広過ぎるから?
「はぁ、いいなあ幼馴染…」
「そんな良いモノ?」
「友情と恋慕の境目がね……告白したら、もう今までの関係で居られなくなる不安とか葛藤がね……あ、駄目、長くなっちゃう」
「まだ会計までかかりそうだし、どうぞ」
長蛇の列は、女性しか居ない。当然と云えば当然か、私も男なら、この階ごと避けたいものね。
男でコッチの嗜好が有ったとしても、無難にネット通販で済ませるわ。
周囲が同類だらけにしたって、なかなか露骨な帯の文句とかに、こちとら失笑気味よ。
「聴いてる橘さん?」
「七割程度」
「あっ、ちょっと増えた。そうそうそれでね、男同士の場合は、更に葛藤が増すのよ!今の関係が崩れる可能性メチャ高だからね!家が隣同士だと、告白した翌日気まずいでしょ〜?」
「……私が男じゃないのが残念でしょうけど。さっきの彼、幼馴染よ」
「へっ」
「功刀矢代、あれ私の幼馴染」
燃料投下だったのだろうか、こういう事に眼を輝かせる辺り、腐っていても女子。恋バナで喧しい女子と一緒か――…
「もしかして…橘さん達、リア充?」
「なにそれ、カップルって意味?」
「まあ、そんなものだと思って。ねえ、ねえどうなの橘さん、私もしかしてデートにくっついてた金魚の糞ポジだった!?読者に「このモブいらねえ〜」って文句云われてるあのタイプ!」
やっぱり前言撤回する。この子、なんだか表現がおかしい。読者とか云い出す辺り、頭の中が二次元に移行し易いのでしょうね。
「落ち着きなさいよ。それなら普通、貴女を誘わないわ。ダブルデートするならともかくね」
「ううっ、どうせ私は年齢イコール彼氏いない歴ですよ…」
「まだ十七年程度じゃない。高校の時の彼氏なんて続かないわよ、今は考えなくて良いと思うけど」
「ねえ、功刀君って昔からああだったの?」
「ああって何よ」
「えっ……なんていうのかな、何考えてるのかよく分からないよね。普段も家で何してるんだろ」
流石に家の中の姿までは知らないけれど、母子家庭だからやる事は多いでしょ。
部活もやらないで、バイトに直行してるし。二輪はどうなのかしら、あれは趣味?
でも、燃料価格が高騰したら、パッタリと乗るのを辞めそう。彼が抱く執着なんて、その程度のイメージ。
「昔って、いつから一緒なの?下の名前で呼び合ってたりしなかったの?ちゃん付けとかは?あだ名とかは?」
「…幼稚園からの付き合いよ」
「ええっ、そんな頃から……でも考えてみれば、橘さんってお嬢様学校とかじゃないの不思議だよね」
「あまり遠く無くて、それでいてほどほどの偏差値なら充分よ。大学なんて実力さえ有れば入れるし、私家庭教師付けてるもの」
「……あっ、もしかして……ふふっ」
笑みを堪えきれないのか、えくぼが浮かんでいるクラスメイト。会話の流れを知らなければ、下世話な笑みには見えない…筈。
「何よ」
「功刀君と同じ学校行きたかったとか――」
ほらきた、これぞ幼馴染モノにありがちな台詞。
しかし彼女の好奇心は、レジからの「次のお客様」というコールによって掻き消された。
まあ、何度訊かれたって、私の答えは「否」だけど。
だって、違うわよそんな。一緒に居たいなんて、思わない、思えない。
昔の彼は、私の邪魔でしかなかったんだもの。
可愛い小花柄や、チェックの端切れ。
ピンクッションに埋まらない様に、おしりに飾り玉の付いたマチ針。
見ているだけなら可愛らしい小道具達も、作る側になった途端に憎たらしく思える。
「針と糸で自由に裁縫して、作品を作りなさい」という、学校の課題だった。
とはいっても、小さな子供にそこまでの発想は難しい。作品例が載ったプリントも、同時に配布されていた。
「むずかしいところは、お母さんにてつだってもらいましょう」って、そんな事が書いてあったものだから、私は独りで頑張った。
ちくちくぷすぷすと、布を刺しているのやら指を刺しているのやら…
当時、恥ずかしいくらい不器用だった私は、老眼でも無いのに針に糸を通す所から苦戦を強いられた。
途中で嫌になって、窓を開け放って其処から投げ捨てたい衝動に駆られたけど、なんとか我慢。
「パパ!見てこれっ」
提出する前に、真っ先に父へと見せに走った。
なんてこと無い巾着袋だったけれど、私にとっては大作だ。
縫い目も均等じゃないし、裁断が少し歪んでいる。端切れと端切れの境目が、緩急付き過ぎた糸で波打っていたり。
それでも、完成したそれは間違い無く「可愛い」と思えた。今思えば、あれは端切れの柄が良かったのだろうけど。
「おお、千晶にしてはちゃんと形になってるな。頑張ったな、偉いぞ」
あの時、幼い私は単純に喜んでしまったけれど。思い返せば「千晶にしては」って、ちゃんと云ってたのね。
父は忙しい人だった、でも、娘の得意不得意は心得ていたみたい。
「先生ほめてくれるかな」
「ちゃんとこなしたんだ、褒めないワケないさ」
父の云う通り。教師は一人一人の作品名札に、赤いペンでコメントを丁寧にしてくれた。
作品の優劣を感じさせない、絶対どこかを褒めている文章。
私の作品へのコメントは『かわいくできましたね。こんどは糸の色を、あわせてみよう』
指摘の通り、縫っている最中に見失うからと、布地と正反対の色にしたの。
統一美なんて考えられない位に、余裕は無かった。
参観日、教室の後ろに、それ等は展示された。
皆、作品の形はまちまち。色とりどりの布小物で、棚の上は賑やか。
「いやー、功刀さんトコの息子君は、随分と手先が器用だ」
「仕事で…私が手伝ってあげられなかったのが苦労させちゃったかなあ。どうも裁縫の本を引っ張り出して、それ見てやったらしくって」
「それじゃあ全部一人で?大したもんですな」
「もうちょっと男の子の喜ぶモチーフが載っている本、用意しておけば良かったなぁ…」
授業の後、作品棚を眺めつつ父とおばさまが会話していた。
おばさまと云っても、小学校低学年生の親、まだまだ若い。
友人の親という関係性上、私はそう呼んでいた、功刀の母親を。
「私はもっと簡単な物ってイメージで、出がけに『正方形に縫えば、ハンカチとか給食マットになるよ』って云ったのに……ふふっ、おかしいですねえ子供って」
おばさまは台詞の通り、可笑しそうに微笑んでいた。
その視線の先には、息子の…功刀矢代の作品が置かれている。
各家庭で用意した端切れは様々だったけど、功刀矢代の用いたソレは、かなりあっさりした風合いの生地。
リネンのハンカチーフだ、確か。ごわごわのじゃなくて、柔らかそうな質感に見えた。
彩度の低い正方形の隅っこに、天使の刺繍。金色の糸で、ソツなく縫い込まれた繊細な画。
薔薇のモチーフも一緒に踊っていて、少し大人びている。子供の、それも男の喜ぶモノとはかけ離れていた。
「うちの千晶は母親に似て少々不器用な所があるので、ははは。離れていても血を感じさせられますよ」
快活に云い放たれた父の台詞は、鋭い矢となって私の胸を抉った。
まだ机でランドセルに教科書を詰めていたから、聴こえていないとでも思ったのかしら。
不器用とか、わざわざ他人に云う事ないじゃない。しかも別居中の母の事まで……
あの様子だと、恐らくおばさまは事情を知っていたと思われるけれど、そんな問題じゃあないの。
「千晶ちゃん」
いつまで経っても椅子から立ち上がらずに、ランドセルの蓋を撫でている私。
「千晶ちゃん、どうしたの。後ろでお母さんたち、まってるよ」
私の席まで駆け寄って、声をかけてくる…功刀矢代。
黒いランドセルに背中を引っ張られそうな体躯、私よりも背の低い男子。
それなのに、眼の上のたんこぶ。どうして私を惨めにさせるの。
いつもいつも、しれっとソツ無くこなして、私のちょうどすぐ上の成績。
体育だけ、私がギリギリ勝っている程度。でも分かる、そんなのそろそろ逆転してしまう事。
いつか私よりも大きくなるんでしょう、男の子だから。
「……先に行きなさいよ」
「どうして?」
「あなた、トロいからイライラするの」
邪険に扱った、いつもよりも露骨に。
一瞬、戸惑った眼をするのだけど。「…ごめんね千晶ちゃん、ぼく、もっとてきぱき動くね」とか云って、怒りもしない。
これが泥沼、最初の一歩だった気がする。
そのぼんやりとした柔らかい真綿の様な微笑みが、私の妙な苛立ちをいつも刺激した。
工作の授業、国語の授業、算数の授業、音楽の授業。
なんだっていつだって、私の影の努力が無意味に感じさせられる。
少し前よりは色々出来る様に上達したのに、それでも功刀矢代は私以上に出来るから嫌だ。
「千晶ちゃん、はい、あげる」
二月十四日、何故か貰ったチョコレート。ナッツ入りのクッキー、ココア生地でチョコチップもふんだんに使われていた。
赤いリボンで包みの口はギャザーを寄せられ、きゅっと結ばれている。
「何コレ、私女なんだけど」
「お母さんといっしょに作ったから…おすそわけ。あとね、もうひとつプレゼントあるよ、それはまた今度わたすね」
「……ふーん、とりあえずもらっておいたげる」
デレデレして、嬉しそうな顔。今でも鮮明に思い出せる、功刀矢代は母親の話をする時、ちょっと首をすくめてはにかむの。
私の傍には、そんな母親居なかった。彼が悪いワケでは無いと、そんな事、理性では解かっている。
それでも私は、その仕草も笑顔も…羨ましくて、殴りそうなのを必死に堪えていた。
幼馴染、気の知れた友人?
いいえ、一番近い所にいる比較対象。それは、幼い私にとって只のライバルなのよ。
「ねえ、矢代くん」
黒いランドセルの背を、掌で叩く。
振り返った功刀矢代は、よろけながら私を真っ直ぐ見つめてきた。
私から声を掛けた事が珍しいから、少しドキドキしている…そんな眼。
「大事な話があるの」
あの時、私の手で関係を引き裂いた――…
ビルとビルの隙間は、山間の様に影を落とす。日没より一足先に、夕紅が池袋を染める。
異界はざっと廻った為、戦々恐々としつつも人間の世界…元の世界に戻ってみた。
ただし、擬態を完全なものとしてくれた呪いの装備は、今ルシファーの手元に有る。
(いつ擬態が綻ぶか分からないじゃないか、下手に力を使うのは不味い…)
ショーウインドウはライトアップを点々と始めていた、其処に映り込む自身をチラリと確認した。
アレが肌に食い込んでいた時と同じ様に、体内のMAGの巡りを意識する。
いつ擬態を会得したのか、自身も把握はしていない。
気付けばマロガレを宿していたんだ…教師を見舞ったあの時には、既に。
だから、本来備わっていた能力なのかもしれない。あのピアスが、自転車でいう補助輪の役割を担っているだけで。
『人間は身体を飾るのが好きだね…この国は寒暖差が有るから、こんなに服もコロコロ変わるのかな…』
声の主は、ウインドウに映り込んでいない。それは完全な悪魔であり、当人も姿を見せる意思が無いからだろう。
ディスプレイされている服達は、もう薄かった。まだ少し肌寒いというのに、マネキンの動きもどこか陽気だ。
アパレルは生もの、と聞いた事がある。
そういえば、それを云っていた彼女も、よくこうしてウインドウで姿を確認していた。
ヒールのシルエットが云々、踵の高い靴を好んで履いていて。結果、俺よりも上背が高くなっていた。
履かずとも俺を見下ろす葛葉ライドウよりは、幾分かマシだったが。
『そんなにジロジロ見て、ヤシロ様はこれが着たいの…?』
他の人間には視えていないセエレに対して、俺は先刻から言葉を返さない。
独り言がデカいと、気味悪いだろう。そんな注目は浴びたくないから。
『うーん…ちょっと、肩幅が合わないと思うよ…』
「……硝子で確認しただけです、擬態が出来てるか」
『あー…なるほどね。大丈夫だよ、ちゃんと黒い線消えてる…』
誤解されたままなのも癪だから、結局は小声で簡潔に返した。
そうだ、メンズ物のディスプレイ前で確認すれば良かったんだ。手っ取り早い位置に在ったから、何も考えずに寄ってしまった。
足早に立ち去る、初夏向きのワンピースなんて誰が着るか。プレゼントする相手も居ない。
『擬態、まだ難しいの…?』
混みあう交差点、セエレはやや上空から言葉を投げてくる。
間近で見れば、その楽そうな事。確かに上空なら、人間の混雑なんかモノともしない。
『あっ、ヤシロ様、見て見て…』
雑踏に揉まれる俺に、どう立ち止まれというのだ。
ゆるゆると上空を闊歩する馬に跨るまま、セエレは棒切れの様な腕を伸ばしていた。
白い腕は夕映えにコントラストを作るが、その指先が示す位置までは認識出来ない。
『ほらほら…』
しつこいが、交差点を渡りきるまでは完全無視だ…
『あそこ、天使が見えるよ』
「何処!?」
黒山の中、通話中でも無いのに唐突に声を荒げた俺。
振り返る周囲の人々、視線を感じて一気に頬に熱が溜まる。
(不味い、アガるな、意識を乱すな…擬態だけは維持しろ……)
セエレに一瞥をくれ、そのまま交差点を乗り切る。
路の隅にじわじわ歩行位置を詰めてゆき、裏路地に転がり込むと振り返った。
地に足を着けた馬、その頭を軽く撫でつつセエレは微笑む。
『さっきね、建物の窓に、白い翼が見えたよ…』
「どの建物です、さっきは位置がよく判らなかった」
『連れていくから…後ろに乗って』
「何云ってるんですか、飛んだら通行人に丸見えじゃないですか」
『ヤシロ様…スカートじゃあないでしょ』
「違う!悪魔の貴方等は、人間に視えてないんですよ。俺だけ飛んでるのが丸見えなんです!云ってる意味解かります?そもそも貴方なんて全裸じゃないですか!」
何をすらっとぼけた回答をしているのだ、この悪魔。
俺が語気も強く返すと、セエレは更にニコォっと破顔した。
「何が可笑しいんですか?」
目許がヒクリと引き攣る感覚を覚えながら、詰ってやる。
すると、段々と見慣れてきた調子で答えたセエレ。
『だって、人間達にはボクが視えてないんでしょ…?ボクが全裸でも、困らないよね…』
そうだ、たった今自分で云ったじゃないか俺、悪魔の姿は視えていないと。
「お、俺が…俺が目のやり場に困るんです!」
『そっかあ、ごめんね…』
ばつが悪い、何が腹立たしいのか後々になって分かり始めた。
俺が普通の人間では無い事を、自称した様なものだったからだ。
視えている側の俺は、わざわざ“悪魔の外見”を気にしてしまった……
『信号でいちいち止まるの…大変だね、ヤシロ様』
セエレに先導されつつ、しかし交通ルールには従って進む。
悪魔の肉体が再生を促したとしても、社会的に死んでは元も子もない。
信号機の明滅が鮮明に見える、もうそろそろ日没だろうか。
堕天使の下らないゲームも幕引きが近いという事に、不安と安堵が脳裏を過ぎる。
『ヤシロ様…ここ』
が、次の瞬間には更なる不安が押し寄せ始めた。
セエレは指し示しつつ、ビルの出入口上空でホバリングしている。
だが俺は、腰が引けていた。
(本当に此処か!?アニ○イトじゃないかよ!)
声には出さず、チラチラとセエレを睨み、察して貰おうとした。
が、セエレは寝ぼけた様な笑みのまま、数回頷き『間違いないよ』とはっきり述べた。
俺は深呼吸をし、とりあえず出入口の脇に身を置き、セエレを顎で呼んだ。
『はい、なあに…』
「此処の何階だった」
『窓から中が見えるのは、上の方の階だね…八階とかその辺かな…』
「居なかったら怒りますよ、っていうか貴方が調べてきて下さいよ」
『ボクは擬態出来ないし、狭い所は好きじゃないの……ね、アナキスト』
跨る黒馬にしなだれて、脚をぶらぶらさせるセエレ。行ってくれる様子は皆無だ。
だが、それに憤った所で無意味な事も分かる。
この悪魔が、人混みに視えぬ姿のままズカズカと入っては、転倒者続出だろう。
ああもう仕方が無い、これ以上独り言を続けては目立つ。
「……ちょっと、待ってて下さい」
『いってらっしゃーい。危険になったら窓から炎でも吐いてくれたら、すぐ駆けつけるから…』
俺が色々バレない様に苦心している事、解っているのかこいつ。
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