「遅くなっちゃったけど、おめでとうやーくん」
それとなく肩を強張らせた俺に気付いたか、母が噴き出しつつグラスを手にした。
シャンパンの泡の向こうで、まだ笑っている。
「個室なんだから平気でしょう」
「平気とか、そういう問題じゃなくて……」
「もう高校生になるんだし、って?」
「そうだよ、その為に来てるんだろ」
高校受験の合格内定はもっと前に貰っていたが、予約が取れなかった。
俺は別に広間のテーブルで構わないと云ったのに、母が頑なに個室を取りたがったから……
日程調整の関係も有り、とうとう入学直前という時期になっていた。
合格祝いというよりも、入学祝いが正しい。
「見て、あそこの屋上で宴会してる」
「何処」
「ほら、あっちは公園でお花見してる。 まだちょっと早いんじゃない? 桜が開ききってないでしょ、桃色が薄い」
「だから何処」
このレストランの位置が高過ぎて、瞬間的に判別出来てもせいぜいビルの屋上までだ。
地上なんかは建造物に阻まれ、かすかな隙間からしか覗かない。
窓硝子は大きくパノラマを透かし、高所恐怖症にとってはおぞましい空間となっている。
「そんなのよく見えるね」
「母さん若い頃、よくジャニーズのコンサートとか行っててねえ、それがすんごい端っこの席ばかりで」
「オペラグラスとか有るだろ」
「持って行ったのが、玩具みたいなやつだったのよ。 それだからもー結局ボケボケ、裸眼だと本当に豆粒レベルにしか視えなくってねえ」
「極小サイズの人間は見慣れてるって?」
軽く掲げられたグラスに合わせて、俺も軽く携えた。
当然、此方のグラスにアルコールは入っていない。
確定した合格を蹴る趣味も無いし、電車で酒臭い酔っ払いを見てきた身としては、今後も避けたい飲料だった。
「やーくんも、双眼鏡買う時は気を付けなさいね。 ポロ式とダハ式って有るんだけど、コンサートならダハね、小さいから」
「一生縁が無さそう」
「あっ、でもダハはポロの倍は値段するから。 もしポロと同程度の値段で売ってたら、それは買っちゃダメよ〜」
「オペラグラス通してまで観察したい人間が居ない」
俺の返答に、母は困った顔をするでもなく、ニコニコと流していた。
友人からはノリが悪いと云われ、教員からはもっと遊んでも良いと云われ。
周囲から見た俺は、朴念仁か無関心の塊に見えるのだそうだ。
母だけは軽く笑い飛ばしてくれていた、理由は判明している。
俺が、母くらいにしか“余計な事”を話さないからだ。
「野鳥なんかでも良いのよ? 二輪免許取るんでしょ、ツーリング先でこう」
「俺、鳥とかよく分からないから……」
「この鶏美味しいよやーくん! ほら、母さんの分もあげようか?」
野鳥の話を始めた瞬間に、ナイフで鶏肉を切り裂いている母。
あべこべな様子に、今度は俺が噴き出してしまう。
「《ランド産地鶏プーレジョーヌのモモ肉のロースト》……だって〜」
「食べるの早くない? 俺まだ主菜いってない」
「いいのよ〜ゆっくりで、個室は落ち着いて食べられるでしょ? マナー気にし過ぎるより、ラフに食べたいじゃないの」
「だからって、予約で躍起にならなくても良かったのに」
《北海道産生ししゃものエスカベッシュ ヴェルジュのソース》を、俺はようやく平らげた。
コース料理の半ばで、いつも不安になる。
全部食べきれるのかという、胃袋も悩みも小さい事なのだが……気にし過ぎだろうか、皿の上に残す事だけは避けたい。
「エスカベッシュって、つまり南蛮漬けでしょ」と、嬉々として発した先刻の母を思い出す。
それくらい大雑把に捉えた方が、もっと楽なのかもしれない。
「千晶ちゃんも合格したのよね、呼べば良かった?」
「いいよ、あの家なら同じ料理を自宅で食えるだろ」
「ちょっとちょっと、流石に毎日こんな豪勢には無理でしょうよ。 それとも、女の子と同席するの恥ずかしいかな?」
よりによって橘の話、飯が不味くなる。
そういえば、此処の水族館に小さい頃来たのだが、橘も一緒だった気がする。
あの頃の事は、実はよく思い出せない。
学校生活においての“手抜き”を覚えてからは、鮮明なのに。
「どうして恥ずかしいんだよ。 話振られると面倒なだけだ、妙に説教くさいし…… あの人の相手は母さんがしろよな」
「照れちゃって、流石は高校男子」
「そう思うなら、呼び方止めて」
「やーくんって? ふふふ、いいじゃん、だから個室にしたのにぃ」
「そんな理由で」
再びシャンパンのグラスを持つ母が、また肩を揺らす。
炭酸の抜ける音なのか、くつくつと笑う声なのか判らなかった。
「そうですね、じゃあ中学時代のやーくんと決別という事で……これからは呼ばない事を、ここに誓います」
「待って、別に駄目って云ってないし。 人前でそれはどうなんだってだけで……此処は戸一枚隔てた外に大勢居るし、だから」
「それでは、デザートのええと……《フロマージュブランのムースとアプリコットジャブのクレープ包み》を半分くれたら呼んであげよう」
「ジャブって何だよパンチかよ、酔ってるだろ、こんな真昼間から……」
「ほらやーくん、ナイフが止まってる!」
「ゆっくりで良いんじゃなかったのかよ……」
急かされ、引いたナイフが光を反射する。
外は薄曇り、白い東京の天井が個室の壁の様で。
目に痛い青空や、硝子を突き抜ける陽射しが無くて助かったと感じていた。
嫌いでは無い、煩わしいとまでは云わない。
明るい事に、いちいちはしゃぐ人達についていくことが面倒なだけで。
それでも、咎めるまではしないのだから……俺は、不健全では無い筈。
「どう? ご感想は?」
「何が」
「此処で食べたいって、やーくん云ってたじゃない」
違う……
こないだ、新しい営業先の人が此処の話出したって、自分で云ってたくせに。
その人が此処に興味有るって、ソファでELLE見ながらダラダラ喋ってたじゃないか。
話を合わせられた方が良いんじゃないのか、交渉とかを此処でしたり……
折角個室が有る店なんだし……こうして二人きりの方が、話もし易いだろ。
何云っても、平気――……
……密室に二人きり?
「母さんが最近売り込んでる先の、よく話に出てくる人……名前忘れたけど」
「ああ、吉岡さん? そういえばね」
「自分でも着たりする人?」
「んん〜そうそう、お母さんの仕入れたワンピース気に入ってくれてね、早速着てくれたのよ! まだ寒いのにねー鳥肌立てて着てるのが、ちょっと笑っちゃって! だって今仕入れてるんだから、夏物よ夏!」
女性……なら良いか。
正しい感想を云う気になれた。
「此処、個室も静かで良いよな。 その人との打ち合わせにでも使ったら?」
「あらっ、やーくんったら気が利く事云うの。 もう大人ね〜やっぱりやーくんって呼ばない方が良いかなあ?」
「足腰曲がろうが、親にとっては死ぬまで子供だろ」
「んもーどっち扱いしたら良いのか、困らせるねぇ!」
「ほら、あげるから……」
デザートを半分にカットして、テーブルの中央に皿を滑らせた。
嬉しそうに目を輝かせる母を見ながら、折角の休日に仕事話を出した事を、今更悔いた。
久々に席を共にしたので、精一杯話してしまう。
自分と直接関係も無い事に、疑心暗鬼になる。
本当に俺が行きたい所なんて、実は無いのかもしれない……
此処に来たいと述べた希望すら、嘘に近い気がする。
確かに、フレンチのコースだなんて夢が有るけれど、優先事項は其処じゃない。
「でも、出歩くのも面倒だし、俺は今後暫く家で良いよ……」
「若いのに、池袋まで来るのすら面倒!? なかなかジジイね」
「俺が作れば文句無いだろ」
「やった〜矢代シェフのおすすめコースだ〜」
「おいちょっと待って、そんなに作るとか一言も云ってない」
早く高校を出たい。
入っても無いのに、もう浮足立っている。
バイトして貯金して、頭金は自分で……
大学を出たら、自宅から通える範囲に就職して、福利厚生がしっかりした会社に入社して。
母さんが、生業ではなく趣味で仕事が出来る様に……
年金が貰えるか雲行きの怪しい国政だ、しっかり別で貯めておかないと。
「シャンパンおかわりしようかしらぁ」
「大丈夫か?」
「此処、眺めが良いからついつい……にしてもね、こんなに洒落てるなら、もっと遅い時間帯が良かったかな」
「どうして」
「やーくん、いつかデートするでしょ、ほらぁ……予習は何でも大事だしねぇ……」
「ディナータイムにだって家族は居るだろ、しかも母さんの顔見たら予習にもなりゃしない」
そうだ、いつか結婚しなくては。
俺が不在の間、母さんの事を大事にしてくれる人。
ただ……どうやって、そんな相手を見付けるんだ?
付き合って、長年かけて情が生まれて、義理の親を大事に思う……なんて流れが理想だが。
付き合うには、好意が必要で。
不純の無い、周りから白眼視されない交際理由というものは……恋愛。
その恋愛っていうのは、どういう感覚なんだ。
いくら本を読んでも、映画を観ても、クラスメイトから与太話を聴いても、具わらない感覚。
家族に対する情愛とも違うなら、未だに抱いた事すら無い事になる。
「どしたの矢代、具合でも悪い?」
母の声音が、少しトーンダウンした。
心配されている、俺のつまらない不安で不安にさせている。
「じゃあ……夜にこういう処来れば、女性はデートだと思ってくれるの?」
「……ぶっ! 何をいきなり云い出すかと思えば、さっきの話気にしてたの?」
「だって、女性って皆云ってる事がバラバラ過ぎて、何をアテにすべきか分らない」
「まー此処なら文句はそうそう出ないでしょう、夜景が既にポイント高いよぉ〜エキゾチック・ジャパン」
「やっぱり酔ってる……」
歌い出しそうな母からグラスを取り上げ、紙ナプキンで縁を拭った。
軽く塗られたリップカラーが、白にこびりつく。
くど過ぎないが血色の好く見える色、最近の母はもっぱらこれを使っている。
滞在期間が短いほど、色彩が記憶に残る。
俺の普段の真っ白な脳裏に、そのまま転写されるかの様に。
「だぁいじょうぶ、ちょっとインパクトに欠けるけど清潔感有るから問題無い、どんな娘連れてきてもOK、なんなら母さん出てくし」
「いいよそんな心配しなくたって!」
椅子から尻が浮いて、テーブルクロスが腿の上に弛みを作った。
向かいで一瞬眼を見開いた母が、俺の険しさをなだめる様に首を傾げた。
「矢代、昔みたいに食べさせてあげようかぁ」
「はぁ?」
「彼女との“はいあーん”の予行練習。 ホラ、口開きぃよぉ」
差し出したデザートが一口分切り分けられ、スプーンの先でムースがひんやりと冷気を湛えている。
それを此方に突き出してきた母に、戸惑いつつも薄く唇を開いた。
「そうそう、大人しく子供は親の言う事聞くの〜」
調子の良い母に、調子の良い俺。
似た者同士だった。
其処で記憶はブツリと途切れ、違う声音にすり替わる。

――ボクの子になるんだから――



執心雇用



嫌な場面に侵蝕され、脳が凍り付いた。
先刻、此処を訪れた時には考えない様にしていたのに。
母と食事に来た思い出も、今となっては苦痛を呼び覚ます。
そうだ、マガタマを喰わされた時も、母の夢を見ていた……
『お客様、申し訳御座いませんが只今満席となっておりまして』
レストランの入口で豚に話しかけられたが、無言の俺をジロジロと見てからぶるりと震えた。
『個室で御座いましたね、ささ、どうぞお通り下さい』
語尾にブヒッと付きそうな鼻息で、通路の端に身を寄せた豚。
初めて見る悪魔で、此処のテーブルクロスと同色のマントを羽織っている。
質感もほぼ同じなので、こいつがふざけてクロスを纏っている只の豚に思えてくる。
そのマントが靡いた隙間から背の剛毛が見えたり、鶏冠の様な鋭利なパーツが脳天に生えているのを見ると、やはり普通の豚とは明らかに違うのだと、考えを改めるのだが。

『あれぇ、今のってぇ』
『人修羅ダ、帰ッテキタミタイ』
『ちょっと服装が乱れてるねぇ』
『階段使ッタンジャナイ? サッキ来タ連中ガ、エレベーター故障中トカ云ッテタシ』

此処を出た際に俺に対し、一言二言茶化していた連中だ。
今度は面を確認した。 ひょろ長い方はマカミで、星型の方はキウンだった。
四角いテーブルで対面して座り、卓上に食物は無い。 そもそも、一体何を食べていたんだ……
悪魔も食後にはお茶などするのだろうか、セエレはそういう様子の話をしていたが。
人間の作った建造物の裏側で安穏と過ごしているのが、やはり腹立たしい。
椅子に着座しなければ、膝を痛めるのか?
店舗の形を取らなければ、食事が出来ないのか?
こんなのは、人の舞台だけ借りた下らない寸劇だ。
そういえば入口付近のトウテツは、ゲーム開始時とまだ同じペースで喰っていた。
体積以上に何かを詰め込む異様な姿を、それとなく振り返ってみる。
何がそうさせたのか分からなかったが、あの悪魔が居た方向が気になりだしたのだ。
立ち止まり、首を捻って軽く振り向く。
「……は」
トウテツへ注意が向いていない自身に気付いて、ようやく認識した。
薄暗いホールの一角を、一層深い暗がりにする影。
窓硝子の透過率を下げているのは、雲ではない。
蜘蛛――……

 『ヒイッ!』『入口ソコじゃねーよ!』
   『人間!? 』  『おいらのメシがぁ』

ホールに一瞬で充ちる悲鳴と、気配。
砕けた硝子が宙に散乱し、照明の光よりも強く煌めいた。
窓を蹴破ってホールに跳び込んできたのは、見覚えのあるツチグモ。
……と、黒ずくめのデビルサマナー。
(最悪)
姿勢を戻した俺は、最早背後を確認もせず一直線に個室に向かう。
ルシファーの手前なら、一番危険と同時に安全だと思った。
「っう、ぐぅ」
勝手に振られる四肢。
着衣が大きく肌に食い込み、引き攣った声が喉から抜ける。
前のめりに倒れ込む、そう思いきや強い力で後方に引っ張られ。
逆戻りする景色、空を引っ掻く俺の手足に白糸が絡んでいた。
このままでは蜘蛛の足下に転がる羽目になる。
咄嗟に伸ばした指先で、何でも良いから掴んでやった。
ガクンと視界がぶれて、上下左右が混濁する。
『おおっ、おいおいソレおれの得物だかんな! やらねぇよ?』
悪魔の声だ、すぐ傍で怒鳴っている。
緩まった糸の引力、俺の落ちた所はテーブルらしかった。
大皿に人間が載せられている様に見えて、即座に身を退ける。
丸焼きだ、恐らく天使の。 焦げない部位なのか、くすんだ白の翼が肉の添え物の様に残されている。
『二皿目かと思ったら死んでねーし、踊り食いにしちゃ服も剥けてねーときたぁ』
「……っ痛ぅ」
鋭利な痛みに指先を見れば、掴んでいたのはヨモツイクサの槍だった、しかも刃先。
『あーあ飯もぐっちゃにしやがって、おい弁償だよベ・ン・ショー』
「っ……ルシファーに、云ってくれ」
槍を放せば、まだ糸が揺さぶって来る。
俺は生臭い料理に塗れながら上体を起こし、焔を発して拘束を溶かした。
張っていた糸が、導火線の様にへたりと地を這う。
その先では爆弾が哂っていた。
「片腕を巻き逃したろう」
『ちょっと遠かったからの、はっはは。 糸が勝手に巻き取ってくれる訳でもなし』
「胎に力を入れたのか?」
『いやぁ〜此処まで上ったら、正直疲れっちまっての』
「帝都に戻ったら特訓だな」
『こんな高いビルヂングが無いだろうに、あすこは』
わしゃわしゃと口元を蠢かし、糸を吸い込むツチグモ。
素麺でも啜っているかの様に見えて、薄気味悪さが増す。
ライドウがそれを確認し終えるや否や、此方に銃口を向けてきた。
何時の間に? 会話の最中しっかり手を見て居なかった、不味い。
ついさっきまで自身の載っていたテーブル脚を掴み、天板を奴に向けて倒した。
『アゴっ!』
ヨモツイクサが顎を押さえつつ、俺の脇で痙攣していた。
食器の割れる音が収まれば、弾が板にめり込む音が引き立ち始める。
『乱闘カァ? モグモグ』
『おい何してんだ人間野郎! ってありゃ……どっちも人間?』
野次馬のどよめきや興奮の気配が、感覚を邪魔する。
ライドウの動きが読み辛い、焦って俺の呼吸が煩くなるだけだ。
利き手を開く、まだ傷が完治していない。
この拳で殴れば、痛さに反射した腕が力を緩めるかもしれない。
そんな事を気にしている場合か?
『っ〜おぃい……おれはな! 一番好きなトコ最後に残しといたんだっつの、それを台無しにしやがってぇ……天使の腿肉だよモモ! チクショーッ』
顎を変色させたヨモツイクサが、いよいよ箸を放り投げて槍に両手を添えた。
俺はテーブルの盾は置き去りにして、低めた姿勢を維持しつつ後ずさる。
槍の間合いから抜けた瞬間、テーブルがガタンと倒れた。
ライドウが引き倒したのかと思い、其処へ咄嗟に焔を撒き散らした。
上下逆さのテーブルは脚を燃やし、ついでの様にヨモツイクサの槍も炎上している。
『こんなキャンドルサービスいらねえええ!』
ブンブンと振り回すが鎮火せず、痺れを切らしたのか隣の卓へと向かうヨモツイクサ。
大ジョッキに突っ込まれた切っ先が、一瞬爽快な音を立てて煙を上げた。
共に蒸発したかの如く、ヨモツイクサから怒気とも取れる気配が薄らいだ。
ひとまずライドウに集中して良さそうだ。
(おかしい、居ない)
燃え盛るテーブルの隙間から、黒い影を探したのだが見当たらず。
そういえば、これが倒された瞬間から、向こう側には既に居なかった気さえ……
と、テーブルの端から伸びる、蕩けた白にようやく気付いた。
糸だ、ツチグモの。 これでテーブルを引き倒したのか、つまり……
嫌な予感に寒気がし、思わず体軸をずらした。
「っぐぁッ!」
やっぱりそうだ、後ろから一発撃ち込まれる、しかもツノの横。
動いていなければ直撃だった。
「功刀君」
振り返れば金属の鋭利な光が眩しい、距離感はゼロ。
反射的に脚が蹴り上げたので、そのまま刀を横に押しやってやる。
するとライドウは片手を俺に叩きつけてきた、妙な痛さに目を見張れば銃を握っている。
グリップで殴りやがったのか、しかも続けて腹に撃ち込んできた。
「ねえっ、功刀君!」
不意打ちの斬撃はハッタリだ。
片手持ちの刀は無視して良い、対象の腕一本落とすには両手持ちじゃないと無理な筈。
銃だ、銃を破壊してやれ。
「何か云ったら」
「せこいんだよっ!」
すばしこい、いっそ取っ組み合いになれば勝てるのに。
ツノがビリビリする、食い込んだ弾を押し戻す肉が、熱を持つ。
もどかしい、刀を掴んでやれば片手を封じられるかといえば、それは無いだろう。
こいつは当然の様に刀を棄て、刀を掴んだ俺の隙を狙ってくるに違いない。
「ねえ解っている? 僕はデビルサマナーだよ」
「それがっ、どうした」
背後にステップするライドウは、背中に眼でも有るのか?
このまま追い詰めて行けば、障害物が退路を断ってくれると思っていたのに。
銃撃が裂傷を増やすにつれ、ホールの脂っぽい臭いが鉄錆と硝煙のそれにすり替わっていく。
俺の気を散らす様にして、時折刀が読みを阻んだ。
「くそっ!」
埒が明かない、アイアンクロウで一気に裂いてやろうとしたが、爪先に魔力が溜まる瞬間には大きく躱され。
駄目だ、距離が近過ぎる。 今更間合いを離す事を考えたが、リスクが大きい。
俺の背後は野次馬だらけで、ライドウの背後は既に個室の並ぶ通路に差し掛かっている。
退路を断たれているのは俺だ。
「サマナーの武器、刀と銃だけだと、君は思っているのかい」
惑いつつ放った軟い焔は、外套で掃われ。
その暗い隙間から光が溢れた瞬間、何かが脇を吹き抜けて行った。
不味い、どの悪魔が喚ばれた? 視界の中には居ない、大物の気配も無い。
ツチグモはまだ管の外に居るのか? こいつも複数召喚出来た筈だ、今の敵は何体だ?
落ち着け、召喚数が多いほど使役者も集中力が低下する……つまり、ライドウ本人は叩き易くなったと思えば良いんだ。
そうだ、落ち着け……振り返らず、いっそ押せば済む。
『えっへへぇ〜ヤシロ様ぁ、久し振りっ』
聞き覚えの有る猫撫で声に、身体が痺れた。
文字通り、動かせない。 先刻撃たれた首の傷が、再びジクジクと痛んでいた。
『本当は脳髄ジュースが良いんだけどぉ、ライドウにダメって云われてるから。 ちょうどストロー穴も有ったし、しょーがないから首からね!』
モー・ショボーだったのか……
この気持ち悪さ、毒の味を思い出す。 以前、オベリスクで流し込まれたのと同じだ。
「御苦労」
『あのねえライドウ、強い奴はこーやって麻痺させてから、ゆ〜っくりお食事すんの』
「知っている、だから命じたのではないか」
『ね、ヤシロ様ひっくり返っちゃったでしょ、可愛いね! で、こっからのチューチュータイムなんだけど』
「却下、どうせ血は軽く啜ったのだろう? 既に役得だ、要求はこれ以上呑めぬ」
『ぶえ〜』
「それ以上文句が出るのなら、身体検査はダツエバにさせようかね」
テーブルの脚しか見えていない視界が開ける、仰向けにさせられたのか。
舌先も指先も、やんわりとは動く……ただ、それだけ。
『やっだ〜ババアにひん剥かれちゃうのヤシロ様!? えっぐ! いけない図っ! 認めたくないっ! あ、でも興奮してきたーっ!』
「麻痺が切れる前に決めてくれ給えよ」
『あっ、はいやっぱり剥かせて下さい』
何だ、身体検査とか剥くとか……不穏過ぎる。
天井の照明が薄暗いせいで、見下ろしてくるライドウの顔がよく見えた。
「僕も五枚集まったよ、小翼羽。 既にあちらの世界では日が落ちたのか、行動範囲が制限されていたのは気付いたかい? きっとルシファーが人間界と異界の穴を封鎖したのさ」
「……ぅ、うぐ」
「まだ舌も痺れている? 悠長に説明しても大丈夫かな……モー・ショボー、だからといって余計に触らずとも宜しい」
俺の上着を、探られている……おぼろげだが、紫を帯びた翼が身体を撫でる感触が有る。
『あったよ〜ライドウ』
ああ……胸ポケットに入れておいた小翼羽を、恐らく抜かれたんだ。
「何枚」
『三枚』
「もう二枚有る筈だ」
屈んだライドウが、問答無用に俺の臀部を掴んだ。
ぞわりと全身を駆け巡る、麻痺以外の痺れ。
おぞましくもあり、使役者のMAGを直に感じた証拠でもあった。
「ほら御覧、尻の衣嚢にも入れてあった」
『あ〜ん、そっちもショボーが調べたかったのにい』
「お前がやれば必要以上に揉むだろう、あまり解しては麻痺が抜けるかもしれないのでね」
『ケツ揉んで解けるもんなの?…………あっ、笑ってるライドウ、ねえねえデタラメ云ったでしょっ! さてはねえ!』
尻ポケットからも抜かれたとすれば、俺の持ち分は皆無という事になる。
最低最悪、ここ数時間の苦労が水の泡だ。
「僕がお相子で満足すると思っていたのかい?」
「ううーっ」
「ルシファーは“略奪するな”とは一言も云わなかったからね……フフ……」
指先に白い羽根を弄ぶライドウが、すらりと立ち上がった。
やばい、いくら何でもゼロ枚では、あの堕天使に嫌味のひとつでも云われそうだ。
好きに云わせておけば良いという心と、何らかの罰が与えられるかもしれないという不安がせめぎ合う。
『それが小翼羽? パッと見フツーの羽根だよね、ショボーにも有るのかなあ』
「MAGが宿っている量が違うのだよ」
『よくわかんなーい』
「…………此方に来給え、流石に触れれば鈍い君にも判るだろうよ」
『ひっどーい! あっ、もしかしてそれってショボーとくっつく為の口実ぅ? 案外シャイなんだからライドウっ』
今、立ち上がる事が出来れば……奪われた分だけでも取り戻せるのに。
周囲の野次馬の視線が刺さる、それとなく蠢くシルエットに不揃いな目玉達が光る。
見世物じゃないんだ、とっととテーブルへ失せろ。
悪魔に味方が居るとは最初から思っていない、俺に仲魔なんてものは……

 ――パララディ――

蝋燭の融ける臭いと共に、俺に降り注ぐ魔力。
その微かな言霊が血脈を奔り、痙攣していた瞼が上がりきった。
一歩下がるライドウを追う様に脚を伸ばし、脛を払う。
受け身を取った其処へ目掛け、俺は身体をぶつけた。
『あーっ! ライドウッ』
『させませんよぉッ!』
モー・ショボーの声を弾く様にして、ビフロンスの声が響いた。
巻き起こる圧が、衝撃魔法によるものなのか、焔がフイゴとなって巻き上がらせたものなのか。
ライドウを押し倒している今の俺には、どうでも良かった。
「遅い!」
『申し訳も無くっ、ヤシロ様ぁ! 加勢致します、どうかお許しをぉ!』
パララディの礼もせず、顔も見ないで怒鳴った。
モー・ショボーは伯爵達に任せれば良い、悪魔同士で勝手にやりあっててくれ。
こっちは……それどころじゃないんだ……
逸る気持ちを抑えきれずに、笑いが漏れる。
「っ、く、くっ……俺も、あんたの持ってた五枚を……奪ってやる」
ライドウが握る銃を指ごと押さえつつ、もう片手が突っ込まれた胸元のホルスターを探る。
其処に小翼羽を仕舞おうとしたのか? それとも握り締めたままなのか?
手首を掴み、ぎりぎりと引きずり出した。
だが、指先には何も無い……ホルスターの中か?
仕方が無い、悪魔の手を借りる。
「セエレ」
『はぁーい……勿論ボクも到着してるよ』
「俺が押さえておく、こいつのホルスターベルトの前を開け」
『わあ、なんだか乱暴してるみたい……』
「じゃああんたがこいつの両手を押さえてろ!」
安穏とした声音に、思わず語気が強まった。
何が乱暴だ、このデビルサマナーの方がよほど暴力的だというのに。
ただの報復だ、こんな、この程度。
「な、んだ……無い?」
おかしい……ベルトを解いてまさぐっても、羽根の感触に当たらない。
鍛えられた胸板の硬さが、布越しに嫌でも分かる。
開ききらないホルスターの脇へと指を突き進ませれば、ようやく何かを掴んだ。
明らかに別物だが、とりあえず引っこ抜く。
型崩れした煙草の箱が出てきた。
『……はずれ〜』
ライドウの手首を押さえつけるセエレが、抑揚も無く笑った。
俺は箱ごと握り潰し、セエレの頭に叩きつけた。
指先に微かなニコチン臭が纏わり付き、不快感が増す。
怒りもしないセエレにも、妙な苛立ちを覚える。
ああ、駄目だ……仮にも協力者だ、落ち着け。
この熱は何処にぶつければ良い? そうだ、この憎きデビルサマナーだろう。
「何処にやったんだあんた……おい、答えろ」
乱れた外套のポケットも探ってみたが、やはり無い。
そんなに荷物が収納出来る装備とは思えない、一体何処に仕舞った?
帽子の中かと思い、つばに手をかけた瞬間……ライドウがくつくつと肩を揺らした。
「裸になってあげようか?」
「物だけ寄越せ、それを持って俺がルシファーの所に行く、それですぐ終わるんだ!」
「無駄さ。 君から奪った五枚どころか、残りの五枚すら出てこないだろうよ」
「さっきまで持ってただろ、どういう事だ」
「ショボー」
唐突に唱えたライドウから、思わず目を離す。
指示された当の妖鳥が、手袋を口元にニンマリと笑った。
此方に対し何かけしかけてくるのかと思ったが、その挙動は予想外で。
掴み上げたブツにザンを放ち、残骸を撒き散らしたのだ。
(羽根をぶちまけやがった)
衝撃魔法で散らされた標的は、先刻の俺が台無しにした料理の一部。
天使の丸焼きだった。
野次馬共が、各々の肩をぶつけ合って視線を宙に泳がせる。
はらはらと舞う羽根の中、モー・ショボーが両手を万歳の形に持ち上げる。
その先には、片手に五枚ずつの…………まさか。
『えっへへ〜混乱しちゃえ〜っ』
くるりと回転しつつ、掴んでいた羽根を放すモー・ショボー。
何時の間に渡してあったんだ? そういえば、小翼羽に触れさせていた気がする。
雪のひとつひとつに見分けがつかない様に、それと思わしき十枚は紛れていった。
凝視して追えば、せめて数枚は特定維持が出来ると思った……が、野次馬の蠢きや荒い鼻息でぶわりと掻き回されるばかり。
鳥の形をした悪魔も多く居るので、そいつ等が騒げばまたもやふわふわと煽がれる。
唖然としていた事に気付き、俺はようやくライドウに向き直った。
「何て事しやがる! あんたの仲魔は馬鹿なのか!?」
「っはは、だって僕の指示だもの、先刻アレを呼び寄せた際に……面白そうだから打ち合わせしたのさ」
「お、面白そう……って、何だそれ」
「単なる奪い合いも愉しいが、これも一興だろう? どちらが鼻が利くか、もう一勝負といこうではないか、功刀君」
大笑いのまま、怯む素振りも無くさらりと述べたデビルサマナー。
この右腕を振り被れば、ニタリと口角を上げる。
「思い込みでまさぐっておいて、お怒りかい。 随分と人間らしいねえ?」
……ああ……見えない糸に絡め取られたかの様だ。
この男の口先から糸が吐かれて、この腕を拘束した。
胸がぎゅうっと締め上げられ、熱が吸い上げられていく。
先刻の興奮が嘘の様に逃げていく……駄目だ、待ってくれ。
俺が跨っているこの人間の無防備さに、理性が引き戻される。
駄目だ、違う、こいつは普通の人間じゃないだろ、俺を苦しめ使役する鬼畜野郎の――……

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