“いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、瀝青で内外を塗りなさい”
創世記六章十四節に、その一文は有る。ノアが大量のつがいを載せた、あの箱舟の造り方だ。其処に記される瀝青(れきせい)という物に、当時の僕は関心を抱いていた。聖書が漢訳された際、アスファルトに該当する単語が無かった為に一番近い《瀝青》が充てられたそうだ。
バベルの塔やバビロン空中庭園の建材、他には木乃伊の周囲を包む防腐剤として、瀝青は古より有効活用されてきた。聖書などに綴られるそれ等が、もし油田由来のものであれば……その地の奥底には、油が息を潜め眠っている事となる。
「だから僕は云ったのですよ、チグリスとユーフラテスの狭間を掘削すれば油田が出てくるだろうと」
傍のソファに丸まる黒猫は返事も無く、テレヴィジョンのモニターを眺めている。薄暗い部屋は明滅する四角を浮き彫りにし、其処に展開される荒野の白が目に痛い。流れゆく番組は、聖書をヒントに油田を掘り当てた男の特集をしていた。
「ほら童子、僕の推察は正しかった様子でしょう」
『お主から聞いた記憶は無いぞ』
「それは勿論、論じ合ったのはルイ・サイファですから」
僕が口にした名に、ゴウトは髭をヒクヒクさせた。当時からルイとの逢瀬に嫌悪を示していたゴウトだが、比較的放任されていた僕は帝都守護の隙間を見つけては愉しんでいた。いや、隙間を逢瀬にあてがったのではない、隙間をわざわざ作っていた。
あの男との議論はとても面白く、はなから僕を知識で叩き伏せようとする弁論者よりも余程知的かつ真摯だった。かといって奴は、ひけらかす秀才の様でもなく、自論の悦に浸る学者の様でもなく、基本的には相槌だけで。
里からようやく頭を出し、吸気としての世俗や英知をひたすら欲していた僕には……とてもそれが、居心地好く感じた。
『堕天使と聖書の話をしたのか、それは滑稽だな』
「フフ……次の里帰りの席、酒の肴にでもしてくれて構いませぬ」
『止しておこう、監督不行届きと我が叩かれるわ』
失笑する猫は僕を見ない、それとなく察してもいる様だ。思い出話をする僕の気分が……とても酷い事。
ルイが人間では無いのだと、出逢って間もなく感付いてはいた。しかしそれがどうした、とも思っていた。寧ろ只のヒトでは無い事に僕の心は疼いていた。その方が距離を測り易く、話が早いからだ。
正体を明かされた時も、怒りや悲しみは無かった。それどころか期待を裏切らぬ友だと、僕は高揚していた。その高揚のままに僕は仲魔を嗾け自らも飛び込み、結果敗北した訳だが……あのまま交戦しなければ、どうなっていたのか。堕天使の、それも遥か高位の奴と友人のままで居られたというのか?
奴も僕も、何処か似ていた……それは向こうも実感していた事だろう。でなければ新世界の灯が落ちるまで、ソーダ水のあぶくが絶えるまで、肩を並べる筈も無い。
一戦交えたあの瞬間に確信したのだ、己を観ている様で気分が悪いと。悪魔の海に住みながらにして、ヒトに興味があるその姿。それが激しい憎悪を生み出す。
遅かれ早かれ、いつかは決別していたという事だろう。僕の内に燃える人ならざる者への羨望が、魔を憎むのだ。強さの証明が隣で微笑む状態に、いつまでも耐えられる訳も無い。そしてそれは、人修羅にも該当する……
連結の証
『むっ、何だ?』
テレヴィジョンとは違う方向からの音に、尾を立てる黒猫。
この音色……携帯電話とも、玄関の呼び鈴とも違う。立ち上がり発信源を辿れば、部屋の一画にぽつんと置かれた固定電話と判明した。もう長い期間めくられた形跡の無いメモ帳が、傍に潔白のまま控えている。
『捨て置け、この家の者に届いた連絡だろう』
ゴウトの意見に僕は哂って一瞥し、受話器を持ち上げ耳に当てる。既に向こうが喋り始めていた、この女性の声は聞き覚えがある……恐らく、橘千晶。
「し……もしもしっ、もしもし聴こえてますか」
「はい」
「あっ、功刀君! ちょっと貴方どういう事なのいきなりふざけないで頂戴、携帯には出ないし先生には迷惑かけちゃうし、ねえ聴こえてるの!?」
「功刀君が何か」
返答の声でようやく我に返ったのか、一瞬の間……乱れた息遣いだけが、電波にぼやけて耳元をくすぐる。
「ごめんなさい……紺野さんね? その家で男性っていうと、あの人しか居ないから、つい……確かめもしないで私」
「構わぬよ。因みに功刀君ならば、未だ帰宅せず」
「えっ……まだ? 今夜バイト入ってるとか聞いてます? あの人、休み時間に何処か行ってそれきり――」
プツリと音が消えて、ツー・ツーという一定間隔の信号音だけが鼓膜を打つ。橘が沈黙したのではない、空気が明らかに千切れた。
受話器本来の定位置、そこに有る突起を人差し指が押し込んでいる。僕はその指が退く前に、思い切り受話器を叩きつけ戻した。鈍く手応えを感じたものの、悲鳴も上げずに僕を睨んでくるのは人修羅だ。
「おかえり、功刀君」
てっきり「人の家の電話に勝手に出るな」といった類の文句を云うと思ったのだが、無言で立ち去ろうとする。僕は今しがた叩きつけた指を目掛け、掴みかかった。淡く腫れている、どうせすぐに引くのだろうけど。
「橘君が心配そうにしていたよ、学校をサボタージュしたのだって?」
「触るな」
いつも通り払い除け、吐き捨てるような声音の人修羅。ただ、何処か違和感を覚えた。拒絶の体を示しつつも、その眼があまりに僕を刺すから。
「ヤクザ者の事務所はどうしたの、燃やした? 火災のニュースは見てないが」
「なんとかなりそうだから、もうあんたには関係無い」
「おや、一体何処の誰に泣きついたのかね。まぁ、知れているが……どうせルシファー辺りだろう」
相変わらずポーカーフェイスが下手な君は、眉根を顰める。が、その細められた眼がゆるゆるとまろみ、鋭さから歪みへと色を変えた。感情を隠すつもりも無いその姿勢に、僕も血が滾り始めた。
「俺の事ばかり云えるのか、あんたこそルシファーと仲良くやってたんだろ」
「悪友の様に付き合った頃も有るが、昔の話だね」
「どうせ俺の事をハメるつもりでいるんだ、裏でルシファーと哂っているんだ、俺を……俺を」
「今更何を不審がっているの? 僕は始めから君を利用するつもりだと、これは説明済みだが」
背後で再び電話が鳴る。
既に家主が居るのだから、僕が取る必要も無い。そう思い静観すれば……彼は何を思ったか、電話本体の背面に掌を滑り込ませ、何かを引っこ抜いた。位置からして、あれは通信線だろうか。
「……うるさい」
ぽつりと零される言葉は、先刻まで鳴り響いていた電話か、はたまた対峙する僕へと向けたものなのか。人修羅は僕と同様、学生服を身にまとっていた。しかし形がおかしい、途中からボタンを掛け違えている。何をそんなに慌てて着直したのか。
「うるさい、うるさいうるさいっ! あんたも周りも皆! 俺が本当は人修羅だって知ってるんだろ!」
「フフ……誰かに云われたのかい?」
「そう、そうだ今更なんだ、あのままボルテクスで死んだ方がマシだった」
「伯爵から聴いたものと思ったいたが? 君はマガタマに適正した人間、そうそう簡単に手放してはもらえぬと」
「……なぁ、あんたが殺してくれよ」
静まり返る居間、暗い室内に光る人修羅の眼。ゴウトはソファの背に胴を隠したまま、此方を警戒している。僕は腰に提げた銃を奪われぬ様に、半身の姿勢でもって会話を続けた。
「僕が何の為に、わざわざ出張してると思っているのかね」
「俺の為だって?」
「勿論、僕の為さ。しかしそれは、人修羅という悪魔を磨く為……君を自らの手で始末するには、もっと理由が欲しい所だよ。そんなに殺して欲しいのなら、また悪魔狩人にでも頼んだら如何」
「ふ、ふふっ」
自棄になったか、何がそれほどに滑稽なのか卑しく笑う人修羅。僕に近付く足取りは泥の様だというのに、金の双眸だけは爛々と輝いている。
「あんた……俺が他の奴に殺されてもムカつくんだろ? は……はっ、知ってるんだからな……ライドウ、あんたが強さに執着する理由」
「云ってみ給え」
「病院の屋上、煙草をふかしながらあんたは云った……“昔、堕天使に引き裂かれた”と」
「へえ、思い出したのかい、話が早くて助かる」
そう、僕は君に表明済みだ。ルシファーに私怨が有り、復讐したい旨を伝えた筈。依頼を請けた時には察する事も出来なかったが、こうして巡り合わせたのはまさに好機。あれから僕も仲魔も、少しは鍛わった自負が有る。過信は禁物だが、臆病風ほど己を弱体化させるものは無い。
僕を飼う組織の事も、内情も、全てを知る由も無い人修羅を掌握する事は、実に容易かった。何処か不穏な空気を匂わす君が、こうして僕の目の前に構えようとも臆する事は無い。
僕の腹が黒い事も、人格者では無い事も。今以上に露呈しようが、そんな事はどうだって――……
「何処かの……晴海? ……の……教会の身廊で……あんたと外人が睨み合ってる……あんたは銃撃したが、外人は全弾喰い止めた」
虚ろ眼の人修羅が、思い出す様な語りを深めた。僕を睨む様でいて見ていない、そんな視線。
「何の話をしている」
「仲魔を召喚したけど、そいつは相手の威光に圧されて、管に撤退するしか無かった……悪魔なら、仕方が、無い」
背筋を這い上がる嫌悪感と、海馬を読まれてはいまいかという警戒心がこの身を震わせた。人修羅に読心術は出来ない、習得して帰って来たか? いや、僕の思念を読める悪魔はそう居ない。何故、お前がその出来事を知っている。
「答え給え、いつの話だ」
「外人は本当の姿になって、あんたを紙切れみたいにふっ飛ばした……天井近くの薔薇窓に当たって、硝子と一緒に砕け散った、あんたは……」
「答えろと云っている」
「その外人は人間じゃなかった、ルシ――……」
語るばかりで核心を述べぬ口に、銃口を押しつける。リボルバーの接吻に一瞬眉を顰めた人修羅、だがあろう事か僕の手の上から指を添え、引き金を引かせんと力を込めてきたではないか。僕が攻撃的な意図にて、弾をお見舞いするのは構わない。だが、己の意思に反して発砲させられるのは堪らなく腹立たしい。
どうせお前の喉に穴を開けようが、僕に利点など無い。床が血に汚れ、撥ねた滴が僕の爪先を染め、微かな呼吸で喘ぐ君は暫く喋らない、ただそれだけ。欲する答えまでの道のりが、遠退くだけ。今傷つけようが、憂さ晴らしにも成りやしない。
「フン、何処まで覗き見たのか知らぬけど。少なくともこれで、僕があいつに向ける感情の質が解かったろう? そうさ、僕は晴海の教会で戦い、敗れた。つい先日まで、飲み友達が如く付き合っていた男にね」
ゆっくりと銃を下ろし、人修羅の手ごと払った。彼はそれ以上抗う事も無く、だらりと垂らされるその腕には斑紋も無い。
「……裏切られたと思ったのか、あんた」
「元々悪友でしかない、僕に勝負を仕掛けてきたのはルシファー……ルイと名乗っていた頃の奴さ。そして、僕もそれを良しとした。知人であれど、戦う事に躊躇は無い。戦いで僕の好奇心を潤し、強さの証明とするつもりだったからね」
「もし強い悪魔だったら、使役してやろう……って、そう思ってたのか」
「そうだよ」
「俺にした様に、あいつとも繋いだのか」
人修羅が一歩踏み出してきた、視界の端でゴウトが毛を逆立てる。僕は背面のベルトループに差した管だけを確認して、微動だにしなかった。距離はほぼゼロとなり、人修羅の額がやや下の方から僕の学帽を押し上げた。濃くなった暗がりに光る金眼で、僕の眼が眩む。
「……言葉の意図が分からないね」
「分からない? そんな筈あるかよ、俺は思い出したんだ、ルシファーに“ヒキダシ”を開けてもらった」
「抽斗?」
「あんたが俺に何したかっ、ようやく思い出したっつってんだよ!」
襟を掴まれる、短い前髪が僕の鼻梁を撫でていった。微かに薫った、雨にけぶる露草の様な匂い……ソーマだろうか。
「この強姦野郎ッ」
流れる視界、反射的に受け身を取りつつ転がる。投げ飛ばされた先は廊下側だった、すぐ傍には二階への階段が見える。応戦する場合は上へと誘い込むのが良い、階段では此方が有利となる。銃を使うか小刀にするか、召喚をするか……まだ判断に早い。
「俺の事、犯す必要が有ったのか……だってあんたが使役してる悪魔共、全員とそういう事出来るワケも無い。人型の悪魔を選んでヤってるのか? そんなに飢えてるのか、それともただの色情狂か」
「君に仕掛けたのは呪いさ、功刀……いや、人修羅。管にも入らぬ半人半魔の君は特殊だ。僕と同じ“人間”という要素を未だ残しているからこそ、神経衰弱していた君の魂に刻み付けたのさ……僕の念を。人同士だからこそ認識し合える血、臭い、音、味、全てでね」
一段一段、上って来る人修羅。彼が一歩踏み出す度に気配が鋭く濃くなる、擬態を解き始めたか。
夕刻の空を早回しした様に、狭い通路にぽっかりと浮かぶ月の双眸、照らされて輪郭の映える雲間の斑紋。怒れる息遣いはまるで遠鳴り、嵐の予感。
「本当にそれだけか」
「契約の呪い以外に何が有るの? 僕は人の三大欲求を適度に解消出来ればそれでいい、性欲もね。そしてそれは自己管理の一環に過ぎない」
「間怠っこしいっ」
数段飛ばして駆け上がって来た人修羅、その薙いでくる爪先をかわしつつ確認した、アイアンクロウの類では無い。もう一撃が何処に来るのか……心臓を貫かれては困るが、胎に一撃もしくは首を絞められる程度なら遊ばせて良い。逆上した人修羅の口が、思考に直結している事くらい把握しているから。
「俺は……あんたに……」
廊下の突き当り、出窓に追いやられたフリでやり過ごす。さあ疑念を吐き出しておくれ、それを足掛かりにして僕の疑問を解いてみせよう。
「ルシファーと……ヤ、ヤったかどうか、訊いてんだよ」
僕の学生服の襟が、このままでは変形してしまう。そのくらいにギリギリと掴まれ、引っ張られていた。その指の震えは人修羅自体の緊張かと思った……が、どうやら違うらしい。
「何の話」
僕が震えている。
「あんたは支配したい相手が人の形してれば、身体で繋がりたがるんじゃないのか? それこそ呪いふっかけようと……」
「ふ……あ、はは」
可笑しい。
「あっはははは」
てっきり懇意にしていたか否かの追及がなされ「あの堕天使を好いていたか?」などと訊かれる推測を立てていた。しかし人修羅が先刻から打ち出す僕の行動理念の、何処にも色恋が入らない。その事実に、我ながら滑稽を感じ笑いが止まらない。
想像していた以上に、こいつは僕を理解出来ている。
「何笑ってるんだ、はぐらかしてるのか」
「ふふ、はは……いや、嘘を吐く理由も特に無いからね。そうさ、致したよ……ルシファーに帝都へ送られて、現場でも見てきたのだろう? 功刀君」
「……あんたの口から確認がしたくて」
金眼がチラチラと彷徨い、言葉に一瞬の空白が生じた。ああ……見ていないな、これは。
教会での勝負は、あたかもその場に居た様に述べていた。あちらに関しては、ルシファーに“見せられた”ものと思われる。つまり、たった今された問いは……人修羅が勝手に抱いた疑問、興味という事だ。
「で、僕とルシファーに昔、肉体関係が有ったからといって、何?」
「だって、相手の正体が判明してからはそれきりだったんだろ、その日までは一応人間として付き合ってたんだろ」
「人ならぬ何かとは薄々感じていたが、別に正体は何でも構わなかったね」
「ど、どうやって……そんな、そんな事したんだ……い、一応男の形してたろ、ルシファーは……あんた、まさか本当にどっちでもイイのか」
「随分と熱心に知りたがるね、フフ……童貞臭い奴」
「なっ、違ッ……あんたが俺を犯した事に、他意は無かったのかと――」
「では次、僕からの問いに答えて貰おうか」
早自分でも動機が分からなくなってきたのだろう。言葉を遮った僕に云い返す事も出来ず、人修羅は硬直した。その隙を突いて銃を早抜きした僕は、密着しそうな距離の学生服の内側にその銃身ごと突っ込んだ。
「こういう着崩し方、流行っているのかい?」
ボタンのかけ違えであぶれた穴から、銃口をぬっと突き出し踊らせた。このまま発砲しても人修羅に当たる事は無いだろうが、彼は逃げようともしない。
僕はズレて留められたボタンに、空いた手の指をかけた。ぷつりと一つ外した所で、ようやく呼吸を思い出したかの様な人修羅が、口を開く。
「やめろ、自分で直す」
「功刀君、君はルシファーと寝たの?」
「……は」
声だけは怪訝そうだが、その貌は明らかに強張っている。
「君と同じ質問をしているだけだよ。性行為の形をとり繋がったのか、と訊いている」
「なっ……なんで俺がそんな事される必要有るんだ!! あいつはそんな事しないでも、他を支配するなんて容易いだろっ……人間に化けて人間と遊んでるならともかく、従えてる奴に対して……んな行為、する理由がない」
ああ、これは黒だ。
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