チャイムの音より遅い「起立」に、周囲の溜息が聞こえるみたいだった。
 数学の教師って数字に厳しいイメージ有るのに、どうして終業時間にはルーズなんだ?
「新田君」
 着席と同時に睡眠体勢へ入ったオレに、女子の声がかかる。
 自分の頭を包むように伸ばした腕の内から、もぞりと首を捻って相手を確認。
 意外な事に、橘千晶だ。いつもの刺々しさが声音に無いから、てっきり別人かと思った。
「どうしたよ」
「ねえ君、功刀君の家に行く気、無いかしら」
「はぁ? アイツ今日も結局来てないって事?」
「この後から来るとは思えないけど、もうお昼だって過ぎてるし」
 二人して、じっと当人の机を見た。
 空っぽの席は乱れも無く、ちょうど席を外しているだけのようだ。
 昨日の帰りまでは横に提がっていた鞄も、今日来たら無くなっていた。
 てっきり当人が回収して、授業だけフけてんのかとばかり。
「貴重品って事だから、鞄は事務室のロッカー。昨晩それを伝えようと思って、彼の自宅に電話したけど……途中で切られちゃったわ」
「えっ、マジ?」
「こんな屈辱的な嘘、私が吐くと思う?」
「思いません!」
 何やってんだアイツ、橘女王を怒らせるとは……いい度胸してるぜ。
 いかにもな脳内台詞を浮かべつつ、寝がえりを打った。
「病み上がりの祐子先生に行かせるワケにはいかないでしょ、昨日だって花屋まで様子見に来させてしまって……ああもう、こんな筈じゃなかったのよ」
 苛々を隠さない橘千晶だが、今日はそれ以上に不安の色が強い。狼狽っていうのか、そうでもなけりゃ勝手に矢代の家行ってるよな、このヒト。
「で、どうしてオレが行かねばならんの?」
 とりあえず訊いてみた、教室の時計を眺めながら。
「……あのね、最初に電話出たの、功刀君じゃなかったの」
「紺野さん?」
「ええ……その、正確に云うと功刀君とは通話してないの私。紺野さんが対応してくれて、その途中でブツリと切れたのだけど……切ったのは多分、功刀君よ」
 何だそりゃ女のカンか? でも確かに、紺野はそんな雑な事しない気がする、男のカンだけどさ。
 時計の針が進む、返事を決めなきゃな。ああ面倒くせえ、でもこのまま放置したら、きっと祐子先生が訪問する事になるし。
「何か揉めていたらと思うと少し厄介だから、男友達の君が適材かと思ったの」
「あーはいそっすね、行かせて頂きますよ、お嬢様」
 放課後のホームルームが終わったら、まず事務室……で、鞄取り出すにゃ先生の同伴が必要だろうから……ま、そこだけは楽しみだな。
 次の授業のチャイムが鳴り響くと同時に、オレはバリケードの様に教科書を机に立てた。
 放課後の用事の為に、もうひと眠りしとかねーとな。



帰って来た嘯く鳩



 まるで流れ作業のようにアッサリと手続きは済み、オレは祐子先生と正門で別れた。
 内心思う、これが矢代だったら先生はきっと引き留めて喋り込んでるだろうって。
 でも正直、本当に「私も家まで行くわ」とか云い出すんじゃないかと、ヒヤヒヤしてた。
 先生の身体が心配……ってのも有るけど、自分にいいわけしたってしゃーねえし、こんなの正直嫉妬だ。
 何をどうして、先生はアイツの事を気に掛けるんだろうな。アイツ以外の全員には、平等なのに……
(それってつまり、矢代が特別って事)
 オレは当然《功刀矢代以外》に該当するワケで、区別の理由さえ分からない。
 矢代の鞄が急に重く感じた、受け取った時はそうでも無かったのに。
 この中に入ってんのは、課題に必要なアレコレと、財布と定期と眼鏡……くらいかね。
 オレの鞄みたく「学校で使う必要ゼロ」な物が詰まっている筈も無い。
 音楽プレーヤー、リップクリーム、爪切りピンセットに鏡、借りっぱの漫画単行本、DSかPSP……中の寒い財布。
 昔だったら、きっと煙草も入ってたな。中坊の頃、別に美味しくもなかったけど必ず持っていた。
 もう味も思い出せない。燃える先端の色だけが、脳裏にチリチリと焦げ付いてる。
 頬を撫でる風が冷たくて、肩に力が入った。人混みとビルの隙間から、焼ける空が見える。
 妬ける胸からチリチリと、あの日の空と重なる。
 
 
 なんかよく分からんけど中学時代、オレはパシられてた。
 大金ってほど巻き上げられてるワケでもないし、痣が残るような暴力をくらってるワケでもない。
 それでも何かにつけちゃあ馬鹿にされ、格下に扱われ、散々イジられるオレ自身も孤立してた。誰と喋るでもなく、休み時間には机と常時キス。飯は殆ど噛まずに飲み込むクセがついた、長時間一人で食ってられっかっての。
 デカイ顔したクラスメイト(名前は忘れた)が、移動教室の度に荷物を投げてくる。うまい事キャッチしないとだ、落としたら背中蹴っ飛ばされるからな。ポンポンと周囲から放られ、オレは異国の運び屋みたいに山盛りの荷物を抱える。柔道着はかさばるし、工具箱はクソ重い。
 どうして自分以外の野郎の鞄とか、持たなきゃいけねえんだっての……そんな反論も出来ずに、オレは中身すっからかんで従った。
 これが漫画とかだったら、クラスに大抵一人くらいは正義感の強い女子なんかが居て、庇ってくれるモンだけど。リアルワールドなので、そんな存在居やしねえ。気まずそうに、遠目に見守ってんだか観察してんだか。ま、多分アレだな、自分がやられないように予習してるんだ、周囲の奴は。
 オレは在るが見えない空気の様に扱われ、空気なのに荷物を運び、空気なのに参考例になった。そんな空気はやさぐれの証みたいに、煙草を自販機で買ったんだ。税金デカイから、小遣いを圧迫しやがる。
 大して美味くも無い煙を飲み込んでむせた、慣れるまでは人目につかない場所で訓練した。
 しかし問題発生だ。色々あってこんな不良になっちゃいましたよアピールのつもりが、誰も注意してこねえ。でも堂々とコンビニで買う気はしない、きっと事務的に「未成年への販売は出来ません」とかハネられるだけで終わる。そこでゴネるのが目的じゃないし、そもそも本当は煙草吸いたくないから押し通すまでの欲求も無い。
 
 あくる夕暮れ時、愁いモードMAXでオレは校舎屋上に出て一服してた。
 久々の学校だったが、より一層自分にとって居場所の無い箱庭になってて、ちょっと絶望気味だった。
 屋上が開放されてる事は、生徒間でも殆ど知られてない。一昔前はそれこそたまり場だったらしいが、夏暑く冬寒いので「最近の若いモンは好んで居座らんだろ」とか用務員のオッサンが教えてくれた。
 確かに出歩ける範囲は制限されてて、玉遊びさえ難しそうな狭さ。そんなお一人様専用席みたいな場所で、フェンス越しに真っ赤な空を眺めては煙を吐いた。
 グラウンドを駆けるサッカー部員達は、球に群れ集う虫みたいだった。並走しながら粒が乱れていく陸上部員は、窓の露。
 そういうの何から何まで、全部真っ赤に染まっていた。地面も人も樹も建物も、見渡す校内一帯が燃えるみたいに。
 独りで居ると、いつもより色々よく見える、見え過ぎる。
「あらっ、こんにちは」
 唐突な女性の声に振り返ると、生徒じゃない人影が居た。
 服装からして教員だ、でも見覚えが無い……オレのクラスは担当外の人か。
「煙草は吸っちゃダメよ」
 教育者なら当然の言葉へと続き、オレもテンプレみたいにヘラヘラしつつもウンザリといった表情で返した。
「一応注意はしましたからね……わ、凄く真っ赤」
 と、女性はオレの隣に来て自分も一服始めたから、ちょっとびびった。
 互いの煙に紛れて、オレは横目に見上げる。(相手の方が背が高かった)
 キリリとした眉は、なんとも意志の強そうな感じ。顔はちょっと童顔っぽい、でもスッキリした服装と少し暗めの口紅が、これまた大人っぽい。黒髪は結構短く切り揃えられてて、ジャケットの肩に毛先がギリギリ触れない程度。
 似た芸能人が居た気もする、思い出せない。美人だから、勝手に居そうと思い込んだかも。
「よく吸いに来るの?」
 無視した方がボロが出ないと思ったけどもう遅い、オレは内心ドキドキしながら言葉を選んだ。
「いや、たまに……」
「そう、私も」
「あの、他の先生もココ来んの?」
 オレの声音で察したのか、ふふっと煙を吐き出して笑った。
「大丈夫、まだ遭遇した事は無いから」
「そっすか……」
「人気スポットだったら私も困っちゃう」
「独りになりたいんすか」
「そうね、今日は二人になっちゃったけど」
「嫌?」
「ううん、そうでもなくて今ホッとしてる所」
 なんとなく「オレも」って云いそうになる。でも煙と一緒に飲み込んで、無様にむせた。
 軽く背中を叩かれて、そのトントンと触った掌が空気みたいに軽くて優しかった。良い意味の空気ってヤツ、自分みたいのじゃなく。
「でも体に好くないのは本当よ、成長過程なんだから考えて吸いなさい」
「じゃあ先生は吸っていいの、体に悪いのって成長云々関係無いっしょ」
「先生って私の事?」
「違うんすか」
「……ううん、一応先生だと思う」
 見目に反して、なんだか自信なさげな反応。
 女性の眼が赤い。充血なのか、夕焼けの色を吸い込んでるんだか、どっちか判らない。
「授業で何か教えてたら、先生って自称してイイっしょ」
「そう?」
「そうすよ」
「君はこの学校の一員、生徒としての自覚って持ってる?」
 なんだか生真面目な質問で、そういうトコが教師っぽいなって思った。さっきの口ぶりからして、教育実習生かもしれない。
 茶化さず答えたかったけど、うまい言葉が見つからない。いや違う……答えがオレにも分からない。
「つうかですね、正直、そんなのいちいち考えて学校生活送ってる奴なんて居ないと思います! そんな自覚が皆に有るんだったら、もっと平和っしょ」
「平和って?」
「えっ、うん……その、イジメとか無いと思うんですけどね」
「イジメを見たの?」
 おいおい自分が被害者ですなんて、まさかこのタイミングで切り出せない。見たと云ってもややこしくなるし、見なかったと云えば「知った口を利くんじゃありません」って話になるし、いきなり詰んだ。
「御免なさい、別にいいの云わなくて。君がイジメを好くないって思ってる、それだけでひとまず良いのよ……自分を一番大事にしなきゃ」
 無言のオレを気遣ってか、先生(仮)は勝手に話を終わらせた。でもなんだか、その言葉はオレに向かってない気がした。
 オレの目を見て云ってない、夕焼けの向こうに話しかけているようだった。誰にも向かわない言葉の行先は、何となく知ってる。
「それにしても凄い夕焼け、なんだか今日は一段と赤い」
 オレに同意を求めてるのかな、確かに凄い色してるし、でもさっきからずっと気になってるんだよな。
「先生もココで夕焼け、よく眺めてるの」
「私、高い所が好きなの、こうして見下ろせる様な……」
「夕陽の色が好きってワケじゃなくて?」
「……そういえば私、さっきから綺麗とは一言も云ってなかったのね」
 すぐに自覚する辺り、頭良さそうだなあと思った。
 オレはしゃがみ込んで、足下のコンクリに煙草の先端を押し付けた。一瞬ジッと音がして、燻る臭いが漂う。
「最近、こんくらいの時間にココ来て、学校が燃える妄想してた」
 灰で黒ずんだ一点を眺めながら、オレは吐き出した。喋る内容のせいかニコチンのせいか、舌の根が苦い。
「イメージし易くって、全部真っ赤だし。でも吸い終わる頃には身体すげえ冷えてんの、ブルっときてなんか目が覚めるっつうか、燃えてたらこんな寒くないよなって思って、結局虚しいっつうか」
 どうして初対面の先生(仮)にこんな事暴露してんだか。でも今しか云えないと一瞬でも思ったら、もう口から洩れてた。
 不謹慎と怒られるか、冗談と笑われるか、どっちかだろうと思いつつ……この人なら、黙って聞いてくれる予感がした。
 火事の炎とキャンプファイヤーの炎と、何が違うのか。燃える物が違うだけで、火の色は同じ。
 赤いオーロラを、前にテレビで観た。キレイなんだけど火事にも見えて、実際昔は悪魔のしわざとか云われてたんだと。何のしわざでも良いじゃん、燃えてないしキレイなら。
「ああ……それ、きっと私も同じ」
 ところがどっこい、黙って聞いてくれるどころか同意が帰って来た。
「どうしてか“綺麗”って云ってはだめな気がしてたの、きっと後ろめたさがあったからね」
 一体どんな表情してるのか気になって見上げると、目の前に携帯灰皿を差し出された。吸い込まれるように其処へ吸い殻を入れた時には、先生(仮)はもう向こうを眺めてて、確認出来なかった。
 この人もイジメられてんのかな、この狭い学校で。
「でも、焦土から芽生える新たな生命や文化って、夢が有ると思うの」
「はあー先生、放火でもする気」
「すると云ったら君は止めてくれるの?」
 教師らしからぬ返しに、オレがうーんと唸ってしまった。妄想で済ませてくらいだから、本当に燃えたらショックだと思う。
 それとも、こんな気持ちも無駄なのかね。周囲の下らねー奴等が燃えて、オレが心に火傷したとして。
 その逆……オレが燃えようが、周囲は「なんだか熱かったねー」の一言で済ませるかもしれんし。
 今は身軽な筈なのに、まだ荷物を負わされてる気がする。運んでも運んでも消えない、身体に痕は無いのに。
「こうやって見下ろしている世界が、いきなり燃えてしまったら……まず何を思うかしら、ね?」
「えぇ……自分の家どうなったかなあ、とか……水や食料の確保はドコですりゃいいのか、とか……」
「誰かが死んでしまった可能性を思って、心がざわついたりはしないの?」
「ショックは有るすよ、でもうっすいショック。家族の事とか心配っちゃ心配だけど、自分の事でいっぱいになっちゃって多分すぐ忘れる。っていうか今、例えば本当にそうなったとしたら……多分先生と一緒に生きてく事考える」
「初対面から数分よ」
「だって先生優しそうだし、たった二人で生き残ったら運命的じゃないすか」
「この屋上がノアの箱舟になるって事?」
 一笑で流されたけど、オレ別に的外れな事云ってないと思うし。
 この人、おっかない所たまにチラチラ見えるけど、やっぱり優しいんじゃないかな。
 でもそれって多分、今のオレにとって優しいって事で……
 妄想で燃やされた世界にとっては、優しくないんだろうな。

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