責任点火


異邦の神アラディア…
バアル神の化身…
漂流の神ノア…

「どうしたの、矢代君」
「先生、功刀君たら最近ずっとこうなのよ、放っておいて良いわ」
「コイツよか祐子センセ、俺に構ってちょおよー」

白が程良く眩い病室。未だベッドにその身を置く担任教師が、俺を見て微笑んだ。
「大丈夫?」
背筋が凍る…何と答えれば良いのだ。そもそも、この担任教師には東京受胎前から悪寒していた。
俺を見る眼が…酷くねちりと、湿っていたから。自意識過剰では無い、本能的に察した。
それは、生徒を温かく見守る教師のソレとは、違う。
(今、此処の面子がボルテクスの時の形に還ったら、どうなるだろうか)
ぼんやりとそんな事を考えていたとは、云える筈も無い。
(俺は…どうやってこの人達を殺したんだ…)
カグツチ塔の記憶は、酷く薄い。まだ混濁しているだけか、いつかは記憶が戻るのだろうか。
戻ったところで、苦悩しか呼び起こさない気もするが。
「私が居ないからって新田君、勉強サボってない?」
「それこそ大丈夫すよ祐子センセ!戻ってきた時には進化した俺をお見せ致しましょう!」
ようやくあの日に着てきた一張羅をお披露目出来て、ジャケット姿の新田は生き生きとはしゃいでいた。
いや、其処の教師の肉声と空気に高揚しているのか。
新田が人修羅になってくれたら、高尾先生も望みのままに世界を創れたかもしれないのにな…
それを考えて、自嘲の様な、憐れみの様な、何ともつかぬ失笑が零れた。
「功刀君…寧ろあなたじゃない、そういえば進路、どうするつもりなのよ」
腕組みのままベッドサイドに立つ橘が、じろりと俺を見た。
「学校の担当には、聞かれたら答えてる」
「私達の本来の担任に云って、安心させて然るべきじゃなくて?」
「この空間で堂々と話す内容か…?」
この問答に、ベッドから高尾がやんわりと横槍を入れる。仲裁と云うべきか。
「そうね橘さん、ありがたいのだけれど、公に出来るものでも無いわ…真面目な話しは気恥ずかしいものね」
その言葉に、橘と反対側に立つ新田が嬉しそうに笑った。
きっとその気さくな台詞に共感しているんだ…“流石、俺の敬愛する先生”と。
「でも先生、彼の為にもならないわ」
「卒業後に全てが決まる訳でも無いのよ橘さん、急かすものでもない…」
病院着から覗く肌は、確かに健康的とは云い難い。でも、俺はそれを見て、他の二人とは違う感想を抱く。
そんな肉体で、神の依代に…巫女になれるのか、と。
ナイトメアシステムだろうが、アラディアだろうが、素体がそれでは…
(脆弱な人間の肉体では)
は、と思考を止めた。俺は“人間”という区分に今、自分を入れていたろうか…?
「俺、帰ります」
ブーツを鳴らしても、埃ひとつ立たない床。綺麗な空間の透明な空気こそ、距離感が鮮明で怖い。
もう、早く出たい、この空間から。
「おま、最近付き合い悪くね?いや、別に構わねえけどさ…」
云い直す新田には、恐らく罪の意識が有る。
俺と接しているのは、高尾祐子との接触を増やす為だけ…利害の一致だから友人付き合いしてるのだという、その意識が。
そこに距離感を感じるなら、最初からこんな関係始めなければ良かったじゃないか。
「矢代君、帰りは一人で平気なの?」
「最初から今日は一人で来たんで」
「そう、気をつけて帰ってね、最近この辺は物騒だから」
この病院こそが、物騒の根源だったじゃないかよ。
やり場の無い感情を噛み砕いて、奥歯を噛みながら俺は病室を出る。
ああ、来るんじゃなかった。どうしてお見舞いなんかに乗ってしまったのだ。
(…人修羅とか、東京受胎とか、結局云わなかったな)
ぼそりと俺だけに零すかと思ったが、それも無かった。
あの教師にも、ボルテクスの記憶は残っていないのか…他の人間同様に。
それを探る為に見舞った俺は、慈しみや偽善のカケラすら無い。
自然に、あの教師を敵だと認識している。
(どうして俺を助けた…人修羅に成ると、予知でもあったのか…先生)
病室から出て少し歩き、渡り廊下を通る…外の風景がガラス越しに見える、開放感のある通路。

“躊躇しちゃ駄目よ!あなた悪魔にしては臆病ね〜”

玉虫色の翅をカグツチの陽に透けさせて、カラカラと笑う妖精が見えた気がした。
(悪魔なんか…嫌いだ…)
東京受胎の後目覚めて、得体の知れない己と周囲、変貌した世界に絶望したあの時。
此処でようやく拠り所を得た記憶が、やはり抜けない。
この命を得てからというもの、自分の悪魔が増す程に…悪魔への嫌悪感が増す。
ピクシーの不安そうな、それでいて誘う様な、潤んだ小さな瞳が俺を見ている……やはりそんな気がして、傍を見た。
傍らには何も居ない、行き交う看護士と、見舞い客と、患者。
ガラスの向こうに流れる白い雲の隙間には、カグツチでは無く太陽。
(今日も、曇りの空…天には、空、地面じゃない)
そうだ、馬鹿馬鹿しい…東京受胎は逃れたんだ、何を怯えている。
何食わぬ顔で、気持ちを切り替え歩き出す。
見覚えのある院内、幾度か行き来した…悪魔を殺しながら…此処から出る為に。
殺すのは、立ち塞がるからだ、血肉やマガツヒを求めているからじゃ…無い。
(……此処は)
《A203号室》の手前。名前のプレートは無い。丁度患者も掃けて空き室なのか。
通り過がる看護士が、車椅子を押しながら談笑している。
「声が聞こえるとか云って…ええ、皆さん他の部屋に移りたがるんですよ…」
車椅子の患者は「うそだあ」と笑って流している。
(声…)
どうしても切り替えきれぬ感情が、俺の足を逸らす。
その、ひっそりと佇む扉の前に近付いて、肩のショルダーバッグの紐をぎゅ、と握り締めた。
あの日の彼女の真似をする。

「マガツヒ…アルゾ」
何をしている。
「イッパイ…モッテキタ」
馬鹿じゃないのか、俺は。

………やはり、無反応だった。扉の向こうから、ガキの声は無かった。
それに安堵なのか、俺だけが普通の世界に着いていけてない事実に苛立つのか、どっちつかずの淀みに襲われる感覚。
「くそっ」
小さく吐き捨てて、頭を軽く振り被って足早に退出する。
(万が一、ガキが出てきたとして、俺はどうするつもりだった?殺すのか?マガツヒでも吸うのか?)
広いロビーを抜けた先、この後そういえば電車か…と、溜息を吐いて見上げた…が。
送迎レーンに異質なものを発見して、思わず立ち止まってしまった。
艶めいた黒塗りのリムジン、まるで映画に出てくるソレ。
(病院にリムジンかよ…)
お偉いさんなら、もっとひっそり行動するものだろうに、何なんだろうか。
いや、もしかしたらヤの付く職業の人が絡んでるかもしれないだろ。
目立つ物には近付かないのが吉だ。触らぬ神に何とやら、で…
…いや、それなら今何故俺はこんな運命を歩んでるんだ。
やはり、やり場の無い理不尽に苛立ちを感じつつ、レーン脇の道を歩き出す。
が、視界から黒が消えない。
(まさか)
消えるどころか、鮮明になる。距離が狭まってくるのが分かる。そう、来ているのだ、俺に向かって。
足を速めれば、更に加速したリムジンが俺より前方に走り込む。
壁を作るかの如く、助手席が開いた。いや、違う、左ハンドル…運転席。
すらりと伸びたスーツの腕、人間離れした白い指先…黒い爪。
ぞくぞくと身体を戒める記憶が、脚を竦ませた。
「あ、ああ…」
情けなく抜けた俺の喘ぎ。サイドミラーに映る運転手の口元は、うっそり微笑んで俺を見つめている…気配。
「後ろに乗りなさい」
抑揚の無い、諭しているのか命令しているのか、絶妙な声音。
俺は呼吸を落ち着かせ、ちら、と傍の車体を見た。
「鍵はかけて無い、そのまま引くと良い」
「…はい」
云われるまま、後部座席の扉を開く。内装は薄暗いが、上質そうな臙脂色ベルベットの座席。
この車は、本物だろうか。模して作った悪魔の紛い物なんじゃないだろうか、動力すら怪しい…
腰を下ろせば、沈み込む。ゆったりしたクッションの利いた座席に、却って身体が強張る。
既に扉を閉めて、発進している車。流れる景色はカーテンによって遮断されている。
前を向くしか無いのか、どうしても…運転手が見えてしまう。
「最近ガッコウには行ってないのか」
「…休校中で、無いんです」
貴方の召喚した悪魔の所為だ…と。
そんな文句、云える筈も無い。
「そうか、普段は何をしているのだね」
「………バイト…あ、し、仕事です…仕事と…学校の知人と出たり、です」
運転手の、ハンドルを掴む指先に、金色の石の指輪が光る。眼が痛くなった錯覚に、一瞬襲われる。
この国の…人間の決め事を守って運転するなんて、馬鹿馬鹿しくないのだろうか。
そもそも、何故運転出来る?そんなに人間界の散歩が好きなのか、この堕天使は。
「矢代」
「は、はいっ」
思考を押し退けて、思わず上擦った声で返事する。
「これから何処へ行くと思う…?」
突然の問いかけに、俺が答えられる訳無い。真剣な返答を求めているのか、面白く返せという意なのか。
どちらにしたって、俺にはそんな知識もボキャブラリーも無いのに。
「あ……と」
「では選ばせてあげよう矢代……左、直進、右、どれが良い」
云われフロントガラスから景観を見れば、それなりに見覚えのある範囲。
このままのレーンで進めば、直進になる。
そっちは……
「み、右!!」
「右…ほう、理由は何だね」
「お、俺の家に…」
適当を云った。本当は違う、直進でも左でも、俺の家までの距離にそんなに差は無い。
直進されては…所謂ホテル街に突っ込む事になる。
行った事は無いが、街路からちらちらと見える怪しい建造物を視界に確認した事はある。
いや、この堕天使がその中を通ったからと云って揶揄したりする事も無いだろうが…
目的地が其処になる訳でも無いだろうが、俺は何故か心臓がばくばくと嫌に波打っていた。
「家…ふふ、そうだね、お前の自宅という拠点には、一度寄るつもりではあった」
「は、はい」
“寄る”って事は“帰してくれない”という事か。
振動も殆ど無い高級な車体は中も静かだ。
緊張で不規則な、俺の呼吸すら煩い。
「あれから悪魔は殺したかね」
「…少し」
「人間の世はどうだ?少しは慣れたかい」
慣れるというのも、可笑しな話だ。本当は、俺は…人間なのに。
ぎゅ、と膝の布地を握り締めれば、少し後にクスリと微笑む声がした。
濃いグレーの、黒に近いスーツ…金色の髪がその肩に零れる様は、確かに綺麗だ。
その背中に六枚が広がった瞬間から、きっと俺は更に心臓を握り潰されそうなプレッシャーにやられるのだろう…
「あ、の…閣下、俺の家は」
「分かっている」
「はい…っ、申し訳…ありません」
たった一言にさえ畏怖してしまう、この恐怖の源はヒエラルキーというやつだろうか?
「方角さえ捉えてしまえば、路なぞ、どうにでもなる」
「そ、そうですか」
「…と、お前のサマナーはよく云っていたが?」
赤信号、完全に止まっている車体の中、俺の感情だけずるずると動いている。
「ライドウ、が…」
「そう、お前の今の飼い主…葛葉が十四代目」
「あの男と、親しい…のですか」
「親しい…?…親密…友好…ふ、人間の範疇で云えば、それなりだろうか」
「ライドウは閣下を…し、慕っているのですか?」
「どうした…饒舌だな。ライドウの事が気になるのか」
はっ、と口を閉ざすが、もう今更だ。そんな自分に気付かされ、頬に熱が篭もる。
「…気に、なるというか…その」
「人間の世界は散歩するには愉しいからね…よくよく降りたものだ」
「ライドウの時代に?」
「そう、矢代…お前よりも長く接触してはいるのだよ、実質」
そんな奴と契約してしまったのか、俺は。嫌な汗が額を伝いそうな気分だ。
(ライドウとルシファーが、グルの可能性は)
だとすれば、俺に勝機は無い。
…契約を受けてしまったのは、正気も無かったからか。
「彼はなかなか、ヒトとしては強いだろう」
「…そう、ですね」
認めたくないそれに、認めざるを得ない記憶が甦る。そして俺は肯定する他無い。
「わたしの翼を前にして尚…憚った…恐ろしい人間さ」
「戦ったのですか」
「この刻よりも一世紀近く以前かな…ふふ……あの時は、わたしが彼の骨を砕いたが…」
「骨」
「ああ、ヒトの肋骨は透き通った音がする、爪先で舞踏曲を奏でるには少し足りぬが」
ぞく、とその穏やかな声に寒気がして、外に視線を戻す。
いつの間にか動き出していた景色、反射する陽の光が、堕天使の金糸の髪を輝かせる。
「今度はどうだろうな…お前はその時、わたしの傍に居てくれるのだろうね?息子よ」
「あ……」
「………もう到着の様だ…狭いな、この世界は」
気付けば、答えを出さずに云い淀んでいたまま、俺の家に横付けされて停車していた。
悪魔たる力で飛べば一瞬だろうに。そう思っても、勿論云わない。
「ライドウを呼んで来なさい」
堕天使のそれは、今度は命令だった。




「へえ、閣下直々に送迎ですか、これは大変恐縮に御座いますね」
隣に座るライドウは、恭しい喋りながらも脚を組んでいた。
学帽に、外套の内側からちらちらと見えるホルスター…流石に、完全武装だ。
車の傍まで来たゴウトに「畜生は車に乗っては参りませんよ、童子」と哂って云っていた先刻。
『電車に毎回乗る際には、何も云わなかったろうが…フン』
去り際にゴウトの発した言葉が本当なら、ライドウは単に今回“ゴウトを連れ発ちたく無かっただけ”という事になる。
組織の身内に見られたくない…というのは、やはり信用出来ない男という事には違いない。
「人間の発明品には常々興味があるのだよライドウ」
「成程、昔とお変わり無い御様子で。人間への造詣の深さには感嘆致しまする」
「君は更に“人が悪く”なったな…背負う影が一層濃くなったのが視えるぞ」
前後で交わされる応酬に、俺は入る余地も無い。聞き耳という訳では無いが、黙ってそれを頭に入れる。
俺よりもライドウの方が、堕天使と近い事は明白だ。
「人修羅の居場所がすぐお判りになるのですね?」
「私の立場を理解しているだろう」
「そうで御座いました、其処等一帯に眼があるにも等しいですねえ…悪魔に一声掛けて視覚を借りれば早い」
「借りるまでせずとも、この狭さならば聞くだけで足りてしまう」
「己で歩くのがお好きな事で、フフ…矮小な人間共の世界は愉しゅう御座いますか」
いつもの哂いを浮かべて、口調と裏腹にずけずけとモノを云うその不遜な態度。
隣に座るライドウに、逆に俺が冷や冷やしている。
暮れてきたのか、前の席から刺す陽は茜の色に変わってきている。
ルシファーの黄金の髪が燃えるように光る。こうして見れば麗しい異国の青年だというのに。
まあ、そんな事を云い出せば、隣のライドウだって見目だけは容姿端麗としか云い様無い。
「さあ、憶えたかね」
そう唱えると、ブレーキがかけられて車体が緩やかに止まった。
「降りなさい」
続けられる命令に、俺は「はい」と答えていいなりに動く。
ライドウはといえば、遮光カーテンを薄く指で退け、外を確認してから扉を開いていた。
ああ、此処に差が出るのか…確かに俺は無用心なのかもしれない。
即座に開いた扉から降り立った俺は、沈む陽を見て、其処に浮き彫りになるシルエットを眺めた。
何だ…教会…だろうか。
「何処か分かるかな?矢代」
共に降りたルシファーが、俺にゆったり微笑んで問う。
当然分からないので「いえ…」と、小さく被りを振れば、突如背後で笑い声がした。
振り返ると、ライドウが…口を開いて腹を抱えていた。さも、滑稽と云った調子で。
「方角と位置関係から、まさかとは思いましたが、そのまさかで御座いますか、閣下…ククッ」
光の加減だろうか、ライドウの眼が…酷くギラついている。
「君達が通れる“路”を、此処に確保したのだ、さあついて来なさい」
「…路?」
「そうだ矢代、お前は人修羅…完全な悪魔では非ず、そしてお前のサマナーも人間…そうそう簡単に魔界へは来れぬだろう」
魔界、という単語に、心臓が跳ねた。悦びからの動悸で無い事は確かだ。
此処に放置されたリムジンはどうするのか、いや、もしかしたらこの教会がルシファーの持ち物なのか?
私有地にどう停めようが問題無いとは思いつつ、堕ちた天使が教会を所有するのもおかしいだろ、と思う自分が居る。
周囲を見渡しつつ、人の姿のルシファーに追従する…此処は、何処なのだろうか。
「晴海だよ、功刀君」
背後からライドウの声がした、俺の心を読んだかの様なタイミングでの解答。
晴海…自宅から結構離れたというのは分かった。
そして、ルシファーは此処に“路を確保した”と先刻云った事から
今度から、此処に自分で足を運べという意味なのだろう。
「……ぅ、わ」
足を踏み入れた教会の中、思わず声を上げてしまう。
夕紅の陽が、ステンドグラスの色を中央の通路に注いでいた。
その、色とりどりの光の帯に、感受性が強くない俺まで溜息が出る。
「美しいかね」
「は、はい……」
「一度粉々に砕けたのだよ…その薔薇窓は」
うっそり笑うルシファーが、口元を白い指で覆いふふ、と零す。
生じた疑問を、とりあえず素直に出しておく。歴史の有りそうな威厳の聖堂、きっと戦前からの建造物だろう。
「砕けた…?天災とか…戦争の空襲時に、とかですか」
俺の疑問に、ルシファーが唇を開いた…が、それより先に返事が返る。
「ククッ……昔、烏が一羽、其処にぶつかってねぇ」
背後からの声、ライドウだ。薔薇窓の光の帯をその身に受けて、見上げて哂っていた。
「カラス?」
俺の訝しげな声に、今度はルシファーが返してきた。
「間違ってないよ、矢代。愚かな烏が一羽……ふふ………まあ良い、これはいつか烏に直接聞きなさい」
「はぁ……は、はい」
よく意味が分からないのに、俺は返事だけした。カラスに直接…って、悪魔ならともかく動物と会話は出来ないぞ。
それに、この面子の云う“時代”に、俺が存在しているのかすら怪しいじゃないか。
一世紀前の大昔の生物と、たった今会話出来る筈も無いし、この東京にもカラスなんて大勢いて困るくらいだ。
「月が満ちていれば通り易いのだが、此度はわたしから迎え入れるので影響も無いだろう」
祭壇に歩み寄るルシファー、振り返れば、先刻までの蒼い双眸が色を変えていた。
燃えるような赤と、深い青銅の様な翠。
「異界、というものを知っているか」
「イカイ…?」
「お前の主人はよく散歩する世界だが…ああ、そうだった…お前は悪魔が現世の住人となりしボルテクスに居たのだった…知る由も無い」
俺に手招きする堕天使、仕立の良さそうなノーブルなスーツの腕が揺れる。
其処に向かう俺の背後、ライドウの気配が鋭くなった。警戒している…
「矢代、お前に鍵をあげよう…魔界への」
「鍵…?」
視界の中に扉を探すが、魔界へ通じていそうなソレは見当たらない。
そんな俺に、クス…と眼の前のルシファーが笑う。
「鍵と云っても、物質では無い…お前の中に与えるのだ」
「…え、っ」
「詞を教えてやろう、わたしの」
云うなり、その黒い爪が俺を指す。
いや…刺した。
トン、と、胸元を貫かれる感覚。身体の中央から、するりと這い上がる謎の冷たさ。
「ぁ、ああぁあぁ」
意味不明な不協和音が脳内に流れ込む。何語なのか、それが意味を成す言語なのか、ただの音なのかすら解らない。
「此れを以って、祭壇の十字に祈るのだ、我が息子よ」
「あ………はぁ、っ……あ」
爪先から俺の血管を浸食された感覚だったのだが
実際にはつぷ、と肉を少しばかり、黒く薄い爪が割いていただけだった。
退いていく指先を、血色の悪い、しかし形の良い唇に持っていく堕天使。
そこからちろり、と覗く舌は、驚く程に赤い。
「其処のライドウと違って、随分と瑞々しい味だ」
濡れた爪先を舐めたルシファーは、ふ…と微笑みかける、困惑する俺に。
「今の詞に空気が騒ぐであろう。お前の魔の力を乗せて、路を開いてみなさい」
「俺……無理です…そんな事」
「わたしの息子が、己の城に来れぬなど…そんなふざけた話があるかな矢代?」
頸を掴まれ、くい、と上げさせられる。ライドウとも違う…威圧感。
ぞく、と背がしなる。反射的に口が謝罪を吐き出して、懇願している。
いつから俺はこんなに、ルシファーの支配下に成った?ライドウに使役されるソレとも、やはり違うのだ。
す、と俺から放された指先が、薔薇窓の天を指す。堕天使の指先が…遥か故郷を仰ぐかの様に。
「早く開いてみせてくれ」
「……は、い」
魔法をマガタマから引き出す様に、指先に焔を踊らせる様に、ただ先刻の詞を意識した。
天空を見る堕天使の眼が、ほんの一瞬細まるのを見てしまった俺は、嫌に動悸していた。
浅い知識の奥底で“天界から追放された”とか、そんな事を思い出していた…
「此処すら開けぬ様なら、先に進めぬだろうからな…我々から空は、遠い」
唇を開き、吐き出す人間のモノでは無い詞。俺も、自分で云っておきながら理解が出来ない。
堂内の空気がぐにゃりと歪んで、俺の周囲から融け出す感覚。
すっかり暗くなって、月明かりが差し込む薔薇窓の下。
「よく出来た」
俺の頭を軽く撫でるルシファーの手は、温かさも無い。
「来なさい」
「…は……ぃ」
少し息を落ち着けて追従する。並ぶ椅子に寄りかかるライドウが、俺が歩くその傍からついて来る。
しん、と静まり返る教会は、先刻ともまた違う静寂を纏っていた。
焦げた色の扉が開かれて、隙間から吹き込むのは秋の風…の筈だった、人間の世界なら。

「間違えなかった様だな、ほら、見なさい…彼処を」

冷たい空気、暗い闇の空、上に輝くのは太陽でも無い…しかし月ともまた違う気がする。
ルシファーの指す方角を見れば、ぼんやりと鋭利なシルエットが浮かび上がっている。
「いつかはお前が住む処だよ、矢代」
「…し、城」
「ケテルだ」
車は無い、周囲に佇むのは、少し寂しい荊の樹木。
「ティフェレトがすぐ前に在るが、城の外を出歩くのはまた次にしなさい」
「は、はい」
「特に、今の姿では身の安全は保障出来ない」
俺を軽く振り返るルシファーの、その口から出たティフェレトが何かすら解ってない。
地名か何かなのだろうか、とりあえず此処が既に晴海では無い事は確かで。
(悪魔の世界…)
擬態のままの俺は、只の人間に見える。此処が魔界という所なら、当然無事で済まないのはイメージ出来た。
「ティフェレトには酒場も有る、城の酒には劣るがな…多様な者と接触したいなら、此処の酒場で遊べば良い」
「お、俺は…も、申し訳ありません、酒は…」
人修羅が何を云うのか、と少し失笑される。予測はしていたが、虚しい。
「強い酒を喰らう悪魔衆も多い…虚仮にされるぞ」
「はい…」
「お前の主人に鍛えて貰えばどうだ…ふふ」
その言葉に、視線を少し後ろに送る。
黒い外套が闇の空に溶け込んで、寧ろ空気と一体化しているデビルサマナー。
「魔界の酒は、人間には毒なのでは?閣下」
「毒が呑める君には、さほどの問題でもないだろう」
「あぁ、そういえば強いのを煽った記憶が御座いますねえ、貴方様の御前で」
クク、と哂って相槌すると、一瞬俺を見た。その眼に睨み返してやる。
どうしてあんたは、そんなに畏怖しない。人間だろ、相手は悪魔の親玉だぞ?
“人間の範疇で云えば、それなりだろうか”
リムジンの中で聞いた台詞が甦り、胸を揺らす。イラつくそれ。
互いの何かを知っている、ライドウと、ルシファー。
対局の狭間、二人に踊らされる駒の気分。



『お前がしばらく通るのは“均衡の柱”のみでしょう』
ゴモリーという悪魔が、ラクダの上で顔色を変えずに淡々と告げる。
女性の形に、顔を翳らせるベール。金髪の少年の傍の老婆や…車椅子の老人の傍の淑女を思い出す。
『閣下に感謝なさい、人間に解り好い形で、路を敷いて下さったのですからね』
「…俺を悪魔にしたいのに、人間の形式に寄せるんですか」
既にルシファーが傍を離れたからか、俺の言葉に嫌味が奔るのを自覚する。
この女性悪魔が、あの朽ちた教会からケテルへと運んでくれた訳だが、半分強制だ。
今後来る時には、こうして来い、というレクチャーのつもりか。
『人修羅、お前は確かに此度は生き永らえた…其処なる人間の助力を得て、ですがね』
ベールの隙間から俺を居る眼差しが、鋭く光る。鮮烈な蒼色の纏物が揺れ、指先のしなるソレを握り直す。
『錆びた剣は不要…勿論、実戦に使えぬ飾り物も要りませんのよ』
ラクダの出っ張った横胎に、握られた鞭がぴしゃりと打ち据えられる。
苛立つ主人を乗せたラクダは息を荒くしたが、鞭を携えたままの指に頭を撫でられ、すぐに機嫌を直す。
そんな悪魔の畜生に…反吐が出そうだ。
『良いですね、人修羅。閣下を落胆させぬ様になさい』
「俺は、閣下に許されて人間の世界に居るんです、あっちでの一挙一動に…何かを求められても、困ります」
『…ほほ、そうですね…人間界で“ままごと”をしているのでしたねぇお前』
城の中庭、噴水の傍を通過する俺とゴモリーの間に…決して穏やかとは云えない空気が流れた。
薄く霧を纏った薔薇園を抜けるまでに、俺とゴモリーは幾度睨み合ったろうか。
ルシファーの側近なら…尚更、俺を勝手に駆逐する馬鹿じゃないだろ。
こんな事を思って、未だに擬態を解除しない俺は、やはり浅はかなんだろうか…
解除するにしろ、肉を裂かずに済ませるにはライドウの手が必要なのだから、要求されるまでは、しない。
白い眼で見られようが、人間の姿で闊歩してやる。悪魔の城を。
大丈夫、殺されはしない筈…
『あのデビルサマナーの方が、余程悪魔らしい事』
ゴモリーがベールの隙間から投げた視線は、背後に一瞬向かった。
ライドウは、フ、と微笑み返すだけで、何も云わない。
石造りの廊下を歩くと、有象無象が左右に割れる。ゴモリーの地位が上というのか、それとも…
異端の俺を、じろじろと眺めているのか。人間に使役される半人半魔を。
『さあ、謁見の間にこれより入りますが…』
ひたり、と止まったラクダの背で、ゴモリーは俺を見下ろす。
『その姿で宜しいのです?人修羅。閣下も他も、皆、お前に合わせる事はしませんよ』
背後で、ライドウのヒールの音も止まった。俺の出方を待つ周囲の空気に、胸が締め付けられる心地だ。
いいんだ…これで。
「ええ、結構です。他の悪魔が本来の姿なら、俺も本来の姿で出ます」
恐ろしい、に、決まってる。
でも、開かれる重い扉の向こうに、どれだけの悪魔が居ようが…嗤われるだけ、だろう?
俺は……ルシファーがようやく堕とした、剣…なのだから。突然折られる事は無い。
俺は、まだ、人間で、此処に居る。まさか、処分の為に呼んだ訳でもないだろ…
『見目の割に、強情ですのねえ…それとも、先見の明が一切無いのか』
「何を云われようが、許される間は、俺は人間のつもりです」
冷ややかなゴモリーの眼は、何処か笑っている。
『閣下のお傍に連なるのが、このゴモリーでなく…お前になるその刻が楽しみですねぇ…ホホ』
華奢な指で開かれる扉、奥から感じるのは、先に城に入っていったルシファー……の筈、だが。
呼吸が途切れて、息が詰まった。魔力の圧が既に有る。
『ようやく来たか、そう広大でも無い筈だろう、ゴモリー…寄り道しなかったのか』
唇という器官から以外に、脳に、悪魔の己に呼びかける様な…声。
擬態を完全に解除した証拠だ。
『いいえルシファー様、貴方様のお好きな薔薇園を少しばかり通って参りまして』
『それは寄り道とは違うのか』
『少しくらいは案内しませねば…ほほ…人間の、それもごく一般の出では、此処は広すぎましょうぞ』
ラクダを撫でて、ルシファーに微笑むゴモリー。
(…翼が)
あの、ノーブルなスーツではなくて、背中から拡がる…六枚の影が。
威圧感だけでなく、滲む魔の力が、違った。
アマラ深界の奥底で、あの…あの存在に俺は…飛び掛ったというのか。
(馬鹿、だな…)
あの時の記憶がじわりと甦り、真っ赤な景色がチラついた。
『もっと此方に来るのだ、矢代』
石柱の隙間、ぼうっと差し込む翳りは窓でもあるのか…目立った灯りは見えないのに。
ブーツで歩めど、音が無い。床に吸われている。
堕天使の声に云われるまま、玉座から立っているその光源に寄る。
自ずとやんわり発光するその身体、翼は特に煌びやかに、しかし優雅に空に拡がっている。
高い天井の、天が見えない…闇が下りて来る様な空間の広さに、果たして此処が屋内なのか分からなくなってくる。
『久しいな、人修羅。いや、ヤシロと云ったか』
はっ、とその声の方を視線で追えば、暗闇からのそりと這い出す巨体…ヒトの形はしている、が…
『何だその眼は…はは、さては貴様、すっかり忘れているな…前の時もそうだったのだ、おかしな話でも無い』
弛む腹を震わせて、髑髏の頭を撫でさする太い指…何かと思えば、杖。
足腰が悪そうには見えないので、恐らく魔術的な用途の。
『ベルゼブブ、人修羅は人間の世に転生して間も無い。少し記憶が薄い』
『ルシファー様、こやつ、毎回毎回薄らいでいるでは無いですか…過去の記憶がいつかは駆逐されるのでは?所詮ヒトの肉体だ』
薄暗い中、血色の悪いその肌に布切れの様な毛皮を纏っている。
ベルゼブブ…それとなく思い出すのは、もっと違うシルエットだった気がする。
『相変わらず棒の様な体躯、魔力が高くあろうが、それでは苗床には少々頼り無い』
「い、っ」
杖の先をす、と振るうベルゼブブ。その先から何も見えないが、何か圧でも発されたのか、俺の臀部にびしりと衝撃が奔った。
かあっ、と一瞬恐怖と血が昇ったが、こんな上級悪魔の中で下手に動くのも不味い…
『よくよく見ればあの紋すら無いではないか貴様、本当にルシファー様の剣となる意志が有るのか?』
失笑するベルゼブブに、俺の傍から追い討ちをかける声。
『ベルゼブブの云う通りだな…矢代、少しは本来の姿を我々に見せて、安心させておくれ』
ルシファーが、薄い羽衣の様な着衣を舞わせて、俺の襟首をそっと掴む。
薄手のジャケットのフード。端にジップが付いたそれをくい、と引かれ、寒くなる項。
「か、閣下、本来の姿は」
『お前にとっての本来の姿が、ヒトと云いたいのか』
ぐぐ、と更に引かれ、よろけてルシファーにぶつかりそうになるのを踏み止まる。
『人修羅、周囲の者も見たがっているのですよ…カルパに行かなかった城の者は、噂でしか聞いておりませんの』
ゴモリーが、口元をベールで隠してホホ、と嗤う。
周囲、という言葉に意識すれば、ようやく感じた。
(囲まれてる)
ライドウはとっくに気付いてたのだろう、動じずに、ただ俺等から少し離れて、窺っている。
どういう神経をした人間なんだ…本当の人間は、あんたしか居ないぞ、この空間。
遠くの燭台の灯の様に見えるソレ等は、無数の悪魔の瞳。
『諸君、聞くが宜しい。人間の纏い物をしてはいるが、この者こそが待ち望んだ我等が剣……』
「閣下!俺、今している擬態は…!」
勝手に進む展開に、俺の言葉は無視される。
『脱ぎなさい』
「ぬ、脱いでも…俺、その」
『帰り道、襤褸切れを纏って人間界を闊歩したいのなら、わたしがしてあげよう』
微笑む堕天使。待ち望む周囲、それが賛美の為か嘲弄の為かは、解らない。
それでもざわつくMAGが、俺に教える。

 はやく ほんとうのすがたに もどれ

「俺はまだ、っ、半分人間で…!」
嫌だ、こんな形で晒されるなら、いっそ悪魔の姿で此処に入れば良かった。
胸と臍が痛くなる。張り詰めた緊張で、身体の末端が熱い。
この擬態の呪いを正式な形で外せるのは、ライドウ、あんただろ…
(そう、ライドウの、デビルサマナーの所為だ)
俺がそこの人間に、使役されているからこんな目に遭っているんだ。
そう、たった一言云えば良い。“これを外せ、ライドウ”と。
そうすれば俺は、情け無いながらも人間としての尊厳を保てる。
(ライドウ…あんたの、あんたのやり方の所為だ、こんな恥ずかしいモンで封じやがって…ッ)
擬態を未だにまともに出来ない俺を、棚に上げて責める。そんな事は分かっている。
自分で脱ぎたくない。自分で悪魔になりたくない。
ライドウに脱がさせれば良い。ライドウに悪魔にされたら良い。

全部、あの非道に押し付けてしまえ。
普段の奴の仕打ちに耐える俺には、この程度許されても良い筈だ。

(ライドウ…っ)
ルシファーの指先がジャケットを引き裂くその前に、俺は後方のライドウを見た。
暗闇に融け込む外套。やはり同じく暗い学帽の影から、薄っすらと俺を見つめる眼の光。
闇の色、ボルテクスで俺をずっと射抜いてきた、あの……
(あいつ…哂って、いる…?)
唇の端を吊り上げて。この空間に、まるで俺と己しか居ないとでもいうその真っ直ぐな眼。
その仄暗い双眸に映るのは、懇願の眼をした俺なのか――…

“早く、云って御覧、人修羅”

聴こえる、読唇でも読心でも無い、それなのに、あいつの声が。

“はやく僕に助けを求めて御覧、功刀君”

ぞくり、と這い上がる不埒な感情。此処に居るすべての中で、今一番、葛葉ライドウが…悪魔に感じた。

誰が
誰が助けを乞うか

「閣下、御手を外して下さい」
するりと唇から抜けた声、妙に冷静になった俺の声だった。
ジャケットの合わせ、じり、と其処のジッパーを引き摺り下ろす。
開いていく隙間から覗いたカットソーの襟首に指を掛ける。
爪先で、その襟を薄く裂いたなら、一気に下に引き裂いた。
息を呑む周囲の空気に、ルシファーがひそりと笑う。
『ほう、なかなか洒落た魔の装身具だ』
「…本来の姿を維持する為の物、です…」
上半身を、いくら薄暗い中とはいえ、晒すこの羞恥。赤黒い石を携えた金属が、俺の肌に噛み付いている。
悪魔共にピアッシングのセクシャリズムの概念が有るのかは謎だったが、そこは最早関係無い。
俺が、ただ恥なだけだ。
でも、ライドウに助けを求めて、これをどうにかして貰う…そんな光景を晒すくらいなら…

『アレは何だ』 『黒き紋様が拡がる肢体と聞いていたのに』 『呪ワレテイル…?呪力ヲ、アノ飾リカラ感ズル』

ひそひそとさざめく周囲の星がチラつく。俺の身体を凝視する複数の眼。
『矢代、しかし此処は我等が城…お前の今の理念など、喰い殺されてしまうぞ』
ルシファーの指が、俺の項からゆっくりと胸元に落ち……剣の形のピアスに触れた。
『成程…擬態とは云え、能力もやや抑制されるのか。どうりで魔力の震えを感じない』
「…ぅ」
黒い爪先は、俺の先端をこねくり回す。
『この姿は少々危なっかしい』
「あ、っ……ぁ」
ぷっくりと脹れる胸の其処が、黒い斑紋が無い所為で充血している事が見てとれる。
最悪な身体の反応に、脚がふるふると震えてしまう。他意は無いのか、悪戯なのか。
おぞましい声が出る、そんな自分の喉を絞めてしまいたくなる。
『城に慣れるまでは、なるべくお前の嫌う姿で居なさい』
「ひあ、ッ!!」
ぐずり、と引き抜かれるピアス。炎瑪瑙が瞬間輝き、肌を裂く。
強制的に外されたソレは、俺を痛めつけつつ堕天使の掌に納まる。
痛い、でも、見られつつ自分でやるより、マシだ。
「は、ぁ、はぁっ…あ、ぐぅ…っ」
塞き止められていた肌の上を、蝕む黒い憎悪。
『見憶えの有る姿に戻ってきたな、しかし相も変わらず、我が子等を産み付けるにはか細い、肉が薄い』
ベルゼブブが笑いつつ、のそりと俺の傍に寄る。
ルシファーの顔を一瞬窺うと、その太い指がもう片方の先端に…
『早くあの時の姿に成らぬかヤシロよ…!』
「ひ、っ!!」
堪らず、ベルゼブブを睨み上げる。至近距離から見た悪魔の眼の奥底から感じる魔脈…
項が熱い。髄から引きずり出される感覚。
(この悪魔、まさかあの時の)
『黒き肌から白くわらわらと食い破り出でる子等を見て…はは、久々に疼いたものだ』
俺に蛆を湧かせた、蠅の王だ。
ようやく記憶と一致して、あの瞬間を、汚らわしい奴の術が脳裏を巡る。
胸に触れる指を跳ね除けようと、俺は腕を閃かせた。
「触るな蠅野郎ッ!!」
振り上げた手首にヒリつく痛みが迸り、ぐぐ、と何かが締まる。
その紐の様な先端を視線で辿れば、俺の背面からビリビリと揺れて繋がる…鞭。
『ルシファー様の御前でありますよ人修羅、無粋な真似はお止めなさいね』
首で振り返れば、やはりゴモリーだった。咎める割に、嗤っている。
後ろに引かれる腕は上体を仰け反らせる。まるで胸部を突き出すこの姿勢。
『はは、ゴモリーよ、些か手荒では無いのか貴様』
『擬態しているだけですのよベルゼブブ殿。この者、その蟲を飼う胎では何を考えている事やら……半身は悪魔だけあって、心は読めぬのが惜しい事』
『…魔力だけは確かだ、先刻睨まれた瞬間、眼が煌々と光りおったからなこの童め』
堕天使と対照的に、爪も無いその丸っこい指先が、もう片方の剣を掴む。
細かい造作が難しいのか、金属だけを掴むなんて事は考えてない様子で。
「んっ、んんっ!痛ぅッ…や、ヤメ――」
肉芽ごと潰しそうな勢いで抓られて、悲鳴を噛み締めつつ空いた腕に力を篭める。
指先に熱が溜まった瞬間に、その脳天にぶちまけてやりたい衝動が生まれる。
俺の中の破壊の欲望が、それこそ、蛆が湧く様に。
『燃してみるか?ヤシロ、その与えられし悪魔の力で』
ずりゅ、と俺の胸の先端を引き裂きながら、二本目が抜かれる。
するすると伸びる黒い憎悪が、指先に集う。臍の戒めを、自らの指先で引き千切る。
既に沸騰している俺は、とうとう悪魔の自尊心を選んだ。

周囲のMAGがさざめく
どよめきの中
もうどうでもいい
ぶっ殺してやる


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