赤の虚飾


 白い空にそびえる鉄骨のランドマークは、麓から見上げれば思ったよりも彩度が低くて。
『あまり赤くないのですね』
 そのモノクロの景観に、率直な言葉が出てきた。
「世界がこんな状態になったせいで……」
『こんな状態?』
「ボルテクスだ……! あんた等にとっては、これが普通なのかもしれないけど」
『ああ……そうですね、すいません』
 不機嫌を隠しもしない主人に、とりあえずは謝罪する。何が悪かったのか、実はいまいち理解出来ていないのだけれど。云われてみれば、この世界は全体的に薄ぼんやりとした色彩で。屋内の展示パネルや書物から、人間達にとっての本来のトウキョウが垣間見える……そのような具合。
 この世界は《死んだトウキョウ》らしいが、生きている頃を私は見ていない。
「本当は、もう少し赤色だった」
『よく御覧になっていたのですか?』
「別に、俺はこういう場所には興味無い」
『高い所は、楽しくないですか?』
「……そんなに幼稚に見えるのか? つまらない事ばかり云ってるなら、もう帰る」
『すいません』
 槍を背負い直して、マフラーで口元を更に覆う。自身の口が余計な事をこれ以上発して、引き返されては悲しい。
 折角、アマラの路を使って引き返してくれたのだ。使役悪魔でしかない、私などの為に。
「何が楽しいんだ……こんな処」
 ぼそりと呟きながら、先刻の戦闘で乱れたこめかみの御髪を直している主人。本当なら私が直してあげたい所だが、悪魔に触れられる事を真に嫌う貴方にとっては、恐らく失礼に値する行為。
 付き合いの私より長いあのピクシーにさえ、文句するのだから。いつも機嫌を損ねさせてしまう私がすれば、それはもう致命的だと思う。
「しかも、何だ……あの箱。どうやって中に入ってたんだ、あの女悪魔」
 続けて述べる侮蔑は、先刻のトラップに関してだろうか。トウキョウタワー鉄骨脚の近く、白い砂塵に塗れて例の箱が有ったのだが……残念な事に中にはサキュバスが潜んでおり、解放された瞬間に高笑いして彼女はドルミナーを唱えた。
 しかし主人は精神無効化のマガタマを呑んでいた事で、その術を無意味に変えた。他の仲魔もけろりとしていたが、私はあの時ぐっすりと睡りに入ってしまい……随分と迷惑を掛けた事だろう。
 頬に熱が生じて、覚醒したのは……主人が、そんな私を殴り起こしてくれたからだ。
『御怪我が無くて、本当に良かった』
 精神的な干渉を嫌うからこその選出か。いつも同じイヨマンテというソレを呑んでいて……それなので、特定の敵に対した際、不都合が生じるのを幾度か見てきた。
 忌々しげにマガタマを呑む瞬間、じっと見つめている私を睨み返して静かに威圧する姿。貴方はあの硬質な蟲が、悪魔以上に嫌いなのではないだろうか。
 詳細は知らない、それでも何となく判る。あれが貴方の生命維持を司っていて同時に、嫌悪する力を与える源なのだろうと。
「あんたがそれを云えるのか? 足を引っ張られた……呑気に寝てたしな」
『ならば“目覚めずにいたので召喚から外した”と云えば、今回の私の願いも取り下げ出来たのでは』
「……わざわざ此処まで足運んだのに、肝心のあんたが寝てるとか、そんなふざけた話は無いだろ」
『いつもすいません、お気遣いに感謝します』
「誰が悪魔に……単に契約してるだけだろ。これは、もう少しあんたが使える奴になりそうだから、してやってるだけだ」
 ふい、と横を向いて私の眼を見ない主人。まともに見てくれるのは、鋭く睨まれる瞬間が殆どだ。
 先刻、サキュバスの豊満な肉体を殴る事に虫唾を感じた貴方は、私に彼女を殺させた。毎度その程度しか役に立てず、申し訳無く思う。
 いつもいつも、どうしたら貴方を歓ばせる事が出来るのか。仲魔にさせて頂いてからずうっと私の課題だった……
 シブヤで不思議な姿の貴方を初めて目にし、次にまみえた時は妖精だらけの鉄骨の森で。私が同一の悪魔だと気付いていないどころか、きっと憶えてもいなかったろう。
 二度目に見た貴方は更に悪魔らしくなり、同族嫌悪を成長させていた。人間に戻りたいと切望するが故の孤独……葛藤……
 この世界で、悪魔で居られぬ訳が無い。生き抜こうとすればする程、人修羅である主人は人間としての声を失う。進めば進む程、貴方の心が泣いているのを感じる。他には鈍感な私でも、それだけは魂に響く。
『貴方と巡ってきた場所を、一望したいのです』
 が、それも……もうじき解決するかもしれない。
「展望台で召喚すれば良いだろ、ボルテクスが見渡したいなら」
『いえ、其処までの経路も一緒に歩いて、観て回りたいのです。どうかお願い致します』
「正直面倒だ、終えたらさっさと変身しろ」
『はい、心残りも御座いません』



 タワーの正面扉は中途半端に開いており、空間に足を踏み入れたならブーツの底でざりりと砂が鳴く。
 主人はつかつかと、愉しむ様子も無く真っ直ぐに向かって行く。その先は別の扉で、壁に操作パネルが有る様子から階移動の装置と判断出来た。所謂、エレベータというもの。
「くそっ、此処は電気通ってないのか」
 パネルに指先を押し付け、吐き捨てる様に云う主人。押し当てた際に汚れたのか、ボトムの裾でその指を拭って振り返ってくる。
 私はといえば、狭苦しい入口に掲げられた《東京タワー水族館》という展示施設が気になって仕方なく、その手前をうろうろしていた。
「……おい、何してるんだ。勝手に何処か行ったら置いてくぞ」
『水族館というのは、こんなに狭くても設けられるのですか?』
「……どうせ小さい魚ばっかだろ、ついでみたいな展示だし」
 は、と溜息を吐きながらも此方へと来てくれる事に少し嬉しくなり、私は入口の脇に立った。薄暗い中、貴方の眼が金色に浮かび上がり、その肢体の斑紋縁が蛍光に輝きを増す。
 人修羅の造形美は、美しいという利点反面、暗闇に乗じて行動が出来ない欠点でもある。
「ほら、水槽のひとつひとつが凄く小さ……」
 周囲に視線を配していたその声が、ゆるゆる終息した。その様子に、私も思わず警戒して視線を辿る。金色の見つめる先を確認すれば、真っ暗闇にゆらゆらと泳ぐ光が。
 発光する生き物が存在する事は、それとなく想像出来た。悪魔にもきらきら光る種類は多い。だから今見えている光も、魚とは限らないのだけれど。
『まだ生き残っている魚でしょうか?』
 問い掛ければ、私の言葉など無視してあっという間に其処に駆け寄る貴方。それもその筈、この世界には人間・マネカタ・悪魔、このいずれかしか存在し得ないからだ。
 発光する背に追従し、私も奥に有る水槽を覗き込もうとした……が。不思議な事に接近すれば、泳いでいた光はぬるりと隠れてしまうではないか。私はマフラーを少し下げ、口元を露わにしつつ水槽を確認した。奥の方に有ったせいか砂埃からも遠ざけられ、綺麗なままの硝子水槽。
『さっき光っていた魚は、何処に行ってしまったのでしょう?』
 と……隣の人修羅に顔を向けようと首を捻る途中、私は静止した。
 水槽の硝子面に映り込む光は、明らかに私の主人のものだった。こうして間近に見ればすぐ判る事だが、先刻の位置からでは……これは誤解しても仕方無い。この水槽に映り込んだ自身の光を、発光魚と思っても。
「……何だ、何ジロジロ見てやがる」
『いえ』
「馬鹿にしてるだろ、カン違いした……って」
 高揚する金眼が私を上目遣いに睨むが、畏怖や怒りは発生しない。いつも、怒りのまま殴り殺されても構わないとすら感じている。
 硝子水槽に、怒る貴方の光が輝きを増して反射し、二人で展示を観ている心地になる。
『魚の光よりも綺麗です』
 世辞でも何でもなく答えれば、金色の眼は数回まばたいた。
 続いて、みるみる頬の光を流動させる主人。マガツヒが昇ったのだろうか、薄らと頬が赤い様に見えるのは私の錯覚?
「本物見た事も無い癖に!」
 マフラーを強く引かれて、強制的にその場から引き離される。こうして直接先導されるのは、使役される身としてとても嬉しい。
 薄暗い空間を抜けて入口付近に戻ると、改めて周囲を見渡す主人。私も任せてばかりでは悪いので、貴方よりもう少し高い目線から路を探す。すると、外側に昇降用の足場らしきものが確認出来た。
 鎖が横に渡されているが、跨げば容易く通行出来るだろう。
『ヤシロ様、あそこに階段が有ります』
「……階段? 足で昇れっていうのか?」
『鉄骨をよじ登るよりは、安全性が高いです。それに見た所、酷い迂回は無い様子』
「オベリスクよりはマシってか……ふん」
 吐き捨てる様に云って、歩き出す主人。その手がマフラーを掴んだままで。私の首がきゅう、と絞められる。手元の抵抗に気付いた貴方が咄嗟に振り向き、一瞬慌てた表情で手を開く。
「いつも目の前にチラついて……っ、邪魔なんだよそれ!」
『大丈夫です、行きましょう』
「おい、俺は文句を云っただけだ。別にあんたが今窒息しても……内に戻して、屋上で再召喚すれば良いだけだから……」
 そしてまた私を見なくなる。あのままずっと、掴んでいてくれても良かったのに。手綱の様に使われるのなら、マフラーの先を貴方の前に揺らしていたい、いつまでも。

[newpage]

 無風の筈なのに、外の階段は薄く砂を被っている。見上げれば天に陸地が有るので、もしかすると上から僅か降ってきている可能性を感じた。
「眩しい」
 ぼそりと零す主人が、私の前で立ち止まる。数段上から見える貴方の逆光は、カグツチの光のせいだろう。どうりで魂がざわついている筈。高い位置から目にするカグツチは、とてもキラキラしていた。
『私が前に立ちましょうか』
「影に入ろうたって無駄だ、ほぼ真上から照らしてる」
『御加減が優れませんか』
「苛々するんだよ」
『そうですか、いつもとお変わり無く見えたもので……』
 私がそこまで云うと、昇り始めてから初めて振り返った主人。
「悪かったな、いつも苛々してて!」
 その声音と表情から察するに、私はどうやらまた憤慨させてしまったらしい。
『すいません、でも私は貴方様に苛々した事は無いです』
「……何だよそれ、フォローか何かのつもりか」
『いえ……その』
 また素っ頓狂な返答をしてしまったのだろうか、主人は無言のまま私を睨む。その眼に吸い込まれる様に、ただただ私も見つめ返した。
 不思議な眼。灰の様な、それでいて琥珀の様な色彩。半分人間だから、その様な絶妙な色になるのだろうか……と、惚けて見ていた私の首がまた絞まる。
「背中の槍、寄越せ」
『はい、敵の気配でしょうか?』
「違う」
 云われるままに背に携えていた槍を手渡すと、私のマフラーを片手に掴んだままの主人がカツカツと段を鳴らして下りてくる。
「疲れた」
 そう発すると、私の背を手の甲で叩く。そして流れる様にマントを引き、脚を脇にすり寄せた。
「おぶえ」
 甘えるでも無い淡々とした口調だが、私にはまるで飴の様だった。
 甲冑とマントを挟んでいるからこそだろうが、それでもこれは許された接触。直々の命令であって、しかも主人からの希望。
『はい、踏み外さない様に気を付けて下さい』
 少し屈んで待てば、想像以上に軽い圧が自身に掛かる。視界の端に銀色が時折ちらつくのは、私の槍を主人が代わりに手にしているからであり、それも歓びに一役買っていた。
「あまり揺らすなよ」
『はい』
 下ろす一歩が先刻より重く、金属の段は二人分の圧に鳴く。カツカツ上がって往くと、それまでの白かった視界に、今まで探索してきた建造物や集落の色が見え始めた。
 いつから自身が居たのか、何処で生まれたのか、それも認識していないのに……
『懐かしいですね』
 そんな言葉を吐いた。きっとまた、主人の機嫌を損ねる類の発言だと知りながら。案の定、私の背で微かに呻く貴方。
「何がだ……悪魔の分際で」
『中央に近くなると、本当に一望出来ますね』
「面白くも何ともない」
『流石にオベリスクには負けますが』
「あそこであんたを召喚した憶えは無い」
『見るからに、判ります』
「何笑ってる」
 何故、笑っているのが分かったのか、別に肩を揺らした憶えは無いのに。
ただ、私を召喚した場所をそれとなく記憶しているらしい貴方に、嬉しいやら可笑しいやらで笑みが零れてしまった。口元を隠しているのに、判ってくれた。例え今のが八つ当たりでも、構わなかった。
『あの病院が見えますよ、ほら』
 私が目配せで示す先は、主人が生まれたというシンジュク衛生病院だった。
 生まれた、というのは人間として世に出でた時では無く、このボルテクス界においての事だ。周辺の悪魔達が口にし始めた『人修羅』という単語を、私はシブヤで見た時にはまだ知らずに居て。悪魔にしては雰囲気が妙で、噂に聞く人間ほどには軟弱でも無さそうで。病院からフォルネウスの監視を掻い潜って脱出したのだと、後々耳にした……
 勿論、主人の口からでは無い。主人が語る筈も無い、悪魔となってからの生など。
『しっかりと、人間の時の記憶は有るのですか?』
「何だ突然」
『このボルテクスで目覚めた時、自分が何者か分かっていたのか気になって』
 てっきり無視か、はたまた背から飛び降りるかと思っていたが。背の主人は少しの沈黙を置いてから、返答してきた。
「……夢から醒めたと、最初思った」
『では、自身は何も変わらないと?』
「そうだ、俺は今だって……」
 マフラーから少し逸れて、微かな吐息が私の髪を撫でた……気がする。
「人間のままのつもりだ」
 肩から回された腕が、震えている。寒いのだろうか、それとも感情からの震えだろうか。
 私にそれが癒せるのか、救えるのか。仲魔として役立つ事が今後可能なのか。
「だから、悪魔は嫌いだ……っ!」
 私に掛かる震えは確かな力みに変わり、黒い斑紋が目の前を薙いでいった。その切っ先を見れば、私の槍でバイブ・カハを一突きしている。
「エストマしてなかったのか、気が利かない奴」
『す、すいません』
「敵がすぐ近くまで来ていたのに……いつまで呑気に会話を続けるのかと思った」
 貴方との会話に横槍を入れられようが、途絶えさせる事など出来るだろうか。いや、槍を入れたのは主人当人だったか、いやいや、どうでも良いそんな事は。
「こんな高さにまで……そういえばマントラ本営の上の方にも居たなコイツ。高い所が好きなのか」
 ヒクヒクとまだ痙攣を続ける魔鳥を、冷たい眼で更に突き刺す主人を感じた。背中に居るのに、まるで手に取る様に判る。今まで私が一方的に見つめてきた、主人の動向。
『マントラ本営と云えば、あそこも高いですね』
「あそこでも、あんたを召喚した憶えは無い」
『マガツヒが吸われ、あそこも閑散としたでしょう。流れ者のオニと、この間少し会話したのです』
「いつの間にだよ、俺はそんな自由行動させた憶えも無いぞ」
『回復の泉の付近で、いつも仲魔を解放されるでしょう。あの際に散歩をさせて頂きました』
 貴方はいつも遠くで泉を浴びる、仲魔に一目だってその姿を見せようとしない。我々も浴びる際、ひそりと囁き合うのだ。衣の下の斑紋は、一体どうなっているのだろう、と。
『意外と数字に強いオニで、私は以前から気になっていた本営ビルの高さを訊きました』
「そんな事訊いて……何の意味が有る」
 ぶん、と槍を振り下ろし、いよいよ動かなくなったバイブ・カハを振り落とした主人。一匹分の重みは消え、下方の砂塵に見えなくなって往く。置き土産の黒い羽根が数枚ふわふわと宙に舞い、それを卑しんだ主人が首をふるふると振る気配。
『マントラ本営ビルの屋上展望台は256.3mだそうです』
「……東京タワーは333mだろ、こっちの方が高い」
『いえ、それが此処の展望台は250mなのです』
「は? それならサンシャインの方に登れば良かったじゃないかよ、エレベータも起動してるし」
 思わず建造物の過去名称を口にする主人は、項垂れたのかマフラーの項にもぞりと蠢きを感じた。
『それでも私は此方の……タワーの方に来たかったのです』
「知るか」
『マントラの方は、閑散としたとはいえ外野が多いでしょう。静かに観光したくて』
「悪魔が少ない方が良いのは、賛同してやらないでもない」
 こんなに色々会話したのは、本当に久しぶりではないだろうか。仲魔にして貰った時以来だと思う。
 連れ添う味方達が命乞いする中、私だけがそれをしなかった。命乞いの隙を見て喰いかかる者を、得意とする焔で焼き殺すその姿に……絶望すらも感じなかった。
 絶える事……《死》という概念が私はよく理解出来ていなかった。乞うほどの執着も感じていなかったのだ。逃げるでも刃向かうでも無く、ただその焔に焼かれて灰になり、ボルテクスの砂になるのを待っていた。
 すると貴方は……構えを解いたのだ、仲魔のピクシーの反論も聴かずに。

 そのまま待たれても邪魔なだけだ、どうせ死ぬなら 俺の盾にでもなれ

 仲魔になるか? だとか、そういう好誼の示しでも無かったが、私の琴線に確かに触れた。
 初めて与えられた理由に、息を吹き込まれた心地だった。それだから、私は主人の哀しむ事を、嫌悪するものを、全て消してあげたい。
「案外早かったな」
 展望台に到着すると、背中から降りようとする主人。人修羅である主人が本当に疲労を感じたのかは、定かでは無い。私にかけた情けなのだとしたら、それはまた悦ばしい。


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