有害の天使


 天を見上げ、仰け反るままにふらりと背後に倒れそうになる華奢な背を支えた。
『そんなに真上ばかり見ては、首を痛めますよ』
 微笑みかけてみせれば、軽く会釈をして首を前後に慣らす少年。その細白い項には、冴え冴えと黒いツノが聳えている。
『上に空が無い事に、違和感を感じているのですか?』
「薄らと建物が見えて……自分が逆さに立っている様な感覚になるんです」
『なるほど、流石は二足で地に立っていた生き物ですね』
「……空を飛んでいると、天地の感覚もあまり無いんですか」
『どうでしょう? とりあえずこの世界は楽ですよ、ぐるりと迂回する必要が無い。カグツチの眩しさに耐えられさえすれば、中心部を通って向かいの地にすぐ移動出来ますからね』
「あの光、熱くないですか」
『熱い? 確かに灼きつける様な波長と共に、周期によってはかなりの昂揚感を齎しますね。貴方も感じませんか?』
「……よく、分からないけど、あの光を見ていると……忘れそうになる」
『何を?』
「人間……だった事」
 白い砂に、鮮やかな黒と青の靴を飲まれそうになりつつも歩む少年。彼の身体もこの地の様な、血色の芳しくない白で。しかも、黒い刺青が如し斑紋が刻まれている。その呪いの様な印は、彼がただのヒトから悪魔へと変貌した現れであり、破棄さえ出来ぬ命綱でもあるのだろう。
『大丈夫、貴方は人間ですよ。その様に憂う心が僅かでも残る限り、希望は潰えません』
 支えていた手をそのまま頭に持ってゆき、その跳ねた髪をさらりと撫でた。想像よりも柔らかで、軽くひと撫でのつもりが少々長々と、艶めく黒に指を泳がせてみる。するとまんざらでも無かったのか。私を見上げて少年は、むず痒そうな目許をちらりと覗かせた。
 はにかみの一歩手前……そう、歓びという感情の欠片が其処に見える。悪魔に触れられる事は激しく嫌悪するというのに、私にはこの態度である。
 見目で判断するその浅はかで幼稚な精神に、こちらも思わずはにかみそうになってしまった。



 《人修羅》という名称を聴いたのは本当に最近の事だったが、存在だけは以前より認知していた。シンジュク衛生病院から出てきた妙な悪魔が居ると、エンジェル達が屯しては噂していたからだ。眼を塞いでいる所為か、彼女達の耳の早さは尋常で無い。
 「人間の様な悪魔」なのだと。其処には私も興味が有った。野次馬の感情が微塵も無かったかは、さておき……
 いざ偵察という名の冷やかしに出向いてみれば、想像よりもはるかに虚弱な風貌をしていて、多少驚いたが。いいや何よりも驚いたのは、彼が私を見て、警戒こそしつつも助けを求めてきた事だった。
 一体何がそうさせるのか、思考を巡らせる。それは恐らく、単純な《天使像》だろう。
 この元トウキョウ……つまりは日本国の民にありがちな、無宗教人間。殆どは仏教徒だがその戒律を深く知る事も無く暮らし、クリスマスには浮かれはしゃぐというあの面白い形態だ。
「まさか天使も居るとは思わなくて」
 そう呟いた人修羅は、私の事を藁の様に縋っている。この世界において彼の敵は悪魔であり、他に関する知識は皆無に等しいのだ。
 あの病院の周辺は、確かに私達の様な姿は多く無い。この荒野で出くわせば、それはそれは神々しくも感じるだろう。宗教画の天使しか知らぬ哀れな少年は、まさに「地獄に天使」と悟ってしまった訳だ。
『悪魔はお嫌いで?』
「当たり前です、俺は好きでこんな姿になった訳じゃない」
『その割には、妖精を連れている。彼女は悪魔とは違うのですか?』
「これは……」
 人修羅の発言が気に喰わなかったのか、肩の傍を浮遊していた小さき者が翅を震わせた。
『ちょっと! コレって何よコレって!』
「だって公園で引き留めて欲しそうにしてたじゃないか、俺だってあまり貸しを作りたくないんだ」
『可愛くないの! アナタ死にそーだから折角提案して仲魔になってやってるんじゃない!』
「誰のお陰で病院から出られたんだ……」
『あの時は利害の一致よ、今は……その、ちょっと違うでしょ。アタシはね、アナタが気に入っちゃってんの』
「別に嬉しくない」
『んっとにもー! この頑固者! 半分悪魔でもいいじゃん、この世界で生きてくならそのくらいが丁度良いわよ。人間なんて弱っちいし』
 ふくれ面を作るピクシーだが、この妖精、なかなかに強かだ。それとなく協力的な姿勢を見せ、まんまと仲魔になったクチらしい。
 何らかの理由が無い限りはこの主人はとにかく面倒な性質だろう、が……多少の苦労をフイにしてでも従う、あまりある利点が有る。それは、彼のマガツヒの味。この世界における生体の糧の味だ。
 つまり単刀直入に云えば、この人修羅という生き物はとにかく「美味しい」のだ。
『少し宜しいですか』
 翼をたたみ、人修羅のすぐ傍に私も降り立つ。少年らしい涼しげな耳元に唇を寄せ、向こう側のピクシーには届かぬ言霊で鼓膜を直に振動させる。
『その悪魔を仕舞って下さい。貴方に味方するつもりで取入り、貶める存在です』
 横顔の睫毛が震えるのが見えた。即断出来ない程度には、彼女に思い入れがあるのだろう。人修羅となった少年にとって、最初の藁は彼女だったという事だ。ボルテクス界に変質した直後、純粋な悪魔で無い彼が戸惑わぬ訳が無い。
 悪魔に「された」少年は、手始めに妖精に心を許した……妖精という画は、人間にとっては比較的身近だから。
 この短期間で判断したまでだが、人修羅は穏やかな見目の仲魔しか従えず、悪魔らしい悪魔を徹底的に嫌っている。
『さあ、お早く』
「……はい」
 暫しの間の後に、返答しつつ妖精を横目に見た彼。小さく一言二言交わし、やがて妖精は光に包まれながら人修羅の内に還る。内、といってもそれは彼の胎内では無く、アマラ宇宙の一室に戻ったと考えた方が正しい。恐らくこの少年は、召喚しつつも理解してはいないだろうが。
『有難う、それで良いですよ。愛らしい外見でも、悪魔は悪魔ですから』
「妖精も……やっぱり悪魔なんですか」
『ええ、この世界ではそう考えて良いです』
「俺、あの病院から出るのに必死で……!」
『ええ、ええ分かっていますとも。貴方はよく耐えました、その逆境にもめげずに生きようとする姿勢は、とても美しいです』
 天使の微笑みで宥めれば、ころりとその棘が抜け落ちるのが見て取れる。
 この世界、どの様に生体区分されていると思います? 無知な少年よ。悪魔……人間……マネカタ……
 そう、笑える事に、天使などと云われる区分は無い。つまり人修羅は、たった今も貶められている。
『呑まされたというマガタマさえ抜ければ、きっと身体の毒も抜けるでしょう』
「本当に……人間に戻れますか? この気味悪い黒いのも、消えますか?」
『呑まされて悪魔となったのですから、抜けば戻れる……違いますか?』
「……でも俺、不安で」
『信じなくてどうするのです、不安だと避けていては、貴方にいつまでたっても幸福の兆しは見えません。まずは己を信じてあげなさい』
 それらしい事を云えば、安堵したのか眉の強張りが少し緩む人修羅。いい加減この聖人っぷりも興が乗ってきて、本当に直前まで《天使》で居てあげようかと思い始めた。
 この、途方も無い球状の世界で……彼に訪れた唯一の希望の光となってあげようかと。
「早く、元に戻りたいです……お願いします」
 心からの願い、彼のその眼に真摯な色が浮かぶ。私の好意を悦ばしく感じているであろうほんの僅かな瞬間、人修羅のマガツヒの薫りがする。
 微笑み……歓喜……マガツヒは感情の振れ幅が大きい程に、多く発される。
「何でも、出来る事ならします」
 感情の違いでまた後味も変わるが……比較的容易く得られる歓びや安堵の味ならば、もう私は散々味わってきた。
『良いのですよ、ヒトは愛すべき存在ですから。私も尽力しましょうね』
 妙な手癖が発露しない様に気を遣いつつ、その体躯を抱擁してあげた。魔力に依存しているのか、さほど筋肉の感じられない肉体。モラトリアムの真っ最中に悪魔と化したのか。
「……天使様……っ」
 絞り出すような声は、今にも泣きそうだった。私の腕の中で震えている、黒い紋様の子羊よ。
 このままこの子が無事人間に戻れば、間違い無くカソリック系に従事するであろう出来事だな……と想像し、また笑みが零れた。


「はあっ、はぁ」
 チンの群れに羽ばたかれ、それを防ごうとしてまた躓く。まさかあの程度で息が上がる筈も無いのに、人修羅は激しく胸を上下させる。
 人間の時の癖が抜けないのか、吸わなくとも良い息継ぎを試みている。特に援護を頼まれていた訳でも無いが、これでは目的地に到達する前に傷物になってしまいそうで。回復すれば良いかとも思ったが、ディア系で治癒する範疇も当人の余力にかかっている。あまり油断は出来ないのだ。
『伏せて下さい』
 この戦いが始まってから、初めて発声してみる。すると人修羅は私の声に即座に反応し、振り向きつつも砂に飛び込んだ。
 彼の頭上から、その小さな頭蓋目掛けて下降する群れに熱波を送り込む。高熱のそれはチンの羽先を燻らせ、やがて轟々と燃やし始めた。狂った様な鳴き声を上げつつ、妖獣が一匹、また一匹と炎の塊となって砂地に埋もれていく。
『今のを、プロミネンスと云います』
 既に身体の一部を灰にされたチン達、それ等に囲まれる様に砂塵に埋もれる人修羅。初めて見る術に興味津々……というよりは、得体の知れなさに恐怖している風にも見える。
『突然の介入は失礼でしたか?』
「い、いえ」
『殴る蹴る、も有効ではありますが、それは洗練された動きの者にとっては凶器となる、という話です。貴方は一介の少年だったのですから、戦闘術など持ち合わせてはいないでしょう?』
 云い方が悪かっただろうか、少し拗ねた眼になる人修羅。修羅が如き獅子奮迅ぶり、と謳ったところでそれもまた怒りを買うのだろうが。
『直接的な攻撃は、手足も汚れてしまいます。今の様に燃せば、接近の必要も無いですよ』
「燃やす……」
『そう、焔の術を……いえ、貴方は人間に戻るのだから、そこまで深く考える事も無かったですね。失礼』
 伏せたままだった人修羅の手を引っ張り、不安定な砂の上に起き上がらせる。柔肌を裂いた衝撃の痕跡も、既にゆるゆると治癒を開始している。
『その回復力も、初めに仰っていたマガタマの為す業ですか?』
「えっ……た、多分。この姿になってからです」
『いくら治癒力が高いとは云っても、痛みは変わらないでしょう? あまり無茶な戦い方は感心しませんね』
 砂埃を翼の端で掃ってやれば、擽ったそうに細腰が踊る。
「でも、焔なんて俺」
『悪魔じみていて、嫌ですか? 天使の私も使っているのに?』
 小さく首を傾げて顔を覗き込むと、見つめ合う事に慣れないのか、すっと眼を逸らされる。明後日を見つめようとするその瞳は、仄暗い中間色だ。悪魔によく在る、あの爛々とした光は無い。
「てっきり……その武器を使うのかと」
『ああ、この剣ですか? 無論、これでも戦いますが、先程の悪魔には火炎が有効でしたので』
 腰に提げた剣に気を取られている辺り、やはりこの世界に慣れていない事が解かる。中には飾りとして纏うだけで、見目に反する攻撃方法を持つ悪魔だって多いというのに。
 拾ってみて正解だった、このまま放置しては野垂れ死んでいた可能性も有る。鼻の利く悪魔にとって、歩く餌だというのにこの少年は……酷く無防備だ。
『そういえば、まだ名乗っていなかったですね』
 縋る藁の名を、脳裏に刻むと良い。一度は堕とされた、この私の名を。
『私の事はウリエルとお呼び下さい』
「……ウリエル」
 御覧なさいな、そんなにも簡単に口にして。言霊の罠だったとしたら、どうするつもりなのだろうか。
『貴方の名を教えてくれますか?』
 あの妖精が幾度か口にしていた、私は既に知っている。
「…………俺は、功刀矢代」
『ヤシロ?』
「そう、クヌギは苗字。そっちは名前です」
 人間の頃の名をいつまで心に残せるか、人修羅の今後が愉しみだ。いつか、悪魔に一切を赦さぬ孤独となった人修羅は……何者からも、その名を呼ばれる事は無くなる。
 今聞いた名の血肉では無く、経典とやらに綴って有った《人修羅》という単語の血肉となるのだろう。
 近いうちに来るかもしれぬ、創世の使者としての覚醒。私が仕える力の赴きとは、縁の無さそうな仔だが……それ故に、弄んでみたくなったのかもしれない。



 シブヤに到着するなり、ショッピングモールへと向かうこの足。人修羅の歩調に合せるなら、飛ぶより歩いた方が楽だ。
「天使も買い物するんですか」
『可笑しいですか』
「何……買うのかと思って」
『貴方の呑んでいる物と、似た様な物が売っていたのを思い出しましたので』
 薄く埃を被るガラクタ達の隙間、ほんの少し開けた空間を利用したジャンクショップが在る。流れ者のジャックフロストが、顔を覗かせた私に対して手を振った。
『ヒホー! あと在庫僅かだから、誰でもいいから買ってってホ!』
 来る者拒まず、とはいえ警戒したのだろう。手を振る直前の強張りは、構えだった。
 エンジェル達なら良く目にしても、私と直接対峙するなど稀だ。多少の怯えは仕方の無い事。
「悪魔から、物買うんですか……」
『この世界に居る以上、利用させて頂く事は有ります』
 隅に並ぶ硬質な蟲達を視線で示し、店主のフロストに優しく訊ねる。
『其方の二つ、購入しましょう』
『ヒホッ! お客サンそれは大歓迎だホ、その二つは売れる目途がなーんにも立たなくて嘆いてた所だったホ〜』
 転げそうな丸尻をひょこりと上に向かせ、ごそごそと棚の下を探るジャックフロスト。
『包装は要りませんよ』
『お客サン、エコだホ〜感心感心! 合わせて五千魔貨だホ』
 褒める割には一銭も譲らない辺り、見目に反して堅物らしい。その何とも云えぬ形の手から購入物を受け取り、私は背中越しに感じていた視線の主を振り返った。
『とりあえずこちらを、貴方に差し上げましょう』
「それ……」
『わざと購入しなかった、そういう事ですか?』
 店から出て、硝子の並ぶディスプレイモールを並び歩く。映り込む我々の影は、人間達が休日に憩う時の影に一瞬見えるのかもしれない。ヒトの形をしてさえいれば、硝子の中のマネキンが纏う衣だって装備可能なのだから。
「呑んでる物と、同じだと思ったから……買う気は有りませんでした」
『貴方の云う《マガタマ》かと思いまして』
「現物、見せましたっけ? 俺」
『いえ、しかしエンジェル達が《変な蟲》が入荷されていた、と話していたものですから』
 掌で脈動する蟲は主人を感じ取るのか、人修羅に向ければ生き生きと魔力を戦がせる。これで手の内が焼けるという事は無いものの、異質なエネルギーが掌で遊ぶ感覚は落ち着かない。
 石の発する息吹に、焔の力を感じる。三千魔貨で購入したシラヌイという名称の方だ。確かに、時折轟々と赤く揺らめく。焔にくべた石炭の様に、業火に焼かれる罪人達の赤く爛れた魂の様に。
「どうして俺に……」
『そう煙たがらず。毒を以て毒を制するという言葉を存じませんか』
「でも、それ等からは、今呑んでるヤツよりもっと強い何かを感じる、から……それ呑んだら、悪化しそうで」
『飽和させる、という考え方をしてみて下さい。未だ成長しきっていない貴方の肉体だからこそ、恐らく可能なのですよ』
「具体的に説明してくれませんか」
 少し焦れたのか、私が掌に弄ぶ蟲をちらりと見る人修羅。その眼が蟲に呼応したか、僅かに金に光った。
『先程号令をかけましてね……有志で数名呼びましたから』
「えっ、何……を?」
『御安心下さい、皆同胞……所謂《天使》です。貴方を助けて差し上げようと、そういう集いですよ』
 よくもいけしゃあしゃあと、述べられたものだ。しかしこの単語を出せば、安堵する気配を確かに感じる。
『荒療治とは思いますからね。貴方が暴れてしまっても、野次馬の悪魔を寄せ付けない様に、場所を選んで行いましょう』
「荒療治……」
『そんなに不安な顔をしないで下さい、胎を捌いて取り除くとは云っておりませんよ?』
 少し冗談が過ぎたか、眉を顰めて口元を手で覆った人修羅。天使にしては、あまり綺麗な冗談の類では無かったか。天使などこの様な程度の物だ、と、私が自覚してしまっている事に要因が有る。
『ただし、所有しているマガタマを一度に全て呑んで頂きます』
 交差点に差し掛かった辺りで説明すれば、その背がびくりと引き攣ったのが見えた。怯えだろう、当然だ。たった一つでさえ身体の構造を変えてしまう蟲なのだから。
「気が狂うんじゃないですか、そんな事したら」
『入れ替えるしか出来ない、と貴方は云ったでしょう。全て吐き出せない、空に出来ない、と』
「だから沢山呑めば良いって……?」
『そうですね、人間で云えばアルコールの様なイメージでしょうか』
「……呑み過ぎて、ゲロってみろって事ですか?」
『端的に云えばそうなります』
 は、と一瞬だけ彼が失笑したのを、見逃さなかった。それは酷く高圧的な笑みで、良くも悪くも悪魔的だった。
「胎が空っぽになって、死ぬかもしれない……他人の身体だと思って、結構な無茶云いますね」
『その空洞が貴方の肉体を軋ませるなら、他の力で一旦埋めてしまえば良いのですよ』
 明滅するだけで意味を為さない信号機という設備を潜り抜け、細い路地に人修羅を先導する。
 時折、此方を横目に見やる輩が居るのは、恐らく感付いているからであろう。私がたった今、この妙な悪魔を……誑かしている、拐かしているのだ、と。
 しかしそれを止める筈も無い。獲物の横取りならばともかく、誰も正義感ぶってこの少年を救おうなどと思わないからだ。この利己的な環境は、ボルテクスになったから?
 さてどうだろうか? 以前より人間世界はこうだった、と私は思う。
「他の力って、何ですか」
『ええ、我々の清廉なる気……悪魔のソレとは相反する魔力です』
「……それって、天使になっちゃったりしませんか」
 と、あまりに大真面目に問い質してくるものだから、流石の私も破顔してしまった。そうだ、この少年にとっては天使とて異質な存在であり、人間からは遠いのだった。
『大丈夫、悪魔の力と相殺される筈です。そうして本来の正常な、妙な魔力など持たぬ人間の肉体に戻れるでしょうとも』
「そうです……か」
 相殺されるなど、私も聴いた事が無い。黒い顔料を白にする為には、黒がそうするよりも遥かに上回る量が要される。濁った気は纏い易いが、今私がかりそめに述べた『清廉なる気』でヒトを作り上げようとすれば、それは一苦労だろう。
『急激な変質に肉体が悲鳴を上げるのです。ですから、我々の気を注ぎながら……ゆっくりとマガタマごと黒い魔力を抜きましょう』
「ゆっくりなら、痛くないって事ですか」
『ええ、大丈夫。私は回復術も使えます、万が一が有ったとしても、按ずることは無いのです。出来うる限り苦痛は和らげましょう、貴方の痛覚は人間の時と大差無いらしいですからね』
 この様に、『大丈夫』と重ね重ね云えば、次第に人修羅の表情は和らいでいく。確認する事で安堵感を得るのだ、たとえその言葉に保障が無くとも事実は二の次で。
 人間は己にとって都合の良い言葉に寄り添い、安息を得る。常に上からの言葉を待ち望む、謂わば従属体質なのだ。
『ですから、受け入れてしまえば安泰なのですよ』
「……はい」
 脳内の私の言葉に、返事をしてくれた様に感じるタイミング。微笑みかければ、助かると思い込んだ歓びの顔が私を見返してきて、照れが有るのかふっと逸らされる。
 瞬間、瞬間に。その生き物にとっての希望的観測を推し測り、導きの様な、労りの様な言葉を掛ける。
 これが天界者の十八番。前者の聴こえは良いが、甘言にて堕落させんとする悪魔と、実の所は同様の事をしているのだ。


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