『さあ、此方にお入り下さい』
 狭苦しい暗がりの路地の中。ようやくカグツチの光が届くか否かという所に、見落としかねない扉が有る。
 少し下る様な形でステップが有り、其処を抜ければ薄暗くも仄かに蝋燭の照らす内部が見渡せる。なかなか広々とした此処は、マネカタという土人形達が以前よりひっそりと儀式に使っていた場所。
 彼等は何か召喚せんと色々画策していた様子だったので、儀式の呪具を手土産にさせ、エンジェル達を先に待機させてある。
 『少しばかり此処を貸して欲しい』という収賄の提示はすんなりと呑み込まれたらしく、予定通り内部では数体の《天使》達が暇を潰していた。
 黒い革帯越しの視線が、一斉に私と人修羅に集まる。
『ウリエル様』
『その者が件の……』
 エンジェルに……アークエンジェル……パワーに……と、揺らめく灯火に彼等の影が交差する。
 向かいのディスコという俗っぽいホール程では無いが、そこそこの密度。いいや、これからディスコよりも俗っぽくなるのだろう、これは語弊が有ったな。
『遠巻きに目にした事は御座いましたが、まあ何と貧相な身体つきで……おや、失敬』
『口元が笑っているぞ』
『ウリエル殿が連れて参られたのだ、間違い無いのだろう』
 多くの視線に撫でられる感覚を嫌うのだろう、人修羅は先刻から緊張している。
 何故判るのかというと、その項の黒いツノがビリビリと音を立てそうなくらいに気を奔らせているからだ。
『パワーが失礼をしましたね』
「……いえ、筋肉ダルマって云われるよりマシですから」
『ですね、はは。彼は少々いかついでしょう、貴方の想像している天使よりは』
「さっきの天使よりも、露出の多い方が……ちょっと」
『ああ、エンジェル達ですか? 決定的な箇所は隠れていると思いますが』
「何か、色んなの居るんですね」
『そうです。人間も悪魔も多種多様……でしょう?』
 空間の中央、誘導された足下に敷かれた魔法陣が気になってしょうがないのか、しきりに俯く人修羅。その魔法陣はマネカタ達が使っていた物だろうが、都合が良いので適当に利用させて頂く。
『この陣の上では、術らしい術は使用出来ませんから』
「は、はい」
『色々行うにあたり、安定した空間を維持する為に置いてあるのです。封魔状態に陥ると思って下さい』
 本当はそんな効果など無い、これは図からするに恐らく召還の陣。私が今説明した効力と、寧ろ逆で。空間を歪ませ、何処か別の処と繋げる為のもの。つまりは、不安定を作る為の魔法陣。干渉さえしなければ床の飾りに過ぎない。
 人修羅が暴れて余計な事をしない様に、彼の魔術は言葉で封じたのだ。
『さあ、所有する全てのマガタマをお呑み下さい』
 私の催促に、拳を開く人修羅。その薄い掌には、二つのマガタマが載せられている。私と会う以前から所有していた物と、先刻買い与えたシラヌイ。
 何故、購入したもう一つの方を渡さないのかというと……直感だった。
 己の手に包んだ時に感じた。このイヨマンテというマガタマ、恐らくは精神感応を受けない性質を持ち合わせている。その類の術に対する障壁の様な波動を感じるのだ、つまり……今これを与えてしまうのは芳しく無いという事。
 ただし、人修羅が所有する全てを呑み込んでも吐かぬ様子なら、折を見てこれも与えてしまう事になるのだろう。
「呑む所、見られるの好きじゃないんです」
『これから心身を接し、エネルギーのやり取りをするのですよ? その程度、恥を感じる事も有りません』
「でも……」
 微笑んだまま、待ちの姿勢を取る此方に観念したのか。人修羅は一個ずつ、そのマガタマの先端を摘まんで上を向く。ゆるゆると伸ばされた彼の舌先を、ぶら下がっていたマガタマが途端噛み付く。すると咄嗟に、手で口元を覆う様に隠した人修羅。
 蠢く喉仏は、まるで本物の蟲を呑んでしまったかの様なうねりで。眼を明滅させる様は、先刻見た信号機を思い出させた。
「ぁ、はぁ…………っ」
 入れ替わりに上ってこようとするマガタマを必死に抑え込んでいるのか、胸元を掻き抱く様に身を捩る人修羅。周囲の《天使》一同は黙して見つめるだけだが、既に興奮している事が私には判った。
 マガタマと格闘中の人修羅から、まだ薄らとだが、マガツヒが滲み始めている。それは、とても甘美な予感のする薫りだった。
『耐えて下さい、まだもう一つ有りますね? それもお呑み下さい』
「う、うーっ……何か、中が熱い、怖い……っ」
『不安なのは解りますが、貴方が残りを呑まぬ限り、その胎内に発破がかけられないのですよ』
「治してもらう前に、このまま死ぬんじゃ……ウ、ウリエル……!」
『……御自身で出来そうにないのでしたら、援助は致しましょう』
 悶える人修羅の傍に歩み寄り、震える手の内に有るマガタマをもぎ取る。時折脈動するこの蟲は、握り締めればすうっと冷える潤いを湛えていた。火炎と真逆の気配を感じる、これを呑ませたならブフ系を使用されてしまうだろうか。
 しかし然程の心配は無かった、先刻『術は使用出来ない』と伝えたばかりなのだ。その言葉に縛られたこの少年は、恐らく唱えようともしないだろう。
『ほら、大丈夫ですよ。それとも口を大きく開くと飛び出てきそうなのですか?』
 苦痛に歪むその頬に片手を添え、上を向かせてみる。
 食い縛られた唇はわなわなと震えて、焔でも吐くのではというくらいに、微かな吐息が熱を持つ。
「眩暈が……」
『後はこれを呑んでしまえば楽にしていて結構なのですから、もうひと頑張りですよヤシロ』
 私の青い指を、頬から唇に滑らせる。黒い斑紋の縁が、この薄暗がりに目立つ。指で遮った影がその発光を途切らせるのが視界に面白く、このまま撫ぞり出して末端まで辿ってしまいたくなる欲求に駆られる。
『さあ、呑んで』
 指先で唇を幾度か柔らかく掻いて様子を見るが、ゆるゆると首を左右に振るばかり。埒が明かないので、爪先に少しばかり力を籠めてみる。すると抗う様にして強張り、更に真一文字に結ばれる其処。
 此方側が駄目なら、開門の仕掛けは違う処に有るのだろう。この身体の特徴を見定めて、唇から其処に指を移した。
「っひ……!」
 一瞬だった為に避けられなかった人修羅は、ツノを掴まれ堪らず悲鳴した。
 喘ぐ様に開いた狭い唇に、空いた手でマガタマを押し込もうと試みる。が、私の指ごと噛み締めて其処から先に進まない。指先の蟲は奥に侵入しようと蠢くばかりで、その焦れた動きが私の意識も妙に高揚させる。
『力が胎内に重く落ちるだけ……死に絶える事は無い筈です、さあ……』
 ツノを根本から先端まで、幾度も幾度も撫で上げる。その度に睫毛を震わせ、ぎゅうっと私の指を咬む人修羅。まだそれほど獣じみた成長を遂げていないのか、犬歯にあたる部分に凶悪な鋭さは無かった。
 いいや、遠慮だろうか。拒絶しつつも「して貰っている」という後ろめたさが、指を喰い千切るという行為をも拒んでいる。板挟みが真の苦痛だとすれば、この世界で人間であろうとする事こそが、自らの首を絞める最大の要因となる筈。
 創世の指導者と成れる程の理念を、この少年には感じない。この憐れな仔は、己の人間としてのプライドを維持する事に固執している。それに必死過ぎて、盲目なのだ。
『……それとも、水が無いとお薬が飲めないタイプですか?』
 力を逆に入れ、引く動きに変えれば途端にずるりと抜ける指。人修羅の唾液にまみれたマガタマが、再度向かわせろと云わんばかりに指先で暴れた。
「はあっ、はあっ」
 酸素を貪る彼は、この世界の大気が以前と何ら変わりないと思って呼吸しているのだろうか……と、そんな事を思いながら、マガタマを今度は私の唇に添える。
『マガツヒとは違いますが、これも少しは甘露かと思いますよ』
「……!? っあ、何し……ん、ぅぐっ」
 ツノは強く掴んだまま、柔らかく抱き締めて口から口へと移す。私の舌上に未練も無いのか、即刻本来の主の舌に噛み付いたマガタマ。


 納まりの良いであろう向こうの口に逃げ込んで行く。するりと喉に落ちてくれるように、私は意識して生体エネルギーを同時に注いだ。
 人修羅のくぐもった呻きが一層濃くなり、しっかりと体感している気配に様子を窺う。
「う、ぅう……ん、ふ……っ」
 目の前で薄く開いた双眸は金色で、視線の絡んだ瞬間にその眦が真っ赤に染まるのが確認出来た。
 吸い込む魔力に対しての興奮なのか、直接絡むこの舌に対してのものなのか。私だって本当なら吸い上げてしまいたいのを我慢しているのだ、この様子では気付いていない可能性が高いが。
「ひ、ひぐ……ぁ」
 塞がる口の、更に奥からの喘ぎ。押し返してくる細腕は、私の上腕をギリギリと引き絞り爪を立てている。視界の下方で一瞬隆起する白い喉を見て、マガタマは嚥下したと判断する。
 それでも唇をすぐに離す事は、しなかった。人修羅がこの行為を、慈愛と取るか陵辱と取るか。それが気になって、先程から仕方が無い。理想世界への指導者として、力有る者を探していただけ……その寄り道、暇潰しだというのに。
「っ、ぷは、っ……はぁっ、はぁ、な……な、っ」
 ようやく解放された人修羅が、唇を手の甲で幾度も拭う。皮膚が擦り切れてしまうのでは無いかという程、必死に。
『ね? 痛くなかったでしょう』
 此方は拭いもせずに、唇を軽く舐めずってみせた。己の体液以外の味がする。
「い、痛いとか痛くないとか! そんな事が云いたいんじゃなくって!」
『親が幼子に口移しする事は、人間でも動物でも有ったと思いますが』
「それなら舌まで入れな――」
 叫んでから、はっと口を噤む人修羅。その姿を見て改めて感じる、潔癖なのだ、この少年は。
『ああいった形のキスは初めてでしたか? 驚かせてしまい申し訳ありません』
 眉間に皺を寄せて、口元を覆ったまま頬を紅潮させている人修羅。無言の返しは、肯定なのだろうか。どうも人間は「初めて」を大事にしたがる。



『お身体は如何ですか』
「……熱い、吐きそう……です」
『全部吐き出せそうですか?』
「分からない……けど……全部吐くと、内臓ごとひっくり返りそうで……中で、俺とマガタマが癒着してる、感じが」
『そうですか、では無理に吐き出さず……下から追い立てる様にしてみましょう』
「した?」
 舌に関して述べたばかりなので、何を示しているか理解していないのだろうか。
 ツノをゆったりと撫でさすり、落ち着かせるそぶりで伝える。
『口から吐き出す為に、口を塞ぐ事は出来ないでしょう? 肌から貴方に魔力を吸って頂く事も、あまりに時間が掛かってしまいますから』
「……だから、何ですか」
 首を振って、私の手から逃れようとする人修羅。項のツノは敏感で間違い無いらしい。
『ですから、此処の孔から注ぐのです』
 にっこりと天使の微笑みのまま、革に包まれた臀部へと触れた。反射的に強張り、きゅうっと引き締まる筋。続いて私の胸元へと衝撃が奔った。突き飛ばされたのだ、流石に倒れる事は無かったが。
「待って下さい……俺、男ですけど」
『ええ、御安心下さい。利用するのは雌雄の両者が持ち合わせている器官です』
「何……何を云ってるんです、あの……」
『貴方は半分人間のままですから、その形に肖り吸収効率の良い所から注ぐという話です』
 茫然とした後、みるみる青褪める彼。肌色が私の様になった訳では無いが、その面持ちはこの表現が一番適していた。
「そんな話、聞いてません」
『決断を迷われるかと思い、少しぼやかしたのは確かです。悩む時間を長くさせては、苦しいだけと思いましてね』
「注ぐって……指でも突っ込むんですか?」
『エネルギーが具現した物を体液と云うのでしたら、体液を注ぐと云った方が的確です』
「血?」
 そうであって欲しい、という力が、今の確認に籠められていた。
 私は音も立てず歩み寄り、その警戒する肉体を抱擁せんと腕を広げる。先刻から周囲の羨望の眼差しが痒いので、翼も広げて人修羅ごとやんわり包み込む。
『血以外に、我々が何を蓄え、循環させているのだとお思いで?』
「それは……知りません、けど」
 跳ね除けられた指を、再びツノに纏わせ撫でる。壊れ物を扱うかの如く、溝を辿る様にゆっくりと。
『血でも何でも、突き入れる器官はただ一つですよ、人修羅』
 耳元で、怯えを拭う様な優しい声音で答えてやる。
『貴方にも付いている、人間の雄の生殖器です』
 瞬間、腕の中から脱出しようともがく人修羅。予測の範疇だった為、後方に控えるエンジェルに目配せをした。とはいっても、視線は噛み合わないのだが。
『まずはウリエル様の羽を退かして下さいませ』
『頼みましょう、私の羽では魅了出来なかった様ですから』
『うふふ……』
 開いた翼の隙間から、セキレイの羽を人修羅の背に添わせるエンジェル。細々と動く様子からして、黒いあの斑紋を撫ぞっていると思われる。
「嫌です! そんな方法取るなら他を当たりますからっ、放して下さい!」
『他? 他には何が居るのでしょう? 悪魔ですか、マネカタ? それとも貴方と共にこの世界に残った人間……?』
「吐き出すだけなら、俺だけで……も」
 声の張りが失せ、次第に私を押し退けようと暴れていた四肢も緩む。金色の眼はどこか虚ろで、焦点がしばらく定まらないのか、私を捉えたと思えば次の瞬間には明後日を見ていた。
『効いてきたようですね』
『さっきリリムから分けて頂いて正解でしたわね』
 愉しげに歪む口元のエンジェルが、リリムを襲って奪い取った事を私は知っている。しかし、もう少しだけ引き延ばしてみせようかと遊び心が働き、事実を云わなかった。
『どうですか、ヤシロ』
 くったりした肉体は、先刻より重い。私に自重を預けている事が分かる。セキレイの羽の魅了効果がどの程度通用したか、まだ定かでは無いが……程好い筋弛緩はした様子だ。
『暴れては余計に傷付くだけです。我々はあくまでも思い遣りで、貴方をこの様な状態にしたのです』
「……ほんと……ですか」
『ええ、人間は医療においてこの器官を使うでしょう? 貴方は患った際に、治療を拒絶するのですか? 恥ずかしいからと?』
「で、も……でも、こんな人数居る必要は……」
『中でマガタマと貴方が癒着して熱いのならば、冷やして上から出る様に押し流さないと』
 説得しつつ、どういった理屈なのかと笑いそうになった。しかし、あながち冗談でも無い。異質なエネルギーを多く注がれたなら、肉体変異の可能性は有る。
『ですから、多く召し寄せたのですよ?』
「い、嫌だっ、そんなっ……じ、時間掛かっても構いませんから!」
『複数取り込んだマガタマが反応し合って、早く刺激しないと貴方を悪魔に完全に変えてしまう……かも?』
 安心させる言葉を知る私は、当然不安にさせる言葉も知っている。
「それは……もっと、嫌……です」
『私も、貴方が完全なる悪魔になってしまうのは心苦しい……僅かな時間ですが、御一緒したではありませんか』
「……俺の……味方?」
『ええ勿論。貴方を取って喰おうだなんて、まさか』
 第三者から見れば、私の言動には矛盾が見られるだろう。しかし、セキレイの羽が人修羅の思考からゆるゆると疑心を解し始める。
 魅了という状態は「自らの脚で立てなくする」という事を指すのだろう。受ける行為を好意と見做し、対象の全てを飴と感じる程に精神を蕩けさせる。
『寧ろ、私共を供物として捧げようとしているのですよ?』
「俺、天使を喰う趣味は……」
『はは、いえいえ違います。貴方にエネルギーを分け与えようと云うのです。血肉も同然でしょう』
 嗤う口元を隠し切れない周囲の数体が、首を捻って余所を向いたまま肩を揺らす。
 天使達は、残酷な遊びが好きだ。悪魔も天使も、戦いの合間の暇潰しに余念が無い。恐らく、生が長過ぎる為だ。
『さあ準備と参りますので、貴方には下の着衣を脱いで頂きます』
 恭しく跪き、陣の書いてある敷物の上に横たえる。すっかり魅了に溺れたかと思ったが、人修羅の眉間にはまだ鮮明に溝が有る。納得いかないのだろうか、己の選んだ道に葛藤している表情だ。
『さあ……御自身で脱ぎたくないのでしたら、此方で行いましょうか?』
「服くらい……っ、自分で脱げます」
 それはマガツヒの発露に深く影響する為、我々はまだ本心を叫べない。
 出来る限り自らの脚で奥底に来て貰うように……引きつけ惹きつけ、誘い込むのが落胆の秘訣。
「そんな、ジロジロ見る必要有るんですか?」
『これから扱う身体を、しっかりと観察確認する事は大事です。人間の医者の書くカルテという物が有るでしょう? 身体特徴や細かなデータが載っているのは、処置の為……違いますか』
「脱ぐ瞬間は一瞬じゃないですか、その一瞬が俺は……その、見られてるの嫌なんです」
『その一瞬、貴方が目を逸らせば宜しいのでは? 脱いだ後は、常に視線に曝されるのですから』
「……でも」
 着衣の金具に手をかけたまま、彷徨う指が震えている。それにいい加減焦れたのか、天使の一体が私の隣から躍り出た。
『ではコレをお貸ししましょう、瞼をぎゅうっと降ろしている必要も無くなります』
 エンジェルだった。
 自らの目許を覆う黒革を、頭に回した手先で解くとだらりと提げた。しっとりと、革の重みで揺れるそのシルエットに、横たわるままの人修羅は警戒している。視界が奪われる事は、彼にとってあまり気持ちの良い展開では無いらしい。
『ね、ウリエル様』
 永く瞑ったままだった為か、暗がりの中でさえ瞼を開く事をしないエンジェルが私を振り返る。
『決定権は人修羅に有りますよ』
『見えていない方が、この者にとっては気楽でしょうに』
 それは一理有った、が、私だけでも彼の意思をある程度尊重する姿勢を見せておくべきだ。
 私は更に屈み、人修羅のこめかみをそっと撫でる。
『どうしますか? もう何をするかは伝えて有りますから、視界からの緊張を遮断する手は有効だと思いますよ』
「……さっきから」
『はい』
「さっきから、何度か聴く……《人修羅》って、俺の事なんですか?」
 問われて初めて気付かされた。そうだ、この少年にはまだ面と向かってそう呼んではいなかった。
 悪魔の部分を意識させる呼称かと思い、自重していた事をすっかり忘れてしまっていた。だが、取り繕う程の事でも無い。
『そうです、貴方はこの世界に現れた混沌の存在、可能性を秘めた半人半魔。噂に聞くミロク経典に記された《人修羅》なのでは無いか、と、様々な者に着眼されているのです』
「可能性……?」
『深い事までは私も存じませんが、創造するも破壊するも、貴方は無限の可能性を秘めた……ヒトと悪魔の結晶――』
「いい、いいですもう。聴きたくも無い……!」
 ほら御覧なさい、激しい嫌悪を。
「俺は好きでこんなモノになったんじゃない、なのに……なのに……修羅?」
 歪む目許を腕で覆い、仰向けのままやがて沈黙した人修羅。それでも内部が燃え盛るのか、身を捩っては喘ぐ様な呼吸を繰り返す。
『少しの間、そうやって視界を塞いでいると良いです』
 私の言葉に、待機していたエンジェルがにんまりと微笑んだ。間髪入れずに、人修羅に跨るとその黒革を彼の頭上に広げる。当然、跨られて無抵抗の人修羅では無い。しかしこのまま流れに任せてしまえば、自ら衣を脱ぐ事も避けられる上、視界は黒のまま。
 それは恐怖と隣り合わせではあるが、精神の防衛にはなり得る。塞がれてしまえば、一方的な空気になるからだ。
 この少年の云う恥という感情は、自らの手で実行する事に重点が置かれている。
「も、もう……済んだら早く退いて下さい」
『あら、わたくし重かったかしら』
「そんな恰好で……こっちが困るんです」
 私の推察が正しかったかはさて置き、結局はエンジェルにされるがままの彼である。
『うふ、似合っておりますわよ』
 嫌味の無い、上品で鈍い艶。人修羅の双眸を覆った黒革。その帯から頬へと流れ伝う斑紋も、同じ素材に見える。
 閉じた瞼の隙間から見たのか、エンジェルはうっとりしながら爪先で黒を辿る。巻いた革から、頬……滑り落ちて喉。鎖骨に引っ掛かると、長い爪が肌を傷付けたのか、軽く呻いた彼。
『下も掃ってしまいましょうか』
 その喉が蠢く。私の声に、何か云いかけて呑み込んだ様子。身体が異常な状態な事は変えようも無い事実なのだから、早く通り過ぎるのを待つ……そういった姿勢だ。
『ん……キツい、爪が欠けそう』
 人修羅の腰骨に引っ掛かる様な、穿物の腰布。ゆとりの無い設計か、エンジェルが金具を外す事に手間取っている。
「……っ」
 幾度か滑った指が彼の局部を擦る度に、投げ出されている脚がひくりと反射して跳ねる。そのもどかしげな手付きは、わざとなのかもしれない。淑女口調で翻弄する事が好きな天使は、初心な雄悪魔に餓えている。
『あっ、外れましたわ』
「いちいち報告しなくて結構です……」
『では、承諾も無しに勝手に進めて宜しくて?』
「不穏に感じたら、こっちから訊きます」
『そう? もう結構キモチ良くなってきているみたいだけれど』
「は……?」


 視力が悪い訳でも無いのに、皆が一同に歩み寄る。滲み出すマガツヒのおこぼれを頂く為だ。
 私は先刻、唇から直接味わったので、もう暫くは見ているだけで構わない。
『だって、興奮すると膨らむでしょ? ココ』
「あっ、う」
『まだ下着も脱がせて無いのに、ほら……うふふ』
「さっき、変な羽使ったでしょう!? それの所為で……せい、で」
 焦れているのか、エンジェルの手付きは少しばかり性急めいていた。本当ならば銜え込んで跨りたいのだろうが……それを許可も無しにしては、激しく文句される事は目に見えている。
 当然、許可を貰う相手は我々一同であり、人修羅では無い。
『怖いの? でも安心なさい、頭が真っ白になった次の瞬間には、終わっていますわ』
「は……っ……はぁ……そ、注ぐだけなら、そんなトコ弄る必要、無い」
『痛いのは嫌でしょう? 心身を解さなければ、突き入れる方も窮屈で作業がスムーズにいきませんわ』
 薄い布は、肌に吸い付く様にフィットしている。あの革製の着衣を愛用しているなら、下にそういう肌着を纏っている事は可笑しい話でも無い。
 その布面積の狭さが、反応し始めている局部を更にぎゅうぎゅうと抑圧している。
『貴方、この世界に来てから“そういうコト”まだしてないのかしら? 女性悪魔との遭遇は少ない?』
「意味……解りかねます……っ」
『こんなマガツヒ匂わせて、それで無防備に歩いて……よく五体満足で居られた事』
「あっ、待っ……」
 膝丈のパンツと、一緒くたに下ろされる下着。初めて見る下肢の斑紋に、つい目が行ってしまう。下世話めいているとは自覚しつつも、やはり見えない部分の斑紋には興味が湧いてしまうものだ。
『コレも、寝てるのだから今は要らないですわね』
「だから待って下さいって……!」
 履物に手を掛けたエンジェルを、上擦った声音で制止する人修羅。
『どうされたのかしら』
「うつ伏せに……してても良いですか」
『あらまあ、バックがお好きなのかしら』
「ち、違います! 急所晒してる状態が嫌なんです!」
 必死な彼の様子に、エンジェルもまんざらでは無いらしく、翼を戦慄かせていた。
 そう、人修羅の肌身……その斑紋、触れ回る全てからマガツヒが滲んでいるのだ。彼の恥や葛藤が、我々を高揚させて放さない。


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