路上の霊魂
「そんなに沢山…手紙出すんですか?」
百枚綴りで五十銭の切手を受け取り、傍から不思議そうな顔をする君を見た。
「いいや、手紙を出す友人なぞ居らぬでな」
「まあ、俺も居ないですけど…そもそも俺の居た時代だと、メールで済ませてましたから」
紙幣を受付の者に渡し、天井の高い郵便局を退散する。
薄く積もった雪が、行き交う人々の下駄歯や踵で揉みくちゃにされている路面。
人工的な獣道が出来上がる帝都の冬景色は、師走ならではだ。
「君の時代には廃れているのか、複十字シールは」
「もしかして募金切手ですか、さっきの」
「自然療養社発行のものだが…収益金で結核者の療養支援が出来る」
「お金は」
「当然、自身の懐から出している」
街灯下で待っていた業斗と合流するや否や「遅い」と眼で急かされた。
『下の者に行かせれば良いものを、この時期の施設は何処も混んでいて堪らん』
「自分の用事だ、他者に任せたくない」
本当は違う、偽善的と嘲笑されるのが嫌、それだけだ。
結局手紙に使う事も無いので、去年の分も引き出しに入れたまま冷えている。
いっそ無償で誰かにあげてしまおうか、とも思ったが、人修羅に渡しても困惑するだけであろう。
『その用事に俺を待たせ、人修羅は擬態させ連れ歩くのか』
「すまぬ、しかし我が人修羅から眼を離した、と、何かあっては糾弾されるであろう」
『フン、最近理由探しに必死だな』
昔からだ。
『任務に支障を来す様であれば、人修羅とお前を共に居させる事は出来ん、分かっているだろうがな』
「承知している」
師の言葉のひとつひとつが重いのは、久しい感覚であった。
幼い頃、戦う事すらままならぬ我を叱咤する、あの頃の声とは少し違う色。
抉り込んでくる、心の臓に。
「今は、俺の勝手も有りますから、噛み付くなら俺にして下さい業斗さん」
隣を歩く人修羅が、淡々と零した。
『生憎、歯痒いと云う程でも無いのでな、貴様を噛む位なら畜生らしく小骨でも噛んでやるわ』
「そうですか…何なら炙って差し上げましょうか、俺、炙るのは得意ですから」
笑みもせずに返す人修羅の言葉に、どこかざわつく。
稀に見え隠れする好戦的な気配にさえ、惹かれているのだ、我は。
『おい雷堂、帝都人に噛み付かぬ様に見張っておけよ』
「…業斗、人として在りたい彼は、その様な不埒な真似はせぬ」
往路の着込んだ者達より、一枚足りぬ君はどこか浮く。
この雪の冷気を骨身まで許す事も無いのか、その悪魔の身体は。
「矢代君、平気か…?いくら君でも、首元が寒々しいぞ」
横に訊ね、己の首の巻物を外そうとすれば、細い手指がす、と咎めてくる。
「きっと結核にすらなりませんよ」
先刻の切手にそんな事を感じていたのだろうか…
返ってきた君の台詞に、どうしようもない気持ちが込み上げてくる。
これを憐れみや同情と喩えれば、君はきっと眉を顰めるのだろう。
「もう少し歩んだ先に店がある、其処で食事でもしようか」
業斗の溜息を無視した。
◇◆◇
錦糸玉子と青葉と湯葉で包まれた手鞠寿司。
漆塗りの椀には、芳しい汁物が湯気を立てている。
小鉢に根菜を蒸したものが、細かく色彩々に盛られ。
「俺、こんなに食えませんよ雷堂さん」
苦笑して云ったものの、しかし量は控えめな懐石だった。
「云うな、折角業斗も邪魔だて出来ぬ空間なのだ、ゆっくり食せば良い」
「今はっきり邪魔って云いましたよね」
確認すると、一瞬箸を止めて俺を見る片眼。
右側は相変わらず白いガーゼの眼帯が覆っている。
「さてな…最近は少々忘れ易くて困る」
濁したのが可笑しくて、また少し笑ってしまった。
「無理に食して欲しい訳では無い、こうして君と色々な風に過ごしたいだけだ」
向かいの席から真っ直ぐに云う雷堂、その意識だけは迷いが無くて、俺は少し戸惑う。
「それに、口から食むだけが食事の席の愉しみでは無いのだろう?」
「まあ、そうです……空気は大事だ。嫌な奴と一緒の席とかだと、飯も不味いですしね」
そう云う癖に、ライドウとの食事は不味かったか?
思い返して、何処かもやりと、まるで先刻見た空模様の様に曇る奥底。
「君が寒くないならば、少し開けようか」
突然雷堂は立ち上がり、障子に歩み寄ると、手を掛けた。
全てを開くのかと思ったが、半分から下だけがその指に引かれてするりと動いた。
「あっ」
「雪見障子だ、馴染みが無いか?」
「凄い…」
手入れされた庭園は、素人目に見ても綺麗なのだと実感する。
石の灯篭も、松も枯れ枝も、雪化粧。
一面白かと思えば、赤い冬椿が僅かちらりとこちらを覗いていた。
「静止している様だと思わぬか」
座布団に再び正座する雷堂が、ぽつりと零した。
「稀に雪が枝葉から落ちる音が響く、それだけなのだ」
「落ち着きますね、築土って結構賑やかだから、ここまで静かな店も珍しいかも」
「此処は冬が一番好きだ、君に見せたくて思わず連れて来てしまったのだ、すまぬ」
謝罪の割には浮き足立っているみたいな雷堂に、俺の曇りも少し霞む。
「俺の事はいいですから、雷堂さんしっかり食べて下さい…って、俺の金じゃないけど」
「我もそう多く摂取出来る訳では無いのでな」
「小食なんですね、それでよくあんな動ける…」
「胃が重くては何かと困る、それに任務の合間はまともに食事出来ぬ事が多い、少量で足りるならそれが良い」
「でもライドウの奴、凄い量食うんですよ」
また一瞬箸が止まり、汁物を仰ぐ雷堂。口許を見られたくないのだろうか…と、穿った考えをしてしまう。
俺も、これ以上ライドウの事を発するべきでないと悟り、同じ物をつついてみる。
椀を持たずに、中の具材を箸で掻き分け、物色する。
「あ、油揚げ」
意識せずに口から出た言葉に、自分でも嫌になってしまった。
「苦手か?」
「いえ、ちょっと」
何でもない、と返そうとした瞬間、障子の向こうから音が響いた。
二人して音の方に向けば、先刻の白い絵画と違う。
「間違い探しだな」
少し悪戯っぽく云う姿は、子供みたいだ。
「…あ、少し赤が増えてますね」
冬椿から雪が落ち、その真紅が鮮明に見える様になっていた。
「兎の眼の様だ」
そういう純粋めいたこの人の感想は、あの男の気障っぽさはあまり無い。
同じ十四代目葛葉ライドウと雷堂で、何故こうも空気が違うのか。
「そういえば兎と云えば、この雑煮の肉もそうだったが、平気か矢代君」
「えっ…」
「美味ではあるが、少し癖が有るから…その、君は舌があまり利かぬ今、恐らく風味で味わうだろうと思い」
「食べれない、って訳じゃないですが」
少し驚いた、流石に調理した事は無い。
薄く濁っているのは、醤油やみりん、椎茸や牛蒡の滲んだ色か。
合間にぷっかりと浮かぶ肉は、一見変哲も無く。
「兎肉って…雑煮にするんだ」
「徳川の家では、正月の定番だったそうだが」
「フランス料理のジビエみたいなものかな…野生のを狩猟するんですか?」
「いや、近年は兎の飼育が盛んらしくな…其処の、襟巻きもアンゴラ兎の毛で織られている」
「何か意外ですね…俺の時代だと基本的にペットだから、日本じゃ兎食べる事あまり無いと」
「軍需の為に多く入ってきたのでな」
綺麗な作法で食を進める雷堂を見つつ、兎肉を避けて適当に牛蒡を齧った。
風味に肉の癖は滲みていない様子で、少し安堵してこり、と歯を立てる。
「君の眼が真紅なれば、それこそ兎の様であろうな」
赤い眼…それを想像して、少し小袖を震わせてしまった。
ただでさえ金色が嫌なのに、それこそ真の…
「気に障ったなら、すまぬ…我は人を愉しませる術を知らぬ…こればかりは、修行でも磨けぬ」
「あ…いえ、雷堂さん、別に俺この身体を貴方の所為にしたい訳でも無い…そんな顔しないでいいです」
「どの様な顔だ」
「どの様なって…」
いざ聞かれたら、いつも満面の笑みをする雷堂でも無いだろ、と自分で首を捻ってしまった。
ライドウの、余裕に充ちた哂いとも違う、少し堅い表情…
普段からそうだと云ったら、更に落ち込むかもしれない。
「その、少し翳った表情…って云うんでしょうか…」
語彙が脆弱なので、適当な言葉も見つからずに答えた。
それ以上掘り下げられない様に、手鞠寿司に箸を伸ばす。
「ヤタガラスに与しているからとて、太陽が如く快活で居られる我ではないのだ」
金色の錦糸玉子の手鞠が、箸先から逃げて転がる。
雷堂の言葉に気が散って、上手く拾えない。
「何か、間違った事をしては居らぬか、云ってはないだろうか、そればかり気にしてしまう…」
「そういうのって、誰にでも」
「顕著であろう、君の労りの言葉が欲しいという感情すら有る」
薄く失笑して、茶をひと啜りした雷堂が、湯呑みで温まった指を少し翳す。
「まだ左の腕は痛むか?」
「ん、ぇ…まあ」
手鞠を口の中で解いて、嚥下する。
正しい栄養に変換されず、俺の中でただの生体エネルギーに替わるのだ。
俺なんて、身体の中から間違っているじゃないか。
「上手く食べれぬであろう…」
腰を上げて、すらりとした黒い学生服が、背後に着座する気配。
「何が食べたい」
何を意図しているのか、それとなく察知した途端、流石に恥ずかしくなる。
「右は普通に動かせます、左も添える程度には問題無いですから」
「少しは甘えてくれないだろうか…」
見返りを求められても、困る。
「結構です、病人でも無いですし…手を煩わせたくないか、ら――」
軽い圧、沢山の雪が両肩に積もった感触にも似てる。
背から肩の上を通過した腕が、俺から箸を奪う。
「熱い物は避けようか…確か君は猫舌だったからな」
「こ、子供じゃないんですから、食わされるのは勘弁して下さい」
「ふむ…これが風味豊かで美味だった」
「だからっ…雷堂さ――んぐ」
「柚子の効いた揚げ出し豆腐…もう冷めていたから、平気と思ったが」
咀嚼していると、実際感じる柚子の薫り。
「兎はな…ヤタガラスとは仲良く出来ぬ」
「どうして…です」
「赤茄子の関東煮、食感が少し面白かった」
次から次へと差し出されては、食べる他無い。
食べなければ時間が進まない気がした。
「太陽信仰…射日神話を知らぬか、矢代君」
「トマトおでんとか、すご………あ、はい…知らないです…アマテラスとかその辺ですか」
「オホヒルメノムチ…確かにヒルメ…日の巫女ではあるが、少し離れる」
先刻もつついた豆腐の柚子を、そっと箸の先で摘んでいる。
「柚子湯は好きか」
「す……まあ、嫌いじゃないです」
ライドウもそれを好きだったとか、云えるか。
同じ物を好きでいるのが、むず痒い。
「柚子湯に入るは、冬至において太陽の力が弱まるからだ、一陽来復…陰が極まり、陽に返る」
「冬至って、やっぱ何かしらあるんですね」
「そういえば君は、我の上の名を知っていたか」
小さく切られた柚子は自分の口に放り、次には南瓜の煮物を摘む箸。
「え、と…ひ…」
「“ひうが”だ」
「…なんか、名字も名前もお日様ですよね」
「おい君、我が能天気だと聞こえるぞ」
「あっ、そんなつもりじゃ」
箸が揺れて、肩に笑いが伝わってくる。
「いや、すまぬ…少し意地悪をしただけだ」
「あ、のですねえ、そもそもこの状態だって俺――んむ」
振り返る前に、南瓜で口封じされる。
「ヤタガラスは太陽の象徴…まさにうってつけだったのだ、ヤタガラスの一員に、な」
嬉しくなさそうな、口振りに一瞬聞こえた。
「増え過ぎた太陽を、打ち落とす話が射日神話だ」
「………はぁ、ちょっと、今の一口、大きかったんですが」
「む…我とした事が…失礼した、君の唇が小さい事を失念していた様だ」
その言葉に、よからぬ光景が連想されて、すぐに切り返す。
「ありがたい太陽でも、多過ぎると困るって事ですか」
「何事にも、統一には数多の象徴は不要という事であろう」
「ヤタガラスのサマナーとしての意見ですか」
「日本國を裏で支える機関…その一人として、そう教わってきた」
スラックスのポケットから取り出した薄い手巾で、雷堂が俺の口の端をそっと拭った。
その左手をやんわり押し返す…あまりに過保護で頬が熱くなる。
「弓神事にて執り行われる…太陽と月の的中ては、太陽にヤタガラスが描かれ、月に兎が描かれるのだ」
「ああ、だから仲良くなれない、って?」
「共に描かれる事は多くとも、重なり合う事は無いのであろうな…」
臙脂色の絨毯は、表の白を一層映えさせる。
薄暗い室内で、すぐ傍に金色を感じる。
貴方の虚に在る、俺のかつての眼だ。ガーゼ越しに、熱を持っているのが判る。
「月の的を残し、太陽の的を射落とす」
間近で見つめないで欲しい、首筋にかかる吐息が熱い。
「此の神話に見える国家統一の思想だ……想いを馳せる流れが幾重にも散るより、ひとつの奔流と成った方が強いであろう?」
「この国の為にいつも動いてるんですか」
「我の生きる意味は、今其処に殉じている」
「それじゃ、本当に傀儡だ」
ぼそりと零せば、次を選んでいた箸が虚空に留まる。
怒っただろうか、でも、何となく、咎めたい気分だった。
「そうだな、我はデビルサマナーと成った事を、間違いでは無かった、と思いたいだけなのやも知れぬ」
細かく刻まれた具材を胡瓜の舟から掃けると、それごと摘み上げる。
ぎょっとして腕を張れば、肩ごとぎゅう、と抱かれて阻まれた。
「ん、んんぅ、ぐ」
小さい唇だ、と云っていたその直後に、何をしているんだこの人は。
呼吸がままならずに、ずるずると、胡瓜が舌上を滑る。
出たり入ったり、器にされていた胡瓜だから、まるのまま。
「んぶ、ん、ん〜っ」
「ああ、やはり狭い、な…君の口は」
擬似的に耽っているのか、ひたりと密着する雷堂の下肢が、もぞりと俺の腰を押さえる。
違和感を感じる、銃のホルスターはそんな位置に無い。袴の臀部にぐにり、と。
「んっ、ん!!」
ぞくりとして思わず突っ撥ねると、更に抱かれ。
こういう時の力は迷い無く、ライドウと違ってMAGより欲が滲んでいる。
視界に映る、自分の口から抜かれる胡瓜がぬらぬらと唾液に光ってて、堪らず羞恥が歯を立てさせた。
ばり、と軽快な音を立てて、真っ二つに食い千切られたそれ。
「これは痛そうだな」
鼻で笑って、箸に残った側を自らばりりと食む雷堂。
俺は喉奥まで蹂躙していた異物を、自棄になって噛み砕いた。
「…げほっ……低俗です…っ」
「今の戯れは傀儡に出来ぬであろう?我の自我がさせた欲求だ、矢代君」
咽る俺の背を撫でさすり、笑みは謝罪めいて優しいのに声が少し嬉々としている。
「悪魔を駆ろうが、人を殺めようが、それが己に返る事は無かった…葛葉雷堂に返るのみで」
「食事、もういいですから」
「ああ…そうだな、今の君にとっての食事は、別であった」
「あっ」
唇が触れて、柚子の味がした。
じんわり、と流されるMAG。じっとり、確かめる様に舌が、唇から歯列を辿って上顎を這う。
戒める薫りは、白檀とは違う…若い竹林に似ている…甘さより、辛さが目立つ様な。
「ん…ぅ…」
今さっきの食物より、身体が明らかに歓喜する。
眼の奥がぽうっとして、本当の姿の片鱗が指先にチリ、と焦がす様に発露した。
(いけない、駄目だ、これで悦ぶのは、悪魔の証)
充分注がれたと思い、いよいよ恥が爆発しそうで、押し返そうと腕を動かす…と。
ばん、と襖の音。
「っ、ち、違います!!」
慌てて雷堂を突き飛ばして、開いた人物を見た。
料亭の個室に堂々と入ってくるなんて、店の人間かと思ったが。
「…子供?」
ぜえはあと息衝く俺を素通りして、男の子が…絨毯にのめる雷堂を見つめていた。
たた、と、その黒い足下に駆け寄り、ひしりと抱きつくなり。
「おとうさん!」
凍る空気。いや、俺が勝手に冷えただけなのかもしれない。
一瞬で色々駆け巡る、この子供の母親に刺されたらどうしよう、だとか。
「らい、雷堂さん…っ」
唇を咄嗟に手の甲で拭い、問い質す。
「ほう、座敷童子にしては重いな」
ぐ、と起き上がると同時に雷堂は、子供の両脇を手で支えて面と向かっていた。
「何云ってるんですか、貴方の子供って云ってますけど、その子」
「そんな訳なかろう矢代君、我は童貞だ」
「…そういう単語、真顔で云わないで下さい」
何故か俺が恥ずかしくて、少し乱れた着衣を整えつつ、子供を眺める。
迷子だろうか、どうして父親と間違える?
「君よ、何故我が父なのだ…母はこの店に居らぬのか?」
「いたけど、さっき知らない人たちといっしょに出てっちゃった」
「ほう、置いて行かれた、と?…しかし何故我が父なのだ?関連性が無いぞ」
「おとうさん」
ぎゅ、と抱きつくが、ホルスターの管の金属の冷ややかさに吃驚して、顔を離していた。
「君の父はこの様な装備はしておらぬだろう」
「でも天使様使うの」
そう答えて笑う子供に、俺も雷堂もビクリとした。
視えているのか…この少年。
「何処で見た」
「お店のお外で、天使様呼んでた」
確かに、ゴウトに一体付けた状態で、外を見張らせていた。
その際の召喚を見ていたのか。
「こんな小さい子が見えると、色々不都合無いんでしょうかね…子供の云う事だから、って済まされるのかな」
横目にしつつ云えば、雷堂の片眼が曇る。
「…この子の、母親とやらを、捜そう」
「えっ、雷堂さん自ら?駐在所の人に任せるとかすればどうでしょうか」
「いや……捜す」
思いつめた声に不安がってか、子供は少しぐずり出す。
雷堂の袖をぐいぐい引っ張って、しきりに“おとうさん”と囀った。
「天使を使うのが、君の父か?」
「天主様がおとうさんで、天使様たちをいっぱい連れてるの」
「カソリックか…」
小さなコートを「一寸失礼」と云い、少し探る雷堂。
その指先に、しゃらりと涼しい音が鳴る。無宗教の俺でもすぐ判った。
「十字架…」
「ロザリオ、だな……今日の日の礼拝は、もう行ったのか?クリスマスだろう…」
視線を落として訊ねる雷堂に、笑顔で頷く子供。
毛糸の手袋を繋ぐ紐が揺れた。
「天にましますわれらの父よ ねがわくはみ名を あがめさせたまえ」
「人の形の父は居らぬのか」
「おとうさん」
「…いや、我はな…君の父では無い、天使を使うが違う。君の讃える主では…父では無いのだ」
きっぱり云い切る雷堂が真剣な顔だったのか、潤んだ眼で見上げれば。
「いたい…ばりばりってされたの?」
顔の傷に恐ろしくなったのか、嗚咽を上げ始める。
小さく溜息して、子供の頭をおそるおそる撫でる雷堂。
「頼む…泣かないでくれ…我は子供の泣き声が、怖い」
俺だって、子供が得意では無いが、いたたまれなくなって援護に入る。
「おなか…空いてない?」
「パンとぶどう果汁飲んだよ」
「手、見てて」
両拳を差し出せば、じっ、と俺の両手を見てくる。
両方開いて、片手に乗せた小さな手鞠寿司を見せる。子供受けの良さそうな、色の華美な種類にした。
それをく、と再び拳にして、隠す。
自らの眼前に二、三回交差させ、ぱっ、と差し出す。
「どっちの手に入ってる?」
「んーんーっ……こっち!」
最初に見せた右の手を、指差してくる、まあ妥当な判断だ。
そっと右を開く。
「あ、入ってない!?じゃあ、こっち?」
「どうだろ、ほら…開くから、見てて」
左も開く。
あっ、と困惑の声を上げる子供の声を、上塗りして掻き消す悲鳴。
「入ってないだと!?」
「貴方が驚いてどうするんですか雷堂さん、食ったんですよ俺が」
振り返って、咀嚼物を嚥下する。
「顔の前で交差させてる時に、さりげなく口に放るんです」
「ほう、奇術か」
「いや、こんなの小学生だって出来るし……」
悪魔を召喚する雷堂の方が、よほど奇術めいてると思うが。
「やっぱりおとうさんのお供は魔法できるんだ!」
きゃっきゃとはしゃぐ子供を見て、何やら逆効果だった気がしてきた。
「天使様なの?人間に化けてるの?」
「…天使じゃ、ないけど」
「じゃあなあに?」
子供の悪意の無い質問ほど、性質の悪いものは無い。
引き攣った苦笑いの俺の傍、雷堂が指を伸ばす。小さな眼の端をそっと拭った。
「もう涙は乾いたか」
「うん!」
「泣いたまま雪の上に出ては、眼が開かなくなってしまうからな」
「キズ、いたくない?」
「ああ、もう大丈夫だ……昔の傷だからな」
頭の、柔らかそうな髪をひと撫でして、立ち上がると俺にこそりと語りかけてくる。
「外では、見せぬ様にしよう、我の悪魔も、君の本来の姿も」
「そうですね…でも、親を捜すにせよ、人手が多い方が良いんじゃないですか?」
瞬間、長い睫が伏せられる。俺を横目に、じっと見つめる。
「帝都人の“視える人間”は、我等が機関が把握している」
「把握して、管理でもしてるんですか」
「危険因子でなければ干渉はせぬが、この齢の子供が勧誘もされずに放置されている事実が、おかしいのだ。視える子供の噂はすぐにカラスが運んでくる…」
「勧誘…?」
「ヤタガラスは、才の見える童を放ってはおかぬ。巧く成長させれば、サマナーに成れるのだからな…」
つまり、この子供は、認知されずにいる。ヤタガラスに知れたら、一体どうなるんだ。
「母親と引き離される…とか、ですか」
「その可能性が高い、親が宗教家なら尚更、思想の隔たりが危険とみなされ引き離されるであろう」
「表から出て大丈夫でしょうか、業斗さんは何か云いますよね、絶対」
ふと、考え込む仕草。
間が開いてから、子供に云い聞かせる。
「良いか、此処より出てからは、我を父と呼ぶでないぞ」
「うん」
「天使が見えても、内緒だからな、良いな?」
「うん!」
「よし、善い子だ」
赤い手袋の片手が元気に上がった。
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