泥眼に遮眼帯(後編)
「何卒…」
額を床に擦る。深い木目の色が、視界一杯に広がった。
「何卒、御助勢願い奉る…」
一斉に視線が、僕を射る。
見える訳では無い、身に感じる。
(ああ、やはり同一体か)
雷堂と、同じ事をしている。
折った指を床に沿え、額を擦り、懇願の形を取っている。
「十四代目よ、同じ失態を犯すで無いぞ」
「飼い犬に逃げられるとは、滑稽…」
「これだから、縄で繋げとあれ程に云ったものを」
「十四代目…もう良い、上げ」
許しの言葉を投げられ、視線から、首、と徐々に上げる。
「では云うた通りに…人修羅は始末せず、捕獲しよう」
「有り難う御座います」
「ただし、極力、だぞ…暴走されては遅い」
「その際は、このライドウが、責任を以って殺めます故…」
ヤタガラスに、願ったのは人修羅の事。
アカラナ回廊から、あの平行世界に行けない為だ。
向こうから封しているのだろうが、そんな事は容易では無い。
(ルシファーに頼んだのか…あいつ)
ずっと、なのか定かでは無いが…僕を行かせぬ為か。
しかしそれでは、あの堕天使がつまらぬだろう。
きっと、封はすぐ解ける…
それまで、ヤタガラスの…サマナーの糸を張る。
多くの視線が、代償に僕を串刺しにした。
気持ちが良い訳無い。
しかし、こうして恥を晒してまで、声を大にして唱えなければ…
抜け駆けされる。
『お主、よくもまあ大衆の面前で頭が下げれたものだな』
「わざわざ云わないでくれますか?胸糞悪いですよ、正直ね」
表に出れば、ゴウトが感嘆の声を上げた。
こんな事で感動しないでくれ、とそのヒゲを一本引っ張る。
『ででっ!!八つ当たりは止めんか!!』
「…では、貴方ならどうします?」
指を離し、その猫面に問い掛ける。
「育成途中の、力を秘めた悪魔を野放しにして…」
『…』
「最期まで面倒を看たいのがサマナーでしょう」
『強い悪魔なら、尚の事…な』
「あれを野放しにしてみて下さい、それこそ敵は身内に在り、ですよ」
先に表へと出て行ったサマナー達が、遠方から此方を観察している。
「ほら、ね」
『…噂に聞く人修羅を管に納めんと、虎視眈々と狙うておるのか」
「抜け駆けしない様に公表したまでです」
『成る程』
ニヤリ、と猫笑いするゴウトに哂い返す。
「まあ、功刀が他に転がる様なら…人修羅の暴走と称し、そのサマナーごと屠りますがね」
『おいおい、問題を増やしてくれるな』
隠しもせずに、そう会話をして人並みを掻い潜り歩いてゆく。
様々な視線の雨が、外套を貫通してきた。
「十四代目…お噂はかねがね…」
すっと両端に寄り、浅く礼をする衆。
じっと、妬ましげに伏した視線を寄越す衆。
「迷惑を掛ける、申し訳無い」
そこへ形式に則った挨拶をすれば、いいえいいえと首を振る。
この内の何人が、僕を嗤って居ぬのだろうか?
「して十四代目、少々確認事が御座いまして…」
スーツ姿のサマナーが、一歩踏み出でる。
「何か」
「その…人修羅、なのですがね…もし、もしですよ?応戦する事になったとしますよ?したらば…何が効果的ですか?弱点は?」
その、如何にも…遇いたそうな彼に、僕は笑顔を作る。
「時と場合によりけり、かと」
「は、はあ…」
「ああ、あと破廉恥な行為には人一倍弱い」
「は、破廉恥…ですか?」
ぎょっとして、眉をひそませる。
きっと云っている意味が解せぬのだろう。
そのまま僕は通過し、背後に佇む衆に向かって振り向く。
「そうそう…襲い来る獲物は喰い千切れと教育してあるので…そのつもりで」
そう云えば、ざわつく一同。
堪えきれぬ笑みを口の端に滲ませて、僕はその場を去る。
『そんな教育しとらんだろうて』
ゴウトが呆れた声で僕に語りかける。
「舐められては腹が立つ」
『お主の事では無いだろう』
「それを使役している僕への評価に繋がりますから」
『お主の実力くらい皆知っておる』
それだからこそ、狡猾に、強かに振舞うのだ。
人修羅を使役し始めてから、申し込まれる決闘も増えた。
徹底的に、完膚なきまでに叩き潰してきてやった。
もう、人修羅なぞその頭から消せ。
これは…十四代目葛葉ライドウの悪魔ぞ、と。
「銀楼閣で待機します」
『お?意外と悠長だな』
「何の為に土下座したと思っているんです」
懐から太鼓を取り出し、ぱかりぱかりと打ち鳴らす。
天に煌く金色が、ぶわりと僕の下へ降りてきた。
『十四代目、お主の背後からの視線が痛いぞよ』
コウリュウに笑われる。
それはそうだ。何せあのコウリュウを移動手段に使うのだから。
彼等にとって、それを見せられるのは…癪なのだ。
「コウリュウ様、一杯に煌いて下さいませな」
『ははは!相変わらず意地の悪い小童め!』
その龍の笑いに、笑い返して跨る。
…そう、今は待つしか無い。
もし、あれが主を替えようとするのなら
僕を殺しにくる筈だ。
それを想像して、腹立たしさよりも先立つのは、興奮。
(それならそれで、構わない)
あの透明な感情を湛えた眼が…強く光り、ぶつけてくる殺意。
それを一身に浴びて…僕は綺麗に成るのだ。
纏わり付く余計な感情を棄て、彼とただ…命のやり取りをするのだ…
見えてきた銀楼閣を眼にし、密やかにほくそ笑んだ。
「あの、雷堂さん…本当に大丈夫ですか?」
「ヤタガラスから許されたのだ、問題は無い」
深めに帽子を被り、眼元を包帯で覆う書生。
異様なその成りが、周囲の好奇の眼を拾う。
「足下、気をつけてくださいね」
「君が引いてくれている、安心して歩ける…」
確かに、俺が手を引いて先導はしているが
視界が一切無い人を連れるなんて初めての事で、戸惑う。
その手から、体温が伝わる…
ああ、雷堂さん…まるで夢の中の人みたく儚げだったのに
こうして外を歩けば、現の住人になる。
一体、どっちなのだろう?
「カラスは…視えぬなら外界に出しても良いとの判断だろうて」
「俺がこの帝都で暴れたらどうするつもりです?」
そんな冗談を口にすれば、彼は口元で微笑む。
「君が我に優しくしてくれているのは、分かっている様だ」
「雷堂さんを餌にしてませんか?」
「君が喰らい付いてくれるなら本望だが」
「な…ちょっと、止めて下さい!そういう冗談…!」
微かに滲む、雷堂の暗い感情が発露する。
そんな瞬間、俺は恐い反面、とても不安になる…
この人を放っておいたら、どうなってしまうのか、と。
「あ、雷堂さん…落ち葉踏んでますから、気をつけて」
「落ち葉…どの木のだ?」
「モミジです」
「紅葉しているのだろうか?」
「はい、足元のは紅いですね」
「もう…そんな季節になったのか」
そう呟いた雷堂は、足先を滑らせて其れを確認したのか
葉の上から靴先を退けて踏み出す。
「君は、流石に雪の季節までには還るのだろう?」
「…まあ、多分ですけど」
「随分とあやふやだな」
「俺も、いつまでこうしているのか…正直迷っていますから」
「そうか…」
深く滴る言葉を吐くのに、この人は俺を咎めない。
指の隙間から零れ落ちた水で、己の脚が濡れても
そのままにしているかの様だった。
「寒くないですか?」
「大丈夫だ、君は…」
「あ、すいません…勝手に雷堂さんの着物借りました」
雷堂の箪笥の中は、ライドウのよりも更に渋い着物ばかりだった。
ライドウは、無頓着に見えて着道楽っぽかった。
あいつは俺に審美眼が無いとか抜かすけれど、少しは分かる。
正絹とか、大島紬とか…地味に見えて、高い…半端なく。
あいつの買い物に付き合ってれば、何が高いかなんて解ってくる。
「ライドウのより、着易くて好きです」
「ふ、安物だからな」
「あ!違います!そんな意味じゃ…」
俺が慌てて否定すれば、雷堂さんは可笑しそうに笑った。
「いや、すまぬ…君は正直で…可愛気が在るからつい」
「あの、嬉しくないですそれ」
「いや、本当にすまぬ、ふふ」
あれ?また俺は迷い込んでいる。
この人の心の中で…まるで見知らぬ町の路地裏みたいだ。
こうやって、普通の会話で和気藹々としていたかと思えば
行き止まりで絡め取られる。
(本当の雷堂さんの気持ちが、見えない)
暫く、手を引いて歩く。
この外出の目的地に向かって、紅い絨毯を歩き往く。
「あの…この建物…芝居小屋、ですか?」
云われた方にあるそれを見て、俺は背後の雷堂に聞く。
「そう見えるならそうだろう」
「答えになってませんよ、もう…」
「まあ、ふくれるな…能樂堂と表記が在る筈だ」
俺は別に、頬をふくらます様な幼い真似はしていないのだけど。
この人の脳内ではそんなイメージが展開されているのか?
少し恥ずかしい心地で、その入り口を探す。
「明!!」
突如叫ばれた声に、身体が止まった。
いや、正確には雷堂の手が、俺を止めた。
「其処に居るのは…間違いなく明だろう!?」
初老の男性が、呼ぶその名は…雷堂の真名だった筈。
「…小父様」
雷堂が、ぽつりと返す。
その声に、その男性は口元を押さえて寄って来た。
「おお…どうしたのだ、その眼元…そんなに任務が、過酷とは」
「…いいえ、俺の失態ですから、機関に非は無いです」
蚊帳の外の俺は、その二人の関係を勝手に推測する他無い。
(肉親…?居たのか?)
「君、明の御友人とお見受けするが…本日は遠路遥々有り難う」
と、その蚊帳から突如俺に向かって言葉が向けられた。
「いいえ、俺は大した事してやれて無いですから」
「いやいや、この子に友人が出来たのが…せめてもの救いだった」
その言葉の端々に、雷堂への情を感じる…
「有り難う、時間が許すなら是非公演も観てくれないかい?」
「え、でもお金とか…」
「要らぬよ…明も聴いていきなさい」
云われ、雷堂が少し握る手を強張らせた。
「小父様、俺はもう雷堂ですから…」
彼がそう、固く呟けば…小父様と呼ばれる男性は寂しそうに笑った。
「そうだったな…では雷堂よ、聴いていきなさい」
「はい」
その妙な空気に、俺は疑問符を浮かべたまま館内へと誘導されていった。
(参ったな、俺こういうのはサッパリだよ)
遠い席で、離れなので気兼ねなく観れる席だ。それに安堵する。
しかし…俺には到底分からない舞台の世界に困惑していた。
「矢代君…つまらぬか?」
傍で耳を澄ます雷堂が、俺の沈黙をそう受け取ったらしく聞いてきた。
「いや、圧巻ですけど…俺の感想といえば…高そうだなあ、とか」
「ふ、いや…分からぬならそう観て愉しめば良い」
呆れていないだろうか、俺の教養の無さに。
こんな時、もう少しこっちの方面にも知識が有ればと悔やむ。
「どの様な面を着けて舞っている?」
「えっと…なんか、白い、真っ白で、女性の顔?でも…恐い」
「…その能面、泥眼だろうか…聴いている限り曲は鉄輪あたりか」
「泥眼?そういう名前の面なんですか?」
俺の、もしかしたら超初歩的かもしれない問いに、雷堂は語る。
「怨みや嫉妬の情念を湛えた女性の面だ」
「恐いですね」
「白い肌は雲母の輝き…眼は金泥だ」
「えっ、金って純金!?」
「そうだ」
それに思わず溜息が出る、だって純金とか…あんな小物ひとつに。
貧乏性の俺は、ボルテクスで魔貨さえ出し渋っていたというのに。
「金色の眼は…人ならざるモノの証…」
それは、何に対して云っているのか…
雷堂が、遠くで暗闇の中照らされる舞台に耳を向けたまま
俺に語り続ける。
「少し昔話をして良いだろうか」
「え?あ、はい…」
舞台は聴かなくて良いのだろうか?と思いつつ、俺は既に聞きの体制だ。
「…我は、昔此処に居たのだ」
「此処に?え、この…一座に、って事ですか?」
「男が生まれなかった此処の宗家に、拾われた捨子だ」
そうだったのか…ヤタガラスに最初から居たのかと思っていた。
ライドウは、確か物心ついた頃にはヤタガラスに居たから。
てっきり同じだと、俺は決め付けていた。
ああ、だからこの人は常に姿勢が良いのか。とか妙な納得も在った。
「来る日も来る日も、稽古稽古で…正直逃げたい心も在った」
「雷堂さんもそんな事思うんですね」
「幼かったからな…しかし、いつだったか…我の異能を聞きつけたヤタガラスが来て、我を引き取った」
まるで第三者の様に語る口調は、もう彼が雷堂である事を証明していた。
「雷堂さんは此処に居たかったんですか?」
「…さあ、だが、常人には視えぬ悪魔が視えたのだ…ヤタガラスの説得に、小父様達は従う他無い」
「折角の跡継ぎを?」
「致し方無い、それに…後先を考えぬ我は、稽古三昧から解放されると寧ろ喜んでいた気すらする」
そう云って、軽く笑い顎に指を沿える。
「まあ、ヤタガラスに行けば結局修行の日々だったのだが」
「いやいや、笑い事じゃないですよ」
「もう、過ぎた…遠い日の事だ、もう舞台に立つ事も無い」
その、包帯の下の虚は何を見つめているのだろう。
照らされた遠い昔の舞台か?これから先の奈落の闇か?
「もう一度、来ておきたかった…」
そう呟いた雷堂は、俺の手を握り締めた。
「楽の世界も、ヤタガラスも閉鎖社会だ…我は、結局外には生きれぬ」
「雷堂さん、それは悲観的じゃないですか?」
「だが、今はもう良い…感情に汚染された我は、もう内の世界に居れば」
その指が、俺の指に絡まる。
「もう、帰ろうか…」
「え、舞台は良いんですか?あの人にも別れの挨拶とか…」
「良い、小父様が来る前に帰りたいのだ…そう、させてくれ」
その懇願に、俺は席を立った。
あの人も、いつでも帰れるように此処へ座らせてくれたのだろうか。
雷堂の、帰る場所は本当は存在していたのだ。
いや、もう帰れぬ、遠い世界の様だが。
それにせよ、ライドウが知ったら、きっと機嫌を悪くするだろうな…
あいつは、本当に帰る場所なんて無いんだもの。
俺と同じで。
雷堂の部屋へと帰り、俺は最近そうしている様に
彼の手を握ったまま布団の横に座る。
横になり、雷堂が寝息を立てるまでそうしている。
これで知ったのだが、この人…酷く寝つきが悪い。
不眠症の類だと思う。
実際、数日間寝なくても平気らしかった。
「そんなの身体に悪いですよ!夜は寝て、朝は起きて下さい」
俺がそう云えば、雷堂はこう返した。
「では、安眠の呪いとして君が手を繋いでいてくれ」
仕方ない、とか云いつつ、求められる安心感を俺も感じていた。
その温もりに囚われているのを、分かっている。
暗い、もう帳が落ちた頃なのに…射す光りは、月光だろうか。
遠くに虫の声がする、涼しい風が肌を撫ぜる。
こんなに近くに居るのに、雷堂と俺はあれから何も無かった。
いや、有っても困るのだけれど…
それはある意味、区切りが訪れない無限地獄の様でもあった。
と…指先に、ぴくりと動きを感じてそちらを見る。
「起きてますよね、雷堂さん…寝れないですか?」
「…」
「もう一度、お風呂とかゆっくり浸かったらどうです?」
「矢代君…日中…あの泥眼の話をしてから、君の眼が…気になる」
そう云い、絡めた指先をくい、と引き、俺を引き込んだ。
少しどきりとして、俺は思わず視線を逸らした。
「でも、雷堂さんには…もう視えない」
「だから、傍に感じたい」
「ほ、本当に雷堂さん…ちょっと、待って、待って下さいってば!」
嫌な予感に思わず引き剥がし、俺は動悸を抑えて制止する。
「あの…俺と、その…最終的にはどう在りたいんですか?」
「…」
「雷堂…さん?」
彼の指が、俺の指を引いて導く。
その…右の眼の虚の在る、包帯の上へと。
その、弾力も反発も無い空虚な感触に息を呑む。
「あ…ぁ」
彼が眼を抉るあの瞬間が、脳内にフラッシュバックする。
震え始めた俺の指先を、雷堂は指の腹で撫ぜた。
「どうして…この眼に君を宿してはいけなかったのだろうか…」
「俺、そ…そこまで」
「君の眼には、いつも…君の主が…形だけは、同じなのに」
「別に、あいつは…!」
「君が!」
指を撫ぜていたその行き先が、俺の腕を伝い首へ、項へ移る。
「君が…視るのは…明けた俺で無く…深き夜」
「…よ、夜…ライドウ、ですか」
「君は、夜と魂を契約しているから…明け方の光は受け付けぬか」
「…でも、俺はあいつを憎いです」
そう、苦々しく吐けば、雷堂がするりと右目の上を解く。
ゆっくりと、その虚の上の綿糸を剥がす…
暗い、闇がぽっかりと浮かぶ。
「外気に晒すの、良くないです…」
「見てくれ」
「…嫌、です…俺を…困らせないで」
「我が君を視れぬなら、君が我を視てくれ」
その、虚を見た俺は…身体の震えが止まらなかった。
もうひとつの眼も、晒されては堪らない。
そう思い、ただ震えていた。
「寒いか?」
「…恐い、です」
でも、俺もおかしい…その虚を見て、妙な感情が込み上げる。
俺を映さない眼なら…要らぬと云い切った彼が、恐くもあり…
俺の心を捕らえぬ筈無かった。
「矢代…俺の、好い人…」
そう唱え、項をやんわりと落とされる。
寄せられる唇に、俺はぼうっとして唇を捧げた。
何故、こんな自然にしているんだ。俺は…俺も壊れたのか?
眼の前にきた、その虚を見つめる…
暗い深い闇は、俺を見つめて離さない。
「ん…んふっ」
次第に欲を増す口付けに、俺は息を弾ませながら思った…
雷堂さんを、ひとりにしてはいけない
その彼の心の闇を、俺が埋めてやらねば破滅する…と…
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