初夢
「そら、其方に往ったぞ、功刀君」
ヨシツネの刀と、互い違いに斬り削いで舞う。
その、間隔を数拍ずらした厭らしい攻撃に、リリスが蛇を引っ込める。
「あんたで始末しろよ…!」
じわりと、嫌悪を滲ませた返答。
人修羅は視線を、そのチロチロと舌を踊らせる蛇に向けた。
うねる大蛇の隙間から零れた豊かな胸、一瞬それに頬を染めつつ、手を翳す。
恥らう頬の朱と、指先の朱が君を濡らし上げた。
続いて、その朱は外法の属を焼き尽くすのだ。
『ひゅう、やっぱし奴の焔おっかねえのよな』
黒く爛れ始めたリリスを眺めつつ、傍の烏帽子が苦そうに笑う。
「それ位しか特筆すべき攻撃法が無い」
哂って云ってみれば、リリスを乾いた眼で見下ろす人修羅が面を上げて見つめてくる。
彼の指先に燻る焔の様に、何かを云い掛けては微かに揺れ惑う、その視線。
『最近の旦那等、喧嘩ばっかじゃあねえのかい』
へらりと笑うヨシツネを、もうひと哂いして管に戻す。
一瞬震動を感じたその管の隣、それを空いた手指で撫ぜる。
「迎え入れよう、外法の淑女」
かつりかつりとヒールを鳴らして歩み寄れば、金色の視線で応える悪魔。
だが、その金の強さは、いつも見ているものより弱い。
『乱暴ね…』
「交渉した所で、誘いに乗る程軽い女性に見えなかったので」
『あら、評価高いのかしら?わたし…』
崩れた御髪を三本指で掻きあげて、やや辛そうに発する暗色の唇。
「ふ、それこそ蛇足だろう?」
見えない抵抗を許可と判断し、空管を振り翳した。
零れるMAGに、瞬間、癒しを感じて恍惚となるリリス。封じられて往く。
空気に融け込んだ蛍光色の揺らぎの向こう、今の悪魔より強い金色が射抜いてくる。
「交渉に応じなくても、欲しいものは奪う癖に」
細められるそれが、まるで晦の月を思わせる。
「ライドウ…」
その呼びは、誰を指しているのか、感じる度に痛い。
「文句するのかい?」
「文句の無い時なんか、無い」
外套を靡かせ、彼に寄り添う。
この上背と、ヒールの厚みで見下して、その睨み付けてくる顔を、掌で鳴らした。
上質の和堤が如き音、アカラナに響く。
「っ」
抑えた悲鳴が、やや遅れて囀る。美しく、輪唱する。
「そうやって、刃向かう悪魔が居るからこそ…だろう?功刀君?」
嗚呼、どうしてか、今となっては自然と出る、この仕打ち、言の葉。
瞑られた黄金の眼、それにやはり月を感じる。
そういえば、今宵は年の晦日…晦のそれに連想し、やや思いを馳せる。
「結局君は、年が明けても代わり映えも無さそうで」
皮肉めいた衣を着せた。だが、それの裸の声は…
君まで、変わらなくて良かった、という想い。
「あんたは…相変わらずの外道だったな」
「有難う」
「でも」
言いよどむ人修羅を見る、叩かれた頬の朱がまだ消えぬ顔。
それは少し、疑惑めいて。此方まで不安になる。
「…でも?」
「……いいや、別に…」
何処か、おかしかったろうか。
まだ、まだまだ足りぬのか?ライドウの…夜の成分が。
「さて、帰還しようか。リリスを業魔殿にて診せたいからね」
「で、新年早々扱き使う算段か?」
「即戦力に成り得るなら」
「鬼…」
侮蔑の眼差し…それに笑みで返す。
空虚とも云える空間、アカラナ自体に時の流れは無い。
掻い潜り戻る路、癖で、一瞬あちら側に往きそうになる。
だが、君がその一辺を通る瞬間、同じ様に心をざわめかせるを、知っている。
この肉体が感じ取る、サマナーと悪魔としての、MAGの糸が揺れるから。
「…雷堂さん」
君のほんの微かな、その呟きが琴線に触れる。
此処で修行ばかりしていた影は、もう居ない。
「その名前、紛らわしいから止めてくれ給え」
刀の鞘で、柄を傾けて叱咤する。
黒い斑紋の脛を打ち据えれば、眉を顰めて睨み上げてくる金。
その胸元、着物の袷から覗く銀色が、この眼に映るれば…滲み出る愉悦。
「此処で真面目に鍛錬してたんだ」
「知っているよ」
「あんたと違って」
「その割には、僕より弱かったねぇ、クス…」
キッと踵を返し、飛んできたその拳を、受け止め流す。
先刻打った脚を、この妙に長く感じる脚と絡ませ、閃かせた。
「うぐぁっ」
項の角が床を抉る。その脳髄に響きそうな衝撃に眼を剥く人修羅。
関節を捻り、そのまま床に押し倒しつつ…耳元で囁いてみた。
「もうアレは消えた、弱かったからだ」
「っ…ぐ…」
「惑わせた君とて同罪……だろう?」
震えている首筋の、薄っすらと隆起する骨を撫ぜる。
其処に零れ落ちる銀色を、指に拾い上げた。
「せいぜい、僕の支配下で贖い給えよ?人修羅?」
冷たい十字架。君の、温もりの薄い悪魔の肌で、更に冷えている。
しゃら、とその細い鎖を首に巻きつけ高笑い。
どうだろう、これで、間違い無いだろうか?
君の隣に居たサマナーは、こうだったろうか?
押し退けてくる君の手脚を、やんわり押さえつ思うのは、間違い探し。
「煩い……煩いっ!」
首の鎖を掻き毟って叫ぶ君に、問いたくても、問えない。
どかりと胎に膝を割り込ませてきたので、いい加減上から退いた。
肩で息するその姿に、加虐の心が萌え出す。
いいや、可笑しいだろう、こんなの…この肉体の、記憶だ。
我は、違う。
「仕事納めに、もうひとつくらいこなそうか?功刀君」
寧ろ動き回っていなければ、この衝動を抑えきれぬ。
嗚呼、本当は…ずっと傍で、抱き寄せたいのに。
優しい揺り篭に成りたいのに。
君に、正体を明かすなぞ…そんな事。
『全く…この一年近く、お主の動向には肝を冷やしたわ』
「でしょうね」
事務所のストーブが、じりじりとその黒猫の尾を炙っている。
見目は同一なのだが、やはり違う。
叱咤というよりかは…呆れ。
そして何より、放任気味であった、此方の童子。
ライドウが…恐らくこの猫をそうさせたのだろう。
我の様に、口を挟まれずとも、充分過ぎた十四代目…
『新たな年も、こうしてヤタガラスに居れる事を感謝しろよ』
「お叱りなら、もう随分受けましたし、良いでしょうに」
『そういう問題では無いわ!』
身代わりでも置いてあったのだろうか、里の座敷牢からいつの間にやら消えていたライドウ。
格子の中は蛻の殻。
この体に成った我は、怒れる烏の群れに飛び込む羽目になったのだ。
思い出すと、ぞわりと悪寒のする、おぞましい罰。
あんな仕打ち…我の機関では起こり得ぬ。
この肉を穿つ鞭は、人修羅の爪の痛みと全くの別物であった。
ライドウは…こんな物を、もうずっと受け入れて生きてきたのか。
そう思えば、負けれる筈も無く。
奥歯を喰い縛り、悲鳴を喉奥に押し込めた。
昔吐いた言葉を、脳裏に蘇らせる…
“なぁ紺野よ!!貴殿の背の何倍も、美味しかろう!?”
当然だ。
残酷な事をと、今更…胸が澱む。
しかも…鞭の後には……後には…
「ライドウ」
その飄々とした声音に、視線を猫から外した。
「顔色、悪くないかお前?大丈夫かぁ?」
椅子に座って書類を整える所長が、訝しげに我を見る。
「問題ありませんよ」
「年越しの瞬間くらいは仕事外せよ?」
「尽力します」
「また麻雀しようぜ麻雀!矢代君も入れてさあ〜」
快活に、しかし強制の意は含ませずに笑う鳴海所長。
我の見てきたあの人とは違う、その朗らかさに、最初は冷や汗が出そうだった。
「残念ながら、今年最後の依頼には続けて同行させますよ」
「ええっ、おい待てよ、矢代君には御節を作ってもらうという大任がだなあライドウ…」
「独り寂しく出前でも取って下さいな」
文句を垂れつつも笑顔の所長、その差し出してきた地図を受け取る際…
反射的に身構えてしまう。我の知る鳴海なれば、笑顔のまま攻撃してきそうで。
「最後だからって気ぃ抜くんじゃないぞ?」
「ええ…」
しかし、この鳴海は、笑顔のまま見送るのだ。
「おや、ゴウトちゃんは行かないのかにゃ〜?」
猫に猫撫で声をかけつつ、葉巻を指に踊らせる。
それをストーブの傍に見上げて、童子はフン、と鼻を鳴らした。
『人修羅が傍に居れば、ある意味安心だからな』
まるでその言葉は、ライドウを突き抜けて我を嗤っているかの様にすら聞こえる。
「あっはは、俺と年越ししてくれるのぉ?優しいなあもう」
『ほざけ』
ミャウと応え、そのまま丸まり猫玉になった。
軽く会釈して、受け取った地図を外套の衣嚢へと忍ばせる。
暖かな空気の事務所を抜け出でて、廊下の冷気を風切って進む。
この、階段を下るヒールの音にも、もう慣れた。
これでよく戦えるものだ、と、出逢った時から思っていたのだが。
案外、踵の厚みが有る方が楽だったりする事に気付く。
白く霜の羽衣を纏う、扉の硝子…その向こう側から、此方を窺い見る視線。
下り往く我に合わせて、その視線が下がってゆく。
小さな唇が、ぱくぱくと意を告げる。
“ お そ い ”
その無意識に心をくすぐる仕草が、辛い。
ゆるりと綻びそうになる口元を引き締めて、くい、と吊り上げた。
気付かれぬ様、深呼吸する。
我は、雷堂に非ず…葛葉ライドウ……紺野。
「寒いなら、擬態でも解いたらどうだい?」
開け放ち、まず第一声。
「嫌だ。そもそも、あんたがキレるだろ、そんな事したら」
着物の上に別珍のインバネス。
深い黒が…彼を包んでいる、所有者の色が滲んだそれ。
「今年で済ませれそうなものが矢張り有った、今から向かうよ」
「仕事熱心な事で…」
さらりと流す口調、その人修羅の冷たい視線に哂って返し、衣嚢をさぐる。
少し煙草の薫りが移ったその書類を広げる。
簡単な説明と、地図。
「……こ、此処、は」
紙の上に展開された場所を見るなり、眩暈がした。思わず声が…
「ライドウ…?」
いけない、動揺しては。
「…少し遠いね、まあ、歩きで行ける範囲ではあるが」
「コウリュウは?」
「上の方が寒いけど?」
「…だったな、遠慮しておく。擬態解いても寒い位だ」
「それに街中で降りれぬからね…年末に神が降臨したと勘違いされても困るだろう?」
襟を寄せ、白い息を吐く人修羅。
同じく、我の…この肉体の呼吸も白かった。
どれだけ冷たい君とて、胎内は熱いのだろうか…
その腕で包まれたなら、微かに温かなのだろうか…
抱擁、が、酷く遠い。
「そろそろ明けますよ、明」
「明ける、というのは、同じ字だなあ、いや〜目出度い目出度い」
囲炉裏を囲む、小父様と小母様…と、俺。
「こんなに遅くまで起きて良いのは、今宵だけですよ?」
ふわりと微笑む小母様は、そのまま初詣に行ける様に、薄化粧。
「ほら、寒いでしょうに…おいでなさいな」
寝着のままうつらうつらとしていた俺を、ぐい、と引っ張り寄せる。
おしろいの匂い…
「おれ、まだねむくないです」
「嘘仰いな、振り子になってたわよ?うふふ」
ぬくもり…
「もう今年の稽古は閉めたろう?拍子を踏む必要は無いぞ明」
かっかと笑いながら、小父様が火箸で朱を突く。
火箸でさくさくと、炭化した蒔を崩している、芳ばしい粉が舞う。
竹細工の支柱から吊るされる、鯛の横木がゆらゆら泳ぐ、灼熱の海。
「年賀の公演は、きっと上手く踊れるわ、毎日頑張っているものねえ?」
小母様の細長い指が、左の旋毛から髪を撫ぜ、我ながら癖の有るもみあげで遊ぶ。
それがくすぐったくて、でも嬉しくて。
「まだまだ、へたくそだから…です」
「もう、明ったら…稽古場でないのだから、もっと砕けなさいな」
棄てられていた俺を、拾い上げ、こんなにも情愛を注いでくれる二人。
幼くも感じていた、罪悪感…
何者かも解らぬ俺を、そのまま跡取りに、と…育てるこの一座の行方が怖い。
申し訳無さ…本当に、此処に居て良いのかという、不安。
「母と呼んで頂戴、明…」
穏やかな声音の後、くたり、と囲炉裏の煤が舞った。
轟々とした吐息が鎮まってゆく…火が、微かになれば、冷えが周囲から這い寄る。
「おれ、とってきます!」
柔らかな指先を押し返し、その膝から飛び立つ。
「明、外は今宵、雪模様よ…良いわ、私が行きましょうね」
「おば様は待ってて、雪見がてら行ってくるから」
半分はこじ付けだ。云い様の無い不安が急き立てる…この居場所から。
すれば、乾いた頬を撫でて、小父様が頷く。
「おい、明に行かせておやり、そういう好意は歓んで受けるべきだろう」
「ですが、寒いですよお前様」
「なぁに、すぐ裏手の納屋だ、風邪をこじらせる距離でも無かろうて、なあ明?」
こくこくと頷けば、小母様は眉を八の字にして、自らの羽織を寄越す。
お気に入りと思われる、花喰鳥の柄。
人肌のぬくもりを纏って、緩みそうな唇を噛み締めた。
「明や、外の白はあわゆきと違うからなぁ、食べん様にせんと」
「おじ様!」
腹からの笑い、まるで舞台上で鬼が笑うかの如く、快活に。
「そこまでお腹すいてないよ!おれっ」
思わず云い返す。確かに、あの頃からあわゆきが好きだった。
稽古の後、用意された御褒美…いつも甘やかな和菓子。
照れから憤慨しつつ、がらりと障子と襖を開き、続けて廊下を走る。
「おや、明坊」
「まだ夜明けは少しばかり早いでしょうに、くすくす」
使用人の笑いを潜り抜け、小母様の羽織をなびかせる。
爪皮の掛かった雪下駄に足袋の脚を突っかけ、ざりざりと門を開く。
吐く息の白さが、深夜の空気を感じさせる。
不思議と星も月も見えず、一面の白だけが、自ら発光でもするかの如く輝いていた。
納屋までの小路を、さくさくと踏めば、足跡という名の模様が出来上がる。
角型にぎゅう、と押されたその浅い壁面を見ると、脳裏を過ぎる…
白くて優しく甘い、ふわりと舌に溶ける菓子。
そんな夢想にはっとして、首を振るいそれを払い除ける。
ぎい、ぎい、と、やや大きめな納屋の木扉を開き、真っ暗な其処を覗く。
見えなくとも、位置は把握していた。横着して灯りすら持たずに来たのだ。
闇に、脚を踏み入れる。閉じ込められた冷気が埃と共に飛散する。
数歩、歩いた先で少し屈めば、指先に触れる香木の感触。
これが燃え朽ちる瞬間に、ふわりと薫るのが好きだった。
いくつか袖に携え、ふと思考する。あまり持っては羽織が汚れてしまうかと。
その瞬間だった。
頬に、微かに触れた何かを感じ、面だけ上げる。
白いそれが、雪かと思い見上げたのだが…
「…ぁ」
頭上、視線の先に窓なぞ無い。納屋の中、雪は降らぬ。
―――羽根。
白い羽根の舞う、向こう側に…
薄金色の、光る…相貌が。
『ミツケタ』
「ひっ」
はっきりと、あの瞬間、まみえたのだ。
「はっ、はっ…」
一片腕の中から転げ落ちた薪が、子気味良い音を立てて納屋の床を撥ねた。
「おば様っ!おじ様っ!」
表口から座敷まで、一気に駆け抜け、驚き此方を見た養父母。
「…ど、どうしたの明!?」
「泥棒でも居たのか?」
嗚呼、泣きそうになった、あの瞬間。
温かく、心配を見せてくれる二人と空間。
しかし、これを述べた俺は、なんと駄目な子だったろう。
「て、て…天使、が!」
視えぬものを、声高に叫ぶ。
「天使がいた!!しろい…羽根の…っ!」
皆に、視えぬものが視える、異端に成ったのだ。
貴方達の息子は、異端だ、と、証明したのだ。
「こんばんは」
外面は、殆ど同じか…その懐かしい屋敷を見て、記憶が脳内を巡る。
出てきた使用人が、此方を見る、あっ、という顔をした。
「鳴海探偵社の者です、話は通っているのでしょうか」
「ええ!はいはい!どうぞお上がり下さい」
「では失礼…」
門戸の注連飾りの、ゆずり葉が虚しい。
子宝には、やはり恵まれていないのだろうか。余計な思考がまた巡る。
幼い頃には鳴らなかった床板が、ぎぃぎぃと音を発する。
通された先、囲炉裏の隣の部屋…
見たい…が、見たくない。
「奥様、探偵さんが見えましたよ」
すす、と申し訳無さそうな音で開かれた障子。
唇を…叫びそうになる唇を、噛む。一息ついて、夜の仮面を纏う。
「鳴海探偵社の葛葉と申します、後ろのは手伝いです」
「…功刀です」
敷布団から上体を起こし、あの見覚えのある羽織を肩から垂らす女性。
少し喉を鳴らしてから、困った顔をして発する。
「御免なさいね…布団から、なんて…しかも、こんな日に」
「いえ、お気になさらず」
袷から覗く肌の、妙な白さは…悪魔の彼を思わせる。
「どうぞ、其処の座布団に下ろして頂戴な」
云われるまま、依頼主である女性を見つつ、膝を曲げた。
横に刀を置けば、女性が少し眼を剥いた。
「まあまあ…それは、小道具…では、無いですよね?」
「ええ、真剣です、物騒で申し訳ありません」
「いいえ、オッカルト…ですものね、外連じみた何かに巻き込まれたりするのでしょう」
「視えぬモノと対する事がありますからね」
「二人ともお若いのに…きっと苦労してるわねえ…」
そこまで云って、咳き込む。その背をさすってあげようと、手を伸ばした。
「待って頂戴」
と、それを制す細い指。血色が芳しくない。
「…触らぬ方が宜しいですよ…今、身重なの」
子、が。
「神聖な物とやり取りする身分なら…今の私に触れるは禁忌でしょう…ね?」
“小母様”の胎に、子が。
「そうでしたか……お気遣い、感謝…致します」
嗚呼、此方の世界では…子が、居るのか。
誰かを拾う事も無く、子宝が。
空白は、既に埋まっていたという事か。
「して、依頼の件、詳しくお聞かせ願えますか、御婦人」
まるで、意識を叛けるかの様に、問い詰める。
すれば女性は、伸ばしていた手指を喉に添えて、呟き始めた。
「新年の公演がありましてねえ…身内だけで行う、非公式のものよ」
「ええ」
知っている…
「数日前から、遠方の一門を呼んでいるの、中にはまだ幼い子も居ましてね」
少し微笑む、その笑み…我に与えられていた、その優しい…
「まだ小さいのに、舞が上手でね…って、話が逸れてしまったわねえ」
「いいえ、周辺が見えた方が都合が良いですから」
「そう?それでね…その子の衣を…干しておいたら…」
「それに血が付着していた、と?」
「そうなの…連日よ?見張っていても、何かの拍子に、一瞬で」
また、咳き込む彼女。隣の人修羅が、本当に大丈夫なのかと、気配も漫ろだ。
「…っ……御免なさいね度々。他にも、ね…どうも私、憑かれてる気がしてしょうがないの」
「心当たりは?」
「人様の怨みなんて…聖人君子で無いにしても、買う覚えは…」
その不安気な枕許…ちらりと見えた、札を見て…察した。
「少し、見て回りたいのですが、宜しいでしょうか」
「ええ、屋敷の者には先刻の者が通達した筈だから、好きに見て下さいね」
「大晦日に外部の人間が居て、大丈夫なのですか?」
羽織の鳥が舞う。くすりと微笑んだ貴女は、昔見た記憶のままだった。
「私からしたら貴方達も子供と差し支えない齢よ、もう少し砕けなさいな」
無理だ、そんな事…今だって、仮面を着けて舞っているのだから…
「明、今日はこれを扇に付けて舞いなさい」
手渡された、綺麗な房飾り。
掌でさらりと広がるそれは、不思議な色合いをしていた。
「父様が、貴方にと作らせた特注の物ですよ明」
「おれに…」
「草木染めの結び房…貴方に人縁が、これからもありますように、ね」
舞の狩衣をそっと押す、小母様の手。
「結びがあるように、ね……今年も宜しくね、可愛い私の…息子」
灯篭揺らめく舞台。
席には、遠くから来た、一門衆。
馬の骨、と笑われてはならぬ。
舞え、俺がたとえ誰の子だろうと…此処で失敗する訳には…
笛が啼く、舞囃子の中、本当の子と成る。
そう…いつも通り、今まで通り、やれば良い。
摺り足、そして、右の脚を打ちつけ拍子を取る、面を上げ…
「っ」
上げた、先に見えた。
客席の中、ほくそ笑む…白い翼の…
「にげて!!」
舞囃子は不協和音。乱れた笛と太鼓の中、俺の声が喚きたてる。
「ねえ!そこにいる!!そこにいるからっ!」
扇で指し示した先、疾風を巻き上げ天使は去った。
荒れた公堂、虚空に叫んで舞台を台無しにした俺だけが……異端だった。
「お前様!本気ですか!?あの子は私達が拾ったのですよ!?」
「天主教会の神父に…と云うお前こそ、冷静になれ!奉られるだけだぞ?天使が見える等と云っては」
―――やめて…
「だからとて、急に来た機関に引き渡すのですか…」
「視えぬモノを使役するそうだ…此処の環境より…理解が有る、だろうに」
―――やめて、おれでケンカしないで。
「此処の…本家筋は、どうなるのですか」
「…あの子とて、本来は他人様の子…自分達が勝手に路を決めるべきでない」
「明に、決めさせましょう」
盗み聞き…して、狸寝入りして、布団の中で丸まっていた。
その翌日…黒い装束と、黒猫が、黒い車で来た。
「明…っ」
泣いている小母様の顔を、今でも忘れない。
どうして、あの時、俺はあの家を離れる選択をしたのか…
あの時の俺を、叱咤したいが、理解してやりたくも、ある。
車の中、夕刻の陽が窓から射しこんでいた。
『おい、いつまでもぐずっておるでない、小童』
猫が、喋った。
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