その春寒の円舞曲
※徒花SS『蝕甚』まで⇒SS『自虐宿命論』を読了している事をお奨め致します。
「産医師異国に向かう産後厄なく産婦みやしろに虫散々闇に鳴く」
つらつらと背後から、述べる言葉の意味は無い。
そう、意味は無いが、役割ならば在る。
「3.141592653589793238462643383279…」
「そう、それで既に三十桁は記憶出来る」
暗記の術を、まるで言挙げの如く唱える学友達。
「産医師異国に向こう産後厄なく産婦宮代に虫散々闇に鳴くこれに母養育ない」
「四十桁!」
静かに盛り上がる場を背に、先刻筆記したノォトを見た。
ただの公式が、整然と並んでいる。
これ等が将来の何に役立つかなぞ、考えずに筆記していた。
教師は、我を指さぬ。学友達は、きっと疎んでいるだろう。
いつでも、此処の学校の教員は…我の味方だから。
我の機嫌を窺いたてるのだ。
「葛葉さん、葛葉さんは何処まで云えるの、円周率」
桜舞う窓を、肱すら机に置かず、ただ眺めていた。
背後からの問いかけを、無視するつもりは無い…ただ、虚しいだけだ。
きっと久しく見た人間に、興味を隠せぬだけであろう。
それとも、教師の代わりに裁定するつもりだろうか。
カラスの一羽となっている学校の意味を、知っているのだろうか。
結局我は、嘲弄の対象でしか無いのだ。
「…別に教員達に依頼した覚えは無い」
振り向かずに答えれば、一瞬の間の後に…くすくすと。
「だってえ、ねえ、葛葉さんはずるいもの」
小柄な生徒が、からからと無邪気に吐く。
「先刻の授業でも指定されなかったでしょう、羨ましい」
「そうさね、試験も免除で」
追従する周りの御学友。我に笑顔のまま、皆が揃って向けてくる…詮索。
お前は、何者なのだ…何様なのだ…と、庇護される我を憎悪する眼。
(嗚呼、もう良いわ)
学年も変わり、いよいよもって我の居場所は消えていた。
立ち上がれば、それに伴い椅子が後ろへ追いやられ悲鳴する。
まだ汚れてすらおらぬ学生鞄を肩に掛ければ、声を再度掛けられる。
「まさか葛葉さん、3.14としか分からんのです?」
揶揄う声音すら、舞台の下から聴こえる観客の失笑に思えた。
己から遠い、切り離された学生という客層に、お望みの台詞をくれてやろうか。
すぅ、と息を吸い、詠唱の如く一息に…
「3.1415926535897932384626433832795028841971693――」
「え…っ」
「9937510582097494459230781640628620899――」
ぽかんと口を開いたままの聴衆に、一旦止めて訊ねる。
「――なあ、何処まで言挙げれば良いのだ?」
「あ、いや…その」
「きっと貴殿等の時間を無為に過ごさせるだけであろうが、終いにするぞ」
それを別れの挨拶として、教室を出た。
瞬間すれ違った教員は、小さく我に会釈する。
畏敬か畏怖か…成程、よく飼い慣らされておる。
此処でも、我は日向にはなれなかった。ただの、十四代目葛葉雷堂。
(早く業斗に会いたい)
嗤われても、叱咤でも構わなかった。
昔からの己を知る師に、述べて納得したかった。
こんな茶番劇、演技すら出来ぬ学校…やはり、我には不要である、と。
鞄から、教本を取り出し、机に並べてみた。
一見、書生の机だ。
(机上の空論…)
そんな言葉が浮かんで消えた。
嗚呼、全てが嘘臭い。
小耳に挟んで、咄嗟に筆記した語呂合わせを、改めて見る。
まだまだ埋まっておらぬノォトは、教科別に分けてすらいなかった。
「“憎く・鳴く・児死・虚覇…光速に越えるは人の意味だ”」
高速度
「“ニヤニヤ呼ぶな”」
八の平方根
(…語呂を合わせる方が、混乱するではないか)
それとも、これが一般的学生の遊び方なのだろうか。
これなら、数字をそのまま脳内に叩き込んだ方が早いだろうて、なんと回りくどい。
眠れぬなら、と、羊の代わりに数えて幾年…最早円周率なぞ呼気が如く吐ける。
結局、懐中時計の秒針が一番心地好かった。
《直径に対する円周の長さの比》は算出出来て、我を寝かせる事は出来ぬのか。
円周率は、やはり役立たずだ。
首を傾げて、鞄を机の端に退けた。窓の外の陽気が、陽射しより感じられる。
日焼けしている乾いた机。此処はただの休憩地点であり、勉学する場所では無い。
申し訳程度に置いた荷物は、未だに部屋の隅に放置されていた。
今日、ヤタガラスよりの勅命が今は無い、此処で待機せよとの事である。
(…暇だ)
肝心の、仕事を取ってくる彼が居らぬ。勉学も飽いた。
我は、別世界のライドウの様に…暇潰しの方法を知らぬ…
いや、有る。やりたい事は、有るのだが…しかし周囲の眼が怖い。
我が師は云う、舞うな歌うな、と。
夕暮れ時、桜の桃も黄丹に染まっている街路。
窓から見下ろすその帝都を…背景に…その美しい都を背景に。
(何と好い舞台背景だろうか)
少し位なら、誰も見ておらぬなら良いだろう…
刀も管も、何も持たず、外套も羽織らず屋上に向かう。
銀楼閣で、唯一好きな場所だった。そう、唯一。
他の空間は、狭い。あの人との距離感に胸を圧迫されてしまうからだ。
(甘風の匂い、冬の雪の匂いが失せたな)
風も穏やかなのか、屋上扉は容易に開いた。
温い春風、緩やかに収まる喧騒、夕餉の時刻。
どんなに詰られようと、殺めようと、此処から眺める景色に心は答えを出してくれる。
指先に絡む糸は、大太刀を振るわせ、管を翳させるが…
それによって、この景色は描かれているのだ、そうだ、そうに違いやしまい。
繰り糸に動く人形とて、それに存在を見出せるであろう。
ぐ、とひとつ伸びをして、学帽を被り直した。
業斗も居らぬ、カラスの眼も無い。
学校で教わる知識の、向上は求めぬ…もっと、もっと我が知りたいのは――
脳裏に描く、いつぞやの紙面で見た帝國ホテル…鹿鳴館…十二階…花月園。
技芸の国境を踏越えて、思考は遥か彼方へと舞い始めた。
《春の声》《美しく青きドナウ》
円舞曲の韻、独特の足取り、舞台の空気はどう違うのだろうか。
僅かな知識を頼りに靴を滑らせる。板間を縫う摺り足とも違う。
嗚呼、日本國を抜け出す非国民だろうか、いや、これは純粋な嗜好であり思考で。
舞う瞬間だけは、手脚の糸が切れる錯覚に酔うのだ。
我は……舞うのが、矢張り…好きだ…
円舞曲…ウィンナーワルツ。相手も居らぬのに、くるくると踵を鳴らして。
たった独りの舞踏をする。守護せし見下ろす帝都は、孔雀の間より立派だろう?
こういった舞いの類では、あのライドウの高い踵が良さそうだ。
ふと思い、留め拍子。
我の育った舞台小屋での癖が抜けきらぬ円舞曲は、きっと紛い物だろう…
と、床から視線を上げた、その先。
軽快に揺らしていた脚は、びくりと引き攣った。
「御機嫌だねえ雷堂」
脚がそのまま体を支える事を、忘れそうになる。
声に弾かれた意識が、咄嗟に云い訳を探し出した。
「す、まぬ、その…春先に、頭が浮かれていた様だ…」
羞恥と同時に、恐怖が舞い降りる。
どんな言葉を投げられるだろうか。
笑顔のまま“踊る暇があるのなら、少しは鍛錬でもすればどう”と聞かれるか?
最早諦めて待ち構えれば、直ぐ眼の前に来た影。
胸に迫る圧迫感が最高湖になった瞬間、突如腕を取られる。
「硬いね〜…社交界に出るにゃ、ちと無理があるな」
「なっ、ぁ」
「自分本意に動くとさ、ほら見ろ」
違う、逃げようとしたのだ。
鳴海はこれをステップと勘違いしたのだろうか。見事絡まり縺れた。
その失態に、更なる冷や汗を感じながら、視線をつばの下から覗かせてみれば…
どこか慣れた手付きで我の肩を抱く。
「待て、待ってくれ…所長!」
鼓動が思考についてゆけぬ。
しかし、動きを合わせねば足を踏んでしまう。
それすら恐怖で、思わず合わせる。慣れないそのやり取り。
大太刀で、ぶつけ打ち付け押して砕いてきた立ち合いと全く違う。
引けば来る、くるくる回って、逃げ場も無い、心も凍る円舞曲。
直接的な暴力は無いと、解っていても…触れられた其処から我を壊死させそうな…
「何処で覚えた?」
「い、依頼先で見たことがある、それだけだ」
「見ただけ?」
「教わる筈も無かろうて、所長」
「そりゃそうか、悪魔としか社交性持てないもんなお前」
と、ぴたりと止まる脚。笑顔の仮面を被った鳴海が黙った挙句…
困惑する我を見下ろし、口調だけでは無邪気に云った。
「明日から月も替わるし、請け負う範囲を広げたよ」
「そうか」
「忙しくなるだろうなあ、生傷増えるだろうなあ」
「構わぬ」
その方が、何も考えずに済むから助かる。
刀を止めた瞬間に滴る雫の音で我に返ってしまうから。
無我夢中で、忘我のままに振り乱したい。
「なあ、明日遊びに往こうかー雷堂」
「は、っ…?」
「何、俺の云う事聞けない?」
突然の確認は、まるでデビルサマナーが悪魔へとする命に近い。
断れば、不利益な何かが生じると解っている…うかつに拒絶出来る筈も無い。
仕方無いので、重く頸を縦に振った。
「そっか、じゃあ決まりぃ、明日の支度しよっかあ」
はは、と笑って、ようやく我の肩から腕を退けた。
ふわりとコロンと葉巻の香りが、抜け往く。
心臓が螺子巻きされ、ようやっと秒針を刻み始めた心地だった。
「旅のつばくろ淋しかないか」
葉巻を銜えて器用に口ずさむ歌謡曲。
握るハンドルに迷いは無い。運転の技術なぞ知らぬので、思わず眼は其処に往く。
まさか心中でもされやしまいか、と、不安は暗い坂道を転がり下るばかりだ。
「おれもさみしいサーカスぐらし」
車窓からの景色に、人影が増え始めて戸惑う。息苦しい。
「とんぼがえりで今年もくれて 知らぬ他国の花を見た…っと」
一般客とは違う場所を赦されているのか、余裕で自動車を停めれた様子。
灰皿に残り滓を押し付けて、フロントミラーにて軽く帽子を直す鳴海。
今日は茶系統のスーツだった。銀糸を織り込んだネクタイ。タイピンは大人しい形。
運転席から彼は降りたが、我は動けなかった。
良しと云われるまで、怖くて動けぬ。勝手に動いた際の嫌味の方が強いから。
「ほら、お降りなさいな御嬢様」
云われ、しぶしぶと、しかし断れもせずに開かれた扉から地に降りた。
薄縹の裾が揺れ、柑子の甘酸っぱい色羽織りが腕先にて零れる。
我は、女性の着物を着せられていた。
「…物好きと見られよう、所長…っ」
「そうでもないかなぁ、女形やっても違和感無いと思うけど〜」
そうだな、いつかはやっていたかも知れぬな。ヤタガラスに拾われなければ。
そう思い、やはり心は抉れたのだった。
「この様な上背の女子、居らぬだろう」
「俺のが背高いから問題ないだろうよ、存外悪く無いな」
いつもと変わらぬ能面の笑顔の下、その語調が妙に優しくて…
こんな格好を命じられたというに、我は追従して俯いた。
この人に褒められたのは、初めてだった気がする。
「ほら、足捌きも綺麗、処理した甲斐があったろ」
前方の鳴海に云われ、昨夜を思い起こす…と、やはりぞわりとしたが。
女物の着物を着てよ
薄い紅差してよ
指先の爪も整えて
ほら脚出せ
するするすると、元々薄い産毛を剃られる。
舞台化粧の乗りを良くする為、とでも思えば耐え得るか…?いや、違うだろう。
鳴海が我の脚に滑走させる剃刀が、いつ肌を切り裂かぬかと、やはり怯えていた。
ただ、命じられるまま、管を傍に置く事も赦されず…
学生服の詰襟を開き、するすると全て取り払った。眼の前で。恥は恐怖に上塗りされていた。
顔は傷物だけど身体はまあまあ無傷なんだな、とかを云われた気がする。
風呂でも無いのに泡を脚に纏わせ、あまりに破廉恥な姿のままソファに座らされ。
“所長…っ 其処は 関係無かろうて…!”
“え、何か云った雷堂?”
思わず悲鳴したが、笑いながら剃られた。
脛のみならず、局部の茂みまで。
下手に動けば去勢されかねぬ、その範囲の刃の往き来ほど恐ろしいものは無い。
“…っ、く…”
“あはは、お前本当に感情狂ってるなあ〜如何してこうされて反応してんの…?”
違う、恐怖と緊張状態に、強張っていた、それだけだ…と思う。
嗚呼、何と不毛な行為だろう、いや実際不毛となったのだが。
滑らか過ぎる下肢は、とてつも無い違和感であった。
「どうした雷堂、下が寒い?」
変にニヤつく訳でも無く、いつもの笑顔で振り向いた鳴海。
昨夜の記憶は、脚を見る度蘇る。
「ち、違う」
「この辺りまでさぁ、遠いかもしれないけど、今度から赴いてくれよ」
「…下見ならば、今日この格好で我が来る必要性はあったのか?」
「だからあ、今日は遊びに来たって云ったろ俺」
人混みに近付くと、じろじろと見られている気がして気もそぞろ。
自然と背を丸め、俯き加減になる。肩幅を寄せ、歩き方が…語調まで弱くなる。
「な、なあ所長、遊ぶというのは、ヤタガラスの命か」
「ぶっ、馬鹿だな〜…んな訳無いだろ、遊びって命令でするもんだと思ってるのかお前」
「何故この様な――」
人がようやく掃けた。その先に見えた鳥瞰図の上に、輝く文字。
《 花 月 園 》
此処で所長と何をすれば良いのだ。
まさかの遊園地であるぞ。小父様や小母様とも来た事は無い。
学帽の要領で、帽子のつばを上げ、案内を見た。
(何だこのやわこい、それでいて風に舞いそうな帽子は)
釣鐘型の帽子、淡い色のリボンが巻かれているのが一層こざかしい。
薄い羊毛の感触。指先で上げつつ視線を配せば鳴海が笑う。
「ダンスホールも在るけど?踊ってくか?何ならブランコも在るけど」
「我を幾つとお思いか」
「ルナパークが良かった?ああ、でもあそこは遠いからなあ、お前の守備範囲でないし?」
ルナパーク、とやらは…関西の方の遊戯園だったろうか、確か。
「ビリケン様に仕事の祈願でもしたらどうだ?」
鳴海が小馬鹿にした様に、見下ろしてくる。
その発言自体が揶揄っている。関東の無事を関西に祈れと?
「そもそもビリケン様とは何なのだ?どの属なのだ、怪しい事この上無い」
吐き捨てて、履いている草履の爪先を見た。踵は少しはみ出ている。
「東洋でも西洋でも非ず、その様な偶像に祈るは、サマナーとして道理が通らぬ」
「属?風俗じゃあないの?」
「鳴海所長…我は、この様な事をしている暇が有るのなら…」
周囲に人が居ないのを確認し、少し声を大きくした。
「少しでも鍛錬し、貴殿の手を煩わせぬ様に大成したいのだ」
もっともらしい事を云う。さすれば、機嫌を損ねて帰ると…思った。
詰られても、もうそれが早いと思ったからだ。
「ビリケン様も知らないのかーお前って…」
「帝都守護には不要な知識だ」
「…本当、お前ってさあ…」
笑顔が一瞬蔭った気がするが、直ぐにいつもの所長になった。
「やっぱ藍色似合うんだな〜」
ぐい、と袖ごと腕を引かれる。慣れぬ草履で足は小走り。
「所長」
落ちぬ様に帽子を押さえた。せめて、と帯に挟んだ管が零れぬかヒヤリとする。
「何も知らないんだな〜かわいそ〜にねえ」
可哀想?我が?
所長の好き女性を殺した我が?
「な、今日はとことん遊ばない?」
めくるめく景色、その極彩に既に色酔いすら起こしそうだ。
ヒル・ウエイターに運ばれ、横に流れる景色に違和感を感じつつ…
子供を連れた客にばかり眼が向かってしまう。
「何見てんの〜」
「…いや」
「あ〜!メリーゴーランド?」
ぎょっとして確認すれば、確かに追っていた視線はメリーゴーランドに寄る親子へと。
慌てて左右に頸を振り否定した。
「まさか、そんな訳あるまい」
「乗れよ」
そのたった一言で、丸まった背筋はびしりと鞭打たれる。
怒った顔ですら無いのに、永遠に怯えるのだろうか。
「一緒に乗ってやろうか?乗り方も知らないもんなあ雷堂は」
「い、いい、遠慮する、それならば一人で構わぬ」
「いーの?しっかり乗れる?」
「乗れると云っているであろう!」
いつのまにか降りたヒル・ウエイター。やり取りでも聞かれていたか、傍を通った男女が笑った。
堪らぬ、一体何をさせたいのだ、所長。
(女装させ、辱めたいのか)
先導され、項垂れるまま馬に跨る。
流鏑馬ならば得意だった、銃より矢を射る方が確実だったから。
しかし、この馬は上から下から繋がれ、脚を動かす事も無い、偶像だ。
艶やかな鬣はセルロイドだろうか。
馬で駆ける悪魔にでも見られては、失笑されよう。
ぎいぎいと不安になる音を奏でながら、回転する木馬達。
装飾のエンゼルが、管の悪魔にすら見えてきた。
「あき〜っ」
一瞬、誰を呼んでいるのか認めたくなかったが、視線が絡んで確信する。
動く被写体相手ではぶれるだろうに、セコハンカメラを手にした鳴海がそれを向けた。
思わず振りかぶって、馬の頸にしがみ付けば、春先のセルロイドは冷たかった。
(何故、何故此処でその名で呼ぶ)
知らぬとは思っておらぬ、ヤタガラスは我の事を伝えている筈。
しかし、未だに呼ばれた事も無かったのだ。
走っているのは馬なのに、ましてや無機物というに。
何故我が、こうも慟哭す?
「どうした、そんなに怖かった?しがみ付いちゃって、情けないなあお前」
声をかけられて、回転が既に終わっている事にようやく気付いた。
じっ、と羽織り袖の隙間から窺えば、いつもの笑い。
「違う…童が如くはしゃげる訳、あるか…っ」
「まだ学生なんだから良いじゃない」
いつもは、其処から突き崩して詰る癖に…我を嗤う癖に。
「葵鳥さんにも見せようか?この写真」
「何を云ってるんだ所長!もういい加減――」
と、声を荒げた我を振り返る人間達。
違和感だろう、我の声はそう高くないのだから、当然だ。
馬から飛び降り、草履の不安定な接地にぐらりとする。
「あっはは、じゃじゃ馬娘だね〜」
笑う鳴海は、我の袖を引く。
「ほらほら、まだ此処広いんだぜ?」
「待ってくれ、所長!」
何かがあるのだろうか、依頼が実は控えている、だとか。
此処の客を襲う怪奇があるから、客を装う…だとか。
少し歩調が落ち着いたところで、気を巡らせてみた…が…聴こえぬ、視えぬ。
悪魔の気配は、とりあえず無い。
聴こえ来るのは、子のはしゃぎ声と、レェルを滑走する車輪の音。
(嗚呼、落ち着かぬ)
こんなにも賑やかな場において、我は実に無力であった。
管の下方、帯の下へと挟んだ懐中時計の秒針すら感じられぬ。
しっかりと鎖の先を帯揚げへと絡ませてあるので、落とす心配は無い。
万が一、管が落ちても…これさえ残っていてくれたのなら…
「おい、お前の番だけど雷堂?」
「…何!?――」
「大山すべり」
いつの間にか背後に居た鳴海に、とん、と腰骨を突かれた。
前方には、降下用と思われる斜面が、延々と続いている。
「ぐ!!…ッ」
「ほらほら〜しっかり押さえないと!見えるぞ!」
「何が!しょ、所長!!ひぃッ!!」
隣接するコースにて、笑顔で滑り降りる子供がおかしいだろう。
思うより速い上、下手に動けば吹っ飛ぶこの構造、危険極まりない。
裾の乱れを懸命に押さえたが、脚は露出し続ける。
しかも臀部の痛みが半端では無い。むき出しの路面だ、せめてソリくらい用意しろ。
(何か、有翼の悪魔を――)
伸ばした指は、管を撫でるだけに終わった。
そう、此処は戦場でも異界でも無いのだ。一般市民の遊ぶ娯楽園なのだ。
我が浮いた様に見えては、困るだろう、問題だ、ヤタガラスに迷惑が行く。
「……く」
擦れた臀部を持ち上げれず、しばし放心して裾だけ直した。
「もっかいやる〜!」
隣の子供は、そんな恐ろしい言葉を無邪気に放って、丘に向かった。
その後姿を見れば、幾度も滑ったのだろうか。擦れて色褪せた下穿きが見えた。
そうだ、そもそも着物でやる遊具では無かろうて…
「雷堂邪魔だよ邪魔〜」
「うあッ」
どかりと背に衝撃が奔り、前につんのべった。
滑り降りて来た鳴海が突き飛ばしてきたのだ。
「何お前、ケツ痛いのぉ?」
「と、当然だ…これでも鍛えて…っ……臀部の余分な肉なぞ、極薄いのだ」
「んー?あ、本当だ」
「っ」
脚が、張り過ぎて痺れている。
「ほら、早く退けって雷堂」
確認の指先が、羽織の隙間から臀部の上を滑る。
「何鍛えてんの?刀持つと自然に此処も鍛えられるの?」
「しょ…」
逃れようと動かした脚が、ぐにゃりと沈んで腕で地を這った。
鳴海は、引き起こそうと助けの腕を伸ばす紳士に見えるのだろうか、周囲には。
そんなの、虚だというに。
「ごついね硬いね、何処もかしこも緊張してんのお前は」
「…のむ、頼む、勘弁してくれ」
男色の気が無い事は知っている。好き女性が居たのだから。
知っている、これはただの虐めだと。
「やっぱ違うかなあ」
呟いて、その指が離れた。
ぐい、と引かれ、我のしていた帽子がころりと落ちて転がる。
其れを拾った鳴海はいつもの顔で、中腰の我の頭に被せてきた。
「五十メーターはあるんだよね〜そりゃ痛い訳だ」
事も無げに云い、ふらりとした我の腕を引いて。
すっかり色々なものに酔わされた所為か、意識が浮付いている。
今、腕を組まれている事への恐怖すら、虚空へと飛んでいた。
「なあ、雷堂は今のまま、遊んでいたいとか思わないの?」
これは…遊び、なのだろうか。
「思わぬ…」
「汽車乗って、回転木馬乗って、薔薇園を見ながら遊歩道の煉瓦を踏むんだよ」
「悪魔を駆って、大太刀を振るって、異界の空を見ながら骨を踏む……方が、落ち着く」
「本当、お前って駄目だよね」
ははっ、と軽く笑い飛ばされ、顎でくい、と促される。
「ほら座れよ」
云われるまま、着席した。
ふっくらとした接地面。どうやら椅子、それも別珍の敷かれた西洋細工の…
俯いた先で、その黒鳶色の調度品を確認して、ようやく此処がカフエと知る。
「此処さ、見覚え無い?」
「…いや…喫茶は、あまり入らぬ」
「半壊したから、この園内に移転したんだよ」
「…半壊?物騒だな」
「何処かのサマナーがメッタメタにしちゃったからさあ、店内」
どくり、と心音が、時計に負けぬ鼓動を打った。
呼吸を忘れていれば、運ばれてきた珈琲の湯気が頬をくすぐった。
芳ばしいそのカップの水面に映る鳴海所長を見た。
直接見れぬ、心臓が破裂してしまいそうだったから。
「ほら、珈琲の味もそのままだ、んーコレコレ」
我の返事を待たずして、啜りつつ微笑んでいる。
「なあ雷堂、お前はこのままで良い訳?」
「何に対しての…問いだ」
自我を保て、師を思い出せ、心を屹立させよ。
我は、罪深い…が、葛葉雷堂で在り続ける事が、重要なのだ。
所長の奴隷で良いのだ、そう在ればこそ、日頃の非情を贖罪出来ているのだから。
「お前、俺の事嫌いだろ?」
「…いいや」
違う、怖ろしいと同時に…懺悔している。
「じゃあさ、今日は楽しめよ」
「……所長、貴殿の考えが読めない、それがただ、怖い」
「これ飲んだらダンスホール行こうかあ、お前にウィンナーワルツ教えてやるよ」
「所長」
「昔取った杵柄だから、社交上手だよ、お前より」
飲み干したカップをソーサーにかちゃりと置いた。
そのまま鳴海は我を見た、そう、眼が合ってしまった。
「お前さ…《痴人の愛》って読んだ事ある?」
「ちじんの…?」
「知らないか、ま、そりゃそーか……あ、飲めないのかソレ」
は、と己の手前に置かれた、半分冷めた珈琲を見る。
そう、御代を持つのは鳴海と聞かされていたのだから、飲まぬは失礼だろう。
急いで口をつけ、啜る、味なぞ関係無い。
「カフエで見初めた少女を、自分好みの女性に育てる話」
「何だそれは…」
随分と、卑猥な気がする。
飲み干してぽつりと返せば、向かいで立ち上がる鳴海。
「此処のダンスホールが、その話に出てくるんだよ〜」
「だから、我は別に踊りは良いと」
「踊れよ」
また、笑顔で釘を刺す。思考回路を分断する釘。
嗚呼、踊れば…貴殿の掌で踊れば、我は赦されるのか?
なあ所長、我とて…我とて、好きに殺した訳では………
「じゃ、向かうか〜」
からんころんと、鐘が鳴る。
カフエの外では、薔薇が咲き乱れ、桜が待っている。
嗚呼、確かに…昔話には聞いていた、帝都児童の憧れの園。
「元は華族だったんだけどね」
「…誰が」
「ん〜まそれがさあ、何も知らないんだよねえ、御嬢様だった訳だ」
いつも葉巻を持つ指が、我の指先に絡む。
「接触がこれだけでもふしだらだ、って最初怒り狂ってさあ〜」
風向きが変わる、巻きあがる桜が足許を掬いそうだ。
「何の遊び方も知らないで、教養だけ持ってんだ」
「それは《ちじんのあい》の女性の話か、それとも…」
「敬虔なクリスチャンで、それしか信じないその盲目っぷりがいじらしくてさ」
薔薇園を抜け、門の開かれたダンスホールが広がった。
脳髄まで来る薔薇の香りは密やかに、屋内のシャンデリアが空に満ちる。
能樂堂の舞台とも全く違う絢爛さよ。
「まず、ダンスから」
流れる音は、蓄音機か、楽師は居らぬその空間に、ひしめく男女。
「踊りは逸品だったからね〜あっはは、他は無知だったけど」
云いながら、鳴海の両手は我の両手を繋ぐ。首に提げたセコハンがベストの上で揺れている。
「ナチュラルターン、ほら、合わせるだけ」
「ま、て待て所長っ、本当に我は西洋の踊りは」
「リバースボックス、四角を描く様に、四点に足運び」
円舞曲、恐らくシュトラウスの曲であろう。
軽やかに流れるが、脚が気になりそれどころでは無い。
周囲とぶつかりそうで、これならば悪魔の群れに突っ込まれた方が気楽である。
「リバースターン」
「知らぬ…!」
「三拍子だろ、合わせりゃ自然に運べる」
大衆に交じり、たった独り違う鼓動を取っておらぬか。
たった独り、異端なる存在ではなかろうか。
何処に居ても、何をしていても、苛む恐怖が此処ではいっそう積のる…!
「判らぬ、っ」
堪らず、繋がれる指を、きゅうと握り締めた。
嘲弄されるだろうか、いっそして欲しい。さすれば救われる。
そう思うやいなや。
「天界でも地獄でも無いだろ?同じ舞台に居るなら誰だって赦される」
くるりと回され、項にかかる吐息。
その台詞に息が吹き返る。
「赦してやるんだから、踊れって、上にゃ神様とか居るんだろ?」
舞い戻り、対面した鳴海の相貌は、いつもの笑みと違う。
「“アキ”…立場なんざ関係ない、ほら、踊ろう?」
取り戻す呼吸、打ち上げられた魚が地上で生きる術を得た様な。
その赦しひとつで、足は迷い無く下りる。
しっかり、舞台に立つ、周囲の音は、人の呼吸…蓄音機からのアコーディオンとピアノ。
踏み締めれば、腐った地でも血でもなく。
鼓膜に響くは、悪魔の呻きでも人間の断末魔でもなく。
握り締めれば、返ってくる、太刀の柄とも違って。
「所ちょ――」
曲の鼓動が加速する、己の鼓動も加速する。
「…な、鳴海、さん、俺…」
怖い…筈なのに、今は呼びたかった。
あの数年前に聞いた、貴方の好き女性の声が脳裏に蘇る。
そして、はしたない一瞬のチーク。
はっと我に返り、突き飛ばして人の隙間を縫い駆けた。
追いやられる隙間故、希望の路には辿りつけず、階段を駆け上る。
曲も次のものに切り替わりつつある下階を背に、二階のバルコニーへと、その手摺へと縋った。
「はっ……はっ…」
頬が熱い。
少し首筋が痛い、まるで火花が散った様だ。静電気か?冬でもあるまい。
葉巻の匂い、コロンの香り。
息を殺していた時より、鮮明に。
葛葉でなく、ただひとりの人間として、初めて――
「あ、っ」
桜舞う、掬い上げられた帽子ひとつ。手摺より離れ、空に舞い上がった。
軽くなった頭で思うは、昨夜の事。
この着飾る着物達…それ等一式を取り揃えたは、たとえ辱めの為だったとしても…
「取り戻れ!」
叫び、帯の管を抜き翳す。
『御衣』
桃色の花が舞う中、甲冑の天使が降臨し、風で不規則に踊る帽子を篭手の先で掬う。
それに安堵しつつ、愚かさを呪う。
「すまぬ…戦いですら無いというに、こんな」
『主人の命は絶対です、良し悪しは有りません』
パワーから受け取った帽子を、文句すら重い浮かばずに被る。
妄信的なパワーの言葉に何かを感じつつ、振り向いた。
「…帽子、変な動きしたよねえ」
鳴海所長だった。
それに答える事も出来ず、ただ正面より見つめた。
ようやく、見る事を赦された気がしたのだ…
「何と話してた?」
「…か、風と」
「ぶっ、お前ってさあ、本当…」
間違い無い、その笑みは優しい。
小母様や小父様が、向けてくれたそれに、近い…限りなく。
「ほら、帰るよアキ」
手招きされる、それに従う。
赦されたのだろうか、我の贖罪は一区切り経たのだろうか。
嗚呼…
明日にでも、一番に云ってしまおうか…
本当は、赦されたかったと
刃を、管を持つこの指が重いと
帰りの車の中、沈黙。
本当に、今日という日は、遊んだだけであった。
恥もあったが、確かに…心に刻まれた。
煌びやかな木馬と汽車、巡る景色の滑落する快感、本物のダンスホール。
ちくりと首筋が疼いて、それとなく巻物で覆い隠した。
酷く、心音と呼吸は、なだらかだった…
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