焔の楼閣
あの時、落とした人修羅の手首の様に。
…赦せない、その手に彼が居る事を。
落とした腕を勝手に着けて、纏ったつもりなのか。
切断鉈が鈍く照明を反射した。
そう、今まで殺してきた瞬間と同じ。
これは、不可抗力なのだ――――
『明!!』
真なる名を叫ぶ声に、鉈の刃先は皮で止まる。
少し浮き出た血管を、やんわりと押しただけに留まった。
視線を声の方向に流す。
ライドウの横たわる寝台の下からだった。
『これ以上、面倒を大きくするのかお前は』
影からぬらりと現れた、お目付け役…我の師。
『ま、ひと息に屠るなら構わぬがな』
口元をにしゃりとたわませて、哂う黒猫。
「ご…業、斗」
あまりに浅ましい瞬間を見られた、脳内が警鐘を鳴らす。
言い訳をしろ、と。
「彼の手に、人修羅の力が宿るは不都合だ」
『ならヴィクトルに切断してもらえ、この男も起きぬ』
「それではドクターにした説明と辻褄が…」
はっ、として口を閉ざす。墓穴を掘った。
業斗が我の脚に、普段はピンと立てている尾を絡ませた。
『そんなにも憎いのか?この“ライドウ”が』
「…憎い…の、だろうか」
この感情は、憎しみと直結しているのか?
最初の頃は、どこか羨望の眼で見つめていた我が居た。
同じ姿形なのに、能力が上回るこの男。
とても数ヶ月で追いつけると思えなかった。
「妬み…嫉み…なの、だろうか」
すべて、予定調和の如く用意されてきた今までに…
欠け失せた、たったひとつの。
「このライドウに有って、我には無い…ものが、多い」
鉈を床に放った。金属音は意外と煩く無く、綺麗に部屋にこだまする。
「のに…ライドウは…この男は、触れる事さえ、赦してはくれなかった!」
強制的な淫儀で、人修羅と触れ合ったあの瞬間しか…
彼は哂って赦さなかった。
「何故!虚を掴まされている訳でも無い…このっ、恵まれた男が!!」
眠るライドウに掴みかかりそうな己の身体を、抱き締める。
寒さに凍える人の様に、ぎゅうと両の腕で。
『…雷堂よ、主にはそう感じるのか?この男が恵まれていると』
「…」
『フン…恵まれている奴が、里潰しなぞ企てるか?』
業斗が我の胸元を睨んで、指令する。
『十四代目葛葉雷堂よ、アルケニーを召べ』
その指定される悪魔が、何を意味するか承知している。
『良いか?こちらの里に有害か…隅々まで視て来い』
「…了解した」
『思想によっては、帰還次第…排除しろ、俺から説明はつける』
「人修羅には…どう説明を…」
『このライドウに擬態させた悪魔でもけしかけてやれ』
指令を下す業斗の眼は、いつも冷たい翡翠の色だ。
『相打ちか、人修羅の焔が焼き尽くすだろうさ…擬態の解ける以前にな』
「彼は、恐らく…元の主人を殺せない」
『ならば我等が助太刀に入る形で、擬態させた悪魔を屠れば良い』
物同然の扱い。
『人修羅に恩も売れて、お前には非常に美味しい結果が残るだろう?』
我の心なぞ、この方にはとうに見透かされている。
「それこそ恩着せがましい、というに相応しいな…業斗よ」
アルケニーの宿る管は、あの餓鬼の管の隣に在る。
普段…尋問の際に使うこれは、やはり気持ちの良い管とは云い難い。
ホルスターから抜きもせず、指先に撫ぞりMAGを流し込んだ。
業斗が飛び退いたその場に、大きな蜘蛛が光を纏いて現れる。
『今回の対象者はどの程度にしぶといのでしょうか?』
落ち着き払った口調と裏腹な、おぞましいその姿。
女性の上半身が、巨大な蜘蛛の胎と連結している。
「いいや、今回は尋問でも口割らせでも無い」
『雷堂様、そこに横たわる殿方…風貌が』
「この男の中に潜りたい、宜しく頼む」
似ている、瓜二つ、等の言葉を聞きたくないのだ。
アルケニーの疑問を払い除けて、即座に命令する。
すると従順な蜘蛛は、その丸々とした臀部の先から糸を紡いでいく。
『ではお気をつけて、良い景色が視れる事を願います』
紡がれた糸が、我の首に絡みつく。
枝分かれする様に、横たわるライドウの首元にも、するすると。
まるで電線みたいだ、とよく思う。
外法属といえども、こうして媒介する物が有る方が、鮮明に読める。
読心は好きでは無い“良い景色”を心に持つ人間に潜らされる事など皆無に等しい。
それに、心を踏み荒らす様で…責務と割り切って行う我を…矮小に感じる。
「では参る…紺野」
横たわる同じ顔を見て、挨拶した。
業斗の視線を背に感じる。しくじるな、という圧。
そのまま、意識を糸に流した…
燃える様な、灼熱。
赤い焔に囲まれて、息すらままならぬ。
(なんだこれは)
最初、アルケニーの失敗かと思った…が、どうやら違う。
まるで業火の中だ。
これが…ライドウの中だというのか。
こんな空気の人間、ついぞお目にかかれないと思う。
其処に我の肉体が在る訳でも無いのに、酷く…熱い。
(だが、このまま引き下がれぬな…)
よくよく眼を凝らし、周囲を探る。
揺らめく焔の正体を、その時初めて知る。
赤い海…それは果てしの無い曼珠沙華。
戸惑い、何故華がこうも熱いのかと違和感を覚える。
《おい》
声がする。
少し開けて灰暗く浮かび上がる場所が在った。
意識はするすると寄せられて、業火も其処では和らいだ。
ぽつりと浮かぶ其処に、使役の経験は無いが知る悪魔が居た。
すらりとした、やや華奢な甲冑に身を包む銀髪の騎士。タム・リン。
『ああ、夜様』
その微笑にどきりとする。
酷く情に溢れた、養父母のそれに似ていた。
《勝手にそれいじんな!》
『いやぁ〜大工仕事も偶には良いかと思いまして』
《何ブランコなんかにしてんだお前…っ!》
甲冑の騎士が、上から降りる縄を、板と繋いでいる。
騎士を罵倒する声は、訛りのある幼い、誰かのもの。
姿は視えないが…予測は、ついた。
騎士が呼んだその名が証明している。
『いや、しかしですね夜様』
《なんだ口ごたえか?云ってみ》
『頑張って高い木に登られた事は、大変御立派ですが…』
騎士が温和な笑みのまま、口走る。
『首を吊るのは汚い死に方で、似合いませんよ?』
夜の声が止まった。
我も、此処に無い筈の身体が戦慄する。
『糞尿垂れ流しですよぉ?あまりに嘆かわしい最期でしょう』
《…主人に…口出しすんな》
『綺麗なお顔なのですから、自害にせよもう少し選んで下さいな』
《…》
騎士の手元で形を成したブランコが、此方に向けられる。
『ほら、これで風切って!頭でも冷やして下さい!あはは〜』
夜の声の代わりに、揺れるブランコの音が響く。
大きな樹木の木漏れ日のような、微かな灯りが花畑を思わせる。
(あのタム・リンは、ライドウの使役悪魔なのか)
過去の彼、と思われる少年の声。
今のライドウが嘲笑する様な、悪魔との戯れ…に見える光景。
使役悪魔に止められて、自害を止める様な男では無い筈なのに…
(いいや、そもそも何故自害する?)
波の様に絶えず疑問が押し寄せる。
すると、視えているその騎士の手が縄から外れた。
『いざ、参る』
離れた腕が、放つ光を槍へと具象させる。
騎士がそのブランコに向かって、切っ先を突きつけた。
突然の攻撃に、驚愕する。
が、ブランコの揺れる音は消え、何かと打ち合う音が響き始める。
呼応し合うかの様に、打ち合う金属音の末、騎士が崩れた。
綺羅の様に輝く結晶になって、散っていった。
「見事なり、よくぞ師範悪魔を討った!紺野夜よ!」
「十四代目、葛葉ライドウの誕生だ」
広がる花畑は、血塗りの板の間に変わっていた。
じりじりと、燃える熱さが戻ってくる。
その修験場の様な空間に、ひとつの影が佇んだ。
《今巣立つ刻、紺野夜は捨て置きませう…》
我も見知ったあの姿が、哂って名乗りを上げた。
《自分は、超國家機関ヤタガラス…葛葉ライドウが十四代目に御座います》
騎士の返り血に染まったライドウがはっきりと視えた。
赤く染まったその哂いは、今の彼、そのものだ。
(しかし如何にして里への謀反を思う様になったのだ…)
あの騎士を手に掛ける羽目になったという、それだけでは弱い気がする。
ライドウは、そんな一人の為に奮い立つ男では無い。
(いくらあの悪魔との間に温かな物が流れていたとしても、それだけでは)
「狐!!」
その張り上げられた声に、意識が転換する。
佇むライドウの向かいに、男女が居る。
「どうして狐の霊力で私の子を護ってくれなかったのよ!!」
《自分に下された指令は徘徊悪魔の駆除…貴女の子のお守りではありませぬ…それに、故人の勝手な行動が生んだ結果です。》
「っ…折角、公認のサマナーに成れると…ようやく一緒に暮らせると…思ったのにっ」
《ならば、寧ろ息子さんに感謝されては如何でしょうか》
「なに…?」
《カラスのサマナーに失敗は赦されぬ…公認と成る前で助かりましたね》
云い終わるか終わらぬかで、男の方が拳を振るった。
頬を穿たれたライドウが、哂いをそのままに続ける。
《餞別が息子さんの尻拭いで無くて、良かったですね》
馬乗りになった男性に殴られ続けるライドウの姿に、自身を重ねる。
恨みを買う事には、我も慣れていたから…
(だが、あの様に逆撫でする発言…我はせぬ)
子を亡くした親への言葉とは、程遠い。
思っていると、視界の中央…ライドウから退いた男性が、吐き捨てた。
「親無し狐め…貴様が死ねば良かったのに!!」
その声が響き渡って、静まり返った。
あの男女はいつの間にか姿を消し、倒れていたライドウがむくりと起きた。
(何故、哂っている…)
理解不能だった、あの言動の際も、殴られていた際も…
死ねと云われても、哂い続けていた。
起き上がった彼は、赤い焔の中を平然と歩いて往くのだ。
まるで無痛の病の様に。すべてを遮断するかの様な黒い外套を翻して。
(…学校?)
ややあって、鐘の音が聴こえてくる。同じ音を我も幾度か聴いたので判る。
「葛葉君、凄い論文だね!教職の身だが、ご教示願いたいくらいだよ!」
《勿体無いお言葉です》
一礼する書生らしいライドウ、さりげなく肩から帆布の白鞄を提げている。
「将来はどの教科を受持ちたいのだね?」
《國語も悪く無いですが、理数が好ましいです》
「良ければ後援しようか?院に君の様な人材が必要だよ!」
《…先生は弓月の教員でしょうに…御存知無いのですか?》
あの哂いを浮かべて、ライドウは返す。
《僕はもう烏の狐に就職しております故》
学生鞄を投げ捨てた。
その勢いで、開いた口から教科書が零れ落ちて燃えていった。
ハッとして、我は電車にて同席した際の事を思い出す。
捨てろ、と云った我。
彼は電車窓から教科書を投げ捨てた。
(嗚呼、彼は…勉学が好きだったのだ)
あの瞬間の、己の言葉を呪いたくなった…
「起立!礼…」
予鐘…引く椅子の騒音…着席音…
それらを通り過ぎて、ライドウは鞄の代わりに刀を持った。
遠くなる学校のさざめきが、われの意識も其処から遠ざける。
と、その帯刀するライドウが、抜刀の動きに流れる。
「ねぇ、君がライドウかい?」
見据えるライドウ、その視線の先には…異国人。
平たい帽子に、英国風…とでもいうのだろうか、そんな洋装。
薄い色の金髪に、深い青の瞳。
《…僕に用?》
「噂通りの眉目秀麗だな、おまけにいきなり抜刀」
《失礼、殺気がしたもので》
「ふふふ、これも“きっかけ”だからね」
《…人間か、貴方は》
「どうかな…?確かめてみる?」
謎の青年と隣り合って歩く。
その様子は、彼が頑なに否定していた友人にも近いではないか。
(我をあんなにも糾弾したというに、あの男)
熱さだけで無い胸苦しさに襲われる。
「研ぐよりシュミットした方が良くなるぞ?」
《…媒体であるこの刀は、人工物なのだよルイ?》
「その切っ先の擦れた綻び、少し貸すんだ」
《…》
「ほら、ぼくの血でこんなに綺麗に直っただろう?」
《…へぇ、成る程、そこいらの悪魔の血より、余程上質だね》
あの青年、人外なのだろうか…
《しかしどうして…召喚皇への道が近そうだよ》
「おやおや、随分と自信があるな」
《アバドンの時も感じたが、僕の敵になる悪魔がいない》
「…」
《全悪魔の使役なぞ、そう大した事も無いのかもねぇ?》
「なあ夜、次の満月の晩…」
《改まってどうしたルイ?》
「天主教会で遊戯をしよう?」
《依頼が無ければね、で、何して遊ぶの?》
「それは秘密さ…ただ、ぼくに勝ったその時には…」
手袋を外した青年の指に、輝く金色。
酷く、何処かで見覚えのあるその指輪の色。
「これをやろう、君に」
それを聞いたライドウの眼が、鋭くなった。
口の端を吊り上げて、自身に満ちた表情でその指輪を見ていた。
ああ、あの眼は、捕食する側に立っている眼だ。
我を見下す時のそれにも近い、絶対的な自信に満ち溢れている。
(どうしたらあんな眼が出来るのだか…)
あの青年の不運を嘆いたつもりで、意識をその先へと持っていこうとした。
が、その必要は無かった。
(!?)
教会の椅子を次々に割って、黒い塊が突っ込んできた。
息苦しい圧が、更に増した。
《ぅ…ぐッ…》
椅子の残骸にまみれて、ライドウが仰向けに倒れていた。
手脚はあらぬ方向に曲がり、胸元のホルスターはつん裂け、管が散らばっている。
(この男が…地に伏している?)
何者にも勝つと思っていたのに。
「なんだ夜…あんな口振りだから、少し期待したのだが」
羽の多い天使の影、しかし正面から視えぬ。
まさか…あの青年の正体が、この天使だというのか。
友では…無かったという事か。
「悪魔召喚皇は…まだ遠いね夜?」
《がっ!!あぁぁッ!!がぁッ!!》
裸足のつま先を、千切れたホルスターの隙間から差し入れて
くっ、と数回に分けて軽く踏む天使。
その度に上がる絶叫は、聞いた事も無かったライドウの悲鳴。
あの軽やかな爪先が、胸から腰にかけて階段でも下りるが如く踏む度
一本一本の肋骨を折っているのだと、嫌でも判る。
「残念…この指輪も、お預けだ…」
朦朧としているライドウに向かって、優美な口調で告げた天使。
「里のみ潰したい…と、その程度の欲望では揺るがぬよ…お前の魂は」
見透かすその声に、ライドウが何かを云おうと口を開いた。
だが、そこから発されたのは赤い血。
「すべて憎いのなら、造り変えてしまえ…己の舞台から…」
その言葉は、其処に居ない筈の我にも突き刺さるようで
血まみれになったライドウに、不思議な感情を抱いた。
赦せない…部分が確かに有る。
というのに…其処に倒れている姿を、嗤う気になれようか?
(すべて憎い…ライドウは、全てが憎いのにカラスに従属するのか?)
消えた天使、取り残されたライドウ。
彼はその、虚ろな眼のまま腕を床に這わせた。
《は…はは……》
かすれる吐息が赤い。
《はは…な…何故……弱いんだ、僕は…こんな、こんなぁああああっ》
先刻とは違う類の絶叫。
泣き叫ぶかの様なそれに、精神を掻き乱される。
首元の感触がきつい。
(まだ切ってはならぬ、まだ視る必要がある!!)
アルケニーに伝わっているのだろうか?
それとも糸を通じて、灼熱が彼女を焼き始めているのだろうか。
やきもきしている一方、這いつくばるライドウが床を蠢く。
その身体から、千切れたホルスターが脱げ落ちる。
外套が、学生服が、シャツが。
教会が赤く燃え落ちて、ライドウの身体を焦がす。
学帽がころりと脱げ落ちて、その顔が見える。
裸体となった彼が、真っ赤な床に項垂れている。
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