聖痕


静かな店内を通過する。
普段足を運ばない此処に、まさかこの面子で来るとは思わなんだ。
「金王屋ですよね?ご主人は?」
傍の人修羅が擬態を解かずに聞いてくる。
「奥に居るか買い付けに行っている」
ちらりと窺えば、影は無い。
勝手に奥の暖簾を潜り、鋼鉄扉の横の呼び鈴を引き鳴らす。
その音は遥か下に落とし込まれていく…
ややあって、扉がぎしりと呻き出した。
「入るのに許可が必要なんですか?」
「ドクターが不在では開かぬからな」
人修羅に返答しながら、開いた先の闇に足を踏み入れる。
少しずり下がってきていた背面のライドウを、揺らして上へと背負い直す。
『ふん、久々だな…』
下る階段の霧に包まれる業斗が呟く。
確かに、数ヶ月振りだった。
「雷堂さんはあまり合体とかさせないんですか?」
業斗の言葉に疑問を抱いたか、人修羅が我に問う。
「必要な悪魔は、カラスの遣いに用意させるからな…」
「…此処には直接来ない…って?」
「そうだ、完成した悪魔を受け取るのみ…我が業魔殿に入るのは、稀…だ」
長い階段が終わりを告げる。
吐く息の白さが、深い場所と認識させた。
悪魔と悪魔を融かしてひとつの命にする、焦げ付くカルマの檻…
「…葛葉?」
作業に没頭していた人影が、背中を向けたままそう発する。
「十四代目葛葉雷堂、訳有って参り申した」
進み入っていく、ドクターの作業空間。
振り返った彼が、その白い眼を見開く。
「…なんだ、その、人型悪魔は…見た事が無い!」
視線の先の人修羅が、どうせ露見すると思ってか
擬態を解き、美しい斑紋をその身に浮かばせていた。
「俺は確かに半分悪魔です…」
「半分?」
「あの、俺の知人を診て頂けませんか?お代でしたら…」
一瞬云い淀んだ君が、続けた。
「俺の血を差し上げます」
急な訪問と要請に、ドクターは眼を剥いてばかりだが…
人修羅から溢れる薫りには気付いている様である。
「久しく…頭領直々来れば、なんという悪魔を連れて来るのだ…!!」
好奇心に光るその眼に、釘を刺す。
「ドクターヴィクトル、貴殿に診て頂くは此方…間違い無きよう」
近くの待合椅子に、背中のライドウを降ろす。
そこから向き直り、抱き直したなら傍の作業台へと移す。
呻きもしないライドウが、死人みたくて不気味だった。
「ドッペルゲンガーか?」
ドクターがぎょっとして、ライドウの学帽を指に取る。
露わになる額に、無防備さが露出する感覚。
傍の人修羅が、視線を注いでいた、一心不乱に。
(何故そんなにまで見つめる…)
ざわつく心を抑え込める、右眼の熱がこの地下の冷たさに浮くようだ。
ライドウの外套を寛げながら、ドクターは我に聞いた。
「十四代目葛葉、お前の…その眼は診ずとも良いのか?」
眼帯の奥を見せる気は、無い。
「ああ、これは患いとは違う、寧ろ…」
口元が、うっすらと上がるのが自身にも判る。
「治療は問題無く進んでいる…」
人修羅の眼が、蝕んでくれる、この身体を。
精神安定の要として、我の一部となっている。
(必要不可欠だろう…なあ、矢代君?)
うっとりと右眼の悦に浸っていると、ドクターがライドウの腕を掴んだ。
「む…むむ!?この手…」
その声にハッとして、傍に駆け寄る。
外套から引き摺りだされるその左手を、ドクターから奪い取る。
「…これは呪いの一種だ、不用意に掴まぬが宜しい」
咄嗟に自身の外套衣嚢を探った。
手袋の感触に安堵し、それをすぐさまライドウの左手に纏わせる。
普段の白と真逆の黒色だった。
替えの外套に常駐していたと思われるそれ。
秋口用だったか、この真冬には些か薄く、織り柄は繊細だ。
「此処で解呪も出来んのか?この呪いとやらは」
「…ああ…これは、外さぬが良い…我でなんとかする」
背後の人修羅を、ちらりちらりと見ながら離れる。
ああ、君には見えなかったろうか…
それが不安でならぬ。
『…何故だ?見せても支障無いだろうが…ええ?雷堂よ?』
足下の業斗が嗤って、我の靴を爪先で叩く。
「…業斗」
視線で制す、云ってくれるなよ、と。
そうだろう…
人修羅に、ライドウの…今の左手を見せてみろ…
彼の感情は決壊し、それを塞き止める事は難しくなる。
(それは赦せない)
布を外されていくライドウを眼の前に、燻る情念。
人修羅の肉片を身に頂くのは、我のみで良いのだから…
「おぉ!…このドッペル、なかなか人間にしては」
ドクターの呟きのみが響く高い天井。
曝されるライドウの肌は、とても白かった。
いざ肌となると、人修羅は眼を逸らしている。
何を思ってなのか、問いたい衝動に駆られる。
「無駄の無い筋肉だ、内のMAGの純度も良質!しかし…」
指先から、薄く採った血をべろりと舐めるドクター。
「ハッハァ!…薬中だな!?こやつ!」
血で判るのか?驚愕の判断に人修羅も瞼を瞬かせる。
「それに…どうもこう…何か性質が偏っているような、ふぅむ…?」
その言葉に少し引っ掛かる。
(陰陽の事だろうか)
そういえばドクターは知っているのだろうか?我の陰陽の均衡を…
それとも、カラスに口止めされているだろうか?
じりじりと我が惑っていると、それを破る声。
「おい、このドッペル…虐待でもされているのか?」
「…なんだと?如何した…」
意味も分からずに、確認へと歩み寄る。
すると、金色の眼が立ちはだかった。
揺れるその眼が、我の片目を繋ぐ…逃がすまいと。
「…見ても、気分の良いもんじゃ、無いですよ?」
「どうした矢代君…」
「目の毒ですから、ドクターに任せましょうよ?」
その眼が訴えてくる。
“貴方は見なくて良い”
嗚呼…なんて君の眼の色は正直なのだ。
「この治療すら放置した背はどうする?綺麗になら出来ん事も無いぞ!?」
向こう側から叫んで我に問うドクター。
それに我が答える前に、眼の前の君が返した。
「そのままで結構です!」
驚いた。一方、理由すら解らぬ我を前に君は続ける。
「傷痕消したら…その男、怒りますから…きっと」
外された人修羅の金色の視線が、一瞬回顧に遠くを見つめた。
それに堪らなくなり、我は人修羅の腕を掴む。
「ドクター!結局どうなのだ?とりあえず血は必要だろう?」
「まあ、意識を戻させる前に済ませるべきだろうな」
「型が同一なのは判明している、後で我から抜くと良い」
「ふむ…!血の気とMAG不足はそれで補える」
震える君を引っ掴み、ドクターの背に云い放つ。
「少し席を外す…戻るまで、立ち入ってくれるな」
人修羅の歩幅を無視して、つかつかと空間を抜ける。
「雷堂さん、何」
その声に、何故か更に焦げ付く脳。
ひたすらに、暗い檻に挟まれる業の廊下を突き進む。
研究材料…合体素材…系譜の一部…ただの…
(だから此処は好かぬ)
生々しい…あまりに…
昔から、合体済みを受け取るばかりの我…此処の光景は眼に痛い。
「両端から責められる様で、重い…」
檻の中…蠢く悪魔の気配に気付いたか、人修羅が唸った。
「…急ぎ足ならばすぐに抜けようぞ」
君に告げ、奥にようやく見えたその扉に手を掛ける。
『雷堂、俺はどうする?』
嫌味に聞いてくるお目付け役に、我は視線すら合わさず返事する。
「…それこそ目の毒と思う」
『ハッ、業魔殿とて…その様な業を重ねて良いと誰が赦した?』
「…」
『あのライドウが勝手に目覚める事が危険だ…俺は戻っているぞ』
呆れ果てた末の結論?それすら我には好都合だ。

開け放った先にある手術台。
いっそう冷たい空気に、吐く息の白さが目立つ。
我の体の隙間から見えたのだろうか…握った先の人修羅がビクリとした。
「ら、雷堂さ」
「少し血を頂きたい」
簡潔に述べて、人修羅の両手を掴み取った。
「血、って、俺とは型が…!そもそも悪魔の血は」
「そうでは無い…」
ゆるゆると、掴んだ手首を誘導する…
君の背中が、手術台に押し付けられた。
その冷たさにか、一瞬引き攣った君。
「これから君の元主人に血を流すのだ…我は」
君の耳元に、毒の吐息。
「血と共に抜けるMAGの…前払い…誰が払ってくれるのだろうか?」
掴まれた君の腕が、震えている。
何故その震えすら甘美なのだ?その魂が揺さ振れたなら良いのか?我は。
「ら、雷堂さん」
「何だ?矢代君」
白々しい己、寧ろ賞賛に値する。
君をゆっくりと手術台に横たえる、生贄の如く。
先刻の廊下を嫌悪する資格が、果たして我にあったのだろうか?
君の眼が諦観に染まる、その瞬間に墜ちていく。
「俺に…」
「…君が?」
「払わせて下さい…」
「如何様にして?」
君の上から跨って、優しく確認する。
笑顔が苦手な筈だったのに、どうしてか、こんなに自然に出来る。
「では、何処からMAGを吸えば良い…?」
項の角を寝かせる為にか、横を向いた君が微かに呟く。
「く、口から…」
「では失礼する」
疼いていたので、確認も早々に喰いついた。
君に合わせて横から、唇を合わせた。
あっ、と小さく悲鳴を零した君、それを瞬間呑み込んでやる。
今まで、情欲に任せた接吻しか…意識しなかったのに…
今、こうして吸い上げている、彼の生体エナジイ。
強い酒の様な、それでいて奥底から、燃える感覚。
「はっ…あ、ぶッ」
息継ぎすら互いに慣れぬ程の接吻に、どちらのとも判断出来ぬ唾液。
君の漏らす呼吸を兼ねた喘ぎが、ぞくりとさせる。
その唾液すら啜って、口内をひたすらに舐め尽す。
(もしかしたら、ライドウの背に君の爪痕が在ったのかも知れぬ)
だから隠した?そうか?
そんな理由で無い事は、脳内だけは理解している。
しかし、この反射と口は理解が足らぬ。
「は、ぁっ…はぁっ…ら、雷堂さん…こんな…っ」
解放して、息も絶え絶えの君に、やんわりと問う。
「彼の背中に…君の残した痕でも在ったのだろうか…?」
驚愕して、息を詰まらせる君。
怒りの表情が空気を鮮明にする。
「ふざけた事云わないで下さい」
ギロリ、と睨みつけてくる金色が、未だ潤んでいる。
「ねえ…そんな冗談…云う人でしたっけ…?雷堂さんて…」
「冗談?いいや、切実な問いだが?」
「おかしい……」
振り被る君の指先を、己の指先で絡め取る。
それを外套の中に引き摺り込む。
ホルスターの管に、かちりと君の指先が掠める。
抱き締めてもらう様に、腰に腕を回させる。
「其処の紐を、解いてくれ…」
放されて戸惑う人修羅の指に、指示する。
今だけは使役出来る、その空気が加速させる。
デビルサマナーという肩書きを汚す快感。
「雷堂さん、俺は決して貴方とこんな関係を望んで」
「解いたらホルスター幅を弛め学生服の内に指を…」
「お、お願いです…」
「背にその指を…」
「…」
おずおずと、学生服の上とシャツの中に侵入してくる指。
肌に触れる君の冷たい指先が心地好い。
君が我の背骨に触れた…儀式にも似た空気。
その擬似的なまぐわいに陶酔する。
「なあ!雷堂さん!お願いですから…っ…俺と友達からやり直し」
その言葉を噛み付いて呑み下す。
黒髪の薫りに、厳かに血が滲む。
髪を掴んで、その項から角の先端を空いた指で撫ぞりあげた。
眼を見開いて、君が悲鳴を上げた。
同時に、背中に奔る痛み。
思わず接吻のまま、唇が吊り上がった。
(もっと欲しい)
膝頭を、君の下半身にするすると押し当てる。
泣きそうに眉根を顰めて、更に背中に爪を立てた人修羅。
「ッ、ぅぐぅ〜っ!!」
がりりと掻き毟る、蚯蚓腫れの予感にときめく。
(もっと、もっと君の傷痕が欲しい)
ライドウの背中に負けないくらいに。
そんな、見た事も無い彼の背に張り合う闘争心。
彼の背が虐待の傷痕なら、我の背は人修羅の爪痕だけにしてやろう。
(なんと贅沢な背中だろうか)
うっとりと、背中の痛みに酔いしれる。
消えない顔の傷とは違う、消せる傷。
「っは…!もっと、この背にっ…!」
離した唇から紡いだ欲求の浅ましさに、君は嘆いているだろうか。
紅潮させた頬に、苦しげな吐息が、脳髄を融かして往く。
膝で君の股座を苛める、その張り詰めた緊張を潰さない程度に強く。
「狂ってる…っ!」
「昇り詰めたく無いのかっ!?」
「獣じみてるぅうぁ、ぁあッ、あ、あっ」
首筋から角へと、舌で味わう、汗の様な魔力の雫。
舌先に感じる痺れが腰に響く。純粋な抜き身の欲望。
「嗚呼、君程のっ、美しい獣はついぞ見た事が無いっ」
もう恥じらいすら無くして、腰を擦り付けた。
決して中には入らない、その戒律だけを自身に課して好き放題。
己の恥部を、君の恥らう器官に擦り付けて、腰を振るって笑っている我。
「あ、あぁっだ、やだ、んなのっ…嫌だ!」
叫び始めた君に、真上から見下ろして我は眼帯を解いた。
顰められていた眼元が、この右眼に注がれる。
繋がらない筈の細胞達が、神経達が錯覚を起こさせる。
この右眼から君を視ている、視れている、きっと。
熱い胎動に、身体が昇っていく事を切望する。
「この眼を姿見に映すだけで心が躍る!」
「ただの眼球だ、っ」
「君のサマナーでも無いのにっ、繋がりを常に感じている!錯覚か!?」
「腰止めて!っ…!!」
首を左右に振るう、必死に拒絶するその姿ですら酷く背徳的で。
「天使とて、悪魔だ…」
するすると指を君の斑紋に沿わせて、下へと落としていく。
「は…ふぅうっ…」
流石に敏感になっているのか、指に合わせて奏でられる、楽器みたく。
人修羅と云うには心もとない、薄い身体の肋骨を確かめていく。
この柔らかな曲線を描いた白い檻に、閉じ込められたい…
「なぁ、矢代君!君が天使側なら良かったのにっ」
口走る、利己的な思想。
「そうすれば!我から乞う事無く君を手に出来たのにッ!!」
帝都守護の為でも…サマナーとしての昇華の為ですら無くて…
ただ欲するままに。手に入れたいと願った。
一緒に居てくれたら、どんなに世界は美しいだろうか?
「お、れはルシファーに…」
「墜ちるな!我の仲魔を狩る側に立たないでくれ!」
本当に、我が天上に求められている救世主ならば…
君を地獄に墜とさずに済むだろうか?
(何を思っている)
どちらにせよ、半人半魔だろうが獄の者を従える王だろうが…
我にとっては天使に視える。だから関係無い。
組み敷いた君の背に翼が無かろうが、昇る事は出来る。
「ふ、ふっ…君も我も、こんな感覚知らなんだろうに…あの頃は」
君の着衣を、剥いでいく、蕾のままなのに強制的に萼を脱がす様な。
水気を湛えた花を搾れば、滴る蜜が在る事を本能で知っている。
「そ、れ以上したら背中、引き裂きます」
人修羅の勧告は、寧ろ高揚させる誘いの様に。
「裂いてくれ」
一言返して、君の下で勃ち上がるそれを強く握った。
挑発でも無く、ただ純粋に微笑が漏れた。
食い縛った君が、宣告通りに背に爪を奔らせた。
前に垂れ下がってきたシャツに、じわりと赤が滲み始める。
構わず君を掌握して、早くその蜜を吸いだしたくて。
餓死寸前の蝶の様に浅ましく、君という褥に身体を摺り寄せて。
眩しい上まで飛びたくて、この空虚な地上から一瞬でも。


次のページ>>